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意志概念不在の行為論―アリストテレスにおける欲求と判断

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Academic year: 2021

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意志概念不在の行為論―アリストテレスにおける欲

求と判断

著者

河田 真由子

学位授与機関

Tohoku University

学位授与番号

11301甲第18948号

URL

http://hdl.handle.net/10097/00130225

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1 意志概念不在の行為論 ――アリストテレスにおける欲求と判断 河田 真由子 文 内 容 の 要 約 序論 本研究は、アリストテレス行為論の本質を解明することを目的とする。考察の手がかりとするのは、 古代ギリシア世界における意志概念の不在である。すなわち、古代ギリシア世界に存在しなかったと される意志概念の形成に関わる諸研究、とりわけ古代哲学研究者による意志の哲学史的研究を対象と し、意志をどのように定義し、どのような意味でアリストテレスに意志概念はないと結論付けている かを分析する。この基礎的考察をもとに、アリストテレス『ニコマコス倫理学』(Ethica Nicomachea, 以 下「EN」と表記)のテクストを精査する。 第1章 準備的考察 意志概念の基本的特性を考察した。意志概念がその始まりにおいてどのように形成されたかを検討 するために、現代の古代哲学研究者の解釈を手がかりにした。本考察で取り上げたのは、A. Dihle、 C. H. Kahn、M. Frede の論考である。Dihle は、旧約聖書以来の神学的伝統の中に意志概念はあり、 キリスト教を中心とした意志概念はアウグスティヌスにおいて結実したという意志の神学的解釈を提 唱する。Kahn は Dihle の議論を批判的に検討しつつ、二つの完全に明確な理論であるアリストテレ スとアクィナスの理論を比較することによって意志概念とは何かを考察した。Dihle と Kahn が採用 する意志の神学的概念は、意志概念は外の世界とのつながりを持たず心の中ではたらくものであると いう見方を示し、意志概念の形成された経緯を明確にする。また、このことに加えて、Frede は責任 をともなう選択・決定を行う能力として意志を特徴付け、他行為可能性に関わる意志の観点を示した。 第2章 行為の基盤となるもの アリストテレスにおける行為の基礎的な道具立てを確認しながら、それをなぜ意志と呼ぶことがで きないかを論じた。EN 第 3 巻において、アリストテレスは、「自発的」「非自発的」に関して、ἑκούσια, ἀκούσια, ἑκών, ἄκων, οὐχ ἑκούσιον, οὐχ ἑκών といった表現を用いるが、それぞれの語の意味は慎重 に検討する必要がある。また、意志においては行為の選択が責任を担っている一方で、アリストテレ スにおいては自発性が責任を担っている。そして、一見非自発的な行為として分類される行為のうち、 条件付で自発的な行為といえるものをアリストテレスは検討している。すなわち、「強制による混合的 な行為」「無知による行為」「無知の状態による行為」が検討の対象となる。「無知による行為」には個 別的なことがらの無知と普遍的なことがらの無知の二種類の無知があるが、筆者はこの箇所ですでに 実践的三段論法の枠組みが導入されていると考え、EN 第 3 巻と EN 第 6 巻・第 7 巻との連関をみる。 アリストテレスが「徳に最も固有」(1111b5-6) であると述べる選択 (προαίρεσις) は、「思案をとも なう欲求」と定義される。選択は行為者が思案した結果なされる判断であり、行為の始点を示してい る。すなわち、アリストテレスの選択は他の選択肢を許容しない選択であり、私たちの語彙から想像 できる複数の選択肢から選択するという意味での選択ではない。また、願望 (βούλησις) は行為の目 的に関わるものであるため、行為の決定に関わる意志とは異なる。さらに、アリストテレスは性格の 自発性を論じることで性格に責任を担わせる。すなわち、意志概念不在の行為論においては性格と行

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2 為が直結している。 第3章 行為を生み出すもの 第2 章で確認したアリストテレスの行為の道具立てを基礎としながら、欲求、思慮、実践的三段論 法について考察を行った。まず、欲求 (ὄρεξις) はアリストテレスにとって上位概念であり、願望、 気概、欲望の三つに区分される。欲求は行為の動的始点となる。 EN 第 6 巻において思慮が論じられ、「人間にとっての善悪にかかわる行為を行うところの、理りを 備えた魂の真なる状態」(1140b5-7) と定義される。そして、「思慮という一つの状態が備わると同時 に、すべての性格の徳が備わることになる」(1145a2) といわれるが、ここで性格の徳と思慮との関係 性が問題になる。徳に関して、アリストテレスは「自然的な徳」と「本来の徳」を区別するが、自然 的な徳は⾏為者に⽣まれつき備わっている徳であり、この「すべての性格の徳が備わる」という表現 における「徳」は、本来の徳のことを指す。そして、「理りを備えた魂の真なる状態」とあるように、 理りに「基づく(κατὰ)」状態ではなく、思慮に基づく理りを「備えた(µετὰ)」状態が性格の徳である とアリストテレスは述べるが、筆者は、Gottlieb の議論も参考にしながら、「備えた(µετὰ)」状態を、 その理りの運用を可能にするという意味で捉えたい。すなわち、本来の徳とは、行為者が自身のうち に正しい理り、すなわち思慮を備えて運用される徳である。 また、実践的三段論法とは、推論の結論が同時に行為となるような推論のことを指す。それはすで に述べたように、筆者の解釈ではEN 第 3 巻の思案を捉え直したものであり、アリストテレスは、思 案と欲求の接合点を実践的三段論法に見出す。筆者は、目的に向かうものを目的の構成要素とみる D. Wiggins への反論を試みた。そして、習慣が目的を定め、一般化したあらわれが生み出されるとみ なすJ. Moss の解釈が、筆者の主張する性格と行為の直結性をサポートする議論であると考えて擁護 した。 第4章 行為の例外となるもの アリストテレス行為論のうちアクラシアーについて検討した。アクラシアーをめぐっては、ソクラ テスのパラドクスと呼ばれるアポリアー(難問)がある。それは、「一方で、自制心の無い者は、低劣 なことと知っていて情念のゆえに行い、他方において、抑制のある人はそれらの欲望が低劣であると 知っているので、理性のゆえに(そういった欲望には)したがわない」(1145b12-14)というパイノメ ナ(定評ある見解)に対して投げかけられる、「正しく考える者たちのうちで、ある者がどのようにア クラシアーにふるまうのだろうか」(1145b21-22) というアポリアーである。アポリアーがソクラテス の立場を示している。このパイノメナとアポリアーの対立をアリストテレスは調停しようとした。こ の調停に関わるアリストテレスの考察の解釈上の問題について、筆者は1980 年代以降の論争を整理し、 小前提着目モデル、結論着目モデル、大前提着目モデルに分類した。この中から、筆者は結論着目モ デル、とりわけ、アクラテースの知識は知識体系の中に位置付けられていないというD. Charles の解 釈を採用したうえで、知識(命題)の問題がアクラシアーの中心的な論点であることを論じた。 また、EN 第 7 巻第3章における知識 (επιστήµη) 概念には何らかの揺らぎがあるように見える点 について考察した。学問的知識、すなわち論証的な知識がアリストテレスの基本的な知識理解であり、 それをEN 第 7 巻第3章に適用することは可能である。そうであるからこそ、「本来の意味での知識と 考えられるもの」と「知覚に関わる知識」という、厳密な知識定義とは異なる表現がなされると考え られる。すなわち、アリストテレスが用いる「知覚に関わる知識」は個別的命題の知であり、「本来の

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3 意味で知識と思われるもの」はソクラテスの述べる、持っていれば誤らない知識のことである。自制 心のない行為者は、情念の状態にある時には「知識に由来しない言葉」を述べる。すなわち、そのこ とがらに関する論証が不十分な状態となる。アリストテレス行為論の要諦は、行為者に本来の意味で の知識が身に付いているかどうかという点にあると考えられる。 結論 意志概念ありの行為論では、知は直接行為に結び付くのではなく、意志を媒介することで一旦棚上 げになる。行為者の欲求と判断を踏まえつつ、行為を決定するのは行為者の意志である。他方で、ア リストテレスの意志概念なしの行為論では、性格と行為が直結している。そこでは、性格が正しい目 的を定めて、知が行為者に内在して行為を正しくする。大前提は目的に基づき、習慣によって一般化 したあらわれにしたがって、その命題内容が決まるのである。そして、知は独立ではたらきをなすの ではなく、性格を反映した大前提に行為の方向性が決められている。行為が正しく遂行されるように、 知は大前提を踏まえつつ小前提に対してはたらく。性格を中心とするアリストテレスの行為論は、他 者の賞讃や非難による評価もはたらきつつ、行為者に形成された状態が行為を決めるという、意志概 念ありの行為論よりも一歩踏み込んだ行為論である。 補論

ハイデガーのアリストテレス研究の成果とその影響を『存在と時間』(Sein und Zeit、以下「SZ」と 表記)に見出す試みを行った。ハイデガーの「決意性 (Entschlossenheit)」とその対概念である「非 決意性 (Unentschlossenheit)」の現象に焦点を当て、アリストテレス行為論との連関を整理した。現 存在の開示態の際立った様態である決意性が、思慮の解釈されたものであり、その決意性において「現 存在の本来的な真理であるがゆえに最も根源的な真理が獲得され」(SZ 221) る。この真理の獲得は「存 在解釈の理解的=解釈的手続きの方法的透明さ」(SZ 230) を確保し、決意性こそが初めて現存在に「本 来的な透察性を与える」(SZ 299) という。このことから決意性を、真理を捉えること、すなわち一種 の真理現象と理解することができる。 また、筆者は非決意の人にアリストテレスの自制心の無い人の影響を見ることを試みた。アリスト テレスは、ある種の知のあり方を認めることで、自制心の無さという性格が存在することを論証しよ うとした。この論争が示すのは、自制心の無さの問題は一種の真理論であり、曖昧な知が分析の対象 となっているということである。そこでは、何をもって本当に知っているといえるのかが問われてい る。一方、ハイデガーは実存の真理を問題とし、非決意性における現存在が、いかに真理を掴みとれ ずに存在しているかという様態を描く。ハイデガーの真理論の観点から、非決意性における現存在は 真理の「被暴露性」(SZ 223) の反対で「隠蔽されている」(SZ 225) 状態にある。非決意性もまた真理 において描かれる現象であり、それゆえに決意性・非決意性ともに第一に真理を対象とした現象であ る。SZ には EN の影響が見られ、構造的な類似点を見出す余地は十分にある。

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