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明末清初におけるマンチュリア史研究の現状と課題(下)

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- 15 - 目次 1.戦前の研究動向 2.戦後から1960年代にかけての研究動向 3.1970年代から90年代にかけての研究動向 4.2000年以降の研究動向 以上前号 5.中国での研究 1950~60年代 以下本号 6.中国での研究 70年代末~90年代 7.テーマ別による考察 ①ヌルハチ期・ホンタイジ期の問題 ②朝鮮・モンゴルとの関係 ③八旗制・満洲人について ④清朝に帰順した漢人と明朝側で活躍した人物 ⑤産業政策・民族政策・軍事史 ⑥開国説話・史料について おわりに 5.中国での研究-1950~60年代 中国では、ヌルハチが台頭した社会経済的な要 因、女真・満洲人の発展段階に関するテーマが多 く取り上げられた。 張維華(1)は1954年に満洲社会に関する論文を 発表し、基本的には奴隷制から封建制に向かって いたと指摘した。王鍾翰(2)は、ヌルハチ期につい て分析し、氏族社会末期の段階ではなく奴隷制で あったが、遼東占領(1621年)から入関までは奴隷 制から封建制への過渡期であったと主張した。次 いで、ホンタイジ期の検討をおこない、封建制が 確立する過程にあったと指摘した(3)。莫東寅(4) は、建州女真が興隆した背景、ヌルハチ勃興の経 緯、八旗制度の形成について考察した。孟森(5) はヌルハチの事跡について考察し、張鴻翔(6)はヌ ルハチが明朝からいつ、どのような官職を受けて いたのか考察した。 60年代に入ると、女真社会が奴隷制から封建制 へどのように移行したのか、議論がおこなわれた。 李燕光(7)は、遼東占領以前では土地売買に関する 史料は見られないこと、奴隷が確認されることな どから奴隷制社会の発展した段階であり、遼東占 領後に封建制へ移行したと主張した。鄭天挺(8) は、ヌルハチの台頭により封建制へ転化したが、 封建制の初期段階であり、奴隷制や氏族制の残滓 が存在したと主張した。李旭(9)は八旗制について、 孫文良(10)はヌルハチ期の状況について考察した。 ヌルハチの勃興から入関までのマンチュリア史 に関する研究は進展したが、文化大革命により研 究は中断を余儀なくされた。中国での研究が再開 するのは、1970年代末まで待たなければならない。 台湾では李光涛(11)が、ホンタイジ期の政治外 交史やマンジュ国・清朝と明朝との抗争に関する 研究を発表した。陳文石(12)は、入関前の農業、 手工業の状況について考察を加えた。また、ホン *環境ツーリズム学部教授

明末清初におけるマンチュリア史研究の現状と課題(下)

Reviewing the Historial Studies of Manchuria

in the Late Ming and Early Qing Eras (2)

塚 瀬 進

*

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- 16 - タイジ期の各旗・六部の重要人物の出自について 検討し、これらの人物はみな有力氏族で占められ ていたこと、こうした人物の登用は勢族の政権参 加と旗王への牽制であったと主張した(13)。1971 年には八旗制に関する論文も出している(14) 黄彰健(15)は、1967年にヌルハチ期に関する論 文を五本発表した。いずれもヌルハチ期の基本的 な事実を考証した内容である。その考証の適否に ついては松村潤が検証している(16)。李学智(17) は、「尼堪」の語義についてや、「満文老档」の原 本である「満文原档」の記述をもとに、「牛彔」、 「固山」、「八和碩貝勒」の原義について考察した。 また、ホンタイジが朝鮮に対して満洲人の返還を 求めたことについて考察するとともに、中央研究 院歴史語言研究所所蔵の関係档案を掲載している (18)。 管東貴(19)は、入関前の満洲人の動向や兵数・ 人口について考察し、入関前の満洲人人口は75 ~80万人だと推計した。李宗侗(20)は中央政権の 変化について考察している。軍事史では、李光璧 (21)、任長正(22)が明朝との戦闘経過に検討を加 え、王崇武(23)はサルフの戦いについて考察した。 以上のような研究成果が中国、台湾では出され、 とくに女真・満洲人の発展段階について諸見解が 主張された。張璇如(24)が1982年におこなった研 究整理によると、1950年代前半まではヌルハチ期 は奴隷制、ホンタイジ期になり封建制に移行した とする見解が支持されていた。1950年代後半以降 では、満洲人は奴隷制から封建制に向かっていた 点に疑問はないが、奴隷制と封建制の画期はヌル ハチのハン即位(1616年)なのか、遼東占領(1621 年)なのか見解が分かれた。そして文革による中断 を経て、1970年代末以降では多くの見解が出され、 議論は継続しているとまとめている。 (1)張維華1954 (2)王鍾翰1956 (3)王鍾翰1957a (4)莫東寅1958a、1958b (5)孟森1959 (6)張鴻翔1950 (7)李燕光1961 (8)鄭天挺1962 (9)李旭1964 (10)孫文良1962、1964 (11)李光涛1947a、1947c、1947d、1948b (12)陳文石1961、1962 (13)陳文石1968 (14)陳文石1971 (15)黄彰健 1967a、1967b、1967c、1967d、1967e (16)松村潤1968 (17)李学智1963、1974 (18)李学智1968 (19)管東貴1968、1969 (20)李宗侗1967 (21)李光璧1957 (22)任長正1960 (23)王崇武1947 (24)張璇如1982 6.中国での研究-70年代末~90年代 閻崇年(1)は、1977年にヌルハチに関する論文を 発表し、その後もヌルハチの研究を続け、1983年 には伝記を刊行した。次いで、入関前の農業生産 について検討し、対明断行までは明朝との馬市に より鉄製農具、耕牛を入手して農業生産を高め、 遼東占領後は「計丁授田」、「分丁編庄」などの農 業政策を軸に農業生産を推進したと指摘した (2)。90年代以降では、袁崇煥や明朝との戦闘に関 する優れた論文を発表している(3)。 周遠廉(4)は、1979年から80年にかけて五本の論 文を発表して、女真・満洲人が奴隷制から封建制 へとどのように変化したのか、その変化の原因、 方向性について分析した。1979cでは「遼東档案」 中の馬市交易(万暦年間)の文書を分析して、女真 は米などの農産物は購入せず、むしろ販売してい た記述があるので、食糧生産は十分なレベルに あったと判断した。土地売買、土地没収や、土地 が分与された記録は未確認なので、1540~80年代 では土地私有制は未確立であったと解釈した。そ して、奴隷の存在は萌芽的であったと評価して、 奴隷制社会以前の原始社会の末期段階にあり、ヌ ルハチ挙兵後に奴隷制社会に入ったと指摘した。 次いで、1980a、1980bでは入関前の満洲人社会に ついて検討を加え、遼東占領以前は奴隷制社会で あったと主張した。その後はヌルハチ期の研究を おこなうとともに、ヌルハチの伝記やマンジュ

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- 17 - 国・清朝に関する概説書を書いている(5)。 李鴻彬(6)は、遼東占領後に満洲社会は封建農奴 制に転化したとする論文を1979年に発表し、その 後マンジュ国・清朝に関する研究や明朝との関係 や戦闘についての論文を次々に発表した。そして、 その成果をもとに二冊の著作を刊行している(7)。 明代史を中心に研究していた李洵(8)は、1978 年に発表した論文において女真の農業、商業、奴 隷の使用状況について検討を加え、女真社会は奴 隷制から封建制に向かっていたと主張した。しか し奴隷制による農業生産を基本にしていたとまで は考えていない。奴隷の存在をどのように考える のかが、女真社会の性格規定の一つの争点になっ ている。また、1990年には明朝の遼東政策に関す る論文も発表している(9)。 滕紹箴(10)は、1980年にヌルハチに関する論文 を発表し、その後もマンジュ国・清朝に関する研 究を続けた。1982aでは入関前の社会経済状況につ いて考察し、土地は公有制であったが、農業生産 は奴隷によりおこなわれた奴隷制社会であり、そ れが封建制に向かっていた過渡期が入関前の状況 であったと主張した(11)。これらの研究をもと に 、 1985 年にはヌ ルハチの伝記 を刊行し た (12)。1988年にはヌルハチ政権の社会構造を分析 して、嘉靖、隆慶年間に女真社会は族塞を拠点に した部族連盟の段階に達しており、国家が出現す る条件がかなり整っていた。ヌルハチは周辺勢力 の征服をすすめるとともに、集団内部の組織化(八 旗制の整備、充実)をおこない強大化し、政権は新 興貴族奴隷主により構成され、奴隷制に依拠した 政権であったと主張した(13)。 郭成康(14)は、80年代以降、マンジュ国・清朝 に関する研究を次々に発表した。八旗制、農業政 策、対モンゴル政策などについて優れた考察をお こなった。そして1988年に張晋藩と共著で『清入 関前国家法律制度史』を刊行した(15)。この著作 は、入関前の国家制度、八旗制、刑法、訴訟制度 について水準の高い叙述をしており必読の書籍で ある。 文革以前に論文を発表していた研究者も活動を 再開した。鄭天挺(16)は再び入関前の満洲社会の 性質について論じ、ヌルハチは漢人との交流のな かで先進的な技術、文化を習得して強大化した点 を重視して、ヌルハチ政権は封建制権力であった と主張した。また、満洲人が統合されていく過程 について考察した(17)。孫文良(18)は、1980年以 降に明朝との戦闘や満洲人の勃興に関する研究を 発表した。それらの成果のほとんどは1992におさ められている(19)。また李治亭と共著でホンタイ ジの伝記も刊行した(20)。 朱誠如(21)は、1982年にヌルハチが明朝に不満 を持つ要因となった「遼東“棄地”」についての論 文を発表した後、マンジュ国・清朝に関する研究 も発表した。1983年の論文では、女真は漢人との 交流、交易を通じて変容し、満洲人を形成したと 主張した。言い換えるならば、純粋な満洲人など は存在せず、歴史的な経過のなかで満洲人は創出 されたと指摘している(22)。 陳佳華(23)は、80年代に八旗制に関する研究、 とくに八旗漢軍やニルの分析をおこなった。1981a ではニルの数からマンジュ国の人口を推計し て、1616年ごろの人口は35万人程度であったとし た。また八旗制に関する詳細な研究史をまとめて おり、必読の論文である(24)。主に清代史を研究 する白新良(25)も、80年代以降八旗制やマンジュ 国・清朝の政治史について優れた論文を発表して いる。 陳生璽(26)は、80年代にマンジュ国・清朝と明 朝との戦い、それに参加した人物(毛文龍、洪承畴) について考察するとともに、モンゴルとの関係に ついても考察した。姜守鵬(27)も、マンジュ国・ 清朝と明朝との抗争、その過程で登場した漢人武 将の動向について研究をおこなった。 何溥瀅(28)は、満洲人の社会状況について考察し、 ヌルハチ期は奴隷制であり、ホンタイジ期は封建 制へ転化する過渡期であったとしている。またホ ンタイジの統治理念についても検討している(29)。 趙展(30)も、満洲人の社会状況について考察し、 女真社会は奴隷制であったが、1621年の遼東占領 後に封建農奴制へ向かったと主張した。晏路(31) は、80年代までの「満族」に関する研究論文を目 録化している。 李治亭(32)は、入関前の民族政策やホンタイジ による黒龍江方面への遠征について考察した。羅 継祖(33)は、17世紀初頭に遼東の漢人らがヌルハ チ、ホンタイジの統治に抵抗したことについて検

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- 18 - 討した。 以上の80年代までの研究動向を概括的にまとめ るならば、女真・満洲人の社会発展の状況、八旗 制の分析、明朝との抗争に関する政治外交史の研 究が進展したと言えよう。 90年代以降、中国では研究者の人数が増えたこ とから、発表される研究の数も増加した。刁書仁 (34)は、80年代末から明代~清末のマンチュリア 史について、精力的に論文を発表している。刁書 仁の研究は、明代の女真史、明代・清代の中朝関 係史、清代の土地制度史・政治制度史に大別でき る。ここではマンジュ国・清朝に関係する研究に ついて取り上げたい。ヌルハチやフルン女真の研 究をするとともに、女真の村落組織が八旗制のニ ルへとどのように移行したのか検討した。まず女 真の村落組織であるガシャンについて考察 し、1601年のニル編成以後では戦闘力を強化する ため、旧来のガシャンはニルへと組織化されて いったと主張した。最近ではホンタイジがどのよ うに漢人を政権に取り込んでいったのか考察して いる(35)。中朝関係史の研究については後述する。 杜家驥(36)は、八旗制について優れた研究を出 している。とくに旗王について検討を加えた論文 を80年代末から90年代にかけて出した。これらの 成果をふまえて1998年に著作を刊行し、八旗制下 ではハンと旗王は合議によって物事を決定すると ともに、国政参与権や財産の保有は八旗で均分さ れていたと主張して、これを「八分体制」と称し た(37)。2008年にも著作を出して八旗制の形成と 発展について考察している(38)。これらの研究に おいて、杜家驥は八旗制が分権的、連旗的な構造 であったことを主張している。 趙令志(39)は、入関前後の旗地について研究を すすめ、ホンタイジ期の旗地政策、ヌルハチがお こなった「計丁授田」について考察を加えた。そ れらをもとに2001年に著作を刊行した(40)。入関 前の満洲人の農業生産関係は奴隷制が主であった が、部分的に農奴制も存在しており、奴隷制から 封建制に向かう過渡期であったと主張した。 姚念慈(41)は、政治制度史について優れた考察 をおこなっている。1991年には、遼東攻略後に置 かれた漢人事務の担当官であった都堂について考 察した。ヌルハチの勢力が拡大するにつれて配下 の漢人は多数に達したことから、漢人を管轄する 都堂の権限も伸張した。1622年の官職改正時に都 堂は強い権限を持つに至り、老齢化した五大臣に 代わる官職となったが、1623年に都堂の持つ権限 は八王へと移り、都堂は政権の中枢ではなくなっ た経緯を明らかにした。次いで六部の役割につい て分析を加え、1631年の六部設置を、八旗制に基 盤を置いた「八王共治制」から官僚制に基盤を置 いた皇帝専制政治への移行をはかった画期点だと 指摘した。しかし天聰年間では重要案件の決定は 八旗貝勒がしており、六部長官は参与できなかっ た。例えば、官員の任命は八旗の序列のなかで決 まるところが大きく、某旗の旗人の退職後は、そ の旗の旗人が受け継ぐ形式でおこなわれ、官員任 免を司る吏部に決定権はなかった。また、旗人の 事件に関しては刑部独自の判断では処理できず、 刑部の司法権には限界があった点を明らかにした (42)。 劉小萌(43)は、女真社会の内部構造であるハラ、 ムクン、ガシャンの状態、およびその崩壊過程に ついて詳細な分析を加えた。その論旨を理解する には、日本語訳の論文が参考になる(44)。その一 方で、マンジュ国・清朝政権の政治権力のあり方 を考察した(45)。これらの成果をもとに、女真が どのように部落から国家へと成長していったのか、 その過程に関する著作を刊行した(46)。この著作 は女真社会の内部構造を明らかにし、そうした内 部構造が女真を取り囲む外部情勢の影響を受け、 どのように変容して国家へ移行したのかを考察、 叙述した優れた研究である。 (1)閻崇年1977、1978、1983a、1983b、1983c (2)閻崇年1984 (3)閻崇年1984、1989、1994、1995a、1995b、 1995c、1997、2003、2005 (4)周遠廉1979a、1979b、1979c、1980a、1980b (5)周遠廉1980c、1981a、1981b、1986、2004、2006 (6)李鴻彬1979a、1979b、1980a、1980b、1981a、 1981b、1981c、1982、1983a、1983b、1984a、 1984b、1984c、1987a、1987b、1992、1997a (7)李鴻彬1997c、2003 (8)李洵1978 (9)李洵1990 (10)滕紹箴1980a、1980b、1982b、1986

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- 19 - (11)滕紹箴1982a (12)滕紹箴1985 (13)滕紹箴1988 (14)郭成康1981、1982a、1982c、1982d、1985a、 1985b、1987a、1987b (15)郭成康1988 (16)鄭天挺1979 (17)鄭天挺1980 (18)孫文良1980、1982、1986、1990 (19)孫文良1992 (20)孫文良1983 (21)朱誠如1982、1985、1999 (22)朱誠如1983 (23)陳佳華1980、1981a、1981b、1982a、1982b、1984a (24)陳佳華1984b (25)白新良1981a、1981b、1982、1983、1998 (26)陳生璽1983、1987、1988a、1988b、1989、 1991、1993、1995 (27)姜守鵬1984a、1984b、1986、1987b、1988、 1989、1992、1995 (28)何溥瀅1979 (29)何溥瀅1990 (30)趙展1980 (31)晏路1988 (32)李治亭1981、1983 (33)羅継祖1981 (34)刁書仁1987、1990a、1990b、1993 (35)刁書仁2011 (36)杜家驥1987、1991、1997 (37)杜家驥1998 (38)杜家驥2008 (39)趙令志1995、1997 (40)趙令志2001 (41)姚念慈1991 (42)姚念慈1993、2008 (43)劉小萌1990a、1990b、1991b、1992、1995a、1996a (44)劉小萌1996b (45)劉小萌1991b、1991c、1995b (46)劉小萌1995。その後書名を変更して刊行され た2001、2007 7.テーマ別による考察 ①ヌルハチ期・ホンタイジ期の問題 ヌルハチの勢力拡大については、閻崇年(1)、王 冬芳(2)、高慶仁(3)が考察している。明朝との関 係については劉丹(4)が、経済関係については佟錚 (5)が検討している。王景沢(6)は野人女真との関 係から考察している。ウラとの抗争については刁 書仁(7)、陳陶然(8)が考察している。董万侖(9) は、ヌルハチが征服した「瓦爾喀部」の「安楚拉 庫」と「内河」はどこにあったのかを『他塔喇氏 家譜』を使い、図們江上流の左岸にあったと主張 した。蒙林(10)は、ソロンとの関係について考察 している。ヌルハチ政権の特質については、滕紹 箴(11)、謝景芳(12)が検討している。 ヌルハチがおこなった政策で注目されるのは、 服属した人々を自己の勢力圏内に移動させて八旗 に編入した点である。征服の目的は領土、土地で はなく、軍事力、労働力となる人間の獲得を重視 していた。こうしたヌルハチの政策は徙民政策と 呼ばれ、松浦茂(13)が先駆的に考察した。また、 劉小萌(14)、張佳生(15)、張隠剛(16)も考察して いる。とくに張佳生は徙民政策により、どれくら いの人々が八旗に編入されたかについて優れた考 察をしている。 ヌルハチと関係の深かった人物の研究もおこな われている。ヌルハチの弟であったシュルガチは、 政権初期にはヌルハチと同等の権力を持っていた と考えられている。しかしヌルハチにより排斥さ れ、死去する生涯をおくった。シュルガチは初期 政権の性格を考えるうえで重要な人物のため、多 くの研究が出されている。日本では鴛淵一(17)、 松村潤(18)が、中国では孟森(19)、陳捷先(20)、 馮年臻(21)、劉徳鴻(22)、単鈴(23)、陳永祥(24)、 刁書仁(25)が考察している。ヌルハチの長子で あったチュエンは、一度は後継者に指名されたが、 不適切な言動が多く、やがて幽閉され死去した。 チュエンについては、鴛淵一(26)、李景蘭(27)、 周遠廉(28)、辺佐卿(29)、閻崇年(30)が考察して いる。ヌルハチの第二子であったダイシャンにつ いては、陳涴(31)、岑大利(32)、朱誠如(33)が考 察している。イェヘからヌルハチに嫁いできた「東 哥格格」については、高慶仁(34)が検討している。 ヌルハチはその都城を頻繁に移動していた。都

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- 20 - 城の構造や、移動の理由,背景についても研究が おこなわれている。戦前では、戸田茂喜(35)が都 城の移動やフェアラ城の構造について考察してい る。鴛淵一(36)は、ジャイフィヤン城について検 討した。稲葉岩吉(37)はフェアラ城を訪れた時の 記録を、高橋匡四郎(38)はヌルハチ関係の都城を 実地調査した報告書を残している。村田治郎(39) は、瀋陽の宮殿について調査、考察した論文を発 表した。戦後では都城の史跡を調査した報告書が 出されており参考になる(40)。また三宅理一(41) による研究も出された。 中国で都城を全般的に考察した研究としては、 白洪希(42)、鉄玉欽(43)、蘭書臣(44)、王禹良(45) がある。瀋陽については、瀋陽故宮博物館(46)、 王軼(47)、王雁(48)が考察している。フェアラ城 については劉暢(49)が、ヘトアラ城については曹 徳全(50)が、サルフ城については李景蘭(51)が、 遼陽については李景蘭(52)が検討している。 ホンタイジについては、金成基(53)がその人物 像を、杜家驥(54)はその出身を、王思治(55)は即 位事情や有力者との矛盾を考察している。魏鑒勛 (56)はホンタイジ政権がいかなる特質を持つ政権 であったのか考察を加え、孟昭信(57)は、ホンタ イジが実施した政治・軍事改革について検討した。 高慶仁(58)は、ホンタイジの官吏への対応につい て考察した。楊珍(59)は八王共治制をとりあげ、 これは八王の権限拡大も招いたが、八王が相互に 監督、牽制するようにもなったことから、ハン権 力の強化に貢献したという興味深い論点を主張し ている。制度改革を検討した研究として、沈一民 (60)は「啓心郎」の職制について考察した。また、 沈一民(61)は1629年におこなわれた考試の実施背 景、意義についても考察している。漢人との融和 については、魏鑒勛(62)、朱誠如(63)、沈一民(64)、 刁書仁(65)が検討を加えている。 明朝との関係や戦闘に関する研究もおこなわれ ている。明朝との関係については、滕紹箴(66)、 李鴻彬(67)、張国光(68)が考察している(軍事史の 部分も参照)。山海関を迂回して華北に侵攻したこ とについては謝景芳(69)、沈一民(70)が、済南城 の占拠については山根幸夫(71)が検討している。 劉厚生は档案を使い、1635年前後の状況を明らか にした(72)。 ホンタイジはアムール川方面への勢力拡大をは かっていた。その経過については、呂光天(73)、 李治亭(74)、郭成康(75)、那暁波(76)が考察して いる。ソロンの征服については烏雲達賚(77)、古 清堯(78)、閻崇年(79)が、ダホールの征服につい ては王鍾翰(80)、劉金明(81)が考察している。吉 田金一(82)は、1639年のソロン征伐の時に清朝は アムール川左岸に守備隊を置き、その後もこの守 備隊は駐留を継続していたと主張した 張玉興(83)はホンタイジ期に活躍した武将岳詫 について、戚福康(84)は周辺との交易関係につい て、劉慶宇(85)は仏教政策について考察した。 (1)閻崇年1989 (2)王冬芳1992 (3)高慶仁1993 (4)劉丹1978 (5)佟錚1987 (6)王景沢1997 (7)刁書仁1987 (8)陳陶然2011 (9)董万侖1983 (10)蒙林1989 (11)滕紹箴1988 (12)謝景芳1990 (13)松浦茂1986 (14)劉小萌1991d (15)張佳生2007 (16)張隠剛2009 (17)鴛淵一1932 (18)松村潤1983 (19)孟森1959a (20)陳捷先1963 (21)馮年臻1985 (22)劉徳鴻2000 (23)単鈴2000 (24)陳永祥2009 (25)刁書仁2009 (26)鴛淵一1933 (27)李景蘭1986 (28)周遠廉1986 (29)辺佐卿1994b (30)閻崇年2004a (31)陳涴1984

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- 21 - (32)岑大利2005 (33)朱誠如2002b (34)高慶仁2000 (35)戸田茂喜1937-38、1938 (36)鴛淵一1941 (37)稲葉岩吉1939a (38)高橋匡四郎1941 (39)村田治郎1933 (40)松村潤1988、神田信夫1989、細谷良夫1990b (41)三宅理一2009 (42)白洪希2007 (43)鉄玉欽1982 (44)蘭書臣2005 (45)王禹良2008 (46)瀋陽故宮博物館1976 (47)王軼2004 (48)王雁2009 (49)劉暢2002 (50)曹徳全2005 (51)李景蘭1987 (52)李景蘭1985 (53)金成基1979a (54)杜家驥1998a (55)王思治1984a、2005 (56)魏鑒勛1980 (57)孟昭信1981b (58)高慶仁1991、1995 (59)楊珍2000 (60)沈一民2006 (61)沈一民2011 (62)魏鑒勛1979 (63)朱誠如1987 (64)沈一民2003 (65)刁書仁2011 (66)滕紹箴1982b (67)李鴻彬1983a (68)張国光1982 (69)謝景芳1988、1995 (70)沈一民2007 (71)山根幸夫2002 (72)劉厚生1995 (73)呂光天1981、1982 (74)李治亭1983 (75)郭成康1981、1985a (76)那暁波1986、1987 (77)烏雲達賚1987 (78)古清堯1994 (79)閻崇年2004b (80)王鍾翰1957 (81)劉金明1989 (82)吉田金一1978 (83)張玉興1985 (84)戚福康1997 (85)劉慶宇2008 ②朝鮮・モンゴルとの関係 戦前では、稲葉岩吉(1)は光海君治世下(1609 ~23年)での、朝鮮とマンジュ国・清朝との関係に ついて考察した。浦廉一(2)は、日本との関係にも 留意したマンジュ国・清朝と朝鮮との関係につい て論じた。田川孝三(3)は、ホンタイジ期に瀋陽に 人質として連れてこられた朝鮮の人たちの動向に ついて考察した。また、既述した鴛淵一(4)による 研究もある。 戦後になると、鴛淵一(5)は『瀋陽状啓』(瀋陽 に留置された人たちが、朝鮮本国に送った報告)、 「朝鮮国来書簿」(天聰年間に朝鮮が清朝に送った 文書)、「各項稿簿」(天聰年間に清朝が朝鮮に送っ た文書)の分析をおこない、マンジュ国・清朝と朝 鮮との関係ついて考察を加えた。 江嶋壽雄(6)は、これまでマンジュ国・清朝は国 内の貧弱な物資、明朝との貿易途絶による経済的 苦境を補うため、朝鮮に多大な歳幣を課したとさ れてきたが、果たしてそうなのか、歳幣の具体的 な内容について検討した。天聰年間の歳幣につい て検討した結果、その内容はたいしたものではな く、朝鮮の歳幣がマンジュ国・清朝の経済力の増 強に貢献したかどうかは疑問だと主張した。次い で崇徳年間の歳幣について検討し、丙子の乱後に 歳幣は増額されたので朝鮮はその負担に苦しんだ が、1643年にホンタイジが死去し、翌44年には入 関したことから、清朝の朝鮮への要求も変わった。 もはや朝鮮に過度の物資を要求する必要性はなく なり、朝鮮への歳幣は大きく減額されたと主張し た(7)。 森岡康(8)は、マンジュ国・清朝と朝鮮との戦争

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- 22 - により捕虜になった朝鮮人について精力的に検討 を加えている。荷見守義(9)は、文禄・慶長の役に 際して、ヌルハチが助兵を申し出た事実はあるの かどうかについて検証した。桂勝範(10)は、文禄・ 慶長の役とヌルハチの勢力拡大との関係について 考察した。 ヌルハチの勢力拡大に朝鮮も無関心ではいられ なくなり、使者を派遣してその情勢をさぐってい た。使者の申忠一は、1595年末から翌96年正月に かけてヌルハチのもとを訪れた。その際に朝鮮か らヌルハチの居城に至る道程について史料を残し ており、当時のヌルハチの状況を考察するうえで 貴重な材料となっている。申忠一の派遣について は、稲葉岩吉(11)、三田村泰助(12)、刁書仁(13)、 劉広銘(14)、宋慧娟(15)が検討している。また、 マンジュ国・清朝との関係からではないが、明朝 との関係調整のために、1620年に明朝へ派遣され た李廷龜の動向について考察した、張徳信(16)、 鈴木開(17)の論文も参考になる。 以下では、台湾、中国での研究について見てみ たい。台湾での研究には、劉家駒(18)がマンジュ 国・清朝と朝鮮との関係、とくにホンタイジ期に ついて考察している。また、陳捷先(19)も研究を している。 中国では、ヌルハチ期については、刁書仁(20)、 魏志江(21)、温淑萍(22)が考察している。豊臣秀 吉による「朝鮮出兵」が与えた影響についてはあ まり研究されていなく、孫与常(23)が遼東の人々 の動向について、李新成(24)がこの時活躍した李 如松について考察している。王臻(25)は、豊臣秀 吉による「朝鮮出兵」への対応に明朝、朝鮮は追 われてしまい、ヌルハチの勃興を助けたという見 解を主張している。「サルフの戦い」前後の関係に ついては、白新良(26)、刁書仁(27)、王臻(28)、 文鐘哲(29)、高志超(30)が検討している。李賢淑 (31)は、仁祖の方針に不満を持った韓潤がヌルハ チに投降したことにより、ヌルハチは朝鮮の内情 を知ったことについて考察している。 ホンタイジ期の朝鮮との関係を全般的にあつ かった研究には、張存武(32)、李治亭(33)、晁中 辰(34)がある。「丁卯之役」、「丙子之役」について は、李鴻彬(35)、陳捷先(36)、徐凱(37) 、李善洪 (38)、刁書仁(39)、魏志江(40)、王臻(41)が考察 している。謝肇華(42)は『各項稿簿』の分析をお こない、王艶春(43)は瀋陽に人質として囚われて いた朝鮮王室の人々について考察し、宋慧娟(44) はホンタイジが朝鮮に課した負担について考察し た。 マンジュ国・清朝と朝鮮との交易、経済関係を 考察した研究には、肖瑶(45)、王臻(46)、張杰(47) がある。朴今海(48)は、マンチュリアに流入した 朝鮮人が及ぼした影響について考察した。明朝と 朝鮮の経済関係については、高艶林(49)が豊臣秀 吉の朝鮮侵略により打撃を受けた朝鮮は、明朝に 鴨緑江岸での「中江関市」の開設を申し入れて認 められ、1613年まで続いた経緯について検討を加 えている。呉一煥(50)は、明朝、マンジュ国・清 朝、朝鮮間の海上輸送、遼東から朝鮮へ逃れた明 朝の人々の動向について考察した。 モンゴルとの関係について、戦前では鴛淵一 (51)、田中克己(52)がヌルハチ期の関係について 考察している。戦後では森川哲雄(53)が、1634年 のリグダン・ハーンの死後、内モンゴルが清朝の 支配下に入っていく過程を考察した。松村潤(54) は1635年のホンタイジによるチャハル部征討を取 り上げ、チャハル部を降して「大元伝国の璽」を 得た過程について考察した。岡田英弘(55)は、マ ンジュ国・清朝にモンゴル文化がどのような影響 をおよぼしていたのか論じている。岡洋樹(56)は、 ホンタイジ期におこなわれた内モンゴル諸部の ジャサク旗への編成は、既存のモンゴル社会の構 造にそくして組織されており、再編や解体ではな かったと主張した。マンジュ国・清朝がモンゴル 勢力を取り込む過程については、既述した楠木賢 道の研究がもっとも優れている。 中国の研究では、趙雲田(57)、魏鑒勛(58) 陳生 璽(59)が概括的な動向について考察している。白 鳳岐(60)は、ヌルハチ期・ホンタイジ期の対モン ゴル政策を、科爾沁部、喀爾喀部、察哈爾部ごと に分けて考察している。ヌルハチ期については張 羽新(61) が、①攻守同盟、②婚姻政策、③投降モ ンゴル人の優遇、④モンゴル人王侯のヌルハチ政 権への参加、⑤チベット仏教の保護の側面から考 察している。ホンタイジ期については、王佩環(62)、 郭成康(63)、袁森坡(64)、関樹東(65)、白洪希(66)、 達力扎布(67)が考察している。マンジュ国・清朝

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- 23 - と地理的に近いため関係が緊密であったコンチン との関係については、宝日吉根(68)、金元山(69)、 湯代佳(70)、巴根那(71)、周喜峰(72)、敖拉(73) が考察している。 マンジュ国・清朝皇室とモンゴル人との婚姻に ついては、岑大利(74)、劉潞(75)、杜家驥(76)が 考察しており、とくに杜家驥の著作は優れている。 札奇斯欽(77)は、ヌルハチ期から三藩の乱まで、 どのくらいのモンゴル兵がマンジュ国・清朝に参 加していたかを考察した。李勤璞(78)は、ヌルハ チ・ホンタイジや遼東の明朝関係者のもとを訪れ て、さまざまな折衝をしていたモンゴル人ラマの 動向について考察している。劉小萌(79)、閻崇年 (80)は、モンゴル文化の影響について検討してい る。達力扎布(81)は、ジャサク旗の設置について 分析するとともに、モンゴル語档案の漢語訳に取 り組んでいる。 (1)稲葉岩吉1933 (2)浦廉一1934、1950 (3)田川孝三1934 (4)鴛淵一1928 (5)鴛淵一1957、1968a、1968b (6)江嶋壽雄1969 (7)江嶋壽雄1972 (8)森岡康1964、1966、1983、1984、1985、1988 (9)荷見守義2006 (10)桂勝範2008 (11)稲葉岩吉1937、1939b (12)三田村泰助1965 (13)刁書仁2001 (14)劉広銘2004 (15)宋慧娟2011 (16)張徳信2007 (17)鈴木開2009 (18)劉家駒1976、1983 (19)陳捷先1995a (20)刁書仁2004 (21)魏志江2007b、2008 (22)温淑萍2008 (23)孫与常1985 (24)李新成2011 (25)王臻2009 (26)白新良1997 (27)刁書仁2001b (28)王臻2006 (29)文鐘哲2008 (30)高志超2009 (31)李賢淑2008 (32)張存武1969 (33)李治亭1995 (34)晁中辰1995 (35)李鴻彬1987b (36)陳捷先1992、1995b (37)徐凱1994 (38)李善洪1995 (39)刁書仁2001c (40)魏志江2007a (41)王臻2008a、2009b (42)謝肇華2000 (43)王艶春2008 (44)宋慧娟2009 (45)肖瑶2001 (46)王臻2002、2008b (47)張杰2008 (48)朴今海2004 (49)高艶林2006 (50)呉一煥2007 (51)鴛淵一1935 (52)田中克己1940 (53)森川哲雄1990 (54)松村潤1992 (55)岡田英弘1994 (56)岡洋樹2007 (57)趙雲田1980 (58)魏鑒勛1982 (59)陳生璽1987 (60)白鳳岐1990 (61)張羽新1988 (62)王佩環1986 (63)郭成康1987b (64)袁森坡1988 (65)関樹東1994 (66)白洪希1997 (67)達力扎布2011 (68)宝日吉根1980、1981 (69)金元山1986

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- 24 - (70)湯代佳1996 (71)巴根那2000 (72)周喜峰2006、2010 (73)敖拉2007 (74)岑大利1991 (75)劉潞1995 (76)杜家驥2003 (77)札奇斯欽1987 (78)李勤璞2000 (79)劉小萌1994 (80)閻崇年1998 (81)達力扎布1998、2001、2003a、2003b ③八旗制・満洲人について 八旗制の概略的な考察は秦国経(1)、周遠廉(2)、 馮季昌(3)がしている。王革生(4)は、八旗の旗色 が定まったのは、八旗が編成されたとされる1615 年ではなく、1635年までに定まったと主張した。 また、八旗制が軍事勝利に貢献した側面について も考察している(5)。 李新達(6)は、八旗の兵数について考証し、八旗 創設期は5~6万人、ヌルハチの晩年は9万人、 ホンタイジ期は15万人であったと推計した。また、 満洲八旗と漢軍八旗の創設年次についても考察し ている(7)。 八旗制はその創設の経緯に関する明確な史料が ないため、創設期の状況について定説は存在しな い。姜相順(8)は創設期の状況について考察してい る。孟昭信(9)は1615年以前に四旗が存在しており、 各旗はヌルハチ、チュエン、ダイシャン、シュル ガチが領旗していたと主張した。 徐凱(10)は、八旗制がどのように変化して皇帝 権力を強化したのか、その過程について考察する とともに、漢人がどのように八旗に組み込まれた のか検討を加えた。趙明(11)は、八旗兵丁がどれ くらいの経済的な負担を課せられていたのか考察 した。また、既述した郭成康、李鴻彬による八旗 制研究も参照する必要がある。 八旗制について重要な研究として、張佳生と王 景沢の研究をあげたい。張佳生(12)は、女真諸部 がニルへの編入により、どのように満洲人となっ ていったのか、①民族統合、②社会統合、③文化 統合の三側面から考察した。王景沢は、八旗満洲、 八旗蒙古、八旗漢軍の形成過程について考察し、 さらには八旗制がマンジュ国・清朝の政治、軍事 においてどのような役割を果たしたのか考察した (13)。また、女真社会内部の変化と八旗制の形成 についても論じている(14)。 必ずしも入関前だけではないが、劉小萌(15)が 八旗制についての研究史をまとめている。 八旗漢軍については、戦前の1931年に浦廉一 (16)が論文を出している。戦後には阿南惟敬(17) が、その成立過程について考察した。細谷良夫(18) は、八旗漢軍は軍事的に編成されたものであり、 八旗満洲、八旗蒙古と同一に把握することはでき ないと指摘した。そして八旗漢軍が軍事、行政の 両面を併せ持つ八旗の組織として確立するの は1637年の二旗編成以後であったと主張した。ま た、李英新(19)も八旗漢軍の制度と漢軍旗人につ いて考察している。概括的な研究としては趙綺娜 (20)、陳佳華(21)、謝景芳(22)、李燕光(23)があ げられる。成立時期については劉家駒(24)、謝景 芳(25)、佟永功(26)が考察している。孫静(27)は 漢軍旗人と満洲旗人の差異について、滕紹箴(28) は八旗漢軍のニルの特徴について考察している。 八旗蒙古の成立については田中宏巳(28)、阿南 惟敬(29)が考察を加えている。梅山直也(30)は制 度史の観点からだけではなく、より視野を広げて、 八旗蒙古の成立を清朝によるモンゴル統治とのか かわりから考察している。中国での研究は成立事 情について考察した研究が多い。王鍾翰(31)が八 旗蒙古を題材にした論文を発表した後、鄭玉英 (32)、郭成康(33)、陳生璽(34)、傅克東(35)、姚 念慈(36)が考察を加えている。趙琦(37)はこれま での研究成果をふまえて、八旗蒙古の成立過程に ついて、より具体的な考察をおこなった。 朝鮮人により編成された八旗については、文鐘 哲(38)、徐凱(39)による研究がある。 八旗を構成したニル、佐領についての研究もす すめられている。日本では承志(40)が、すべての 旗人はニルに編成され、特定の家系が世襲するこ とになったため、世襲、継承をめぐり訴訟がおこっ ていたことに着目した。清朝は何を根拠にニルの 世襲をみとめていたのか検討し、ニルの歴史、構 造について考察した。 増井寛也(41)は、ニルは均質的なものでも、制

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- 25 - 度的に厳密に規定された存在でもなく、いくつか の類別があったと指摘した。しかし、漢文・満文 史料ともにそれらに対する一定の名称は確立して いなかったので、ニルの実態把握は難しいが、各 種の史料を検討した結果、ニルには国家的管轄下 のものと、王公私有のものとに分けられると主張 した。 中国では陳佳華(42)が1982年に佐領の歴史、種 類、構造、機能について要領よく叙述した論文を 発表した。ニルの特徴については陳佳華(43)、陳 文石(44)、王景沢(45)が考察している。形成、編 成時期については、劉小萌(46)、関克笑(47)、任 玉雪(48)が考察している。種類、数については、 郭成康(49)、陳佳華(50)が考察している。滕紹箴 (51)は、ヌルハチ期のニルについて考察している。 ニルには奴隷が配属されており、その状況、特 質については田中克己(52)、石橋秀雄(53)が考察 している。汪茂和(54)は遼東占領以前の「阿哈」 の状況について考察し、「阿哈」は社会生産の基本 的担い手ではなく、貴族層の生活に従事する存在 だと指摘した。そして、「阿哈」と主人の関係は「封 建的主僕関係」であったと主張した。 満洲人とはどのような人々で、いつ形成された かについては見解が分かれている。八旗制に編入 された人を満洲人と称することもできる。では、 いつの時点から八旗に編入された人を満洲人と呼 ぶのかは議論になっている(55)。満洲人の形成、 発展過程については、関克笑(56)、薛虹(57)、張 丹卉(58)、朱誠如(59)が考察している。これらの 論文に通底しているのは、女真と満洲人は同じで はなく、女真を中心として漢人、朝鮮人、モンゴ ル人などが融合し、その結果として満洲人は誕生 したという見解である。 満洲社会の発展段階に関する議論は、90年代以 降も継続しておこなわれた。王佩環(60)は、1990 年に入関前の社会経済状況について考察した。王 冬芳(61)は、満洲社会は氏族制社会から抜け出し、 封建制に移行する過渡期であったと指摘した。姜 相順(62)は、これまでの考え方は農業を主要基盤 とした社会は封建制を生み出すが、狩猟・採取を 主要基盤とした社会は封建的生産関係を生み出さ ないという考え方であった。しかしこれは一面的 な見解であり、女真社会は農業を主要基盤にはし ていなかったが、封建制の形成過程にあったとし、 ヌルハチ政権は奴隷制ではなく封建制だと主張し た。 こうした社会発展段階についての議論は、しだ いに影をひそめ、満洲人の生活様式の変化や民族 意識から満洲社会の状況を考察する研究が出され るようになった。馬渉湘(63)は、生産力の上昇、 漢人文化の流入により、満洲人の生活様式は変化 していたことを主張した。王素香(64)も満洲人の 生活変化について論じている。張佳生(65)は、自 分たちを満洲人だとみなす意識が、どのように形 成されたのか考察した。杜成安(66)は、ヌルハチ 政権の官吏制度の形成過程との関係から満洲人の 統合状態について考察した。張佳生(67)は、満洲 人の漢化がよく指摘されるが、その反対に漢人が 満洲化し、満洲社会と融合していた側面について 指摘した。 この他に、周喜峰(68)は黒龍江方面での満洲人 の形成について、韓世明(69)は入関前の満洲人の 社会組織について、張徳玉(70)は満洲人の勃興状 況について考察している。また、佟佳氏に関する 研究が傅波(71)らによりおこなわれている。 (1)秦国経1981 (2)周遠廉1982a (3)馮季昌1991 (4)王革生1980 (5)王革生2000 (6)李新達1982a (7)李新達1982b (8)姜相順1986 (9)孟昭信1992 (10)徐凱1989、2004 (11)趙明1994 (12)張佳生2008 (13)王景沢2002 (14)王景沢1999 (15)劉小萌2010 (16)浦廉一1931 (17)阿南惟敬1966a (18)細谷良夫1994 (19)李英新2005 (20)趙綺娜1973 (21)陳佳華1981b

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- 26 - (22)謝景芳1986 (23)李燕光1992 (24)劉家駒1978 (25)謝景芳1987、1991 (26)佟永功2009a (27)孫静2006 (28)滕紹箴2007 (28)田中宏巳1971 (29)阿南惟敬1965 (30)梅山直也2006 (31)王鍾翰1957c (32)鄭玉英1983 (33)郭成康1986 (34)陳生璽1988b (35)傅克東1988 (36)姚念慈1995 (37)趙琦1997a、1997b (38)文鐘哲1997 (39)徐凱1998、1999、2000 (40)承志2006 (41)増井寛也2008、2009 (42)陳佳華1982a (43)陳佳華1982b (44)陳文石1991a (45)王景沢1998a (46)劉小萌1990a (47)関克笑1997b (48)任玉雪2004 (49)郭成康1985b、1987a (50)陳佳華1984a (51)滕紹箴2001 (52)田中克己1956 (53)石橋秀雄1968、1984 (54)汪茂和1982 (55)陳力2011 (56)関克笑1991 (57)薛虹1994 (58)張丹卉2004a (59)朱誠如2002 (60)王佩環1990 (61)王冬芳1991a、1991b (62)姜相順1994 (63)馬渉湘1991 (64)王素香2006 (65)張佳生2008a (66)杜成安2003 (67)張佳生2008c (68)周喜峰2009 (69)韓世明2002 (70)張徳玉2001 (71)傅波主編2004 ④清朝に帰順した漢人と明朝側で活躍した人物 マンジュ国・清朝が勢力拡大をするにあたって は、帰順した漢人の力も大きかった。以下では帰 順した漢人に関する研究をとりあげる。ヌルハチ の顧問をつとめた龔正陸については和田清(1)、董 万侖(2)の研究がある。はやくに帰順した漢人のな かでは、李永芳については杉山清彦(3)、趙広慶(4)、 王平魯(5)、杜家驥(6)の研究がある。范文程につ いては遠藤隆俊(7)、金成基(8)、王景沢(9)の研究 がある。佟養性については王革生(10)、侯寿昌(11)、 辺佐卿(12)、王景沢(13)、佟永功(14)の研究があ る。侯寿昌は佟氏一族は何者であったのか考察し ている(15)。 開原出身の知識人くずれであった劉興祚は、一 度はヌルハチに帰順したが、その後離脱してホン タイジと戦い、1630年に戦死した。その特異な経 歴が注目を集め、研究成果も多く、高志超(16)は 著作をまとめている。また田中克己(17)、孟森(18)、 姜守鵬(19)、王佩環(20)、郭成康(21)、黄一農(22) らの研究がある。 ホンタイジ期に帰順した人物のなかでも洪承畴 についての研究が多く、李光涛(23)、李新達(24)、 李鴻彬(25)、尹徳文(26)、王鍾翰(27)、陳生璽(28)、 王思治(29)、楊清江(30)、陳梧桐(31)が論文をま とめている。著作としては蘇双碧(32)、楊海英(33) の研究がある。また、孔有徳については、神田信 夫(34)が「内国史院档」の「天聰七年档」を使い、 帰順した時の状況について考察している。尚可喜 については細谷良夫2007、薛瑞録(35)、李成燕(36)、 柳海松(37)が考察している。祖大寿については李 洵(38)が検討している。 謝景芳(39)は、ホンタイジ期に帰順した孔有徳、 耿仲明、尚可喜、沈志祥がどのように領旗したの か考察した。葉高樹(40)は、清朝に帰順した明軍

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- 27 - の将兵について考察を加えている。張玉興(41)は 明清動乱期の人物評価をどう決めるのか論じてい る。 以下では明朝側で活躍した人物についてとりあ げている研究について見てみたい。 李成梁は遼東で活躍した明朝側の人物として著 名である。その活動については既述した和田正広 の研究が詳細に分析している。この他に、日本で は園田一亀(42)、和田清(43)が考察しており、和 田清は「ヌルハチは李成梁の保護を受けて興隆し た」という見解は憶測であったとしている。中国 での研究には孫文良(44)、肖瑶(45)、陳涴(46)が ある。 高淮は鉱税徴収のため1599年に遼東へ赴任 し、1608年に去るまで過酷な徴税をおこない、遼 東の社会的混乱を助長させた。高淮の遼東での活 動については、孫文良(47)、周遠廉(48)、南炳文 (49)、趙連穏(50)が考察している。 熊廷弼はヌルハチの勢力拡大に抵抗していたが、 同僚との不和から解職され、魏忠賢による排撃を 受けて処刑された。熊廷弼については、李光涛(51) と喩蓉蓉(52)の研究書が刊行されている。論文で は、韓道誠(53)、戴鴻義(54)、孫與常(55)、張彩 雲(56)の研究がある。なかでも孫與常の研究は優 れている。佟卜年は熊廷弼の補佐として起用され たが、後金と通じているという誣告を受けて失脚 してしまい、さらには獄死した。その経緯につい ては、王景沢(57)が考察している。 孫承宗は袁崇煥の上司として広寧失陥(1622年) 以後に指揮をとり、「以遼人守遼土、以遼土養遼人」 を主張してヌルハチに抵抗した。寧遠城を完成さ せ防衛体制を整えたが、1625年に故郷の高陽へ 帰った。その後、1638年に高陽は清朝軍の攻撃を 受け、その際に死去した。孫承宗については、劉 伯涵(58)、陳作栄(59)、姜守鵬(60)、閻光亮(61)、 余三楽(62)が考察している。 毛文龍は鴨緑江方面でヌルハチと戦っていたが 独断専行的な行為が多く、1629年に袁崇煥により 殺された。毛文龍は明朝、朝鮮、ヌルハチの間で 巧妙に立ち廻り、自己の勢力を保持するという注 目すべき活動をしていたので研究も多い。戦前で は田川孝三(63)が朝鮮との関係から考察している。 神田信夫(64)は1628~29年にかけて、毛文龍がホ ンタイジとやりとりした書簡を題材にして、両者 の関係について分析した。松浦章(65)は毛文龍が 拠点にした椴島の状況について考察した。中国で は李光涛(66)、孟昭信(67)、陳生璽(68)、姜守鵬 (69)、許振興(70)、尹韵公(71)、魏剛(72)、趙亮(73) らによる研究がある。 袁崇煥は寧遠城の戦いでヌルハチを撃退したこ とで著名な人物である。その後、ホンタイジがし かけた策略に崇禎帝が陥ったことから、袁崇煥は 謀反の考えがあると疑われ処刑された。袁崇煥に ついての研究は多い。その事績については神田信 夫(74)、李光涛(75)、孫小雲(76)、王鍾翰(77)、 陳涴(78)、馮佐哲(79)、李鴻彬(80)、閻崇年(81)、 李宝臣(82)羅炳錦(83)が検討している。陳安麗 (84)は、袁崇煥とモンゴルの提携について考察し た。袁崇煥について精力的に研究を進めている閻 崇年は論文集、資料集、伝記を刊行している(85)。 袁崇煥に関する論文集も、これまでに二冊出され ている(86)。 姜守鵬(87)は熊廷弼、孫承宗、袁崇煥の比較を おこない、葉高樹(88)は李成梁、毛文龍、祖大寿 の比較研究をおこなっている。 (1)和田清1952 (2)董万侖1995 (3)杉山清彦2009 (4)趙広慶1994a (5)王平魯1994 (6)杜家驥2005 (7)遠藤隆俊1995 (8)金成基1982 (9)王景沢1993 (10)王革生1985b (11)侯寿昌1986 (12)辺佐卿1994a (13)王景沢2009 (14)佟永功2009b (15)侯寿昌1988 (16)高志超2008、2010 (17)田中克己1958a (18)孟森1980 (19)姜守鵬1984b、1987 (20)王佩環1987 (21)郭成康1994

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- 28 - (22)黄一農2002 (23)李光涛1948a、1956 (24)李新達1984、1986、1992 (25)李鴻彬1984b (26)尹徳文1986 (27)王鍾翰1986 (28)陳生璽1988a (29)王思治1996 (30)楊清江1996 (31)陳梧桐1996 (32)蘇双碧1996 (33)楊海英2006 (34)神田信夫1997 (35)薛瑞録1987 (36)李成燕2002 (37)柳海松2005 (38)李洵1983、2004 (39)謝景芳1996 (40)葉高樹1993 (41)張玉興1998 (42)園田一亀1938 (43)和田清1938 (44)孫文良1991a (45)肖瑶2006、2010 (46)陳涴2009 (47)孫文良1982a (48)周遠廉1983 (49)南炳文1980 (50)趙連穏1991 (51)李光涛1976 (52)喩蓉蓉2010 (53)韓道誠1968 (54)戴鴻義1989 (55)孫與常1994 (56)張彩雲2009 (57)王景沢2011 (58)劉伯涵1985 (59)陳作栄1988 (60)姜守鵬1988 (61)閻光亮1988、1995 (62)余三楽1989 (63)田川孝三1932 (64)神田信夫1966 (65)松浦章2007 (66)李光涛1948c、1968 (67)孟昭信1981a、2007a、2007b、2008 (68)陳生璽1983、1993、1995 (69)姜守鵬1984a、1989 (70)許振興1984 (71)尹韵公1990 (72)魏剛1999b (73)趙亮2007 (74)神田信夫1962 (75)李光涛1947b (76)孫小雲1984 (77)王鍾翰1985 (78)陳涴1989 (79)馮佐哲1990 (80)李鴻彬1990 (81)閻崇年1993、1995c (82)李宝臣2008 (83)羅炳錦1993 (84)陳安麗1990 (85)閻崇年1984、1994、2005 (86)広西桂苑書林叢書編輯委員会1984、羅志歓 2005 (87)姜守鵬1992 (88)葉高樹2009 ⑤産業政策・民族政策・軍事史 商業の状況については李興華(1)が、韓行方(2) は遼東占領までおこなわれた明側による山東から 遼東への海運について考察している。魏鑒勛(3) は、ヌルハチ期・ホンタイジ期の農業・商業政策 について検討した。張丹卉(4)は遼東の城鎮につい て考察し、それらの多くはマンジュ国・清朝によ り破壊されたり、住民の移動により衰退してしま い、再び城鎮が回復するのは康煕中頃以降であっ たと主張した。 農業については土地制度関係の論文が多い。金成 基(5)は旗地制度について、魏千志(6)は「拖克索」 の性質について、趙広慶(7)はヌルハチ期の農業状 況について考察した。徐恒晋(8)は農業生産につい て検討を加え、遼東占領後に農奴制が拡大を始め、 入関後に封建的農奴制が確立したと主張した。 ヌルハチが遼東占領後に実施した「計丁授田」

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- 29 - の内容にはいくつかの解釈が存在し、とくに授田 対象者がどの範囲の人々であったのかについて議 論されている。「計丁授田」については、郭成康(9)、 李景蘭(10)、王鍾翰(11)、趙令志(12)が考察して いる。諸見解の相違については趙令志(13)による 整理を参照されたい。 清朝の勢力拡大は周辺民族に大きな影響をおよ ぼした。概括的にマンジュ国・清朝の民族政策を 考察した研究には、李治亭(14)、楊学琛(15)、郭 成康(16)、孫文良(17)、余梓東(18)、馬玉良(19) がある。八旗制における民族関係については、陳 佳華(20)、魯渝生(21)が検討している。王景沢(22) はホンタイジの民族政策を、葉高樹(23)は漢人官 僚の統御について考察している。Gertraude Roth は遼東での満漢関係について論じている(24)。 サルフの戦いから入関までの戦争史については、 孫文良(25)による概説書がある。サルフの戦いに ついては、陸戦史研究普及会編(26)、姜相順(27)、 張玉興(28)、馬玉良(29)、張徳玉(30)、黄仁宇(31)、 関克笑(32)、王叢安(33)が検討している。「大凌河 の戦い」については楠木賢道(34)が、「松錦の戦い」 については李光涛(35)、劉建新(36)が考察してい る。郭成康(37)、魏剛(38)、王偉(39)、江寧(40) も明清間の戦闘を題材にした論文をまとめている。 王天有(41)は遼東での戦闘が明朝に与えた影響に ついて、張玉興(42)は和議の動向について考察し ている。王思治(43)は、ホンタイジ期の対明作戦 について考察している。既述した閻崇年、李鴻彬、 孫文良も戦闘についての論文を発表している。 明清戦争の際には大砲が軍事的に重要な役割を 果たした。明朝の袁崇煥はポルトガル製の大砲を 使って、ヌルハチを撃退した。その後、ホンタイ ジ期に帰順した孔有徳らにより優れた大砲がもた らされ、清軍の攻撃力を強力なものへとした。こ の時期の大砲についての研究は多く、張小青(44)、 牟潤孫(45)、韋慶遠(46)、張敬媛(47)、解立紅(48)、 李鴻彬(49)、黄一農(50)、石康(51)、馬楚堅(52)、 田中宏巳(53)が考察している。 (1)李興華2010 (2)韓行方1992 (3)魏鑒勛1984 (4)張丹卉2004b (5)金成基1979 (6)魏千志1982 (7)趙広慶1994b (8)徐恒晋1981 (9)郭成康1982c (10)李景蘭1984 (11)王鍾翰1986 (12)趙令志1997 (13)趙令志2001、32~33頁 (14)李治亭1981 (15)楊学琛1981、1988 (16)郭成康1983 (17)孫文良1991 (18)余梓東2002、2009 (19)馬玉良2005 (20)陳佳華1980 (21)魯渝生1998 (22)王景沢2003b (23)葉高樹1995 (24)Gertraude Roth1979 (25)孫文良1986 (26)陸戦史研究普及会編1967 (27)姜相順1979 (28)張玉興1981 (29)馬玉良1986 (30)張徳玉1989 (31)黄仁宇1991 (32)関克笑1998 (33)王叢安2001 (34)楠木賢道2002 (35)李光涛1971 (36)劉建新1986 (37)郭成康1982b (38)魏剛1999a、2004 (39)王偉2009 (40)江寧1989 (41)王天有1983 (42)張玉興1990 (43)王思治1988 (44)張小青1986 (45)牟潤孫1987 (46)韋慶遠1990 (47)張敬媛1993 (48)解立紅1994

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- 30 - (49)李鴻彬1997c (50)黄一農1996、2004、2008 (51)石康2011 (52)馬楚堅1993 (53)田中宏巳1974、1974-75 ⑥開国説話・史料について 清朝の開国説話は『満洲実録』の巻頭に記述さ れている。長白山の東方にそびえるブクリ山のふ もとにブルフリという湖があり、そこで三人の天 女が水浴びをしていた。衣を着ようとした天女が、 衣の上に置かれた朱い木の実を食べたところ身籠 り、ヌルハチの先祖にあたるブクリ=ヨンション を生んだという。そして、ヌルハチに至る世系に ついての記述が続く。 この開国説話とそれに続くヌルハチの世系につ いて、最初に考証を加えたのは内藤湖南(1)であっ た。内藤湖南は開国説話の内容は高句麗に発する 扶余系説話に属すること、ヌルハチの世系は建州 左衛の世系にあたることを1912年の論文で指摘し た。その後、稲葉岩吉(2)、孟森(3)がこの問題を 取り上げ、各種の史料と比較検討して、建州左衛 につらなる人物、地名の考証をおこなった。戦後 になり三田村泰助(4)が内藤湖南の見解を受け止 めて、開国説話の内容、清朝の始祖の性格、世系 の問題点について考察した。この論文により、開 国説話の分析はほぼ尽きてしまい、さらなる考察 は新史料の発見を待たなければならない状況に なった。 そうしたなか松村潤(5)は档案を分析して、開国 説話の由来について新見解を主張した。松村潤は 「満文原档」に収録されている「天聰九年档」を検 討した結果、「満文老档」には収録されていない記 事があり、そのなかに開国説話と同じ内容の記述 があることを発見した。その記述はホンタイジ が1635年5月に東海フルハ部を攻略した後、連れ てきた人がフルハ部の始祖伝説について語った内 容であり、「満洲実録」巻頭の開国説話と同じで あった。つまり清朝の開国説話は、本来はフルハ 部のものであったという新見解を主張した。 次いで、崇徳年間に編纂された「太祖太后実録」 (現存せず)の草稿の一つと考えられる満文档案が、 「内国史院档」(中国第一歴史档案館所蔵)のなかに あることを発見し、その分析に取り組んだ。この 満文档案の最初には「満洲実録」巻頭と同様の開 国説話が記述されており、ブクリ山の麓にある池 で三人の天女が水浴びをした後、一人が身ごもっ たことについて記述している。しかし長白山の語 句はなく、ブクリ山と長白山とを結びつけた記述 はないことを松村潤は発見した。つまり、そもそ もの開国説話には、長白山を満洲人の発祥地とす る内容はなかったことを明らかにしたのである (6)。 以上の研究により、開国説話は当初から「満洲 実録」巻頭に記述された内容ではなく、マンジュ 国・清朝が勢力拡大をするなかで、さまざまな要 素が盛り込まれていったことが明らかになった。 清朝の開国説話は、高句麗に発する扶余系説話を 基礎にして、征服した女真の説話を取り入れ、正 統性の根拠として聖なる山である長白山との関係 性を持ち出すという複雑な経過のなかで成立した ことを、今日の研究は明らかにしている(7)。 以下では史料の状況について述べてみたい。今 西春秋(8)は基本史料である「清朝実録」の編纂過 程について考察した。さらに「清朝実録」は漢文 だけでなく満文で書かれたものもあるので、両者 の比較検討もおこなった(9)。三田村泰助(10)は 「満文太祖老档」と「太祖実録」の関係性について 検討し、「太祖実録」は「満文太祖老档」をもとに 編纂されていることを明らかにした。 「太祖実録」は順治、康煕、雍正、乾隆と度重な る改修を経ているので、いつ、どのような改修が おこなわれたのか史料批判が不可欠である。松村 潤(11)は、「太祖実録」の改修過程について考察し ている。また松村潤『明清史論考』第Ⅱ部三「清 初の史料をめぐって」に収録されている論文は、 入関前の清朝の史料を理解するうえで必読である。 中国において「太祖実録」を分析した研究には、 薛虹(12)、喬治忠(13)、徐丹俍(14)がある。 満洲語で書かれた「満文老档」はマンジュ国・ 清朝の動向を記述した貴重な史料である。残念な がら1607年より以前について現存していない。「満 文老档」の日本語訳は、1955年から1963年にかけ て刊行された。中国では関孝廉(15)、徐丹俍(16)、 劉厚生(17)が分析している。1960年代に台湾にお いて「満文老档」のオリジナルテキストである「満

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- 31 - 文原档」の存在が確認された。「満文老档」は「満 文原档」を書き改めたり、省略して編纂されたこ とが明らかになり、「満文老档」の利用には「満文 原档」の確認が必要となった(18)。「満文老档」と 「満文原档」の記述を比較して、どのように「満文 老档」の記述が成立したのかについての研究がす すめられている(19)。 「清朝実録」、「満文老档」、「満文原档」と、よ り原本に遡っての史料批判が現在では可能となっ た。そうした一方で、新たな档案の発掘もおこな われている。石橋崇雄(20)は中国第一歴史档案館 所蔵の満文档案を発掘して、その翻訳、分析をし ている。ホンタイジの即位状況を記述した「丙子 年四月<秘録>登ハン大位档」や「先ゲンギェン =ハン賢行典例」の調査をおこない、新たな史料 的展望を開こうとしている。 加藤直人(21)は、中国第一歴史档案館所蔵の「逃 人档」の考察がすすめている。「逃人档」は後金か ら他所へ逃亡した人、その反対に他所から後金に 逃亡してきた人々に関する記録であり、1626年か ら1630年にかけての文書が現存する。加藤直人に より紹介、翻訳がされている。中国語訳は関孝廉 によりおこなわれている(22)。 刊行された档案としては『盛京刑部原档』(23)、 『天聰九年档』(24)、『崇徳三年満文档案訳編』(25) がある。また「内国史院档」の中国語訳、日本語 訳が刊行されている(26)。李保文(27)は、中国歴 史第一档案館所蔵のモンゴル語档案の紹介、中国 語訳をしている。中国歴史第一档案館所蔵の史料 の一部は、雑誌『歴史档案』に掲載されている(28)。 劉小萌(29)は、マンジュ国・清朝関係の史料に ついて整理、解説をしている。史料を読むにあたっ ては公文書制度の知識が必要だが、ホンタイジ期 については喬治忠(30)が参考になる。 (1)内藤湖南1970 (2)稲葉岩吉1931 (3)孟森1932 (4)三田村泰助1951 (5)松村潤1972b (6)松村潤1998、2001 (7)中国での研究には董万侖1992、2002がある。 (8)今西春秋1935c、1938 (9)今西春秋1967 (10)三田村泰助 1950、1957a、1957b、1958、 1959、1962a (11)松村潤2001 (12)薛虹1988 (13)喬治忠1992 (14)徐丹俍1992 (15)関孝廉1988 (16)徐丹俍1993 (17)劉厚生1993、1999 (18)神田信夫1979 (19)細谷良夫1991 (20)石橋崇雄1994a、1995、1999、2000 (21)加藤直人1994、2007 (22)関孝廉1990 (23)中国人民大学清史研究所1985。孟昭信1989も 参照。 (24)関嘉禄1987。佟永功2009も参照。 (25)季永梅1988。周遠廉1982も参照。 (26)中国第一歴史档案館1989。東洋文庫2003。 東洋文庫2009 (27)李保文2000 (28)中国歴史第一档案館1981a、1981b、1982a、 1982b、1985、2000 (29)劉小萌1998 (30)喬治忠2003 おわりに ヌルハチの勃興から入関までのマンチュリア史 に関わる先行研究を整理し、予想以上に多くの研 究が出されていることを確認した。今後はこれら の研究成果を統合して、より豊かなマンチュリア 史像の構築をおこないたい。その際、女真が持っ ていたツングース系民族としての本来的性格、遼 東に暮らした漢人の影響、鴨緑江の対岸に暮らし た朝鮮人の影響、北西に暮らしたモンゴル人の影 響という四者の要因に着目して、新たな歴史像を 描きたいと考えている。

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- 32 - 参考文献 中国語 晏路 1988「満族研究論著編目」『満族研究』2、3、4 pp.91-96、pp.92-96、pp.88-93,96 尹韵公 1990「袁崇煥誅毛文龍案考」『社会科学戦線』1 pp.225-233 韋慶遠 1990「清王朝的締建与紅夷大炮的轟鳴」『中国文化』 3 pp.164-173 尹徳文 1986「関于洪承畴降清的幾個問題」『東北地方史研 究』3 pp.58-60 烏雲達賚 1987「論明末清軍対索倫部戦争的起因及其後果」 『内蒙古社会科学』4 pp.74-78 閻光亮 1988「孫承宗与遼東防務」『遼寧教育学院学報』4 pp.22-24 1995「論孫承宗“以遼人守遼土、以遼土養遼人” 的防務策略」『遼寧教育学院学報』4 pp.39-41 袁森坡 1988「論皇太極統一察哈爾的闘争」『清史研究集』 6 pp.38-61 閻崇年 1977「論努爾哈赤」『中央民族学院学報』4 pp.61-70 →『燕歩集』pp.1-16 1978「論雅克薩之戦」『北京師範大学学報』5 pp.73-79 →『燕歩集』pp.253-270 1983a「努爾哈赤入京進貢考」『清史研究通訊』2 pp.2-5 →『燕歩集』pp.27-32 1983b「努爾哈赤建立後金考」『社会科学輯刊』3 pp.103-106 →『燕歩集』pp.17-26 1984「清入関前満洲的社会経済形態」『社会科学輯 刊』4 pp.87-97 →『燕歩集』pp.229-252 1989「清太祖肇紀条件与歴史功過」『故宮博物院院 刊』4 pp.17-24 1993「袁崇煥固守寧遠之揚搉」羅炳錦、劉健明編 『明末清初華南地区歴史人物功業研討会論文集』 香港中文大学歴史学系 pp.1-10 1995a「論寧遠争局」『故宮博物院院刊 建院七十 周年紀念専刊』1995 pp.100-115 →『満学論集』pp.110-145 1995b「論覚華島之役」『清史研究』2 pp.1-8 →『満学論集』pp.146-163 1995c 「 袁 崇 煥 死 因 解 析 」『 歴 史 档 案 』 4 pp.85-91,106 1997「遼西争局兵略点評」『故宮博物院院刊』2 pp.1-11 →『満学論集』pp.88-109 1998「満洲初期文化満蒙二元性解析」『故宮博物院 院刊』1 pp.34-39 →『満学論集』pp.383-396 2003「論大凌河之戦」『清史研究』1 pp.48-58 2004a「清太祖斬子之謎」『紫禁城』4 pp.83-87 2004b 「 清太宗経 略索倫弁 」『歴 史档案』 2 pp.61-71 1983c『努爾哈赤伝』北京出版社 338p 1984『袁崇煥資料集録』上下、広西民族出版社 270p、272p 1989『燕歩集』北京燕山出版社 423p 1994『袁崇煥研究論集』文史哲出版社 344p 1999『満学論集』民族出版社 423p 2005『袁崇煥伝』中華書局 303p 王偉 2009「明清之際遼東軍事局面的変遷」『北華大学学 報(社会科学版)』5 pp.104-108 王禹良 2008劉述昕「清朝前期関外三京的初歩比較研究」 『満族研究』1 pp.41-46 王艶春 2008「李朝質子在盛京問題的研究」傅波主編『従 興京到盛京-努爾哈爾赤崛起軌跡探源』遼寧民 族出版社 pp.246-267 王革生 1980「清代八旗的旗幟」『社会科学輯刊』6 pp.101-106 1985a「論努爾哈赤、皇太極“用間”」『東北地方 史研究』4 pp.8-14 1985b「清朝開国功臣佟養性」『北方論叢』6

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- 33 - pp.34-37 2000「八旗与清初的軍事勝利」『北方文物』1 pp.77-80 王雁 2009「明清戦争与瀋陽城的発展」『満族研究』4 pp.51-55 王景沢 1993「関于范文程的幾点考証」『西南師範大学学報 (哲学社会科学版)』3 pp.104-107 1997馬桂秋「“野人女真”与努爾哈赤的興起」『黒 龍江民族叢刊』3 pp.60-65 1998a「論早期満洲牛彔」『東北師大学報(哲学社会 科学版)』2 pp.52-55 1998b「関于范文程的幾点考証」『西南師範大学学 報(哲学社会科学版)』3 pp.104-107 1999「関于穆毘与満洲“前四旗”問題」『第七届明 史国際学術討論会論文集』東北師範大学出版社 pp.129-133 2003a「明末的“遼人”与“遼軍”」『中国辺疆史 地研究』1 pp.26-32 2003b「試論清太宗皇太极対異民族的“恩養”政策」 『社会科学戦線』2 pp.112-116 2008「明末東北自然災害与女真族的崛起」『西南大 学学報(社会科学版)』2008-4 pp.48-53 2009楊華「佟養性及其家族与清朝開国」『満族研究』 2 pp.25-30 2011「明末佟卜年之獄」『北方論叢』3 pp.65-68 2002『清朝開国時期八旗研究 1583~1661』吉林 文史出版社 325p 王鍾翰 1956「満族在努爾哈斉時代的社会経済形態」『中国 民族問題研究集刊』5 pp.60-92 →『清史雑考』pp.1-39 →中国人民大学清史研究所編『清史論文選集』 1、中国人民大学出版社、1979 pp.149-185 →『王鍾翰清史論集』1 pp.74-110 1957a「皇太極時代満族向封建制的過渡」『清史雑 考』人民出版社 pp.40-98 →中国人民大学清史研究所編『清史論文選集』 1、中国人民大学出版社、1979 pp.186-240 →『王鍾翰清史論集』1 pp.226-285 1957b「達斡爾人出於索倫部考」『清史雑考』人民 出版社 pp.99-116 →『王鍾翰清史論集』3 pp.1553-1570 1957c「清初八旗蒙古考」『清史雑考』人民出版社 pp.117-146 →『王鍾翰清史論集』3 pp.1506-1552 1985「論袁崇煥与皇太極」『社会科学戦線』1 pp.126-134 →『袁崇煥研究論文集』広西民族出版社、1984 pp.1-18 →『王鍾翰清史論集』1 pp.181-203 1986「満文老档中計丁授田商榷」『民族史論叢』1 pp.39-51 →『王鍾翰清史論集』1 pp.588-608 2004「洪承畴的歴史功過問題」『王鍾翰清史論集』 2 pp.873-881 2004『王鍾翰清史論集』1~4、中華書局 王思治 1984a「皇太極嗣位与諸大貝勒的矛盾」『歴史档案』 1 pp.79-84 →『清史論稿』巴蜀書社、1987 pp.80-93 1984b「皇太極研究中的幾個問題」『社会科学戦線』 3 pp.134-142 1988李鴻彬「論皇太極時期対明作戦戦略的演変」 中国第一歴史档案館『明清档案与歴史研究』 中華書局 pp.342-361 1996「洪承畴降清評議」『清史研究』3 pp.71-80 2005「立皇太極為君与汗位之争」傅波主編『赫圖 阿拉与満族姓氏家譜研究』遼寧民族出版社 pp.99-112 王臻 2002「明代女真族与朝鮮的辺貿考述」『延辺大学学 報(社会科学版)』1 pp.103-105 2006「薩爾滸戦役前後之後金与明朝、朝鮮関係探 析」『遼寧大学学報(哲学社会科学版)』5 pp.77-83 2008a「“丁卯之役”的交渉及戦後金鮮的矛盾衝突 探析」『韓国研究論叢』18 pp.355-369 2008b程志野「試論後金(清)与朝鮮開設互市辺貿的 社会効果」『延辺大学学報(社会科学版)』5 pp.130-134 2009a「試析後金建立前東北亜地区的政治秩序」 『社会科学戦線』10 pp.136-138 2009b「“丙子之役”及戦後清鮮交渉的幾個問題」 『韓国研究論叢』21 pp.362-376

参照

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