[論 文]
脱経済成長論とその批判
─経済行為の理解を巡って─
石 綿 寛
※ Key words:脱経済成長論、経済行為の理解、ハビトゥス、ホモ・エコノミクスはじめに
日本社会における経済成長を達成することの困難が指摘される現代において、幸福度の達成や ゼロ成長という視点から経済成長に頼らない社会設計の可能性が議論されている。それらの可能 性を語る人々によれば、現代日本社会は物質的に豊かな社会になっており、経済成長を達成しな くても十分に人々が充足できる社会である。この中で無理に資源を企業に投資して経済成長を目 指すことは、社会的厚生という意味でも、人々の幸福度という点から考えても逆効果である、と この立場の人々は議論する。むしろ目指すべきは、経済成長期に形成された社会保険制度や雇用 制度の見直しである。そして税金を社会保障の基盤とし保障対象を個人にする(税の)高負担・ 高福祉社会こそ望ましいとこの立場の人々は主張する。本論は、この立場の議論を「脱経済成長 論」とし、この議論を展開する人々を「脱成長派」1)と定義して議論する。そして本論は、「脱成 長派」が批判する主流派の経済政策を提案する人々を「成長派」2)と定義する。 人口が減少し、さらに資本(貯蓄率)が縮小し、効率的に品質のよいモノをつくれば売れると いう経済成長が見込めない中で、脱成長派の人々の意見は、現在の経済成長を目指す日本政府や 政治家たちに対して明確なアルタナティブを示している。また、現在の所得格差・貯蓄格差や都 市への資本・人口の集中、地球環境の持続可能性の危機が進む中で、日本という領域で機会の平 等、部分的な結果の平等を提供するという公平性の視点からも魅力的な視点を提供しているとい うことができる。 しかしながら、脱成長派の人々も認めているように、脱成長派の意見は、あくまで少数派の位 置しか得られていない。確かに、短期的に貧困や格差などの社会問題がメディアで報じられる際 に、一時的に脱成長派の意見が注目されることはあっても、脱成長派の戦後の経済成長モデルを ラディカルに福祉社会へと変えていくというアジェンダが政策に移され実現されることはほとん ※ 淑徳大学兼任講師どないと言っても過言ではないだろう3)。それ以上に、脱成長派の議論は往々に誤解され、成長 派の人々に誤った形で利用されてしまっている。金子勝や広井良典が議論するように彼らが提示 する福祉(産業)への注目(金子)、コミュニティのエンパワーメント(広井)の議論は、成長 派に取り込まれてきた。もちろん主流派である成長派に脱成長派の議論が使われること自体は、 脱成長派の議論が影響をもったという意味で否定されるべきではない。しかしながら、その使用 が、脱成長派の意図とは別の目的で議論されたり実施されたりしてきた。その結果、脱成長派が 目指すゼロ成長でも豊かな社会という目的よりは、成長派の主張する経済成長促進のために脱成 長派の議論が使われている。このような成長派による脱成長派の議論の取り込みが実施される限 り、脱成長派の議論は、成長派の議論の亜種として見分けがつかなくなり、一時的なブームで終 わることが繰り返されるだろう。それは成長派の主張を強化し正当化することでもある。 本論はこの脱成長派が成長派と明確に区別できない、もしくは脱成長派が成長派と変わらない ように見られるという問題を取り扱う。そして本論は、その問題の所在を脱成長派と成長派に共 通してみられる「経済行為の理解のあり方」という認識に求める。つまりホモ・エコノミクスの 問題として脱成長派が成長派と差別化を図る限り、その脱成長派の議論は成長派の議論に取り込 まれてしまう。脱成長派が、福祉の充実する社会への言及を成長派のものと区別しようとするな らば、脱成長派はホモ・エコノミクスのみならず「身体化された習慣」のレベルで成長派と差異 化を図らなければならない、というのが本論の主張である。 以下では本論を展開するために、第一に、脱成長派の議論を紹介する。ここでは、橘木俊詔と 広井良典の『脱「成長」戦略 新しい福祉国家へ』をもとに議論を展開する4)。そのうえで、第 二に、橘木や広井の議論が成長派の意見と合流してしまうことを議論する。そのために、現在の 経済成長を目指す安倍政権の経済財政諮問会議の『未来への選択』を取り上げる。第三に、脱成 長派と成長派が合流してしまう理由の分析として両者の間にある経済行為の理解の問題を議論し ていく。本論は、経済行為の実践をホモ・エコノミクスである「計算する人間」の行為として考 えるかぎり、脱成長派の議論は成長派の議論と区別することが困難になると議論する。
Ⅰ 脱成長派によるゼロ成長論
1.脱成長派による成長派への批判 成長派の人々が社会目標を(一人当たりおよび国全体)GDP経済成長として提示するならば、 脱成長派の人々は、社会目標を経済成長に依存しない再分配としている。ただし脱成長派の人々 は経済成長を否定しているわけではない。脱成長派の人々が問題にしているのは、経済成長を社 会の目標とすることが、人々の生活を実質的に悪化させることである。 脱成長派の人々によれば、成長派の経済成長理論は、「経済成長=労働力成長率+資本成長 率+技術進歩率」という定式によって導かれてきた。この理解において、戦後日本の高度経済成長は、人口増加による労働力の増加とそれを基盤にした資本の成長、そして大量生産・大量消費 を前提にした技術発展の合致によって説明できる。しかしながら、少子高齢化が進む先進諸国に おいてこの定式は成立が困難になっている。人口が減少し、労働力増加が見込めなくなり、雇用 が減少し人々の貯金が減る(その結果資本の成長が怪しくなる)。さらには、物質的豊かさが進 む中で、結果や効果が予想できる大量生産・大量消費型の技術発展が困難になる。脱成長派の 人々によれば、この中で成長派の人々は、人口増加に頼らない労働力の成長、つまり教育を通し て一人一人の労働者の質を上げることを重視する。クリエイティブな労働者を誕生させること で、クリエイティブな技術を開発し、投資を日本社会に呼び込む、それが成長派の描く21世紀日 本の経済成長である(橘木・広井 2013:第一章)。 脱成長派による成長派への批判は、なによりも成長派の経済成長理論は、供給サイド(つまり 商品をつくる側の視点)のみを前提にしており、需要サイドの拡大の限界および資源の限界を無 視している点である。現実的に先進諸国においては(中国や東南アジアなど開発途上国も経済発 展経路を歩み始めたことによって)、商品供給は過剰になっている。脱成長派によれば、それが 企業間の競争過多を生み出し、正規雇用の縮小につながり、現在の所得格差を導いている(そし て現実的には、大手民間企業は海外市場を開拓することによって、自民党は公共事業と貨幣量 の増加という国民の借金によって需要を作り出し、商品供給過多を解消している)(橘木・広井 2013:第一章;松原 2011)。 また、物質的にある程度豊かな社会において更なる経済発展を達成することが人々の幸福度には 結びつかないと脱成長派は指摘している。すなわち、商品を消費することで豊かさを実感できるの は、ある程度の経済発展段階までであると脱成長派は議論している(橘木・広井 2013:147)5)。 さらには、成長派は、経済成長を達成することで再分配が達成されると議論するが(「経済成 長することによってしか雇用は増えないもしくは雇用状況の改善はない」)、脱成長派の人々によ れば、90年代後半以降に実施されてきた規制緩和や社会保障制度改革という経済成長策は、ジニ 係数を増加させ所得格差を増加させている(橘木・広井 2013:21)6)。脱成長派の人々は、再 分配の度合いと経済成長率の間には相関関係はないと議論する。成長派の人々は、福祉を充実さ せると人々は怠けるため、経済成長率が停滞すると議論するが、北欧などの例が示すように、福 祉が充実すると人々の将来への不安が軽減し、消費意欲が高まり、勤労意欲も高まると脱成長派 は議論する(橘木・広井 2013:21-22)。 2.脱成長派によるゼロ成長論 脱成長派の人々は、経済成長が社会目標になることの社会への深刻な負荷を批判したうえで、 ゼロ成長でも豊かな社会の実現を提唱する。 それゆえ何よりも脱成長派の人々にとって重要なことは、経済成長のために向けられる経済資 源を社会保障・福祉の充実に回しそれを充実させることである。現代日本の社会保障制度は社会
保険制度(雇用者所得の一部を企業と折半してプールすることでリスクに備える仕組み)を基盤 にしている7)。この制度は雇用が拡張することが前提となっている経済発展依存型の社会保障制 度である。脱成長派の人々によれば、社会保険が適用される正社員という雇用が限定されている 現代日本社会において、社会保険制度は実質的に十分な保障を受けられる人と受けられない人を 選別する結果になっている。また企業が企業利益のために人件費を削る名目になっており、実質 的に再分配機能を弱くしている。橘木・広井は、この現状に対して税金を利用した社会保障・福 祉制度の充実を強調する。このことで、所得を限定せずに再分配が可能になるためである。 また再分配の中身においても若者・現役世代向けの給付を充実させることを脱成長派の人々は 提唱している。現在日本の再分配のあり方は、引退世代向けの年金・医療・介護が中心に設計さ れている。脱成長派によれば、これは、若者や現役世代が雇用され働いていることを前提とした 福祉給付のあり方である。現実的に、企業福祉の削減、企業福祉を受けられる人間の限定化、所 得格差や子どもの貧困がクローズアップされる中で、人生前半における機会の平等を提供するこ とが望まれている。脱成長派の人々は、従来は企業が非法定福利厚生費として提供してきた、住 宅扶助・家族手当や若者向けの教育支援(人生前半の社会保障)を政府が積極的に提供すること を提唱している(橘木・広井 2013:第二章)。 脱成長派は、このように経済発展主導型の社会保障制度のあり方を改め、再分配そのものを充 実させることを議論するが、これは短期的にはゼロ成長を導くかもしれない経済政策である。し かしながら、広井によれば、物質的に充足している現代社会において中心になっている消費は情 報の消費であり、その消費は物の消費とは違い量的に増えなくても中身は変化していくもので あり、決して停滞している社会ではない(橘木・広井 2013:146-147)。また、脱成長派によれ ば、社会保障・福祉重視政策によってもたらされる、人間の幸福度の向上とそれに伴う消費意欲 の向上、一見競争力がないように見られがちな人間・自然への再生産労働(介護職・小規模農業 など)へ人々の参加とその長期的な経済効率性(コミュニティ意識の醸成や自然環境の再生産な ど)の達成、人口の地方への分散とその結果の災害リスクの軽減は、長期的な経済成長の実現を 意味する(橘木・広井 2013:第四章)。広井によれば、 生産性の概念を根本的に見直して、福祉や教育など、むしろ「人」を積極的に使い、「人」 が主役であるような、労働集約的な分野を発展させていくことが結果的に失業の減少にもつ ながります。そうした分野は、これまで「人手ばかりかかる」ということで生産性が低いと されてきたわけですが、現在のように資源が不足し、人手が余り、失業が慢性化している状 況においては、労働生産性ではなく、環境効率性あるいは資源生産性という考え方への転換 が重要なのです。そうすると、福祉や教育などの分野はこれまでとは逆に生産性という点か ら、もっとも優等生ということになるわけで、北欧などが進めているのはこうした方向です (橘木・広井 2013:25)。
以上が脱成長派の主張である。もちろん脱成長派内部には、再分配の方法(消費税増税か否か) やゼロ成長でよいかどうか、などにおいて賛否がわかれる論点はある。しかしながら、経済成長 を軸にした経済政策への警戒、社会保障・福祉を強化する国家の達成を重視する点は、脱成長派 の人々に共通している見解である。
Ⅱ 成長派と脱成長派は区別できるのか?
脱成長派の考え方は、成長派とは明確に区別できると言えるだろうか。以下ではこのことを考 えていきたい。 1.『未来への選択』と人間への投資を通しての経済成長論 労働市場は、長時間労働につながりやすい正社員と、雇用が不安定でキャリア形成が難しい 非正規社員とに二極化している。若者は新卒時に正社員として雇用されるか否かで大きく道 が分かれ、再チャレンジすることが難しい。女性や高齢者の力は十分に引き出されていな い。こうした状態が続き、労働力不足を補うために長時間労働がさらに深刻化し、ワークラ イフバランスも改善されず、少子化がさらに進行していく。また、労働市場の二極化が続く ことで、格差が固定化・再生産されて、社会から取り残され、未来に希望の持てない人々も 増加していく(「選択する未来」委員会 2014:3)。 これは、内閣府経済財政諮問会議が、『未来への選択』というタイトルで発表した論文からの 引用である。この雇用状況の悪化や所得格差という問題関心は、脱成長派の人々と共通した問題 意識であると言えよう。脱成長派の人々同様『未来への選択』の中で強調されていることは、戦 後日本社会が形成してきた人口増・生産性上昇を前提にした経済モデル8)がもはや通用しなく なっていることである。そして、上述の広井が指摘したことと同様に、このレポートにおいても 人間への投資は重要なテーマになっている。 人口急減・超高齢社会においても、国民生活の豊かさを維持するために、経済成長を持続さ せていくことが必要である。今後労働力や資本投入の増加に多くを望めない中、経済成長を 持続させていくために、人が能力と個性を磨き、伸び伸びと発揮し、繰り返しチャレンジで きる、ダイナミックさのある経済社会システムを構築していく。その結果、全要素生産性 (TFP)を高める(「選択する未来」委員会 2013:7)。 そして『未来への選択』が脱成長派と異なる点は、経済成長を達成することこそが、労働悪 化・所得格差の問題や従来型の経済成長発展型制度の機能不全の解決策であり、人間への投資はこの方向に向けられるべきと提示していることだ。『未来への選択』は、ワークライフバランス を進め、柔軟な雇用制度を整える一方で、人々がキャリアを積む機会を整備し何度でも労働市場 にチャレンジできる仕組みを整えることを提言している。そしてその方向は、労働・資本が付加 価値を生み出す生産性(全要素生産性)を創出する方向に向けられる。そのためには、クリエイ ティブな人材が力を発揮するための柔軟な労働市場・知識資本・金融資本・グローバル生産体制 の整備、人材の育成、そしてクリエイティブな人材が人々に受け入れられるための、世界的なブ ランディングやマーケティングの重要性を『未来への選択』は議論する。成長派にすれば、需要 とは供給サイド(生産者側)によって発見されるものであり、発見されることにより広がって いくものになる。そして労働者の有効活用によって付加価値生産を導き9)、経済成長を人口が減 り・高齢化が進む社会においても持続させる、それが『未来への選択』の提言である10)。 なぜ成長派は経済成長が解決策と考えるのか。『未来への選択』は以下のように指摘している。 経済規模が縮小すると、海外経済や国際金融市場等の影響を受けやすくなり、経済活動の短 期的な振れ幅(ボラティリティ)が大きくなる恐れがある。また、グローバル化、アジア新 興国の成長の中で、日本の経済規模が国際的な比較において相対的に縮小する(「選択する 未来」委員会 2014:2)。 人口に占める働く人の割合が低下し、働く人よりも支えられる人が多くなる「人口オーナ ス」に直面し、経済成長の重荷となっていく11)。また、急速な人口減少が、国内市場の縮小 をもたらし、投資先としての魅力を低下させ、さらに人々の集積や交流を通じたイノベー ションを生じにくくさせることによって、一旦経済規模の縮小が始まると、それが更なる縮 小を招くという「縮小スパイラル」に陥る恐れがある。 「人口オーナス」と「縮小スパイラル」の双方が強く作用する場合には、国民負担の増大が 経済の成長を上回り、実際の国民生活の質や水準を表す一人当たりの実質消費水準が低下す る恐れもある(「選択する未来」委員会 2014:2-3)。 高齢化の進行に伴い医療・介護費を中心に社会保障給付費の増加傾向は一段と強まる。ま た、家計や企業等の純貯蓄が減少する一方、財政赤字が十分に削減されなければ、経常収支 黒字は構造的に縮小していき、国債の消化を海外に依存せざるを得ない状況となる。その結 果、利払い費負担が増加する恐れがあるとともに、国際金融市場のショックに対して脆弱な 構造になる。財政健全化の道筋に沿って財政赤字を着実に削減できなければ、財政の国際的 信認を損ない、財政破たんリスクが高まることになる。また、国際社会に貢献する力も弱 まって世界での存在感も低下していく(「選択する未来」委員会 2014:3)。
2.成長派と脱成長派の合流 上述したように、脱成長派の人々は短期的な経済成長論や経済成長政策に対して異議を唱え、 人間への投資を通した長期的な潜在的経済成長にかけている。一方で『未来への選択』で示され た成長派の意見は、短期的な経済成長論や経済成長政策こそが重要で、人間への投資を通した経 済成長があってこそ長期的な経済成長が可能になるという議論である。 脱成長派の視点に立つならば、成長派の短期的経済成長政策は根拠がなく、無駄に国民の所得 や税金を浪費するもので、長期的な経済成長と達成可能な豊かな人々の生活を犠牲にするものに なる。ただし、脱成長派も経済成長やGDP一人当たりで計られる物質的な豊かさを否定してい るわけではない。 成長派の視点に立つならば、脱成長派の議論は、達成可能な経済成長を否定し、そのことで経 済縮小の負のスパイラルを招く危険性がある、無責任なものになる。しかし、『未来への選択』 が示すように成長派も長期的な経済成長や人々の生活の豊かさを否定しているわけではない。成 長派の見方からすれば、経済成長した分を人々に還元するのは当然である(飯田 2012)。この 意味で、成長派の人々にとって脱成長派の人々の豊かさを達成する目標を否定する必要はなくな る。 脱成長派の議論が成長派の議論と合流するのはこの点である。両者ともがお互いに経済成長の 必要性・人々の生活の豊かさ達成の必要性という点を共有しているのだ。 3.合流することによる脱成長派の限界 さらには、脱成長派はこの合流によって成長派に対して有効な批判を提示しきれていない。そ れは少数派である脱成長派が多数派である成長派および消極的に成長派を支持する人々に有効な 議論を提供できていないことに起因する。 結局のところ脱成長派および成長派の議論を別つものは、経済成長の要因をどのように見るか である。経済成長の要因を脱成長派は、人々の自発的な余裕に求める。それ故に人々に(福祉給 付などの形で)投資することそのものが重要になる。一方で成長派の人々は、経済成長の要因 を、商品を提供する側の努力に求める。この理解において需要とは潜在的に存在するもので発見 されるべきものである。だからこそ世界中から投資を集めるという商品を提供する側への資金確 保が重要になる(そしてその流れから一度外れると、負のスパイラルに落ち込むことになる)。 この経済成長の根源論に関しては、お互いがお互いの正当性を主張しあう展開になっている12)。 この議論を前にしたとき、この議論を聴く人々は、信念によってどちらかを選ばざるを得なく なる。経済発展と豊かな社会の実現という最終的な目標を成長派と脱成長派が共有している限 り、両者の違いは目標達成のための手段の違いにすぎなくなる。さらには、両者がお互いの正当 性を主張している中で、聴く主体は、信念によって不確実な手段に不確実な未来をかけなければ ならなくなる。そうであるならば、明らかに現状の変革を成長派よりも急激に迫る脱成長派の立
場は、支持を集めるという意味で、不利である。同じ不確実なものを選ばざるを得ないならば、 少しでも現状に対して変化が少ない方(そして主流派であり「大きい声」をもつ方)を選ぶ方 が、聴く主体にとって抵抗がないのは明白だろう。 以下では、この脱成長派の限界を招く、成長派との合流の問題を議論したい。
Ⅲ 脱成長派による経済行為の理解という問い
なぜ脱成長派の議論は、成長派と合流してしまうのか。言いかえれば、脱成長派は成長派を批 判しつつもなぜ成長派と同じ経済成長と人々の豊かさの達成という論点を共有せざるを得なくな るのか。脱成長派が本来スタートラインとしている、現代社会の所得格差・資産格差、都市への 資本の集中、地球環境・労働状況の悪化などを招く、経済成長型の経済モデルの問題は、成長派 と合流する経済成長と人々の豊かさという論点によってのみ問われるべきものではない。しかし ながら、脱成長派はそれらの論点に回帰してしまっている。この点を考えるために、本論は、脱 成長派の「経済行為の理解」を取り上げる13)。人間は、経済的な行為を行う際、意図的な「計算」 によって自己利益を把握するだけではない。脱成長派に欠けているものは、人間が「身体化され た習慣」によって自己利益を図るという理解である。 1.「計算する人間」(ホモ・エコノミクス)という理解 脱成長派の人々は、成長派の議論や成長派の議論に賛同する人々の行為は、誤謬に基づいてい ると理解している。この理解において、人々による長期的共通利益に対する「計算間違い」が経 済成長理論に対する信仰の原因である。だから、脱成長派の人々は、成長派の意見や政策による 「短期的な経済成長がすべての問題を解決してくれる」という理解を批判し、短期的な利益の追 求が長期的な豊かさや人間や環境の持続可能性を危機に陥れる危険性を指摘する。それ故、「計 算間違い」を正すことによって、正しい「計算」を導くことが脱成長派の人々の目的になる。つ まり、脱成長派の人々は、経済成長に対して長期的な尺度の存在を提示すること、そしてそれを 通して違った可能な世界を見せること、そのことで違う「計算」が可能であることを示す。 この脱成長派の人々の経済行為の理解は、「計算する人間」(ホモ・エコノミクス)である。す なわち、この理解において、人間は意図的に自分を取り巻く情報を駆使することで自分にとって 最大限利益になることを選択する存在である。しかしながら、人間を取り巻く情報は完全ではな い。常に限定的な情報の中でしか人間は意思決定できない。だから人間は間違う。それ故、必要 なことはその情報の限定性を提示し、正しい情報を提示し、人間を正しい真の意味での自己利益 追求の方向に導くことである。それがこの「計算する人間」の理解及びそれに基づく脱成長派の 議論である。2.何が「正しい」か?:「身体化された習慣」の中の人間 脱成長派は、成長派の提供する「正しい情報」に対して異なる「正しさ」を提示することで、 ゼロ成長論を提示した。しかしながら、上述した『未来への選択』が示すように、成長派も現状 の社会問題に対して関心を示すことで、結果的に両者が「正しさ」を提示しあう展開になってい る。この状況は、成長派も脱成長派も「計算する人間」への関与の在り方である「誤謬」に対し て「正しさ」を展開することを示している。脱成長派が成長派と合流してしまうのはこの所以で ある。「計算する人間」の理解に基づいて、「誤謬」と批判をする戦略をとる限り、それは常に批 判された対象から「誤謬」であると批判をかえされることにもなる。そして、脱成長派の立場が 少数派というポジションである限り、多数派の成長派の声が少数派の主張を部分的に取り込むと いう構図が出来上がる。 このことが示すように、実践のレベルにおいて何が「正しい」かを決定するのは─「正しい」 という主張が両立する限り─(多数派対少数派という)権力の問題であり、どちらが「確からし い」かという信義の問題になってくる。そして、この「確からしさ」を感じるのは、「計算する 人間」という理解では考えられない領域である。 ピエール・ブルデューは、経済行為を行う人間の理解において、「意識的に計算し自己利益を 最大化する人間」という理解を批判している。ブルデューによればこの「計算する」人間の理解 は人間の行為を「歴史性のない人間の眼前にある状況への反応」とする机上の空論でしかない14)。 現実的に人間は集団の(社会の)歴史と(社会の中で位置づけられた)個人の歴史のお互いに並 立している両方の歴史の中で生きており、その中で形成される「身体化された習慣(ハビトゥス habitus)」によって意思決定しているとブルデューは議論する(Bourdieu 2005:85)15)。この習慣 とはその人間の選好として現れ、そうあるべきものとして出現する。それは習慣である以上、理 解に基づいて下す決断というよりも現実感覚とも呼ぶべきものである。ブルデューによれば、 ハビトゥスは不確実な未来に対する実践的な現実感覚であり、生じるかもしれない可能性に 向かって企図されるプロジェクトではなく「実践的な予測practical anticipation」に関係して いる(Bourdieu 2005:86)16)。 この「身体化された習慣」の理解は、成長派の議論への人々の「確からしさ」を説明すること ができる。それは正しさによる理解ではなく、もっともらしさによる感覚に裏付けられている。 この感覚は感覚である以上、「成長派の主張は間違いである」という言葉が届きにくい領域でも ある。また同様に、この感覚の次元を把握しないことで、アルタナティブを提示する脱成長派の 主張は成長派に合流し、成長派の主張を強化し、成長派に対する「確からしさ」をさらに強化す るようにも働く。
3.脱成長派による「身体化された習慣」への問い方 では、「計算する人間」ではなく、「身体化された習慣」の中にいる人間理解に基づいて脱成長 派が議論を展開するならば、脱成長派の議論はどのようになるだろうか。 「身体化された習慣」の理解に基づいて経済行為を理解する記述は、その「身体化された習慣」 に基づく経済行為が何であるのかを外側から定義するものではない。そのような定義の記述は、 「計算された人間」理解に基づく経済行為と親和的である。例えば、橘木と広井は、日本におい て成長派の議論に人々が向かう理由として、アメリカ文化の強さや日本の民主主義のなさを議論 する。彼らによれば、日本の人々は世界的に人気のない野球を好み、共産党中国の経済成長を 過度に警戒し、英語教育にのみ力を入れる。だから日本の人々はアメリカ型の成長経済に目を向 け、ヨーロッパ型の福祉社会の可能性が見えない。また、彼らによれば、日本の人々は国家を民 主的政体と見なしていないために、過度に警戒するか家族の延長として過度に一体化するかのど ちらかしか選択しない。そのため、国家の運営や税の使い方についての関心が低いと彼らは指摘 する(橘木・広井 2013:137-139)。しかしながら、それならば、なぜ同じ文化に属する橘木や 広井は、成長派の議論や実践が間違いであると議論できるのか。橘木や広井と成長派の政策や主 張を信じる人々の違いはどのように説明できるのか。橘木や広井による習慣や文化の記述は、包 括的な集団の習慣や文化が一方的に人間を決定するという理解に基づいている。これは、人間 が機械のようにプログラムされ目標を達成するという合理的な人間を想定している。この意味で 「計算する」人間の理解とこの理解は補完的な関係にある(Bourdieu 2005:85)。つまり、橘木と 広井にとって、そのような文化的要因は、成長派を信じる誤謬を導く原因になっている。これは、 文化的要因が正しい情報をゆがめるという理解である。この理解はその内部において集団とバラ ンスをとりながら 藤する人間の様や集団内部の矛盾や揺らぎ、権力関係を隠蔽してしまう。 「身体化された習慣」の理解に基づいて、「確からしさ」の基準によって物事の真偽を判断する ある人間やある集団を描き出すことは、その成長派の「確からしさ」の原因を説明するのではな く(定義するのではなく)、どのようにしてその「確からしさ」がある人間や集団の中で維持さ れ、その人間や集団の利害関係に関与しているのかを示さなければならない。そしてその利害関 係とは、抽象的な自己利益で説明されるのではなく、「身体化された習慣」である以上、現実の ある場所で歴史的に構築され、変化にさらされながらも維持される構造化されたものである。つ まり、ブルデューの言うように、この記述に必要なものは、人々や人々の利害を、人々の属する 場の中で、構造化された構造として理解すると同時に、その場を新たに構造化する構造として理 解する分析である(Bourdieu 1990)17)。 以上の議論から、脱成長派の議論に「身体化された習慣」の人間の理解を導入するならば、そ れは以下のようになるだろう。橘木や広井が指摘するように、成長派の議論や政策は、可能な経 済合理性の一つでしかなく、決定されているものではない。そして、それは現実的に様々な社会 問題を引き起こしている。それにも関わらず、人々がその議論や政策を積極的・消極的に支持す
るのであるならば、その合理性を批判するだけでは不十分である。成長派の議論や政策がどのよ うにして人々の間で維持され、そうあるべきものとして受容されていくのか、そのことを解明し ていかなければならない。
結 論
本論は、脱経済成長論が、批判するところの経済成長論に取り込まれるという問題を取り上げ た。そして、本論は、その取り込まれる問題を脱成長派論者たちの経済行為の理解という点から 議論を発展した。脱成長派は、成長派たちが前提にしている経済合理的な主体(ホモ・エコノミ クス)というものの理解を批判しながらも彼ら同様に、経済合理的な主体を前提にしてしまうた めに、成長論者の主張に有効な反論ができないばかりか、成長論の議論を強化することになって しまう。これに対して本論は、脱成長派が経済合理的な主体ではなく「身体化された習慣」に基 づく主体の理解にもとづいて批判を展開する可能性を示した。 成長派への「確からしさ」が、「身体化された習慣」に基づくならば、それを指摘する分析は、 人々の経済成長論への支持を変えることに繋がるだろうか。それは人々の日常実践に結びついて いる以上、直接的な影響力は持ちえないかもしれない。しかしながら、その分析は、成長派への 「確からしさ」が必然であるという感覚を崩すきっかけにはなるだろう18)。それは本来脱成長派 が目指していた異なる経済運営の在り方に対して「確からしさ」を抱くきっかけにもなるはずだ。 【注】 1)具体的には、金子 勝・神野直彦・松原隆一郎・橘木俊詔・広井良典・萱野稔人・後藤道夫などの論客 を示している。なお本論で直接的に言及するのは、橘木俊詔・広井良典,2013,『脱「成長」戦略 新 しい福祉国家へ』岩波書店である。 2)ちなみに成長派と定義できるような竹中平蔵・駒村洋平・飯田泰之などの知識人、現在の自民党の政策 決定者などを意味する。 3)例外として「子どもの貧困」の分野、派遣労働者へのルールの制定の分野では一定の成果がある。 4)橘木と広井の議論を選択した理由は、従来のアルタナティブな経済の議論を脱成長派としてまとめなお したことにある。 5)内閣府「平成20年度国民生活白書」を参照。 6)厚生労働省「所得再配分調査」をもとにしている。 7)また社会保険制度と同様に、公共事業による雇用確保、農業・中小企業への補助金、地方交付税交付金 などの「公共事業型社会保障」も重要な位置づけをしめてきたと橘木・広井は指摘している(橘木・広 井 2013:35-36)。 8)アンドルー・ゴードンは、「経済成長」というキーワードが戦後日本社会コンセンサスとして君臨して いたと議論する。 日本の戦後政治の大きな特徴の一つとして、1960年代から1970年代において、革新の側が出した政策、特に地方自治体で提案された政策を保守政権の自民党が採り入れるということがありました。そ れに類した方法で妥協点を見いだし、対立を緩和していくという平衡の上に、経済成長が継続的に維 持されてきたという構造を見ることができます(ゴードン 2011:30)。 9)これは、効率的にモノをつくり人間を経済成長のために囲い込む戦後経済成長モデルから、モノやサー ビスの質をつくれる人間に投資する経済成長モデルの転換と解釈することができる。人間に投資する経 済成長モデルの理解は政府に関わらず、広く民間にも共有されている。例えば、富士ゼロックスの顧問 である有馬利男は、安定して業績を上げることが予想できない以上企業は、労働者に安定を提供するこ とではなくキャリアアップの機会を提供することが必要であると議論する。社外でも通用する能力を積 極的に労働者に身につけさせること、そのことで民間企業は、自立した労働者をつくりだすことができ る。そして自立した労働者同士の間に緩やかなネットワークをつくり、ビジネスチャンスやイノベー ションを起こしていくことが21世紀の企業には求められていると、有馬は議論している。また労働者も 企業に依存せず、企業を利用して自分の将来を自分で切り開いていくことを、有馬は提唱している。こ こから考えられることは、20世紀の労働者と企業のトレードオフが、生活の安定と企業への忠誠であっ たとするならば、21世紀のトレードオフは、流動的な雇用とキャリアアップの機会提供である(有馬 2009;高橋 2009も参照)。 10)そしてこの投資の対象を物質的な経済成長を促すハードなインフラ(e.g. 道路・港湾など)から人間そ のものや生活の質に切り換えていくべきだという主張は、実際のところ現代に特有のものではなく、積 極的に地方への公共投資によって日本の経済成長を促してきた1970年代から盛んに議論されてきたこと でもある(Johnson 1982;Harootunian 1989を参照)。それらの議論に共通していることは、経済成長を 達成した日本社会は、人間自身の文化的価値・創造性の豊かさこそを目指すべき、というスローガンで あった。 11)『未来への選択』によれば、これは 少子高齢化により生産年齢人口が相対的に減少していく人口構造の変化が、経済成長等に重荷となっ ている状態。2013年の75歳以上人口の割合は12.3%、2035年には20.0%。高齢者単独世帯の世帯総数 に占める割合は、2010年9.6%、2035年15.4%(2013年の人口割合は総務省推計、それ以外は国立社会 保障・人口問題研究所推計による)(「選択する未来」委員会 2014:2) である。 12)ここでは成長派と脱成長派がお互いの正当性を主張しあっている。脱成長派は、GDP経済成長率と福祉 給付額の量は相関がないというデータを示し、成長派は、投資主導で導かれるGDP経済成長率のデー タを示す。脱成長派は、そのような成長派のデータを実体経済を無視していると否定し、成長派は、福 祉給付による財政悪化による福祉給付制度自体の将来的な危機を示す。 13)もちろんこの点を巡っては多様な論点がありうる。例えば、この問題を成長派に求めることができる。 「成長派の経済理論がその抽象化の力によって脱成長派の議論を取り込む」という論点の提示もある。 また「成長派と脱成長派が真剣に議論を戦わせる場がほぼ存在しない」という公共圏の問題も論点にな りうる。本論の脱成長派の理解のあり方という論点は、それらの論点を否定しない。むしろ本論の「理 解のあり方」はそれらの論点に対して(論点を明確にするという意味において)有意義な貢献をするだ ろう。また脱成長派の「理解のあり方」という論点の中で「経済行為という理解のあり方」は、他の可 能性のある中の一つであることを著者は否定できない。ここで、「経済行為の理解のあり方」を脱成長 派の成長派議論との合流の絶対的な原因であるということを意味してはいない。むしろ著者は、これを 脱成長派が合流してしまう実践を明確にするため一つの焦点と考えている。ここでも脱成長派にその理 由を求めたことと同様に、本論は他の議論と協力関係にあり、本論の論点が他の議論の論点を明確化す
ることに貢献すると著者は考えている。
14)それ故、ブルデューは、「人間が個人の意思で意識的に意思決定を下すという」理解や「ある区別され ない決定的な原因によって人間の行為は決まる」という理解の両方を批判する(Bourdieu 2005:85)。 15)そしてブルデューはこの身体化された習慣の領域こそ、権力の領域であると議論する。なぜならば、何
が身体化されて価値があるべきものとされるかを、優位に決定できるのは、もっともその身体化され価 値があるものを所有している立場にいる者たちである(Bourdieu 1986;Bourdieu 2005;Wacquant 1996)。 16)日本語訳は著者による。 17)ブルデューによれば、人々の身体は社会によって構成されており、そして人々の身体こそが社会を成立 させている。人々は学習プロセスを通して社会を身体に内面化しており、そのような社会を内面化した 人々が社会を再生産するとブルデューは議論する(Bourdieu 1990:190)。 18)ブルデューは、「行為の構造に関する」知識の行為を決定する構造に対する影響を重視している。その ような知識はある行為を当然とさせる認識(象徴的暴力)そのものをかき乱す効果があるとしている (Bourdieu 1990:183)。 【参考文献】 有馬利男,2009,「21世紀の働き方「ワーク&ライフインテグレーション」の目指すもの」『無限大』124: 22-27.
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