東京からまいりました新井です。よろしくお願いいたします。このような大きな教室で 話をすることは想像しておらず、驚いております。と同時に、午前中の報告と質疑をお聞 きしていたら、会場からするどいご指摘やご質問があるので、少々びびっているところで す。 本日の私の話は、「五日市憲法」についてですが、ここにいらっしゃる方のほとんどは「教 科書で習ったことがない」という世代の方だと思います。現在は、中学校と高校の教科書 にはほぼ載っており、大学の入試問題などにもよく出されます。だから、高校生に聞いて みると、全くわからない人もいますが、それなりに答えが出てくるようです。 はじめに その「五日市憲法」を、今からちょうど 50 年前に、私が発見したというより、たまたま 最初に触ったわけです。私が触るまでは、ある土蔵に埋もれていました。歴史というのは、 最初から全てが明らかになっているわけではなくて、どの歴史もみな埋もれているわけで す。それをいろいろな人が調査したり研究することで、一つ一つ明らかになって、ようや く歴史のなかに位置付けられていくわけです。そういう努力がないと、歴史というものは 生まれてきません。ただ、もちろん現実問題として時代は移ってきているので、その刻ま れてきた歴史を誰かがきちんと掘り起こして、その歴史的な価値を認めていかなければな りません。そして、これは世の中に紹介した方がいい、あるいは皆さんに知っておいても らった方がいいという意味で、いろいろな歴史研究がなされて、たくさんの論文や本とい うものが生まれるのだと思います。この五日市憲法も、そういう意味では、長い間埋もれ ていたのですが、土蔵の調査をすることによって、ようやく歴史の表舞台に出てきたとい うことです。私の大学時代のことなので、既に 50 年たちました。私は 70 歳をとうに超え、 定年退職もいたしました。ただ、私はこの半世紀、毎日それに取り組んできたわけではあ りませんが、折りに触れてこの憲法について考えてきた 1 人です。たまたま卒業論文で取 り上げたテーマではありましたが、半世紀も付き合ってきたということで、私の人生とは 切り離せないものであり、私の人生を決めてしまったものといえます。ある一つの歴史資 料と出会ったことが、その人の人生を決めるというのはなかなかないことだと思いますが、 私はそういう経験をしたということです。 私は東京経済大学という単科大学で学びました。現在は 4 学部ある大学になっています 【歴史・民俗】
土蔵の中で「五日市憲法」を最初に手にしてから 50 年
−歴史発掘と地域史研究の醍醐味− 元専修大学 教授、高麗博物館 館長、 成田空港・空と大地の歴史館 名誉館長 新井 勝紘が、当時は経済と経営だけに特化した大学でした。文学部の歴史学科ではなく、経済大学 で学んだ人間が曲がりなりにも歴史研究者になって、最終的には大学の教員として学生に 歴史を教える立場なったわけですが、それまでの経緯を考えると、あの史料との出会いが なければ、こういうことはなかったと思います。 では、50 年前に五日市憲法が発見された土蔵を、こんな土蔵から発見されたというこ とを、皆さんに見ていただきたいと思います。 1.「五日市憲法」との出会い 今からちょうど 50 年前の 1968 年 8 月 27 日、この土蔵を調査することになりました。 私が直接言ったわけではありませんが、「朽ちかけた土蔵」と呼んでいました。この扉を開 けるたびに土壁がぽろぽろと落ちて、中がむき出しになってしまう、そういう土蔵でした。 屋根は檜皮葺ですが、夏草が生い茂っているというか、ぺんぺん草みたいなものが生えて いました。「こんな土蔵を調べて、いったい何が出てくるのか」と思ったこともあります。 この土蔵があったのは、東京でも西部のほうです。東京は、特別区と市・島嶼に分かれ ていますが、市の方は多摩地区と言われます。かつては三多摩、すなわち「北多摩郡、南 多摩郡、西多摩郡」といわれた地域です。実は、この土蔵のある地域は、明治時代は神奈 川県でした。東京ではなかったのです。それで、ふと地図を見たら、神奈川の隣は静岡です。 その隣が愛知県なので、ここは隣の隣ということで、そんなに遠いところの話ではないと 思って聞いていただければと思います。それで、その、かつて神奈川県だった西多摩郡の 山村に、「ここが東京?」というくらい西にある、「奥多摩」という地域がありますが、そこ と埼玉県との県境に雲取山という高い山があります。そこは山梨県にもつながっているわ けです。 土蔵へは JR 五日市線の終点で降りて、そこから歩いて 1 時間くらいかかりました。現 在もバスは入っていません。今は車で行くことになりますが、私たちが調査に行った時は、 舗装もしてない砂利道を歩いて行きました。だんだん山が迫ってきて、家もポツポツとあ るだけで、あたりは完全に山村風景になります。こんな山の中の土蔵を調べて何が出てく るのだろうか、というような感覚になりました。 (1)開かずの蔵 そして、深沢さんというお宅跡に残された蔵を開けることになりました。この蔵は、別 名「開かずの蔵」とも呼ばれていました。家人以外誰も開けたことがなかったわけです。 この写真では、蔵の手前は平らになっていますが、ここにはかつて母屋がありました。 母屋は昭和の初めに取り壊し、ご家族は町の方に移られました。ここには蔵と、裏の山の 中腹に深沢家の歴代のお墓、家墓というのでしょうか、それがあります。そして、入り口 のところには、立派な門がありました。江戸時代の名主の家です。深沢村 1 番地という、 まさに村の一番いいところにある山林地主の家でしたが、私たちが行った時は門と蔵とお 墓が残っているだけでした。
実は、私の指導教授である色川大吉先生は、かねてより深沢さんに、「この蔵を開けて ほしい」というお願いをしていました。色川先生というのは、私の世代で日本の近代史を 学ぶ者にとっては、「この 3 人の研究者の本や論文は読まなくてはいけない」といわれてい たうちの 1 人でした。あとの 2 人は、早稲田大学の鹿野政直氏と、名城大学、そして最後 は一橋大学におられた安丸良夫氏です。近代史、とくに民衆史を学ぶには、この 3 人の研 究者の論文を勉強しなければいけないということでした。そのお一人が色川大吉先生です が、大変おめでたい名前です。『色川大吉著作集』が筑摩書房から出ています。現在 94 歳 で、ご健在です。最近もお会いしたところ、お体の方は少し衰えておられましたが、まだ まだ舌鋒鋭くていらっしゃいました。そういう色川大吉先生のもとで私は学びました。40 代そこそこの色川先生は、一般教養の日本史を担当されていましたが、経済大学では一般 教養担当の先生もゼミを持っておられたので、私は色川先生のゼミに入りました。 それで、色川先生は前々から深沢家の蔵に注目されていて、「ぜひ調べさせてほしい」と お願いしていたそうですが、一向に了解が得られなかったということでした。そういう家 だったので、歴史研究者や大学の先生たちが来て調査したことは一度もなく、誰もこの家 の蔵を調査したことがなかったのです。町の歴史、郷土の歴史を調べている人も入ったこ とがないわけです。深沢家の人たちは町の方に引っ越されており、蔵だけぽつんと残って いたわけですが、当時のご当主も、「ほとんど行ったことがないです。子どもの頃にちょっ と入ったことはありますが」という話をされておられました。 調査の了解が得られなかった理由の一つは、色川先生が交渉された当時のご当主という のは、深沢家に養子に入られた方で、「余計ガードが堅かった」ということのようです。自 分のところの蔵を、学生も含めて大勢がどやどやと入ってきて調べるということは、よほ どの信頼関係がないと普通はどこの家でもお断りするものです。「ちょっと蔵の中を見せ てください」と言われて、「はい、どうぞ」と言う人はそうはいません。だから、「開かずの蔵」 となっているのも当然といえば当然だったと思います。ましてや、養子に入られた方なの で非常にガードが堅かったというわけですが、実は 1967 年に、そのご当主が亡くなられ ました。1968 年はちょうど明治 100 年という年でしたが、その前の年にご当主が亡くな られて、次のご当主に代わられました。この方は、聞くところによると大学の先生をされ ているということでした。それで、「大学の先生ならば少しは理解してくださるのではな いか」という期待もあり、明治 100 年という年でもあったので、再交渉されたわけです。 (2)蔵を開ける −地域の視点から歴史を考える− さて、今年(2018 年)は明治 150 年ですが、明治 100 年の時に比べると、全然盛り上がっ ていないように感じます。明治 100 年については、政府も随分と力を入れていました。各 府県、地域でもいろいろな催事を実施していました。県立博物館や郷土の森など、そうい うものがこの明治 100 年を機につくられました。また、県史や市史なども明治 100 年が契 機となってかなり作られたと聞きます。私は、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館 で 10 数年ほど仕事をしていましたが、国の博物館で「歴史」と付くのは唯一ここだけで、
通称「歴博」と呼ばれています。なお、ほぼ似たような博物館で、日本で最大の博物館が、 大阪万博会場の跡にある国立民族学博物館ですが、ここは「民博」と呼ばれています。西 の民博、東の歴博というのが、かつての文部省の直轄の博物館です。上野の東京博物館、 京博、奈良博、九州博などは文化庁管轄の博物館ですが、歴博と民博は文科省直轄の博物 館であり、ある意味で「ナショナルミュージアム」といえます。「日本の歴史をきちんと普 通に見られるところがない」ということは、明治 100 年より前から言われていました。そ こで、明治 100 年を機に、きちんと歴史をテーマにした国立の博物館をつくらなければい けないという状況もあってつくられたわけです。そういう国立博物館をつくる契機になっ たのも「明治百年」だと聞いています。そういう意味では、今年はそれから 50 年経ちまし たが、いまひとつ盛り上がっていないという気がしました。 ただ、気になったのは、当時の首相の話です。毎年元旦には首相の年頭挨拶があります が、当時の首相は佐藤栄作氏でした。佐藤栄作首相が、「今年は大事な年だ。明治から 100 年だ。この大事な年をどういうふうに国として継承するか」ということで、「秋には一大イ ベントを開きたい。明治百年祭を開く」というようなことをいわれていました。では、な ぜ明治 100 年を祝うのか、ということが問題なのです。佐藤栄作首相の記者会見によれば、 「(日本の)この 100 年間のすばらしい歩みは外国も認めている。物質文明、精神文明で西 欧に追いつき、追い越そうとしただけでなく、100 年前の人たちは世界的な観点に立って ものを考え、発言した。また、100 年前の人々の国家意識が強かった点にも心打たれる」、「社 会的、国家的、民族的な連帯感が高揚されなければ、民族は発展しない」といっているの です。この 100 年間のすばらしい歩み、国家意識の強さ、世界的な観点で考えている、と いう言葉で絶賛しています。「今の日本があるのは、この明治の時期が基礎をつくってく れたからです」というふうに、非常に肯定的な 100 年の歴史認識をしているわけです。 それを受けて、色川先生は、「きみたちは、どう思うの? 首相はそう言っているけれど、 本当にそんなにめでたい 100 年なのか。お祭り騒ぎをするような 100 年か」ということを 強くおっしゃっていました。色川先生は 1925 年(大正 14 年)生まれで、学徒出陣の世代です。 場合によっては、特攻隊に入って亡くなっている世代です。色川先生は東大の国史の出身 でしたが、「多くの仲間の死を見てきました」と日頃からおっしゃっていました。そういう 戦争体験者からすると、「明治 100 年でお祭りをするという意識はおかしい」ということで す。1945 年までの間に日本はどれだけ戦争をしてきたか。しかも、朝鮮、韓国をはじめ、 中国やアジア諸国など、隣国を戦場にしてどれだけの犠牲者を出したかしれません。「そ のことを抜きにして、すばらしい 100 年、アジアでも見本になる 100 年なんていうことは、 私にはどうしても納得できない」ということをゼミでおっしゃっていました。「すばらしい 100 年」という歴史の捉え方を、当時は通称「バラ色論」と言っていましたが、色川先生か らはそういう問題提起を受けたものです。「とりわけ近代史を学ぶ学生諸君は、ちょっと 考えたほうがいいのではないか。これは今年の課題ではないですか」ということを、年頭 に言われました。では、どうしようか。どうしたらバラ色論を切り返すことができるだろ うか。そういう発想のなかでいろいろな議論はありましたが、「地域の歴史から考えてみ
たらどうだろうか」という話が出たわけです。大風呂敷を広げて、上からの目線でばっと 掴むのではなくて、もっと足下の歴史からこの 100 年というものを、いや 100 年というよ りもむしろ 1945 年までの歴史をきちんと検証することが大事なのではないか。というの が、ゼミの最初の話でした。 そういう話のなかで、明治 100 年というものを相対化するために地域の歴史からもう一 度切り返してみようとしたとき、たまたま「開かずの蔵」があり、この蔵を開けてみよう ということになった次第です。 (3)蔵を開ける −小田急電鉄創業者・利光鶴松に影響を与えた「五日市」への興味− さて、この蔵を開けることには、もう一つの理由がありました。 ■利光鶴松 「利光鶴松」という人物がいました。この人も大変おめでたい名前です。新宿と小田原 を結ぶ私鉄小田急線は、今は箱根や湘南方面にもつながっていますが、その小田急線の創 業者が利光鶴松さんです。この人は小田原出身でも東京出身でもなく、実は大分県出身で す。幕末期に生まれ、流れ流れて神奈川県までやってきます。東京の八王子で警察官をし ている叔父さんを頼ってやってきて、そこに居候していました。その若い利光青年は、叔 父さんが五日市警察署に転勤になると、そこへ一緒に行くわけです。昔は居候とか食客と かいろいろな言い方がありましたが、要するに、まともな仕事にありつけずに、少しは手 伝うのでしょうが、飯だけは食わせてもらうというわけです。そういう状況で、八王子と 五日市で暮らしていたわけです。 それは明治 17 年から 19 年のことで、自由民権運動の時代です。『利光鶴松翁手記』(小 田急電鉄株式会社開業 30 周年記念出版、1957 年 7 月刊(昭和 32 年刊))によれば、「神奈 川県五日市地方ハ 実ニ自由党ノ巣窟ナリ 地方ノ有力家ノ皆悉ク自由党員ナリ 就中 町長 馬場勘左衛門 豪族 内山安兵衛 深澤権八ノ三氏ハ 深ク天下ノ浪士ヲ愛シ 之 ヲ厚遇セシニ依リ 四方ノ有志 伝聞シテ来遊スルモノ甚ダ多シ」とのことです。 五日市は、実に自由党の巣窟というわけですが、自由党とは何か。日本で最初にできた 政党です。与党ではなく、野党です。当時の明治政府に対抗する政党で、総裁は土佐の板 垣退助です。五日市は町長をはじめ、村の有力者みなが自由党員です。反対の人は 1 人も いません。みなが天下の浪士を深く愛し、これを厚く迎えてくれたわけです。五日市に行 くと何か食わせてもらえるとか、待遇がいいという話を聞いて、あちらこちらから流れ流 れてやってきます。利光さんはたまたま叔父さんを頼って行ったわけですが、利光さんも そういう人たちの 1 人だったと思います。 ■私設深沢図書館 そして、「東京ニテ出版スル新刊ノ書籍ハ 悉ク之ヲ購求シテ書庫ニ蔵シ居タリ 氏ハ (深沢さんは) 予ニ対シテ(利光さんに対して) 氏ノ蔵書ハ好ムニ任セテ 之ヲ読ムノ 絶体自由ヲ与ヘラレ 予ハ読ムベキ書籍ニハ 曾テ不自由ヲ感ジタルコトナシ」とありま す。
当時、書籍というのは、とりわけ欧米の翻訳書は高く、何円もしました。当時の小学校 の教員の月給が 5 円ぐらいで、10 円ももらっている人はそんなにいなかったと思います。 そんなときに何円もするような本は買えません。そのなか、豪農の深沢さんは、東京で出 る本はことごとく買って、リクエストすればそれも買ってくれる。そして、それらを自由 に読んでいいというのです。まさに太っ腹で、懐の深い人です。日本ではこれから間もな く公立の図書館ができることになりますが、それに先行するかたちで、このような「私設 図書館」が五日市では生まれていたのです。 ■勧能学校 そして、明治 5 年の学制によって小学校ができます。各村に 1 校ずつできたわけではな く、複数村の合同でできるわけです。この文章では、「勧農学校」は「農」になっていますが、 「能」が正しいです。 「勧農学校ハ公立小学ナレドモ実際ハ 全国浪人引受所 ト云フノ形ニテ 町村ノ公費 ヲ以テ多クノ浪人ヲ養ヒ 県ノ学務課ヨリ差向ケタル正当ノ教員ハ 片端ヨリイジメテ追 ヒ出シ 県ニ於テモ止ムヲ得ズ放任セルヨリ 勧農学校ハ全ク浪人壮士ノ巣窟トナレリ」 とあります。 全国にたくさんの新設の小学校が、明治の 5 年から 10 年の間にそれぞれできますが、 こんな学校があるのか、と思うような中身の学校でした。まだ師範学校などはできていな いので、正式な教員が揃っていたわけでもありません。公立の小学校はできても、江戸時 代の寺子屋の師匠がそのまま横滑りで教えている学校が多かったと思います。学校の建物 も新設でつくっていないので、お寺の庫裏を借りるなどして、仮校舎からスタートしてい るわけです。その中で、「勧能学校は全国浪人引受所」という受けとり方をしています。そ こにはいったいどんな人が来ているのだろうか、と想像を逞しゅうしてしまいます。正式 に来た人をいじめて片っ端から追い出すようなところに利光青年はやってきて、3 年間い ます。 小田急線は昭和 2 年に開通します。この本は 1957 年(昭和 32 年)に小田急開業 30 周年 を記念して創業者の伝記を出版しようということで作ったものなので、非売品でした。関 係者にしか手に入らない本でした。私は後年、ようやく、ちょっと高い古本を手に入れま したが、なかなか入手できない本です。大学の図書館にはあって、ゼミでは「前もってこ れを読んだ方がいいよ」と言われた記憶があります。私たちはこの本を読んでいたので、 ひょっとしたらこの蔵の中には利光さんたちが読んだ本もあるのではないか、という期待 感は若干ありました。ただ、まさかそこから憲法草案が発見されるとは夢にも思っていま せんでした。もちろん、指導教授の色川先生も想像しておられませんでした。いずれにせ よ、利光さんの伝記が出たということは非常に大事なことです。 さて、利光さんはその後、この勧能学校という小学校の先生を少しされるのですが、五 日市では自分がいかに勉強不足かということを自覚して、3 年後には勧能学校を辞めて、 東京に出て、明治法律学校(現在の明治大学)に入り法律の勉強をします。当時の言葉で
いえば「代言人」、今でいうと弁護士の資格を取り、都内の下町に利光法律事務所をオー プンします。そして、法律の相談を受ける活動をします。その頃、ようやく明治政府も国 会を開設し、憲法をつくるということで、近代国家としてのスタートをきりました。そこ で、利光さんは国会議員に立候補し、めでたく一度で衆議院議員に当選します。彼は政治 家として、それなりの仕事をしました。ただ同時に、あの頃の政治家は、政治だけでなく、 随分と起業もしていました。そこで、利光さんも、おそらく一番はやっていた鉄道事業を 始めようと考え、小田原と新宿を結ぶ小田急線の開設事業にのりだしたというわけです。 利光鶴松さんの手記は一部分しか紹介できませんでしたが、自分が若い頃のことを詳 しく書いておられます。そのなかには、「五日市というところでどれほど影響を受けたか、 わからない」ということも書いておられます。成功してさまざまな事業を手がけ、政治家 としてもそれなりの仕事をされた方ですが、「その自分の原点は五日市だ」ということを強 く伝記の中で述べられています。あの時、三田で学んだら、つまり福沢諭吉に学んでいた らどうだっただろうか。あの時、大隈重信のところで学んだらどうだっただろうか。おそ らく今の自分はなかっただろう、というわけです。「あの五日市というところで衝撃を受 けたことが、ものすごく自分にとっては大きかった」ということを、この伝記の中で繰り 返し述べられているのです。 こういう事前学習をした上で、この土蔵を開けてみようということになったのです。 2.五日市憲法をめぐって (1)自由民権運動から生まれた「私擬憲法」 では次に、この土蔵から出てきた「憲法草案」についてです。この憲法草案が出てきて 以降、50 年経ちましたが、いろいろな経験をしました。思わぬ経験もしました。 1968 年 8 月 27 日に土蔵から出たわけですが、この憲法がオリジナルなものであるとい うことは、すぐにはわかりませんでした。しかし後年、この憲法は非常に有名になり、今 では中・高の歴史の教科書にも載り、東京都の文化財にも指定されています。 当時は、さまざまなメディアでも取り上げられました。「あなたが最初に手にされたそ うですが、その時の喜びは?」など、しつこく聞かれたことがありますが、「その時の喜び はありません」と答えるしかありませんでした。というのは、その憲法が、本当にオリジ ナルなものであるということは、研究して初めてわかったからです。この憲法の正式名称 は「日本帝国憲法」で、五日市憲法ではありませんでした。実は、私がそれを最初に見た時、 大日本帝国憲法かと思ったのです。明治憲法を書き写したものだな、と思ったわけです。「憲 法発布以降、こんな田舎の村の青年たちが憲法に関心を持って、一条一条写し取った」と いうふうに思ったので、彼らがそれなりに国会や憲法に関心があったのだということはわ かりましたが、彼らがまったく独自にこの時期、国の憲法を考え出したなどということは、 数十日間の間は何もわかりませんでした。だから、「喜びは何もありません」と答えるしか なかったわけです。
最終的には、この憲法は、自由民権運動の時代に生まれたものだとわかりました。まだ 大日本帝国憲法はできておらず、もちろん国会もまだ開かれていなかったわけです。民権 運動の主たる主張は「国会開設」で、「憲法の制定」もそのうちの一つでしたが、なかなか明 治政府はそれに取り組みませんでした。国会開設はずっと後になり、帝国憲法もずっと 後です。そういうなかで、自由民権運動側がしびれを切らして、「政府がつくらないなら、 われわれがつくろう」ということで、民間メンバーが次々と憲法の構想を立てました。全 部調べたわけではありませんが、いろいろな方の研究を総合すると、一つの憲法を少し修 正したり、修正したものを二つに数えるということも含めて、あるいは憲法をつくったこ とはわかっているけれど未発見のものも含めて 100 を超えます。100 を超える憲法が、政 府の手によってではなく、まさに民間の在野の人々の手によってつくられていたという時 代は、他の時代にはありません。私は日本の近代史のなかで、憲法の時代は 3 期あると思っ ていますが、その第 1 期が 1880 年代、自由民権運動の時代だったと思います。その時期 の有名な憲法草案としては、土佐の自由民権運動が生み出した植木枝盛という人が書いた 憲法草案があります。これも既に教科書などに載っています。また、板垣退助を中心に結 社ができますが、その立志社がつくった憲法草案もあります。そういった有名な憲法草案 は既にいくつかわかっていたので、色川先生曰く、「おそらくそういう憲法を誰かが借りて、 それを書き写したに違いない。どういう憲法を書き写したのか、まずはそれを調べたらど うか」ということで、そこから私の研究は始まったのです。 ところが、調べてみたところ、同じものがないのです。そこで 9 月のゼミでは、「同じ 憲法はありません」という報告と同時に、「中身は非常に優れた民主主義的な憲法です」と いうことを発表しました。「ないはずはない」というようなことも言われましたが、「ないと いうことはどういうことか。ひょっとしたら、この憲法はこの地域でつくられた、全く今 まで出てきたことのない、新しい憲法草案である可能性があるのではないか」ということ になりました。色川先生も乗り出してこられて、先生の指導の下に私の研究も進めていく ことになりました。卒業論文も書かなければなりません。8 月の末に出会った史料をテー マに、その卒論を 12 月には提出しなければならないわけです。ごくわずかな期間しかな いので、本当に書けるのだろうかと思ったくらい、それからの数か月は大変でした。あれ ほど勉強した記憶は今までないというほど、集中しました。ともかくその研究を進めて、「五 日市憲法」という卒業論文を書き上げました。 (2)私が体験した発見後の社会的な影響 その頃から少しずつ新聞にも取り上げられるなど、さまざまなことがありました。 ■新聞報道から始まり、テレビで最初に取り上げてくれたのは NHK でした。「明るい農村」 という早朝のテレビ番組です。「明るい農村」という番組が作られていたということは、逆 にその頃の農村は暗かったのだ、と思ったりします。その番組のディレクターの方が最初 に、「五日市という山村から、非常に優れた民主的な憲法が発見されました」ということを テレビで取り上げてくださり、私もその時に初めてテレビ出演した記憶があります。多少
はやらせがあって、「初めて手にしたような顔をしてください」と言われ、そう簡単にはで きず顔がこわばった記憶があります。また、大橋巨泉氏が夜中にやっていた「11PM」でも とりあげてくれました。 ■本も出ました。また、講演会、連続講座、シンポジウム、都民カレッジ、カルチャーセ ンター等々に呼ばれ、さらに、展示会も開催されました。 ■ゆかりの地域を歩くということで、いろいろなグループをご案内しました。一度行って みたい、土蔵を見てみたい、土蔵の中に入ってみたい、新井先生はどこで手にしたのです か、その場所に行ってみたい、というような要望が次々と出てきたわけです。 ■教科書については、筑摩書房の国語の教科書に、色川先生の講演録が載ったのが最初で した。その後、高校や中学校の日本史や社会科の教科書にも載るようになりました。 ■「五日市憲法の碑」というのが全国に 3 カ所建てられています。立派な碑です。 ■発見から 15 年経った 1983 年に、東京都の指定文化財になりました。 ■憲法草案をつくったのは千葉卓三郎という一人の男性でした。彼の生まれた宮城県志波 姫町(現栗原市)と五日市町(現あきるの市)は姉妹都市を結び、現在も交流が続いています。 ■演劇や、ドキュメンタリー映画にもなり、最近では「五日市憲法の歌」がつくられ、また「み んなの憲法」という映画制作も企画されています。 ■ここ数年間も、テレビでいろいろ取り上げられました。NHK の E テレでは「自由民権 東北で始まる」という番組が作られ、色川先生と菅原文太氏、憲法学者の樋口陽一氏が 出演されました。 ■ 2012 年、「NHK 歴史館」の、「帝国憲法はこうして誕生した」という番組に私も出演しま した。 ■ 2016 年、TBS ラジオの番組、「荻上チキ Session-22」に引っ張り出されました。荻上チ キさんという男性は若手の論客で、最近はテレビにもよく出ている方です。 等々、いろいろなことがあり、さまざまな経験をさせてもらいました。 (3)美智子皇后と五日市憲法 今では「五日市憲法」に対する社会的な認知もできたと思いますが、最近のビッグニュー スは、2013 年の皇后陛下のコメントだと思います。皇后は毎年 10 月の誕生日に、コメン トを出されます。宮内庁の記者クラブの方が直接マイクを向けて質問されるのではなさそ うですが、「皇后様は毎年いろいろなところへお出かけですが、今年もいろいろなところ を巡ったなかで一番印象に残ったのは何でしょうか」という質問をされるのだそうです。 それに対して、皇后が紙媒体でお答えになられるようです。 それで、その 2013 年のときのお答えは、「…5 月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法を めぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。」主に新聞紙上 での憲法論議に触れながら、「かつて、あきる野市の五日市を訪れた時、郷土館で見せて 頂いた『五日市憲法草案』のことをしきりに思い出しておりました。明治憲法の公布(明治 22 年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げ
た民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の 下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、204 条が書かれており、地方自治権等につ いても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも 40 数か所で作られていたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への 強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。長い鎖 国を経た 19 世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するもの として、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います。…」というものでした。 「世界文化遺産にしてもいいような内容のものですよ」という、衝撃的な内容でした。 皇后がこのような発言をされるんですか、と驚いてしまうようなご発言でした。特に、最 初の「今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が」というのは、誰がそういうこと をやっているのか、そういう人たちが議論していることを認識されているわけです。皇后 が憲法に関してこのように政治的発言をされたのは最初で最後かと思いますが、五日市憲 法のことに触れながら、こういう発言をされたのです。天皇と皇后が五日市に来られて、 五日市郷土館に展示してあるものをご覧になったわけです。その時、五日市憲法を誰が説 明したのかなと思いましたが、私も、私の恩師の色川大吉先生も呼ばれなかったので、きっ と市長か、市の教育委員会の誰かが説明されたのだと思います。しかし、これほど皇后に 感動を与えたものだったのです。五日市憲法については碑が造られたり、ドラマになった り、テレビで放映されたり、歌を作った人がいるとか、この間にいくつか波がありました が、この 5 年ほど前の皇后の発言は、それなりに衝撃を与え、マスコミも一斉に飛びつい てくれました。そして、五日市憲法に再び光が当たることになったのです。 当時、「皇后陛下のご発言をどのように思われますか」というコメントを取るために私の ところに電話がかかってきて、ちょっと困ったなと思ったことがありました。「私なんか より憲法学者たちに聞いてください。あるいは私の恩師とか…」と言ったら、「皆さん、お 断りになりました」ということで、仕方なく私が答えざるを得ませんでした。「皇后でなく ても、この憲法を見て、普通に読んでみれば、それなりにすばらしい憲法であるというこ とがわかります。通常の感覚として、この憲法を受け止められたのではないでしょうか。 世界の文化遺産というところまでの発想はなかったのですが、そういうことまで言ってい ただいたことは、発見に携わった者としては大変ありがたいです」というようなことを答 えました。そういう大きな事件がありました。 3.「五日市憲法草案」を読み解く では、「五日市憲法」とは、どんな内容の憲法なのか。 これは、全部で 204 条もある、たいへん長い憲法です。第 1 条、第 2 条と条数が振って なかったため、私が振りました。卒業論文を書くために条項を数えたところ、全部で 204 条あったわけです。大日本帝国憲法の 3 倍、日本国憲法の 2 倍ほどあります。長いからい いというわけではありませんが、いずれにしても、長文の憲法草案です。 冒頭に「日本帝国憲法」とありますが、「日」という文字が半分くらい虫に喰われていまし
た。それで、もしかしたら「大」という文字も虫に喰われてしまったのかと思い、「大日本 帝国憲法」を写したのではないかというのが私の最初の印象でした。 そして、「陸陽仙台 千葉卓三郎草」とあるので、「陸陽仙台の千葉卓三郎という人が起草 した」ということでしょう。 「第一篇 国帝」から始まっています。全文は紹介できないので、以下、主要なところ をご紹介します。 (1)五日市憲法草案と日本国憲法 ■「日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ 他ヨリ妨害ス可ラス 且国法之ヲ保護ス可シ」 これは、現在の日本国憲法第 11 条、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」 ということと、第 12 条、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力 によって、これを保持しなければならない」に匹敵する内容です。大変シンプルな表現で すが、まさに「基本的人権を保護する」と言っています。「これが国の基本です。国がつく る法律は、人間の権利、自由を守るためにあるのです」ということで、逆にいえば「これ を侵害するようなものは法律として認めません」とも読めます。すごいな、と思いました。 今の日本国憲法につながります。 ■「凡ソ日本国民ハ族籍位階ノ別ヲ問ハス 法律上ノ前ニ対シテハ平等ノ権利タル可シ」 貴族とか士族とか、いろいろ階級、肩書き、そういうものを問わず、全ての国民は平等 である。日本国憲法第 14 条、「すべて国民は、法の下に平等であって」云々という、戦争 を経て私たちが手にした日本国憲法に何ら遜色のない内容です。 ■「凡ソ日本国ニ在居スル人民ハ内外国人ヲ論ゼズ 其身体生命財産名誉ヲ保固ス」 これは、「日本国に住んでいる人は、日本人だろうが外国人だろうが、その体や生命や 財産や名誉というものは固く守られます」と言っています。今の日本国憲法下でも、内外 国人を論じているものは多々あります。長い間日本に住んでいる在日の方に対して、きち んとした権利を与えているかというと、在日の方たちにしてみれば多くの不満があるわけ です。日本に在住する外国人の権利についてきちんと保障しているということを考えると、 五日市憲法の持っている時代を先取りした「先駆的なもの」をここに感じます。 ■「子弟ノ教育ニ於テ其学科及教授ハ自由ナル者トス 然レトモ子弟小学ノ教育ハ父兄タ ル者ノ免ル可ラサル責任トス」 これは教育のことを言っています。「子どもたちの教育において、どのような学科をど のように教授しても自由です。ただ、親たる者は最低限、自分の子どもに小学校の教育を 受けさせなければいけない」ということです。子どもから言わせれば、「小学校の教育を受 ける権利がある」ということです。それが憲法で保障されているということです。 大日本帝国憲法にこういう条項があったでしょうか。ありません。今の日本国憲法第 26 条には「すべて国民は、法の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を 受ける権利を有する」と、教育を受ける権利は保障されていますが、五日市憲法のように「教 育の自由、教育の権利」というものをこれだけストレートに言ったものは少ないと思いま
す。 ■「府県令ハ特別ノ国法ヲ以テ其綱領ヲ制定セラル可シ 府県ノ自治ハ各地ノ風俗習例ニ 因ル者ナルカ故ニ必ラス之ニ干渉妨害ス可ラス 其権域ハ国会ト雖トモ之ヲ侵ス可ラサル 者トス」 「府県の自治、つまり地方自治というものは、それぞれの地域の自治については、絶対 に干渉妨害してはいけません。その地方自治権は、国会といえども侵すことはできません」 ということです。今の日本国憲法では、これほどきちんと地方自治権を認めていません。 長い間、地方分権が叫ばれてきました。どれだけ私たちが地方分権を獲得しているかどう かは明確には言えませんが、いずれにせよ、まだ国と地方の間にはさまざまな権利関係が あって、どうしても国の側に左右される、あるいは国の意向を忖度せざるを得ないことも あるように聞いています。その地方自治権というものを、「国会といえどもそれを侵して はいけない。それぞれの地域の独自性に任せるべきだ」としているわけです。地方自治権 についても、先駆的かつ先鋭的な内容になっていると思います。 ■「国会ハ政府ニ於テ 若シ憲法或ハ宗教或ハ道徳或ハ信教自由或ハ各人ノ自由或ハ法律 上ニ於テ諸民平等ノ遵奉財産所有権或ハ原則ニ違背シ或ハ邦国ノ防禦ヲ傷害スルカ如キコ トアレハ 勉メテ之レカ反対説ヲ主張シ之カ根元ニ遡リ 其公布ヲ拒絶スルノ権ヲ有ス」 これは一度読んだだけではよくわからない文章です。憲法の条項としては、あまり練ら れていない文章だと思います。もう少しはっきり、すっきりさせてほしい、と言いたくな るような条文です。ある意味で、法律の専門家ではなくて、地域の人たちが寄り添って皆 で知恵を出し合ってつくった憲法の中身であり、それを証明するような条文だと思いまし た。プロがつくったら、こんなに長くて、どれが主語か述語かわからないような文章は作 らないと思います。ただ、いずれにせよ、「国会、つまり立法府は、政府、行政がもし信 教の自由とか憲法による原則とか、次々とそういうものに背いて何かする条例などを公布 するようなことがあれば、国会、つまり立法府は反対説を主張し、政府が出そうとしてい る条例なりの根元に遡り、その公布を拒絶する権が国会にはあります」というわけです。 つまり、三権分立ではありますが、「立法府の優先」をまさにここでは言っています。「大事 なのは立法府です。行政ではないのです」ということを強く言っている文章だと思いまし た。 ■「国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告サルヽコトナカル可シ」 「国事犯のために」と条件はついていますが、死刑を宣告されないということです。 ■「国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告ス可ラス 又其罪ノ事実ハ陪審官之ヲ定ム可シ」 「裁判所、司法権は、国事犯というだけで死刑を宣告してはいけません。また、国事犯 を裁判する場合は、陪審制を採用しなさい」ということです。つまり、国民の代表も入れ て審査しなさいというわけです。わが国はまだ死刑を廃止していませんが、その死刑とい うものに対するある種の先駆的な、非常にラディカルな思想ではありますが、彼らの考え 方が濃厚に現れていると思います。
五日市憲法とは、このような憲法なのです。皇后が、「世界の文化遺産にしてもいいの ではないですか」とおっしゃった憲法の中身というのは、このようなものです。もちろん、 天皇制は認めています。最初は天皇制から始まっており、天皇制というものを認めていま すが、立憲君主制、あるいは「君と民が共に治める君民共治」という考え方が基本だろう と思います。前述のように、明治時代になされた憲法草案は 100 を超えるわけですが、そ の多くはこのような内容が多いと思います。 では、共和制、つまり大統領制を考えた憲法草案はなかったのでしょうか。まだ明治の 10 年代なので、それほど天皇制ががんじがらめに社会を覆っていたわけではないはずで す。自由民権運動の側からは、もう少し柔軟な、「わが国は別に天皇制でなくてもいいじゃ ないか、大統領制でもいいじゃないか」というような憲法草案を誰か考えてもよさそうだっ たと思うのですが、なかなか出ませんでした。この時期の憲法草案について長い間研究さ れて、もちろん業績がたくさんある方が何人かいらっしゃいます。そのうちのお一人が家 永三郎氏で、私は家永先生には晩年にお会いしました。「新井さん、憲法のことをやって ますね」、「ちょっとだけやってます」ということでお会いしたのですが、「私も長い間、自 由民権運動の時代の憲法を研究していますが、どうして天皇から始まる憲法しか考えられ なかったのでしょうか。明治の 10 年代はもう少し自由だったのではないでしょうか」と 言ったら、家永先生が「ないですね」と、ぽつりとつぶやかれたことを今でも記憶してい ます。 その後、一つだけ出てきました。岩手県の久慈というところから出てきました。小田 さんという方の家の『小田為綱家文書』のなかから出てきた憲法草案に、「男統で継続して いかなければいけないのに、それが途切れた場合はどうするか」ということが書いてあり ました。「人民一般の投票によって天皇を選んでいい。そういう場合は天皇を選びましょ う」、「その場合は、天皇と呼ばないで、統領と呼ぶことにしましょう」と書いてあるのです。 そういう内容の憲法草案が出てきました。「統領」というのは、大統領と考えていいのでは ないでしょうか。共和制というものを考えてもいいかと思います。家永先生が生きておら れたら、何とおっしゃっただろうか、と思ったことがあります。 (2)五日市憲法草案がつくられた背景 では、どうしてこのような憲法ができたのか、ということです。前述のように、利光さ んも勉強する環境が非常に良かったわけですが、自由民権運動の時代にはいろいろな勉強 会ができます。通称、私たちの言葉でいうと、「結社」です。一番有名なのは、高知にでき た「立志社」ですが、五日市にも「学芸講談会」という結社ができました。 ●学芸講談会盟約 その学芸講談会盟約は、たまたま憲法草案が入っていた、私が最初に蔵の中で手にした 弁当箱のような竹で編んだ小さな箱の中にありました。当時の言葉で言えば「文箱」といっ てもいいかもしれません。薄暗い蔵の 2 階で、私は何気なくその文箱を手にしました。そ れを探して求めていたわけではなく、たまたま「この辺は僕が見ます」と言ったところに
あったので、手にして、何が入っているのだろうと開けたところ、風呂敷包みが出てきた わけです。その風呂敷包みを解いてみると、史料群が出てきて、最初に出てきたのがこの 「学芸講談会盟約」でした。 「第一条 本会ハ名ヲ学芸講談会ト云フ」。「第二条 本会ハ万般ノ学芸上ニ就テ講談演 説或ハ討論シ、以テ各自ノ智識ヲ交換シ気力ヲ興奮センコトヲ要ス」。要するに、「いろい ろな学芸上について講談、演説、討論して、それぞれの知識を交換しましょう」というわ けです。そこまではいいのですが、最後に「気力ヲ興奮センコト」とありますが、今時の グループの規約でこういうことを規則にしているところはないと思います。「気力ヲ興奮 センコト」なんて、いかにも自由民権らしい言葉ですが、要するに「やる気をたかめて頑 張りましょう」ということです。 そして第三条は、「本会ハ日本現今ノ政事法律ニ関スル事項ヲ講談論議セズ」とあります。 最後の「セズ」というのは、校正ミスだと私は思いました。そうしたら指導教授から、「き みは考えがあまいね。 セズ でいいんだよ」と言われました。この頃は自由民権運動も 弾圧を受けていたわけです。集会条例などいろいろ出され、政治や法律に関する講談をす る場合は警察に届けなければいけないのです。警察に届けて、それを認めてもらわないか ぎり集会できない時期に入っていたわけです。だから、表向きは「セズ」にしておいて、「実 際はやっていると思う」ということでした。要するに、カモフラージュのために「セズ」と したのだ、ということでした。 ●私擬五日市討論会概則(学術討論会概則) 学芸講談会とは別に、もう一つ「五日市討論会概則」というのが、同じ風呂敷包みの中 から出てきました。 「討論会ハ政治、法律、経済其他百般ノ学術上意義深遠ニシテ容易ニ解シ能ハサルモノ(簡 単には理解しがたいもの)、及ヒ古来其説ノ種々ニシテ(古くからいろいろな説があって) 世人ノ(世間の人が)往々誤解シ易キ事項ヲ討議論定ス(それをテーマに選んで討論して最 後には多数決で決めましょう)」とあります。いろいろな説があって、白黒つけ難いもの を敢えて取り上げて、賛成反対に分かれて徹底的に討論しようというわけです。今日流の 言葉でいえば、「ディベート」に近いものだと思います。これは、実際にこの規則どおりに やるとしたら、非常に大変なことになると思います。私も一時期、ゼミの時だったか、後 輩諸君と一度やってみたのですが、なかなか難しいです。 ●深沢家文書の中にあった「討論題集」(深沢権八のメモ) 学術討論会の資料が出てきたので、ではどういうテーマで議論したのだろうと思ってい たら、「開かずの蔵」からもう 1 部、史料が出てきました。これには「討論題集」と書いてあ りました。討論のテーマだけを書いた小さなメモです。「深沢権」と書いてあるので、深沢 権八さんのメモです。原文は、63 項目あります。これがまたすごい内容です。いくつか 抜粋してご紹介します。
■「自由ヲ得ルノ捷径ハ智力ニアルカ将タ腕力ニアルカ」。「捷径」とは近道のことですが、 自由を得る近道は、言論か武力かというわけです。この題集は明治 13 年か 14 年に書か れたものです。NHK の大河ドラマではもうすぐ「西南戦争」の場面が出てくると思います が、あれが明治 10 年のことです。要するに、薩摩軍が明治政府に抵抗して、武力衝突し て、最終的には西郷隆盛が銃弾をうけ、その後自決して薩摩軍が敗れるわけです。あれを 機に、「もうこれ以上政府軍と武力で戦ってもかなわない」ということになって間もない時 期に「智力、言論にあるか武力にあるか」と議論しています。 ■「貴族可廃乎否」。貴族なんかもういらないのではないか、ということです。 ■「贅沢品ニ重税ヲ賦課スルノ利害」 ■「増租ノ利害」。まもなく消費税が 10%になりそうですが…。 ■「女戸主ニ政権ヲ与フルノ利害」。政権というのは、参政権、つまり選挙権のことです。 女性に選挙権を与えていいかどうか。わが国の近・現代史において、女性に正式に選挙権 を与えられたのはいつだったでしょうか。戦後です。それよりも随分早い時期にこういう ことをテーマに議論していること自体が驚きでした。賛成、反対、どちらが多かったかは わかりませんが…。 ■「国会ハ二院ヲ要スルヤ」 ■「憲法改正ハ特別委員ヲ要スルノ可否」 ■「女帝ヲ立ツルノ可否」。皇太子の弟さんのほうに男子が生まれたので、愛子さんは女 帝にはならないわけです。今の日本国憲法下の皇室典範では、女性天皇を認めていません。 日本の歴史の過去を振り返ると、女帝は何人もいたと思いますが…。 ■「西郷隆盛ト大久保利通ト優劣如何」。私は大河ドラマをあまり見ないのですが、「西郷 どん」だけは意識して見ています。大久保利通がなかなかいいではありませんか。あの俳 優もなかなかよくて、西郷さんを上回っているかなと思うくらい頑張っています。大久保 利通への評価が高い感じです。今、「優劣如何」と言ったら、大久保のほうに旗が揚がるの ではないかと思いますが…。 ■「外教侵入ノ利害」。キリスト教のことでしょう。 ■「人民武器ノ携帯ヲ許スノ利害」。われわれ国民は、勝手に銃刀を持てません。長い歴 史を振り返ると、豊臣秀吉の「刀狩り」以来、持つことは許されませんでした。国民が自 由に武器を持てるアメリカ社会は今ああいうことになっていますが…。 ■「不治ノ患者カ苦痛ニ堪カネ死ヲ求ムル時ハ医員立合ノ上 之ヲ薬殺ス可トノ明文ヲ法 律ニ掲グルノ可否」。このテーマは、この討論題集の中では最も際立つものです。安楽死・ 尊厳死についてですが、「どうしても殺してくれといった時に殺せますか」ということです。 もちろん、今でも結論は出ません。それくらい難しいテーマです。 このように、敢えて難しい、白黒つけがたいテーマを選んで、賛成派と反対派で議論す るわけです。相手をいかに論破するか、論理的思考で負かすかという訓練を、この討論会 ではやっていたのです。山村の青年たちが、今から 130 年も前の時代に「女戸主に政権を
与えていいかどうか」、「女帝がいいかどうか」、「安楽死がいいかどうか」というようなこと を真剣に議論していたということです。そういう議論を踏まえたうえに五日市憲法という ものがあるのではないだろうか、と思います。 (3)五日市憲法を起草した千葉卓三郎 この憲法草案が次第に世の中に知られるようになり、有名になってきます。では、これ を作った「千葉卓三郎」とは、どんな男だったのでしょうか。 彼については、実は地域では誰も知りませんでした。私は卒業論文を書くにあたり、千 葉卓三郎のことを調べなければいけないと思い、五日市の人、またいろいろな研究者も含 めて聞いてみたのですが、彼を知っている人は一人もいませんでした。聞いたことがあり ません、というわけです。もちろん、私の指導教授にも聞きましたが、「初めて出てきた 名前だ」ということでした。「千葉卓三郞草」と書いてあるので、彼が中心になって書いて まとめたに違いないということだけはわかっていましたが、どんな人物かはわかりません。 この人を追求するのには結構時間がかかりました。 今ようやく、彼のたった 1 枚しかなかった写真と履歴書をご紹介できるのですが、この 履歴書や写真に到達するには、それなりの苦労がありました。歴史を研究するということ は、「歴史の底に埋もれた人を掘り起こす、あるいは探索する、そしてその人の生き様と いうものを表舞台に出して歴史的に位置づける、評価する」ということだろうと思うので すが、まさにそのことを、私はこの人物の研究と五日市憲法の研究を通して体験いたしま した。いろいろな苦労や喜びがあり、地域の方たちからさまざまな協力を得ました。もち ろん私一人ではできませんでした。さまざまな協力を得て、この履歴書まで到達できたの です。そのことについては、今度出した岩波新書の『五日市憲法』に詳しく書きました。 ●千葉卓三郎の履歴書から 千葉卓三郎は、宮城県出身です。「全国浪人引受所」の言葉のとおり、彼も浪人として入っ てきた一人でした。 履歴書によれば、幕末期に仙台藩の下級士族の家に生まれ、仙台藩の有名な漢学者で、 養賢堂という藩校の校長先生だった大槻磐渓に学んでいます。世が世なら、侍として仙台 藩の、伊達藩の士族として終わった人生だったはずですが、時代は大きく変わりました。 すなわち「西郷どん」の時代になり、戊辰戦争があり、彼は 17 歳で仙台藩の一員として戦 争に参加します。福島の白河口の戦いです。白河口の戦いは、戊辰戦争でも激戦の一つで した。そこで戦いました。もちろん、そこで仙台藩の人は何人も亡くなっています。先般、 白河口へ行ってみましたが、仙台藩の人たちだけの墓碑がありました。場合によっては、 彼はそこで死んでいたかもしれませんが、なんとか生き残り、戦後、明治維新以降を生き るわけです。 さらにその後、彼はいろいろなことを経験しています。キリスト教、なかでもギリシャ 正教とかハリストス正教、カトリック、プロテスタント、そして浄土真宗等々を勉強しま
す。医学も数学も学びます。そのように、いろいろなことに取り組んだうえで、「武州西 多摩郡五日市ニ滞在シ今日ニ至ル」というわけです。履歴書は、「神奈川県西多摩郡の五日 市に入ってきました」というところで終わっていました。 戊辰戦争のあった時代というのは、大きく社会が動いた時代です。つまり、古い封建的 な士族の社会が終わって、新しい近代国家に生まれ変わる、そういう生みの苦しみがさま ざまあった時代です。それは「西郷どん」でも随分と見せてくれましたが、そういうなか で、勝ち組だけでなく、負け組、つまり「お前たちは賊軍だ」と明治以降レッテルを貼ら れたまま生きなければならなかった敗者たちがいたわけですが、彼はそういう敗者側の 1 人だったのです。こういう人間が、流れ流れて神奈川までやってきて、地元の小学校の教 員を務め、勧能学校の 2 代目の校長先生になったのです。ちょうど彼が来た頃は自由民権 運動が盛んで、前述の学芸講談会や討論会でも彼はリーダーシップをとります。これだけ の経験をした人なので、地元の人たちに比べると、彼には得意とする領域がたくさんあっ たと思います。また、地元の青年たちも、千葉先生から強い刺激を受けたと思います。そ ういう意味では、この「千葉という余所から入ってきた人がいた」ということは大きなこ とです。 明治維新をどう捉えるかというのは、学者によって考え方もいろいろあると思います。 ただ、大きな人の流れがあったわけです。薩摩でも長州でも、それまでは藩から一歩も出 ずに一生を終えてしまったかもしれない人たちが、幕末維新期を経て、いろいろなところ に出てきて動くわけです。そういう人の大きな流れ、移動というのは、新しい活力を生み 出すわけです。人が流れるということは、それまで積み重なってきた「知」というものが、 日本の国内で大きくかく拌されたのではないか、そういう時代だったのではないだろうか、 と思うのです。そういう時代のなかで新しい文化、新しいものが生まれる素地ができたの です。エネルギーというのはそういうところから生まれてくるのだろうと思うと、この千 葉という人間が五日市にたどり着いて、地元の人たちに与えた影響は大きかっただろうと いうことです。また、彼は生涯独身でしたが、五日市の人たちから非常に親切にされ、前 述の利光さんと同じように、いろいろな本を見せてもらったり勉強させてもらったり、カ ンパもしてもらっています。そのように、彼と地元の人たちとの間には信頼が築かれ、相 互にプラスの効果があったと思います。 4.進取の精神が生んだ「五日市憲法」 この憲法が次第に有名になってきた頃、色川先生のお宅で晩飯をご馳走になったことが あります。私の先輩で助手の江井秀雄さんも一緒でした。その時に色川先生が「ちょっと 君たちに提案があるんだけど。日本帝国憲法というと、新井君が間違えたように大日本帝 国憲法と間違えやすいので、われわれ発見者が通称の名前を付けてもいいんじゃないか。 それくらいの権利はあるだろう。どういう名前にしようか、今考えているんだ」というこ とで、「五日市憲法というのはどうだろう」という提案がありました。私と江井さんも、い いんじゃないですかと賛成しました。「五日市の人と協議しながらつくり上げた憲法とい
うふうに考えたほうがいい」ということで、「五日市憲法」と命名したわけです。 さて、この憲法草案は、「五日市憲法」として一人歩きし始めました。われわれもいろい ろなところで講演するたびに「五日市憲法」という名前を発し、今回「五日市憲法」そのも のズバリの名前で本も出しました。それで、地元の人たちは喜んでくださるかと思ってい たら、たいへんな反発を受けたわけです。「先生たちが五日市を買いかぶって『五日市憲法』 なんて付けるから、いろいろ誤解が生じています」というわけです。どんな誤解が生じて いるのかというと、「五日市が、この憲法草案に表われているように、昔から非常に開明 的で進んでいる民主主義的な、先頭に立っているような町であるかのように想像されてし まいます。私は五日市で生まれ、五日市で育って、ずっと五日市で生きてきましたが、五 日市なんて保守的なところですよ。新井さんは五日市の人じゃないからわからないでしょ う」と言われてしまいました。「そうですか…」というしかなかったのですが、一方でそこ で引き下がってはいられないとも思い、必死で取り組んだことがあります。 では、本当に五日市というところは、保守的な土地柄だったのでしょうか。明治時代に 自由民権運動で盛り上がり、五日市憲法を生み出すくらいのハイレベルな議論をしている ような地域が、大正期、戦争中、戦後も含めて今日まで、五日市の歴史のなかで何の痕跡 も残していないのだろうか。ずっと保守的な、東京の外れの町として生きてきたのか。そ ういうことを検証しようと思って取り組んだわけです。 ●大正デモクシーの時代、五日市には労働者の組織が置かれる 一つは、大正期に「友愛会」という組織ができます。これは、労働者の組織みたいなも のです。その友愛会の会長は鈴木文治という宮城県出身の人で、この人が五日市にやって きた時に、五日市はどんなところかという印象を書いています。 「五日市町の人々は、東京府下の人と思はれない位に質朴で、しかも進取的気象に富ん で居るのを見ます」とあります。質朴で田舎っぽく見えるけど、非常に進取的気性に富ん でいるのを見ました、というわけです。また、「此の小天地に、何かしら精神的な香ひ、 潤ひのあるやうに思はるゝのは、最も悦ばしき事と思ひます」ともあります。たった 1 日 か 2 日しか五日市に滞在していない友愛会会長の鈴木文治が、五日市に来て感じたことは、 非常に進取的な雰囲気があるということと、何かしら精神的な匂いや潤いがあるといって いるのです。抽象的で文学的な表現ですが、鈴木文治はある種の直感で「この町には何か あるな」ということを、おそらく感じ取ったのではないでしょうか。五日市には他の地区 に先駆けて友愛会の秋川分会というのができて、活動していた歴史があるのです。 ●五日市は、戦後の民主主義の拠点だった そして戦後、民主主義というか、全国各地でいろいろな運動が起こりますが、五日市は 東京の多摩地区でもトップクラスとして運動を始めています。「五日市新政會」というのが できます。そのスローガンは、「民主的な明るい町政の確立!」「独占的権力政治の排撃!」
「文化政策の確立とその急速な実施!」で、「昭和二十二年三月 五日市新政會 會長 深 澤一彦」とあります。蔵を開けてくれた大学の先生は若い頃、こういう活動をしていたわ けです。民権家(深沢権八)からすれば、お孫さんに当たる人です。多摩地区でも、戦後 の民主主義の拠点地がいくつかあるのですが、当時はその一つに五日市があったわけです。 こんなふうに、先駆けて、戦後民主主義のなかで文化運動、地域運動を展開していたのです。 ところが、そういうことを、五日市に長くいらっしゃる方は誰もそれを表に出しておら ず、私が初めて表に出したわけです。後に私は、「五日市にもちゃんと自由民権の根があ ります。あの時の源流が、こういうふうに大正期に、戦後期に流れています。そういうこ とをきちんと見なくてはいけないのではないですか。保守的な町ではないと思います」と いうことをずっと強く言ってきました。 ●「五日市憲法草案に関わった」という五日市の人たちの思いが見える もう一つ。五日市憲法は、千葉卓三郎を中心にしてまとめたわけですが、千葉先生は明 治 16 年に 31 歳の若さで亡くなってしまいます。千葉先生は独身だったので、仙台の親戚 のもとに遺品を全部送っています。千葉先生の遺したものは、深沢さんが送っています。 それで、おそらくそのなかに、この憲法草案があったようで、憲法草案だけかどうかはわ かりませんが、取り戻しています。もし取り戻していなかったら、憲法草案は仙台の親戚 の家にあったと思います。取り戻したからこそ、深沢家の蔵の中に眠っていたと思うので すが、なぜ取り戻したのでしょうか。 千葉先生が個人で憲法草案をつくったのであれば、「あの憲法を戻してほしい」と執念深 くご遺族の方に申し出ることはなかったと思いますが、取り戻しているということは、や はり五日市の人たちには「この憲法草案には私たちが関わった」という思いが深く流れて いたのではないか。だからこそ、「あの憲法をもう一度、五日市に戻してもらえませんか」 ということになったのではないかと思います。そんなこともあって、あの憲法を「五日市 憲法」と名付けたことで、私も色川先生も地元の抵抗を受けましたが、今はなんとか認め ていただいています。 最後に、写真をご覧ください。 ■これが現在の、深沢家の蔵です。東京都の文化財に指定された後、深沢さんは「あまり に恥ずかしいから」と、きれいに直してしまいました。朽ちかけた土蔵のほうがよかった のですが…。 ■深沢さんの家です。母屋は昭和 14 年に東京都小金井市に移されましたが、今はこれも 現存していないと思います。 ■蔵明けの調査風景です。1968 年 8 月 27 日。こんなふうに屋敷跡に収蔵物をひろげて、 調査しました。 ■先ほどご紹介した憲法です。 ■地方自治権、教育の自由と権利。これも当時の自由民権期の憲法草案のなかでは光って
います。 ■たった 1 枚しか残っていなかった千葉卓三郎の写真です。小首を傾げた、小難しそうな 男性です。 ■「陸陽仙台 千葉卓三郞草」と書かれた史料です。これだけが唯一の手掛かりで、ここ から彼が宮城県の出身ということ、そして履歴書まで到達したのです。その経緯について は、新書に詳しく書いています。 ■東大和市の鎌田家のお墓です。鎌田家には三兄弟いましたが、これは次男の鎌田喜十郎 さんのお墓です。喜十郎さんは、千葉先生に私淑していました。自分が死んだら、墓には「千 葉先生」と刻んでほしいという遺言をのこして亡くなっています。この人は、千葉卓三郞 の最期の面倒をみた人です。喜十郎さんの墓には「千葉先生 仙臺之人」と刻まれていて、 今でも残っています。 ■現在の千葉家の墓は、仙台市の資福寺にあります。今年も、私はお墓参りに行きました。 ■五日市憲法の碑です。五日市に建てられました。序幕式には私も参加しました。銅板で 作ったので、同じものを何枚か作れるということで、あと 2 枚作り、生地と墓のある地に も同時に碑が建てられました。 ■仙台のお寺の境内に建っている「千葉卓三郎記念碑」です。 ■千葉卓三郞の生まれた志波姫にある「千葉卓三郎顕彰碑」です。平成の大合併で、志波 姫町も栗原市(宮城県)に合併されました。碑は、かつての志波姫町役場の入り口に建っ ています。これは最近撮った写真ですが、周りもよく手入れされており、立派な碑でした。 90 分間で五日市憲法の全貌をお話しすることは難しいのですが、発見から 50 年を経て、 一つの歴史として客観的に見ることができるようになりました。それこそ今や「改憲」と いう話が現実にあるわけです。私は日本の歴史のなかで、 憲法の時代 は 3 回あると思 います。最初は、五日市憲法が作られた自由民権の時代です。2 番目は、戦後すぐの時期 です。日本国憲法ができるまでの間に、いくつかの憲法草案が生まれました。そして 3 回 目は、今ではないか、と思うのです。私たちは第 3 期の憲法の時代の、最も大事な渦中に いると思います。この数年の間に、「現在の日本国憲法をどう変えるのか、あるいは変え ないのか」ということを議論し、改憲案ができると、最終的にはわれわれに問われるわけ です。その問われた時には、140 年前の人々の憲法への思い、すなわち「何のために憲法 をつくるのか」という思いには、私たちは学ぶべきものが山ほどあると思います。 以上で、私の報告を終わります。ありがとうございました。 付記 本稿は、2018 年 11 月 10 日(土)第 31 回日本福祉大学知多半島総合研究所歴史・民俗部 研究集会の報告原稿をもとに作成しました。