1. An Office of One's Own
Alice Munro の短篇 “The Office”(1962)は女性の writer である語り手兼主人
公(以下「私」)が書く為の独立した空間を持とうと決意するところから始まる。
The solution to my life occurred to me one evening while I was ironing a shirt. It was simple but audacious. I went into the living room where my
Survival で読み解く Alice Munro の “The Office”
Reading Alice Munro’s “The Office”
with Margaret Atwood’s Survival
要 旨
本論はAlice Munro の “The Office”(1962)に於いて、女性 writer である語 り手兼主人公が手に入れた「自分だけの空間」であるオフィスを手放さざる を得なくなる過程に注目し、語り手の経験は女性writer、とりわけ家庭を持つ 女性writer に特有のものであるだけではなく、カナダ文学全体が共有する経験 でもあること、そして、その経験こそがカナダ文学特有の性質であることを、 Munro と同じくカナダの女流作家である Margaret Atwood によるカナダ文学概 説書Survival(1972)に依拠して明らかにする。
キーワード:カナダ文学、女流作家、短篇小説
藤 田 眞 弓
husband was watching television and I said, “I think I ought to have an office.” (59)
「私」 が、 自 分だけ の 独立し た 空 間を 持 つこ と を重要視していること が、 “The solution to my life”(「人生の解決策」)という表現から伺えるが、これは Virginia Woolf のエッセイ A Room of One’s Own を想起させる。Woolf は「女性 がフィクションを書こうと思うならば、自分だけのお金と部屋を持たなくては ならない」(565)と述べている。
“The Office” の「私」も女性が家庭を持ちながら、writer として身を立てる ことの困難について語っている。
A house is all right for a man to work in. He brings his work into the house, a place is cleared for it; the house rearranges itself as best it can around him. Everybody recognizes that his work exists. He is not expected to answer the telephone, to find things that are lost, to see why the children are crying, or feed the cat. He can shut his door. Imagine (I said) a mother shutting her door, and the children knowing she is behind it; why, the very thought of it is outrageous to them. A woman who sits staring into space, into a country that is not her husband’s or her children’s is likewise known to be an offence against nature. So a house is not the same for a woman. She is not someone who walks into the house, to make use of it, and will walk out again. She is the house; there is no separation possible. (60)
男性は家庭に仕事を持ち込むことが出来るが、女性にはそれが許されない。男 性ならことごとく免除される家庭に於ける日常的な雑用(電話に出ること、探 し物をすること、猫の餌やりなど)に間断なく追われる女性が夫や子供のいる 家庭で落ち着いて何かを思考することは極めて困難であり、そのようなことが
身のオフィスを持つことの着想を得たのが、アイロン掛けという家事の合間(ア イロン掛けしていたのは恐らく夫のシャツであり、その間夫はテレビを見てい た)であることを思い出されたい。女性にとって「家」という空間は男性にとっ てのそれとは大きく異なるのである。女性にとって「家」は空間というよりか はむしろ自分自身なのである。 「私」はオフィスを持つことの重要性について語りながらも、同時にそれが 「気難しい要求」で「稀に見る我が儘」(60)であるような気がしてならず、夫 の了解を得た後ですら、「実現出来るようなことと思えず」、「不適切で到底認 められないような望み」(61)ではないかと考えるのである。 このように「私」は葛藤しながらも、オフィスを持つこと、すなわち、独立 した自分だけの空間を持つ計画を実行に移す。しかしながら、「私」の「人生 の解決策」となるはずのこの行為は権威主義的な家主の介入により、完遂され ることなく、この物語は幕を閉じるのである。 本論は「私」が葛藤しながらも手に入れた「自分だけの空間」を手放さざる を得ない状況になる過程に注目し、「私」の経験は女性writer、とりわけ家庭 を持つ女性writer に特有のものであるだけではなく、カナダ文学全体が共有す る経験でもあること、そして、その経験こそがカナダ文学特有の性質であるこ とを、Munro と同じくカナダの女流作家である Margaret Atwood によるカナダ 文学概説書Survival(1972)に依拠して論じていく。 2. Am I a Writer? 一人の女性writer のオフィスを巡る物語が如何にしてカナダ文学全体とその 経験を共有し得るのか。この議論を「私」の自身の職業との向き合い方を見る ことから始めたい。 本論ではこれまで「私」の職業である“writer” を「作家」や「物書き」、「ラ イター」と訳さず敢えて英語表記のままにしてきた。日本語に、例えば「作家」、 と訳すと「私」が自他共に認める「職業作家」である印象を与えてしまう恐れ があるからである。
... here comes the disclosure which is not easy for me: I am a writer. That does not sound right. Too presumptuous; phony, or at least unconvincing. Try again. I write. Is that better? I try to write. That makes it worse. Hypocritical humility. Well then? (59)
自分の仕事をどう呼ぶべきか決めかねている「私」は「作家」としてのアイデ ンティティを確立出来ていない。それ故、「私」は、人に自分の職業を説明す る際にぎこちなさを感じていることを、この引用に続くくだりでも語っている。 人に何を書いているのか問われると「フィクション」と答える「私」であるが、 “The Office” の物語の中で具体的にどのような作品を書いているかを語ること は一切ない。後に「オフィス」という空間を巡って攻防戦を繰り広げることに なる家主のMalley 氏に「ああ、あなたは作家さんなのですね。」(“ ‘Ah, you’re a writer.’ ”)(63)と言われた時にも「作家です」とは答えずに「ええと、はい、 物を書いています。」(“ ‘Well yes. I write.’ ”)(63)と返答し、その為に Malley 氏が「私」が物を書くことは職業ではなく、趣味だと捉えたことに対して否定 も反論もしない。 この「私」の「職業作家」としてのアイデンティティに対する心許なさが、 カナダ文学をはじめとするコモンウェルス(英語圏)文学の特性の一つである ことを指摘しておきたい。土屋氏によると、かつてのイギリスの自治領または 植民地であった国や地域は「喪失した、あるいは喪失を強いられた自己のアイ デンティティを、ルーツを探り、さらには自らのアイデンティティを新しい環 境の中で再創造しようとする傾向」があり、これが文学の主たるテーマになっ ているという(7)。 「私」のwriter であることに対するアンビバレントな態度、即ち、それを自 負しているようでありながら、過度なまでに謙虚にならなくては、自分の仕事 について語ることが出来ない状態がコモンウェルス文学の特性と重なることを 確認した上で、“The Office” のメインプロットである、「私」と家主 Malley 氏 とのオフィスを巡るやり取りをAtwood の Survival が主張するところのカナダ
文学の特性と照らし合わせるながら読み解いて行く。
Atwood は自身のカナダ文学概説書 Survival を学術論文でなければ、歴史的 な発展を辿るものでもなく、カナダ文学に対して評価を下すものでも、その伝 記的事項についてのものでも、取り立てて独創的なものでもないと断言してい
る(12-13)。その上で本書の目的を以下のように述べている。
It (My book) outlines a number of key patterns which I hope will function like the field markings in bird-books: they will help you distinguish this species from all others, Canadian literature from the other literatures with which it is often compared or confused. Each key pattern must occur often enough in Canadian literature as a whole to make it significant. These key patterns, taken together, constitute the shape of Canadian literature insofar as it is Canadian literature, and that shape is also a reflection of a national habit of mind. (13) Atwood はカナダ文学を他国の文学と区別する「主要な様式」、即ち「中心的シ
ンボル」(32)とは、アメリカにとっての「フロンティア」、イギリスにとって
の「島」と同様に、カナダにとっては「疑う余地なく生き残ること」(32)であり、
それも「しがみ付きながら生存し続けること」(33)であると述べている。
Our stories are likely to be tales not of those who made it but of those who made it back, from the awful experience.... The survivor has no triumph or victory but the fact of his survival; he has little after his ordeal that he did not have before, except gratitude for having escaped with his life. (33)
Atwood は、カナダ文学とは、あることを達成するのではなく、ある状態を取 り戻すことについての物語であり、そこに在るのは勝利感ではなく、生き残っ たという事実のみであると言う。カナダ作家は「自身の作品の主人公が死ぬか
「正しい」結末であり、登場人物(または作者)の世界観を支える唯一のもの である」(34)からだという。更にAtwood は、カナダ全体は犠牲者、あるい は「迫害された少数民族」(“ ‘oppressed minority’ ”)、または「搾取されたもの」 (“ ‘exploited’ ”)、要するに植民地であり(35)、カナダ文学には多くの犠牲者 が登場していることを指摘している。「犠牲者」というモチーフはカナダ文学 にアプローチするためのモデルであるのだ(39)。 このAtwood のカナダ文学の「中心的シンボル」の定義や「犠牲者」という
文学的モデルは、“The Office” の「私」と家主 Malley 氏との間で繰り広げられ るオフィスを巡る攻防戦の過程とその結果に重なるのである。 3. To Survive Survival 本節では「私」がMalley 氏とオフィスという「空間」だけではなく、「書くこと」 (writing)と「語ること」(story telling)をも巡って攻防戦を繰り広げ、そこに 勝利を見出すことはないが「私」なりの生き残りを果たす過程を詳細に見て行 くこととする。 「私」がオフィスを借りることになるMalley 氏の居間兼オフィスは、船の模 型や「「男性的」な装飾品」(62)(陶器の鹿の頭部の置物、ブロンズ製の馬の置物、 大きな灰皿など)で溢れおり、とりわけ目を引くのがそれ専用の照明器具を備 えたMalley 氏のものと思われる肖像画である。
...it was of a good-looking, fair-haired man in middle age, sitting behind a desk, wearing a business suit and looking pre-eminently prosperous, rosy and agreeable. Here again, it is probably hindsight on my part that points out that in the portrait there is evident also some uneasiness, some lack of faith the man has in this role, a tendency he has to spread himself too bountifully and insistently, which for all anyone knows may lead to disaster. (62-63)
“hindsight”(結果論、後からの観察)によるものである。つまり、Malley 氏と の攻防戦を終えた後に「私」が肖像画の印象を思い出しながら述べているの である。部屋の「男性的」な装飾品と、引用した肖像画について考察の前半 部分、そして「私」がMalley 氏よりも先に会っている彼の妻の様子(“She had the swaying passivity...that speaks of a life spent in close attention on a man who is by turns vigorous, crotchety and dependent.” [62])から、Malley 氏が男性中心主義的、 権威主義的な人物であることが伺える。
オフィスを気に入った「私」は早速その週末に引っ越しをする。引っ越し、 と言ってもタイプライター、机と椅子、やかんなどの必要最低限な物だけを 運び込んだだけで、その簡素さを“the cheap dignity of my essential furnishings” (64)と表現し、オフィスの「私」なりの完成に満足している。しかしながら Malley 氏は部屋の様子が気に入らず、“it was an awfully uncomfortable place for a lady.”(64)、“ ‘A woman wants things a bit cosier.’ ”(65)と述べ、快適な椅子や、
カーペット、カーテンの提供を申し出、部屋を「もっと家のように」(“ ‘more
homelike’ ”)(64)するよう提案する。Malley 氏の申し出を退けた「私」は以 下のような勝利感を味わう。
When he had gone I felt better, even a little exhilarated at my victory though still ashamed of how easy it had been. I told myself that he would have had to be discouraged sooner or later, it was better to have it over with at the beginning. (65) しかし、この勝利は束の間のものであった。翌週末の観葉植物に始まり、ティー ポット、くずかご、ゴム製クッションとMalley 氏による贈り物は続き、この 一連の行為を「私」は“blackmail”(67)だと感じる。 Malley 氏は「私」のオフィスという「空間」に介入するだけではなく、「私」 の“writing” にまで介入をしようとする。Malley 氏は「もしも書くことのネ タが尽きたら、私には樽いっぱいにもネタがある」(66)、と「私」の前にオ
フィスを借りていたchiropractor の話を始める。これが Malley 氏による自分の “writing” への介入であることを「私」は彼が話を終えた時に気づくのである。
It took me some time to realize that he told this story not simply as a piece of gossip, but as something a writer would be particularly interested to hear. Writing and lewdness had a vague delicious connection in his mind. Even this notion, however, seemed so wistful, so infantile, that it struck me as a waste of energy to attack it. (67)
Malley 氏は「私」への贈り物を届けに来た際に長居をして、chiropractor の話 の時と同様に「私がそれを書くことを期待して」(68)、今回は自分自身につい て語り出す。Malley 氏はいかに自分のこれまでの人生が災難の連続であった かを語り、「私」に同意を求める。この、Malley 氏による2度目の “writing” へ の介入の後、「私」はMalley 氏に自分がオフィスに来たことを気付かれないよ うに「つま先で階段を上り、音を立てないように鍵を回すようになった」(68)。 (タイプライターの音を消すことは不可能であったが。) 「私」にとって不要で趣味に合わない品々を、「私」が受け取りを拒否出来な いことを分かって贈りつけることにより、彼女の空間を侵略し、“writing” の題 材を押し付けることで「私」の職業(「私」のそれに対する態度がアンビバレ ントであることはさておき)に介入するMalley 氏の “blackmail” 的行為は、「私」 の不在中にオフィスに入り込み、「私」が書いたものを読むという、文字通り「私」 の独立した空間を侵略する行為にまでエスカレートする。 ある晩、Malley 氏が自分のオフィスに侵入し、原稿を読んでいる現場を押 さえた「私」は怒りで震えるのは勿論なのだが、同時に“gratification”(満足、 喜び)(69)も感じている。何故ならば、彼を避ける為の「大義が見つかった ことは驚異的なことであり、忍び難いほどの安堵感」(69)であったからである。 次にMalley 氏が「私」のオフィスを訪ねて来て「私」の名前を呼んでも「私」 は返答せず、Malley 氏から貰った観葉植物の土が乾いているのに気づいても
そのままにしておいた。そうしているうちにMalley 氏から彼のオフィスに来 るようメモにて指示をされる。そこでMalley 氏は、「私」が彼を無視している ことを非難し、「私」が作家であることを訝しがり、隠し事や自分を欺くよう なことはしないと「私」に約束させようとする。Malley 氏の「無分別で信じ られない」(70)発言に怒りを覚えながらも、「私」は如何に自分がこのオフィ スを、自分だけの独立した空間を気に入っているかに思い至る。
I thought―I must go. But after I had sat down in my own room, my work in front of me, I thought again how much I liked this room, how well I worked in it, and I decided not to be forced out. After all, I felt, the struggle between us had reached a deadlock. (70)
オフィスを「自分自身の部屋」と感じながら、「私」は今後Malley 氏を無視し、 執筆途中の原稿を毎晩持ち帰れば良いだけのことなので、このオフィスを出て 行かないことを固く決心する。ここで、「私」はMalley 氏に勝利したかのよう であるが、この度も束の間の勝利となり、氏からの更なる“blackmail” 的行為 を受けることになるのである。 その後Malley 氏から度重なる誹謗中傷のメモをオフィスのドアに貼られ、 その内容は回を重ねるごとにより「悪意に満ちた」(“virulent”)(71)なものになっ て行く。メモの内容が「グロテスクになればなるほど、それは私に影響を及ぼ さなくなり」(71)、「私」は彼からのメモに取り合わない対応を続ける。ある 日曜日、Malley 氏は「私」のオフィスを訪れ、建物内のトイレの卑猥な落書き を「私」、または「私」が連れて来た友人(そのような人物は全く居ないのだが) の仕業だと言う。通りをうろついている子供達の仕業ではないか、と言う私 の発言に対して、Malley 氏は「子供のせいにするのは良くない」という趣旨 の発言に続けて、「法律があるだろう。卑猥法だ。この種のこと(トイレの卑
猥な落書き)や文学にも適応されると私は信じる」(“ ‘There’s laws. Obscenity laws. Applies to this sort of thing and literature too as I believe.’ ”)(72)と発言す
る。Malley 氏が文学と “obscenity” とを結び付けたのは2度目のことであるが(1 度目は氏からchiropractor の話を聞かされた時の「私」の反応に見られる)、こ の文学への謂れの無い中傷に「私」は深呼吸をしなければ自制が出来ないほど の怒りにかられる。
I really wanted to murder him. I remember how soft and loathsome his face looked, with eyes almost closed, nostrils extended to the soothing odour of righteousness, the odour of triumph. (73)
「私」の語りによると、このやり取りにおいて勝利を収めたのはMalley 氏のよ うである。「私」はこの直後にもこの瞬間が氏にとって「勝利の瞬間」(“victorious moment”)(73) で あ っ た と 述 べ て い る。 つ い 先 日、Malley 氏 よ り 受 け た “blackmail” 的行為にも関わらず、オフィスを出て行かない決意をしたばかり の「私」が今回の事件で、あれ程まで気に入っていたオフィスを手放さざるを 得ない状況に追い込まれたのは、果たして、「私」が語るようにMalley 氏の勝 利であり、「私」の敗北なのだろうか。 「私」は、その後も別のオフィスを見つけおらず、いつかまた、オフィスを 持つ積もりではあるが(この物語を語っている時点で)、まだその時ではない と言う。
I have not yet found another office. I think that I will try again some day, but not yet. I have to wait at least until that picture fades that I see so clearly in my mind, though I never saw it in reality― Mr. Malley with his rags and brushes and a pail of soapy water, scrubbing in his clumsy way, his deliberately clumsy way, at the toilet walls, stooping with difficulty, breathing sorrowfully, arranging in his mind the bizarre but somehow never quite satisfactory narrative of yet another betrayal of trust. While I arrange words, and think it is my right to be rid of him. (73-74)
Malley 氏がトイレの卑猥な落書きを消しながら、更に別の自分が裏切られた 物語を“arrange”(74)している姿のイメージが現時点では残像のように私の 心の中に巣喰っているが、これが「私」の意識から消えるとき、自分の“story telling” から彼を消すのは自分の権利であると「私」は述べている。 Malley 氏に、あれ程気に入っていたオフィスという自分だけの独立した空 間を奪われたのは「私」の敗北であり、“The Office” の物語の発端である「私」 の独立した空間を確保しようとする試みは、結局はオフィスのない元の生活に 逆戻りし、失敗に終わったと認めざるを得ない。「私」の物語は勝利や得るも のなく、失敗に終わる、Atwood が指摘するカナダ文学の特色に見事に合致す る。しかしながら、「私」が執筆活動を続けながら、再びオフィスを見つける 日が来ることが示唆されていることから、「私」の物語は完全な敗北でもない、 と解釈することも可能なのではないだろうか。また、気に入っていたオフィス よりも文学の尊厳を守り、自分の“story telling” を守り通したことに「私」の 物語にある種の勝利を認めることが可能ではないだろうか。 4. To Overcome Survival
Munro は “The Office” の「私」の作家としての意志を引き継ぎ、「私」以上
に困難な状況を経験しながらも、「芸術家としての機能を果たす」(Atwood
193)ヒロインをLives of Girls and Women(1971)で描いている。
Lives of Girls and Women は主人公兼語り手の「私」、Del Jordan の半生を8つ のフェーズや出来事に分けて語る短篇小説集であるが、全体で長編小説の体裁 をなしていると指摘する批評家もいる(浅井 220-21)。
Del は “Epilogue: The Photographer” の中で、Town Hall の図書館に所蔵されて いる本だけは充分でないと感じ、自分で小説を書こうと決意をする。小説の題 材として選んだSherriff 家の Bobby と、彼の家のポーチで会話をしている時、 強くJubilee という町について書きたいと感じる。
Voracious and misguided as Uncle Craig out at Jenkin’s Bend, writing his history, I would want to write things down. (276)
Del は書くべきもののリストを作成しながら、「いかなるリストも私の望んで いるものを含んでいない」と考える。
...no list could hold what I wanted, for what I wanted was every last thing, every layer of speech and thought, stroke of light on bark or walls, every smell, pothole, pain, crack, delusion, held still and held together―radiant, everlasting. (276)
Atwood は Survival の現代(本書執筆、出版当時の1970年代)のカナダ文学 に描かれる芸術家(創作活動をしている人々)を扱う第9章“The Paralyzed Artist” の中で Munro のこの作品を取り上げている。そこで Atwood は “Epilogue: The Photographer” からのこの引用箇所に於ける、Del の書くべきもののリスト
を作成する行為を、「これまでに表現されてこなかったものを表現すること、
つまり世界を命名すること」(193)と解釈している。その上でAtwood は、本
章で取り上げている他の作家、例えばSinclair Ross や Ernest Buckler が描く芸
術家とは異なり、Del は「死ぬこともなければ、自分のことを障害者だとも無 視されている者だとも思っていない」(193)ことを指摘し、だからこそ、Del は「芸術家として機能し、実しやか(plausible)」であると述べている。 “Office” の「私」の物語を失敗や敗北に終わらせない Del の物語はカナダ文 学が植民地国文学、コモンウェルス文学という枠組から脱却し、「カナダ文学」 を確立する可能性と望みを託されていたのではないだろうか。
Bibliography
Atwood, Margaret. Survival: A Thematic Guide to Canadian Literature. Toronto: Anansi, 1972. Klinck, Carl F. , ed. Literary History of Canada: Canadian Literature in English. University of
Toronto Press, 1965.
Munro, Alice. Lives of Girls and Women. 1971. New York: Vintage, 2001.
̶. “The Office.” 1962. Dance of the Happy Shades and Other Stories. 1968. London: Vintage, 2000. 59-74.
Woolf, Virginia. A Room of One’s Own. 1929. Selected Works of Virginia Woolf. Hertfordshire: Wordsworth, 2005. 560-633.
浅井晃.『現代カナダ文学− 概観・作家と作品・資料 –』.東京:こびあん書房,1985. 平野敬一・土屋哲編『コモンウェルスの文学』.東京:研究社,1983.