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明治前期(1872~1903年)における歴史教育方法の研究

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(1)明治前期(1872-1903年)における 歴史教育方法の研究 吉 A. Study. Method. of the. First. Half. 郎. 太. 田. Education. of History. Meiji Period. (1872-1903). of the Taro. in the. YosEIDA*. SUn4n(ART Tbe of. history. magazines・. during of. history To. yet. present. theむst. been. on. Their. and they. Second. Th,ira. in. by. in academic. of the. survey. Period,. changes,. the. of. the. method. textbooks・ the. of. the. teacher. history. of. study. to. essential. this. of. has. history. education. education. as. well. ln. the. as. by. study. years. students. this. period. efforts. were. made. royal. family. and. of the. the. period,. impotant. on. got. thorough. the. this. of. the. of. memorization. group. latter. of method Confucian. by. employed and. dictations. giving. the. period,. had. students. such. in Japan. education. reading. minute. no. periods:. years early history of of. study. the. way if. different. of. been. methodology the method. that. the. that. of. history. the. know. have. to. seems. that. three. consisted. the. The. aim. students. evoking. love. it. points of. understanding. what. to. and. this, into. histわry be. *社会科教育教室(°ept.. all. history. these. tatlght of. history. Social. a. be quite hour. class. interest. and. was. of. The. the. students・ (2) Propo(1) Preparation,. into:. for. norm. certain. knowledge. in imparting. mechanical. needs. teaching. three as. education. that there was 丘rst this period stages of class teaching, of the three Rein (1847-1929)I (1776-1841) and Wilhelm. the. the. give. cultivate. country・. theory. to. to. divide to. to. puring. the. tended. attention. possible. was. Japan. the. of. lierbart. had. little. materials. should. It. in. teaching. Application, After. the. Friedrich. Johann. made. of. During. 1887-1904.. glVlng. class.. 1881-1887.. education. history. (3). and. dividing. the. to. self・motivated. see. for. Period,. students,. method the. in to. history. to. expounded prior to that,. sition,. of. Period,. as. new. solely. necessary. introduced. the. a. Meiji. development. the. on. findings. taught.. sentiments. to. In. traditionally. improved. were. The. the. to. questions. asking The. of. of. have. we. understanding. was. wbicb. 1872-1881.. help. the. further. method. is. and. means. knowledge. the. following. method. with. textbooks, the. of. the. there. writer,. theme,. without However,. was. education. present. present. conducted. scholars.. the. of the. at all times. education different was according Period, The First. for. series. new. sucb血dings,. tbe丘rstbalf. or. work. a. education.. theknowledge. history. of. research. a. published. is part. years,. in. engaged has. and. article. thirty-two. published. long. been. in Japan,. education The. long. has. writer. present. inviting on. conducted. students'interest the. new. prlnCiple,. stages・ required so. Studies). that. by they. the. Ministry. learn. not. of only. Education. about. the. was. history. that of.

(2) 124. 吉. Japan,. but. For. this. of. great皿en. effective. be. bad. Who way. importance future. how about history. also. purpose,. of. and. cause. in. the. Child. the. war. and. to. necessary. for. soul,. to. the. mind The to. the. the family This. fundamental. result. prize. to. praiseworthy. the. the. the. country. anecdotes country,. was. method. all. Emperor.. the. and. and. attitude. that. was. service. country the. cite. royal. sentiments・. of. of. as. mentality. Japanese. as. were. their. as. the. ready. to. very五rst. 次. 序 研究の目的 Ⅰ歴史教育方法の時代区分 1・独見,解説,輪講 2・口授,問答. の変遷 2・歴史科授業にみられる教育方 法の変化 (1)開発主義教授による歴史教 育の方法. 3.要. (2). 儒学教授方式の継承. Ⅱ. the. paramount. peace.. 目. Ⅲ. 郎. encouraged lives. their. loyaりapanese・ in. valiant丘ghters. ln. and. were. the. cultivating. 太. body. serve,. teachers. sacri丘ed. in culturing faithful. to. 田. 約. 教授段階法式の輸入と普及 1・小学校教則による歴史科要旨. 序. -ルバルト主義教授による. 歴史教育の方法 3.要. 約. 研究の目的. 筆者ほ,多年日本歴史教育史の研究に関心をもち,その拙い小論の若干は学術誌に発表 してきた。本年の5月に同志とともに近代日本の歴史教育の変遷を, 法論史+. 「歴史教育内容・方. (明治5年-昭和37年までの約94年間の義務教育校を中心として)の書名で公刊した。. この書の構成ほ,歴史教育関係の法規,教科書,教授法(指導法)の三部門から成って いる。この中法規類と教科書の部門ほ,正確な資料が豊富に残存しているので研究の成果 ほ不十分ながら自信がもてたのである。. 最後の領域である教授法の研究の資料は,実際に幾年もの間また延べ何千万人の教師が 授業を行なった授業案(教案)とか授業記録であると思う。この教案も明治37年の国定 教科書時代以後(明治37年)からほ残存しているが,この小論の時期ほ,今から95年63年の昔のことであるので,研究の有力な資料をほとんど見ることが出来ないのである。 この研究のために致命的な資料の欠如を敢て冒してまでもこの研究に着目したのほつぎ のごとき諸点を究明しなかったからである。. 1・如何程立沢な歴史教育の諸法規や教科書が用意されていても,現場で活躍する教師 がどのような授業を展開しているか。これを研究しないと折角の歴史教育の目標がどこま で達成したか知るよしもないのではないか。 2・最も教案が欠如している明治前期の明治5-36年までの約30年の間ほ,どのよう に歴史教育の方法が行なわれたか。また他教科にはみられない独白の歴史教育ほ,なかっ たのかあったのかを探究することであった。 3・江戸時代に隆昌を極めた儒者の教授方式がどのような形で何時まで残存したか。. 4・わが国の教育は,先進国の教育理論とか実践を積極的に輸入し,取捨選択して今日 の教育を隆昌に来したのである。その小さな一環として外来の歴史教育方法をどのように.

(3) 125. 明治前期(1872-1903年)における歴史教育方法の研究 現場の日々の授業で利用されたか否かを追究することであった。 この4視点を解明するために編年的に研究を進めたのがこの小論の目的である。. Ⅰ.歴史教育方法の時代区分 歴史教育方法ほ,他の教科にみられない独自の方法があると思われないが,つぎのごと. き諸条件がからみあって教育方法の変化を促していると思う。 (1)儒学の教授法式を継承した方法 (凡そ1872-1881. (明5-14)年ごろまで約10年間). (2)外来の教授段階説による方法 (凡そ1872-1907. (明14-40)年ごろまで約35年間). 以上の2区分の背景の中特に(2)の時代になると教育法規が着々と整備されるとともに, 教育国策の意をうけて改正され,これに伴って教科書の叙述内容にまで及んできた。 直掛こは教則の改正によって歴史教育の内容が変ると,教科書も書き換えられることに なる。この教育内容の変化に応じて外来の教授方式のあてほめ方なり力点が変ってきた。 明治前期の歴史教育の方法で不変の基調ほつぎのごとくである。 (1)授業において教師が中心になり教科書に忠実に依存して,教科書の教材を生徒に 注入することであった。そして文章を暗諭するとか要点を記憶することの多少によって歴 史科学習の評価をした。生徒は教師の説明とか,教科書を唯一の当時の歴史事象として学 び何の疑いも持たなかった。. (2)生徒を学習に参加させることにほ消極的であったが,問答とか討議の方法がとり 入れられた。教師と教科書の権威が高かったので,常に生徒ほ受身であり,生徒の印象に 残ったのは,教師の巧みな説話によった歴史上の人物と事件であった。. (3)始めほ教室も稀であり,参考書も乏しくとも全国一様な教授方法であって,教師 の発案による独自の方法ほ殆んど案出し得なかった。この背景にほ教則・教科書に文部省 の統制力が強まったことと,当時に流行した教授方式の真似ることに終った教師の無気力 に原因する。. 歴史教育方法の推移を知るためには,教育関係の諸法規とか歴史教科書の変遷が関連し て重大な影響を与えるのでつぎのごとき略年表を作成した。 歴 次. 年. 些 ノコ. 時. 代 末 期. 史. 教. 育. 関. 係. 略. 年. 表. 歴史教科書関係. 教育関係法令. 明治2年に小学校の設置の奨励を勧 めた。歴史教科書は教師の自由選択. であった。. ノし-0. この. し._. ろ多く使用された教科書ほつ. ぎの ご とくである。 山陽・ 日本外史,日本政記,. 歴史教育の方法 儒者の教授方式 素読-独看-請 釈一会読。. 垣松苗 (S; 文体で ) 儒教史観 儲苧編年体であり,.

(4) 126. 吾. 那. 歴史教育関係略年表(つづき). ≠年次F r. ≠. 教育関係法令. F 学制発布.. 上等小学で最初の歴史科である「史 学大意+をおく。指定教科書名 日本史 林 恕・玉代一覧 岩垣松苗・国史略. 小学教則公布。 下等小学・上等小学各 4年の義務制。 (殆んど徹底しなかっ. 1872. た。). (明5). 外国史. 文部省版教科書を基準として普及に つとめ,自由出版のうちに国定-の 方向を示す。 文部省史略 巻-,皇国,巻二,支那,巻三,四, 西洋. (明6). Lhー__ーJ叫N 教育令公布。 (自由主義色濃厚) 教学大旨発表。 (儒教主義強調). 1879. (明12) 1880. 1881. 翻訳教科書使用禁止。. 外国史教科書は,明治10年から小 学校でほ使用禁止した。. 小学校教則綱領公布。. 1886. (明19) 1890. (明23). 1891. 教育令改正. 1903. 2.. 南. 口授・問答 (明治14年ごろ まで流行). 開発教授 暗 説. 講. 話. (明治、14-36年). 小学校令公布 義務教育4年 改正小学校令公布。 教育勅語発布。. 小学校用歴史 i詰地変蔓. -ルバルト教授. 段階. 小学日本略史金港堂. 予備,提示,応 用,説話と問答, 討議,. 文部省・高等小学歴史 各県で郷土史談の教科書発行。. 視覚教材の活用. E. 小学校教則大綱制定i 蛋歪六宗)小学日本小歴史 小学校教科書は生徒用・教師用の二 種とす。. 山県悌三郎・帝国小史 教員免許令公布 義務教育年制確立 国定教科書制度成立. J遡___芦@_2 注1.. 暗. 大槻文彦・校正日本小史. (皇国民教育). 1892. 1900. 講. す。 i歪諾宗旨毒籍省検訓を必要と 講 習. (明25). (明33). 輪. 小学校ほ,国史教育が中心となり 「外国史教育ほ中等学校で行なう。.  ̄- 】. (明24). 見. ■. i 1 885. 独. 改正教育令公布。 (教育の統制強化). (明14). (明18). F歴史教育の方法. 西村茂樹記・万国史略 寺内章明訳・五洲信己事 自由選択教科書時代 (明治5-14年). 1873. (明13). 歴史教科書関係. 小学国史・普及舎 ーrー ̄一. 新保磐次・小学内国史. 詳細は,拙編著・歴史教育内容,方法論史付鐘を参照されたい. 教科書は,その当時最も多く使用されたと思われるもののみをあげた。詳しくは上掲書 付録2,教科書名一覧表(381-389頁)を参照されたい。.

(5) 明治前期(1872-1903年)における歴史教育方法の研究. ⅠⅠ.儒学教授方式の継承 わが国の近世の教育方法ほ,古来から儒者が長年継承した一定の教授方式が全国に普及 した。歴史教育の方法は,独自の方法があるのでほなく定形化した儒者の教授方式を使用 したに過ぎない。 近世の学校形態ほ,幕府立の昌平校,藩主立の藩校,私塾,寺子屋があった。 教師はこれらの学校出身者であるので儒者流の教授方式により,全国に普及化し画一化. して習慣的に継承したにとどまった。 この普及した教授法を総合し説明した主な学者とその著述ほつぎのごとくである。 (1)貝原益軒(1630-1714)和俗童子訓。 (貝原益軒全集第三所収) (2)江村北海(1713-1788)授業編。. (日本文庫巻之四所収) (日本文庫第二編所収). (3)佐藤一斉(1772-1859)初学課業次第。 (4)本居宣長(1730-1801)玉勝間。. (本居宣長全集第一冊所収). 上述の4著に善かれた課業とか授業の中に示された基本的な教授様式を整理するとつぎ の4段階形式になり,即ち素読-独看-講釈-輪講の順序である。以上の段階に相当する 用語は色々な派生的様式に分けられているので,つぎの用語例によって分類を試みること とする。 (1)素読の意味をもつ用語例。 句. 読. 素. 読. 授 講 (2). 読 読. ). とりよみ. 受読一速読(復読) ○. ・温読-奪読・対読 講読(受講)-返読(復講). 独看の意味をもつ用語例。. 芸芸) 看書-質問 ○. (3). 対読. 講釈の意味をもつ用語例。. 悪霊)・・・聞書 (4)輪講の意味をもつ用語例。 会. 読. 輪. 講. )会業. ○印は,派生様式を示す用語. 注. -・は,応用を示す。. 武田勘治・近世日本における学習方法の発達(日本教育学会編,教育学論集教育原理, 歴史篇所収,昭和26年刊)を参考にした。. 1.独見・解説・輪講. 明治5年に,文部省ほ学制を制定し,小学教則を公布した。そして上等小学に「史学大 意+というわが国の学科制での最初の歴史科をおいた。時間配分と教科書名と教授法ほつ ぎのごとくである。. 127.

(6) 士 Fコ. 128. 学. 級. 別. 太. 毎週時数. 郎. 教科書名. 第. 七. 級. 時. 王. 第. 六. 級. 時. 国. 時. 同. 代. 一. 史. 教授方法 覧. 独見ノ・輪講. 略. ・解説. 罪. 級. 輿. 級. 時. 万. 国. 史. 略. 独見・輪講. 洲. 記. 事. 同. 上. 六. 上. 上. 第. 三. 級. 時. 五. 第. 二. 級. 時. 同. 上. 同. 上. 級. 時. 同. 上. 同. 上. 第 注1.. 一. 第七扱が最下級・第一級が最高級である。 教科書ほ南摩綱紀編・内国史略,文部省 史略,参考太平記,土産政朝・ 高見沢茂共編・条約国史略を明治6年に追加。 3.王代一覧-林 恕著 和漢混清の文語文,編年の紀伝体, 国史略一岩垣松苗著 儒教倫理の尊王史観。 2.. 万国史略一 直訳的翻訳文。 五洲記事-. (1)独見。教授方式の第一段階は素読である。素読によって一通り文章が読めて文意 も解るようになって後に,第二段階の独見中こ進むのである。独見とほ自学自習によって多 くの木を解読することであり,解読のできない所には「つけ紙+. (不審紙)をつけ,後日教. 師あるいは上級生(実ほ助手として代講する)に質問して疑義を正したのである。 (2)解説。教科書の文章の意味をときあかすことである。勿論不審な点ほ教師とか上 級生に教えをうけることになる。. (3)輪講。数人が一組になって順番に書物を読解することである。大体独見の終了生 あたりよみ. が,. 5-10名でグループを作り,その中から「くじびき+で読み当番(当読)をきめ,順. 番通りに読解をする。その終ったところでお互㌧、に質疑応答があり討議をすすめる。最後 に討議を判定するのほ,教師または上級生(教師の代理)であり,とくに「当読+の成蹟 を判定し採点をする。輪講ほ読むことよりも文意の当否を中心とした。わが国でほ始めて 小学教則によって歴史の教科を史学大意として,教科書を指定し,教育方法も定めたが, この方式通りに全国に普及したとほ思われない。 教師ほ,失職の武士,神官,僧侶,漢学者,歌人,俳詣師など雑多でありその教え方も 千差万別であった。これを教則によってモデルを示し,この様式に従うことを示したまで. である。小学校の校舎も江戸時代の寺子屋とほとんど変わりなく,大部分は寺院や民家を 借用し,明治8年にやっと18%が新築校舎であったという。 教科書ほ幼童用に簡約を旨とし要領のみとし,暗讃し易い文語調の短文である。日本史 ほ,天皇歴代記中心の政治事件の史実の羅列の文章であり,ところどころに挿画を付して いる。万国史は,各国の盛衰史であり若干の挿画を付している。.

(7) 129. 明治前期(1872-1903年)における歴史教育方法の研究. 教師は,生徒に学習し易く徹底するように自主学習による学習意欲の喚起に努めた独見 や輪講を取り入れ,教科書も幼董向きに改善されたが, ず教科書の丸陪記であった。. 歴史教育の終局の目標ほ昔と変ら. それはつぎの試験問題から推測しうると思う。 明治8年. 下級小学三級. 1.量目を創足せしほ何れの時代なるや。. 2.壬申の乱を概説せよ。 3.醍醐帝の御世太宰帥に左遷せられし人ほ誰そ。 注1.川崎市教育史. 上巻111頁. 小学校試験成規o. 2.問1ほ時代名称,問2ほ原因,経過,結果を求む,問3は氏名。 2.口授・問答法. この方法ほ,儒者の教授方式の中で特に口授と問答に重点をおいた教授である。 明治6年に東京師範学校付属小学校で口授問答科が設けられた。 (大分県 「教師ロから緯々之を説諭し,生徒をしてその意味を了解せしむ。+ 「問-教師ノ任,答-童子ノ記(荏,暗記の意)ス 教則,明治6年9月)であり,問答とは, 「未識ノ童子-事情ヲ教師ニ 「教師間フニ童子ノ才ヲ誠ム+ことであり, ル所ナリ+とし, 口授とは,. 問ヒ,教師ソノ義理ヲ答フルトシテモ妨ゲナシ。+. (萩原乙彦・小学必読童子問答)とある○. 口授の方ほ,教師が中JL、で生徒ほ受身の学習であるが,問答の方ほ学習に生徒の参加を求 め理解の徹底を企てている。. 素読のごとく教師の一方的な教授のままに丸暗記し,質疑もあまり許されなかったこと を思えば,数段の進歩であり生徒の学習意欲も起ってくることになる。. 東京府が小学授業法を明治10年に制定し,教師に新しい教授法を創り出し生徒の苦痛 を少しでも除くように奮起を促している。. その文章ほつぎのごとくである。. 「小学校ノ教タル授業ノ法其宜キヲ得サレ-,徒ニ児童ヲ厭. 俺マシムルノミニシテ,英知覚ヲ暢発シ,其術芸ヲ長成スルコト能-スo. -将来良法ヲ創意シ,良港. ヲ発明スルモノアレ-随改正セントス。小学ニ従事スル老宜シク此旨ヲ領シ,創意発明スル所アラ(杉並区教育史上巻139頁) 速ニ開陳セソコトヲ要ス。+. 口授・問答法を奨励しても教師自身が講読の素読流であるために,生徒の苦痛ほ一向に 「教員生徒相互ニ読問詞答セル者ニシテ教員生 免れなかったことはつぎの報告でも知りうる。 徒共ニ其言語皆同一ニ似タル老アリ。+と(文部省第六年報,学事巡視功程,宮城県辻新次報告). 教授法はそれほど進歩しなかったが,教科書の方ほ幼童向きに改善されたことほ注目す べきである。それでも文章ほつぎのごとく編年の記事本末の羅列の片仮名の文語調で味気 ないものであった。 ○和銅元年正月, 人皇第四十三代,置匪萱萱一天智天皇ノ女,母-蘇我姪娘,添上ノ平城ニ都ス・ 武蔵国銅ヲ献ス。 (伊地知貞馨編,小学日本史略明治12年刊). また本文中の人名・地名・難語について巻末にまとめて読み仮名とか解釈を加えて,幼 童の学習の助けを試みるように,挿画,地図も増加してきた..

(8) 130. 3.要. 士 仁I. 那. 約. 明治初年から10年代までの歴史教育の方法は,根本ほ儒者の教授法式の域を超えたも のでほないが,上述のごとく幼童に学習の苦痛の軽減を図る改善の跡ほ十分見うけられる。 長年の旧習とも云うべき素読は・入門時に幼童が通らなければならぬ苦難の関門であっ た。このことほつぎの回想記で明らかである。 「総て今までの教へ法ほ,-七・八歳の童子を教ふるに,四書五経などの六づかしきものを読せ,厳tき規則を設仇順序もなく,高尚なる学科を無理に教ふる法ゆゑに,児童は早くも倦が釆て,書を読 むほ水火の真に逢ふ思ひをなす。+. (明治文化全集20巻85頁. 辻弘・開化のほなし) 明治の初年ほ板山陽著日本外史などを教科書として使った。漢文の棒読と暗詞の連続で. あり・加うるに板の間に正座して姿勢を崩すことは許されず,常に叱責の教師の姿に幼童 はおののいての通学であった。. 歴史教授の目標ほ,教師とか教科書を丸暗記することが中心であり,記憶力の分量によ つて成績の優劣が決定した。積極的に教授に努力したのほ,主として暗卸こよる史実の理 解であった。. 歴史教育によって尊王愛国心を植えつけるこのころの教育方法はどのようであったろう か。. 歴史教科書ほ,江戸時代の教科書即ち歴史書そのものであったが,次卸こ幼童用に解り 易く文体を改良したのであっても,史観ほ変っていない。 歴史の視点は・朱子学派の大義名分を重んずる儒教倫理史観で善かれている。そのため に皇室関係の用語にほ敬語が一般化しているし,忠臣についてほ,その事蹟を詳細に伝え ているが,殊更に賞讃の文字を使ってほいない。賊臣については,淡々とその史実を述べ るに留めて筆課を強めてもいない○これは,後年の記述に比べて注目すべきである。 歴史教育によって明治14年以後の教則によるごとく尊王愛国心に励むようなことほ, この時代にほまだ見られない。ただ教科書の基調が君臣の分を重んずるのであるから,読. 諭する間に自ら尊王心の方が強く印象づけられたと思う。しかし教師によっては,尊王愛 国の思想を史実に托して強烈に教えたことほあり得たと思われる。. (山崎闇斎の門流の教. 師であれば,絶対尊王心を強調した筈である). 歴史教育の方法ほ,学習に生徒を参加させる方法として上述のごとく独見輪講とか口授 問答の形態をとったが,教授方式ほあくまでも教師中心で教科書の暗卸こ終始し,史実の 暗記量の多いほど秀才と云われた。. 初等教員養成を使命とする師範学校が設置されたのほ,明治5年のことであり,. 12年に なって全国に70の師範学校が設けらjlた.この学校の付属小学校ほ各県下の俊才が集っ ていたので各県下の教育実際界の指導的地位を占めていた。しかしこのような教育をうけ た教師の輩出ほ明治十年代後半のことである。 従って明治10年代ほ,教師自身が儒者の教授形式を踏襲しただけで,新しく歴史のた めの教授方式を工夫したのでないから旧態依然たる暗諦法に終ったことになる。このため に歴史教育独自の新しい教授方法を案出した訳でもなく,経書,史書,文学書を含めての.

(9) 131. 明治前期(1872-1903年)における歴史教育方法の研究. 書物の読解法を幼童に行なったに過ぎなかった。. III.教授段階法式の輸入と普及 1.小学校教則による歴史科の要旨の変遷 歴. 教則の類別. 史. 科. の. 要. 備. 修身科の要旨. 旨. 考. ー】. 小学校教則 綱領. (明治14年) 教育勅語公 布 (明治23年) 小学校教則 大綱. (明治24年). 生徒ヲシテ沿革ノ原因,結果ヲ 了解セシメル。 殊二尊王愛国ノ志気ヲ養成。. 格言,事実等二就キ徳 性ノ滴養。. 国史は「教学大 旨+によること を綱領に明示す。. 国体ノ大要ヲ知ラシメテ国民タ. 勅語ノ旨趣二基キ良心. ルノ志操ノ養成。尋常小学校デ -郷土二関スル史談ヨリ始メル。. ヲ啓培,徳性ヲ滴養, 人道実践ノ方法ヲ授ケ. 「地理+ノ要旨・ 兼ネテ愛国ノ精 神ヲ養フ。 (日本地理,外国. 「方法+図画等ヲ示シ当時ノ実. 状ヲ想像セシメル。人物ノ言行 等二就テ-,修身デ授ケタ格言 等二照シテ正邪是非ヲ弁別セシ. ノレ。. 地理ノ大要ヲ授 ケテ-). 殊二尊王愛国ノ志気, 国家二対スル責務ノ重 視。. メル。. 小学校令施 行規則,敬 則. (明治36年). 国体ノ大要ヲ知ラシメ兼テ国民 クルノ志操ヲ養成。 「方法+図画,地図,標本等ヲ示 シ当時ノ実状ヲ想像シ易カラシ. r. 勅語ノ旨趣二基キ徳性J「地理+ノ要旨・ ノ滴養。. 道徳r/夷践ヲ指導,忠1 君愛国ノ志気ノ養成。. 本邦国勢ノ大要。. 兼ネテ愛国Jbノ 戸 養成。. メル。. 特二修身ノ教授事項卜聯絡セシ メル。. 明治12年に制定された教育令は,アメリカのごとく自由であることを範とし,わが国 の教育ほ干渉に過ぎるから自由にせねばならぬとしたのが主旨である。 (注)が,明治天皇の意志によって教育改革の必 これと時を同じく皮肉にも「教学大旨+ 「君臣父子ノ大義+であり小学校 要を指示されて生れた。その主旨は日本教学の理念ほ, 教育でほ忠孝の大義を徹底させるべきことを説いた。. (荏,元田永年の原作). この勅旨による教学大旨の精神を忠実に敷街したのが小学教則綱領(明治14年)であ 「五洲紀事+ほこれまで史学大意で行なわれ, る。歴史科ほ,世界歴史である「万国史略+ 外国史によって海外の新知識を注入し,開国日本の新しい気風を小国民に植えつけようと. したことは残念ながら阻止され,その代りに国史が重視されることになった。 国史の教材も尊王愛国心を養うことに集中され皇室の讃美史に改めた。なお追い討ちを かけるように,小学校教員ほ「一時間に合せての教育改正は出来たが,実際教育に従事す る老の頭脳が一変しなくては可かぬと云ふことを痛感し,乃ち一般教員に対する訓粂と云 ふものを発布して,皇道主義の教育方針精神を貫徹せしむることが緊要であると考-+た と江木千之は述べている。 (江木千之翁経歴談55頁) 注.江木千之は「尊王壊夷を首唱せし藩中に成長し,殊に水戸学を以て頭を鍛へた+と述懐してい る程であり,この人の原案が,小学校教則綱領第15条の内容となった。. 江木の教師-の注文は,小学校教員心得として明治14年に発布された。この心得でほ. 小学教員ほ,尊王愛国の志気を振起することが本務であるとした。教育ほ明治5年発布の 「学則+によって知識主義が貫かれていたのを,皇道主義精神に改めたのである。.

(10) 132. 書. 那. (注・江木千之ほ, 14年の綱鎮は「知育偏重,欧米心酔の教育を一変して皇道主義に引直したる一 大画期な挙であった+と云う。経歴談上63頁). 歴史科の要旨を明治14年と24年の教則によって比較してみよう0 14年では,合理的な文明史観の影響をうけて歴史の原因と結果を中心の理解とし,特別 に尊王愛国の志気を求めているが,他教科である修身とほ一線を画して協力を願ってはい ない。. 24年になると教育勅語(明治23年)の影響をうけて歴史教育の目的が一変する。 教育勅語は絶対権威をもっ不動の教育憲法であり,日本国民としての徳育中心の教育精 神を述べたものである。 日本国民を全部臣民とするために歴史と修身が二中心教科として重視されることになっ. た。臣民たるべき歴史科の要旨は,日本歴史の大要でほなく国体の大要と変った。このこ とは日本歴史の学問分野への決別を意味する重大なることである。これまでほ明治5年の 学制以来歴史学の領域での歴史を教材としてきた。 注・明治の初年の教科書は,頼山陽著「日本外史+と「日本政記+が使用された。これは儒教道徳 の名分史観のもとに書かれ明治維新の志士の必読の書であった。岩垣松苗著「国史略+文部省 版「史略+などになると名分史観色から離れて事実の大要の編年体形式に変ってきた。これが 14年の小学校教則綱領の制定をみると,この綱領の主旨を体してながらもまだ当時の文明史 観の影響もうけて発展的史観の立場で書かれ,国体史観になっていなかった。. わが国の歴史は国体の大要を知らしめるにありとする天壌無窮の皇国史観の立場は,昭 和20年8月まで使用された国民学校の初等科国史までの半世紀間厳守したのである。 この国体の大要を教えることは国民たるの志操(守って動かぬ志向の意)を養うために あって,日本の歴史事実を教えるためでほなくなった。臣民教育の中心教科を修身と歴史 に据えたのほ,. 24年の教則の教科の内容で明らかとなった。. 史の要旨でほ両者の接近はなかったが,. 14年の教則では,修身と歴. 24年では表にみるごとく接近している。即ち修. 身でほ教育勅語の徳目の敷術であって,. 「殊二等王愛国ノ志気,国家二対スル責務ノ重視+ を明記している。地理の要旨までも愛国の精神を養うことに参加している。 24年の教則ほ,国民的徳性の滴養と実用的知識技能の二点に各教科を配分し,前者に. 歴史と修身が中心となり,国語,地理,唱歌(歌詞)までが分担する土とになった。 忠君愛国の国民形成を至上の教育目標とした教育勅語を教科に具現化したのが24年の. 教則の目的であり,これを実現さすのが教師の任務であった。 このように教則によって歴史教授内容の公的基準性が定まり,加うるにこれに基いた各. 府県の地方教則まで公布された。歴史教科書は,教則を規準にして検定の合否が決定する ことになった。既に述べベたごとく教員心得までに皇道主義の歴史教育を求められている。 これらの諸規定によって,当時の教育国策が尊王愛国心の養成を歴史教育に集中的に実現 しようとした熱意ほ厳しいものであることを知るのである。 このような教育状況でほ,教師の自主的な創意に発想による歴史教育の方法も生れなく なるのは当然の成行きである。 教科書の教材ほ,. 「建国ノ体制・皇統ノ無窮・歴代天皇ノ盛業+の皇国史であり,. 「忠.

(11) 133. 明治前期(1872-1903年)における歴史教育方法の研究. 良賢哲ノ事蹟・国民ノ武勇+の臣民史の二本柱であった。 教科書は検定制(明治23年)に合格したものを使って,上述の二本の柱を児童に解り 易くするた捌こつぎのごとき工夫をこらしたのである。 児童ほ人物に興味をもつので天皇と忠臣を人物教材とし,地図・挿絵を多くし,文体は 簡略平明な文語体にした。 このように児童に親しみ易い教科書に改められても,依然として歴史教科書は読むべき であり記憶する教科であることほ,素読式の教授法と何等変わるところほなかった。 明治5年の学制ほ,封建的教育から近代個人主義教育-の革命的な転換であった。しか し学制の実施についてほ,当時の日本人のもつ教育観,日本の経済力などから不徹底であ ったが,明治12年までほ曲りなりにも学制に沿う教育体系が作りあげられてきた。. 明治12年に,アメリカ的な自由な教育令が公布されると,著しい教育機能が低下して きた。この自由の欠点を指摘して反動政策的な改正教育令(明治13年)が公布され,翌 年に「小学校教則綱領+が定められ,小学校の教科日中最下位であった修身科が一躍最上 位になり,歴史科も重視されることになった。. 「小学校教則綱領+ほ,今後の教則の定型となったことによっても明治教育史上の変革 を招いた画期的な法令である。. 教則の規定ほ,教科の内容と教授実践を含み,ひいてほ授業法,教師の能力にまでおよ び教育国策の末端にまで統制力が拡充したことを示したのである。 2.歴史科授業にみられる教育方法の変化 (1)開発主義教授による歴史教育の方法. 明治14年の小学校教則綱領と開発教授法の結合が歴史教育の方法となった。 この開発教授法(注)は,明治11年4月に米国から帰国した高嶺秀夫が中・[Jとなって東 京師範学校で実践をし発展したのである。 Ⅱ第十一章と,稲垣忠彦「明治教授 .注.開発教授の内容と普及の経過ほ,倉沢剛「小学校の歴史+ 理論史研究+第二部に詳細に論述している。 開発主義教授法は,ペスタロッチ一に淵源する近代教授理論である。この方法の原則ほ,. 長年墨守してきた儒者流の教師注入の教科書の暗高教授に挑戦した革命的な教授法であっ た。その説くところほ,子どもの直捷径験によってその心を開き,その発展を指導し,教 師ほ教授を間接的にする方法である。これによって子どもは自発的努力心を起して結論を. 習得することになるとする。教授とほ,子どもの自発性にもとづく成長の援助という教育 的原則の確立と科学的教授法の進歩による改革的意義がある。 開発教授の思想を実践的に技術化したのが「改正教授術+. (若林虎三郎,白井毅共著正統5. 巻明治16・17年刊)であり,このころの教師必読の虎の巻であった。 この「改正教授術+の中で各教科の教授術があり歴史課ではつぎのごとく書いている。 歴史課の目的は,. 「先ツ本邦歴史中共ノ最モ幼稚ナル脳裏二感受印識シ易クシテ,最モ能. ク尊王愛国ノ志気ヲ育成スルニ足ルべキ事実及最モ多ク生徒ノ修身処世上二補益スべキ事 (改正教授術続編巻-,五丁)と 実ヲ選択シ,之ヲ談話体或-列伝体二編成シテ詳密二教授+.

(12) 士 口. 134. 那. することを目的とすると。. 小学校教則綱領の歴史科の要旨の「尊王愛国ノ志気ノ養成+を忠実に含んでいる。この 要旨を達成するために,歴史教材を最も印象に残るように教え,生徒の修身処世に益する 事実を選ぶ。児童に理解しやすくするための教授法として談話体とか列伝体に組み替えて 詳しく教授せよという。 談話体とほ,教師が児童に物語りかけることであり,列伝体とほ,多くの人々の伝記を ならべて話すことである。教授法は,今までの記粛注入の方法から開発抽出の方法-と改 革したことほ注目に値する。 しかしこの新しい教授法は,改正教授術のいうごとくその当時の児童に徹底して行なわ れたかは疑わしいと思う。. 明治16年前後に小学校で歴史教育をうけた古老の印象を面接法にて調査した結果ほつ ぎのごとくであった。. (注・ 90才前後の老人数人に面接してその印象を聞いてまとめたのである. から,この当時の全貌を伺う資料とほならぬが参考になると思う。). 授業では,教科書をよく読まされた,印象に残っている人物は神武天皇,事件でほ神功 皇后の三韓征伐であると。当時の授業そのものほ児童の興味とか関心から離れて,教師が 物語り調で覚えこませたのが主であったと思われる。 改正教授術ほ,東京師範学校付属小学校とか地方の師範学校付属小学校の教師中心に潤 化され,ここに学んだ教師に普及してもわが国全体の教師の大部分ほ,. 「只受持教科ノ書. 冊ヲ授読スルヲ旨トシ,授業法ノ得失,教科書ノ良否ヲ考察シテ之ヲ取捨スルノ識量二乏 シキ+. (文部省第五年報「学区巡視功程+秋田県)であり,粛読,暗記の旧態の授業形態が一. 般的であった。. 明治10年代の開発教授法も形式だけではまねても,実際の授業における歴史教育の方 法でほさしたる改良の効果をおさめなかったようである。 注・開発教授法による歴史科の教授案が入手できなかったことを詫びておく。. (2)ヘルパルト主義教授による歴史教育の方法 -ルバルト(1746-1827)とその弟子ライン(1847-1929)の学説が,上述の開発主義 の教授法に代り,明治20年代以降において五段階教授法が盛行するに至った。 注・. -ルバルト主義の教授については,金沢剛著「小学校の歴史Ⅱ第十一章第二節+と,稲垣忠 彦著「明治教授理論史研究第2部+に詳細な論述がある.. 五段階とほ,. 1.予備,. 2.提示,. 3.比較, 4.総括, 5.応用であり,この五段階の教 授法式を各教科の授業案に活用した指導区分の順序である。 しかしこの教授方式は,形式的に繁薙であったので一般にほ普及するに至らずこれに代 3.応用として流行した。 って簡略な三段階教授法すなわち, 1.予備, 2.提示, 予備では,新教材を研究し,それとむずびつくべき児童の知識を喚起する。提示でほ説. 明・直観・問答などの方法によって新教材を児童に与える。応用でほ,提示によって与え た知識の応周面を児童に研究させ,他教科との関連を図った。. -ルバルト流の五段階教授法式を適用した歴史科の教案の必要部分を示し解説を試みる こととする。.

(13) 135. 明治前期(1872-1903年)における歴史教育方法の研究 歴史料教案「足利時代の出来事+. (器霊……芸…岩1芸芸学芸芸霊芸付小高等3'4年' 1.題. 目. 足利時代の出来事. 2.目. 的. 省. 略. 3.教. 具. 省. 略. 4.取扱方 (1 )目的指示(説話体)-尊氏が姦策を以て築き上げたる足利幕府ほ果して如何なる影響を国家及. び自己に持ち来したるかを話すべし。 (2)予備復習(問答体)-前時間の復習。 (3)提示,足利氏系図掲示. (説話体)足利義量酒毒にて父に先ちて死せり。義教還俗して将軍となる。是に於て関東と の乱襟破裂の時に達せり。 (問答体)関東管領の起源(復習) (説話体)氏満以後の関東管領の騎慢,兼教の憤怒及関東攻伐,持氏自殺,兼教の凶難。 (問答体)義教の時の出来事。. (復習)応仁の乱の主動者,原田,結果。. (説話体)義政将軍以後は全く臣下の左右する所となりて権力次第に下移せしこと。 小総括(問答体)以上の争乱を列挙せよ。併せて各原因をい-。これ等の諸原因に共通した る特長を発見せよ。 (4)比較織綜(討議体)之を北条氏の時と比較せよ。 イ.天皇に対し奉りては, p.外国に対してほ, へ 政治につきてほ,ニ.徳義につきては,ホ.総評 (5)推究(問答体)一省略. この教案で教師と生徒とが,どのようにからみ合って歴史教育が進められたかを吟味し てみよう。. 目的指示ほ,本時で学習すべき要点を教師が生徒に語ることを指し,今日の導入段階に 相当する。. 予備復習は,前時の復習をして本時-の導入としている。ここでは教師が前時で学習し た重点がどれ程生徒が習得しているかを確認するために,問答法で進めていく。 提示ほ,今日の展開に当り授業の中[Jで最も多くの時間を費やすのである。この中で教 師が教授内容を教えるときほ説話体を,既習事項の部分では生徒に確かめる問答体の形を 交互に織りまぜながら授業を進めている。提示即ち展開が終ると,小総括として復習の意 味で予め重点を教師が決めたことを問いかけて生徒-の定着化を因っている。 比較織綜(織綜は綜合の意)ほ,提示で学習したことを土台にし,他の時代との比較点 を予め示して生徒相互に討議をさせる。勿論教師ほ生徒の討議内容に立ち入ってその結論 を指示して終ることになる。 歴史学習で比較法を用いることは非常によい方法である。これを生徒相互に行なわせて. 教師が聞き役になる方がよいし,その結果の価値判断を教師が与えることは大切なことで あるo比較法ほ,両者の史実について比較検討し,その中から棋同性を抽象しそれを法則 化し,その半面特殊性を残してその個別的具体相をみることを忘れてほならない。故にこ.

(14) 士 仁I. 136. の視点から比較の意義を生徒に習得させるのが教師の役割である。 推究でほ,本時学習の歴史的意義を問答体によってまとめてし一、る。. この歴史科の授業案の付録に授業記録が詳細に記されている。この記録を推究すると歴 史の授業で何を教えようとするかの観点が伺える。先ず教科書にある歴史事実を習得させ, その事実を名分史観によって善悪の区別を教師が裁断して進めていることである。この善 悪の価値基準ほ修身のそれと同じである。ここに教則の一貫した精神即ち修身と歴史の接 近により表裏相助けて皇国民養成の教訓を授けることが明白である。 三段階教技法ほ五段階方式を簡約にしたもので,現存するこの当時の乏しい歴史科教案 では予備提示(教授). ・復演(総括)の三区分で全国的に普及し定着化したとみてよいと. 思う。教授法式に説話体・問答体・討議体を用いている。説話体ほ,教師が主体となって. 焦点を生徒に説くことで新しく学ぶことを教科書中心に進めている。問答体は既習事項の 復習を生徒にきせているが,勿論前時の焦点を教師が指示してその範囲を云わしめている に過ぎなし+。討議体でほ比較綜合の意味で既習事項と本時学習事項とを教師が要点を指示 して,生徒が発言をする。. たとえ生徒が参加する問答体と討議体の形をとっても教師が指導の主体であることに変 りはないことになる。. 教科書ほ時代の進むにしたがって児童のための教科書に改善されてきたことである。 文体ほ簡易明快な片仮名の文語体で歴史事実の原因と結果を理解し易くし,直観教材と して挿画・地図・年表を加えて理解を助けるように工夫をこらしている。中にほ一時間の 分量を一葉の三分の一強に配当し,一時間の教材量を極めて少なくして読書を繰返し,説 話を多くし要点を筆記させている。また巻末に重要問題とか復習表(荏)を付けて児童の自 発学習を促すことに工夫の跡がみられる。 注.巻末復習表 天皇世代. 天皇御名. 御在位年数. 年. 号. 執政老及武将. 要. 件. 教授段階に区切をつける授業方式の普及に伴って,授業の進行が明快に進められること になったのほ喜ばしいことである。まだ教師中心であり,教科書依存ではあるが児童の発 言を許している形式になったことは,. -ルバルト派の教授段階説の活用の立派な功績であ. った。. この時期の歴史教育を受けた人々の印象ほつぎのごとくである。教科書ほよくよまされ. た.むずかしかったが興味があった。さし絵や年表ほよく利廃された,重要な史実ほよく 暗記させられた。時々筆記をさせられたなどであるが,この断片的な印象からも,歴史教 育の方法に教師が如何にしたら難かしく今にみられない過去の史実を理解させたの教師の 苦心の跡がよく解るのである。. 歴史の授業によって印象に残った人物は,神武天皇・仁徳天皇・楠木正成・豊臣秀吉・ 伊藤博文などの天皇・忠臣・英雄であった。このような人物ほ,修身の徳性の滴養にもな.

(15) 明治前期(1372-1902年)における歴史教育方法の研究. 137. り歴史の尊王愛国心の養うためにも教則の要旨を果していることになっている。 ヘルバルト流の段階教授法式ほ,明治20年代から40年位までの約20年間ほ各教科 の教授法として授業案に必らずといってよい程定型化した。歴史科もこの例外ではなかっ た。度々述べたように教則の要旨にあるごとく尊王愛国心の育成の花形教科として,歴史 と修身とがその責任を荷わされていた。 明治36年の「小学校令+により,翌年国定教科書になればなおさら修身と歴史ほ形影 の教科となり忠君愛国心養成科として重視され,この関係は益々深まって国民学校国民科 の中に両教科が組みこまれ,国民学校教育の中核教科になった。 -ルバルト流の五段階教授方式ほ普及化とともに洗練され,これによって歴史教育の方. 法も形式化されたが,この両者を集約したのが「新令準拠小学校教授法+(荏)である。 注.森岡常蔵校閲,明治41年刊,. 132-133頁。全国に普及した書物である。. この書の日本歴史科教授法のみを抽出するとつぎのごとくである。 (1)歴史教育の目的-「わが国家の起源を知り,祖先の功業を明かにし,国家今日の隆盛を致し たる所以を了解するに至らば,誰が忠君愛国の感情を喚起し,奮ひて邦家のた捌こ尽さむと の志を起さぎるものあらむや。+. とし,小学校令の歴史教育の趣旨を忠実に述べている。 (2)修身科との関連-「是れを以て,本科(歴史科のこと)は修身科と密接の関係を有するものに して,児童の品性陶冶上,与って頗る力あるものなり。+と。 (3)個人・国民たるべき教訓史の取扱-「蓋し歴史ほ,人間行為の事歴を,眼前に努発たらしめ; 個人又は国家として践むべき道,採るべき方針を教へ,社会の出来事に対する事実的判断は 固より,道徳的判断をも養成するものなれば,本科の教授に依りて,一定の識見を立てし軌 個人として,将来国家の一員として,生存するに適当の針路を発見せしむべし+とo (3)では明治.20年代から皇道主義の歴史を教材とし,純正な歴史学と異った教育的歴 史を主とし,小国民に忠良になることを要求している。. この書の教授方法ほ,つぎのごとく教材の種類によって区分をし,歴史科ではこの何れ かを教材によって使いわけをしなければならぬとする。 (1)概念形成を目的とする教材-予備・提示の後に比較概括を行ひて,概念を構成して後に,応 用に入るべし。. (2)事実的知識を授くるときの教材-予備・提示で事実・事項の記憶が主な目的とされ,応用で は,教材上の事項と関連させて, 「簡単な修身上の問答+, 「社会現象の判断+をさせるo 授業形式としては,三段階法式が多く普及しているという。注(前出書136-137頁) 3.要. 約. 明治14-36年までの約22年の歴史教育は,明治政府の教育政策ほ,国是の富国強兵. を達成するた捌こ,国民教育は着々整備され地方にまで文部省からの法令が流通し,中央 統制の教育が普及した。. 歴史科の教育内容は,明治14,. 24,. 36年の3回に及ぶ教則によって国家によって規定. された。教則ほ改定ごとに臣民育成を強化し,修身・地理・国語・唱歌の他教科の援助を 得て,歴史科はその中核教科となってきた。.

(16) 138. 吉. 田. 太. 郎. 教科書ほ,この期間は検定教科書を使用したが,著者が児童の関心と興味をそそるよう に直観資料を多く取り入れ,自学自習を促がす問題を加えたり,文章は簡潔な文語文にす るなど,随分細JL、の注意を払って改良を加えている。. 教材ほ,教則によって大綱ほ定められているので皇国のために活躍し,尊敬すべき人物 中心の物語をも加えて,児童の魂に焼きつくように教師は教えることに力を注いだ。. 教授方式ほ,外来の開発主義から-ルパル流の段階教授法を定型化し,歴史科もこの定 型に従って5-3段階に従って授業を区分し一斉教授を行なった。 この教授法式ほ,児童の学習・[J理の姿を足場にした方法だ捌こ明治初期の伝統的な空読 暗詞式の苦脳多き教授方式より遥かに優れた定型であった。. 歴史教育の内容ほ,純正史学とは別個の皇国氏育成の教育的歴史という国家統制の強い わが国独自の歴史教材であった。. これを教える授業形式ほ,外国の教育理論からなる教授形式を公的に定型化した。 歴史教材は純粋な独自の国粋型であるのに,その教育方法ほ欧米の理論による教授形式 を公的に定型化し,全国の教師に利用された。 この国粋型の歴史教育の内容と舶来の教授形式との奇妙な結合ほ,外見からほ水と油と の間柄であるとみるのほ皮相な見解である。. 明治24年の小学校教則大綱ほ,ドイツの教授法を基礎にしていることを注目すべきで ある。天皇制憲法を支える教育勅語の徳目教育の中核教科ほ修身と歴史科である。. -ルノミ. ルトの教育学ほ,道徳教育を重視する教育思想であるから,意図的に森有礼文相がわざわ ざドイツから-ウスクネヒトを招き東大で教育学の講義をさせその門下生がここの派の学. 説を育と筆で唱導したoこのような背景があるので-ルバト教育学説ほ,公的に東記され た教育学になり教授技術の段階説も全国に広まったoこの教育学ほ,知識の伝授よりも徳 育の陶冶を重んじたので,歴史教育の内容が教則で定められた尊王愛国心の養成にあるこ とと合致することになる。. 教授方法ほ,心理学から発足した教授方式が授業の方法に適合したので当時の学者も教 師もこれにとびついたのほ当然であったoかくして明治19年以後のこの教授段階説ほ, ドイツ本国よりも日本で熱狂的に歓迎をうけ急速に全国の教師に流布した。 この熱狂的な流行の風潮も20年代の後半になると反省や批判も盛んになってきた。 批判の中心は,. -ルバルトの教育学は難解であって多くはその精神は消化し得ず,ただ その形骸をまねることに終り,教師独自の考案による授業法の活用をはかるまでに至らな かったo. (この部分ほ倉沢剛小学校の歴史Ⅱ. 1023-1026頁を参考にした。). しかし教育実際界ほ,五段-三段の教授法ほ,上述の批判をよそに明治35,. 6年ごろま では「明けても暮れても-ルバルトー天張り+という盛況であった。こうした-ルバルト の段階説も明治40年ごろから漸く衰微するに至った。一度全国的に浸透した教授方式ほ, 昭和初年まで実際界でほなお支配力を持ち続けたといわれている。 顧みれば,明治前期ほわが国の歴史教育の外国に例のない独自であるのに対応して,め が国独自の他教科にみられない歴史教育の方法を創り出さずに終ったといっても過言でな.

(17) 明治前期(1372-1902年)における歴史教育方法の研究. 139. いと思う。 語. 結. 研究の4視点を究明するためにこの拙論を執筆したのであるが,論旨を進めるにつれ予 測したごとく有力な資料である授業案と授業記録の欠陥に苦しんだが,これを認めつつも ー応の成果をあげたのでほないかと思っているo今後精力的に資料を収集してこの小論の 改訂を試みたいと念じている。 ただこの期には歴史教育独特の歴史教育方法を見出し得なかったことは予期した漁りで あった。.

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参照

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