嘉
祥
﹃
法
華
義
疏
﹄
に
b
け
る
信
望
月
海 淑1
嘉祥の﹃法華義疏﹄は官頭において一経三段の説を立てるが、その三段説を立てるのに十義ありとしており、十義 の第一と第四において信に関説している。すなわち、 一 者 聖 人 説 法 必 有 コ 詮 序 − 。 : : : 既 静 レ 心 信 仰 宜 閲 レ 宗 授 レ 法 。 故 次 有 = 正 説 一 也 。 : : : 四 者 序 説 発 = 其 信 心 一 。 正 説 生 − − 其 智 慧 − o 故 大 論 云 。 仏 法 大 海 信 為 − − 能 入 − 智 為 − 一 能 応 九 日 であり、ここでの信仰、信心は明らかに、仏・法を信ずることを示しており、更に﹃大智度論﹄の冒頭の句を引用す ることからも、それは発語の昨ω
色 色 F m w の意にふさわしく、更に信は懇に至る入口であることを示している。このこ とは﹃義疏﹄の各処で認めることが出来る。すなわち、一経三段に両章あり序に二ありとし、 一証信序二発起序。証信令E
未 来 衆 生 − 於 レ 経 生t
向 ︾
とし、更にこれを六門にわけ詳説し、その三門と六門とで、 三 序 − 一 来 意 − 門 者 。 立 − 一 此 六 事 − 凡 有 三 ニ 意 − 。 一 為 レ 生 ν 信。如是既是信也。下之五句為レ生 ν信 故 。 六 前 後 門 者 。 諸 経 多 云 = 如 是 我 閲 − 。 以 下 信 是 入 = 仏 法 − 之 初 主 故 前 標 − − 如 是 − 。 欲 レ 証 − − 成 信 義 − 故 次 云 = 我 聞 や v 嘉 祥 ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ に お け る 信 ハ 望 月 ﹀嘉 祥 ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ に お け る 信 ハ 望 月 ﹀ とし、三門の所は﹃大智度論﹄の句を用いてこれを証し、六門の所は﹃仏説温室洗浴衆僧経﹄とのちがいによって証 している。かくて更に﹃大智度論﹄の﹁如是﹂について注釈を挙げ、それによって、 如 名 = 如 実 不 虚 − 。 是 謂 至 当 無 非 為 レ 義 。 以 レ 信 = 仏 法 如 実 不 虚 非 ν 邪 是 正 − 故 。 故 信 称 − ? 如 是 − 均 と、正法なるが故に信ずべきものであるとし、所入の仏法に入るのが信であり、大乗を信ずるのが信であることを論 じている。そして、信ずべきものは仮空なものであってはならない。法華経説示の場所たる王舎裁は現実の場所であ り、大国であり、喧と静とを兼ねたところで一切を化すことが出来るところだから、王舎城、万二千人倶について、 ︽ S V 明 − − 住 処 − 。 説 必 有 レ 処 故 可 ν信 也 とし、阿難がもし小人数で聞いたものならば信ずるに足らないが、多人数の者が同じに聞いたので方に信ずべきであ ︽
e v
る、としているが、これらのことは﹃義疏﹄が信に対してもっている基本的な型を示したものといえよう。 二万人の日月灯明如来。 ω ロ骨g
ロ ミ
s
g
a
e
”が出現したという法華経の記述に対して、﹃義疏﹄はこれは余の一切 仏 を 明 し た も の で 、 欲 下 引 = 過 去 多 仏 − 為 ν証 使 中 間 三 乗 − 信 受 h 也 と し て 、 一乗の説示に対する信をすすめるために、真実の教えであることを証しようとしたものだとしているが、こ の説示にも、このようなあり方を知ることが出来るであろう。すなわち、ここに見られる信は﹃大智度論﹄の記述に よるものであり、それ故にこそ﹁信為能入﹂のあり方をうけて、信は真実なるものに対してのものと捉えているもの と 恩 わ れ る 。 し た が っ て 、 こ こ で の 信 は 宵 脚 色 門 出 品 の 信 か と 思 わ れ る 。 しかして﹃義疏﹄は、六瑞に関する弥駒田包可 O M a− − の 疑 問 に ふ れ 、 こ れ は 一 乗 の 法 を 説 く こ と を 表 さ ん と し た も のだ と し て 、 そ れ は 、 三執難 ν傾 一 乗 難 = 信 受 − 。 恐 − 一 此 土 衆 生 不 p 信 。 とのベ、真なるものは信じ難いものであることを示し、難信の法について、 若 一 言 − − 低 頭 挙 手 皆 成 仏 − 者 。 何 難 ν 信 之 有 耶 。 仮 令 羅 漢 作 仏 亦 非 − 一 難 信 − 。 今 明 一 切 世 間 心 行 コ 有 所 得 − 。 開 = 無 所 得 − 即 諦 = 反 其 心 − 。 故 多 有 レ 恐 難 レ 信 。 言 − − 無 所 得 一 者 。 尚 未 = 曽 了 。 云 何 守 レ = 一 。 以 国 一 心 不 ν染 = 三 一 − 故 名 = 難 信 − 也 。 として、有無の二見に執しているために難信であるとのベ、この二見を離れるところ、そこが真の無所得で、その時 ︷
m v
に一乗を信解することが出来るのだとしている。 この箇所の妙法華経は コ切世間難信之法﹂と表現しているが、 町 智 一 向H 1
z t
w
仰BS
︿ 一 切 世 間 の 難 信 の 法 門 を 聞 か せ よ 発文法華経はg 2
ω l
−o w m
,
i
旬g
q
g
q
ω
E
l
S
R
B
a
R
B
E
ヨ うと欲して︶となしている。この丘匂g
q
g
q
ω
w
m
に つ い てKN
本の脚註は、パ l リの己3
8
包w m w
にあたるとしてい るが、渡辺照宏博士の営住E
S
ω
E
善 弘
E
g
g
z
g
旦U
E
によると、それは母5
3
音色ヨヨとなされている ︽ 昭 ︾ が、藤田宏遥博士によると、それは﹁そのものに対して同意しがたい、確認しがたい﹂等の意をもつものとされ、信m m v
解 包E
S
E
− 2 日とともに盲目的な信を排除して理性的、知性的な信を示すものだとされている。﹃義疏﹄が難信を難 信受・不信・難信ととらえ可制 w n E V 仰の意の理解を示しながらも、最後で﹁信解一乗﹂の語を用いたのもここにある かとも思われる。そしてここでの信解は、教え、真なるものに対して明確に解決する信作用仰向日E
S
E
− 門 広 と と ら え て い る よ う に 思 わ れ る 。 更に、備の﹁讃妙光菩薩﹂以下の句について﹃義疏﹄は、 以 三 妙 光 善 決 = 衆 疑 − 逆 社 − − 詩 情 − 預 閲 = 信 解 − 。 即 是 世 間 限 也 。 一 切 所 帰 信 者 。 前 歎 − − 決 疑 之 能 − 即 開 = 発 法 華 − 。 今 歎 = 嘉 祥 ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ に お け る 信 ︿ 望 月 ﹀持ν 法 証 −v 亙Z
法 務
』1.J司 E司 明 巻仏 語
滅 疏 後 』 弘 早雲
5
~語
.ff"l..-.r、
『
可~~望 ー月 とのべているが、妙光が世間の限といわれるのは、衆人の疑を決し信解を開いたからであり、 一切に帰信せられるの は、疑を除き法華を示し、法の持証により仏滅後の弘経の徳を明したからであることになるが、ここでいわれる信解 その境地に立つが故に帰信をせられることになるであろう。 ︽ お V 尚、ここでの党文法華経は、︿包を佐野o
a
v
R
B
O
B
島 町H
R
弘g g
m M
M M
面 白 ハ 私 の 法 の 保 持 者 で 、 信 頼 す べ き 者 で あ る ︶ と な されていて、信宵 M E 一 色 町 脚 信 解 州 脚 色 何 回 目g
ロ W 思の語は使用されていない。 も ま た 、 前 説 と 同 じ で 、 ゆるぎない信作用を意味し、 ︹ 註 ︺ ︵ 1 ﹀ 大 正 三 四 ・ 四 五 三 上 ︵ 2 ︶ 同 同 ・ 四 五 三 中 ︿ 3 ﹀ 同 同 ・ 四 五 四 上 ︵ 4 V 同同・四五回中下 ︵5 ﹀ 同 同 ・ 四 五 六 上 ︵6 ﹀同同・四五七下J四五八上 コ 者 阿 難 若 与 − − 小 人 一 共 聞 不 ν 足 ν 可 レ 信 。 以 下 骨 穴 − − 多 人 − 同 問 主 方 乃 可 レ 信 。 ﹂ 尚 四 六 一 上 に は ﹁ 阿 鍵 若 共 = 小 乗 人 一 聞 = 大 法 一 未 レ 足 レ 可 レ 信 。 今 共 = 大 人 − 而 間 三 大 法 − 則 可 レ 信 也 ﹂ と あ る 。 ︵7 ﹀ 同 同 ・ 四 七 九 下 ハ8 ﹀ 同 同 ・ 四 七 二 下 ︵9︶同同・四七八中 ︵ 叩 ︶ 同 同 ・ 四 七 八 中 ﹁ 若 能 離 = 此 諸 見 − 名 = 無 所 得 − 。 即 信 = 解 一 乗 一 ﹂ ︵ U ﹀ω
白 色 V ・ W − 可 ハ ロ ﹀ω
包 角 田 町 9 2 5 宮 主 ω a w m 冨g
g
o
ユ 回M
a
g
g
a
z
e
− 何 回F
o
p
F
M
可ω
・ 項 削w Z
E r
o
− 4 つ O 宥 0 ・5
a
・3
2
回 匂 ・ M Mハ 時 ﹀ ︿M ︶ ハ 路 ﹀ 藤 田 宏 違 ・ ﹁ 原 始 仏 教 に お け る 信 の 形 態 ﹂ 大正三四・四八一下 印 刷 w a v ・ 匂 − N m ︵ ﹃ 北 大 文 学 部 紀 要 ﹄ 第 六 号 ﹀ 九 四
t
九 五2
方便品は一乗の真実であることを顕さんとしたものb
v
という﹃義疏﹄は、妙法華経の﹁除諸菩薩衆信力堅固者﹂ の一句について、疑を釈し二乗を斥けようと欲したものだとして、 除 = 諸 菩 薩 信 力 堅 固 能 信 解 − 耳 。 至 レ 仏 之 時 乃 名 = 証 解 − 0 ・ : : ・ 言 レ 斥 三 一 乗 − 者 。 既 言 = 唯 菩 薩 能 信 − 。 則 顕 − 三 乗 不 p 能 ν 信 也 。 欲 下 令 三 一 乗 − 改 − − 不 信 − 以 得 令 信 也 。 と、のべている。ここでの党文法華経は、 ︽ 3 V M言 者 向w
g
告 内 回0
2
3
a
S
R
B
陶 芸 内 問 。 巴g
e
& 岡 弘 首 巳 M 可 営 一g u
函 可ω
σ
o
a
E
8
2
S
5
3
E
E
S
ロ W 仲 間 宮 司 A W巴
z s
f
一 一 ハ そ の 法 を 説 会 ﹄ 、 説 か れ た 法 を 理 解 す る 人 は 、 信 解 に 住 し て い る 普 薩 た ち 以 外 に は な い ﹀ となっているから、ここでの信力は信解ω
島 区 自 ロ W 民のことであるが、 ﹃義疏﹄もそれをうけ信力堅固者を信解とな し、証解こそ仏に至る道だとなしている。ここでの証解は仏性を見聞することで仏性は諸仏の智惑で第一義空だとい うから、仏或いは仏の境地をしかと決了し把撞することを意味するであろう。してみるとそれは、理解することでは なくて、信解m
E
E
S
ロ W 誌を証することであろう。それに対して菩薩は能信で二乗は不能信だというが、この信が信 解にかかわることであるのか、宵包島町仰の信であるのかは即断は出来ない。﹃義疏﹄は前述の如く﹁仏法大海信為=能 不信は宵 ω 島 内 容 脚 入乙の﹃大智度論﹄の説示に立っており、 ﹁ 既 言 − − 唯 菩 箆 能 信 乙 と な し て い る か ら 、 こ こ で の 信 、 嘉 祥 ﹃ 法 華 議 疏 ﹄ に お け る 信 ︵ 望 月 ︶嘉 祥 ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ に お け る 信 ︵ 望 月 ﹀ にかかわる信と理解してもよかろうとは思われる。しかし、法華経の﹁其力所不堪﹂について﹃疏﹄は、 一 者 対 − − 前 菩 蕗 能 信 解 − 。 今 総 序 z利鈍一切声聞不 ν 能 − 一 信 仰 臥 丸 有 三 一 稲 一 義 − 。 としているから、信力堅固の時の註釈のままにうけて信解包
EB
ロ宮山と理解したのかとも思われる。更に﹁舎利弗 当 レ 知 ﹂ 以 下 の 文 に つ い て ﹃ 義 疏 ﹄ は 、 此文接 ν 上来者。上明 τ九 道 衆 生 不 レ 解 − − 仏 智 一 十 方 仏 能 解 h。恐冒三乗人自絶不 ν生 = 信 受 − 。 故 今 略 明 = 権 実 二 智 一 令 レ 其 生 ν 信 。 故 有 − − 此 文 来 − 也 。 と の べ て い る 。 一見宵包舎仰と思われる信ではあるが、党支法華経によるとここは、削E
E
g
z
E
T
E
苦 闘M
8
5
5
s
,
包 弘 で あ り 信 解 で あ り 、 令其生信はふさわしくはない。 しかし、妙法華経がここを﹁当レ生=大信力こと訳出してい るために、信と理解したのではなかろうか。妙法華経が方便品において包一EB
ロ W 民を信力と訳出したのは、前述の 二箇所であるが、これが何故であるかは解らない。 ﹃ 義 疏 ﹄ に よ る と 、 当 生 大 信 力 者 。 昔 信 三 ニ 乗 − 名 為 = 小 信 一 。 今 信 二 乗 − 名 為 = 大 信 − 也 。 として信に小信・大信の別があることを示しているから、これは方便・饗喰品で示されるE
ロ 脚 色EB
ロ W 民 ︵ 種 々 な 信 ︽ 7 v 解﹀、信解品で示される窓口m
E
E
S
ロW 思︵劣った信解﹀に通ずるものであるといえよう。してみると﹃義疏﹄がここ で示している信は、信解ω
島町田岳民に関するものであり、それを信となしたのは﹃妙法華経﹄の訳文によるものと 思 わ れ る 。 三止三請の説明にふれて﹃義記﹄は、人・天・声聞・縁覚の四種は一乗を聞いても信受することが出来ないとし、 そ の 理 由 は 、 人・天は愛をおこし二乗は見をおこし、 この愛・見は正観を障隔するから一乗を信受しないのだとして、生死の楽、有空の見等を三止した理由として挙げ、三請の理由として、疑あるが故に、過去世に善根を植えたる が故に、大衆に現在堪聞の徳あるが故にとの三を挙げ信受するとしている。これによってみると、ものの見方︿見・ 楽 ・ 有 空 ﹀ に 関 し 正 観 で な い 場 合 が 不 信 受 で 、 善根ある場合が信受だということになり、 獲得した理解・境地 見 解﹀と素直な心のあり方とで相異が出て来ることになる。これはどのようなことなのか。 三請における舎利弗の﹁唯願説 ν之﹂の言葉について﹃義疏﹄は、 二 乗 能 信 故 称 三 唯 願 − 。 人 天 堪 レ 受 叉 称 = 唯 願 − 。 と し 、 更 に 二 止 に つ い て 、 但 有 − 二 止 − 者 。 意 正 主 三 増 上 慢 比 丘 不 ν能 = 信 受 − 故 と い っ て い る と こ ろ か ら す る と 、 ある程度の見解・境地を獲得した人は、 そ の 理 解 ・ 境 地 に あ る が た め に 、 増上慢 m w
−
u
E
B
仰 也 一 白 F一をおこしているから仏語を不信受するようになるからであろう。そこで素直にして過去世に善根を植え、 現在堪聞の徳ある心が肝要なこととなり、そのような心から信宵ω
︽ 庄 町 仰 は 生 ず る の で あ ろ う 。 しかし、第三の請について﹃義疏﹄は、 今 為 三 一 人 一 故 応 レ 説 ν 之 。 一 者 如 ν我 能 解 故 応 = 為 説 − 。 二 者 自 我 之 外 諸 余 大 衆 亦 能 信 解 故 唯 願 説 之 。 と い い 、 更 に 、 ﹁ 今 此 会 中 。 加 = 我 等 比 こ と は 、 請 を 釈 し た も の で 、 身子以外等取=中下根人及凡夫比一。例亦能信也。世々己曽従レ仏受 ν化 者 。 釈 ポ 上 如 コ 我 等 比 − 能 信 解 よ 也 。 過 去 因 浅 尚 受 = 仏 化 − 。 況 現 在 因 深 必 堪 コ 信 解 一 。 叉 不 ν信者少順 ν教 者 多 。 とのベて、更に 嘉 祥 ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ に お け る 信 ︵ 望 月 ﹀嘉 祥 ﹃ 法 華 議 疏 ﹄ に お け る 信 ハ 望 月 ﹀ 初 二 行 煩 下 上 身 子 与 − − 大 衆 − 堪 申 能 信 解 占 。 第 二 一 行 半 明 二 身 子 大 衆 渇 仰 欲 p 問。就 z初 文 − 又 一 ニ 。 半 行 頭 = 量 子 親 能 = 信 ︽ 盟 ︾ 一 行 挙 ν古 況 今 釈 − − 身 子 大 衆 能 信 解 義 − 解 − 。 又 半 行 以 頚 z大 衆 亦 能 = 信 解 − 。 としている。このように、この三止三請に関して﹃義疏﹄は信受をいい、能信といい、信解と表現することによって 説 示 を 展 開 し て い る 。 こ れ に 対 し 、 党文法華経はこの箇所で何度も信を語っているが、 そ れ ら は 常 に 昨 日 仏 角 田 町 脚 で あ り 、 一 度 ず つ 浄 信 同 肖
8
8
5
と 信 頼 官 民 間1 m
u s
− と が 意 味 を 強 め る た め に 宵 包 円 四 回 同 仰 に 重 ね て 使 用 さ れ て お り 、 妙 法 華 経 は こ れ ら を 常 に ︽u v
敬信と訳している。これらによってみると法華経の三止三請で語られる信はひたすらな信宵ω
s
a
晶であるが、 ﹃ 義 疏﹄の理解は、仏の説示を理解しその境地に入りうるかどうかでとらえ、信解としたように思われる。 仏が一仏乗を説かんとした法華経の説示﹁爾時世尊。告舎利弗﹂以下の文について﹃義疏﹄は、﹁広閲 ν 三 顕 ν 一 断 レ 疑生 ν信﹂のために説かれたものだとして、 所 ν 言別断 ν疑生 ν信 者 。 則 為 三 ニ 根 人 ニ エ 周 説 法 。 令 三 二 疑 断 三 解 生 − 。 動 v執生 ν疑則易故但有三説−。断レ疑生 ν信 則 難 故 有 三 ニ 周 説 − 也 。 としているが、これによると信は疑に対するもので、三周説法は三疑を断じ三解を生じしめるものだともいうから、 信はまた正しいものを信じ領解に至るべき入り口ととらえるのであろうかと思われる。 ﹃義疏﹄は、諦聴ということは、開懇を生ぜしめ、普思とい ︽ 時 ︾ うのは思慧を生ぜしめ、念之というのは修慧を生ぜしめよということだとして慧に立点をおいた説示を展開している 五 千 起 去 の 説 示 に 先 き 立 つ ﹁ 汝 今 一 諦 聴 ﹂ の と こ ろ で 、 の も こ の た め で あ ろ う 。しかして、五千起去の人に関し妙法華経が、 ﹁ 我 今 此 衆 無 = 復 枝 葉 、 純 有 − − 貞 実 − 。 舎 利 弗 。 如 ν是増上慢人。退亦 佳会﹂としている箇所について﹃義疏﹄は、退亦佳としたのは、下根の五千人の徒は住すれば二損あり、去れば両益 ありとし、その両益は、 一乗を聞かなければ現在に誘法の罪を起きないから未来に苦の報いを招かないこと、今まで の説示を聞くことによって未来の信解をうるための因を結べるからだとした上で、今まで小乗教をうけて、今、法華 経を聞いて信解をうる者と、得ないものとがあるのは何故かと質問を立て、 ① 始 習 − − 学 大 乗 − 終 亦 聞 = 大 乗 一 。 此 人 懸 ν信 ① 始 習 = 大 乗 一 中 志 − 一 斯 意 一 。 故 初 為 ν其説 ν小。小心稀改故終為説 ν 大 。 此 人 間 − − 法 華 − 亦 信 。 ① 本 学 − − 大 乗 − 而 後 閲 ν 説 = 大 乗 一 便 退 取 ν 小 。 : ・ 聞 − 一 法 華 − 亦 有 下 成 = 羅 漢 一 者 主 。 如 レ 此 之 人 間 ν 大 亦 信 。 ④ 有 下 始 学 − − 小 乗 − 而 終 問 。 説 ν 大。此人多不 ν 生 ν信 。 以 下 其 習 = 小 乗 − 回 全 。 若 聞 = 大 乗 − 講 − − 其 本 心 一 故 不 レ 生 ν
悔
や
としている。これによると大乗を信ぜられる者は、かつて大乗を習学し、習い、学したことのある者で、始めに小乗 を学しそれが長く続いたものは信ぜられないということになるから、ここでの信・不信はその教えを理解出来るかど うかの前提の上に立っていると理解をすることが出来る。 この五千起去人にむける﹁無復枝葉。純有貞実﹂に関する党文法華経は、包宅巴ぜ仰自o g
z u
z
可ω
冨 円 溜 向 日a a
,
︿ U V 削 与 制w t
u v
巳m
ロ H V 宵 包 円 四 M M ザ ω 仰円 OHMg 立 浪ES
一 ω 仰一 内 容 ロ m v 智 ザ ロ 可b
g
芯g
削σ
E
S
仰 口 問 甲 骨 品 目 白 骨 0 . 富 田 内B
B
S
ω
g
ハ 舎 利 弗 ょ 、 私 の 集 会 か ら 不 用 な 者 、 無 益 な 者 は 去 っ て い っ て 、 す べ て の 信 の 核 心 に お い て 立 つ も の の み と な っ た 。 舎 利 弗 よ 、 こ れ ら 増 上 慢 の者が出ていったことはよいことだ﹀とのべているから、﹁純有貞実﹂といわれたのは信の核心吟ω
内 庄 一 何 回 似 品 管 制 w を も っ 人 、 しっかりした信をもっている人のことであり、それのない人は不用無益な者で増上慢の者ということになる。その点 嘉 祥 ﹃ 法 華 韓 疏 ﹄ に お け る 信 ハ 望 月 ﹀嘉 祥 ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ に お け る 信 ハ 望 月 ﹀ か ら す る と 、 ﹃義疏﹄が信不信を理解にからめてとらえようとしたのとは異り、信不信は増上慢の心とのつながりで とらえられていることを示している。 しかし ﹃ 義 疏 ﹄ は妙法華経の﹁舎利弗。如是妙法﹂以下の文に関して、 五千起去後の残った人々は、 浄器なれば 妙法を授けられることを明したものだとして、 ︽
m v
信受奉持を勧めたものだとしているが、ここでいう信は党文法華経が示す宵包−門出回仰 ︽ 四 ︾ いる。即ち、党文法華経は、妙法華経の ﹁若能信三実三権−則是得非 ν失 。 如 一 一 其 不 ν信則是失非 p得 ﹂ と し 、 の信かと思われる使用を示して ﹁ 汝 等 当 ν信 仏 之 所 説 言 不 − − 虚 妄 乙 ﹁ 若 有 三 比 丘 実 得 エ 阿 羅 漢 − 。 若 不 ν信 = 此 法 − 。 無 ν有−−是処乙﹁汝等当回一心信=解受豆持仏語乙について、それぞれ、吟色合a
s
g
g
o
m
v
智f
s
s
σ
g
s
’ 品 内 守 ︽ 却 ︾ 各 州W
E
B
S
ご
$
5
1
4
仰 弘 司 各 自 白g
g
u
﹃8
8
3
S
P
4
脚 色 可 各 自 己g
g
︵ 舎 利 弗 よ 、 私 を 信 ぜ よ 、 私 は 真 実 を 諮 る も の で あ り 、 あ り の ま ま に 語 る も の で あ り 、 変 ら ざ る も の を 語 る も の で あ る ︶ 、85
仰 ロm H
g a
” の の 智6
5
忌 口 同w g w
銀 。 M可 制 丘 町E
W
宮 司 円a v
R
E
S
− 拘 噸 同 信 仰ω
g
g
e
g
e
g
ロW
V
B
E
g
g
s
仙 宮
g
g
g
a
v
削55
召 宵 三 品g
宵包e
a
Z
営 ︵ 舎 利 弗 よ 、 煩 悩 を 尽 し た 阿 羅 漢 の 比 丘 ら が 、 如 来 の 面 前 で こ の 法 を 聞 い て 信 じ な い と い う こ と は 不 要 で あ り 、 あ り 得 な い ﹀ 、 宮5
2
σ
ロ 円 四 角 田 守 内 田 町R
g
?
︽ 認 ︾ 宮 町 柏 戸 内 山 内 凶 仰 向 日F M E
H H d
M H
ヨ
g o
m v
m w
H e
E S
H M
M E
g u
可 制w g
︿ω
宵弘司ω
− M可 制 民 似 合 ﹄ の 仏 陀 の 法 を 信 ぜ よ 、 舎 利 弗 よ 、 私 を 信 ぜ よ 、 信 頼 せ よ ﹀ と示しているから、仏或は仏の言葉、仏の法に対する信として宵脚色色町伽すべきであることを明示している。それ故 にこそ法華経の信をうけて﹃義疏﹄は信受奉持を勧めたのだとしたのであり、 そ の 信 は 邸 時m a
a v
仰でなければならな し、。
法華経の諸仏が一仏乗を説き、我も今如是と語る段をうけて﹃義疏﹄が、 若 不 レ 信 = 釈 迦 之 言 − 則 違 三 一 一 世 仏 教 − 。 罪 之 太 也 。 若 信 − − 釈 迦 之 言 − 則 信 三 二 世 仏 説 − 。 則 福 之 深 也 。 為 ν明 = 勧 信 − 故 弁 − −︽
m v
順 問 − 也 。 と し 、 五 濁 の 惑 世 に 関 し 、 円相同︾ 次 明 − − 五 潟 方 便 有 さ 一 。 権 実 有 無 般 然 可 レ 信 。 如 − − 其 不 ν信 即 是 悪 人 一 。 とし、更に、凡夫は羅漢を得ずして自ら究寛といい、聖人は羅漢を得て自ら究寛という、両人はどこが異るのかとの 聞を挙げ、両人が法華を聞かない時はいう事は同じだとし、 ︵ 舗 ︾ 若 閲 − − 法 華 − 則 五 千 凡 夫 不 ν 生 = 信 受 − 。 聖 人 則 生 ν信 として、法華を信じない者は羅漢に非ずだとし仏滅度の後には人法の両縁に会わないので、その時の羅漢は一乗を信 ぜられないで、三界外の浄土の中に生じ、余仏に会い法華経を聞いて決定するのだとしている。この浄土の中で云々 の﹃義疏﹄の意見は問題があるとしても、この書がここで示した信のあり方は明白に知りうることが出来よう。 しかして長行末尾の﹁汝等当一心信解﹂の前掲の句について、 ﹃義疏﹄は勧信奉行門だとし、早く須く信受すペし と勧信したものだとしながらも、妙法華経の信解の語によって、法の権実と人の真偽とを明すこと既に覚りぬれば、 ︽ 甜 V 物を勧めて信解し受持せしむ、としている。前掲のように、ここの党文は宵包内出品であり、勧信そのものであるの に、﹃義疏﹄が信をすすめたものだといいながら、﹁勧物信解﹂となしたのは何故であろうか、疑問に思われる。 そ し て 備 に 入 り 、 ﹁ 比 丘 比 丘 尼 有 為 限 − − 増 上 慢 一 優婆塞我慢 優 婆 夷 不 信 よ ﹂ 以 下 の 文 を 注 釈 し て ﹃ 義 疏 ﹄ は 、 優 婆 夷 不 信 者 。 然 四 衆 通 是 不 レ 信 = 大 乗 − 。 就 二 不 信 中 − 更 閲 壬 一 。 出 家 二 衆 則 有 コ 増 上 慢 − 故 不 ν 信 。 優 婆 塞 既 是 丈 夫 。 自 謂 = 雄 幹 − 決 断 守 レ 志 。 我 従 来 己 信 = 道 理 羅 漢 究 寛 − 。 今 何 容 ν 改 ν 志 。 故 称 = 我 慢 − 。 次 既 是 女 人 。 更 無 − 一 余 義 一 直 称 = 不 ︽ 釘 ︾ 信 − 。 嘉 祥 ﹃ 法 華 麓 疏 ﹄ に お け る 信 ハ 望 月 ﹀嘉 祥 ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ に お け る 信 ︿ 望 月 ﹀ と し て 、 一乗不信は増上慢・我慢によるものであると、法華経の説示をうけとめている。この増上慢・我慢は
ω σ
E t
g
仰 ロ 仰 の こ と で あ り 、 ︽ 却 ︾ ているから、不信仰みB a
a
− −
M 仰は増上慢・我慢”σ
E
B
脚 口 ” に よ っ て お こ さ れ る こ と に な る で あ ろ う 。 そ し て ﹃ 義 疏 ﹄ 党 文 法 華 経 に よ る と 、 削w σ
E
目 伽 ロω
をおこした比丘比丘尼優婆塞優婆夷らの不信の者、 と さ れ もそのことをうけとめていたと思われる。 しかして、この増上慢・我慢に相反する心のあり方は柔軟であろうが、 為 = 能 入 − 智 為 = 能 度 こ の 句 を 引 用 し て 、 ﹃義疏﹄は﹃大智度論﹄の﹁是大乗法海信 柔 軟 者 。 有 = 無 所 得 信 心 − 順 = 従 諸 仏 − 不 ν違 − − 大 乗 − 。 如 − 一 湿 牛 皮 − 易 ν可 = 屈 折 、 利 根 者 。 信 為 = 其 始 − 懇 為 − 一 其 終 − 。 略 挙 = ︽m v
五 根 之 初 後 一 と説明している。すなわち、無所得の信心、素直に純粋に何の先入意識もなく仏の教えをそのままうけとめて信じ順 ( 12 ) う こ と が 、 その信があってこそ仏懇に入る道がひらかれることを意味しているであろ 命剖︾ う。そこで﹃義疏﹄は、以 ν 有 − − 習 因 − 値 = 仏 菩 麓 − 。 聞 ν 説 − − 大 乗 − 生 二 念 無 所 得 信 − 。 此 無 所 得 信 是 仏 道 種 子 。 一 乗 を う け と め る 道 で あ り 、 と い う 。 人 天 の 善 根 に 二 あ り 、 一が習因でこが報因だといい、報因は人天の身を感ずるものだが、その時、前生に仏 に値い法華経を聞くという習因がなければならず、この習因あるがために一念の無所得の信が生ずるのだということ に な る 。 妙法華経は﹁舎利弗当レ知 鈍根小智人 著 ν 相僑慢者 不 レ 能 ν信 − − 是 法 こ と し て い る が 、 ﹃ 義 疏 ﹄ は こ れ を 注 釈 し て、これは機なき四の失を示したもので、その四の一は三に因って一を悟るを知らざる故に鈍根と名け、二は二乗の 法を楽うを称して小智となし、三は小教を封執するを名けて著相とし、四は小の究覚を保して一乗を信ぜざるを名け︽
a v
て僑慢とす、としている。ここでの僑慢は党文法華経によると、 a F H V宵 包 念 仏g
e
o
z
v
v
g
z
E
g
d
u
可 制 w 包 自 由 骨S
’
g
色出包v
m
g
− 守 宮 内 田 島 窓 口 柳 田 一 包E
B
E
? 胃 仰 旬S
S
削 互 角 田d g
t
︽m v
ロ ロ 脚 告E
A
W
Z
吟 O 吻可制s
a
E
F
E
E
8
2 ぐ 一
怠 =
ハ 今 、 表 相 の 観 念 だ け で 、 愚 か で 、 無 知 で 、 増 上 慢 と な っ た も の は 、 信 じ 難 い で あ ろ う 。 し か し 突 に 、 菩 藍 た ち は 聞 く で あ ろ う し、
J となっているから、それは路島E
B
仰 ロω
の こ と で あ り 、 増上慢をはなれるのが信への道だという前の説示をうけたも のであることを示している。 きれば、信伶包島岡仰はひたすらな、素直な心からのもので仏説︿一乗﹀に対するもの ︻ お ︾ ﹁衆生必能信受無−−誘法之畏こといわれるのであるう。 で あ る か ら 、 し か し 、 それがために法華経は﹁如三世諸仏﹂以降a v
﹁ 歎 ν法令=物信受一故須−−称歎この言葉をくりひろげ、勧信を説くことになったとしている。 一乗は未曽有の説示であるがために信じ難いものであった。 も ︹ 註 ︺ ︵ 1 ︶ 大 正 三 四 ・ 四 八 二 中 ﹁ 将 欲 レ 顕 二 乗 為 = 真 実 − ﹂ ︵2﹀同同・四八九下 ︵ 3 ︶ 印 刷 w a F ・ M M ・ ω H ︵ 4 ﹀ 大 正 三 四 ・ 四 八 九 下 ︵5﹀同同・四九O
上 中 ︵6 ﹀ 同 同 ・ 四 九O
中 ︿ 7 ︶ 同 同 ・ 四 九 三 中 に は ﹁ 法 説 令 − − 改 一 レ 小 信 p大 。 調 発 = 菩 提 心 − 。 ﹂ と あ る か ら 、 こ こ で は 菩 提 心 を 発 す た め の も の で あ り 、 そ の 意 味 で は 、 こ こ で の 信 は 信 解 包ES
島 民 で あ ろ う 。 嘉 祥 ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ に お け る 信 ︵ 望 月 ﹀嘉 祥 ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ に お け る 信 ハ 望 月 ﹀ f「 rヘ f「 〆 「 〆 ヘ f「 〆 「 〆 「 〆 「 〆 、 f「 〆 「 〆 ヘ rヘ f「rヘ rヘ f「r「 r「〆ヘ fヘ〆「 r「 31 30 29 28 27 26 25 24 23 22 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 9 8
」
’
」
,
、
J、
J」
,
,
、
J、
J」
J、
J、
J、
J、
J、
J」
,
、
J、
J、
J、
J、
J」
,
、
J、
J」
,
、
J 同 同 ・ 四 九 一 上 向 同 ・ 四 九 二 上 向 同 ・ 四 九 二 中 間 同 ・ 同 同 同 ・ 同 拙著﹃法華経における信の研究序説﹄−九五t
一 九 七 参 照 大 正 三 四 ・ 四 九 二 下 同同・四九三中﹁諦聴令 ν生 = 間 態 − 。 普 思 令 レ 生 = 思 議 − 。 念 之 令 ν生 修 懇 一 ﹂ 同三四・四九三下 J 四 九 四 中 ω ω 向 田 何 回 ・ M M ・ω @ 大 正 三 四 ・ 四 九 四 中ω
包F
同y
S
E
E
向 山 内z
a
g
E
5
0
抑 制 ユ 吉 伸g
﹂ ω ω 色 何 回 ・ 同 M ・ω @ 向 。 ・ ぉ 向 。 ・ 主 大 正 三 四 ・ 四 九 六 下 同 同 ・ 四 九 七 下 関 岡 ・ 四 九 八 中 同三四・四九八下﹁今明=法之権実人之真偽−既寛。勧 ν物 信 解 受 持 ﹂ 同 同 ・ 四 九 九 上 中 ∞ 仰 向 日 開 回 ・ 同 M ・ h p h p 大 正 三 四 ・ 五O
一 中 間 同 ・ 五O
五 中 間 同 ・ 五 一O
中 ( 14 )︵ 沼 ﹀ ︿ お ﹀ ︵ M 叫﹀ ω 削 脚 色 ﹃ ・ 四 回 ・ 切 叫 大 正 三 四 ・ 五 一
O
中 間 同 ・ 同 下3
響輸品は舎利弗が一仏乗の説示を領解したことを述べるのにはじまっているといわれるが、 ﹃ 義 疏 ﹄ は 諸 経 が 得 道 するに領解ハ悟﹀を述べないのに法華経が領解を語るのは、 小 乗 之 人 而 信 = 大 法 − 難 ν 言 = 己 解 一 容 レ 有 = 僻 謬 一 。 であるから、自ら述べて仏の印定を請おうとするのだとしている。これによってみると、領解とは舎利弗が一仏乗を 理解しどう受けとめて心の中に把握しているかということであろう。 陪 宮 喰 ロ 聞 の 冒 頭 の 説 示 に つ い て ﹃ 義 疏 ﹄ は 、 内 心 の 歓 喜 と 外 形 の 敬 を の べ た と し 、 内 心 歓 喜 者 歓 喜 従 = 信 解 − 而 発 故 示 = 於 喜 貌 − 以 表 = 信 解 − 。 と 述 べ 、 歓喜は信解より発るものだとしている。 舎 利 弗 は 昔 の 疑 悔 、 今の疑悔が除かれたが故に歓喜したというか ら 一仏乗に対する信解がその底にあることになるであろう。ここで﹃義疏﹄が信解とはどのようなことなのかを、 どう理解しているかは解らない。 し か し 、 ﹃義疏﹄は、舎利弗に対する受記が何故行なわれたのかについて六義ありとし、その第一の理由として、 舎利弗が方便品の一仏乗を聞いて得た喜びを語ったことをあげ、 証 一 − 其 所 述 信 解 是 突 − 。 解 若 不 レ 実 則 不 ν得 ν 記 。 嘉 祥 ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ に お け る 信 ハ 望 月 ﹀高 祥 ﹃ 法 華 強 疏 ﹄ に お け る 信 ハ 望 月 ﹀ としているから、信解とは一仏乗を聞いて得た心の境地、或は領解といったことかと思われる。そして六義中の第三 に つ い て 、 用 ν 此 引 レ 物 。 明 下 有 − 一 信 心 − 故 便 得 申 受 記 占 者 。 欲 レ 得 − − 受 記 − 宜 レ 生 − − 信 仏 . V ︾ としているから、受記を得るためには一仏乗への信解が必要であり、信解のためには信心を生じなければならないこ とになるであろう。それ故、天竜八部等が舎利弗への授記を見て歓喜したことは、舎利弗の得記をもって彼等も信を ︽ S V 成ずることになるからだとしている。 ﹃義疏﹄が華光如来の名号について、華は即ち法華で、光は信解をいう、境智合目するが故に華光と号すとしてお ︽ 6 v り、凡夫が初めて聞いても領解するのに羅漢︵二乗﹀が悟らないのは、二乗には﹁究寛﹂があるからで凡夫にはこれ 三 毒 軽 重 。 則 聖 勝 = 於 凡 − 。 若 信 − 二 乗 − 難 易 則 凡 勝 − − 於 聖 − 。 ( 16 ) がないから、初めて問いただけでも悟るのだとし、 としているが、ここでの信は素直にひたすらに信ずることで青似品島品であり、信解は領解の意であろう。領解だと すれば、それは信によって到達し得たゆるぎない境地に立つことを意味するであろう。 しかして、三車火宅の輸に関して、諸子が父の提示した珍玩の物を欲して﹁心各勇鋭﹂に火宅を出でたのは、 今 明 ν 機 信 教 。 既 起 − 一 信 心 − 即 欲 = 修 行 一 義 言 − − 勇 鋭 − 也 。 勇 者 募 ︵ 慕 ﹀ 進 也 。 鋭 者 利 也 。 今 明 − − 懲 敷 精 進 − 也 。 互 相 推 排 者 。 前 既 有 = 信 心 − 。 だとするから、信ずる心は修行・精進に結びつくものとなしているのであろう。 そして、三車火宅の喰を語り終った仏は、舎利弗にむかつて声聞・縁覚・大乗の別を語るが、その中の﹁従仏世尊
開法信受﹂の句について﹃義疏﹄は、これは、 明=外縁一也。信受者因縁具足故云=開法信受一句 としているが、この場合、外縁に対する内縁は、この前の句の﹁内有智性﹂をいうというから、心の内のものと外か ら教えられた仏の教えとが相合して信受するのだとなろうか。党文法華経によると、 ︵
m v
g w け m w 汁 H M m w m M W H M 凶 ω 可 制 戸 ︼ O W 向 W U 符 ロ 円 ω σ 何 回 目 恥 円 相 脚 色 角 田 ω γ 向 田 町 m D 巳 一 ω σ 一 回 岡 山 砂 町 釦 角 田 内 目 白 − S F R ︿ 仰 の ω 件 胸 骨 M M 仰 開 制 W 件mFI h 山 m w ω ω ロ 0 ・ ・ : . ハ 彼 等 は 世 間 の 父 で あ る 如 来 を 信 ず る 。 信 じ て 如 来 の 教 誠 に : : : ﹀ とされ、信受の語にあたるものは宵向 E E V m w であることを示している。そして党文法華経は前の文に統いて、・ω
σ
E
マ
ロ ︸ 苫 ・ ロg
ロ 向 日u s
m m
g
削 同 ︾ 戸 園 内 田 苫 H M 件 。 ︿ 専 心 し 努 力 し よ う ﹀ と し て い る か ら 、 この信受は仏の言葉のままにうけとめ、精進す ることを示している。三界を出でるには仏の言葉を信受することがなければならないからであろうが、この長行をう けた偏頒の中での﹁諸子聞レ説﹂以下についても﹃義疏﹄は信受して出宅したことを示している。 されば﹃義疏﹄は党文法華経の九一備にあたる﹁汝等若能 信 受 是 週 間 ﹂ は 勧 信 し た も の だ と し 、 ︽n v
我此法印﹂以降についても、誠勧したものだとしているから、信を勧めるという理解をしたとうけとめ 一O
五偽にあたる ﹁ 汝 舎 利 弗 ることが出来る。しかしてその信は、 円 四 ︸ 我此法印者。以 ν 理為 ν 印。調文与 ν理 相 応 則 応 − − 信 受 − 。 文 語 − − 此 理 − 則 不 レ 応 ν 信 。 としているから、理に合うものでなければ信ずべきでないということになり、信は仏なる絶対者、仏の教え等の真理 そのものに対してのものということになり、仏教の伝統的あり方と同じあり方となるであろう。 ︷ 臼 ︾ 法華経の﹁以信得入﹂の信はo
g
蛍 宵 包 島 町 脚 立 − B m w g 鈴S
M
可 帥 ロ 巴 湾 側 w q曾 自 由w m
召 ] 国 仰 ロ ロ ロ 仰 の 臥M
g
i
a
百 件 。 ハ 彼 嘉 祥 ﹃ 法 華 麓 疏 ﹄ に お け る 信 ハ 望 月 ﹀嘉 祥 ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ に お け る 信 ハ 望 月 ﹀ 等 は 私 へ の 信 に よ っ て 入 る の で あ り 、 各 自 の 智 は 見 ら れ な い ﹀ の よ う に 宵 州 丘 島 町 仰 の 信 を 意 味 す る の で あ る が 、 ﹃ 義 疏 ﹄ は こ れについて、二乗の断常の心は深き不断常の法を悟ること能わず、但仰いで信ずることを得るのみとして、信ぜられ ない五人の人を挙げている。五人とは僑慢の人、僻怠の人、我見に計する人、凡夫の浅識で世俗の経書を学し至極を 信じない人、五欲に著し小楽に著し大楽を忘れる人であるか内 M W V 素直に仏の言葉をうけとめることの出来ない人々の ことであろう。しかしてこれによってみると、信は正なるもの真理なるものに対してあるべきものであるが、その真 じたものが理教であるが故に、 理を理解することの出来ないものが只ひたすらに素直に信ずるという行為に入るべきことになるであろう。そして信 ︽
m v
﹁ 信 必 有 − 一 深 福 こ と い わ れ る 。 し か し て 、 一三五備にあたる﹁告舎利弗 誘斯経者﹂に関して﹃義疏﹄は、五逆破戒の人であっても法華経を信じ 普友に値えば作仏することが出来、普友に会えない人は信ずといえども地獄は免れず、同じように持戒の人でも法華 。 灼 ︾ と し て い る か ら 、 経を信ぜられなければ地獄に入る、 信ずるということが全てとして捉らえられているわけでもな い。信じた上で善友に会うための努力が肝要だということになるであろう。 ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ 詰 7 6 5 4 3 2 1〕、
J、
J、
J、
J、
J、
J、
J 同 同 同 同 同 同 大 正 同 同 同 同 同 同 三 四 五 五 五 五 五 一 一 同 同 一 一 一 八 七 六 二 二 中 中 下 中 上︵ 8 ﹀ ハ 9 ︶ ハ 叩 ﹀ ︿ 日 ﹀ ︿ ロ ﹀ ハ 臼 ︶ ︿ M ﹀ ︿ 時 ︶ ︿ 凶 ︶ 同 同 ・ 五 二 六 上 同 同 ・ 五 三 一 上 m m 品 F ・ 匂 ・ ∞ 。 大 正 三 四 ・ 五 三 九 下 同 同 ・ 五 四
O
下ω
白 色 町 ・ 。 ・ 也 ω 大 正 三 四 ・ 五 四 一 上 同 同 ・ 五 四 一 中 同 同 ・ 五 四 二 上4
詳細な論述を展開しているが、その中で来意、釈名門を中心に信解に言及している。それによると先ず来意門で、方 信解品を注釈した﹃義疏﹄は、冒頭で信解について来怠、釈名、出体、信解相、信解位、同異の六門にわかって、 使 口 聞 の ﹁ 得 一 一 阿 羅 漢 − 。 若 不 レ 信 − 一 此 法 − 。 無 レ 有 = 是 処 乙 の 句 を 引 い て 、 も し 爾 ら ば 初 め の 法 説 を 聞 い て 領 解 す べ き で あ るのに鵬首喰を待って信解するのは何故か、との質問をたて、 経 一 一 三 必 信 一 者 。 蓋 鱒 − − 始 終 一 為 レ 一 一 言 耳 。 不 レ 雪 国 エ 初 法 説 即 能 信 解 − 。 曹 喰 一 方 得 一 一 分 明 一 。 叉 中 根 之 人 初 聞 ニ 法 説 − 虚 心 己 信 。 但 由 レ 未 レ 解 故 至 円 2 v と 述 べ て い る 。 前 記 の 方 便 品 の 句 の 信 に 関 す る 党 文 法 華 経 は 、 由 民 高 ﹃ 宮 内 回 目5
2
H
g
e
宵
三
品
E
青 色 向 田 包 四 回 以 弘 一 件 ︵ こ の 法 門 を 聴 い て 信 じ な い ︿ と い う こ と は 不 要 で あ り 得 な い ︶ ﹀ と さ れ 、 信 は 仇 山 店 内 庄 司 M m w で あ る が 、 ﹃ 義 疏 ﹄ はこの信じないという ことはあり得ないの言葉をうけて、信解の語をつかい中根の人は虚心に信じても、それ以下の人は未解であるから饗 嘉 祥 ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ に お け る 信 ハ 望 月 ﹀嘉 祥 ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ に お け る 信 ハ 望 月 ﹀ 喰が必要なのだとしていることになる。そして未解というところを見ると信解を領解・理解することの意に捉らえて い る よ う に 思 わ れ る 。 釈名門になると、信解の名には離と合とがあり、離に三義、合に二義ありとする。要をとってこれをのべると次の 如 く で あ る 。 一、疑を除くを信といい、執を破するを解という。信は決定を旨とするから、三を権、 一を実と信ずること。解は 了悟を義とするから、三はこれ無なりと解り、 一 を 有 と 悟 る こ と 。 の が 信 。 又 、 三 を 権 、 二、信は不信より起り、解は不解より生ず。三権一実を信じない不信の心が改まり、三は権、 一 を 実 と 信 じ て も そ の 所 以 を 解 ら ず 傍 ら な い 心 が 改 ま り 、 一 一 一 権 一 実 を 悟 り 解 る こ と が 解 。 故 に 一 は 実 な り と 信 ず る 信は初に在り解はその後にあり。解浅きが故に信と名づけ、信深きが故に解と名づく。 三、信は邪見を破し、解は無明を破す。これには四種あり、①鈍根正見の人、信じて解らず、虚心に信受すとも未 だ解ることが出来ない①利根邪見の人、解って信ぜず①正見利根の人、亦信じ亦解る④鈍犠邪見の人、 信ぜず解ら ず 。 というのであり、更に合して信解を注釈し、次の二義を挙げている。 ー、上に所対あり。解に見解、信解の二種あり、菩薩の如く、師に滋る義少く理を見る情多いのが見解、戸閣のご とく、師に恕る義多く理を見る情少いのが信解。 2 、下に形どる所あり。信は決定を義とす。仏に因って解を得たりと雄も、解心堅明なり、理必ず爾りという。凡 夫 の 悠 々 の 解 に 非 ず 。
これらは信解を信と解とにわかち、信は仏の説示をそのまま疑いなく信ずるもので、解は仏の教説を信ずる上に立 ち 解 り 悟 る も の で 了 悟 、 領 解 す る も の で あ り 、 こ の 両 者 は 、 ﹁ 即 信 在 = 其 初 − 解 在 − − 其 後 一 : : : 解 浅 故 名 レ 信 : : : 信 深 故 名レ解﹂というような関係にあることを示している。 出 体 門 に て は 、 ﹃雑阿見曇心論﹄と﹃成実論﹄との信・解の解釈を紹介した上で、心あって教と具体或は一体と見 るはこれは一異の執見であり信解の体ではないとし、信解相門にて、信解と言うは経の本宗を尋ぬべしとし、方便品 の ー「 諸 法 従 本 来 常 自 寂 滅 相 」ー を ヲ | て 一 、 三 の 区 別 は な く 、 一、三両つながら捨て権実並に除いて、心に所依なけ れば信解と名くのだと、執着を除き空︵無執着︶に処すべきだという有無の論を展開している。そして信解の位門で は小乗を破して大乗を信ずる廻小入大は十信の位の初心だとし、同異門では舎利弗・迦葉、上中下根等の七異のある ことをのべているが、その七異に関し上根の領解、中根の領解、下根の領解と表現しているから、信解を領解ととら えた上のことと思われる。 このような﹃義疏﹄の立場を見ると、信解を信と解とにわかち、三宝を信ずる信と、仏の教説を了解するとの立場 をとりながらも、領解は信じて解すというような表現をみると、信解は信.するというあり方の上において成立するも のとして、信解を領解・理解というあり方としてとらえていたように一応は見ることが出来るようである。 このあり方は信解品一品の立場を注釈して﹃義疏﹄が、 品 開 為 レ 二 。 初 経 家 序 コ 其 得 解 之 相 一 。 第 二 発 レ 言 自 述 − − 領 解 す v としていることからもあきらかであると思われるが、 同 EMM 深−以成=領解ことしている。領解は仏の力によって得られるというのは、 ﹁ 以 = 解 由 レ 仏 得 − 故 歎 − 弘 恩 − 叉 良 由 = 領 解 − 方 識 − − 仏 恩 − 故 歎 エ 仏 恩 信の上に領解︿信解﹀が成立すると見る 嘉 祥 ﹃ 法 華 議 疏 ﹄ に お け る 信 ︿ 望 月 ﹀
嘉祥﹃法華義疏﹄における信︿望月﹀ か ら で あ ろ う 。 そして﹃義疏﹄は窮子が長者の家に至り門の側に住立したとの妙法華経によって、 未 レ 有 = 大 機 − 不 レ 堪 レ 受 = 大 教 − 如 = 門 側 、 : : : 始 未 = 信 受 − 如 − − 門 側 − としているから、法を受け信ぜられないという型で信受が使用されている。そして、信受せられない理由を、妙法華 経の﹁此必定死﹂にからめて、 教 大 機 小 講 = 其 本 情 − 。 心 生 − − 不 信 − 則 起 = 誹 誘 − 断 = 於 懇 命 − 。 として、機根が小なるために不信となるのだとし、この機の小なるが﹁志意下劣﹂とし、士山意下劣の故にこそ長者は 窮子のために使者を遣わしたのだ、として、更に、昔日に本大乗の願行ありしに、遂に大法をうけず小乗を楽い、大 門 8 v 乗を信ぜず小乗を信じるようになってしまったことを感んでいるのだとしている。そしてこの志意下劣は党文法華 経によると窓口陀 大乗を信じないのは下劣な信解にとどまっているからだというこ とになるであろう。したがって窮子がなれて長者の家に出入自在になったことを示す﹁心相体信﹂について﹃義疏﹄ 円 9 M は、大機が漸く発し大教を聞くに堪えたるためであるとしている。これは父子の心が信じあえたということであるが 更に、子の心が大乗を求めようとする大いなる心の境地にむかつたということでもあろう。 されば﹃義疏﹄は﹁今回世尊﹂で始まる語句についての﹁我等於中﹂以下は信受に合するのだ
F
し て い る 。 不信我言不信是父﹂をうけて、 A U ︼ 不信我言者不信実教也。不信是父者不信実身也 そして備の﹁長者知子 愚療狭劣 と称するから、信とは真実なるものに対するものであることがわかる。この妙法華経に対する発文法華経は、︽ ロ ロ
ω
町 制 W ︽ 凶 色 ”a
Z
B
州 W V M 可 制 w自 由 自 御 告i
v
v
ロ 包 ・5
ヨ立節目自国m q
官 官 aRWO 節 句 問 符 包 円 四 m V R こ の 栄 華 が 自 分 の も の と 信 ぜ ず 、 こ れ は 自 分 の 父 親 で あ る と 信 じ な い ﹀ としているから、この信は宵仰向宮町仰が示す信でもある。しかして党文法華経は、信じない理由を、劣った信解V
E
’
飾 品E
B
Z
W
誌におるからだとしているから、信が正しくなされるためには、 正しい信解が求められることを示してい るとなすことが出来るであろう。妙法華経は、この劣った信解を、愚療狭劣と訳している。 更に見宝塔品の注釈を見ると、六難に関して﹃義疏﹄は、﹁有=六種人−不レ信一一法華ことして、川五欲に貧著し小楽 を見て大楽を忘れるが故に法華を信ぜず、ω
外道の人は諸見に執着し離見の法を受けず、ω
小乗の人は権に執じ突に 迷 っ て 一 乗 を 信 ぜ ず 、ω
この経はこれ無常の教なりと執する人は、法華の常を聞いて信受を生ぜず、川この経はこれ 覆相の常と執著し、顕了の常を説くを聞くも信受を生ぜず、山川有所得の人この経は決定してこれ常なりと執著し、非 常非無常、不三不一、無依無得なりと説くを聞いて信芝生ぜず、とのベて、これを﹁古今南北信解者伐と結ん で い る 。 先の信解の注釈における﹃義疏﹄の、疑を除くが信、執を破するが解、信は不信より起り、解は不解より生ず、信 は邪見を破し、解は無明を破す等々の文によるに、今のここでの不信法華の六種人は、信じないということで挙げら れているようにも思われるが、実は執を破し、不解を破し、無明を破すということに重点がおかれているように思わ れる。それ故にこそ、古今南北信解者少と信解の語で結ぼれたのではなかろうか。 嘉 祥 ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ に お け る 信 ︵ 望 月 ︶嘉 祥 ﹃ 法 華 強 疏 ﹄ に お け る 信 ハ 望 月 ﹀ ︹ 註 ︺ ハ1 ﹀大正三四・五四ニ中 ハ 2 ︶ 印 刷 W 仏 国 f u ・ 品 ω ︿ 3 ﹀大正三四・五回二中
t
五 四 三 上 ハ 4 ﹀ 間 同 ・ 五 四 三 下 J 五 四 四 上 ハ 5 ︶ 同 同 ・ 五 四 四 上 ハ 6 ﹀ 同 同 ・ 五 四 七 中 ハ 7 ﹀ 同 同 ・ 五 四 八 下 ︵ 8 ﹀ 同 同 ・ 五 四 九 上 J 下 ハ 9 ﹀ 同 同 ・ 五 五 一 中 ハ叩﹀岡同・五五四上 ︿ U ﹀ 同 同 ・ 五 五 五 下 ハロ﹀印刷支出回ゲヲロ ω ハ 日 ﹀ 大 正 三 四 ・ 五 九 一 上 J 中 ( 24 )5
﹃義疏﹄はその官頭で挙げているが、その中の一つに、 将 レ 説 = 寿 量 − 。 恐 − 一 物 不 信 受 一 故 従 地 涌 出 品 の 来 る 所 以 を 、 というのがある。これは如来寿量を信ぜよというところに法華経の願目があることを説こうとしたものと思われる。 地涌の菩薩が出現したことにふれて﹃義疏﹄は、地涌の菩薩の涌出を明したのは能化の寿量を聞くためであり、四大 菩麗らの問訊することは衆生の度し易きことを明すためだとして、謂所化信受 o 即久己成仏衆生久己信受。此二是縁教感聡 としている。すなわち、如来寿量は教円であり、正しき教門あるが故に衆生はその縁により信受以外に道のないこと を 示 し た も の で あ る う か ら 、 こ こ で の 信 受 は 信 吟 仰 向 田 島 町 仰 の 意 と 思 わ れ る 。 それ故、如来寿量品の注釈において﹃義疏﹄は、この品の来意門として、 所 = − 以 有 = 此 品 来 一 者 明 = 身 権 身 実 − 有 コ 四 章 一 。 今 是 第 四 広 開 = 身 一 権 身 実 − 断 レ 疑 生 レ 信 均 とのベ、如来寿量を信ぜさせるために、この品が説かれたことを明示している。 妙法華経の如来寿量品は、 ﹁ 汝 等 当 レ 信 = 解 如 来 誠 一 諦 之 語 こ と 三 度 び く り 返 し て い る が 、 ここで信解となされてい る の は 、 党 文 法 華 経 に よ る と 、 号 制 長 包 宮 司 包 ﹃ ︿
ω
ヨ
5 0 W ロE
1
匂 ロ 可 脚 ”σ
区 町 包 内 宮 内 凶 V 州 脚 色 V S 召SS
側 聞 巳B M
﹃ω σ
何 回 国 官 召 ︽ 4 V 4 仰g
ヨ
4 M 可 制F H H
R
向w g M H ︿ 善 男 子 よ 、 如 来 の 真 実 の 言 葉 を 信 用 し 、 信 じ 、 頼 る ベ し ﹀ で あ る か ら 、 それは信解の訳が示す意味で はなく、信じ、まかせ切ってしまうということであるから、 ﹃ 義 疏 ﹄ が 示 す ﹁ 断 疑 生 信 ﹂ の 注 釈 が ふ さ わ し く 、 今 顕 開 = 於 寿 量 − 。 以 = 執 近 情 難 レ 傾 遠 寿 難 v 信 示 = 悟 物 − 以 レ 漸 故 というように、如来寿量は難信なことであるから、涌出を説き、仏語として信を強調することになったというのであ ろう。そして、この信もまさしく宵 M w a − − 門 医 仰 の 信 で あ る と 一 応 は 思 わ れ る 。 これを明すに一品半の経あり、勧信門・正説門・得益門・称歎門・格量門の五門ありとし、 し か し 、 ﹃ 義 疏 ﹄ は 身 権 身 実 に つ い て 、 深法難レ受。前須コ勧信、勧信既克次為広説 ν 法。説法応 ν 機時衆得道疑除領解。是故称歎。 所 以 格 宅 信 解 者 福 徳 智 慧 無 辺 。 とのベて、更に勧信門について、 嘉 祥 ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ に お け る 信 ハ 望 月 ﹀嘉 祥 ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ に お け る 信 ︵ 望 月 ﹀ 初 門 又 三 。 一 正 勧 信 。 二 大 衆 受 レ 旨 。 三 者 誠 聴 。 勧 コ 信 解 − 者 勧 − − 始 行 者 三 ♂ 信 。 深悟者令 ν 解 。 叉 令 − − 始 信 而 終 解 − 。 叉 今 説 − − 法 身 − 唯 仏 証 解 。 除 レ 仏 己 還 皆 是 信 解 也 。 如 来 誠 諦 之 語 者 出 レ 所 = 信 解 − 也 。 とのべている。これによってみると、仏語を信ずることを勧め、衆が信ずるようになった時に正法を説き、領解せし め、そこから誠聴が生ずることになるであろう。そして如来の誠諦の語とは信解する所を出す、となしているから、 ﹃ 義 疏 ﹄ が 如 来 寿 量 品 の 冒 頭 の 語 か ら 得 た も の は 、 信 町 制 戸 島 内 田 ﹃ 仰 で は な く 、 ﹃ 妙 法 華 経 ﹄ の 表 現 通 り 信 解 包
E
B
Z
W
E
ということであり、信から領解︵信解︶にすすむものとしての理解であり、信解は領解したものをしかととらえてお くといった意味あいでとらえていると見ることが出来る。これには分別功徳品における一念信解の信解も関している で あ ろ う 。 ﹃ 義 疏 ﹄ が 、 菩薩の仏慧に倍入するについて三根を分つとし、 従地涌出品の ﹁ 始 見 − − 我 身 − 聞 − − 我 所 説 、 即皆信受 入−−如来懇乙をもって、上根だとしているのも、分別功徳品での弥勤が疑を除いたことを領解したとするのも、この ︽ 7 v ような事情によると思われる。 しかして一念信解を説く段の注釈の中で、 ﹃ 義 疏 ﹄ は 、 但 挙 − − 五 度 − 不 レ 挙 = 波 若 一 者 信 = 解 寿 長 − 。 此 心 即 是 般 若 。 不 レ 可 下 還 以 − 一 波 若 一 格 申 量 般 若 ム 也 。 叉 般 若 即 是 仏 寿 照 境 之 義 。 名 = 平 等 大 慈 − 。 としている。如来寿量に対する信解こそ般若波羅蜜で、 仏 寿 照 境 の 義 で 、 平 等 大 慈 だ と い う 時 、 ここでも信解は信 −←信解の型の上で、領解したものをしかととらえているものとして理解されていることを示しているであろう。 妙法華経の一念信解は、発文法華経によると各州TO 符B e
m a
−
S3
包E
B
Z
W
仲 町 三 刷 M 脚 色S
σ
E
町 包 含 島 町m w
g g
品 ’
円 9 v