中 国 近 現 代 史 の 探 索
― 楽 し く て 苦 し い ( 楽 苦 し い )
北 村 稔
はじめに
楽苦しいという表現は、作家の遠藤周作が執筆中の精神状態を言い表 した造語だと思うが、歴史研究でも同じことがいえる。事実関係の探索 は楽しいが、もし解明できなかったらと思い詰めるので苦しい、のであ る。そして事実関係を解明してしまうと(正確には、「整合的に解明できたと 納得してしまうと」)、たちまち別の疑問に取り付かれ、心が休まらない。 研究者のかかる一種の病気である。 筆者は二〇〇五年八月に、PHP新書『中国は社会主義で幸せになっ たのか』を上梓し、清末から現代までの中国史を三〇〇枚の原稿用紙 に纏めた。同書のあとがきには、次のように書いた。「本書は、筆者が 三十年近く携わってきた中国近現代史研究の、現時点での<まとめ>で ある。百年近くの歴史を<通史>としてまとめるのは骨の折れる作業で あるが、歴史の基本的枠組みを提示すると同時に、本文中の要所ごとに カッコで注を付し、研究書としての内容も備わるように努力した」。 このあと二〇〇九年に、若干の補筆を施した『中国は社会主義で幸せ になったのか』第二版を上梓したが、やがては増補版を出したいと思っ ている。ちなみに『中国は社会主義で幸せになったのか』は、二〇〇七 年に林淑美訳『社会主義為中国帯来幸福了嗎』(遠流出版公司、台北、香港) として中国語版が出版された。「前書き」は、台湾の著名な研究者であたが、数年来この中国語版を、担当中の国際関係学部博士前期課程ゼミ のテキストとしても使用している。さらにこのあと二〇一二年の末には、 PHP研究所経由で韓国の出版社(図書出版ハンウル)と、韓国語版出版 の契約を取り交わした。中国語版は、日本在住の大学教員である林淑美 さんとメイルをやりとりして訳文の完璧を期したのだが、韓国語版は相 手まかせである。 閑話休題。本稿は『中国は社会主義で幸せになったのか』を上梓した 二〇〇五年以降に、筆者が得た中国史の新しい知見を、オムニバス方式 で綴ったものである。気楽にお読みいただくと幸甚である。
第一章 異なる研究分野との交流の大切さ
1 研究者は、専門分野の研究会や学会に所属して研鑽を重ねるが、歴 史研究とくに近現代史研究の場合は、専門分野ではないが時代的に重 なっている異分野との係わり合いが、積年の疑問を一挙に解決する場 合がある。 一例をあげてみよう。 一九一一年に勃発した辛亥革命のあと清朝は崩壊したが、なぜラスト・ エムペラーの溥儀は北京の紫禁城の内城に莫大な歳費をもらって十年以 上も住むことを許されたのか。そしてなぜ一九二四年になり、軍閥の馮 玉祥により追い出されて天津の租界に逃れざるをえなかったのか。以上 の出来事について、筆者は背景に存在したはずの理由を知らなかった。 目を通した中国近現代史関係の書籍群には、理由は記されていなかった。 筆者は二〇〇九年から、櫻井よしこ氏主宰の国家基本問題研究所の 客員研究員となった。そして櫻井氏から、対外膨張を画策して周辺諸 国を恫喝する中国の行動様式を理解するため、中国と周辺諸国との歴史関係を俯瞰する『報告集』の編集を要請された。その結果、足掛け 三年にわたり、明清時代にも遡る中国の外交史を、文字通り<勉強し た>。その甲斐あって二〇一一年には、『対中国戦略研究報告書―軍拡・ 膨張の歴史と現状』(公益財団法人 国家基本問題研究所、<国基研論叢①>) を上梓することができた①。 足かけ三年にわたる<勉強>の成果は、『報告集』冒頭の総論「中華 人民共和国の外交政策の本質を探る」にまとめたが、溥儀の処遇に関す る新しい知見を披瀝する。 清朝は満洲人の王朝であり、清朝皇帝は漢民族に対しては伝統的な皇 帝として臨んだが、モンゴル人やチベット人に対しては、ジンギスカン に起源をもつ遊牧民の大ハーンとして臨み、支配・被支配の関係という よりは、藩部の名の下での一種の同盟関係にあった。その結果、モンゴ ル人もチベット人も民族固有の法による自治を許されていた。さらに満 洲人もモンゴル人もチベット人も、同じチベット仏教徒であり、ダライ ラマを崇める人々であった。 以上の結果、モンゴル人やチベット人は満洲人王朝の清朝が崩壊する と、漢民族の打ち立てた中華民国に帰属する意思も義務もなく、独立し ようとした。歴史的経緯を考えれば当然の動向であるが、初代の中華 民国大統領の袁世凱は、満洲皇帝を紫禁城の内城に象徴的権威として留 めおくことにより、チベット人とモンゴル人の離脱を引き留めようとし たのである。チベット問題とモンゴル問題はこのあと紆余曲折を経るが (『報告集』所収の手塚利章論文「チベット問題-ダライラマの出現とその歴史的背景」 に詳しい)、漢民族支配から離脱しようとする遠心力は一貫して保存され、 これに乗じる形でいわゆる日本の満蒙工作が展開されたのであり、この 遠心力は今日のチベット問題にまでおよんでいる。また一九二四年にな り、軍閥の馮玉祥が溥儀を紫金城から追い出したのは、漢族としての自 分自身の信条にもよろうが、ほぼ間違いなくソ連の差し金を受け入れた からだと考えられる。一九二四年は、ソ連の衛星国家としてモンゴル人 民共和国が成立した年であり、溥儀をそのままにしておいてはモンゴル
人に対する溥儀の影響力を保存することになり、ソ連には衛星国統治上 の負の遺産となる。それゆえ溥儀は追放されたのである。ちなみに馮玉 祥は、このあと一貫してソ連に接近をつづけ、一九四八年には黒海の船 上で怪死する②。 ここで、『報告集』作成までの経緯を少し詳しく述べておきたい。櫻 井氏からの『報告集』依頼を引き受けたのは、出たとこ勝負ではなかっ た。当時の筆者は、中西輝政京大教授の主催する雑誌『ウェッジ』後援 の研究会「フォーラム-文明学の世紀」に乞われて出席しており、すで に古株であった。研究会のメムバーには、日本、チベット、イスラム、 中国、ロシアなど各国の近現代史と外交政策を専門分野とする若手の研 究者が集っていた。この研究会への参加を通じて、従来は中国国内の近 現代政治史それも国民党と共産党の研究に特化していた筆者の歴史研究 には(二つの政党は今日の中国を形成した二大政党であり、両党の研究は中国近現 代史研究の大きな柱ではあるが)、様々な枝葉が蓄えられた。丁度この時期に、 国家基本問題研究所から『報告集』作成の依頼を受けたのである。そし てこの依頼は、新しい知見を得つつあった筆者に知見を体系的に理解す る大きなモティベーションとなり、<勉強>には一段と熱が入った。月 一回の研究会である「フォーラム-文明学の世紀」が終了すると、筆者 は外交史に関する種々の疑問を目星をつけた研究者に歩み寄って問いか け、瞬時にして明快で内容の濃い回答を得ることができた。読書は知識 を得る王道である。しかし専門の研究者に、「内に高まる思い」を生の 形でぶつけるのは、問答で悟りを得るにも似て、往々にして一挙に視野 が開ける。さしずめ孔子の言う、「憤せずんば啓せず」であろう。 さらに幸運なことに、東アジア諸国と中国の外交関係という多角的問 題を統括的に語れる格好の研究者にめぐりあった。現在、立命館文学 部東洋史学専攻の非常勤講師をお願いしている金谷譲氏である。金谷 氏の存在は、幹事を努める現代中国研究会(会長はノーベル文学賞莫言氏の 専属翻訳者である吉田富夫仏教大学名誉教授)の会員として知っており、さら に筆者との共著で『日中戦争-戦争を望んだ中国、望まなかった日本』
(二〇〇八年、PHP研究所)を上梓した林思雲氏の友人であり、金谷氏は 林思雲氏との共著で日中文化をめぐる三部作の対談集『中国人と日本人 ホンネの対話③』を上梓した人物であることも知っていた。しかしご本 人があまり研究会におみえにならないこともあり、ロシア語の専門家(大 阪外国語大学ロシア語科卒業)で現代中国の事情にも通じている人物である という理解に留まっていた。それゆえ金谷氏には『報告集』のために、 ロシア語資料を駆使した中露関係史を執筆してもらうつもりであった。 ところが親しく接すると、東洋史学の大学院教育を受けた研究者である ことがわかった。大阪大学文学部東洋史学専攻さらに同修士課程を修了 ののち故あって研究者の世界から遠ざかったが、「フォーラム-文明学 の世紀」に集う若手研究者たちの種々の研究分野はいうに及ばず、東ア ジア史関連の多方面の研究を熟知している真にジェネラリストの名に恥 じない人物であった。そのことは、『報告集』をお読みいただければ、 理解されよう。 『報告集』の作成に向けて、監修者である私は、金谷さんから周辺諸 地域と中国との関係について、拙宅で複数回のレクチャーを受けた。そ のあと、それぞれ独立したテーマで複数の論文の執筆をお願いした。さ らに書きあがった複数の論文に対して、一般の読者としての立場からの 加筆と修正をお願いし、『報告集』は完成した。いうまでもなく金谷さ んが所収論文の全てを執筆したのではなく、米中関係に関しては、田久 保忠衛「<米中VS日本>という悪魔の構図」および冨山泰「中国の軍 事的挑戦と米国の対応」の二論文があり、中韓関係に関しては飯村友紀 「中韓<歴史論争>に見る民族主義の相克―その相互交渉の歴史」、チベ ット問題に関しては前出の手塚利章論文がある。さらに東京大学名誉教 授平川祐弘「米中日の文化史的三角関係―異なる愛憎を抱きしめて」が、 『報告集』の最後を締めくくっている。 ちなみに筆者は手塚利章氏(立命館大学東洋史学出身、現仏教大学講師)か らも、チベット史について複数回のレクチャーをうけ、ダライラマをは じめチベットに関する新たな知見を蓄積した。
このあと二〇一二年には、『報告集』の普及版として『中国はなぜ「軍拡」 「膨張」「恫喝」をやめないのか』(文春文庫)が出版された。普及版では『報 告集』の主要部分を構成していた金谷氏の五編の論文が、紙面の都合か ら一編を残して割愛された。そして新たに筆者の執筆した「<南京大虐 殺>に見る<歴史力>捏造のインテリジェンス」が加えられている。 2 もう一つの事例を、お話ししたい。現在は香港大学の研究所教授であ る官文娜さんから受けた啓発である。 官文娜さんは、中国の文化界がもっとも自由に満ちていた一九八〇年 代に、京都大学文学部日本史学科に留学して文学博士号を取得し、その 成果を『日中親族構造の比較研究』(思文閣、二〇〇五年)として上梓した 人物である。 彼女との出会いは、私が文学部の外国語パートに所属する中国語教員 であった時期に遡る。一九九六年に文学部にインスティテュートが開設 されると、私はインスティテュートの「アジアと現代」に移籍して中国 語の教員ではなくなったが、それまでは大勢の非常勤中国語教員の斡旋 に奔走したものである。官文娜さんは非常勤の中国語教員であり、小学 生時代に文化大革命を経験し父親の関係で家族が大変な苦労をしたこと から、中国の現状についてしばしば研究室で話しあう間柄であった。こ のあと彼女には、その専門研究を生かしてインスティテュートの講義も 担当してもらうようになったが、やがて『日中親族構造の比較研究』を 頂戴することになる。 官文娜さんの研究業績は、日本、中国、韓国という東アジアの三国を、 儒教文化圏あるいは東アジア共同体としてひと括りにしようとする皮相 な観点を吹き飛ばし、日本と他の二国との本質的相違を根底から明らか にする労作である。筆者は官文娜さんから著書をいただいた時点では、 その奥深い内容を読み取れず、本棚に並べておくだけ(積読―積んでおい
て読まない)の始末であった。ところが四、五年後に、鳥取の大山への 小旅行の帰途に有名な岡山県の閑谷学校を見学する機会に恵まれた。そ のさい学校の資料室に展示されている写真により、現在でも孔子を祭る 行事が行われているらしいことを知り、日本社会における儒学の影響の 深さを思い知らされた。そして、孔子学院を通じて影響力を世界に及ぼ そうとしている中国共産党の文化攻勢に対し、日本は有効に対抗できな いなと悲観的になっていた。 しかしこのあと、ふとしたことから本棚にあった官文娜さんの著書を 読みはじめるという幸運にめぐまれ、日本の儒教受容は極めて形而上的 すなわち学問的なものであり、日本人固有の生活形態にはほとんど影響 を与えなかったことを知った。さらにまた、幕末史の研究者として有名 な松浦玲先生から、朱子学者の横井小楠に関する詳細な著書を頂戴し④、 朱子学が日本の思想的土壌のうえでどのように独自の展開を遂げていた のかを知った。こうして、「儒教文化圏」などという概念は、確かに皮 相的な概念であると確信した。 筆者は平成二四年一月に、拓殖大学日本文化研究所公開講座 『日本 文明論への視点』の講師の一人として、「日本文明とシナ文明」という 演題で講演した。演題は主催者側のお仕着だが、<シナ文明>とよぶほ うが、共産党も国民党も清朝も飲み込んだ混沌とした文明世界がイメー ジできるので、講演内容にふさわしいと判断した。 公開講座の成果は、平成二四年の六月に、『日本文明論への視点―わ れら何処より来たり、何処へ往くのか』(展転社⑤)として出版されたが、 筆者が講演の中で官文娜さんの研究に言及している部分を以下の〈 〉 内に整理して紹介し、異分野交流により得た新しい知見を提示したい。 「 」内は官文娜さんの著作からの直接引用である。なお本稿に収録す るに当たり、若干補筆した。
<私の友人の官文娜さんの『日中親族構造の比較研究』には、日 本人と中国人の重要な違いが分析されています。家族や一族とい う考え方が全く違うのです。我々が江戸時代以来馴染んでいた儒 教に対するとらえ方もずいぶん違います。・・・最初に会ったと きに彼女は「日本には系がありません」というのです。系とは男 系のことです。中国では婿養子を認めませんから、男が途絶える と家が絶えてしまう。ところが日本ではフレキシブルなことをし ている。官さんは日本社会における血縁身分について、次のよう に述べています> 「中国の宗族構成員資格および血縁身分の生来的・永久的で人為 的に変えることができないのとは逆に、血縁身分は人為的に変え ることができる。それにより人の流動は比較的激しく、個人も相 対的に自由であった。平安時代高位・高官に就いたものは利益の ために実子があるにもかかわらず、高位・高官を一族内に引き続 けるために律令の<蔭位制>を利用し、血統や世代関係を無視し て頻繁に養子をとった」 <蔭位制とは、高位者の子弟は、親より何段階か下の位階から人 生をスタートできるという特権で、起源は唐の律令制にあります。 しかし日本で運用されると、孫を養子にしたりする事態が発生し ました。これによりその家族は一世代分の官位の目減りを防ぐこ とになります。中国では絶対不可能なことですが、日本では家が 企業体のようになり、血縁はあまり関係がなくなっている。江戸 時代になると様々なタイプの養子制度が発達し、養子証文という 契約を交わし、もとの家に戻ったり、また出て行ったりしている。 養子をとれば生活が安定するので、そのためには誰が実の親かと いう血縁秩序を無視して養子をとっていたようです。身分の高い 公家でも平気で養子をとっているのですが、皇室だけは男系で続
いています。皇室だけは男系を貫くという意識があったのかもしれ ません。ところが中国の場合は、官文娜さんによれば「数千年に及 んだ帝国時代では、戦国時代の各諸侯による改革と変法、および秦 による国家統一時に分封制度を廃して郡県制度を立てた際、血縁勢 力が一時削がれた以外、宗族の構成員間の親疎・尊卑・長幼の序列 という血縁身分社会の原則は歴代の統治者に利用され、統治安定の 要因となってきた。・・・宗族は中国社会における倫理観・価値観 を養い<礼教>を伝授・訓練する場であった。いわゆる<儒教文化 >はその中でうみだされたものである。―このような宗族規範の もとでは、人間の責任感・栄誉感、さらには生命の価値まで自分の 物ではなく、宗族に属するものであった。」> <実はこういう歴史展開の特色が、中国人の社会では個人の独立と ぶつかってしまうのです。要するに、個人が独立して出現できない のです。その結果、魯迅や毛沢東も<礼教>として社会の隅々にま で浸透している<儒教文化>に対して、きわめて強い反発を示して いた⑥。私は中国近現代史研究を始めた当初、彼らがなぜこんなに儒 教に反発するのかが理解できなかった。しかし彼らは、近代化のシ ンボルとしてヨーロッパから入ってきた「個人の独立」が、儒教の 伝統的規範と衝突すると理解したからこそ「儒教(孔教)」を攻撃し たのです> <中国人にとっては、儒学ではなく儒教なのです。宗族(一族)と いう血縁秩序を守るために必要な倫理観や価値観の詰まった教え なのです。そして血統上の何処に位置するかにより、一族内での 地位を定めらており、個人的な素質や能力の如何によって身分を 左右されるのではありません。このような小秩序が全土に張りめ ぐらされていたので、広い帝国でもきちんとした行政組織が成り 立つのです>
<ところが日本では、孔子の教えである『論語』は、個人的な道 徳律としてとらえられている。人間としてきちっとした生き方を するにはどうしたらよいかが書かれている書物として、『論語』 が読まれていた。日本人には、儒教よりも儒学であって、意味深 い内容を備えた学問として江戸時代の人々は学んだのです。横井 小楠や福沢諭吉、渋沢栄一も儒学で精神的基盤をつくりました> <そしてこのように読み直すことを可能にしたのは、江戸時代 には高度に発達した貨幣経済体系があり⑦、さらには社会に深く 根付いていた一族と血縁に対するフレキシブルな社会習慣に基づ きます。日本の家とは、あたかも同族会社のような生活の為の実 利的組織なのです。中国人の宗族制度のように、一人の男性の祖 先から発して脈脈と男系で繋がっているかどうかを気にしなかっ た。平安時代から、日本の家は機能化されていたのです> <中国は徹底した男系社会です。日本のような女系の家族など存 在しません。一昔前までは、「中国人の女性は結婚しても名前を 変えないから独立している」などという能天気なことをいう女性 研究者もいたように思いますが、誤解です。女性は男系で維持さ れる一族の血脈に参加できないから、名前が変らないのです。時 間の都合で詳しい説明は割愛しますが、一族の結束は男性の骨を 通じてのみ受け渡される「気」というエネルギーで維持されると 信じられているのです> <文化大革命の時にも、この男系血統主義が、大きな災いをもた らしました。社会主義社会にはすでに階級は存在せず、地主も資 本家もいるわけがない。その中で階級闘争をやると言い出しても、 階級を分ける社会的基準など存在していない。そこで持ち出され
たのが血統主義であり、男系で祖父や父を遡り、資本家や地主で あったならば、その子や孫は「出身階級」が資本家や地主だとい う、すこぶる形而上な理由で階級闘争にかけられ、社会の敵とし て粛清されることになったのです。当時は反社会的な出身階級と して、地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派分子の五つがあり、 黒五類という分類のもとに、階級闘争を通じた打倒対象とされて いました⑧。これらの人々は、どんなに中華人民共和国あるいは中 国共産党のために力を尽くそうと思っても、受け入れてもらえな かったのです。ちなみに文化大革命の文化という部分は、この革 命が形而上に発することを意味しています。反対に生まれながら の革命派として扱われる出身階級には、労働者、貧農・下層中農、 革命幹部、革命軍人、革命烈士(革命のために命を捧げた人)があり ました。これらの人々は黒五類に対して紅五類とよばれました> <「新中国」と呼ばれたにもかかわらず、中華人民共和国で発生 した文化大革命では、伝統的な血統主義が社会全体に蔓延した。 それゆえ現代の中国は、伝統的、封建的な要素を色濃く引きずっ ているのです。まさしく中国共産党の支配は、「社会主義の衣を 着た封建王朝」にほかならないのです>
第二章 国民党史と共産党史に関する新発見
1 文化大革命では、伝統的な血統主義が復活した。はたして文化大革命 を指導した毛沢東の思想(毛沢東思想)もまた、深く中国の伝統思想に根 ざしていたのである。 中国共産党の定義によれば、毛沢東思想とは、世界思想であるマルクス主義が中国という個別の地域の社会と文化に適用されて発展した思 想、すなわち中国化されたマルクス主義である。マルクス主義という「世 界性」が主たる要素で、中国という「地域性」は従である。 ところが十五年ほど前に購入したが放置していた彭大成『湖湘文化與 毛沢東』(湖南出版社、一九九一年)にたまたま目を通したことにより、筆 者は毛沢東思想の核心には中国の伝統思想が脈々と流れている事実を知 った。題名にいう湖湘文化とは湖南省文化の意であり、毛沢東に対する 湖南省の伝統的学術の影響を特筆した著作である。 著者の彭大成は、明末清初の思想家で膨大な著作を残した王船山に始 まり、清末の政治家で太平天国を鎮圧した曽国藩、さらには毛沢東の師 範学校時代の恩師で岳父となる楊昌斎を経由して毛沢東へと受け継がれ た共通の思想内容を、様々なジャンルを設けて克明に跡付けている。「あ とがき」によれば、原稿が完成した一九八二年から一九九一年に出版さ れるまでの十年間に、著者は四人の異なる共産党の思想部門の責任者た ちに原稿を校閲してもらい、そのつど書き直しを迫られている⑨。共産党 の思想部門の責任者は毛沢東思想をマルクス主義という世界思想の範疇 に位置づけようとし、これに対して著者の彭大成が、毛沢東思想の中国 的特色すなわち国際性ではない地域性を強調しすぎたからであろう。 本稿で同書の全貌を紹介するのは、紙面の制約から不可能である。以 下に、毛沢東における伝統思想の影響を如実に示す、二つの事例を挙げ ておきたい。一つは、マルクス主義に接する以前の毛沢東が、一九一七 年四月に当時の著名な雑誌『新青年』の第三巻二号に発表した論文「体 育の研究」に関してである。この論文は冒頭から、「国力衰弱し、武風 振るわず、民族の体質は日を追って細っていく」と述べ、「文弱」とい う中国の伝統を克服するための「体育の重要性」を強調しており、当時 としては極めて斬新な内容である⑩。 はたして毛沢東思想の研究で著名なロンドン大学アジア・アフリカ研 究学院<略称SOAS>の教授のステュアート・シュラム(二〇一二年に 逝去)も、その著書の中で「体育の研究」を特筆している。しかし斬新
な主張の思想的背景については詮索してない。ところが彭大成は、毛沢 東の体育重視の考えは師範学校時代の恩師である楊昌斎の講義に基いて いることを実証する。そして注として引用されている講義記録からは、 楊昌斎の体育重視が、明治の日本の高等師範学校の教育内容に影響を受 けていたことが分かる⑪。いうまでもなく、日本の高等師範学校の教育内 容が中国の伝統思想に直接に結びついたのではない。正確にいうならば、 毛沢東は日露戦争勝利後の日本の高等師範学校での体育重視を手本とし て、中国の伝統的な「知育、徳育、体育」における体育の最重要性を、 新たに提起したのである。 もう一つの事例は、マルクス主義者となっていた毛沢東が、一九三七 年に共産党の根拠地の延安で、抗日軍政大学での哲学講義のために王船 山の著書を取り寄せた事実である⑫。この時の講義がもととなり、毛沢東 思想の二本柱となる「実践論」と「矛盾論」が出現して中国化されたマ ルクス主義の真髄とみなされるようになるが⑬、その根底には中国の伝統 思想が存在していたのである。ちなみに「実践論」と「矛盾論」は、後 年にはフランスの著名なマルクス主義者であるアルチュセールにより、 その代表作ともいえる『甦るマルクス』のなかで、マルクス主義哲学の 精緻化として高く評価されることになる⑭。 2 歴史上名高い、蔣介石の四・一二上海クーデターに関する新発見を述 べる⑮。筆者は、『第一次国共合作の研究―現代中国を形成した二大勢力 の出現』(岩波書店、一九九八年)で、中国大陸で公刊された文字資料に基 き以下の事実を明らかにした。第一次国共合作を破棄した一九二七年の 蔣介石による四・一二上海クーデターは、国共合作の破棄を断行した行 為ではあった。しかし人的にも親しい関係にあった共産党員を一時的に 拘束しただけであり、それ以上でもなく以下でもなかったことである⑯。 それゆえに、折に触れて写真で目にする上海街頭での「共産党員の斬首
刑」は、上海を占領中で蔣介石の率いる国民革命軍に包囲されていた山
東省軍閥の張宗昌(張作霖の配下)が、国民革命軍に内部から呼応しよう
としてビラをまいていた労働者を逮捕処刑した場面なのである⑰。
しかし相も変わらず、四・一二クーデターの斬首場面だと主張してそ の写真を自著に載せる人がいるので、イギリス人が一九世紀の六〇年代 から上海で発行していた有力紙であるNorth China Daily Newsを証拠 として持ち出だそうと考えていた。街頭での斬首刑に関して、リアルタ イムの報道があるはずだと当たりをつけたのである。かれこれ二十年近 く昔のことであり、それ以来 North China Daily News の入手を試み ていたが、幸運にも大型図書購入の予算が付き、アメリカの出版社がマ イクロフィルム化していた当該時期部分を、極東書店経由で購入するこ とになった(予算は百万円だったと思う)。ところが、その直後に先方の出 版社が倒産し、購入話しはお流れになった。そして十年の歳日が流れ、 再び大型図書購入予算が付き、今度は雄松堂書店経由でついに入手した。 筆者は喜び勇んで、一九二七年二月の記事を調べた。二月は、街頭で の斬首刑が行われたと文書資料に記されている日時である。当時、蔣介 石率いる北伐軍は上海近郊に接近中であった。はたして予想どおり、二 月二二日の第一面に「身の毛もよだつ光景」(GRUESOME SIGHT) のキャプションつきで、斬首刑の写真が掲載されている。そして、市内 の他の場所でも同様の斬首が行われたという解説が付いており、他の処 刑現場の具体的内容を伝えている。一例をあげると、上海市内の他の場 所では「二人の労働者が蔣介石将軍を歓迎するビラを所持しているのを 見つけられ、その場で斬首された」とある。斬首の下手人が蔣介石では なく、敵対していた軍閥であることの揺るがぬ証拠である。解説によれ ば、写真を撮影したのは Ariel L.Varges というアメリカ人写真家であり、 アメリカの Yahoo で調べると、父親の代からの著名な写真家で、当時 は中国人の助手を伴って中国各地でこの種の写真を撮影していたとい う。ところが残念にも、肝心の新聞写真がマイクロフィルム化される過 程で不鮮明となり、複写した紙面上には斬首の光景が明瞭に浮かび上が
ってこない。おそらくは隠し撮りされて露光が不足していたなどの理由 であろうが ここであきらめてはふがいない⑱。なんとかマイクロフィル ムを鮮明化しようと試みた。ネットで検索すると、なんと立命館大学の すぐそばに、吉岡写真というマイクロフィルムをはじめフィルム類の修 復を専門にするお店があり、早速にマイクロフィルムの鮮明化をお願い した。そして東京の業者にまでとりついでもらったのだが、残念ながら 不成功に終わっている。しかしあきらめずに、今度はデジタル化処理か 何かで再挑戦の予定である(情報の提供を乞う!)。 3 最後に、中国共産党が一九四六年から始まった国民党との内戦に勝利 した原因は、農民たちが共産党を支持したからだという「定説」を覆し てみよう。すでに筆者は、『中国は社会主義で幸せになったのか』の第 三章「なぜ国民党ではなく共産党だったのか」で、この神話に対して以 下の疑問を呈しておいた。 「国共内戦の勝敗を決したのは、共産党が地主の土地を没収し、 貧農に分配したからだという説がある。土地を得た貧農層の共産 党への大きな支持が、勝敗を左右したというのである。たしかに 共産党は国共内戦開始直後の一九四六年五月四日に、土地問題に 関する新しい指示を発していた。しかし指示の内容は小作料の減 免が中心で、基本的には抗日戦争中の政策を踏襲していた。土地 の没収はごく少数の対日協力者に対してしか行われず、有償に基 づく土地の分配が行われ、地主の反発を防いでいた。いまだ内戦 の帰趨が不確かな状況下で地主の土地を一律に没収すれば、地主 層の共産党への敵対を惹起し、国民政府軍に有利に働くことは明 白であった。共産党による地主の土地没収が具体化したのは、国 民政府軍に対する共産党の人民解放軍の軍事的優位が確立された
一九四七年の夏以後であった。四七年十月に共産党は「中国土地 法大綱」を決定し、地主の土地を一律に没収することを決定した。 そしてこれ以後、共産党の軍事的勝利と土地改革が、同時並行的 に拡大していったのである⑲」。 そして筆者はこのあと、上記の見解を裏打ちする決定的証拠を見つけ たのである。二〇〇六年に上海社会科学院出版社から上梓された『革命 与郷村―解放区土地改革研究 :1941-1948』である。内容は、復旦大学 に提出された五編の博士論文から構成されている。そして第四章の「土 改中的民衆動員」(土改は土地改革の略-北村)では、国共内戦の主要戦場 となった山東省での一九四六年当時の農民と共産党員の関係が、档案館 所蔵の内部文書を基礎に分析されている。ハイライト部分を、以下に日 本語訳して示す。< >内は档案館所蔵の内部文書から直接引用されて いる部分である。( )内は筆者が補った。 「伝統的な共産党史研究では、農民は土地を獲得すると生まれ変 わって立ち上がり(原文は翻身)軍隊に参加して(原文は参軍)前線 に赴いたと考えられており、土地改革と農民の軍隊参加に直接の 関係を認めていた。しかし多くの資料が示しているのは、事実は それほど簡単ではなかったということである」(省略)「一九四六 年冬の大参軍運動では、<幹部は皆が悩んでいた。民兵たちに参 軍を呼びかけても誰も応じないのである。そのうち破壊分子(運 動の邪魔をする者)を見つけて逮捕し、脅しと説得を半々に使い、 さらには党員七名の率先参軍により二五人の青年の参軍が実現し た」(省略)「民衆の中には運動員に向かって<翻身して二畝(一畝 は六 . 六アール)の土地を分けてもらったりしたので、運が悪くな った>とか、<小作料や利息が減れば参軍することになると早く 言われていたら、俺は減らしてもらわなかったよ>とか、<分け てもらった土地はお返ししますので、参軍はいたしません>など
という者がいた・・・⑳」 しかしこの部分に続く文章には、次のように述べられている。共産党 の公式歴史観に正面きって異論を唱えるのが、憚られるからであろう。 「上述の材料だけからでは、何らかの問題を説明するのに不十分であ るかもしれない。なぜならば、進歩と落後との違いは、いつでも存在す るものだからである」と。そして進歩的な農民による参軍の模範例が掲 げられている。ところが実証的な事例ではなく、当時の共産党が農村で 行っていた宣伝演劇のストーリーにすぎず、苦肉の安全策なのかと苦笑 いを誘われる。
第三章 新しい研究の展望をもたらした大恩人
高華教授
筆者は『中国は社会主義で幸せになったのか』の最終部分で、現在の 腐敗きわまる共産党の体たらくを目の当たりにする時、全面否定されて いる文化大革命にも一分の理があったのではないかと自問し、次のよう に書いた。 「文化大革命は、膨大な死傷者を出現させ文化を滅亡の危機に陥 れた以外は、何物をももたらさなかった。中国共産党のいう<十 年の災害>であろう。しかし、文化大革命を全面的に否定して推 進された現在の改革開放政策の結果、中国社会には、<農村のす さまじい疲弊><貧富の差のすさまじい拡大><特権幹部のすさ まじい腐敗>がもたらされ、<中国の特色をもった社会主義>の 名による<資本主義>が復活した。これらの事実を目の当たりにするとき、次に紹介する姚文元の予言は、文化大革命の残酷な遂 行手段はさておき、その<合目的性>に対する何がしかの再考を われわれに促すのではないか。」 姚文元とは、毛沢東が死去した一ヶ月後の一九七六年十月に、「四人 組」の一人として逮捕された文革推進派の中心人物である。二十年の刑 期を終えて釈放されたのち、二〇〇五年に死去した。姚文元が一九七五 年に、共産党機関誌『紅旗』(後に廃刊)に掲げた予言の詳しい内容は、『中 国は社会主義で幸せになったのか』を参照していただきたいが、その予 言は、共産党員の腐敗とそれに付随する今日の中国社会の混乱した状況 を正確に言い当てている㉑。 この予言にヒントを得た筆者は、小規模な研究会をたちあげて、今日 的な問題意識のもとで新しい文革像を描いてみようと決心した。そして 台湾や香港の最新研究を探索して行くうちに、香港中文大学中国文化研 究所の主催する学術誌『二十一世紀㉒』にめぐり合った。さらにこの学術 誌を通じて、政治的制約を離れた全く自由な観点から多くの論考を発表 する南京大学教授の高華氏を発見した。さらにその代表的業績に、延安 整風運動をテーマにした『紅太陽是怎様昇起的』(<紅太陽はどのようにし て昇ったのか>、香港中文大学、二〇〇〇年、未訳)があることを知った。延 安整風運動は、一九四二年から四五年まで共産党根拠地の陝西省延安で 行われた党内粛清運動であり、毛沢東が政治権力と思想全般におけるカ リスマ性を確立した運動であり、文化大革命の雛形であった。 早速に、香港の官文娜さん経由で『紅太陽是怎様昇起的』を入手して 読みふけったが、予想通りの労作であった。整風運動の舞台裏をかくも 赤裸々に暴きだした研究書は、これまで存在しなかった。使用されてい る資料は全て中国内で公刊された書籍であり、その中の断片的記述を「眼 光紙背に徹す」眼力で読み解くのである。その研究姿勢は、個人的なル サンティマン(怒り、強い感情)から毛沢東をこき下ろしてベストセラー になった『マオ』の著者のユン・チアン(中国名は張戎)とは異なり㉓、研
究者としての探究心に基づき事実の経緯を淡々と追跡している。高華氏 は自らの立脚点を「五四新文化運動のリベラル精神だ」と述べているが、 五四新文化運動は一九一二年の清朝崩壊で流動化した政治文化状況の中 で出現した、西欧型の民主化を追求する文化運動である。毛沢東もこの 運動の熱心な支持者であり、武者小路実篤の「新しき村」を信奉し故郷 で実践を計画していた。そのような若い人道主義者が、なぜ残忍な独裁 者にならねばならなかったのかが、中国革命の悲劇なのであるが、その 道筋については『中国は社会主義で幸せになったのか』をお読みいただ きたい。 以下に、高華氏の語る「中国革命の聖地」延安の実態を紹介して、本 稿の締めくくりとしたい。深い闇のなかに沈んでいた歴史の真相である。 従来の定説では、延安は中国共産党が主張していた「社会的平等」と「自 力更生」が実現された聖地であると考えられていた。ところが「社会的 平等」とは真っ赤な嘘で、共産党員の高級幹部と一般党員の間には、生 活上での極めて大きな差別があった。高級幹部には執事や保母や用務員 や護衛があてがわれ、食事も五つの等級のうちの最上級が供されていた。 彼らは毎日絞りたての牛乳を飲み、毎週末のように舞踏会に赴いたとい う。そしてこれに対する一般党員の広範な不満が一九四二年の春に爆発 したとき、毛沢東は首謀者であった文学者の王実味に「架空の絶対平等 を主張し団結を蝕む反党主義者、トロッキスト、国民党のスパイ」のレ ッテルを貼り付け、逮捕監禁して五年後には処刑した。 国民党による大規模な経済封鎖に対抗する手段として行われた「自力 更生」に関しては、軍隊を動員した大規模な開墾で食糧増産が達成され た、と語られてきた。しかしこれも嘘で、実際にはアヘンを大量に栽培し、 近隣地域に輸出することで大きな収入を得て生存を維持したのである。 延安とアヘンの関係は、以前から取りざたされていた。ピヨートル・ ウラジミロフ『延安日記―ソ連記者が見ていた中国革命㉔』である。 この『延安日記』は、一九七六年に台湾で、さらに二〇〇四年には内 部出版として中国でも出版されたが㉕、中国版の当該部分にも「鴉片」(ア
ヘン)という文字が憚ることなく出現する。ただし中国版の「前言」には、 ウラジミロフが反中国共産党であることが力説されており、記述の信憑 性に一応の疑問を投げかける姿勢が示されている。 しかし高華氏のような中国共産党一党独裁化の中国大陸に居住する知 識人で、しかも現役の南京大学教授である人物が、延安のアヘン問題 に正面から言及した事例は他に存在しない。さすがに高華氏も、「鴉片」 とは書かずに「特種物質」と表記しているが、前後の文脈から容易にア ヘンであるとわかる。そして根拠を示す文献資料として、『謝覚哉日記』 が掲げられている。謝覚哉は毛沢東と同世代の、しかも同郷出身(湖南省) の古参共産党員で、一九五四年には最高人民法院長となり六六年には共 産党中央委員に選出された㉖。 一大事と思い、躍起になって関連資料をしらべていくと、台湾の中央 研究院近代史研究所の陳永發教授が、『新史学』第一巻四期(一九九〇年 十二月)に、「紅太陽下的罌粟花:鴉片貿易與延安模式」(紅太陽の下のケ シの花:アヘン貿易と延安モデル)という実に綿密な専論を発表していた。『新 史学』は、立命館大学に所蔵されており、延安とアヘンの関係について、 きわめて詳しい内容を知ることができた㉗。 ちなみに、『紅太陽是怎様昇起的』は中国国内では禁書扱いで、海 賊版も出現している。しかし香港を訪れる中国人たちが争って買い求 め、夥しい数の(注)が付いている専門の研究書であるにもかかわらず、 二〇一二年現在で十二版を重ねるベストセラーである㉘。ところがなぜか、 日本では注目されてこなかった。研究者たちが、自分たちの抱いてきた 中国共産党幻想が崩壊するのを恐れているからであろう。 高華氏は南京大学教授在職中の二〇一二年十二月二六日(毛沢東の誕生 日)に、悪性腫瘍のため五七歳で逝去した。高華氏は学者には珍しい労 働者階級の出身であり、その結果として文革中も社会的迫害からは無縁 で、この間に、全校生徒が下放した高校の図書館が所蔵する書物(主と して一九六〇年代前半に出版された海外書籍の翻訳書)を読みふけり、文革中 にもかかわらず、ゆとりのある精神世界を構築していた稀有の人物であ
る㉙。高華氏は文革終了後に南京大学の歴史系に進学し、改革開放時代の 一九八〇年代に数多く出版された共産党史関連の研究書や個人の回想録 などを緻密に読み込み、中国共産党の政治支配と思想統制が出現するカ ラクリを、白日のもとに晒しだした。 高華氏は、筆者の最新の研究テーマである「文化大革命の再考」の行 き詰まりを、一気に切り開いてくれた大恩人でもある。 注 ① 報告書は立命館大学図書館に寄贈したが、その後に複数冊が所蔵されてい る。国家基本問題研究所にインターネットで申し込むこともできる。定価は 2500円。 ② 馮玉祥。 一八八二年~一九四八年。兵卒から身を起こした安徽省出身の軍 人。キリスト教徒として知られる。背反常無き人物で、蔣介石の最大のライバ ルであった。戦後は国民党内の反蔣介石派の中心人物となり、アメリカでの反 蔣介石演説は有名。モスクワに向かう途中に、黒海の船上で火災により死亡し た。暗殺説もある。 ③ 『中国人と日本人 ホンネの対話』(日中出版、二〇〇五年初版、二〇〇六年 続編、二〇一〇年新編)。 ④ 松浦玲『横井小楠』(ちくま学芸文庫、筑摩書房、二〇一〇年)。 ⑤ 編集者は遠藤浩一拓殖大学教授。収録されている講演の講師陣は、田中英道・ 東北大学名誉教授、西尾幹二・電気通信大学名誉教授、長谷川三千子・埼玉大 学名誉教授、古田博司・筑波大学大学院教授、井尻千男・拓殖大学日本文化研 究所顧問、小堀桂一郎・東京大学名誉教授、北村稔・立命館大学教授、である。 ⑥ 一九一七年から陳独秀が雑誌『新青年』を通じて、民主と科学の支配する西 欧型社会の実現を提唱した新文化運動では、儒教(孔子教)打倒の「打倒孔家店」 がスローガンとして叫ばれた。新文化運動は多くの青年たちに支持されたが、 毛沢東もその一人で、『新青年』の投稿者であった。魯迅が一九一八年に『新青年』 に発表した「狂人日記」で、「人を食う礼教」という激しい言葉を浴びせたことは、 よく知られている。 ⑦ すでに一八世紀の大阪堂島の米市場では、世界に先駆けること百年以上もは やく、米の先物取引が行われていた(西尾幹二編『地球日本史2―鎖国は本当 にあったのか』所収、宮本又郎「江戸の金融システム」)。
⑧ マルクス主義で定義される階級とは、人間社会を支える各種の生産活動の中 で個人が占めている位置である。地主、資本家、小作農民、工場労働者などに 区分される。文化大革命が開始されたあと、出身階級による社会差別を糾弾し た遇羅克は、「反革命小集団を結成した」との罪名で逮捕され一九七〇年に銃 殺された。遇羅克は文革終了後の一九七九年に名誉を回復され、英雄的知識 人として注目された。右派分子とは、共産党への批判的言動を糾弾する目的で 一九五七年に開始された反右派闘争により、社会的に葬られた数十万人の知識 人たちとその家族をさす。 出身階級によりもたらされた多くの悲劇を綴る最新の資料に、共産党中央宣 伝部を批判して北京大学准教授を解任された焦国標(焦国標『中央宣伝部を討 伐せよ』<酒井臣之助訳、草思社、二〇〇三年>参照)の編集する雑誌『黒五類』 があり、ネット上で公開されている。 ⑨ 三人目の校閲者は、湖南省出身の著名な共産党員で毛沢東の秘書も勤めた経 験を持つ李鋭である。李鋭には、『毛沢東同志初期革命活動』(一九五七年、中 国青年出版社。邦訳『毛沢東 その青年時代』、<松井博光・玉川信明訳>、至 誠堂、一九六六年)をはじめとする多くの著作がある。 ⑩ 「体育の研究」に関する解題と日本語訳および訳注は、竹内実・和田武司編『民 衆の大連合―毛沢東初期著作集』(講談社、一九七八年)を参照。 ⑪ 彭大成、一七一頁。ちなみに筆者は一九八一年九月より文部省在外研究員と して<SOAS>に一年間滞在し、シュラム教授には大変お世話になった。シ ュラム教授は、筆者がロンドン大学に滞在した一九八〇年代の初期に、改革開 放政策を開始したばかりの中国に頻繁に招待され、中国側の研究者との間で毛 沢東思想に関する意見を盛んに交換していた。中国側としては、毛沢東の意向 と正反対の改革開放政策を開始したが、毛沢東は神棚に飾らねばならず、途方 にくれた挙句にマルクス主義者ではない中立的かつ実証的な西欧人(シュラム 教授はアメリカ国籍)に、毛沢東に対する「客観的」評価を下してほしかった のである。このあと、シュラム教授は代表作であるThe Thought of Mao
Tse-Tung, Cambridge University Press,1989. を上梓する(北村稔訳『毛沢東の思 想』 蒼蒼社、一九八九年 )。しかし同書のモチーフは、マルクス主義の範疇に 照らして毛沢東思想の内容を分析することであり、毛沢東思想における伝統的 要素すなわちマルクス主義者となる以前の毛沢東の思想状況については、ほと んど言及されていない。 ⑫ 彭大成、八三頁。 ⑬ 「実践論」と「矛盾論」は、『毛沢東選集』第一巻(一九五二年七月第一版、 人民出版社)に収録されている。 ⑭ 河野健二、田村俶訳『甦るマルクス』 (人文書院、一九六八年)。不思議なこ
とに日本語版の索引には、毛沢東の二つの著作が項目として拾われていない。 当時の毛沢東思想の日本での扱われかたを彷彿させ、興味深い。 ⑮ 蔣介石を総司令官とする北伐軍により、上海は一九二七年の三月末に占領さ れた。そして四月に入ると、自らが主導する上海市政府を成立させ蔣介石に対 抗しようとする共産党と、市政府の成立を許可しない蔣介石との対立が極点に 達した。蔣介石は四月十二日に、共産党の武装力である労働者糾察隊を秘密結 社の青帮に攻撃させ、双方の衝突を仲裁するという体裁で糾察隊を武装解除し た。同時に共産党員たちを一時的に拘束した。両者の衝突では糾察隊側に百を 数える死者が出たが、この時点では共産党は蔣介石に公然と敵対しておらず、 ソ連と蔣介石の関係も持続されていた。ちなみに、四月十八日に南京で開かれ た新たな国民政府の成立式典にはソ連軍事顧問団が出席し、蔣介石もソ連との 友好を確認していた。 ⑯ 一九八〇年代には、この事件に関する多くの書籍が公刊され、未公開であっ た多くの関連資料が明らかにされた。上海市档案館編『上海工人三次武装起』 (一九八三年)、中共上海市委員会党史資料征集委員会主編『上海工人三次武装 起義研究』(一九八七年)、周尚文・賀世友『上海工人三次武装起義史』(一九八七 年)などである。これらの書籍が公刊された目的は、蔣介石批判の最大の眼目 であった上海クーデターの実相を明らかにして、台湾との接近に道筋を開くこ とであった。 ⑰ 街頭での斬首場面の写真は、『中国近代百年歴史圖集』(香港、七〇年代雑誌 出版、一九七六年)などに掲載されている。ちなみにこの本の巻頭を飾るカラ ー写真群の最後には、金色の枠で囲まれた尖閣諸島の写真が掲げられており、 中国の領土だと主張されている。今になってこの事実を発見し、驚いている次 第である。 ⑱ 不鮮明ではあるが、斬首後の首を、中身が見えるように木枠を組み合わせて 作った箱に入れ、高い棒の先につるして晒しているらしいことが見て取れる。 そしてこの木枠の箱の存在は、『中国近代百年歴史圖集』所収の同じ斬首場面を 時間をおいて別の方角から撮影したらしい写真から確認できる。 ⑲ 北村、同書、一五〇頁。 ⑳ 上海社会科学院出版社、同書、一〇九~一一一頁。 ㉑ 北村、同書、二二七~二二八頁。資本主義の金もうけ、公共物の私物化、投 機取引、汚職と腐敗、窃盗と賄賂などが、復活すると予言している。 ㉒ 『二十一世紀』は、一九九〇年十月に創刊された雙月刊の学術誌。台湾、香港、 中国の中国人学者が、投稿者として名を連ねる。 ㉓ ユン・チアンの怒りと、ユン・チアンが歴史を歪曲している事実については、 拙稿「ユン・チアン『マオ 誰も知らなかった毛沢東』を読み解く-中国人の
特異な「歴史意識」の正体」(『吉田富夫先生退休記念中国学論集』、汲古書院、 二〇〇八年)を参照。 ㉔ ウラジミロフ、同書(高橋正訳、サイマル出版会、一九七五年)、二〇二頁。 ㉕ 『延安日記』(周新訳、聯合報社、一九七六年)、『延安日記』(呂文鏡等訳、東 方出版社、二〇〇四年)。 ㉖『謝覚哉日記』(上・下巻 一九八四年、人民出版社)。日記の一九四五年一月 十五日条には、毛沢東が語った言葉として、「我が党は二度誤りを犯した。一 つめは長征のときに無暗に人民の物資を奪ったこと(奪わねば生きられなかっ た)、二つめは某物を植えたことだ(植えなければ難関を越えられなかった)」 と記されている。 ㉗ 陳永發教授はこのあと、『新史学』第八巻三期(一九九七年九月)に、「<延 安模式>的再検討」を発表し、聖地として扱われてきた延安の実態を、赤裸々 にえぐりだしている。 ちなみに筆者は、黄英哲氏(本学東洋史博士課程出身、愛知大学現代中国学 部教授)の紹介で、中央研究院の一室で陳永發教授にお目にかかったことがあ る。二十年以上も前のことである。その際には、陳永發教授の指導する大学院 生が、筆者が京大文学部の『史林』に発表した第一次国共合作に関する論文を 引用していると知らされ、いささか面目を施した。 ㉘ 二〇一二年の第十二版では、増刷上の必要から簡体字版も出版された。この 簡体字版には、「簡体版保留繁体版全文内容」という断り書きの帯が付けられて いる。両版を比較してみたが、たしかに内容に異同はない。 ㉙ 高華氏の著者「あとがき」によれば、父親は右派の烙印を押され高華氏が小 学生時の一九六三年には、南京郊外の農場で労働していた。その結果として高 華氏は、南京市外語学校への進学を拒否された。高華氏の父親は六六年に文革 が勃発すると、「このままでは生きながら撲殺されるかもしれない」と述べて、 山東省の故郷の農村に逃げ帰り親戚の家に身を潜めた。これに対し父親の所属 する単位からは、「逮捕令」が発せられたという。ところがこのあと高華氏は、 具体的名称を示さないが中学校(六年制。初級中学から高級中学へと進む)を 終了し職場にも所属している。高級中学を卒業したからこそ、文革終了後に復 活した入学試験で南京大学に進学できたのである。しかし当時の中国で、父親 が右派で文革の際に逮捕令が発せられたような人物は黒五類に分類され、進学 や就職は望むべくも無く、激しい社会的迫害にさらされたはずである。ところ が高華氏には、全く迫害された様子がみられない。これを説明する鍵は一つで ある。元来の出身階級がよく、後付の右派のレッテルを跳ね返せたのである。 高華氏は、通学していた小学校が南京軍区後勤部隊の家族住宅と「新華月報」 社員の社宅の付近にあり、その小学校には幹部の師弟も学んでいた、と述べて
いる。同じ職場に働く人間たちが、「単位」という教育を含む生活全般にわた る協同組織に所属した当時の状況から考えれば、高華氏の家族は、南京軍区後 勤部隊か新華月報社員かのどちらかである可能性が甚だ高くなる。そうであれ ば、出身階級は紅五類に属する革命軍人か労働者階級である。そして「あとがき」 の全体内容からは、軍人家族のイメージは全く浮かんでこない。高華氏の出身 階級を労働者と判断した所以である。 (本学文学部教授)