道徳教育 と人格 の尊厳
"自由 な る応 答 性 と して の責 任 " の現 代 的 課 題 -清 水 宏 子 Ⅰ 小 序 現代 とい う時代は,今 まで よ りも一層人間に高度 な道徳性を要請 しているといえるのでは (1) なかろ うか。 ガブ リエル ・マル セルは 「技術は,我 々がそれを使 う使 い方 に応 じ て 存 在 す (2) る。あるいは, よ り正確 に言えば,使 い方 に応 じて意味 を もつ。」 と言 ったが, 人間の技術 が高度化すればす るほ ど,その扱 い方如何 に よってそ こか ら引 き出 され る効果的 な結果 に対 しての人間の責任は よ り大 き くなるのである。 今か ら約25年位前 にマルセルが--バ ー ドで行 な った "人間の尊厳"に関す る 講 義 の 中 で,「今 日の人間が直面 させ られている技術化 の道 を突進 している世界において, 人 間 の尊 厳 とい うことに関 して起 こ りつつあることを知 ること」は「極めて重要 で,憂慮すべ き問題」 (3) (4) であると述べた。その問題 とは ト ・われわれを脅か しつつある技術文 明の危険 と非人間化」 の ことで,次 の ように言 っているO 「ドイツの哲学者, ギ ュソタ一 ・ア ンデルス が, そ の 『廃 棄 さ れ た 人 間』Gunther Anders:DerantiquierteMensch.Mtinich:Beck,1956.で明察 した ように,人間は ま す ます 自分を 自分の技術で作 った ものに関係 させて考 えるよ うにな り,全 く不思議 なパ ラ ドックスに よって, 自分の技術が完成 した余 りに も正確 で, あま りに も完全 な機械 に較べ て,自分 自身を低 く評価す るようになるとい うことは本当の ことです。 こ うした異常 さは, サ ミュエル ・バ トラーがその 《-ル ユーオ ン》Erewhon の中で述べた よ うな予言的 な 展 望の線上 にあるものです。そ してそ うした ことは測 り知れない倫理的 な結果 を引 き出 さな いはずがないで し ょう。何故な らこの よ うな自己評価, む しろ 自己卑下は,古典的 な哲学 一久遠 の哲学 (philosophiaperennis)とい って もよいで し ょうが-が肉体 にたいす る精神 に付与 した ような超越性を根本的 に否定す ることになるか らです。現実 に精神 にとって代 (5) ろ うとしているものは,多少 とも技術主義的 な, ある種 の働 きとい う観念 であ ります 。」 このマルセルの憂慮は 日1日と現実化 し,今 日,人間性 とその尊厳 について も,現代的状況 の中での再確認が必要 とされて来ているのではなかろ うか。 最近 の日常 のマス コ ミの情報か らも知 り得 ることであるが,科学技術 の進歩は地球上 の世 界を狭 いもの とし,諸民族 の生活は物理的 に接近 した。 また工業 の発展は近隣庶民生活 に企業 に よる組織的影響を及ぼ し 情報網の発達はかつて一般 の人 々が知 り得 なか った世界 にま で入 り込む可能性を与えた。人間の生活 に便利 な機械道具 の発 明は人間を 日常 の雑事か ら解 放す る一方,逆 に人間が機械 によって生活 を左右 され る時代 に入 って来た感 さえ もある。人 間 の生死を支配す る力を持 つ医学 ・生命科学 の進歩発展等,世界の科学技術が進歩すればす る程,地上 の人類 の生活は一層複雑化 し,その最新 の科学技術の高度 な知識 の把握は,世界 人類 の幸せ と存続 を人類みずか らの手で脅かす もの とさえな ってきている。 この現代的諸状況に内在す る人類 にとっての危機感を反映 してか,1984年 の夏の第12回上 智大学人間学会 の基調講演は 「生命を考える一生命科学 の立場か ら-」 とい うテーマで,上 智大学生命科学研究所 の青木清教授 によって行 なわれ,その終 りに教授は,科学者 としての (6) 立場 か ら 「生命倫理」 の確立 の必要性を訴え られた。 そ して同 じ年 の10月,筑波大学 で行 なわれた 日本倫理学会第35回大会 の共通課題 は 「技術 と倫理」であ った。大会第二 日の午前の部では東西 の 「技術 の倫理」をめ ぐって個人発表が (7) あ り,午後の部では 「現代技術の根本問題」をテ-マとしてシムポジウムが行なわれたo倫 理学以外の分野か らも諸教授 の参加 を得て交わ された多彩な議論は,我 々人間の今後 の生 き 方歩み方 についての現代的諸問題 の在 り処 を明 らかに し,貴重な多 くの示唆 を与え るもので あ った。 この ような時 にあた って,人間が今,その人間の尊厳 に基づいて責任 ある行動 を とるよう 自覚を促す と共 に,次の時代を担 う筈 の青少年 の道徳教育 が単 に外形的なものではな く,人 間 の本来的志向性 にそ った,責任 ある自由な自律的能動的行動主体 を養成す るものでなけれ ば な らない ことを訴える必要性を痛感せ ざるを得 ない。言 いかえれば,現代社会 に生 きるも の として,時代の状況を知 りつつ,何か しらの形 で世界人類 の幸せのために積極的 に貢献 し 得 る ような道徳的能動的資質を備 えた人格の養成 が期待 され るのである。必要 なのは, 自己 の権利を主張 して社会か ら受け ることだけを待つ人間ではな く,僅かでも持 っている力を出 ヽヽヽ ヽヽヽヽヽヽヽ し合 って よ り善 い社会 の建設 に尽 くす善意 と実行力ある人問である。何故 な ら,現代 に生 き る人間は社会 の成 り行 きを静観 しているだけではす まされない。地上 の破壊か建設か とい う 両極 の間で揺れ動 きなが ら,械概的秒 よみの中で善悪を分別 し,敏速かつ主体的 に正 しい生 き方 の取捨選択 を決断 し実践す ること, これ こそ 自由ある人問に課 された現代的課題だか ら であ り,その自由に地上 の将来が委ね られているとも言えるか らである。 「この ような危険について警告す ること。 同時 に, 技術 の進歩 に酔い しれて きた-セ歴 史哲学 と対決 し,俗流 に抗 して 『本質的 なもの』あるいは 『変 らざるもの』を守 り抜 こ ラ とす る果敢な努力にもとづ くあ らゆる試 みを推進す ること。私 に言わせれば, 哲 学 者 に (8) とって, これ以上 の急務はない。」 「-避け ることのできないものだか らとて, そ のまま, それを受けいれ るだけでは十分 ではない。 ここでも,は っき り見わけ ることと分析が必要である。そ して, おそ らくこの (9) 分野において こそ, 自由についての考察が絶対 に不可欠である。」
清水 :道徳教育と人格の尊厳 とマルセルは,その著書 の 「日本版 のための序」の中で述べ,実際 に当時 の彼 の著作活動 の 努力は,その人間性 の危機 の警告に費 された。 私は今 この小研究 の中で, このマルセルの英知に よる警告 と,その他 の現代 の諸学者 の深 い思索 に光を得 なが ら,"創造主 なる神への応答である道徳"と "応答性 としての責任" と, またそ こに本質的にかかわ りのある "自由"等の問題を考えなが ら,現代的諸状況の中で現 代に生 きる者 としての道徳的在 り方 ・歩み方 の根本 を僅かなが らで も探 りた い と願 って い る。 道徳 とい う言葉をきくと,一見規範主義的 な固い印象を うけがちであるが,実 は ヨゼフ ・ (10) フ ックス教授の説に もある通 り,道徳 こそは,人間の本性 にそ った超越者 の呼びかけに対す る人間の側の主体的な "応 え"であ り,そ こにあるのほ神 と人 との絶 えざる対話 であ り応答 alHE であ って,人間は生涯 を通 してその呼びかけに心 の深 い所 で応 えつづけてゆ くのである。 したが って,現代に生 きる我 々人間に要請 されていることは,複雑 な世界的諸事情 の中で 道徳 の其 の応答性を更に厳密に生 きてゆ くことである。それは,現代 の我 々各個人の応答 の あ り方如何 に世界人類 の将来がかか っているか らであ り,今 あ らたに人間の尊厳 が根本的 に 問われている時だか らである。
Ⅰ
道 徳 と 責 任 現代の人間はある面 で (勿論1部の人間にではあるが-)道徳的 にかな り無責任にな って 来ているとい う印象を うけることがある。特に, 日頃の個人的人間関係 においては立派 な道 徳的常識 を備えていると思われ る人 です ら, ある種 の状況の もとにおかれ ると,責任性 を意 識 しないかの如 き言動 に陥 ることがある。それ は特 にその行為が不特定多数 を対象 としてい る場合 とか, あるグル-プ (個人的 または組織的 な) として事がなされ る場合な どに, この 道徳的責任性を喪失 したかの ような状況が起 っているのではなかろ うか。 最近の話題 としてほ,人体に有害な不凍液入 りワイ ンの売買の件 に よって国際的道徳的信 頼関係がゆ らいだO しか し, これ に類す る道徳的無責任な行為 は 日本国内に も諸所 に散在 し たO有毒排水,有害薬品,有害廃棄物,危険 な環競破壊な ど-Oその他,他人の不幸に対す る傍観者的態度- これ は現代の学校における "い じめ"の問題に もつなが るが-,特 に海外 アジヤの貧民や難民に対す る日本人 の消極的姿勢は,人道的無責任 として世界諸国か ら多 く (12) の批判を浴びた。 この ような現象の奥には,道徳 と責任 とい う面か らみて, どの よ うな問題が潜んでいるの であろ うか。 先ず 日本人 の "責任" とい う語の理解 の しかたを考えてみ ると, ごく一般的には "義務的 (13) な負担" として受け止めていることが多い よ うである。 しか し "responsibility (責任)" と い う概念は元来西洋で発達 して来た もので, しか も時代的にはかな り新 しい ものの よ うであ(14) る。今道友信著の 『東西 の哲学』に次 の ように記 されている。 「責任すなはち レスボ ンサ ビリテにあたる概念を表はす古典的 な術語は, あ れ ほ どす ぐ れた道徳哲学,倫理学,倫理神学等を築 き上げていた西洋の伝統を調べてみて も,その古 (15) 典期 にも,中世期 を通 じて も,近世哲学に於 いてす ら,見 ることができない」 しか しそれは責任の事実 がなか った とい うことではな く, ソクラテスをみて もその後の ヨー ロッパの歴史をみて もーた とえば初代キ リス ト教徒の殉教 な ど一見事 な責任の果 し方が あ っ た といえる。ただ,責任 とい う概念が西洋で重要視 され るようにな ったのは,現代,二十世 (16) 紀 の実存哲学 に至 ってであ った とい うことである。 この西洋のresponsibility の訳語 として "責任" とい う語が 日本 で使われは じめたのは現 (17)
代であるが, 日本人 はその内容 として,Obligation,duty,liability と理解 した。 日本に古 ヽヽ(1日) くか らあ った語 としては
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「責め一人に帰す」(責任は結局ひ とりの主権者に帰着す る) とい う表現が あ り,その使 い方には,悪 い結果に対す る義務的負担の意味が強い。そ してその意 味内容が,現代の responsibilityの 日本語訳 "責任"にそのまま移行 された と思われ る。 ところが,西洋における責任 としてのresponsibilityの本来 の意味は別 の ところにあ った。 (19) 平凡社発行の 『哲学辞典』に よれば,責任 (responsibility)とは 「一般 にある自発的な行為 を原因 として,その行為者におわ され る意識 もしくは責務,制裁」を意味す るのであ って, 自発性 は責任遂行上 の大切 な要素 と考 え られてお り, これは西洋の多 くの哲学者 に共通す る (20) 所 の よ うである。 そ こで,一般 の 日本人の受け とめ方 に よる 「責任」すなわち 「義務的 な負担 」を果たす こ と-それは自分 に課 された仕事に対す る忠実 さであ り与え られた仕事に対す るその人 の態度 が問題 とされ る- と西洋的理解 と比較 してみ る時,"責任"の概念の とらえ方に 本質的 な差 異が あるようである。responsibilityの語源はい うまで も な くそ の 動 詞 形 respond(西語 responsabilidad・ responder,伊語 responsabilita-rispbndere)であ って, いわゆる "応答す る"ことである。 (21) この応答性については前に掲げた 『東西の哲学』の中に興味深い一節が あ った。それによれ ば,育,仮面 を被 った役者たちがその演劇の中で相呼応す る こ とを respondere(とよみあ ふ) と言い,そ こか らresponsabilite(応答性,責任) とい う単語が生 じて 来た とい う.そ して また,人生を劇になぞ らえれば,そ こには社会的役割 に よる他人 との相互の呼応 と同時 に,人間 としての創造主 に対す る垂直的呼応性 (responsabilit6)も顧慮すべ き で,「人生を 考 - ると,人格 としての 『ベル ソーナ』 と応答性 としての 『責任』の二 つを大切にしなけれ ばな らない。」 と述べている。 (22)
『TheCenturyDictionaryVolumeIV』 に よれば, responsibility(責任) と は 先 ず, 「Thestateofbeingresponsible,accountable,oranswerable」(応 え うる状態)である。 通常 "責任者"は "aresponsibleperson", "責任 ある地位"は "aresponsiblepost" とい
清水 :道徳教育と人格の尊厳
うが, ここに出て くる "-ible" とい う語尾 は, 動詞 の語根 に添えてその ことの可能性 を表 現す るか ら,そ こか ら "aresponsibleperson"をその語の元来の意味か ら解釈すれば,"応 えることのできる人", すなわ ち事柄の大小 を とわず, 問いかけ または呼びかけ る者 に主体 的 自発的応答をす る可能性を自ら, または与 え られて持 っている人 が "aresponsibleper・ son''すなわ ち "責任者 "なのであ って,他 の人 に尋ねなければ答え られない依存的従属的状 況や立場 にある人 はその事に関 してはresponsibleではない。「responsible(自己の能力 ・管
(23) 轄 ・権限の範囲内の ことに対 して)責任が ある(answerable,ac00untable)」 とい う説 明 とも (24) ヽヽヽ ヽヽヽ 合致す る。いいかえれば,『新倫理学事典』 で も述べているように, 責任性 は先ず応答性 に あるといえ る。 このようなあ り方 の "責任"を道徳 との関係 において考えてみ ると, まさに人 ひ と りひ と りはその本性か らくる倫理的神 の呼びかけに対 して,その決断 と実践 を通 して生涯応 えつづ けてゆ くよ うに招かれているものであ り,道徳 はその応答的人格的行為 の うちにあるのだか ら,各 自が主体的にその道徳的行為 にかかわ っている限 り,各人 はその道徳的行為 のrespon・ sible(応答可能者 としての責任者)なのである。何故 な ら,常 にその主体が responsible と して応答性の所持者 であ り自己の行為 の先行者 であると認識す る限 り,その意味 で 主 体 は (25) 「主体 として,知 りつつ自由に全体 にかかわ り,その ように自己を所有 している」人格的存 在 として, 自己の実現 した道徳的行為 の全体 に- は じめか らおわ りまで-かかわ っているか らである。 こうして,真の道徳的行為 には,常に同時 に厳密 な意味での応答性 におけ る道徳的人格的 責任が あるとい うことになる。 ところで, このように考えてきた "道徳 と責任"の問題 を現代的諸状況の中において も う 一度考 えてみ る時, この項 目の最初にふれた不特定多数 を対象 とした場合の現代人 の道徳意 識 と責任性 の稀薄 さは, この "応答性" とい う事 とかかわ りが あるよ うに思われ る。 つま りここに,科学 ・技術の高度化に伴 う時代の急速 な変化 とい う現代的状況の中での倫 理的 に注 目すべ き問題点 のあることが,前述 の 日本倫理学会第35回大会 にゲス トとして参加 された今道友信教授 に よって指摘 された。 教授 は,「実体 として人間にかかわ る対面倫理」 と 「見えざる不特定多数 の隣人 を相関者 とす る遠隔倫理」 とを区別 し,次の よ うに 言 わ れ た。 「従来 の倫理学は多少 とも対 面倫理 を基礎 とす るものであ ります。-- しか し人 間の環 境が 自然的 な ものに近 く,近間 にある人間が倫理的 な関係にた ちいるとい うのではない状 況,た とえば電話な どで遠 くの人 を脅かす ことや遠 くの人 に救いを求め る ことができると い うような状況を考えます と,隣人概念 もす っか り変わ ってまい りまして,隣人 とい うの はその顔 も知 っていて声 も知 っている人 とい うふ うな概念 とはちが うもの とな ります。今 は不特定多数 の隣人が技術媒体 を介 してあるとい う時代でございますか ら,遠隔倫理 と対 面倫理 とのパ ースペ クテ ィブの使いわけ とい うこともしていかなければ な らないのではな
研究紀要 (第4号) (26) いか とい うふ うに考 え られ ます。」 こ うして,かつての社会生活においてほ殆ん ど考 えることも出来 なか った 「見えざる不特 定多数 の隣人」についての道徳的応答性が, 日毎に現実味をもって現代人た る我 々に迫 って 来 ているのである。 この遠隔倫理 も,対面倫理 も,道徳的応答性 としての責任 の基礎はいず れ も同 じく人間 としての主体 にあるが,た しかに遠隔倫理はその実践面 において,現代 の世 界状況が我 々人間に投げかけた新 しい道徳的課題 であ り,多 くの人に途惑いを感 じさせてい ヽヽ ヽヽヽヽ る点 で もあろ う。応答は呼びかけに よって生 じて くるものであるが,遠 くの,技術的媒体 を 通 しての不特定多数 の隣人を,末だすべての人 々が己 とかかわ りある隣人 としての充分 な認 識点 に到達 し得 ないほ どの,技術に よる空間 と時間の接近の早 さ,時代の変化 の急速 さが, 人間の本性的呼びかけの敏速な把握をお くらせ,その応答性をにぶ らせているといえるので はなかろ うか。そ して ここに,時代的状況に応 じて必要 とされ る道徳教育の一つの課題 を示 され ているように思 う。 (27) 同 じ大会においてつづ いて今道教授が,倫理学 における 「実践的推論式の構造 の逆転」 と い う問題を と りあげ られたのは非常に興味深い。 それは要約すれば次の通 りである。 (28) ア リス トテ レスの 『ニコマ コスの倫理学』に基 いて言 うと,古典的な倫理学 の推論式 は 目的定立 としての 杢亜監 この目的 を実現す る手段 としての 小前提H (この手段は複数 に列挙 され る) この手段 についての考察 ・判断 としての 小前提(I) 決断 としての 塵爵 であるが, これはあ くまで も自分が 目的をたててその手段 を自分 で選ぶ とい う対面倫理 の領 域 におけるものである。 ところが現代の状況においては,技術的手段 の優位 とい う事情 に よ り大前提 と小前提 の逆転がお こっている。つ ま り,大前提 として特定 の非常に強力な手段が 我 々の手の中にある。小前提 としては これに よって達成可能な複数の 目的が列挙 され る。 こ うして我 々は,手段 ではな く目的を選ぶ ことを迫 られてお り, しか もその時の決 断 の 主 体 ヽ ヽヽ は,私ではな く我 々であ って,つ ま り共同責任の と りかたの問題 が ここに出て くる, とい う 説 である。 そ こで眼を世界に向ければ,現代的状況は,複数 の人間に よる,不特定多数 の人間に対す る重大なる行為 の決断が,共同体的主体性のある応答性を もって実現 されねばならない機会 をつ ぎつ ぎと提供 している。 こうして道徳における応答性 としての責任が,時代的状況の中 で,かつて よ りも更にグ ロー/;ルな形で人類全体 に切実 に求め られているのであるo しか もこの人類共同体的応答は決 して各個人の責任 としての応答性 を抹殺 して しま うもの
清水 :道徳教育と人格の尊厳 ll ではな く,む しろそれを基礎 としては じめて成 り立つ ものである ことを思 うとき,各人 が人 間 としての根本 に立 ちかえ って, あらためて人間の応答性 としての責任の意味を深 く自覚す る必要が,現代 とい う状況の中で強 く求め られている ことを認識 しなければな らないのでは なかろ うか。
Ⅲ
責 任 と 自 由 (29) 「大部分 の哲学者は,責任性の基礎が意志 の自由にあるとい う点で一致 している」 と 言 う が, カール ・ラーナ∼ほ次の ような表現で責任 と自由とのかかわ りあいを説 明 している。「自 分 自身の成 り行 きを任せ られているとい う在 り方 において,人間は, 自分 の責任 を取 るべ き (30) 自由な存在 として 自分 を経験す る。」その自由とは 「一つの全体的実存遂行における,一つの (31) 全体的な主体にかかわる自由」である。 すなわ ち,前項 において,人格的応答性に道徳的行為 の責任 の根源があると述べたが, こ の応答性 に妨げがあればその妨げの度合に応 じて行為の主体 としての責任は減少す る ことに なる。そ して,妨げはいろいろあ りうるが,中で も特に主体的応答性 と根本的なかかわ り合 いのあるのが "自由"の欠除なのである。それは カール ・ラーナ-の言 い方を借 りて言 えば "自分 自身の成 り行 きを任せ られていない" とい う在 り方 の経験 であるといえ よう。 責任 としての応答性は前にも述べた ように,主体的 自発的行為 に よって実現 され るべ きも のだか ら,その自発性に とって 自由は不可欠の条件 である。通常の職場において も責任者 は "aresponsibleperson" といわれ る通 り,"yes"か "no"かに拘 らず応答の如何 がその立場 に委ね られている,言 いかえれば 自発的応答がその人 の 自由な主体性 にゆだね られている範 囲においてその人は応答が可能 (responsible)なのであ って,その範囲内で責任 の主体 であ り得 るといえるし,一方,成 りゆ きについての応答の 自由がゆだね られていない者 は応答不 可能(noresponsibleJなので, 自由がない事 に関 してその人は責任 の主体ではあ り得 ない と い うことになる。 ここに責任 と自由との大切 な関係があるのだが,人が責任 ある者 であるためには自発的応 答を可能 にす る自由が前提 とされ る, とい うよ りむ しろ,責任 と自由 とは一つであるとい う ことである。 こうして或 る行為が人 の自主性 に基 く自由な決断に よって遂行 され るとき,人 はその行為について,その起 りと結末をも含めて責任 を負 うことになる。そ して 自由の中に 自律 と自発性が生 まれ, よ り豊かな応答性を可能 にす る, それが responsibility (いわゆ る "責任")の元来 の意味である。束縛か らくる依存 と従属 は,それが心理的であれ,物理的で あれ 自由 と主体性の欠除であ り,応答性を否定す ることとなる。 日常の人 の行為が責任性 を保つには自由が必要 であるか ら, ましてや善悪にかかわ る道徳 的応答の行為においてその行為者の責任を問 うには,先ずその行為の前提に 自由があ ったか どうかが問われ るのが当然 である。そ こに自由が認め られ るときは じめて人格的行為が成立 し,賞罰に値す る行為 とみな され得 る。言いかえれば,道徳的行為のは じめの段階での主体12 研究紀要 (第4号) 的応答の可能性 (responsibility)が,その結末たる賞罰に対 して も応答性 をもって相対す る のを可能 にし, よきにつけ悪 しきにつけ,主体 としての 自己にかかわ ることとして受け入れ ヽヽヽ させ る, これが道徳的行為 に対す る責任である。ある道徳的行為が,己にかかわ る,人 とし ヽヽヽヽヽヽヽ て当然なすべ きこととして 自由な応答を迫 られていると内的 に意識す る時,それは道徳的責 任性 であ り,その内的呼びかけに自発的に呼応 し,決断 し,誰に も強制 されず に 遂 行 す る 時,そ してその結末を己れの こととして背負 う時,道徳的責任 を果 しているといえる。 こうして, カール ・ラーナ-が 「真の自由において,主体は常に 自己を意図 し, 自己を理 (32) 解 し, 自己を実現す る。」 と述べた ように, 自由 こそ道徳的主体性 と自律性 の実現を可能に す るのである。 すなわちresponsibility (応答性 としての責任)を望むな ら,先ず "自由"であること,言 いかえれば,行為主体を束縛 し得 る内的外的あ らゆる状況か らの解放 に よって, 自発的応答 可能 (-responsible)な状況を ととのえることが大切 である。それは物理的精神的あ らゆ る 束縛 の状況か らの解放 を意味 していることは言 うまでもない。特 に内的 自由が充分 に整え ら れた時に,人は創造主 なる神の呼びかけに澄んだ心 を もって正 しくresponse(応答) してゆ くことができる。 これが,法 にも縛 られず,感情に も慾情に も左右 されず,義務感にもひき ず られ ることのない,創造主の呼びかけに対す る純粋な応答 としての道徳的行為である。そ こには,応答 としての行為 の遂行に当 っての人格的主体性 ・自律性 ・自発性が存 す る と共 に,その行為の結果に対 して も完全 な応答性 (responsibility-責任)が存在す る。 いわば, 道徳的行為 の全過程 に自由なる応答性 としての責任は生 きているのである。 ここか らわか ることは, 自由の大切 な役割は単に人を束縛か ら解 き放つ ことではな く,創 造主 なる神への誠実 なる応答可能 の場 を備え,人間の尊厳にふ さわ しい決断 と遂行をもって 人生の道を崇高に真実 に歩み うるよ う人を促す ものであるとい うことで あ る。 そ れ を カー ル ・ラーナ-は 「・・・主体的 自由の真の本質は,人間の生における個 々の諸行為や出来事に対 (33) して,それ らが可能 であるための条件 として先行す るものであるO」 と説 明 した。 その 自由 にあ って,人は応答性 としての責任 を終始 もつのであ って, 自由についての解釈の誤謬は, 同時にその道徳生活に (道徳 の人類普遍性 とい う面か ら考察す る時)内的に奥深い ところで 根本的に重大な影響を及ぼす ものである。 こうして,責任 とは "自由なる応答性"を意味す るものであ り,我 々人間は創造主 なる神 の人類への普遍的道徳的呼びかけに,各人が人格的に自由に応答 してゆ くことを求め られて いるのであるが,では, この我 々人間の主体性 の本質にかかわ る,責任性 の基礎である自由 は,簡単に我 々人間が手に し得 るものであろ うか。 (34) ガブ リエル ・マルセルは
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「存在論的秘義」 とい うテーマで語 った時, その中で 次 の よう に述べている。 「自由への唯一 の入 り口は,主体の 自己 自身についての思索であ ります。 そ うい う思索 ヽヽヽ が,本来的にいえば私は 自由であ り, 自由は私に与 えられた属性 ではな く,む しろ私は 自清水 :道徳教育と人格の尊厳 13 由であるべ きであ り,つ ま り自由は獲得 さるべ きものである とい うことを,私 に発見 させ (35) たのです。-」 (36) その後 「兄弟愛 と自由」 とい うテーマの中で更に説 明して言 った。 「まず私に非常に大切だ と思えることを述べてみ まし ょう。それはわれわれの中の 何 び とも厳密な意味 で,私は 自由だ とい うことはできない とい うことです。--・中略 -- 自由 を一つの属性 と考 えるほ ど宿命的な誤 りはあ りません。私は 自由 とは正にその反対 だ とい いたいのです。む しろさらにわれわれ一人一人が 自分 を自由な人間にすべ きであ り,前 に 述べた よ うな, 自由を可能にす る構造的な条件 をできるだけ利用すべ きだ といわなければ な りません。他のいい方をすれば, 自由 とは一つの獲得物-つねに部分的で,つねに不安 定 で,つねに争われ る- なのです。 ここで私が先に希望についてい ったの と全 く同 じよ う に, 自由が生 まれ るのは描囚の状況の中においてであ り, まず解放 され ることの憧れ とし (37) て生 まれ ることを見逃 さないで くだ さい。-・・・」 つ ま り,本来的 に人間が享受すべ き自由は,それは同時 に人間に とってほ創造主か らの招 き であ り,マルセルは,現在捕囚の状況にある人間が,その招 きに応 えて 自ら絶えず努力 して 獲得 してゆ くべ き性質のものであることを強調 している。それは現代の恐 ろしいほ どの技術 時代の中で避けがたい人間機械論的見方,人間の物化 ・商品化 とい う非人問化 の傾向,社会 的病気等に掃われつつある状況において,人間が一つの機能ではな く一つの存在 で あ る こ と,技術 を超えた精神的存在であること,又だか らこそ,その よ うな捕囚の状況か らの人間 の解放 とそのための努力の必要性 を,又未来 -の警告を彼はすべての人類 に真剣 に訴えてい るのではなかろ うか。 マルセル 自身が述べているよ うに
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「人がわれわれ各人に, あなたは 自由ですか と尋ねた (38) 場合に,われわれが感 じる当惑」を思えば,彼の 「自由 とはつねに部分的で,つねに不安定 (39) なかち とるべ きもので しかあ りえないのですか ら。」 とい う言葉が更 に理解 で きよ う。 そ し ヽヽヽヽヽヽヽ て,それにも拘 らず,我 々人間は 自由であるべ き存在 として超越への招 きを 自由に受諾 して ゆ くことを求め られているとい う所 に, 我 々人間の, "自由なる応答性 としての道徳的責任 性"があるのであ って, 自由の欠除が我 々に, この内的志向性 としての道徳的責任性 を免除 す ることにはな らない とい うパ ラ ドックスに到達す るのである。 以上 をふ まえて ここで,前項 に と りあげた現代的状況における責任の問題 にも一寸触れて おかねばな らない。それは,今道教授が 「実践的推論式 の構造の逆転」について述べ られた (4()) 時 に言われた "共同責任"の問題 である。 すなわ ち,前 にも一寸触れた よ うに,現代の共同体的責任 において迫 られ る道徳的応答性 は,同 じく共同体的 自由を前提 とす る筈である。共同体的 自由 とは,単 なる個人的 自由の プ ラスでない ことは言 うまで もない。む しろその共同体 に属す るすべ ての人間の自由が充分 に研究紀要 (第4号) 尊重 された時 には じめて認め られる性質のものであ り,その ような状況においては じめて, 共同体的主体的応答性 としての責任性が生 きて くるのであ り,その時 に共同体 の各個人は, 共同責任の一端を主体的に背負 った と言えるのである。 しか し,各共同体が完全な 自由を享 受 しているとは とても言い得 ない現代の世界的社会的政治的状況の中で,人叛は さまざまな 形 で抑圧を受けていることは否 めない。 自由をはばむのは暴力である。そ して科学技術の進 歩 にまき込 まれた現代社会での暴力は, しば しば組織的で非物理的な,いわば,責任の人格 的主体が 目に見えない ロボ ッ ト的暴力が増えて来 ているのではなかろ うか。機械の部品化 さ れた人間が,組織 または共同体 の責任 とい う名 の もとに事を成 し,その恐 るべ き結果に対 し て人 々が, 自己の責任性を忌避する とした ら,それはその共同体に,そ してそのメンバーの 各個人 に其の意味 の自由の欠除を如実 に物語 っているといえる。そ して事柄が重大であれば ある程, 自由の欠除か らくる真の人格的主体的応答性 としての責任のない決断 が共同責任 と い う名 のもとになされ るとした ら,地上の破滅 は遠 くない と感ぜ ざるを得 ない。 大な り小 な り,それぞれの人が何 らかの組織 に属 して行動 している とい う現実,社会の組 織化が ます ますひろが りつつあるとい う現代的状況の中で, ここにも,道徳的主体性のある 真に人間 らしい共同責任の と り方 とい う,人間の尊厳 にもとづ く道徳教育の必要性が現代的 課題 として提示 されているのではなかろ うか。それは先ず,人類に とって創造主か らの招 き ともいえる本来的 自由,そのあるべ き姿の獲得 に向か っての絶えざる努力か らは じまらねば なるまい。その努力はひ弱 なものではな く精神的た くましさを必要 とす る。そ して先ず第一 に各人 の自己の内部に向け られ るべ きものである。何故な ら,責任の主体は外 に探すべ きで はな く自己の内にあるものだか らである。 「技術は,我 々がそれを使 う使い方 に応 じて,存在す る。 あるいは, よ り正確 に言 えば, (41) 使 い方 に応 じて意味をもつ。」 と言 ったマルセルの言葉の重み と共に, 高度 な技術社会にあ る我 々人類の自由にゆだね られている部分の大 きさと重み と意味を充分にかみ しめてみる必 が要 ある。
Ⅳ
キ リス ト教 的 道 徳 と 自由 な る応 答 性 と して の責 任 キ リス ト教的道徳では, これ までに述べ て来た 自由なる応答性 としての責任 ある生 き方 が 最 も頗著に要請 されている といえる。 キ リス ト教的道徳は,基本的には言 うまで もな く,宗教的道徳である。 とい うことは,唯 一 の神 の存在 を信 じるもの としてその垂直関係 の中に人の道のあることを認め る も の で あ る。が, これは人を新たに特殊な状況の中に組入れることではない。む しろ人 の本来 もって 生 まれた人間性が神に向 って開かれた ものであ り,永遠の神の計画 と創造の業に よるもので あることを認め,素直 にそれを神のみ手 よ り受 けて,その本性を最 も人間 らし く生 きてゆ こ うとす ること,そ こに こそ人 の道があ り,それを生 きることが神の創造の意図に沿 った もの (42) であることを認めるものである. これがまた カ-ル ・ラーナ-の言 う 「被造性の受容」で も清水 :道徳教育と人格の尊厳 15 ある。神の創造 の意図の中に人間に対す る神の愛 と命令 とを認め, またその神の命令は人間 ヽヽヽ の存在その ものの中にあ り方 として刻み込 まれている,言 いかえれば,道徳的 自然法は神 の 意向の表われであ り, この神の意向に主体的に応 えてゆ こ うとす ること, この自由な応答性 の うちに道徳があるとす る。解放 された人間の理性が欲情に まどわ されずに この道徳的 自然 法 を正 しくよみ とる時,そ こには普遍的な人の道 が示 され る。 これが絶対超越た る創造主 の 人間-の呼びかけであ り命令で もある。そ して,被造物にで きる ことまた必要な ことは,た だ受入れること,すなわち "人 はか くあるべ し" と実存 が叫ぶ在 り方その ものの受容で しか ない。それに逆 ら うことは人間性を否定 し,人間の尊厳 を放棄す ることである。その呼 びか けに 自由なる決断に よって主体的に respond- "応 える''ことが道徳であ り, 各人の責任に おける人 の道 の遂行なのである。それは,誠実 なる神 の呼 びかけに対す る人間の側か らの誠 実 な応 えであ り,人はその存在その ものの中に神 の呼びかけを受けているので,言わば実存 的にそれに応 えてゆ くのである。すなわちキ リス ト教的道徳は,人 の本性が普遍である如 く すべ ての人類に差別 な く及ぶ ものであ り,その 自然法においてすでに,すべての人 の応答性 を期待 しているのである。 しか し,キ リス ト者に とっては,神 の呼 びかけは この普遍的道徳的 自然法に よるもののは ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ(43) かに,啓示 としての神 の ことばがある。 旧約時代には,神 の ことばは太祖や予言者たちを通 して人類に伝 え られたが,新約時代に (44) 至 ってはキ リス トに於 いて神の奥義が示 された。そ して神 の本質が愛にあることが明 らかに された時,それは同時に神 の人類に対す る呼びかけが愛 の呼びかけであることが明示 された (45) のである。 こ うして人 々は,人類に とっての神 の錠や律法が人 の外側の形だけで応 えるべ き (46) ものではな く,その心 と魂 とで応 えるべ きものであることを悟 らされたのである。律法 の実 践は,文字で表現 されている事 を形式的に厳守す ることよ りも,旧約時代には殆ん ど忘れ ら (47) れていたその錠 の文字の奥にある本来 の心が大切であ って,律法はそれに よって完成 され る (48) べ きこと,それが "愛 の綻"であ り, しか もそ の愛 の錠は他 のすべての淀 にまさることをキ (49) リス トは教 えたのである。 したが って,キ リス ト教道徳 に欠かす ことので きないのほ,法 の文字に縛 られ ることでは な く,法を越 え時代 と場所 を越 えて,あ らゆ る人定法 の眼底を支 える筈 の絶対者 なる神 の真 の意向に レスポ ンス (応答) しよ うとす る姿勢である。それは,時 と場合に よっては人 の置 かれた状況に よって,文字に表現 された綻 または上司の命令 とは異 なる決断 と遂行 もあ り得 ること-た とえば迫害時代のキ リシタンの殉教 は時代 と洋の東西を問わず,現代においては 基本的人権に基づ く正義 と自由を望む人 々の声 な ど-を も意味す るものである。 しか しこれ (50) が,"状況の倫理" と同一でない ことは, キ 1)ス ト者には道徳的内的原理が キ リス トにおい て明 らかであることか らわかる。 (51) ここにキ リス ト者 としての 「神 の子の自由」が,重大な意味を もってその道徳的行為 にか かわ って くる。 前項 において
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「自由の大切 な役割は・・・,創造主 なる神 への誠実 なる応答可能の場を備 え,16 研究紀要 (第4号) 人間の尊厳 にふ さわ しい決断 と遂行 を もって人生 の道を崇高に真実 に歩み うるよ う人を促す ものである」 と述べたが, ここに至 って 「神 の子 の 自由」は,単 なる可能性 の場 をつ くるだ けではな く,更 に積極的 な姿勢 を意味 しているものであることが明 らかになる。 キ リス ト者 に とってほ人の道は,単 に道徳的 自然法に よる実存的事実 であるのみなず,超 (52) 越絶対者 に よる啓示的 "愛 の綻 "で もある。 したが って 自由 とは,道徳的実践遂行 の妨げか らの単 なる解放 であるよ りも, む しろ神 の愛 -の強 い愛着,又 は絶対超越 なる神 との深 い内 的一致 であ り, カール ・ラーナーの 「自由 とは・・・主体 が 自らの在 り方 を委ね られてい ること (53) である」 とい う言葉は,人間の本来的絶対超越者への志 向性 の完成 を意味す るもので,迷 い とか選択の余地 のない境地 へ と人 々を導 いてゆ くものなのである。そ して, これ こそが真の 意味 の解放 であ り
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「兄弟愛に富 んだ人間はその隣人 に結びつ いて います。 しか し それはそ (54) の結 びつ きの粋 が彼を縛 りつけ る どころか,彼を解放す る とい う意味 においてであ ります」 とい った マルセルの言葉 の意味 もここにあるといえ よ う。それは絶 えざる神 の意志 との一致 であ り,神 の呼びかけに対 してほその人 の魂の深奥 に内在す る神 な るキ リス トが呼応す る, とい う応答性 であ り, このキ リス ト者 としての最高の境地 を使徒聖パ ウロが体験的 に表現 し たのが,次 の有名 な一句 であ った。 「生 きているのは もほやわた しではな く, キ リス ト こそわた しの うちに生 きてお られ る のです。
」(『新約聖書』 ガラテア人への手紙2の10) (55) ここに至 っては もはや, あ らゆ る法 も淀 も権 力 も人 を支配す る ことはで きない。 しか しその 自由な行為 は常 に神 の創造 の意 図 に沿 って,神 に根 ざす人 の道 を完全 に遂行 してゆ くことに な るのである。 これが, キ リス ト者 に とっての道徳的内的規律の完成 である。 キ リス ト教的道徳の 目指す完徳 とは, この よ うな 自由な変 の応 答性 (リスボ ン サ ビ リテ ィJを もってキ リス トの生涯 にあやか ることであ り,それは, これ までの2千年の歴史の中 で,多 くの聖人 ・殉教者等に よって も世界各地で証 明 されて来た。 しか しその よ うな特別 な 人 々に よる特別 な機会 での崇高な徳 の実践以前に,我 々の平凡 な 日常生活 の中で ご く普通 に 出 くわすひ とつ ひ とつ の行為 の中 に も,善悪 に関す る人 の道 の歩み方 につ いては同質 の応答 性, いわば道徳的責任を問われてい ることを忘れてはな らない。ただ しこれは人間に,外側 か ら見 える道徳的行為 の完全性 を要求す るものでは な く,人間の限界か らくる弱 きと欠点を (56) (57) 充分 に理解す る愛 と憐れみに満 ちた御者 -の愛 の応答であ り,それは絶 え ざる回心 とい う形 に よって も表現 し得 る,神 に向か って歩みつづけ る人 の,生涯を通 しての応答であ るといえ よ う。 こ うして, キ リス ト者 の神 に対 す る "自由なる愛 の応答性" としての道徳的責任 は,現代 とい う, よ り複雑 な社会的状況 の中で, キ リス トの光 に よって,福音的 かっ よ り具体的 に, 現代人 の歩むべ き道を明 らかに してゆ くことが求め られているので ある。それは ま さ に 人清水 :道徳教育と人格の尊厳 17 (58) (59) が,超越に開かれた存在 として,現代社会 の輔囚的状況の中でそれ らを超 えた メタの世界を 探求 してゆ くこと,す なわち人 の本来的 あるべ き姿にたちかえ り,技術的 に高度化 した人間 社会の中で揺れ動 く人間性を,超越性において深め ることに よってその基礎をかため ること であ り,そ うす ることに よって高度な レベルでの人間性の両極 のバ ランスが保たれ るのでは なかろ うか。その点については,前掲の 日本倫理学会における今道教授の次の発言が,現代 の人間社会の歩み方 の傾向に対 しての重要 な警告を意味 しているように思われ る。 「-フ ィジカの時代にメタフ ィジカが必要であ った よ うに, そ して メタフ ィジカな しに は結局は倫理学 はで きなか ったのですが, テ クニカの時代にメタ ・テ クニカとい うものを (60) 考えていかな くてほな らない と思います。」 "自由なる愛の応答性" としてのキ リ卜者 の道徳的責任性は, この超越 の 世界に生 きるよ うすべての人 々を招いている とも言え よ う。
Ⅴ
む す び ヽヽヽヽ ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ 道徳を, 自由なる応答性 としての責任 とい う面か らここまで問 いつづけて来 て,今 また改 めて,その本来 の大 テーマである 「道徳教育 と人格の尊厳」に戻 って少 し考 えてみ る時,人 ヽ 格の尊厳が, マルセルの哲学 に も示 され る通 り,人間の本性的 な神 (この宇宙の絶対超越的 ヽヽヽヽヽ (61) 存在 としての)-の志 向性にあ り, またそれ こそ神か ら受け神 に根 ざした人間の本性の芽生 えであることを考えるとき,道徳教育の重要 なポイ ン トはその周辺にあるのではないか と考 えざるを得 ない。 『技術 と倫理』の "まえが き"に,勝部教授は次の ように記 したO 「分子生物学 の登場に よって今や生命現象 も物質現象 として物理 ・化学 の 言葉 で 説 明可 能 とな った。 日本人は遺伝子工学 にも深入 りしてゆ くと思われ るが, 『生命 の尊厳, 人間 (62) 性の尊重 も今 や空虚に近 い概念である』 との坂本教授の発言は ここで特 に重要 である。」 これ こそ まさに,今か ら約24年前にマルセルが感 じていた,技術 の完成に よる人間の精神 の (63) 喪失 とい う危機感が現実化 しつつ ある状況を感 じさせ るといえるのではなかろ うか。そ して この人間性への疑問の投げかけに対 して,前項 に掲げた今道教授の "メタ ・テ クニカを考 え ヽヽヽヽヽ る" とい う発言がなされたのであるが,それは上述の よ うな今 日的状況の中で,人間が人間 ヽヽヽヽヽ であるための, ある種 の根本的な道を示唆 されているといえ よ う。 この "メタ ・テ ク二が 'とい う語は,すでにマルセルが1961年にその講活の中で精神 の働 きを説明 して使用 している。研究紀要 (第4号) 「-・潜心 や, それか ら生 まれて くるすべ ての ものは,超技術的meta-techniqueであ り (64) あ らゆ るかけひ きに反対 す る放 下 とい うものを含 ん でい る とい うこ とであ ります 。」 ヽヽヽヽ ヽヽヽヽ 科学 技術 の高度化 とい う状 況 の中 で,人 として,人 らし く生 き残 るた めには, その状 況 に比 例 す るだけの メクー超越 -の世 界- の探 求 と深化 こそ重要 な意味 を人 間 に もた らして くれ る のではなか ろ うか。 ゆ えに, この メ タの世 界 に充分 な基礎 を置 く時 には じめ て,更 に具体 的 な道徳教 育を考 えてゆ くことが可 能 にな る といえ る。 す なわ ち遺徳上 の事柄 に関す る豊 かな知 識は人 間 の判断 の働 きに光 を注 ぎ,善 の決断 と遂 行 を授 け るので, その知的教 育 も大 切であ る。が同時 に,道徳的行為 の最 も重要 な ポ イ ン ト ヽヽヽヽヽ、ヽヽヽ(65) は, 絶対超越 な る神 -の志 向性 に も とづ く善意 の主体的 な遂行 にあ るのだか ら,そ の育成 に 全 力をつ くす ことこそ道徳教 育 に欠 かす ことので きな い重要 な点 であ り, 自由な る応 答性 と しての責任 の概念 も, この主体性 が あ っては じめて生 きて くるもので あ る。 現 代 の道徳教 育 に とって大切 な こ とは, とか く一 部 の教 科 に片寄 った知的詰 め込 みを重視 しが ちな 日本 の教 育 に, 根本的 な配慮 とバ ラ ンスが欠 けて いた こ とに気付 き,現代的諸状 況 の中 で,人間 のあ りの ままの姿 を見直 す ことであ る。そ こか ら,真 の知育 が何 であ るかが明 ヽヽヽ ヽヽヽヽヽ らかに され るであろ う。教 育 は人 間 のため であ って,人 間が教 育 のため ではな い ことを認識 (66) し, マルセル の 「人 間 であ る とい うこと。人間 として とどま り続 け る こと。」 と い う言葉 の 意味 を改め て考 えてみねば な らな い。 現 代 日本 の青少年 の非行 の多様化 と多発 は,教 育 に あた る親 や教 師 にむか って,現代的諸 状 況 の中 での今 の教 育 のあ り方 に重 大 な警鐘 をな りひびかせ てい る ともいえ よ う。 〔註〕 (1) Marcel,Gabriel(仏1889-1948) キ リス ト教的実存主義の立場からサル トルの無神論的実存主 義に対抗 した哲学者 ・文学者である。 (2) マルセル著作集8『人間の尊厳』(春秋社,1973)車の 「常識の衰退」(1958)の一節, p.23参 照。 (3) マルセル著作集8『人間の尊厳』(春秋社,1973)中の 「第九講 危棟に漸する完全性」の一節, p.202参照。 (4) マルセル著作集8 『人間の尊厳』 (春秋社,1973)中の 「日本版のための序」 の一節, p.5参
照。
(5) マルセル著作集8『人間の尊厳』(春秋社,1973)中の 「第九講 危機に瀕する完全性」の一節, p.204-p.205参照。 (6) 「バイオエシックス」とい う言葉の日本語訳で, 10年ほど前から青木活教授がその研究を提唱し ている。 日本倫理学会編 『技術と倫理』(以文社,1985)p.204-p.205参照。 (7) 日本倫理学会編 『技術と倫理』(以文社,1985)のp.196-p.222参照。 (8) マルセル著作集8『人間の尊厳』 (春秋社, 1973)中の 「日本版のための序」 の一節, p.5参 照。清水 :道 徳教育 と人格 の尊厳 19 (9) 同上 同貢参照。 (10) ローマ教皇庁立 グ レゴ リアソ大学教授。倫理神学担 当。 (ll) 清 水宏子 「道徳教育 と人格 の尊厳」(『人 間学紀要 第14号』上智大学 人間学会,1984,p.86-p. 108)p.94参照。 (12) 犬養道子 『人 間 の大地』 (中央公論社,昭59)p.41-p.43参照。 (13) 『日本 国語大辞典』(小学館,昭57)に よれば 「① 責め を負 って な さなければ な らない任務 。 引 き 受 けて しなけれ ばな らない義務。② 事を担 任 してそ の結 果 の責め を負 うこと.特 に悪 い結果 を まね いた とき,その損失 な どの責め を負 うこと。③ 法律上 の不利益 または制裁 を負わ され ること。 --④ --・債務 に対 す る語 ・-
-。
」
。『新 明解 国語辞典』 (三 省堂 ,昭49)も 『広辞苑』 (岩波書店 ,昭55) も大 体似た よ うな理解 を してい る。 (14) 今道友信 『東西 の哲学』(TBSブ リタニカ,1981)0 (15) 同上 の第8節 「西洋 に於 け る責任」中のp.228参照 。 (16) 同上 のp.234参照。(17) 「responsibility① 責任 ・義務 ・義理 (Obligation)② 責任 ・義務 ・負担 ・重荷(duty,charge)③義 務履 行能 力 ・支払能力 (abilitytopay).」(『新 英話大 辞典』研究 社,1979)0
(18) 「責めは動詞責む の名詞形。① 責 め る こと。 とがめ。② 責任」 (中 田視夫 『古語大辞典』小 学 館, 昭58,p.920参照 。)本文 中 の例文 は 〈平家・10・戒文 ) よ りの もの。
(19) 下 車邦彦編 『哲学事典』 (平凡 社,1982)p.829参照。
(20) 「--einsistenenqueparaserresponsableslo§actosdebenserespontaneosynoautomaticos.」 (FerraterMora,Jos占『Diccionariodefilosofia』Madrid :Alianza,C1979,p.2852参照)O
(21) 今道 友信 『東西 の哲学』(TBSブ リタニカ,1981) の第7節 「人格 と責任」中 のp.227参 照 。
(22) 『TheCenturyDictionary,Volum eIV』(Reprintfklition,1983byMeicho-Fukyukai,Tokyo.) (23) 『SHOGAKUKAN RANDOM HOUSEENGLISH-JAPANESE DICTIONARY VOLUMEⅢ』
(昭54)p.667参照。 (24) 金 子武蔵編 『新倫理学 事典』 (弘文堂 ,昭59)の「4)責任性」 の項 (p.269)参照。 「責任 はresponsibllity,Verantwortungと して 『応 答』 で あ る。相対的責任が社会 あ るいは そ の規 範 に対す る応 答 で あ るのに対 して,絶対的 責任 は 自己の本来性 に対 す る応 答で あ る。」 (25) カール ・ラ-ナ ∼ 『キ リス ト教 とは何か』 (ェ ソデル レ,昭56)p.38参照。 (26) 日本倫理学会編 『技術 と倫理』 (以文社,1985)p.202-p.203参照。 (27) 同上 p・203参照。 (28) 『EthicaNicomachea(ニ コマ コス倫理学)』 は ア 1)ス トテ レスAristoteles(3841322B.C.) の倫理 学上 の主著で,人間 の行為 の最 終 日的 ,お よび,そ の実現 の方策 を論 じてい る。
(29) 「--・1agranmayoriadelosfi16Sofosestadeacuerdoenque elfundamento delaresponsabili
-dadeslalibertaddelavoluntad.」(『Diccionariodefilosofia』Madrid ;Alianza,cl979,p.2852参
照 。) (30) カール ・ラーナ ー 『キ リス ト教 とは何か』 (エ ンデル レ,昭56)p.44参照。 (31) 同上 p.49参照。 (32) 同上 p.124参照。 (33) 同上 p.125参照。 (34) マル セル著作集8『人 間 の尊厳 』 (春秋社,1973)中 の 「第五講 存在 論 的 秘 義」(p.121-p. 138)
0
(35) 同上 p.133参照。 (36) マル セル著作集8『人間 の尊厳 』(春秋社,1973)中 の 「第八講 兄弟 愛 と 自 由」(p.180-p. 197)。
20 (37) 同上 (38) 同上 (39) 同上 研究紀要 (第4号) p.190参照。 p.196参照。 p.196参照。 (40) 日本倫理学会編 『技術 と倫理』(以文社,1985)p.204参照。 (41) 註2)と同 じ。 (42) カール ・ラーナ- 『キ T)ス ト教 とは何か』(ェソデル レ, 昭56) p.105参照。 清水宏子 「道 徳 教育 と人格の尊厳」 (『人間学紀要 第 14号』 上智大学人間学会, 1984,p.86-p.108) p.89 参照。 (43) 神が 自分 と自分の意志を人間に伝える (啓示)に当って,超 自然的恩恵に よ り,特別にす ぐれた 方法で神は 自分の姿を明らかに示 した。聖書は この形の伝達を 「神のことば」 と呼び,神が人間に 語 りかけ ると言 っている。次註,「- プライ人への手紙」参照。 (44) 『新約聖書』- プライ人への手紙 1の1- 3参照。 (45) 同上 ヨ-ネの第一の手紙 4の8- 9参照。 (46) 『旧約聖書』申命記 6の5,『新約聖書』 マタイに よる福音書 22の36-38参照。 (47) 『新約聖書』 マタイに よる福音書 12の1- 8参照。 (48) 同上 マタイに よる福音書 7の12。 (49) 同上 コ リン ト人への手紙 13の13。 (50) 「形式的 ・絶対主義的倫理-の反抗 とプラグマテ ィックで実存主義的かつ功利主義的な立場か ら, 個別的 ・具体的な状況における個別的 自己の個別的で柔軟な生 き方の優位を主張す る立場
」
Q(金子 武蔵編 『新倫理学事典』に よる。) (51) "キ リス ト者の自由"を指 している。 キ リス トに よって完全かつ決定的に もた らされた 自 由 で, 信仰 と愛を もってキ リス トに帰依す るすべての人が享受 しうるものである。 (52) 『新約聖書』 ヨ-ネに よる福音書 15の12,17,同 13の34参照。 (53) カール ・ラーナ- 『キ リス ト教 とは何か』(エソデル レ,昭56)p.124参照。 (54) マルセル著作集8『人間の尊厳』(春秋社,1973)中の 「第八講 兄弟愛 と自由」p.191参照。 (55) 『新約聖書』 ローマ人-の手紙 8の35-39参照。 (56) 『旧約聖書』詩編 145の8, 9参照。 (57) 回心(metanoia)とは精神の根本的変化を意味 し,人間の弱 きか ら悪におちいった者が神の恩恵の 助けに よって,真心か ら真実に神に立ち帰 ることを意味す る。 (58) カール ・ラーナ-ほ,人間を,"絶対的な超越的存在 (すなわち神)に向か って 超 越することを その本質 とす る存在者"として とらえている。 (59) マルセル著作集8『人間の尊厳』 (春秋社, 1973)中の 「第八講 兄弟愛 と 自由」 p.190参 照 。 (60) 日本倫理学会編 『技術 と倫理』(以文社,1985)p.202参照。 (61) 1965年,当時パ リ大学教授の ロベール ・ガ リックが 「ガブ リェル ・マルセルの普遍性」 と題 して 記 したなかに,次のように言 っている。 「-・全面的に快復 され, 照 らし出された人間における真の 探求は,必ず神 を志 向す るものであることを,われわれに感 じさせるのである。
」(マルセル著作集 8『人間の尊厳』中のp.288よ り。) (62) 日本倫理学会編 『技術 と倫理』(以文社,1985)p.2参照。 (63) 註4),註5)参照。 (64) マルセル著作集8『人間の尊厳』(春秋社,1973)中の 「第五講 存在論的秘義」の一節,p・132 参照。 (65) 清水宏子 「道徳教育 と人格の尊厳」(『人間学紀要 第14号』上智大学人間学会,1984)p.102 -p.103参照。清水 :道徳教育 と人格の尊厳 21 (66) マル セル著作集8 『人間の尊厳』(春秋社,1973)中の 「第九講 危機に瀕する完全性」の一節,