3 昭和三十一年十一月、第一回中央公論新人賞受賞作 と し て深 澤七郎『楢 山節考』が選出さ れ た が (『中央公論』昭 31・ 11)、 「姥捨伝説」 を 扱った こ の作品につい て 、 選考委員の一人 で あ った三島由紀夫は「変なユーモア の中に どす ぐろいグロテス クなものがある」 と し て 、「母胎の暗い中に引 き 込 ま れ るような小説だ (1 ) 」 と 評し て い る 。 貧しい山村の非情な共同体 論理 を 民話風の滑稽さ を 交 えて 描いた こ の小説は、異様な衝撃 を 与え 、 す ぐさま木下惠介監督 ・脚本 で 映 画 『 楢山節考』 ( 昭 33) と なる (主演=田 中絹代、高橋貞二) 。 木下惠介は こ の作品 を 舞台劇めいた オール セ ット で 、 あえて 「 演劇まがい」 の様式性 を 押 し出 す 映 画 と し て 演出した。タイトル ・ バッ クは歌舞伎の定式幕、音楽には長唄 や 浄瑠璃語り を 用 い、映画形式に 演劇の様式美 を 溶かし込 むことで 、異様な土俗空間 を 生み出した。 そもそも演劇は、書 き 割りめいた人工的な舞台 セ ッ トで あろうが、ピー ター ・ブルッ ク の いう 「なにもない空間 (2 ) 」 で あろうが 、観客の想像力 に訴え 、 現前 す る俳優の演技によっ て 、 書 き 割り や 裸舞台 を 「 もう ひと つ の現実」へ と 想 像的に立体化し て い くメディア で あ る。 これ に対し て 俳 優 が複製フィルムのなかに存在 す る に す ぎない映画は、演劇に比べ て より背 景・装置の精度が要求さ れ 、 ロケーション撮影なり精巧なセ ット撮影なり で 、 リ ア リ ズ ムの再構築 を 行 わ ねばならない。アンドレ・バザン『映画 と は何か』 (一九五九 、邦訳美術出版社 ・小海永二訳 ・昭 52)が 指摘す る よ うに 、「 ある種の人工性 、演劇の舞 デ コ ー ル 台背景の手の こ ん だ置 き 換 えは 、 厳 密 には 、映 シ ネ マ 画におけるい わ ば先天的なリ ア リ ズム とは、 両立しない」 の で あ り、 「映 シ ネ マ 画は必然的に演劇よりも 《 ずっ と 豪 華なものに作ら 》なければならない」 ので あ る 。 こ う いったメディア特性 を 「 脱臼」させるかのように、あえて 映画のな かに 「演劇まがい」 を 導入した試みが映画 『 楢山節考』 で あり、 さ らに下っ て 例 示 す れば 、背景の絵の転換 で 舞台展開し て いく映画 『ルードヴィッ ヒⅡ世のためのレク イエム』 (監督=ハンス=ユルゲン・ジーバーベル ク 、 一九七三) 、 写 実 性 を 排した簡素なセ ッ トのう ち に騎士道物語 を 描く映画 『聖杯伝説』 ( 監督=エ リ ッ ク ・ロメール、一九七八) で ある。 これらはア ンドレ・バザンのいう「映 シ ネ マ 画におけるい わ ば先天的なリ ア リ ズム」 を 裏返 しながら 、「 演劇的なもの」 を 押し出し て いく映画実験 と なっ て い る。 三島由紀夫が映画『楢山節考』 を 見 て いたか どうかは定か で な いが、日 常的なリ ア リ ズム を 払拭し、能に立脚した演劇的な様式化のもと に、三島 自らが監督 ・主演した自主製作映画が 『 憂国』 ( 昭 41)だ 。原作 ・脚色 ・ 製作・監督・主演=三島由紀夫、プロデューサー・プロダ ク シ ョンマネー ジャー=藤井浩明、 演出=堂本正樹、 撮影=渡邊公夫、 メ ーキャップ ・ ア ー ティスト=工藤貞夫、 配 役=三島由紀夫(武山中尉) 、鶴岡淑子(妻 麗子) 、 音楽=ワグ ナー 『トリ ス タンと イ ゾルデ』 。 昭和四十年製作 、 35ミリ 白 黒
三島由紀夫
の
映画『憂国』
︱︱書/器官/仮面/楽土
︱︱守安
あ
敏久
4 スタン ダ ード 版、上映時間 28分、製作費一二五九五七〇円。 Ⅰ 苦痛と歓喜 『小説中央公論』 ( 昭 36・1冬季号)に発表さ れ た自作の短編小説 『憂 国』 をもと に 、三島が構想し てき た映画『憂国』は、能の研究家・堂本正 樹、大映プロデューサー・藤井浩明の協力 を 得 て 、 昭和四十年一月から実 現へ と 動 き 出 す 。 内密な準備 と 打 ち 合 わ せを 経た後、藤井浩明が会社に内 緒 で 大映スタッフ を 動員し、 大蔵映画スタジ オを 借り て 、 同年四月十五日 ・ 十六日の二日間 で 撮 り上げられ た (3 ) 。完成した作品は昭和四十一年一月 、 短編映画の映画祭 と し て 名高いフ ランスのツール映画祭劇映画部門に出品 さ れ (三十九カ国からの応募作三百三十三本から 、 七十五本 を 選出上映) 、 血み どろの切腹シーンが賛否両論 を 呼 ぶ話題作 となったが、受賞は逃し次 点に終 わ っ た。七十八人の審査員のう ち 、四十三票が受賞作『失 われ た平 面』 (フ ランス) で 、『憂国』 は十七票だった (4) 。 映画『憂国』の日本 で の公開は、 『小間使の日記』 ( 監督=ルイス・ブニ ュエル、 一九六四) と の併映 で 、昭和四十一年四月十二日から 、日本アート ・ シアター・ギルド(ATG)系のアートシアター新宿文化、日劇文化の都 内二館 で 始まる。海外 で の話題が先行した こともあっ て 、ATG始まっ て 以来の大ヒットとなり、公開初日は都内二館 で 二千三百三十二人の大入り (5 ) 。アートシアター新宿文化の支配人だった葛井欣士郎によ れば 、三島 は初日から毎日、新宿文化に駆けつけ 、 客席 を 回 っ て は、求められ るまま にサインを し、精力的にジャーナリ ス トのインタビューに答えて いた と い う (6 ) 。六月十三日ま で の九週間の 『憂国』上映は 、『8 1/2』( 監督=フェ デ リ コ・フェ リーニ、一九六三)の八週間(興行収入一千百万円) を 上回 るロング ラン上映 で あ り、七万人の観客動員 で 、 一千七百万円近い興行収 入を あげて い る (7 ) 。引 き 続 き 六月十五日からは 、『 砂の女』 (監督=勅使 河原宏、昭 39)『 鬼婆』 ( 監督=新藤兼人、昭 39) と の三本立 で 、東宝系 で 上映。また映画公開に合 わ せ 、「 原作」 「 撮影台本」 「 スチール」 「 製作意図 及び経過」 を 収録した三島由紀夫 『憂国 = 映画版 = 』( 新潮社 、昭 41)が 刊行さ れて いる。 昭和四十五年十一月二十五日、決起した三島が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地 東部方面総監部 で 割 腹自殺 を 遂 げた後、瑤子夫人の意向 で プ リントはすべ て 破棄さ れ 、 映画『憂国』はその存在 を 封印さ れてき た 。平成七年に瑤子 夫人も亡くなり、 その後、 藤井浩明が遺族の了解 を 得 て 、 三島家 で ネガフィ ルム を 発 見 す る。映画『憂国』 はDVD と し て 甦 り、 『決定版 三島由紀夫 全集』別巻(新潮社、 平 18)に収録さ れ たほか、 海 外公開版(米国公開版 ・ 仏蘭西公開版) を も含 む 二枚組DVD 『憂国』 (東宝 、 平 18、分類番号T DV16114D) と し て も刊行さ れ た 。 そもそもの「原作」 で ある小説『憂国』につい て は 、三島自身「 わ ず か 五十枚足らずのものながら 、その中に自分のいろんな要素が集約的に入っ て いる作品 と 思 われ るの で 、 もし私の小説 を 一 編だけ 読 みたい と い う人が あったらば、広く読ま れ た『潮騒』など よ りも、 む しろこ の 『憂国』一編 を 読 ん で もらえば、私 と い う作家のいい ところも悪い ところも ひ っくるめ て 、 わ か っ て もらえるように考え て いる (8 ) 」 と いうほ ど 愛着のあった作 品 で ある。小説の梗概は冒頭「壹」に集約さ れて いる。 昭和十一年二月二十八日 、( すなは ち 二 ・ 二六事件突発第三日目) 、 近 衛輜重兵大隊勤務武 た け や ま し ん じ 山信二中尉は、事件発生以来親友が叛乱 軍 に加入せ る こ と に 対し懊悩 を 重 ね、皇 軍 相撃の事態必至 と なりたる情勢に痛憤し て 、 四谷区青葉町六の自宅八畳の間に於 て 、 軍 刀 を 以 て 割腹自殺 を 遂 げ、
5 麗 れ い こ 子夫人も亦夫君に殉じ て 自刄 を 遂 げたり。 中尉の遺書は只一句のみ 「皇 軍 の 万歳 を 祈 る」 と あ り 、 夫人の遺書は両親に先立つ不孝 を 詫 び 、「 軍 人の妻 と し て 来 るべき 日 が参りました」 云 々と 記せり。烈夫烈婦の最期、 洵に鬼神 を し て 哭かし む の 概あり。因みに中尉は享年三十一歳、夫人は 二十三歳、 華燭の典 を 挙げしより半歳に充たざり き 。 (小説 『 憂国』 ) 小説『憂国』はまず単行本『スタア』 ( 新潮社、昭 36)に収録さ れ た が、 さらに後に、 戯 曲 『 十日の菊』 (『文 学 界 』 昭 36・ 12)、 小説 『英霊の声』 (『文芸』 昭 41・ 6 ) と ともに「二 ・ 二 六事件三部作」 と し て 、単行本『英霊の声』 ( 河 出書房新社、 昭 41)に収録さ れ た 。と はいえ 、二 ・ 二 六事件青年将校のなかに、 実際には新婚早 々 の メンバーは何人もいたの で あ り、新婚ゆえに叛乱 軍 に 誘 わ れなかった と い う『憂国』主人公の設定はおかしい と し て 、 松本健一 は 「 三島が 軍 隊の ことや 、 二 ・ 二六の こと につい て あまり詳しくない」 と 推察 す る 。そし て 三島に と っ て 「『憂国』の青年将校がど のような政治思 想、いいかえる と 志 の内容 を もっ て いるかは、 深 く追及さ れ る必要はない のだ」 と し て 、その志の絶対性に賭けて ゆく中尉の行為は「非政治的なテ ロル」 に ち か い と 指摘し て い る (9) 。 こ の指摘通り、 小 説『 憂国』 におい て 、二 ・ 二六事件そのものは単なる背景へ と 後退し、 む しろ「愛 と 死の光景、エロ ス と 大義と の 完全な融合 と 相乗作用 ( 10)」が夫妻 を 無上の至福へ と 導 い て いくさま こ そ が描 き 出 さ れ て い る。 加え て、映画 『憂国』 で 演 出 を 担当した堂本正樹 『回想 回転扉の三島 由紀夫』 ( 文春新書 、平 17)の回想 と 考 察が 、小説 『 憂国』に新たな別の 視角 を 提 供 す る。堂本は三島 と の私的交流のなか で 、 性的な「兄弟」関係 にあり、またかね て より三島が模造の短刀 を 準備し て 、 二人 で さ まざまな 趣向のもと (例えば満州皇帝の王子 と 甘粕大尉、 や くざと学 習院の坊っ ちゃ んなど )、儀式的な 「 切腹ごっ こ 」 を 繰り返し て い た 。 映画 『憂国』が済 むと その「切腹ごっ こ 」はや んだが、三島に と っ て 、 まさにそ れは「切腹 シミュレーション」 となっ て いた と い う。 また男性同性愛のアドニス会の機関誌『ADONIS』別冊「APOL LO」第五号 (昭 35・ 10)に 「 榊 さかきやまたもつ 山 保 」名 で 発 表さ れ た小説 『愛の処刑』 につい て は 、会員の一人 で も ある三島の作品 で はないか と 、 久しく論議さ れて いたが、同じく会員 で あった堂本は、三島に呼び出さ れ 、『 愛の処刑』 原稿 を 筆 写 さ せられ た ことを 前 掲書 で 伝 え て いる 。 こ の作品につい て は 、 中井英夫のもと に残さ れて いた三島自筆の大 学ノートが発見さ れ 、 これを 底本 と し て 『 決定版 三島由紀夫全集』 補 巻 ( 新潮社、 平 17) に収録さ れ た 。 『愛の処刑』は 、切腹 を 通し て の死の恍惚 と 、 眼前 で その切腹に立 ち 会 う同性愛的な一体化の狂熱 を 描いた作品 で ある。Y市の市立中 学 の体操教 師・ 大 友 信 二 ( 11)は 、 体操の時間の懲罰が原因 で 、 美少年の生徒 ・田所 を 死なせ て しまう。田所の友人 で 美少年の生徒・今林俊男は、大友の家 を 訪 れ 、 田所の死 を 償 うために大友自身の切腹死 を 求 める 。「 美少年に見届け て も らつ て 死ぬのは本望だ」 と 考えた大友は、今林が求めるままに、白の ランニング・シャツに白の 運 動 ズボン で 切腹 す る ことを 受 け入 れ る 。大友 は切腹前に今林に接吻 を 求 め、また今林は大友から形見の剃毛 をす る。大 友が切腹の刃 を 突 き 当 て る と 、 今林は大友への愛 を 告白し、血まみ れ の 大 友の苦悶 を 見 届けた後、今林自身も自殺へ と 踏み出そうとす る 。 愛 す る美少年に見届けて もらいながら踏み出し て いく大友の切腹死。そ の死の苦痛は、最高の性の歓喜に到達 す る至福 と もなる。一方、切腹に立 ち 会 う美少年・今林は、愛し て い るがゆえに相手の死 を 願 い、死にゆく相 手の苦悶 を 見 届けながら 、 その苦痛 と 歓 喜 を わ が もの と し て 打 ち 震 える 。 見届けた後には 、 自らも死 をもっ て 、大友 と の一体化 を 果 たそうとす る 。
6 ここで は サディスム と マ ゾヒスム とが、背理 を 抱 え たまま奇妙に交錯し て いる 。ジル ・ ドゥルーズの言葉 を 借り れば 、「 マゾヒスムの行 き つ くは て には、ある種のサディスムがユーモア を 含んだかた ち で 生産さ れ 、 サディ スムの行 き つ くは て に は、ある種のマゾヒスムがイロニーを 含んだかた ち で 生産さ れ る のだ ( 12)」。 大友 と 今 林は 、いずれもボードレール 『 悪の華』 (一八五七)が 「 犠牲者 で あり同時に死刑執行人 ! 」 と 詠みあげた 「 自 ラ ヲ罰スル人 ( 13)」さながらで ある。 切腹に立 ち 会 う人物の存在、そし て その立会い人は死にゆく相手 を 狂 お しいま で に愛し て お り 、 見届けた後に自らも死 を 選ぶ 。 こ の作品構造は 、 三ヶ月後に発表さ れ る小説『憂国』 と 酷 似し て い る。同性愛者同士の物語 と し て は 地下に潜らざる を 得 なかった『愛の処刑』だが、そ れ は夫妻の至 高の愛の物語 『 憂国』 と 置 き 換えられて 、 世間向けに発表さ れ た のだ 。『 憂国』につい て 堂 本は 、「 夫婦 と し て あるのは方便 で 、実は美少年 と 美 男 の構図 で あ る事 、『 愛の処刑』 と 全く同じ発想 で 構 成さ れて いるのだ」 と し て 、三島の「個人的嗜好 を 、 かくま で 公 的に刻み上げる見事さ」に感動 し て いる(前掲書) 。『憂国』につい て は 、青海健「眼差しの物語、あるい は物語への眼差し― ―三島由紀夫 『憂国』論」 (『 群像』平2 ・ 7 ) もまた 「麗子 を 〝 男 〟 で あ る と 決めつけたい誘惑にかられ る 」 と し て 、「 麗子の眼 差しはその〝女〟 を か なぐり捨 てて 夫の裸体 を 眼 で 淫 し て おり、その『最 後の 営み』の場面 はほ とん どメタファ ー とし て の男色 なの で あ る」 と述 べ てい る 。 『憂国』 で は 、至誠の大義に迫られて の切腹 と い う形になっ て はいるが、 三島の「個人的嗜好」が追求したのは、死の苦痛が性の歓喜 と 溶 け合う忘 我 と 恍惚にほかならない。 『 愛の処刑』も『憂国』も、 「エロティシズムに つい て は 、そ れが死にま で 至る生の称揚だと 言う ことが で き る ( 14)」と い うジョルジュ・バタイユ思想の実践 で あ り、痛みは歓びと 変 わ り、残酷な もの は聖 なる もの と接し て いる。 死の苦痛が性の歓喜 と 重 なる倒錯の物語 と し て は 、例えばJ ・ G ・ バ ラ ー ド 『 クラ ッシュ 』( 一九七三 、邦訳東京創元社 ・柳下毅一郎訳 ・平 20)お よびデヴィッド ・ ク ロ ーネンバーグ監督による同名の映画化 (一九九六) に照らすことも で き る だろう。自動車事故の瞬間に覚えた強烈な性的高揚 に導か れ るままに、破壊的な自動車事故のなか で のみ体験 でき る傷だらけ の性的快楽に身 を 投 げ て いく人物が描 き 出 さ れ る。そ こ で は 車 と 人体 とは 一体化し、その損壊 こ そが性 と 死の無上の歓喜 を 呼 び込 むこと に なる。 Ⅱ ﹁書﹂の空間、触覚の映画 映画 『憂国』につい て 、原作 で ある小説 『憂国』 と の関係 を め ぐっ て 、 三島は「そもそも映画化の場合には、言葉の表現による抽象作用 を 、 抽象 作用 を 経 ない前の状態の混沌に引 き 戻 す ことが必要 で ある と 思 われ た ( 15)」 と 述 べ て いる 。映画は 、先に掲げた小説 『憂国』 「壹」の梗概 を 踏 まえ て 展開 す る が 、 巻物に三島自らが筆 で 書いた背景説明が 、「字幕」 と し て 随 所に挿入さ れ るだけで 、登場人物の台詞はなく、ただワグ ナー『トリ ス タ ンと イゾルデ』 が 全編 を 包 み こ ん で いる。舞台は白 を 基調 と した能舞台 で 、 橋懸り を 備 えて いる。 こ れを 武山中尉の自宅に見立 てて いるが、家具・調 度は一切なく 、生活臭は剥ぎ取られ 、抽象的な空間の後方に 、「 至誠」 と いう大 き な書の掛軸だけが掛かっ て い る。登場人物は武山中尉 と 妻・麗子 の二人だけで 、 中尉の 軍 服 と 麗子の着物姿のみが時代背景 を 伝 える。帰宅 した中尉が切腹の決意 を 告げ、同意した麗子 と の 最後の交情が行 わ れ 、 中 尉の切腹、麗子の自害 と 続くが、時に能の所作にも近い無言劇 と し て 展 開 し、なか で も 「最後の交情」 と 「 中尉の切腹」が儀式さながらの大 き な見
7 せ場 となっ て いる。 こ の映画が 「書」 によっ て 統 御さ れて いる ことは、 改め て 言 うま で も ない。 三島自筆の「憂国」の表題に始まり、スタッフ・キャスト・背景説明 を 記 した「字幕」代 わ りの巻物も三島自筆の書 で あ る(米国公開版・仏蘭西公 開版の字幕もすべ て 三 島が手ずから書いた) 。 構成的な幾何 学と 洗練さ れ た活字が印象的な亀倉雄策の東京 オリンピッ ク ・ポスター(昭 36~ 39)に 代表さ れ る 「モダン・デザイン」の時代にあっ て 、 そ れ で も 三島は、自身 の映画 を 、 活字 で は なく、手筆によっ て 、 その文字の呪力によっ て 、 象ら ねばならない と 考 えたに違いない。デザインさ れ た活字は、呪力 を 欠いた 識別的な記号に すぎない。そ れはモダン・デザインに抗いながら 、 土俗的 なポスター作品 を もっ て 登場し てき た横尾忠則の姿勢にも通じ て おり、横 尾はしばしば手書 き 文 字 を ポスターに刷り込ん で い る。 「至誠」 と い う大 きな書の掛軸の前 で 、 中尉の帰宅 を 待つ麗子は 、 もし もの とき の覚悟 を 決 めながら 、畳紙に「形見 麗子」 と 筆 で 書く。登場人 物もまず 「書く」 こと からこ の映画は始まるのだ 。 そし て 「 最後の交情」 の後 、死 を 前にした夫妻が執り行う末期の共同作業もまた 、「遺書」 を 書 く こ とで ある。二つ並べた遺書の紙 をはさん で 、 画面右に中尉、画面左に 麗 子 が 座 り 、 正 対 して 筆で 遺 書 を 書 き あ げ る 。 石川九楊『書 とはどういう芸術か』 ( 中央公論社、平6)は、 「書 と い う のは、 単 に文字 を 書く技術 で も 、 書 か れ た文字の造形美 で も ない」 と し て 、 「書の本質」は、 「 言葉 をもっ て 世界 とわ たり合う姿 を 表 現 す る」 こと に根 ざし て い る と 述 べ る。 書における力 と は、もはや 言 うま で も なく、毛筆に加えられ る 力 で は ない。毛筆が沈 む 深 さ で も 、 毛 筆が疾走 す る速度 で も ない。政治 や 社会、 人間関係の重力に抗し て 歩 む 、 志 と その陰に ひ そ む さ まざまな人間的な ひ だ を 含 み こ んだ「間接話法」的な力の姿 で あ る。 (石川九楊『書 とはどういう芸術か』 ) こ の ように 「 書」が 、「政治 や 社会 、人間関係の重力に抗し て 歩 む 、 志 と その陰に ひ そ む さ まざまな人間的な ひ だ 」 を 含み こ ん で い る と すれば 、 三島もまた 、「書」 を 通 し て 「言葉 を もっ て 世 界 と わ たり合う姿」 を 表現 しようと し て いる。小説『憂国』に立 ち 返っ て み る と 、夫妻の「最後の交 情」 を 「書」の直喩 で 表現し て いる部分さえある。 口には出さなかつたけれど 、 心も体も 、さ わ ぐ 胸も、 こ れ が 最後の営 みだと い ふ 思 ひ に 湧 き 立つ て ゐ た 。 その 「最後の営み」 と い ふ 文字は 、 見えない墨 で 二人の全身に隈なく書 き 込ま れて ゐる やう で あつた。 (小説『憂国』 ) いま映画『憂国』の舞台造型 を 見渡した とき 、そ こ が なぜ白 を 基調 と し たのっぺらぼうな抽象空間 となっ て いるかが わ かる。そ れは能舞台 で あ る と 同 時に「書」の空間 で あ り、 血の墨 をもっ て 、 中尉夫妻が「政治 や 社 会、 人間関係の重力に抗し て 歩 む 」 姿 を 書 き こむ 空間なの で あ る。大義と 至 誠 に殉じ て 中尉は腹 を 切 る。ほ と ばしる血は白床に溢 れ 出 し、麗子の白無垢 にも血しぶきは飛び散る。愛 す る中尉の死 を 見 届けた麗子は、白無垢の裳 裾 を 血溜りに染めながら 、 中尉の周り を 儀 式的に歩 む 。 血は墨 で あり、裳 裾は筆先 で あ る。麗子は わ が身 を 筆 と し て 、 血の墨 で 「 揮毫」し、夫妻 と もに こ の白い 「書」の空間に 渾 身 の 「 絶筆」 を 仕上げるのだ 。 と すれば 、 中尉が血まみ れとなっ て 腹 を 切 り裂く行為は 、凄惨 で ありながらも 、「 墨
8 を 磨 る」聖なる行為さながらで あった ともいえよう。三島が こ の映画 を 白 黒 で 撮ったのも、血 を 黒い墨 と し て 表 現 す るため で も あっただろう。 「書は筆触の芸術 で あ る」 と 書の美の源泉 を 説く石川九楊は、 「書 と い う のは、筆記具=道具 を 手にした人間が対象たる現実世界、他者に立 ち 向 か うとき の力の態様――力の入 れ 方 、抜 き 方 、力の ふ るまい方―― を 比喩 と し て 『筆触』に抱 え込んだ表現だ と 言っ て い い」 (前掲 『 書 と は ど ういう 芸術か』 )と 述 べ て いる。ほ とばしる血の墨、 わ が身 を 筆 と し て の麗子の 「絶 筆」など 、 こ の映画には世界に立 ち 向 かう夫妻の激しい「筆触」が刻ま れ てい る 。 映画 『憂国』 は、 全編に こ のような触覚的な手触り を 伝 えて いる。 「 字幕」 代 わ りの巻物 を 白手袋の手が繰っ て いく独特の開幕 と 終幕に枠づけられ た こ の映画 で 、 冒頭、 中尉の帰宅 を 待 っ て いる麗子は、 陶器の動物コレク シ ョ ンに見入り、そのう ち 栗 鼠 を 胸に押しあ て たまま、夢想のなか で 、 幻の中 尉の手の愛撫 を 全 身に受ける。 や が て 突然床に落 ちて 割 れ た陶器の栗鼠が、 不吉な前兆 と もなる。 そもそも映画は視覚 と 聴覚 を 通 し て 知覚さ れ る もの で あ り 、「触覚的な もの」は画面から間接的に代理体験 でき るに すぎない。 と はいえ「最後の 交情」 と 「中尉の切腹」 を 見せ場 と す る こ の映画は、その触覚的な歓喜 と 苦痛が 、 強烈な代理体験 と し て 受容さ れ る こと になる 。「最後の交情」場 面は、夫妻の身体接 写で 構成さ れ て い く。眼・顔・腕・指・喉・臍・髪な ど 、 器官 をク ローズ ・アップ でオ ブジェのごと く捉えながら 、その オ ブ ジェの手触り を 強調し て い る。黒背景に光 を 受 けてこれらの器官が浮 き あ がるさまは、カ ラ ヴァッジョのバロッ ク 絵画さながらで あり、絵画的な陰 影 と 物の質感 とが肉体の歓喜 を 支 え て いる 。一方 、「中尉の切腹」は生 々 しい リ ア リ ズ ム で 死の現場 を 臨 床的に 写 し出し て い く。突 き 刺 す 刃、 どろ どろ流 れ る血、飛び出 す 腸 … … 、グロテス クな内臓感覚が こ の死の苦痛 を 覆っ て い る 。 三島自身 、 こ の ハ ラ ワタの露出につい て 、「そ れこ そはもの の衝撃 で あ り 、 肉体 と い ふもの 0 0 につい て われ われが漠然 と 抱い て ゐ る安 全感の転覆 で あ り 、 肉体の裏側 を 見 せられ る こと の恐怖 で ある」 ( 傍点原 文) と し て 、「人間の無個性な普遍的な肉体存在の実相に直面 す る に ち が ひない 」 と言 っ て い る ( 16)。 こ のような壮麗な流血劇は 、 岩佐又兵衛 『山 中常盤物語絵巻』 ( 一六二五前後?) 、 絵金(絵師 ・ 金蔵、本名 ・ 弘 瀬雀七、 一八一二~一八七六)の血しぶき 芝居絵、落合芳幾 と 月岡芳年が競作した 『英名二十八衆句』 ( 慶応2~3=一八六六~一八六七)の無残絵、さらに は黒澤明監督の映画 『椿三十郎』 ( 昭 36) ラ スト ・ シ ーン で の血の奔出など 、 一連の系譜 を 形 成し て も いる。 切腹 を 見 届けた麗子は、血だらけの中尉の唇に別 れ の接吻 を し 、次い で 自害 す るために、懐剣 を 取り出し、その刃 を 舌にあ てて 味 わ う。刃 を 舌 で 味 わ う こ の身振りは、別 れ の接吻以上に口唇的な官能 を 感 じさせる。 こ の 場面は小説 『 憂国』にも対応し て い るが ( 17)、映画 『 憂国』の触覚的な手 触り を より強く訴える場面になっ て い る。 Ⅲ 軍帽、人形、庭 能の様式の映画への導入におい て 最 も高度な達成は、 映画 『蜘蛛巣城』 ( 監 督=黒澤明、昭 32) で あろう。シェイ ク スピア『マ ク ベ ス』 を 日本の戦国 時代に置 き 換 えて 翻案した こ の映画 で 、 マ ク ベス夫人に相当 す る妻・浅茅 (山田五十鈴)は 、能面のごとき 無表情のまま 、鬼気迫る調子 で 夫 ・鷲津 武時(三船敏郎)に主君暗殺 を 唆 す 。 無表情な浅茅 と 落 ち 着 き のない鷲津 とを 対比的に配置し、 能の様式 を 劇映画の文脈に巧みに溶け込ませ て い る。 す り 足 で しずしずと 歩 み、鷲津に槍 を 手渡した浅茅だが、鷲津が凶行に向
9 うと 、浅茅も動揺し て 舞うがごと くに急調子 で 動 き ま わ る 。黒澤は、表情 の ク ローズ・アップ を ほ と ん ど 見 せる ことなく、フル・ショットの全身演 技 で 描 き 出し、浅茅の動 き に能の所作 と 舞 い を 意識させる。三島は、大島 渚 と の対談 ( 18)で 、 黒澤明につい て 、「すばらしいテ ク ニ シャン で す よ 。思 想はない。思想はまあ中 学 生 くらい で すね」 と 語っ て い るが、能の様式 と ともに異様な心理の修羅場 を 創造し て いく黒澤の「テ ク ニ シャン」ぶりは 何にもまし て 認め て お かねばなるまい。 映画 『憂国』は能舞台そのもの を 武山中尉の自宅に見立 てて 、「 能の集 約性 と 単純性 ( 19)」 を 明確な形式 と し て 援用し て い る 。 三島は川喜多かし こと の対談「映画『憂国』の愛 と 死」 (前掲) で 以下のように語っ て い る。 川喜多 主人公の顔は 軍 帽 を 目ぶかくかぶっ て い て ほ と ん ど 表 情がない のは、 や はり能の形式にしたが わ れ た わけですね。 三島 ええ、能 で は シテがお面 を かぶっ て い て 、ワキは素 すおもて 面で 、 ワ キ が ものがたりの背景 を 説明し て い き ま すね。そ れで 、能の場合、ダイメ ンション(次元)の ち がう存在の間 で 対 話が でき るん です よ。神 と 人 間 と か、幽霊 と 人 間 と か。 ここで は 、面 を か ぶっ て いる主人公の 軍 人 の方は、もう超人間的なもの で し ょう? つまり 軍 人 精神だけ で い い ん で す よ ね 、 い わ ば 。 女の方はまだ素面の人間なん です 。その女も 、 おしまいの方 で 、お化粧 す る ことで 民 俗 学 的にいうと 神 になるん です よ 。 ――お化粧は本来、神 を のり移 らせるためのものなん ですね。 (「 映画『憂国』の愛 と 死 」) 軍 帽 は面 で あ り、 軍 人 精神あるいは 軍 神 と 化 す ための装置 で あ る。澁澤 龍彦が 「 仮面のファンタジア」 ( 『美術手帖』 昭 41・ 6 、の ち 美術出版社 『幻 想の画廊から 』 所収・昭 42) で 言 うように、仮面には「人間が顔 を か く す ( あるいは顔 を 変 える ) こと によっ て、形態 を 変 えるばかりか本質ま で 変 え 、 人間ならざる別の存在に、一挙に転身したい と い う願望が こ め られて いる」のだ。 軍 帽 を 通 し て 、映画『憂国』の展開 を 見渡し て み よう。帰宅した中尉は 軍 帽 ・ 軍 服姿 で あ り、 軍 帽 の ひ さし で その表情はうかがえない。麗子に切 腹の決意 を 告げる と き 、 中尉は麗子 と 正対せず、背後から麗子 を 包み込 む ように寄り添い、腹 を 切る仕草 をす る。麗子は振り向く ことなく、正面 を 向いたまま頷く。 軍 帽・ 軍 服姿の中尉なれば こ そ、そ れ は夫から妻への告 知 で あるよりも、 彼方の 「 神なるもの」 への宣明なのだ。 「最後の交情」 場 面、 軍 帽 ・ 軍 服 を 脱いだ中尉は、夫 と し て 妻 と 向 き 合 い、眼 と 眼 で 見つめ合う。 軍 人 精神の鎧 を 逃 れ た こ の 一時 こ そ 、裸の男女 と し て 、夫 と 妻の身体の対 話が交さ れ る 。そし て 切腹場面の中尉は再び 軍 帽 ・ 軍 服 姿だ。着手の直前、 軍 帽 の ひ さしの下から麗子に視線 を 投 げる場面はあるものの、 軍 帽・ 軍 服 姿の中尉は超越的なものに向っ て 行 動し て い く こ と に なる 。小説 『 憂国』 で の 記述に照らせば 、「今から自分が着手 す るのは 、 嘗 て 妻に見せた こと のない 軍 人 と し て の公の行為 で あ る。戦場の決戦と 等しい覚悟の要る、戦 場の死 と 同等同質の死 で あ る。自分は今戦場の姿 を 妻に見せるのだ」 と い う こ と に なる。映画『憂国』は、三島自身が言うように「武山中尉に能面 と 同 じように 軍 帽 を 目 深 に かぶらせ、彼の行動 を 軍 帽 と 軍 服 で 表現しよう とし た ( 20)」衣裳劇にほかならない 。 軍 帽 を かぶる こ とで 、中尉は人間な らざる別の存在へ、 す な わ ち軍 神へ と 転身し て い く。 一方、麗子はまず日常的な着物姿 で 登場し、裸 となり、中尉の切腹には 麗しい白無垢姿 で 立 ち 会 う。愛 す る中尉の切腹 を 、 涙に濡 れながら 、狂お しい視線 で 見つめ続ける。 軍 帽に隠 れ た無表情の中尉に比べ、麗子は慎ま
10 しいなかにも、より人間的な感情に揺 れて いる。白無垢には中尉の聖なる 血が飛び散り、 や が て 裳裾は血溜り を這う。麗子は死せる中尉の周り を 儀 式的にゆっくり歩ん で い くが、 こ ろがり立っ て いた中尉の 軍 帽 を 白無垢の 裳裾が倒し、その 瞑 目 を 隠喩化 す る 。つい で 化粧 を し 、聖なる血染めの白 無垢のまま麗子も自害し、 こ こ に 「 軍 神の妻」 と 転身し て いくの で あ る。 慎まし や か な動揺 を 人間的に表現 す る麗子に対し て 、 軍 帽 ・ 軍 服の中尉 は能面の無表情 で、 「一個のロボット ( 21」あるいは人形) と し て 演出さ れて いる。そ れは統一的な舞台 を 造型し て いく演出家の役割 を 重視し、俳優の 個性 を 殺 し て 〈超人形〉 と し て 位置づけたゴードン・ クレイグ ( 22)や、 「 私 の演劇 で は 、マネキンは死 と 死者の置か れ た 運 命 からでて くる激しい感情 を 具現化し、そ れを 観客に伝えるモデル――生 き た俳優のモデル――にな らざる を 得ない」 と 語ったタデ ウ シ ュ ・ カントル ( 23)の系譜に連なる思考 であ る 。 映画における「人間人形論」 と いう ことで 言 えば、遊女 と 人形師 と の交 情 を 、黒衣 や 浄瑠璃人形 をも配し て 、 人間の人形化 と 人形の人間化 とが交 錯 す る 、 幻覚さながらの映像美に織り上げた映画 『㊙女郎責め地獄』 ( 監 督=田中登 、昭 48) や 、人間 と 操り人形 とが脈絡なく変幻 す る悪夢的な シュルレア リ ス ム映画 『ファ ウ スト 』( 監督= ヤン ・ シュヴァンク マイエル、 一九九四)などとも響 き あ うだろう。 映画 『憂国』 は能の様式に立脚した先鋭的な映画実験だが、 け っし て シ ュ ルレア リ スム映画 と 呼ぶべき 作品 で は ない。シュルレア リ スム映画が、 「変 化に と ん だ自由があり、あらゆる論理的な束縛からまぬがれ た 想像力のた えざる侵入がある ( 24) 」( アド ・キルー) と いうブニュエル的な奇想 と 驚 異 で あ る と すれば、 映画『憂国』はまた別の映画論理から生み出さ れて いる。 例えば同時代のアンダーグ ラウ ンド映画の代名詞 ともいうべき 足立正生ら による映画 『鎖陰』 (製作 ・ 脚本 ・演出=日大芸術 学 部 新映画研究会 ・鎖 陰製作委員会、一九六三)は、骨相 学 、 精神分析 学 、 解剖 学を 散りばめな がら 、愛 と 暴 力 と 死 を 超現実的なイメージ で 彩 っ て いる。 こ れ に対し て 映 画 『 憂国』は 、「 能の集約性 と 単純性」による様式化のもと 、日常性 を 払 拭し、単線的な時間軸の秩序 を 物 語的に展開し て い る。想像的な逸脱 を 排 しながら 、禁欲的な単純化によっ て 、「交情」の オ ブジェ化 と 「 切腹」の リ ア リ ズ ム を 導い て いくの で あ る。 こ の様式的な単純化の力 学は、映画 『 憂国』 を 穏 や かな浄福の ラ スト・ シーンへ と 招 き 入 れ る 。龍安寺の石庭のごと く箒の掃目模様が波打つ白砂 の庭に、 軍 帽・ 軍 服 姿の中尉 と 白無垢の麗子が、折り重なっ て瞑 目した死 の光景が 写 し出さ れ る ( 25)。先の流血はもはやここ に は存在せず 、 人間な らざる超越的な存在へ と 転身した夫妻 を 、 清らかな庭が受け入 れ る。白砂 の手触り を 感 じさせながら 、死が至福 で ある ことを 楽土の庭に刻んだ、三 島ならで はの荘重な「擱筆」 で ある。 私た ち は 庭に向 き 合 い 、 庭 を 体験 す る とき、その文化の先端が夢想し た楽土 を 知覚し て しまうの で あ る 。 私た ち の 心 を 陶酔させる庭園の快楽 は 、 作者 と 作 者が生 き た文化が夢想した楽土の反照 と し てや っ て くる 。 そし て、彼 あ の世の楽土の此 こ の世における顕現なれば こ そ 、 庭はいつも死 の翳 を 帯 び て いる。 (野田正彰 『庭園に死 す 』春秋社、 平6) ︹付記︺ 本稿 で の三島由紀夫の文章 ・発言からの引用は、初出 を 典 拠 と したが、小 説『愛の処刑』につい て は 『決定版 三島由紀夫全集』補巻(新潮社、平 17) に拠った。なお旧漢字は新字体に改めた。
11 [ 註 ] (1 ) 三島由紀夫 ・武田泰淳 ・伊藤整 「新人賞選後評」 ( 座談会) (『中央公論』昭 31・ 11) (2) ピーター ・ ブ ルッ ク『なにもない空間』 (一九六八、邦訳晶文社 ・ 高 橋康也 ・ 喜志哲雄訳・昭 46) (3 ) 座談会 「原作から主演 ・監督ま で ― ―プロデューサー藤井浩明氏 を 囲 ん で ― ―」 (藤井浩明・松本徹ほか) (『三島由紀夫研究』②〈三島由紀夫 と 映 画〉 (鼎書房、平 18・6) (4) 山田宏一「受賞 を 逃した三島の『憂国』 」( 『朝日新聞』昭 41・2 ・ 3夕刊)お よび三島由紀夫 ・川喜多かし こ 対 談 「 映画 『憂国』の愛 と 死 」( 『婦人公論』 昭 41・5) (5) 「日本 で も現 われ た切腹シーンの卒倒者 ― ― 『 憂 国 』 大 ヒ ッ ト 余 聞 ― ―」 (『 週 刊新潮』昭 41・4・ 30) (6) 葛井欣士郎『遺言 ア ー トシアター新宿文化』 (河出書房新社、平 20) (7) 「『 憂国』ヒットの意義」 (『 毎日新聞』昭 41・6 ・ 2 夕刊)および「 『 憂国』 で 若い女性が失神!」 (『週刊明星』昭 41・6・ 12) (8) 三島由紀夫「製作意図及び経過」 (『 憂国 = 映画版 = 』所収、新潮社、昭 41) (9) 松本健一「恋愛の政治 学 ― ―『憂国』 と 『英霊の声』 」( 『国文 学 』昭 61・7 ) ( 10) 三島由紀夫「解説」 (『 花ざかりの森・憂国』所収、新潮文庫、昭 43) ( 11) 『憂国』の主人公 ・武山信二 0 0 と 同 じ名 。初出の 「APOLLO」第五号 で は 「大友隆吉」 となっ て いる と い う(前掲『決定版 三島由紀夫全集』補巻、井 上 隆 史 「 解 題 」 ) 。 ( 12) ジル ・ドゥルーズ 『ザッヒェル = マゾッホ紹介 ― ―冷淡なもの と 残酷なも の― ― 』( 一九六七 、邦訳晶文社 ・邦訳題 『マゾッホ と サド 』・蓮實重彦訳 ・ 昭 48) ( 13) ボードレール 『悪の華』 「 自 ラヲ罰スル人」 に次の一節がある。引用は 『ボー ドレール全集』第一巻(人文書院、昭 38)より。 「僕は傷 で あり同時に ナ イフ! 僕は平手打 ち で 同 時に頬! 僕は引か れ る 四肢、引 き 裂 く車、 犠牲者 で あり同時に死刑執行人!」 ( 福永武彦訳) ( 14) ジョルジュ ・バタイユ 『 エロティシズム』 ( 一九五七 、邦訳二見書房 『ジョ ルジュ・バタイユ著作集』第七巻所収・澁澤龍彦訳・昭 48) ( 15) 註(8)に同じ。 ( 16) 三島由紀夫 「 映画的肉体論 ― ―その部分及び全体 ― ―」 (『 映画芸術』 昭 41・ 5 ) ( 17) 「麗子は中尉の亡骸から 、一尺ほ ど 離 れ た ところに坐つた。 懐剣 を 帯 から抜 き 、 じつ と 澄 明な刃 を 眺め、 舌 を あ て た 。 磨 か れ た鋼はやや 甘い味がした。 (中略) 麗子は良人の信じた大義の本当の苦味 と 甘 味 を 、今 こ そ自分も味はへる と い ふ 気 がす る。今ま で 良 人を 通じて 辛 うじて 味 は つ て き たも のを 、今度は まぎ れもない自分の舌 で 味 はふ の で ある。 」(小説『憂国』 ) ( 18) 三島由紀夫 ・大島渚対談 「ファシストか革命家か ― ―羽田事件 と 暴力の構 造を 追 究 す る ― ―」 (『 映画芸術』昭 43・1) ( 19) 註(8)に同じ。 ( 20) 註(8)に同じ。 ( 21) 註(8)に同じ。 ( 22) ゴードン ・ ク レイグ『劇場芸術論』 ( 一九一一、邦訳演劇研究会 ・ 邦訳題『新 劇原論』 ・ 渡平民訳・大9)参照。 ( 23) タデ ウ シ ュ ・ カントル 「死の演劇宣言」 ( 一九七五 、邦訳PARCO出版 ・ 邦訳題『死の演劇』所収・松本小四郎・鴻英良訳・昭 58)参照。 ( 24) アド・キルー『映画 と シュルレア リ ス ム(改訂増補版) 』( 一九六三、邦訳美
12 術出版社・飯島耕一訳・昭 43) ( 25) 「大 ラ ス トの二人の死 を 、 竜安寺の石庭のような白砂の波 で か こ む 事 」 を 提 案したのは堂本正樹 で あ る 。 堂本正樹 「儀礼化による永劫回帰」 ( 映画パン フレ ット 『アート シアター 』 40号 〈 憂国 ・小間使の日記〉 、 日本アート ・シ アター ・ ギルド 、 昭 41・4) 。 (平成二十一年九月三十日受理)