領域「言葉」から「小学校国語科」への展開についての考察
──幼保小接続の観点から──
森 川 拓 也
Some Developments in MEXT’s Course of Study from “Language”
to Elementary School Subject “Japanese Language”
—Focusing on Ties and Relationships with Elementary Schools, Kindergartens, and Nursery Schools—
Takuya M
ORIKAWA 1 問題の所在 小学校学習指導要領、幼稚園教育要領、保育所保育指針、幼保連携型認定こども園教育・保 育要領が改訂され、2018年4月から施行されることになる。 今回の改訂のポイントの一つは、幼児教育の重要性が高まっている背景があり、今まで以上 に「学び」が求められるようになったことである。そのため、幼稚園、保育園、認定こども園、 どれもが重要な幼児教育施設と位置付けられ、3法令(幼稚園教育要領、保育所保育指針、幼 保連携型認定こども園教育・保育要領)とも共通して「幼児教育のあり方」が明確に示された。 また、子どもの発達の連続性をふまえ、幼児教育・学校教育で共通して子どもの資質・能力 の3つの柱(「知識・技能の基礎」「思考力・判断力・表現力等の基礎」「学びに向かう力・人 間性等」)を育成していくよう明確にされたことが、今改訂のもう一つのポイントと言えよう。 表1 幼児期の終わりまでに育ってほしい姿 ①健康な心と体 ②自立心 ③協同性 ④道徳性・規範意識の芽生え ⑤社会生活との関わり ⑥思考力の芽生え ⑦自然との関わり・生命尊重 ⑧数量や図形、標識や文字などへの 関心・感覚 ⑨言葉による伝え合い ⑩豊かな感性と表現 これまで幼児期の姿と小学生の姿はそれぞれ別のものとして捉えられがちであったが、従来 の5領域を「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿(10の姿)」として具体的に示された(表1)。 これらは子どもたちが小学校就学前の姿を想定したものである。 これらに対応するように、新小学校学習指導要領の総則には第2「教育課程の編成」の中で、 4「学校段階等の接続」の項が立ち上げられ、「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿(10の姿)」を踏まえ、幼児教育で育まれた資質・能力を学校教育でさらに発展させていく教育活動を行っ ていくことが求められている。このように、今回の改訂で幼保小接続の重要性が明確に示され たことは、これからの幼児教育、学校教育のあり方を考える上で大きな意味をもつ。逆に言え ば、これまで取り組まれてきた幼保小接続に課題が残っているということであるだろう。 その上で、今回の4法令の改訂を受けて、幼保小接続の課題を明らかにし、どのように展開 されれば子どもたちのよりよい発達を導くことにつながるのかを、特に幼児教育における「言 葉」から教科としての「国語」への接続の面に焦点を絞って考えてみることが本研究の目的で ある。 幼児期の終わりまでに育ってほしい姿(10の姿)のうち ⑥思考力の芽生え ⑧数量や図形、 標識や文字などへの関心・感覚 ⑨言葉による伝え合い ⑩豊かな感性と表現、は特に領域「言 葉」と関係するものであり、これらは全ての学びの土台となる大切な要素であることは言うま でもない。 2 新教育要領・保育指針から見える領域「言葉」の方向 改訂された幼稚園教育要領、保育所保育指針、幼保連携型認定こども園教育・保育要領では、 領域「言葉」のねらいは、共通して以下のように示されている(1)。 言葉 経験したことや考えたことなどを自分なりの言葉で表現し、相手の話す言葉を聞こうと する意欲や態度を育て、言葉に対する感覚や言葉で表現する力を養う。 ねらい ①言葉遊びや言葉で表現する楽しさを感じる。 ②人の言葉や話などを聞き、自分で思ったことを伝えようとする。 ③絵本や物語等に親しむとともに、言葉のやり取りを通じて身近な人と気持ちを通わせる。 ここでの「言葉」は、遊びや生活の中で言葉として獲得し、感じたことや気づいたことなど を言葉として伝え合うことを学ぶ、いわゆる音声言語としての「言葉」である。「自分なりの 言葉」とあるように、体系化された概念としての言葉ではなく、あくまでも経験上得た言葉の ことをいう。 この「言葉」を幼児教育において育みたい資質・能力との関係から考えると、特に「思考力・ 判断力・表現等の基礎」に大きく関わる。「思考力・判断力・表現等の基礎」を具体化すると、 「遊びや生活の中で、気づいたこと、できるようになったことなども使いながら、どう考えたり、 試したり、工夫したり、表現したりするか」と整理されるが、つまり遊びや生活を通して獲得 した言葉を、学びの手段・道具として「使う」ということが求められている。獲得したものを 「使う」というのは自覚的な行為である。
末藤(2010)は、2008年度の改訂の際も「言葉の力」いわゆる「言語能力」を高める考え 方が反映されたと述べる(2)。これは PISA 調査の結果を受けてのものであるが、PISA 型読解 力への施策の転換から、幼保小連携の教育の質の保証という点からも配慮され、言語活動が重 要視されるようになったのである。 久能ら(2016)は、幼保小における「言葉」と「国語」との接続について「幼稚園・保育所 での領域『言葉』(音声言語)は、保育者による子どもの内面にはたらきかける環境づくり中 で行う『遊び・体験』の連続性を通して幼児の伝えたい・知りたいといった『学びの連続性』 に変容する。そして、その『学びの連続性』の中で形成されていくのが『学びの基礎』として の教科『国語』(音声言語+文字言語)での内容である」(3)とまとめている。 「『言葉』が伝えたい・知りたいといった『学びの連続性』に変容する」ということは、「言葉」 を得ることは、学びの興味・意欲を高めるための道具である、ということを言っている。この ことは小学校以降、子どもが興味・関心をもって学習に向かうための重要な点である。しかし、 幼児教育の段階では「言葉」はまだ「学ぶ」ための直接的な道具にはなり得ない、ということ も言えるのである。 しかし、今回の改訂で学び(考える・試す・工夫・表現等)の場面で言葉を意識的に使うと いうことが示されたのは、「学び」の手段・道具として言葉を自覚的に使うことが求められる 小学校国語へのつながりという点で大きな意味がある。言葉の自覚的適用は、今回改訂された 小学校新学習指導要領では明確に示されている。 3 新学習指導要領から見える国語科の方向 これまでの小学校教育で、「言葉」が「学ぶ」ための手段・道具になり得ているのかという とそうとは言えない現状がある。最近来、特に言語活動が重視され、様々な取り組みがされた が、単なる活動に終始する学習が多く、結局学ぶための道具として自覚的に言葉を使うことを 意識した学習はあまり行われていないと言っても過言ではない。 旧学習指導要領と新学習指導要領の国語科の目標の違いは以下の通りである(表2)(4)。 新学習指導要領で⑴⑵⑶と分けられたのは、それぞれを、子どもの資質・能力の3つの柱で ある「知識・技能の基礎」「思考力・判断力・表現力等の基礎」「学びに向かう力・人間性等」 に明確に対応させたからである。これも幼保との接続を意識してのものである。 特に注目すべき点は「言葉による見方・考え方を働かせる」という文言が入れられたことで ある。どの教科においても、見方・考え方を働かせることが明示されたが、国語科ではそれは 「言葉による見方・考え方」とされた。 中央教育審議会「審議のまとめ」では「言葉による見方・考え方」を以下のように説明して いる(5)。 自分の思いや考えを深めるために、対象と言葉、言葉と言葉の関係を、言葉の意味、働き、
表2 新旧学習指導要領 国語の目標 比較 旧学習指導要領 新学習指導要領 国語を適切に表現し正 確に理解する能力を育 成し、伝え合う力を高 めるとともに、思考力 や想像力及び言語感覚 を養い、国語に対する 関心を深め国語を尊重 するようにする。 言葉による見方・考え方を働かせ、言語活動を通して、国 語で正確に理解し適切に表現する資質・能力を次のとおり 育成することを目指す。 ⑴ 日常生活に必要な国語について、その特質を理解し適 切に使うことができる態度を育てる。 ⑵ 日常生活における人との関わりの中で伝え合う力を高 め、思考力や想像力を養う。 ⑶ 言葉がもつよさを認識するとともに、言語感覚を養い、 国語の大切さを自覚し、国語を尊重してその能力の向 上を図る態度を養う。 使い方等に着目して捉え、その関係性を問い直して意味付けることを「言葉による見方・考 え方」とする。 このことを分かりやすく図示すると以下のようになるだろう。(図1) 学習前 対象(教材の内容)― 言葉 言葉 ― 言葉 〈 関係㧭 意味㧭〉 〈 関係㧮 意味㧮〉 関係性を問い直して意味付ける 学習後 対象(教材の内容)― 言葉 言葉 − 言葉 〈関係㧭+ 意味㧭+ 〉 〈 関係㧮+ 意味㧮+〉 → 自分の思いや考えを深める(認識の変化) 図1 つまり「学習前は教材の、ある言葉をもとに内容との関係をAと理解していた。しかし、改 めて言葉の意味、働き、使い方を適用させて問い直すことで、学習後にその関係の理解がA+ と変わる」ということである。このように、自身の認識の変化を目的としての学びをするため に、手段・道具として言葉を認識し、その意味、働き、使い方を適用させることが、新学習指 導要領では求められていると言える。 幼保小接続の視点から見れば、「言葉」に関しては、言葉を学びの手段・道具として使える ようにするという一つの大きな軸があるということが分かる。しかし、それを展開していくに は大きな困難がある。おそらく、これまで幼保小の接続の課題もこの点であろう。それを発達 心理学の観点から考える。
4 ヴィゴツキーの発達理論の観点から 柴田(2006)は、次のように述べる(6)。 子どもは、就学前からすでに母語の実践的文法を習得していますが、それを自覚してい ません。たとえば、「絵をかく」「絵をかこう」「絵をかいた」「絵をかいたら」「絵をかけば」 のような語形変化を日常会話の中では正しく使い分けることができます。 しかし、その言語操作は非自覚的なものであり、生活の具体的状況のなかでいわば自動 的に使い分けているのです。そのような状況を離れて、たとえば「かく」という動詞を特 別に取り出して、語形変化をさせようとすると、子どもは困ってしまいます。 子どもは、学校で読み書き、文法を学習するなかで、はじめて自分自身のこのような言 語能力を自覚し、それをしだいに随意に操作できるようになるのです。 この柴田の論は、ヴィゴツキーの「言葉の自覚性と随意性の発達理論」に拠るものである。 日常の具体的状況の中で自動的に使いわける言語操作とは、日常生活の中で獲得してきた言 葉についての特徴であり、その言葉をヴィゴツキー(2001)は「生活的概念」と呼ぶ。逆に学 校教育のなかで教えられ、自覚的・随意的に適用することのできる言葉を「科学的概念」と呼 ぶ(7)。 生活的概念の特徴は、その対象について知っていて、それを指し示すことはできても、その 概念そのものを、あるいはその対象を思い浮かべるときの自分の思考活動を自覚できないとい うことである。分かりやすく例えると、「鉛筆って何?」と尋ねられたら、「これ!」と鉛筆を 指し示すことはできるが、「筆記用具の一つで、細長い木の軸に粘土を混ぜた黒鉛の芯を入れ たもの」と答えられることはなかなかできない。 生活的概念は日常の生活のなかで無自覚的に獲得するため、言葉は知っているが、その意味、 働き、使い方は自覚されていない。ヴィゴツキーはその生活的概念を科学的概念に変え、言葉 の意味を自覚的・随意的に操作できる概念的思考を発達させることが、学校教育における教授 の主要な目的であると述べている(8)。 柴田は、ヴィゴツキーがまとめた子どもの言葉の発達過程の図を紹介している(図2)(9)。 前述した、言葉を学びの手段・道具として使えるようにするための大きな困難とは、幼児期・ 就学前期から学童期への言葉の発達である。生活的概念を科学的概念として発達させること、 つまり話し言葉から書き言葉への発達が難しいのである。特に国語科においてはそれが顕著で ある。 その原因は、言葉は自然に獲得し身についていくものであるという考えがあることだ。確か に多くの言葉は生活上の経験から身につけていく。そして特に学校で学ばなくても、日常生活 の会話や国語で読んで内容を理解するのに不自由なことはないのである。確かに日常生活の会 話の場面でいちいち辞書を引き言葉の意味を調べることはしない。このように不自由なく言葉
自律的 ことば −−−−−−−〈乳児期〉−−−−−−− 情動的交わり 話しことば −−−−−−−−〈幼児期〉−−−−−− 事物の性質の習得 自己中心的ことば −−−−−−〈就学前期〉−−−−−−− ごっこ遊び 書き ことば−−−−−−−−〈学童期〉−−−−−−−− 知識の習得 外国語の学習−−−−−−−−〈思春期〉−−−−−−−−自分さがし 図2 を使えているのだから、もう意味も分かっているという思い込みである。それは子どもでも大 人になっても変わらない。だからあえて学校で改めてその言葉の意味を教えなければならない という必然性を感じられないのである。これは、言葉が発達していくという認識がないという ことなのである。 しかし、算数や理科、社会科など国語以外の教科においては、言葉の定義を教えて、その定 義を適用させて学習する例は多く見られる。数学や理科、社会科で学ぶ言葉は、定義として、 意味、使い方を教える。それは正しく科学的概念である。 算数でその例を挙げてみる。 まず、子どもは「円」という言葉を知る。そして「円」とは、「中心から等しい距離にあ る点の軌跡」という定義を習う。その後、例えば以下のような問題を考える。 ・ 右の図形は円ですか。 ここで、子どもは円の定義を使って解決する ・ 右の図は、中心から等しい距離にある点の軌跡ではない。 だから、右図は円ではない。 これは「数学的な見方・考え方」を働かせた学習の一例である。
このような、言葉の意味(概念)をあてはめて問題を解決に導く授業例は国語科ではほとん ど見られない。「どんな感じがしますか」「このときの登場人物の気持ちを想像しましょう」と いう問いが相変わらず多いのである。 しかし小学校学習指導要領国語科の目標を鑑みると、「言葉による見方・考え方」を働かせ るには、今後、言葉の意味・働き・使い方を適用させる学習が必要となってくる。 5 話し言葉から書き言葉への発達 言葉の意味・働き・使い方を適用させることの典型的な学習は書くことである。つまり生活 的概念の典型が話し言葉であり、科学的概念の典型が書き言葉といえる。しかし、前述したよ うに話し言葉から書き言葉への発達は困難さを伴う。 ヴィゴツキー(2003)は次のように述べる(10)。 書きことばにおいては、子どもは表現の過程を最高度に自覚していなくてはならない。 子どもは話しことばをそのような十分な自覚なしに習得する。幼児は話してはいるが、自 分がそれをどのようにしているかを知らない。書きことばの場合は、考えをことばで表現 する過程そのものを子どもは自覚していなければならない。 また、次のようにも述べる(11)。 状況を対話者にもわかるようにするためにくわしく再生しなければならない書きことば は、詳細に展開される。そのため、話しことばでは省略されるようなことさえ、書きこと ばでは言及されなければならない。書きことばは、他人に最大限に理解されることを目指 したことばである。そこでは徹底的に証拠立てるものがなければならない。 つまり、書き言葉は、直接的な対話者ではない相手さえも理解されなければならないのであ るから、話し言葉よりも社会的な言葉といえる。就学前期の「自己中心的なことば」との違い は明らかである。 前章で紹介した柴田の論でもあったように、子どもは就学前に多くの言葉を無意識的に使え るようになり、動詞の形態変化も格助詞の使い分けも自然に習得し、生活の中で正しく使うこ とができるようになっている。 しかし書き言葉は、言葉を自覚し意識的に使えることが求められる。 例えば、「お腹が痛くても幼稚園を休まなかった」と会話している幼児に、筆者はつぎのよ うなことを試した。 「お腹が痛くても幼稚園を休まなかった」と同じ意味で、文型を下図のように変えて示し、
に言葉を入れてもらった。 お腹が痛くても幼稚園を休まなかった お腹が痛かった。 学校を休まなかった 結果は、 に逆接の接続語である「しかし」や「でも」等は入れることができなかっ た。これは多くの幼児で困難なことと想像するのは容易であろう。 「でも」という言葉も日常的に使っているはずである。でもあてはめることができないのは、 「ても」や「でも」などの意味や使い方を自覚していないからである。 その課題を克服させるのが学校での学習である。しかし現実には作文指導などで「話すよう に書けばよい」という指導が多く、それが可能ならば小学生の書く文章は著しく内容も書き方 も高水準なはずであるが、実際にはそうではないのは明白である。 このように言葉の自覚性・随意性の発達を求めないところは、やはり「言葉は自然に獲得し 身についていくものである」という考えに拠るものであろうし、ここに小学校での言葉の学習 の課題、強いては幼保小の「言葉」から「国語」への課題があると言える。 6 幼保小の「言葉」から小学校「国語」への接続の課題 これまでの国語教育で、なぜ言葉の自覚性・随意性の発達を意識した学習が積極的に行われ てこなかったのだろうか。 それについて菅井(2015)は興味深い指摘をしている。菅井は国語教育と他の領域との関連 を下図のように示し(図3)、以下のように述べる(12)。 教育学 国語学 国文学 国語教育学 コミュニケーション学 心理学 歴史学 図3
国語教育は、上位領域にあたる教育学のほか、その内容にも関わる国語学・国文学と積 極的に関連するはずです。また、近年、国語科教育でもコミュニケーション能力が課題と されるようになっているという点ではコミュニケーション学も隣接するでしょうし、教育 方法に心理学(とりわけ、教育心理学、発達心理学、認知心理学など)との関連が深いこ とも間違いありません。(中略)ところが、国語教育は、どういうわけか隣接する関連領 域との学術交流を嫌う向きがあるようです。国語教育のベテラン研究者でさえ「なぜ国語 教育が言語学の知見をとりいれなければならないのか」と激高される方もいましたし、若 手の中にも、言語研究の立場からの助言に対して「国語教育の中で研究していますから、 ほかの領域の人は意見しないでほしい」と反発した院生もいました。 基礎研究(言語研究)と応用研究(言語研究)の連携という点で言えば、日本語学と日 本語教育の間、英語学と英語教育の間には、連携というものが比較的進んでいるように見 受けられます。(中略)ところが、日本語学(国語学)と国語教育との間の連携は、日本 語教育や英語教育ほど盛んではなく、むしろ、ほとんどないといった状態に近いように見 えます。歴史的に見れば、国語教育の黎明期において、国語学や国文学の研究者で学校教 育に関心を持った人たち(例えば、橋本新吉、西尾実、時枝誠記、阪倉篤義のような国語 学者や国文学者)が国語教育という分野を創出し牽引したという経緯があったものの、国 語教育が確固たる独自の地位を築いた今、国語教育は日本語学(国語学)から完全に独立 しているのが実態です。 この指摘にあるように、国語教育において言葉の力、いわゆる言語能力を高めるには、他の 領域から学ぶことは多いはずであるが、実際のところそのことが活発に行われているとは言え ない。つまり図3のようではなく、図4のような現状であり、国語教育がどの他領域とも交わっ ていないのである。 学習指導要領の実質的な活用方法は学校現場の教員に任されていると言える。だからこそ、 現場の教員は、言語学や発達心理学などから言葉の獲得・発達に関する知見を得て、具体的指 導方法を確立していく必要がある。 つまり、前章でも述べた「言葉は自然に獲得し身についていくものであるという考え」も「話 すように書けばよい」という作文指導も、言語学・心理学等の他領域の学びから考えようとし ない教師の姿勢から生まれてくるのであろう。 しかしこの点で、幼児教育では、子どもの心理発達の理解が不可欠であるという意識が強く、 心理・発達面から幼児教育を研究・実践が行われている現場も多い。第4章でヴィゴツキーの 発達理論について述べたが、ヴィゴツキーの発達理論を生かそうとしている現場もある(13)。 これらの意識の違いが、幼保小の「言葉」から「国語」への接続課題を生んでいる要因の一 つであるのではないかと考える。
教育学 国語学 国文学 国語教育学 コミュニケーション学 心理学 歴史学 図4 7 幼児教育における領域「言葉」の展開の可能性 「小学校低学年の学力差の大きな背景に語彙数の量と質の違いがある」(14)という指摘があり、 言葉を豊かにすることが課題となっている現状で、小学校との接続を見据えた場合、以前より も増して、幼児教育においては、言葉の獲得が必要とされるだろう。さらに重要なのは、その 獲得した言葉を使わせることである。 遊びや生活の中で、自分の思いを出したり、伝え合ったりすることは、これまでも大事にさ れてきているのは言うまでもない。 しかし、言葉の自覚的・随意性を発達させ、小学校の「国語」につなげていくためには、「書 き言葉」につながる遊びや生活がより求められるようになってくるのではないだろうか。 ヴィゴツキー(2005)は、書き言葉の前史として、書き言葉とは無関係そうに思える身振り、 描画、なぐり書きなどの子どもの行動を挙げ、次のように述べる(15)。 子どもの描画は、その心理学的機能からすれば、独特の図解的ことばであり、何かにつ けての図解的談話である。(中略)最初の子どもの描画を特徴づける図式は、その意味で 私たちに、対象の本質的・不変的特徴だけを伝える概念を思い出させる。しかし、この段 階のことばの特色は、それが書きことばとは違ってまだ第一段階の象徴的表現であるとい うことだ。 これはとても興味深いことであり、多くの示唆を与えてくれる。 子どもの描画は、単なる絵でなく、子どもの心の中の言葉が絵として表れたもの(図解的談 話)としてとらえられる、ということである。このことが書き言葉へつながっていくのである が、それはどういうことか具体的に考えてみたい。
子どもに「犬って何?」と訊くと「これ」「あれ」と犬を指し示すことができるが、言葉で 説明することができない。しかし、子どもは子どもなりに犬を描画することはできる。それは 子どもは描画することで心のなかにある象徴的なものを説明しているのである。 ここで大切なことは例えば次のようなことではないのだろうか。ある家庭での5歳の子ども (男児)が犬を描画した後の父親との会話である。 父「犬には何がついてるの?」 子「ひげがある。足があるよ。しっぽも毛も、それと……」 父「しっぽはどこについてるの?」 子「おしり」 父「じゃ、毛はどこについてるの?」 子「全部!」 父「全部って?」 子「顔も、足も、背中も全部毛がある」 父「ひげはどこ?」 子「お口の上」 父親の問いかけは、子どものなかにある犬というもの象徴的なものをより具体化させていく 効果をもたらしている。このような会話を通して、子どもは「犬」という対象を概念的にとら え始めることができるのではないのだろうか。犬というのは全身に毛があり、しっぽがあるも ので、口の上には……というように、「犬」という言葉を自覚できていく可能性がある。 さらに猫の描画をした後の会話である。 父「猫のしっぽとどこがちがうの?」 子「犬のほうが太い。ねこのほうが細い。長い」 父「口はどうちがう?」 子「犬はね長いの。ねこはあんまり長くないの」 さらに、このようなやり取りを通して、子どもは犬と猫の差異を概念化させていくことがで きるのではないのだろうか。ヴィゴツキーが描画や身振り、なぐり書きが書き言葉の前史であ るというのは、このような効果が期待できる可能性を言うのではないのだろうか。 しかしながらこのような会話が1回あっただけで、概念化され、「犬」や「猫」という言葉 を体系的なものとして獲得できるはずはない。こういう働きかけを日常の遊びや生活の中で繰 り返し行うことで、それは可能となっていくと考える。 当然これまでも取り組まれてきていることではあるが、大切なことは、子どもにただ描かせ て終わるのではなく、描いたものを使ってお話を作らせたり、説明をさせたりすることだろう。
これには保育者や大人の働きかけが必要である。子どもが自分の中にある無自覚な言葉を体系 的なものに変えていくきっかけを与えるのが、保育者や大人の仕事なのだと言えるのではない だろうか。 8 小学校「国語」の展開の可能性 では、幼児教育からの接続の観点から、小学校ではどのような指導が言葉の発達を可能にす るだろうか。 柴田は書き言葉の学習の難しさについて次のように述べる(16)。 子どもには書きことば習得に対する欲求、あるいは動機というものが、話しことばの場 合と比べるとまったく乏しいということに注目しなければなりません。(中略)話しこと ばは、生活の具体的状況と不可分に結びついており、状況から自然に流れ出る活動といえ るでしょう。ところが書きことばの場合は、そのような状況を自分でつくり出し、頭のな かに描き出さなければなりません。その必然性、つまり動機が子どもにはほとんどないの です。 このことは言葉の学習としての国語科のあり方の難しさを明確に指摘していると言える。学 生の頃、国語の文法の授業に興味を持てなかった人は多いのではないだろうか。この主な原因 は文法を学ぶ必然性を感じなかったことであろうし、正しく柴田の指摘の通りであろう。 さらに柴田は次のようにも述べている(17)。 書きことばに対する動機は、自然発生的には発生するものではありません。それは。社 会的・文化的環境のなかで、教師の指導を媒介として発生するものです。ただし、教師の 指導技術としては、この非自然発生的な書きことばが、子どものなかであたかも自発的な 要求として発生し、発達するように導くことに腕の見せどころがあるといえるでしょう。 ここでは、教師の役割の重要性が述べられているが、前章に紹介した幼児と親子の会話でも、 父親からの働きかけがなければ子どもは犬を説明することに興味を示すことはなかったはずで あろうし、その意味では父親の働きかけは教師の指導と同様であると言える。 次に柴田が指摘する教師の指導を具体的に考えてみる。 子どもに「書き言葉」を獲得する動機がないのは、言葉を使えば分からなかったことが分か る、謎が解けるといった経験がないからだと考える。言葉を使うことが「楽しかった」「役立っ た」という思いを感じさせることができれば、言葉を獲得する動機につながるかもしれない。 また、教師のなかにも、国語は言葉の学習というよりも情緒や感性を育てる教科であるとい
う意識が強く、子どもに体系的な言葉の獲得を求めないことも一つの原因であろう。それに小 学校1年生や2年生で体系的な言葉の獲得は無理であるという意識もある。 ある1年生(11月)の国語の授業記録の一部を紹介する(18)。 「くじらぐも」という教材(19)で、読み取りの授業である。この授業では以下の部分で、「なぜ、 子どもたちは『あのくじらはきっと学校がすきなんだね』と言ったのか」という課題の解決に 向かう場面である。 四じかんめのことです。 一ねん二くみの子どもたちがたいそうをしていると、空に、大きなくじらが、あらわれました。まっ しろいくものくじらです。 「一、二、三、四。」 くじらも、たいそうをはじめました。のびたり、ちぢんだりして、しんこきゅうもしました。 みんなが、かけあしで、うんどうじょうをまわると、くものくじらも、空をまわりました。 せんせいがふえをふいて、とまれのあいずをすると、くじらもとまりました。 「まわれ、右。」 せんせいがごうれいをかけると、くじらもまわれ右をしました。 「あのくじらは、きっとがっこうがすきなんだね。」 〈記録 一部抜粋〉 T1 じゃあ「ぜったいに、くじらぐもは、 学校が好きや。」って、子どもたちがい うのは、なんで、おかしいの? C1 だってな。ぜったいに学校が好きって、 くじらぐもは思っとるって、子どもたち が言うってことは、そう思う何かがない とあかんやろ。言い切れるのは、何でか なって思うんさな。 C2 ええ、だけど、くじらぐも、まねしと るやん。 C3 でもさあ、まねしとるだけでは、学校 が好きって言っとるんとちがうで、ぜっ たいに好きって言えへんのとちがう? T2 も し、 く じ ら ぐ も が、「 学 校 が 好 き だ。」って言ってくれたら、みんなは、「く じ ら ぐ も は、 ぜ っ た い に 学 校 が 好 き だ。」って言える? C4 言える。そりゃ、言える。 T3 じゃあ、もし、くじらぐもが、「学校 が好きだって言ってくれなかったら、み んなは、「くじらぐもは、ぜったいに学 校が好きだ。」って言える? C5 言えやん。 T4 そやなあ、くじらぐもは、「学校が好 きだ。」って言ってくれた? C6 言ってない。 C7 わかった、くじらぐもは、「学校がす きだ。」とは言ってないけど、ぜったい に好きって言えるなんかがあったで、子 どもたちは、「きっと学校が好きなんだ ね。」って言ったっていうんや。 (中略) T5 先生が笛を吹いて止まれの合図をする と、くじらぐもと子どもたちは、どうし ましたか。 C8 くじらぐもも子どもたちも止まりまし た。 C9 子どもたちが止まってから、少し後に、
くじらぐもが止まったんやよ。 C10 ええっ、ちがうよ。「∼と」の後やか ら合図の後すぐに、子どもたちもくじら ぐも一緒に止まったんやよ。 C11 同時に、ぴたって止まったっていうこ とやよなあ。 C12 えっ、そしたら、くじらぐもは、止ま れの合図、知っとったていうこと? C13 えっ、なんで? C14 あっ、わかった。くじらぐも、前にも、 学校にきとったんとちがう? C15 ええ、でもさあ、くじらぐも、たまた ま学校にきたんやろ。 T6 あれ、くじらぐもは、たまたま学校に きたんやった? (中略) T7 それじゃあ、「まわれ右。」先生が号令 をかけるとくじらぐもと子どもたちは、 どうしましたか。 C16 くじらぐもも子どもたちもまわれ右を しました。 C17 ええ、そうなん。 T8 じゃあ、立ちましょう。先生がまわれ 右って、号令をかけるので、みんなで、 まわれ右をやってみるよ。 (中略) C18 何回も練習しやんと、みんなが、ぴたっ と、あわへんのやなあ。 C19 右へぐるんってまわるんかと思っとっ た。 C20 くじらぐもさあ、一年二組の子どもた ちと、一緒にぴたっと出来たってことは、 まわれ右を知っとったってことかあ。 C21 そうやなあ。それに、練習せんと、一 緒に、ぱっとできやんよ。くじらぐもも 練習しとったんかなあ。 C22 わかったあ。くじらぐも、何回も学校 へ来て、みんなが、運動場で体育の時、 まわれ右をしとるんを見て、練習しとっ たんや。 C23 そう、そう。前に来てな、みんなとさっ とできるようにな、運動場でな、やっと る様子を見てな、聞いてな、こうするん やって何回も来て練習していたんやと思 う。 C24 あっ、何回も、学校へ来て、練習して いるのに気がついたで、ぜったいくじら ぐもは、学校が好きってわかったんとち がう。 (以下 略) この記録で注目すべき点は3つある。 まず1つは、T1、T2、T3の教師の働きかけである。教材の内容についての子どもたちの疑 問をどんどん膨らまし、C7で「絶対に好きといえる何かがあった」と発言するまで、考える 動機をつくっていることだ。ただ発問をするだけでなく、子どもが「考えたい」という気持ち になるまでその問題点を明確にしていく教師の指導は、子どもの自発的要求を生み出している 一つの例といえるのではないだろうか。 注目すべき2つめは、その子どもの自発的要求があるからこそ実現している場面である。そ れは、C10(ええっ、ちがうよ。「∼と」の後やから合図の後すぐに、子どもたちもくじらぐ も一緒に止まったんやよ)と C11(同時に、ぴたって止まったっていうことやよなあ)の発言 である。これはこの授業の前に、教師が「と」の言葉の意味(=前件、後件がほとんど同時・
継起的に行われることをあらわす)(20)を、子どもと例文などで「と」の働きを学習しておいた ことが、この発言を引き出したのである。日常会話のなかで、子どもは「と」の意味を意識す ることなどなく使っているはずである。しかしこの場で「と」の意味を自覚的に使えたことは、 書き言葉への発達の可能性を大いに示唆している。 この授業の場合、「読む」という学習のなかで、言葉の意味を適用させたことになるが、こ れは書き言葉への一つのステップとして有効ではないのだろうか。つまり、言葉の意味を適用 することによって、問題の解決に向かうわけである。そのことが言葉を獲得することの動機づ けにつながる可能性があると考えられる。 また、この子どもが次の学習でも「と」の意味を自覚的に適用させられるかどうかはまだ分 からないし、また他の子どもが言葉の意味をどれだけ適用できるかも分からないが、言葉の自 覚性・随意性の発達を考える上で、1年生の11月という時期の事実としてはとても興味深い ことである。1年生はもう体系的な概念を獲得できる時期であることがはっきりすれば、学習 内容も学習方法も変わってくるはずである。 また、柴田は、ヴィゴツキー理論に関する多くの研究は「『学びの社会的構成』や『問題解 決思考』『社会構成主義』の協同学習などを取り上げ、『体系的な科学的概念の学習』理論は避 ける傾向がある」(21)と指摘している。学校教育の主目的であるはずの科学的概念を発達させる 授業方法は今日の学校現場ではほとんど無いと言えるが、この授業は、体系的な科学的概念の 学習の可能性を示していると言える。 もう一つの着目する点は、子どもたちの発言そのものである。例えば C3、C10のような友 だちの発言への反論がでることや C8から C14に至るまで、教師を介さず子ども間で議論を進 めているところである。 幼稚園・保育園での遊びや生活の中では、おそらくこのようなことは日常的なことであろう。 いちいち保育者が子どもを指名して発言させることなどはしない。これは正しく幼稚園教育要 領、保育所保育指針の「言葉」のねらいである「経験したことや考えたことなどを自分なりの 言葉で表現し、相手の話す言葉を聞こうとする」「自分で思ったことを伝えようとする」「言葉 のやり取りを通じて身近な人と気持ちを通わせる」ことが具現化された成果であると言っても よい。 前記の1年生の学級では、幼保での成果がそのまま小学校に引き継がれていると言える。こ れも「言葉」の領域の小学校への一つの接続であるのではないだろうか。 しかし、このような事実は珍しいことである。 実際、小学校では、休み時間には自由に伸び伸び話している子どもが、授業になると口を閉 ざしてしまうようになることが多い。この傾向は低学年よりも高学年のほうが強くなるが、こ れは小学校での学習スタイルが主な原因であると考えられる。 つまり学校では、学習規律を確立させるという名目のもと、発言の形式が決められ、自由に 自分の思いや考えを出す場面が少ない。さらに、正誤ばかりを気にしがちで、間違えることを 避ける気持ちが強くなり、気楽に発言ができなくなることも大きな原因の一つである。
このように考えると、学校における学習規律の意義と目的、効果等をもう一度検討するべき ではないかとも思う。新学習指導要領では「主体的・対話的な学び」が求められる。子どもの 対話を大事にするなら、「言葉」の領域の小学校への接続の一つとして、やはり幼保で培われ た子どもどうしの言葉のやり取りも接続させるような工夫が必要なのではないのだろうか。 9 まとめと課題 幼保小の接続に関して、保育者・教師が意見交換などを通して幼児・児童の実態や指導のあ り方について相互理解を深めたり、交流したりすることの重要性は、以前から言われてきた。 今回の改訂では、「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」を具体的に示し、保育者と教師が それを共有することで、効果的なカリキュラム作成など、スムーズな接続を試みようとしてい る。 しかしそれだけで十分なのであろうか。 本研究では、幼保における「言葉」から小学校「国語」への展開を、ヴィゴツキーの発達理 論を使って考えてきたが、言葉の発達という視点に立ち一つの提案をしたいと思う。 やはり、保育者・教師とも言葉の発達の過程を学び、また言語学の側面にも学ぶことが、幼 保小接続をより効果的なものとするために不可欠であると考える。 その意味で、幼稚園・保育園・こども園では、①遊び・生活のなかで、言葉を豊かにし、そ の言葉を積極的に使う機会をつくること②子どもの描画などの遊びに、保育者が働きかけ、子 どもの言葉を引き出すことを、これまで以上に意識的に取り組むことが重要であると考える。 また小学校での国語の展開としては、①書き言葉への発達を目標に、言葉の自覚性・随意性 を高める授業を工夫する ②内容を読み解く学習過程で、非自覚的な話し言葉ではなく、言葉 の意味を自覚的に適用させて問題を解決に導く指導法は、子どもの書き言葉への自発的要求を 高める可能性がある ③幼保の遊び・生活のなかで培ってきた対話の力を、小学校でも生かす 方法を考える、ということを提案したい。 しかし、これらを展開していく具体的方法は、今後、構築し、実証していかなければならな い。 さらに、ヴィゴツキーの身振り、描画、なぐり書きなどが書き言葉の前史であるという論は とても興味深いものであるが、私はその実証的研究を見つけることができなかった。この論の 実証も今後の大きな課題である。 註 ヴィゴツキーの著書の中で、訳者は「ことば」「言葉」「言語」を使い分けているが、これは英訳 の「speech」「word」「language」からきている。本稿では引用はそのまま使い分けて記載したが、 それ以外は「言葉」で統一した。
参考・引用文献 ⑴ 文部科学省・厚生労働省・内閣府(2017) 『平成29年度告示 幼稚園教育要領 保育所保育 指針 幼保連携型認定こども園教育・保育要領〈原本〉』チャイルド本社 ⑵ 末藤美津子(2010) 「言葉」に着目した「幼保小連携」に関する研究の意義─教育政策の動向 から─ 東京未来大学研究紀要第3号 pp. 45‒55 ⑶ 久野和夫 他(2016) 幼保小連携における「領域言葉」と「教科国語」の接続についての研究 仙台大学紀要 第47号 No. 2 pp. 77‒82 ⑷ 日本教材システム(2017) 『平成27年 × 平成29年 小学校学習指導要領新旧比較対照表』 日本教材システム ⑸ 『次期学習指導要領等に向けたこれまでの審議のまとめ(案)のポイント』(平成28年教育課 程企画特別部会資料) ⑹ 柴田義松(2006)『ヴィゴツキー入門』子どもの未来社 p. 107 ⑺ ヴィゴツキー 柴田義松訳(2001)『思考と言語』新読書社 pp. 317‒318 ⑻ 前掲⑺ pp. 225‒250 ⑼ 前掲⑹ p. 67 ⑽ ヴィゴツキー 土井捷三 他 訳(2003)『「発達の最近接領域」の理論』三岳出版 pp. 202‒ 203 ⑾ 前掲⑺ pp. 289‒290 ⑿ 菅井三実(2015)『人はことばをどう学ぶか──国語教師のための言語科学入門』くろしお出版 pp. 123 ⒀ 明神もと子(2004)ヴィゴツキーの幼児教育に対する貢献について 北海道教育大学釧路校研 究紀要 第36号 pp. 77‒83 ⒁ 文部科学省教育課程課/幼児教育課(2017)『初等教育資料』東洋館出版 p. 20 ⒂ ヴィゴツキー 柴田義松訳(2005)『文化的─歴史的 精神発達の理論』新読書社 pp. 238‒ 239 ⒃ 前掲⑹ pp. 76‒77 ⒄ 前掲⑹ p. 110 ⒅ 一茎書房(2014)『事実と創造』No. 394 一茎書房 ⒆ 光村図書(2015)『小学校国語 学習指導書 一下 ともだち』光村図書 ⒇ 三省堂『新明解国語辞典 第7版』 「と」の項より p. 1053 前掲⑹ pp. 123‒124 (受理日 2018年1月10日)