八 論 説
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行為概念の説明機能
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43一一『奈良法学会雑誌』第9巻1号 (1996年6月〉 目 次 問題の所在 行 為 概 念 の 機 能 刑 法 に お け る 行 為 論ρ
意 義問題の所在
現 在 、 わが国においては行為論はあまり活発に論じられていないし、それを議論する意義自体が疑問視されつつあ る。米田弁護士は、行為論の理論的意義について﹁むしろ行為論は、それが行為論あるいは国富島E
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論であるこ とを止めることによって始めてその正しい理論的地位・機能を回復するのである。それは決して﹃刑法体系の中心間 題﹄ではないし、そんなものにしてはならない。もし、行為論に意義があるとすれば、そのような観念的論議が導い て行く先は全く空しい不毛の迷路であること、実際問題を扱う実務家はそのようなものに思いわずらう必要がないこ ︿ l u とを明らかにすることにあるといってよかろう﹂とされる。また前田教授も﹁一九六0
年代までは、犯罪論体系のすべてを演緯する基礎となる﹃正しい行為論﹄が探求されていたように思われる。だが、社会を制御する手段として、 いかなる場合に刑罰を科すのが合理的かを判断する道具である犯罪論が、哲学的な行為論のみから導き出されるはず がない。観念的な行為論は、機能的な犯罪論にとっては、非生産的なものであった﹂とされる。これらの見解におい ては﹁観念論﹂あるいは﹁哲学的﹂な行為論が不要または有害とさえ看徴されている。 これに対して最近、行為論の意義を意識的に論じ直そうとする動きが存在することが注目される。まず井田教授は その目的的行為論を論じられた最近の一連の論文のなかで﹁目的的行為論とその他の行為論との聞には、方法論的レ ベルにおける基本的認識の相違が存在する﹂ことを示そうとされ、 ﹁現在において有力な学説として主張されている 一連の見解が目的的行為論によって(のみ﹀その存在論的基礎づけを与えられること、さらにいえば、これらの学説 は目的的行為論を(少なくとも暗黙のうちに)前提としないかぎりは採用できない学説だということである。目的的 行為論を過去の理論として位置づけることは、刑法学はその法的評価の対象の存在のあり方にいっさい考慮を払う必 要はないとするのと同程度にナンセンスな主張なのである。目的的行為論(およびその存在論的方法論)は否定され 克服されるべき学説なのではなく、一面の真理を明らかにし(おそらくそれをいささか誇張した形で示し)た学説と ハ 4 ) して、現在および将来の犯罪理論においても確固たる地位を与えられなければならない﹂とされる。また松生教授は ﹁刑法的評価の基本モデルとしての行為﹂に関して﹁伝統的な行為論は、いずれも、最初に挙げた基本要素、結合要 素、限界要素という機能を完全に果たすものではなかった。しかし、前構成要件的な評価段階として行為論があまり 意義を持たないとしても、それは刑法学が人間の行為についての基本理解を持たなくてもよいということを意味しな ぃ。目的的行為論が後の刑法解釈論に及ぼした影響を考えてみても、人間の態度をいかなる観点から考察するかとい う基本問題は、構成要件、違法、責任という刑法体系の各段階で決定的な意義を有するものであり、刑法解釈の際に
まず念頭になければならないものであ日︺と述べられる。これらの見解においては、従来の刑法体系論における行為 論とは異なった意味付けがなされているように思われる。このような見解の対立をいかに評価すべきであろうか。以 下ではまず行為概念の機能という観点からアプローチしてみたい。
行為概念の機能
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ドh (1) ド吋 は 冨包ぎな円の分類 一九五三年に行為概念の機能を、①基礎機能又は定義機能、②結合機能および③限界機能の三つの 機 能 に 分 類 し た ( 表 参 照 ) 。 いくつかの教科書においても採 ﹂ の 分 類 は 、 わが国でもこの分類は周知のものであり、 用されているものであるが、以下で簡単にその内容をみておこう。 45一一行為概念の説明機能 ①基礎要素としての機能(﹁行為﹂概念の論理的な意義) ②結合要素としての機能(﹁行為﹂概念の体系的な意義) ③限界要素としての機能(﹁行為﹂概念の実践的な意義) まず①の基礎機能(定義機能)であるが、宮内包ぎな円は﹁あらゆる体系的分析は、 る統一的な概念から出発しなければなら﹂ず、それが行為概念だとするのである。これは、 ブローチに基づくもので、行為をアリストテレスのいう官E
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巴 自 己 ロ ( 最 も 近 い 類 ) 一つの、全体系連関の基礎とな いわゆる分類的体系化ア のとして捉えるものである。従って分類機能と呼ぶこともできよう。これに対して可己℃旬。はこのようなアリストテレス流の定義理論は現在 ( 8 ) の科学理論から維持できないものであると批判している。 次に②結合機能について 冨 包 宮 内 耳 は﹁あらゆる刑法体系には、 犯罪の包摂の際に貫かれなければならず、 そこから﹃合法的でない﹄とか﹁有責な﹄とか﹃可罰的な﹄というような無価値判断が生じるような評価の諸段階が ︿ 9 u 一つの機能的な連続体の内に存するということが配慮されなければならない﹂としている。阿川口℃宮 はこの機能を認 めることは暗黙の内にこれらによって結合されるもの(即ち構成要件該当性、違法性、有責性)が同位の述語であり、 それらが行為という客体(個物)を修飾するものとあるという理解が前提とされているが、そのような理解はあまり にも﹁単純であると同時に誤ってもいる﹂と厳しく批判する。例えば行為責任としての責任は、不法構成要件を対象 としているのであって、そのことからみても結合要素として行為の理解は不当で不要なものだとされるのである。 最 後 の ③ 限 界 づ け 機 能 に つ い て は 、 行 為 概 念 に は ﹁ そ の メ ル ク マ ー ル に よ っ て 刑 法 的 な 考 察 の 絶 対 的 ( 日 ﹀ ( ロ ﹀ な下限を画する﹂という機能があるとする。この機能については H M C 2 5 も後述のように一定の意義を認めている。 γ 白 川 凶 F F o 同巾﹃ しかしこの機能に過剰な期待はできないし、 また他の段階で不可罰とされるもの(例えば責任阻却事由)との関連も 必ずしも明確とはいえないであろう。 以上でみたように、冨包甘え買の機能三分論は、広く受け容れられているにも拘わらず、理論的には非常に問題の 多いものなのである。 (2) 同 MCE ︺ ゅ の 分 類 このコ一つの機能(①基礎機能、②結合機能、③限界付け機能)の他に H M 毛宮は、行為概念の機能としてさらに④
罪数論における行為単数と行為複数を区別するする基準としての機能及び⑤﹁説明機能﹂と呼ばれるべき機能、そし て⑥実質化機能及び⑦帰属機能または始動機能
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が あ る と い う ( 表 参 照 ) 。 罪数論における機能以外の後者の三つのさらなる機能についてその内容を検討してみよう。 ﹂ こ で は 、 やや特殊な ⑦ ⑥ ⑤ ④ ③ ② ① 基礎機能・定義機能 結合機能 限界付け機能 罪数論的機能 説明機能 実体化機能 帰属機能・始動機能 まず従来、独立の機能としては意識されてこなかったが、特に不法としての犯罪や人聞の行為としての犯罪が語ら れるときに重要な役割を果たしてきた機能として⑤説明機能があるとされる。この説明機能は、行為の概念をもって、 47一一行為概念の説明機能 に 、 不 運 で は な く 、 他の事情、特に自然現象と区別される犯罪に本質的なものを一般に言明する。犯罪は、それが人間の行為であるが故 為 論 、 回 向 付 与 ∞ る 次に⑥実質化機能に関しては、 ﹁刑法における構成要件は、行為によってのみ充足される﹂というテーゼに最も典 不法として理解され、帰属され、責任非難にさらされる。このような機能は、とりわけ目的的行 の行為論、社会的行為論およびの認知的行為論において本質的な役割を果たしてきたとされ 聞 内 向 包︹ U ﹀ 型 的 に 現 れ て い る と 司 ロ 也 ℃ 巾 は い う 。 こ れ は ヲ ﹄ 匂 旬 。 に よ れ ば 、 ( 隠 ﹀ アリストテレスの実体と偶有概念と関連した議論で もーあり、そのような定義理論が現在でも有効かという上述の問題と関連する。そしてこれは抽象的な概念の現実の事 例への適用の問題である。即ち数学の関数と変数の関係と同様の問題であり、その際行為という個別変数が必要かと いう問題なのである。そこでは行為は個物としてではなく、むしろ関係概念であるという理由から、実体的な捉えか ︹ 悶 ) たについては?壱唱。は批判的である。 最後の⑦帰属・始動機能は司ロ宮おによれば外部的な出来事をまず最初にある人に結び付ける機能、帰属の第一段 ︿ 泊 ﹀ 階 、 即 ち 帰 属 を 始 め る 起 点 を 定 め る 機 能 で あ る 。 同 ︾ 己 目 ) 同 ) ゆ る 。 は後述のようにこの機能を自説の展開において重視してい (3) 行為概念の諸機能の調和不能性 以上のように刑法における行為論には様々な機能が想定されてきたが、果たしてそのような多様な機能を行為とい またそのような行為概念を構築することが可能なのであろうか。 ( 辺 ﹀ ﹁賢者の石を求める錬金術師﹂の望みのようなものであるとする。そ ( 勾 ﹀ してその際の問題点として特に行為のいわゆる﹁アコーデオン効果﹂の問題を指摘している。この﹁アコーデオン効 ( 製 ) 果﹂というのは、哲学の行為論における﹁行為の記述﹂という議論と関連した論点である。われわれが行為について われわれは行為の記述を用いる。その際の行為と記述とは﹁行為についてわれわれが述べる際に用いる う一つの概念に果たせしめることが妥当であろうか、 H M 己 目 ) 同 ) ゆ はそのような行為概念を求めることは 述 べ る 際 に 、 言語表現﹂である。この行為記述、即ち﹁ある一つの行為を言語表現で記述する場合の幅は、きわめて柔軟でその幅 を広くも狭くもしてやることができる﹂のである。このことがアコーディオンの伸び縮みに喰えられて﹁アコ 1 デ ィ
( お ﹀ オン効果﹂と呼ばれるのである。例えば、 門 部 ﹀ いう事例について、この行為は次のような様々なかたちで記述することができる。 ①﹁指を動かす﹂ ﹁
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が仕事から帰ってきて家のドアを聞けて、部屋の明かりをつけた﹂と ②﹁スイ γ チ を ひ ね る ﹂ ③﹁明かりをつける﹂ ④﹁部屋を明るくする﹂ ⑤﹁空き巣狙いに警告を与える﹂ ( 空 き 巣 狙 い がA
帰宅前から物陰に潜んでいた) (警告を与えられて驚き発作を起こした) ( 訂 ﹀ また司己目︼匂ゅのあげる不真正な文書の作成(偽造)の事例でも、その行為は、 ⑥﹁空き巣狙いに心臓発作を起こさせる﹂ ①﹁紙に文字を措く﹂ ②﹁その文字に含まれる線を引く﹂ ③﹁ベンを持ち上げる﹂ (次の@から⑤はそれをさらに細分化したものである) ④﹁そのベンを降ろす﹂ 49 行為概念の説明機能 ⑤﹁そしてそれを一定の方向に動かす﹂ といった様々なかたちで記述することができ、 さらに細分化することも、文脈を拡大することも可能なのである。さ らにどのような意図があるのかということも行為をどのように記述するかに係ってくる。 ﹁ エ J ア ィ 。 フ ス ・ コ ン 。 フ レ y クス﹂で有名なエディプス(オイディプス)王の事例においても、その行為を ①﹁道で出会った旅人を殺す﹂あるいは②﹁自分の父親を殺す﹂ ( お ﹀ と記述することができるが、①の記述のもとでは意図的であるが、②の記述のもとでは意図的ではないのである。 このような行為の記述の問題を考えるとき、重要なのは行為の実体は何かというような問題ではなく、行為の置か ハ 却 ) れている文脈は何かということである。このような理解は、後期当
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の語の﹁使用説﹂や最近の言語哲学 ︹ 加 ﹀ における﹁語用論﹂と関連するものであり、松生教授の志向的行為論も特定の文脈における記述(刑法においては構 成要件記述)ということを重視されるのである。それについては後述することにしてここではまず、行為ということ を考える際に文脈を離れた実体を想定することができるのかという問題がこの﹁アコーディオン効果﹂の問題と関連 して存在するということを指摘しておこう。 ﹁ ︿ -F U N 同 お よ び 切m
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以来の正しい法をめぐ さらに H M Z E ) σ は日常言語の多義性の問題なども指摘した上で、 る議論全体が、この行為概念によって全体としての犯罪について何かを言明しようとしているのか、それとも犯罪の 構成における、その最も下層の構成段階における個々の単純な要素についてのみ何かを言現しようとしているのかが (引剖﹀ はっきりとしていなかった﹂という問題点を指摘している。そして結論としては行為論のこれまであげられてきたす べての機能を同時に満たすことは不可能であるとし、むしろ重要なのはその中からどの機能を重要なものとして選択 することであるとした上で、行為概念の内容に関して、因果的行為概念について複雑な評価の必要のない単純な概念 から分析を始めるメリヅトがあるという好意的評価を加え、さらに帰属機能・始動機能の観点から見ても、作為犯の 場合には、身体運動が起点とされるが、それは始点として明確であり、アコーデオン効果から生じる問題も少ないと ハ 明 MV している。但し、彼女も不作為犯に場合に困難が生じることは認めており、上位概念が問題となるとする。そこでは 不作為とは何か、存在論的﹁無﹂か﹁社会的現実﹂かということが問題になるとされ、その問題は作為と不作為の上位概念としての事態というものを想定することによって解決できるとされる。そして、作為と不作為の
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であるとしている。次に限界付け機能についても、因果的行為論は、身体の主ではな い場合、例えば自動化された行為・反射行為などを問題無く行為から除外することができるとする。そして結論とし て 司 ロ 宮 ) σ は自らの行為概念を次のように定義する。即ち﹁行為とは、ある人が、その人にとって外面的に行ったり、 ( お ﹀ 行わなかったりすることが可能な一定のことを行うこと又は一定のことを行わないことという事態である。﹂ このような司王)宮の見解は、説明機能ではなく、むしろ限界機能や帰属・始動機能を重視したものであるのは明 らかである。しかしそのような機能にのみ限定して行為論を構築することは果たして有意義なことであろうか。そし て因果的行為論と実際上あまり変わらない行為論を主張することは、方法論的にも自然主義的な要素を過大評価し、 人間の行為の持つ特性を見失ってしまうことに繋がる危険があるのではなかろうか。また限定機能についても、因果 的にどこまでもさかのぼることになってしまうのではないか(例えば殺人者を産んだ母親の事例)という問題やアコ ーディオン効果の問題(何を基準に記述するのか?)も本当は解決されていないのではないだろうか。 むしろそのようなあまり実践的意義の乏しい機能を求めるよりも、行為論の機能としては﹁説明機能﹂に限定して 議論する方が有意義であるように私には思える。 51~一行為概念の説明機能 ハ 訂 ) ここで官頭に触れた井田教授の見解についても検討を加えておこう。井田教授は、堀内教授のコメントに対し﹁新 たな行為論の構築に向けての第一歩﹂を試みたものではないとされているが、結論的には目的的行為論の示した存在 論的な方法論に賛成されている。この見解も行為論の意義を説明機能の観点から捉えなおそうとしたものであると浬 解できよう。但しこの存在論的な人間の行為理解が、例えば上述の﹁アコーディオン効果﹂問題等の具体的な問題に ついて説得的な解答へと苓く容ができるのかについてはなお検討が必要であろう。さらにこれも官頭で紹介した日本における行為論を議論すること自体への批判についても触れておこう。哲学的議 論をすることは有益ではなく、そのような講論をする必要がないとする論者であっても人間の行為に対してそれを理 解する際には何らかのモデルを想定しているはずである。哲学における議論との対比は、それらの無意識的に想定さ れているモデルを分析し検討する際に有用なものであり、最初からそれを参照することはすべて無意味だとなど決め 付けることは非常にナンセンスな主張である。もちろん哲学の理論においても刑法的問題の分析に役立たないものも 数多く存在するであろう。しかしこれまで見てきたように哲学的な議論の中には刑法における議論と直接的な関連性 を持つものが多くあり、それゆえ従来から刑法学と哲学は密接な関係に立ってきたのも偶然ではないのである。その 意味でも﹁説明機能﹂を強調することには意義があろう。 刑 法 に お け る 行 為 論 の 意 義 これまでみてきたように刑法上の行為概念は﹁説明機能﹂を中心に再構築されるべきである。それでは人間の行為 を説明するモデルとしていかなる理論が妥当であろうか。この間題を考える際に重要だと思われるいくつかの問題点 をいくつか指摘しておこう。 行為説明の基本的視点 まず第一に問題となるのは行為を考える際の基本的視点である。この点について興味深い分析をされるのが志向的 行為揃
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主張される松生教授の見解である。松生教授は従来の見解が前提としていた視点として、人間の行為を因果 的な操作の対象と考える政策的・抑止的な視点があったとし、それに対して志向的行為論は国民に何が規範であるかを供達するという伝達的・了解的視点に立つものであるとされる。さらに松生教授は、志向的行為論と刑法の任務と ( 却 ﹀ の関連で重要な指摘を行われている。それは因果的行為論が、人間の行為を因果的に統制するという消極的一般予防 論と結びつくのに対し、志向的行為論は、規範の安定化を図るという積極的一般予防論へと繋がるものであるという ことである(表を参照 ) 0 伝達的・了解的視点 積極的一般予防 この見解は、行為論が人閣の行為を説明する際にいかなる視点に立っかが重要な役割を果たし、かっそれが刑法的 な文脈で決定的な意義を持つ刑罰目的論と結合するものであることを示した点で貴重なものであるといえよう。基本 的に人間の行為を統制の客体としてのみ考えるような視点には二つの疑問がある。まず第一に人間の行為を因果的に 53一一行為概念の説明機能 統制することが事実的に可能かという疑問である。これは刑罰による犯罪抑止効果に関する議論において指摘される 問題点であり、人間の行為を決定する要因は非常に複雑なものであり、犯罪を抑止するための統制の対象となる要因 を特定することは非常に困難ではないかという問題である。次に、仮に事実的に因果的統制が可能であるとしても、 そもそも人間の行為を統制の対象とすることが許されるのかという規範的な観点からの疑問である。そのような考え 方は人間の尊厳を認めたり、他人の人格を尊重するという思想(﹁人格であれ、そして他人を人格として尊重せよ﹂) と調和不可能ではないだろうか。
の 4 次に哲学の行為論において指摘されているいくつかの個別論点の中から刑法の議論と関連すると思われるものをい 行為説明の個別的問題点 くつかあげておこう o そのような論点として、 まず第一に前述のアコーディオン効果の問題があげられる。この議論 との関係でそれ以上湖ることができない﹁基礎行為﹂、が想定されることがあるが、何が基礎行為であるかということ ( 位 ) ( 必 ) をいかにして定めるかという問題もある。そしてさらに心的因果性の問題がある。これは哲学におけるいわゆる身心 ( H 世﹀ 問題との関連で議論されているものであるが、心的現象とを因果関係によって説明できるかという問題である。この 間題について伝統的な解答は、いわゆる古典的意思論理論と呼ばれる見解である。この見解によれば﹁ある人が行為
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を行う﹂ということは﹁ある人の心中にA
の原因となるような意思V
が 存 在 し 、A
が惹起される﹂とされる。このよ ︿ 必 ﹀ うな古典的意思理論への批判として代表的なものは HN10 の批判である。それは次の四つに点に要約できるとされる。 ①行為に意思という心の状態が先行するという事実を、通常は確認することができないことがある。 ②他人の行動の理解においては、理解されるべき他人の意思と身体運動の関係が単に推測されるだけになってしま う こ と が あ る 。 ③意思を保持しつつある心と、 その意思によって運動をするようにさせられた身体とのつながりが不明瞭である。 ④意思の原因を求めて無限に遡らければならなくなる。 このような批判に基づいて展開された主張が心的現象には因果的な説明が妥当しないとするいわゆる反因果説である。 これに対して新たな観点から心的現象にも因果的な説明を試みようとする因果説が対立しているのが現代哲学の状況 な の で あ る 。 以上のような問題点について明確な解答を与えているのが松生教授の志向的行為論である。 アコーディオン効果問( 必 ﹀ 題については、行為の記述と規範的考慮の必要性を明らかにされ、心的因果性の問題については、主に
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の見解に依拠され、反因果説の立場を表明されている。このような哲学における志向的行為論の議論は、行為と意思 の関連に関するものである。しかし刑法においては結果を必ずしも志向していない過失も処罰の対象になっている。 志向的行為論の立場から過失の問題をどのように説明できるのかが明らかにされねばならないように思える。確かに 志向的行為論は、意思と行為との関係を説明しようとしたものであり、実体的な意思の存在を前提としたものではな く、同様の説明は過失においても可能であろう。しかし過失をも包括した行為を志向的行為と呼ぶのは少なくとも名 称としては誤解を生む余地のあるものではなかろうか。もっともこのような若干の疑問にもかかわらず、この説は方 法論的に正しい方向を示しているように思える。なぜならば人聞の行為の独自性と行為記述の際の文脈依存性という 行為説明の際に重要な要素が明示されているからである。 η。
以上の考察から人聞の行為を自然現象などから区別し、 行為の概念規定 さらに統制の客体とすることを否定することが望ましいと 55一一行為概念の説明機能 いう結論が得られた。同様の方法論に立つと思われる最近のドイツの行為論のなかで最も注目されるのは、E
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の見解である。まず基本的な視点として彼は、﹁行為概念は社会の前に求められるのではなく、社会の中に求められ なければならない﹂とし、﹁社会的な解釈シェーマ﹂を重視する。この点に着目して司王}旬。はこの見解を﹁社会理 ハ 印 ) 論的行為概念﹂と呼んでいる。そしてE
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は行為概念を段階的に考察し、行為であるといえるためには、まず① ﹁個人的に回避可能にある結果の決定的理由になること﹂、②﹁規範妥当の不承認、即ち語られている規範が指導的 な格率ではないという内容の意味表現の客観化﹂であること、そして最終的に③﹁規範妥当損害に有責的に管轄を持( ぬ ) つこと﹂であるとする。ここでは行為は犯罪であり、犯罪は行為である。即ち行為の中には﹁刑法の全プログラムが ハ 町 田 ) 貯蔵されている﹂のである。
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一 このような定義には全く記述的な要素が含まれておらず、説明機能が他の 機能と調和不可能であることを示す一例だとしている。またω
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は、このE
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。まの行為概念は実は行為概念を ﹁行為概念なき行為論としての刑法解釈論﹂であると t土 示したものではなく、犯罪概念を示したものものに他ならず、 する。そして確かに刑法解釈論においては犯罪概念が最も重要であるが、犯罪としての帰属体系においても、日常生 の言葉)になって 活上の作為・態度・不作為といった区別が十分に考慮されやす﹁すべての牛が黒くなる夜﹂(国高巳 しまう嫌いがあるとω
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は 批 判 す る 。 このような批判が示しているようにE
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の行為論は結論的に行為概念を否定し、犯罪概念を示したものであり、 国高己流の行為概念への単なる回帰に過ぎないのであろうか。まず言えることはT
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の行為論ははじめから行為 概念の﹁説明機能﹂のみに着目しており、他の機能との調和をはかるというような問題意識は全くないということで ある。そのような観点からは責任なき行為は認められなくても、行為 H 犯罪であっても一向に構わないのであって、 その意味では国 σ m m -流の行為論への回帰をむしろ意図的に目指したものであるといえる。しかしそこには同居円一色 理論についての新しい解釈の試みが見られる。それはコミュニケィティブな意味表現として行為を解釈しようとして いる点である。即ち刑法における行為者の意味表現とは規範が自分には妥当しないという意味表現(法の否定)であ り、刑罰はそれに対してなお法が妥当しているということ示すこと(法の否定の否定)であると理解される。両者は ﹁語りかけ(何色。)とそれへの返事(﹀ロ件当号。﹂と解釈されるのである。そしてこのような作用を通じて規範の妥 当性が確保されるとされ、その作用がいわゆる積極的一般予防の主張と繋がっていくのである。ここで注目しなけれ ばならないのはここでいう積極的一般予防とは、例えば処罰によって各人の規範意識が次第に強化され、それによって実証的に犯罪が減少していくといったことが念頭におかれているわけではないということである。むしろそのよう な実証的効果は周辺的なことだと
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は主張する。すなわち刑罰の本質的な作用は規範の否定という意味表現に 対する答えであり、そのような(コミュニケイティブな)相互作用から切り離された将来的な﹁予防﹂効果が志向さ れているのではなく、そのような相互作用の一部なのである。そのように考えると本来的にプロスベクティブな﹁予 防﹂という表現を使用する事は既にミスリ 1 デングであるようにも思える。むしろこのような考え方は、刑法を事後 処理と捉える考え方と馴染むものではなかろうか。もっともこのような考え方が規範的な考察方法と調和可能かどう かはなお疑問もあろう。この点についてはなお検討を加えていかなければならない。 行為論を﹁説明機能﹂の観点から再検討することが重要であると考える私見においても、以上で指摘した問題が残 るものの、基本的にこの松生教授およびE
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の理論によって示された方向が妥当であると思われる。そして行為 を概念規定するならば人間の﹁コミュニケィティブな意味表現﹂であるということができよう。その際、どのような 場合に意味表現といえるかについては社会的な文脈に依存するものであり、刑法との関連では当該社会でどのような ものが犯罪とされているかという問題と切り離して考察することはできないのである。そして最後にもう一度確認し ておきたいことはここで示された﹁説明機能﹂を中心とした行為の理解は、人間の行為を統制の対象とすることの否 57一一行為概念の説明機能 定へと繋がるものであり、その意味で出品己の(消極的一般予防論は)﹁あたかもわれわれが犬に対して杖を降りあ げるようなものであり、人聞は人間の誇りと自由との面から遇されるのでなく、犬のように遇されることになる﹂と いう批判を新たな観点から再評価するものなのである。 ( 1 ) 米 国 泰 邦 ・ 行 為 論 と 刑 法 理 論 ( 一 九 八 六 年 ﹀ 一 一 一 一 一 頁 。 こ れ に 対 し て 反 論 し た も の と し て 上 田 健 二 ﹁ 犯 罪 論 体 系 に お け る行為概念についての﹃反時代的考察﹄﹂中古稀(一九九二年)四五頁以下。 ( 2 ) 前田雅英・刑法総論議義(第二版・一九九四年﹀一六四頁。なお同所では行為の定義について﹁刑法上の行為は、﹃人の 身体の動静﹄と定義すれば足りる。刑罰の対象は﹃人﹄に限られるからである。:::このように定義することは、犯罪論の もっとも外枠として、単なる内心は処罰しないということの宣言的意味はもつが、具体的には各構成要件の﹃実行行為﹄、 例えば﹃殺す行為﹄といえるのかによって処罰範囲は決定される﹂とされる。 ( 3 ) 井田良・法律時報六一巻七号(一九八九年)一五
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頁 。 ( 4 ) 井田良・犯罪論の現在と目的的行為論(一九九五年)三四頁。 ( 5 ) 松生光正(伊藤寧他)・刑法教科書・総論的(一九九三年)一O
五頁。同所ではさらに﹁たとえば、行為をすでに具体的 な意思内容を持つものとして理解するかどうかは構成要件や違法において主観的なものを考慮するかどうかに影響する。さ らにそれは違法の本質を外部的な世界の変更に認めるか、人間の行為そのものにみるかの対立につながる。行為を事実的な ものとしてとらえるか、評価的な観点からとらえるかも刑法体系に影響する。これは、たとえば、不作為を行為概念に包摂 できるかという問題のみならず、構成要件、違法、責任という評価の方法そのものを決定するのである﹂とされる。 ( 6 ) 呂 田 仲 FCP3 ロ ミ 回 出 口 門 出 口 口 岡 田 σ 叩 間 同 ・ 即 時 日 ヨ ︿ 開 門 σ ﹃ 開 門 F m H M 曲 由 三 m H H f H由 日 ω ・ω
・ 叶 ・ ( 7 ) これは有名なアリストテレスの定義論、即ち号皆同氏。営U
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・上田健二・浅田和茂訳﹁ギュンタ1・ヤコブ59一一行為概念の説明機能 ス・刑法上の行為論 L 立命館法学二二七号(一九九三年)九八頁以下。 ( 日 ) 同 内 田 H 1 m t w 国 間 口 2 5 M m ロ ロ a o H a ロ ロ ロ m H B ω 同 門 担 片 岡 町 n v y の E D 内 出 血 m 冊 ロ 冊 目 固 定 WO 間 三 昨 日 4 叩 口 出 田 町 凶 ロ 門 出 口 口 問 中 口 口 弘 ∞ 丹 E P F m o
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m H u s -この認知的行為論については松村教授の詳細な研究がある。松村格﹁認知科学と刑法的行為論││オウトポイエティシュな システム論を顧慮して 111 ﹂駒沢大学法学論集五O
号(一九九五年)九七頁以下。なお松村教授は、行為論の要素として、 志向性、因果性、目的性、社会性、認知性等の各要素をすべて考慮すべきであるとされるが、それらの相互関係をどのよう に捉えるべきかという問題が残るであろう。 ( v m ) 例 え ば 回 同 信 Bgp 同 由 民 H H M g ロ ・ の ω ( 巴 ∞ 3 ・ ω ・ 5 A F 等 。 ( U ) 同 M H M 切切0 ・前掲注 ( 8 ) ︿ D 円 申 お 河 口 - A E -( m m ) これは上述のアリストテレスの定義論とも関連している。﹁実体(ウ i シア)﹂の意義についてはアリストテレス・前掲注 ( 7 ) 一 七 五 頁 以 下 、 ﹁ 偶 有 的 ( シ ン ベ ベ l コ ス ど と い う 概 念 に 関 し て は 同 ・ 一 一 一 一 一 頁 以 下 参 照 。 ( m 印 ) 司 ロ 沼 田 u p 前掲注 ( 8 ) ︿ 己 申 毘 河 口 ・8
・ ( 却 ) 同 V H H ℃ 同 封 切 前 掲 注 ( 8 ) ︿ ミ 申 民 間 口 ・ 品 0 ・ ( 幻 ﹀ H J M H ぷ 5 ・前掲注 ( 8 ) ︿ D 円 ゆ E F M ・E -( 詑 ) M M Z Z P 前掲注 ( 8 ) ︿ ミ ゆ H U 河 口 ・ ぉ ・ ︿お)この問題については刑法学においても既に百 E E ロ 8 3 H 丘 町 口 氏 。 ロ 田 町 田 225pg ∞ 0 ・ ω ・ 5 2 ・ が 指 摘 し て い た 。 ( M ﹀松生・前掲注 ( 5 ) 一 一O
頁 を 参 照 。 (お)門脇俊介・現代哲学(一九九六年)一六六頁以下。 (お)門脇・前掲書注(お)二ハ七頁の設例。 ( 幻 ) 同 M E H ︼ 司 P 前掲注 ( 8 ) J H D H ゆ H 印 刷 山 口-h
・ (お)門脇・前掲室田注(お)一七O
頁 。 ( m m ) 司 王 町 巾 5 5 F Eロ B o z -R Z 口 出 丹 市 門 田 口 n F 5 m g w 宝 ω 3 5 長 田 B U ・4 司 REE 何 回 Z w 切 己 -r ω -N 2 ) ・ (初)これに関しては松生・前掲注 ( 5 ) 一 一 八 頁 以 下 参 照 。 ( 川 副 ﹀ H J H 2 v p 前掲注 ( 8 ) ︿ O 円 ゆ お 河 口 - A F 吋 ・( M M ) 司 ロ
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前掲注 ( 8 ) ︿己申毘河口 -A F ∞ 同 ・ (お)そしてその﹁事態﹂が真ならばそれは﹁事実﹂(吋白Z
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で あ る と さ れ る 。 ( 出)
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・ ( 幻 ) 場 内 捷 三 ・ 法 昨 吋 ム ハ 一 巻 七 号 一 四 九 頁 。 (叩叫)井田・法時六一巻七号一五O
頁 。 (ぬ)この志向的行為論は、元来哲学における理論であり、それを刑法に関宮島E
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前掲注(お﹀∞ -NH 印南・が導入し、ゎ が国では松生教授が主張されているものである。この志向的な考察方法は、他の考察方法といかなる関係にあるのだろうか。 まずこの点をロg
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句会∞コ)を見解を中心にみておこう。u m
ロ ロ 目 立 は説明をしたり予一言をする際の二一つのスタンス、すなわち物理的スタンス、機能的スタンスおよび志向的スタンスを区別し ている(表を参照)。そして最後の志向的システムにおいては行為の帰責公認円目立芯ロ)が重要であるとしている点が注目さ れ る 。 ︿ 包 -Z 司 君 。 ロ ¥ ︿ ∞ 同 三m
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由 m y ω ・ ︼ 岳 民 ・ 合理的行動 志向的状態 r、、 r、、r、r、 43 42 41 40 '-''-' '-''-' 松生・前掲書注 ( 5 ) 一 一O
頁 。 国 四 m m Y の2
岳 山 口 問 自 己 m H ︼U E
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-∞ N Y ゆ ω 由 ( 邦 訳 ・ 高 峯 一 愚 ・ 法 の 哲 学 四 八 頁 ﹀ ・ 松生・前掲書注 ( 5 ) 一O
七 頁 。 なお松生・前掲書注 ( 5 ) 一O
八頁以下及び共犯との関連で林幹人・刑法の基礎理論(一九九五年)一七七頁以下も参照。61一一行為概念の説明機能 ( 川 制 ﹀ こ れ に つ い て は 門 脇 ・ 前 掲 書 注 ( お ﹀ 一 四 一 一 貝 以 下 お よ び 222 ロ ¥4 ・
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ロ子前掲書注(鈎) ω
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コ 吋 を 見 よ 。 (必)門脇・前掲書注ハお﹀二ハ二頁以下。これに対して現在の新しい因果説の代表的な見解として黒田一旦・行為と規範(一九 九二年﹀五四頁以下等がある。 (必)門脇・前掲書注︿お﹀一六四頁以下。詳しくは E A m w 吋 宮(
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宮 え 宮 山 口 弘 、H
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邦訳・坂本百大・宮下浩子・服部 裕幸・心の概念)を参照。 ( 円 引 ) 松 生 ・ 前 掲 書 注 ハ 5 ) 一O
五 頁 以 下 。 ( 何 叩 ﹀ 特 に ︿ O口 当 ユm
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戸(邦訳・丸山高司・木岡伸夫・説明と理解)を参照。松生・ 前掲書注︿ 5 ﹀ 一O
七 頁 以 下 。 ︿ 的 自 ) ﹄ 曲 目 向 。 宮 前 掲 書 注 ( M ﹀ ω -M 寸時・この﹁解釈シェーマ﹂の不明確性を批判するものとして、P
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・ ( 印 ﹀ 同 M g H ︼ 司 P 前掲注 ( 8 ) ︿ ミ ゆ 昆 何 回 ・8
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・ ω -N N ( 邦訳・金子 武 蔵 ・ 精 神 の 現 象 学 ・ 上 巻 二 ハ 頁 ) ・ ( 凹 むP
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同 ・ ( 印 ) 士 口 岡 一 男 ・ 刑 事 学 ︿ 一 九 八O
年﹀、同・刑事政策の基本問題(一九九O
年 ) 等 を 参 照 。 ( 回)
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当日 c p ∞ 広 州 ・ ( 伺 ) 出 品 向 叩 目 前 掲 書 注 ( 川 出 ) 申SN
ロ gR( 邦 訳 ・ 九 二 頁 ) . なお最近ドイツや日本で、人格的行為論を再評価する動きがあることが注目される。例えば河 O 岡 山 口 は ﹁ 人 格 表 現( p
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-目 n y w 冊 目 宮 山 吉 田 叩 門 ロ ロm
﹀﹂として行為を理解すべきであるとしている。ロRT22
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