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明末の財政管理について ─戸部清吏司の職掌を中心として─

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明末の財政管理について ─戸部清吏司の職掌を中

心として─

著者

時 堅

雑誌名

集刊東洋学

114

ページ

87-108

発行年

2016-01-18

URL

http://hdl.handle.net/10097/00129915

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87 明末の財政管理について(時)

明末の財政管理について

戸部清吏司の職掌を中心として

     

はじめに 一 六 世 紀 以 降、 銀 の 大 量 流 入 が 中 国 の 本 位 貨 幣 を 銀 両、 また補助貨幣を銅銭とする貨幣体制の成立を促した。こう し た 時 代 の 変 化 に 対 応 す べ く、 明 朝 は 万 暦 九︵ 一 五 八 一 ︶ 年に一条鞭法を全国に施行するなど一連の財政改革を行っ た。張居正の改革に始まる所謂﹁万暦中興﹂である。以降 崇禎十七︵一六四四︶年に至る半世紀強のあいだ明朝はこ の新たな体制のただなかに在ったのである。銀財政が普及 し貨幣体制が変容するにつれて、財政管理の方法はどのよ うに変化したのであろうか。また後継の清朝は、明朝の万 暦前期以降の財政管理の変化を如何に受け入れたのであろ うか。こうした諸問題を解決できなければ、明末清初にあ たる一七世紀の中国、そして明清の連続性に対する理解は 不可能であろう。 その変化が財政官庁の機構に現れることは想像に難くな い。戸部は全国の土地、人口、税金などを管理して国家財 政の制定や施行を担当する、六部の重要な一角を占めてい た。ただし明代の官僚制度研究では、内閣、巡撫、科道官 ︵ 給 事 中 と 御 史 ︶ と い っ た 明 朝 を 特 徴 づ け る 官 職 に つ い て 多くの蓄積がある が ︶1 ︵ 、中央官庁として大きな役割を果たし た 六 部 に 関 す る 研 究 は 残 念 な が ら ほ ぼ 存 在 せ ず、 ﹃ 大 明 会 典﹄ 、﹃明史﹄に基づいてその機能が概説的に叙述されてき たにすぎな い ︶2 ︵ 。 し か も こ う し た 研 究 に は 欠 点 が 存 在 し て い る。 そ れ は、 最後の ﹃大明会典﹄ となる ﹃万暦会典﹄ が万暦十五 ︵一五八七︶ 年 に 編 纂 さ れ た た め、 ﹃ 会 典 ﹄ に よ る 限 り、 万 暦 前 期 か ら 明朝滅亡にかけての半世紀強の間に戸部がどう変化したの か知るすべはない。また﹃明史﹄は次代の清により編纂さ れたものの、その﹁職官志﹂は概して﹃万暦会典﹄を踏襲 集刊東洋学 第一一四号 平成二十八年一月 八七 −一〇八頁

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88 す る の み に 過 ぎ ず、 そ の 後 の 経 過 を 見 る こ と は で き な い。 特に戸部の事務方たる清吏司は明前期の十三清吏司より少 なくとも新たに三つの清吏司が増設されたが、言うまでも なく従来においての新三清吏司の職掌と地位は不明であっ た。 明 末 の 戸 部 に 関 す る 官 撰 の 政 書 は 殆 ど 残 存 し て い な い が、幸いにも第二節で詳述する﹃度支奏議﹄に収められた 上奏文から、当時の戸部各清吏司の詳細な業務内容を検討 することができ る ︶3 ︵ 。したがって、本稿では万暦初期以降に おける戸部各清吏司の職掌に対する解明を通じて、明末の 財政管理の特徴を分析し、その特徴が明清両王朝において 如何に位置づけられるか展望していく。 本稿の構成としては、まず﹃万暦会典﹄以前における戸 部各清吏司の設立と人員構成を分析したうえで、清吏司の 職掌の変化の傾向を捉える。続いて﹃万暦会典﹄以降にお ける各清吏司の職掌を解明し、この傾向がどのように発展 していくのか検討する。最後に、新設された三清吏司の性 格を明らかにしたうえで、明末の財政管理の特徴を論じて いく。 第一節、戸部清吏司の設立と人員構成 本節では十三清吏司に関する設立と人員構成を検討して いく。 明朝建国の際、最高の中央官庁である中書省には四部の みが設置され、それぞれ銭穀、礼儀、刑名、営造を掌って いたが、洪武元︵一三六八︶年八月、中央官庁は四部から 六部へ改組され、戸部はここで中央六部の一つとして成立 したのであ る ︶4 ︵ 。そして洪武五︵一三七二︶年六月、戸部及 び戸部に所属する総部、度支部、金部、倉部の四官庁に関 する職掌が定められ た ︶5 ︵ 。洪武十三︵一三八〇︶年正月、太 祖は胡惟庸の獄を契機として中書省を廃止し、六部の地位 と品級を上げ た ︶6 ︵ 。洪武二十三︵一三九〇︶年九月、戸部従 来の四官庁である総部・度支部・金部・倉部は十二部に分 けられ た ︶7 ︵ 。洪武二十九︵一三九六︶年五月、太祖は六部そ のものと所属の下部官庁がともに﹁部﹂と呼ばれて区別し 難 い た め、 ﹁ 部 ﹂ を 清 吏 司 へ 変 更 し た ︶8 ︵ 。 こ う し て、 洪 武 年 間の時点で、戸部には、十二清吏司、即ち河南清吏司、北 平清吏司、山東清吏司、山西清吏司、陜西清吏司、浙江清 吏司、 江西清吏司、 湖広清吏司、 広東清吏司、 広西清吏司、 四川清吏司、福建清吏司が成立したのである。そして永楽 元︵一四〇三︶年二月、成祖が北平の地位を上げるべく北

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89 明末の財政管理について(時) 平に関する官庁に対して一連の変更政策を行った際、北平 清吏司は北京清吏司へと改められ た ︶9 ︵ 。永楽十八 ︵一四二〇︶ 年十一月、北京清吏司を廃止し、雲南、交阯、貴州三清吏 司を設置し た ︶10 ︵ 。宣徳十︵一四三五︶年五月には、交阯清吏 司が廃止され た ︶11 ︵ 。ここで、戸部十三清吏司が完成したので ある。 ﹃ 正 徳 会 典 ﹄ に よ れ ば、 十 三 清 吏 司 は 基 本 的 に そ の 名 称 に対応する各省を管理しており、また各清吏司はその事務 の多寡に基づいて北直隷・南直隷に所属する府・衛の事務 を分担し た ︶12 ︵ 。こうした状況は万暦の張居正改革まで維持さ れていた。万暦三︵一五七五︶年に戸部尚書の王国光は各 清吏司へ明確に責任を帰すべく、北直隷の府・州・衛を福 建清吏司、南直隷の府・州・衛を四川清吏司に専掌させる とともに、注目すべきこととして、全国の塩課の管理を山 東清吏司へ帰属させることを提案し、裁可を得 た ︶13 ︵ 。 以上、万暦初期までの戸部各清吏司の設置と沿革を概観 してきた。戸部尚書王国光の戸部改革以前、各清吏司の管 轄範囲は基本的に省の範囲という地理条件に基づいて明朝 の財政任務を分担していた。 北直隷 ・ 南直隷における府 ・ 州 ・ 衛はそれぞれの清吏司に雑然と分配されていた。 また塩課、 関税のような財政の専門項目は関わる省が単一の省ではな いため、各清吏司に責任を持たせる際にはやや行政効率が 悪かった。改革の後には、北直隷、南直隷の財政を福建清 吏司、四川清吏司の管理としたばかりでなく、財政の専門 項目をも特定の清吏司へ帰属させた。 こうした改革は、 諸々 の清吏司の責任範囲を明らかすると同時に国家財政管理の 専門化を促進することになった。したがって、万暦三年の 戸部改革は洪武二十三年に戸部が総部・度支部・金部・倉 部から十二部に分けられて以来、最も重要な改革と言えよ う。しかも同時期には戸部の官僚員数について大規模な改 革が行われたのである。そこで以下より戸部人員の増減を 検討しよう。 こ こ で 作 成 し た 表 一﹁ ﹃ 正 徳 会 典 ﹄・ ﹃ 万 暦 会 典 ﹄・ ﹃ 度 支 奏議﹄にみえる戸部構成の変化﹂では、 ﹃正徳会典﹄と﹃万 暦会典﹄ の﹁官制﹂ 、﹃度支奏議﹄ ﹁広東司﹂ の崇禎二 ︵一六二九︶ 年の﹁題議裁汰本部冗員疏﹂により、異なる時期における 戸部構成の変化を追っ た ︶14 ︵ 。 ﹃正徳会典﹄ によれば、 各清吏司の属員ははじめ郎中一員、 員外郎一員、主事一員により構成されていたが、正徳年間 ま で に や や 増 員 さ れ て い る。 そ の 過 程 で 正 統 十 四 ︵ 一 四 四 九 ︶ 年、 主 事 は 十 三 人 増 加 し た。 と い う の も 同 年 九月にはエセンにより北京が包囲され、戸部は進士、知県 から十三人を選抜し、北京各門を防衛する軍隊の食糧を管 理せしめ た ︶15 ︵ 。そして﹃正徳会典﹄によれば、 土木の変の後、

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90 山東司主事一人、福建司主事一人が削減されたものの、他 の十一人はすべて正徳年間まで保持された。 なお正徳年間から万暦初期にかけて、主事の人数は全体 的にあまり変わらな い ︶16 ︵ 。ただし郎中が六人増加したのは注 目を要す。嘉靖年間、 北元のアルタンは明朝に対する朝貢 ・ 互 市 の 問 題 を 巡 っ て、 頻 繁 に 明 朝 に 侵 入 し 略 奪 を 行 っ た。 これを背景に、これらの郎中には﹁総理密雲糧儲﹂など具 体的な業務内容が課され た ︶17 ︵ 。 しかもそれ以降、 戸部の人員は徐々に増加していく。 ﹃度 支奏議﹄には崇禎二年の時点の人員が明示されているわけ だが、万暦初年と比べると、主事は十一人増えている。万 暦四十六︵一六一八︶年、後金が明朝に対する戦端を開い てから明朝は対金戦争を続けていた。 ﹃熹宗実録﹄ によれば、 天啓年間︵一六二一∼一六二七︶において、数多くの主事 を地方に派遣し た ︶18 ︵ 。これは正統十四年の土木の変における 主事の大規模の増加と同様に、まさに業務の拡大によるも のである。なお崇禎二︵一六二九︶年、戸部の官員には大 規模に削減されている。これは業務の減少によるものでは なく、膨大な軍事費を捻出するために少しでも支出を削減 すべくなされたものであ る ︶19 ︵ 。というのも、新設されたもの のうち遼寧にあった寧遠餉司と東江餉司は、第三節で詳述 する対金戦争のための新税である新餉を受領する最前線に あり財源を効率的に管理するために保留されているのであ る ︶20 ︵ 。 以上、本節で﹃会典﹄と﹃実録﹄の記載により、明代を 通 じ た 十 三 清 吏 司 の 設 置 と そ の 人 員 の 沿 革 を 概 略 に 述 べ た。戸部においては、主事・郎中の規模が軍事活動の頻発 によって拡大してきた。とりわけ、増設された郎中の事例 から考えると、嘉靖年間以降の頻繁な軍事活動は財政管理 表一  『正徳会典』・『万暦会典』・『度支奏議』にみえ る戸部構成の変化 清吏司 主事 員外郎 郎中 浙江司 4→ 4 → 6 1→ 1 → 1 1→ 1 → 1 江西司 4→ 4 → 5 1→ 1 → 2 2→ 1 → 1 湖広司 4→ 4 → 4 1→ 1 → 1 1→ 1 → 2 陝西司 4→ 4 → 6 11→ 1 → 1 1→ 3 → 3 広東司 4→ 2 → 2 1→ 1 → 1 1→ 1 → 1 山東司 4→ 3 → 5 1→ 1 → 1 2→ 2 → 2 福建司 4→ 4 → 6 1→ 1 → 1 1→ 1 → 1 河南司 4→ 4 → 5 1→ 1 → 1 1→ 1 → 1 山西司 5→ 4 → 4 1→ 1 → 2 3→ 4 → 4 四川司 4→ 3 → 3 1→ 1 → 1 1→ 1 → 1 広西司 4→ 2 → 3 1→ 1 → 1 1→ 1 → 1 貴州司 4→ 3 → 3 1→ 1 → 1 1→ 3 → 3 雲南司 5→ 9 → 9 1→ 1 → 1 1→ 3 → 3 それぞれの項目の左偏は正徳 4 年(1509)、中央は 万暦 15 年(1587)、右偏は崇禎 2 年(1629)のもの。

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91 明末の財政管理について(時) の専門化をも促したことが窺えるのである。 第二節、崇禎年間における清吏司の職掌の実態 第一節では戸部の財政管理が専門化していく傾向を概略 した。次いで本節では﹃度支奏議﹄より、この傾向が明末 に至ると、 如何に発展していくか分析してみよう。まず ﹃度 支奏議﹄とその編者の畢自厳を概略的に紹介する。 畢 自 厳 は 字 景 曾、 山 東 済 南 府 淄 川 県 の 出 身、 万 暦 二 十 ︵一五九二︶ 年の進士である。南直隷松江府推官、 刑部主事、 工部員外郎の後、淮徐兵備道に就き、その後には万暦四十 ︵ 一 六 一 二 ︶ 年 か ら 四 十 八︵ 一 六 二 〇 ︶ 年 の 八 年 を 西 北 の 辺境で勤務した。そして泰昌元︵一六二〇︶年太僕寺卿に 任命され、翌年の天啓元年、初代天津巡撫となり、天啓六 ︵ 一 六 二 六 ︶ 年 ま で 天 津 で 遼 東 の 事 務 を 担 当 し て い た。 そ の後、南京都察院右僉都御史を経て、南京戸部尚書となっ た。しかし、在任期間中に魏忠賢と対立したため、健康問 題を理由として辞任することとなった。そして魏忠賢誅殺 後 の 崇 禎 元︵ 一 六 二 八 ︶ 年 に は 戸 部 尚 書 と な り、 崇 禎 六 ︵ 一 六 三 三 ︶ 年 ま で 中 央 政 府 の 財 政 を 掌 っ て い た ︶21 ︵ 。 畢 自 厳 は国家の田賦を整理する﹃賦役全書﹄の作成を志したもの の完成できず、在任期間の戸部の公文書を取り纏め﹃度支 奏 議 ﹄ を 編 纂 し た。 ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ は﹃ 賦 役 全 書 ﹄ の 不 完 全 な草稿にあたるのであ る ︶22 ︵ 。 この ﹃度支奏議﹄ は畢自厳が戸部尚書として上奏した ﹁堂 稿 ﹂︵ 表 二 冒 頭 ︶ の ほ か、 各 清 吏 司 が そ れ ぞ れ の 業 務 内 容 に応じて上奏した文書を収める﹁浙江司﹂などにより構成 される。なお編目には前述の十三清吏司の他に﹁新餉司﹂ 、 ﹁ 冊 庫 司 ﹂、 ﹁ 辺 餉 司 ﹂ の 三 清 吏 司 の 文 書 が 見 ら れ る。 こ れ らはみな泰昌・天啓年間に設置された清吏司で詳細な分析 が必要であるため、第三節で論じることとする。その上奏 の内容により各清吏司の職掌を判断し、表 二 ︶23 ︵ を作成した。 総論である﹁堂稿﹂ 、 後述する﹁新餉司﹂ 、﹁冊庫司﹂ 、﹁辺 餉司﹂は一先ず措き、旧来の十三清吏司について、その数 値を統計的に分析すると、以下の三点を指摘することがで きるだろう。 ①   担当地域の事務と全国財源の管理の関係 ﹁ 各 司 ﹂ に 収 め ら れ る 上 奏 文 で 両 京 十 三 省 の 当 地 と 関 係 するものは相対的に少ない。 ﹁浙江司﹂ から ﹁貴州司﹂ まで、 管轄区域の事務と関係する上奏文は二百九十八本が存在す るが、それらは全上奏文の四十%を占めるに過ぎない。そ して本省の事務の比率が高い﹁福建司﹂ 、﹁四川司﹂を除外 す れ ば、 当 地 の 事 務 と 関 係 す る 上 奏 文 は 一 五 五 本 の み で、

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92 僅か全体の二十六%を占めるに過ぎない。一方、塩政、漕 運、関税、倉・場などという財政上の専門項目に関する上 奏文は数多い。例えば﹁雲南司﹂に収められる上奏文はほ ぼ漕運のことを述べている。収録された上奏文の数は﹁新 餉司﹂ 、﹁堂稿﹂に続いて、三番目であり、二三七本に達し て い る。 ﹁ 山 東 司 ﹂ に 所 収 さ れ る 塩 課 の 上 奏 文 は 七 八 % を 占 め て い る。 ﹁ 広 西 司 ﹂ の 場 合 は、 倉・ 場 の 管 理 に 関 す る 上 奏 文 が 四 十 九 本 あ る が、 ﹁ 広 西 司 ﹂ の 全 体 の 九 六 % を 占 表二 上奏文の分類 「巻数」本数 本省の事務 専門的項目 その他 堂稿 「20」352 浙江司 「1」4 13(92.9%) 0 1 江西司 「1」4 4(100%) 0 0 湖広司 「2」31 31(100%) 0 0 福建司 「4」67 福建 10(14.9%)、 北直隷57(85.1%) 0 0 山東司 「7」122 山東 8(6.6%)、 遼東 6(4.9%) 塩課 95(77.9%) 13 山西司 「2」31 27(87.1%) 捐納 4(12.9%) 0 河南司 「1」9 9(100%) 0 0 陝西司 「4」56 46(82.5%) 茶法 6(10.7%)、 賦役全書4(7.1%) 0 四川司 「5」67 四川 8(11.9%)、 南直隷59(88.1%) 0 0 広東司 「1」9 2(22.2%) 戸 部 内 の 人 事 6 (66.7%) 1 広西司 「4」51 2(3.9%) 倉・場の管理 49 (96.1%) 0 雲南司 「17」241 4(1.7%) 漕運 237(95.0%) 8 貴州司 「2」29 12(41.4%) 鈔関 17(58.6%) 0 新餉司 「36」699 0 新 餉 の 管 理 699 (100%) 0 冊庫 「1」8 0 全 国 収 支・ 滞 納 状況 3(37.5%) 5 辺餉司 「11」167 0 旧 餉 の 管 理 167 (100%) 0 総計 「119」1957 括弧内は比率。「本省の事務」とは省内の財政及び『万暦会典』で 規定される地域の財政を指す。「専門的項目」とは捐納など全国規 模の財源の管理を指す。「その他」には上記両者として分類し難い ものである。

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93 明末の財政管理について(時) めている。 したがって、地名が名づけられた各清吏司は、各地方の 税金に関する事務を担当するというより、それぞれに割り 振られた財政項目の処理こそが主要対象となっていたと言 えよう。 ②   戸部が重視していた財政問題 ﹁ 各 司 ﹂ に 収 録 さ れ る そ れ ぞ れ の 分 類 の 上 奏 文 の 数 と 内 容によって、当時の財政的問題やその原因についてある程 度判断できる。両京十三省の中で、管轄区域の事務のみに 関する上奏文がやや多いのは ﹁湖広司﹂ である。ただし ﹁湖 広司﹂で七割を超えた上奏文︵三十一本中の二十一本︶は 湖広省における王府贍田のことである。ここには恐らく以 下の二つの理由があろう。一つは明末︵崇禎年間︶の時点 では、明朝の各省の中で湖広省に分封された藩王が最も多 く、 持つ土地面積も最も広かったことであ る ︶24 ︵ 。もう一つは、 恵王、桂王が湖広省に移封されたばかりであったことであ る ︶25 ︵ 。 王 府 に 関 す る 類 似 し た ケ ー ス は﹁ 福 建 司 ﹂、 及 び﹁ 山 東 司 ︶26 ︵ ﹂でも発見することができる。明末にいたると、藩王 に支給される俸禄は財政支出全体から見れば大きな割合を 占めるものでは無かったであろうが、藩王、外戚などは臣 下たる者が安易に処置できない難題であったことだろ う ︶27 ︵ 。 福建清吏司は北直隷の事務を担当している。北京は国家 の辺境に程近く、また国家の首都でもあったため、明末に も数度にわたって清朝の侵入を受け た ︶28 ︵ 。ここで北直隷が清 朝により蹂躙されたため、こうした地方の税金免除の検討 に関する上奏文が﹁福建司﹂に多く収録された。 一方、南直隷に触れた上奏文が多いのは、両京の一つと しての南京の政治的地位に起因するというよりも、むしろ 地域の果たす経済的な役割が理由であろう。南直隷は明朝 の漕運の中で、非常に大きな役割を果たしていたからであ る。明朝の漕運の責任者である漕運総督はもともと鳳陽巡 撫を兼任す る ︶29 ︵ 。その上、漕運を形成する重要な要素であっ た南糧と白糧に関する問題も﹁四川司﹂の中に頻繁に出現 す る ︶30 ︵ 。 後 述 す る が 漕 運 は ま こ と に 重 要 で あ り、 ﹁ 四 川 司 ﹂ に南直隷に関する上奏文が数多いのは怪しむに足りない。 陝西省と山西省の事務に触れる上奏文が多いのは、北直 隷の状況と同様に、陝西省と山西省が明朝の辺境線に位置 し、九辺十三鎮に属したためであろう。 漕運については当時、戸部尚書の畢自厳が軍事費と同様 に極めて重視していたことが確認でき る ︶31 ︵ 。収録される上奏 文の数と畢自厳の認識から、漕運が国家財政の中に非常に 重要な位置を占めていたことは疑いない。また畢自厳の認 識では塩税も重要であり、特に両淮の塩税が財政上の重要

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94 な項目であっ た ︶32 ︵ 。塩税は土地税に続いて、国家財政収入の 中で大きな割合を占めてい る ︶33 ︵ 。また広西清吏司が掌る北直 隷の倉・場に注意しなければならない。場の一種である草 場の管理は馬政と深く関係しており、馬政は軍政と深く関 係する。しかも、 明末に入ると、 膨大な兵餉を支えるため、 軍馬の草料である巡青銀は何回も流用され た ︶34 ︵ 。収録される 四十九本の上奏文から、国家における倉・場の重要性を知 ることができるのである。 要するに、上奏文の数においても、内容においても、戸 部が各地方のそれぞれの財政事務より、財政の専門的項目 の管理を重視していたと言い得るのである。 ③   ﹃万暦会典﹄に出現しなかった職掌 表二の内容と﹃万暦会典﹄が記載する戸部清吏司の職掌 を比較すると、 ﹃会典﹄には捐納、茶法、賦役全書の制定、 戸部内の人事に関する業務を見出すことはできない。捐納 とは売位売官制度のことである。前近代の中国では、自然 災害や軍事行動という突発的な需要に対して、その財政構 造 の た め 弾 力 的 な 増 税 が 難 し く、 捐 納 政 策 を 行 っ て き た ︶35 ︵ 。 崇禎年間においても、東北部における後金の進出や反乱の 平定のための軍事費が財政を圧迫し、政府にとって捐納は 重要な財政収入確保の手段であった。そのため、捐納政策 は重要な財政収入の手段の一つとなり、明末には重要視さ れた。そして捐納政策に対する管理を個別に扱う清吏司と して山西清吏司が割り当てられた。 次いで茶法について述べよう。先行研究、及び﹃万暦会 典﹄においては、陝西清吏司が茶法を管理することは全く 述べられな い ︶36 ︵ 。しかし﹃度支奏議﹄では、兵部尚書の梁延 棟が茶法は陝西清吏司の管轄であると明言しており、陝西 清吏司が茶法を管理していたことが確認できるのであ る ︶37 ︵ 。 また﹃度支奏議﹄に収められる多くの上奏文の中で、た だ ﹁陝西司﹂ にのみ賦役全書の編纂に関する上奏文がある。 ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ の﹁ 広 東 司 ﹂ の 四 本 は 戸 部 の 人 事 案 の 調 整 であ る ︶38 ︵ 。また﹁堂稿﹂には、広東清吏司の調査により、出 張中の戸部属員を帰任させる記事があ る ︶39 ︵ 。しかも﹃万暦会 典﹄や明中期の政書﹃皇明條法事類纂﹄には広東清吏司の 人事担当記事は見られない。つまり万暦以降、広東清吏司 が 部 内 の 人 事 案 の 調 整 を 掌 る よ う に な っ た 可 能 性 が あ る ︶40 ︵ 。 山西清吏司、陝西清吏司には元々人数が多いため、余裕を もって新任務が担当できたかもしれないが、広東清吏司に は、郎中も一人、員外郎も一人しか配置されていな い ︶41 ︵ 。し かし、明末各地における税金の滞納状況を調べると、広東 省に割り当てた新餉・旧餉は少なく、さらに滞納問題がほ とんど生じていな い ︶42 ︵ 。したがって、業務内容の多寡により

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95 明末の財政管理について(時) 新任務が広東清吏司へと割り振られた可能性すらありえよ う。 弘治七︵一四九四︶年十二月を下限とする﹃皇明條法事 類纂﹄ ﹁戸部類﹂ ︵巻十二∼巻二十︶には、山東清吏司が塩 政を担当する事 例 ︶43 ︵ こそ存在するものの、管見のかぎり上述 したような茶法や人事関係などへの関与は現れない。した がって、こうした職掌は明朝後期より漸次出現した可能性 がある。 以上、十三清吏司が万暦前期以降、業務の内容、及び重 視した方面を分析した上で、職掌の発展を検討した。第一 節で述べたように、正徳以降の郎中の増加は、財政項目管 理の専門化の進行を表していた。万暦初期、戸部尚書王国 光の戸部改革はその専門化をさらに促進した。明末に捐納 や 人 事 の よ う な 新 職 掌 が 出 現 し た こ と を 合 わ せ 考 え る と、 明代の戸部における業務の分担はますます専門化していく 傾向にあっただろう。これから第三節で述べる新餉司、冊 庫司、辺餉司の事例をみれば、そのような傾向はより一層 明らかとなる。 第三節、新餉司、冊庫司、辺餉司の出現 明末に入ると、遼東軍事に対応するため、三つの清吏司 が続々と新設された。泰昌元年︵一六二〇年︶九月、戸部 尚書の李汝華の申請により、遼餉事務を専門に処理するた 新 餉 司 が 創 立 さ れ た ︶44 ︵ 。 ま た 天 啓 元︵ 一 六 二 一 ︶ 年 十 二 月、 十三清吏司の金銭・物資を総体的に管理させるため、冊庫 司が設置され た ︶45 ︵ 。そして天啓七︵一六二七︶年八月、辺餉 を監督する専門官が設置され、辺餉司が創られ た ︶46 ︵ 。こうし た三司の具体的な業務について、これから検討する。新餉 と辺餉にはやや複雑な関係があるため、まず冊庫司を分析 する。 ﹃ 度 支 奏 議 ﹄﹁ 冊 庫 ﹂ は 一 巻 八 本 の 上 奏 文 を 収 め て い る。 冊庫司は全称を冊庫山西清吏司といい、 ﹃実録﹄によれば、 十三清吏司の歳入状況を管理してい る ︶47 ︵ 。また崇禎二年五月 一日に提出された上奏文によれば、冊庫司は各省からの歳 入状況のみならず、 ﹁省直之完欠﹂ ︵全国の税金の徴収状況︶ を も 管 理 し て い た こ と が 確 認 で き る ︶48 ︵ 。﹁ 冊 庫 ﹂ に 収 め ら れ る上奏文は少ないが、それらはほとんど全国各地の財政項 目と関係す る ︶49 ︵ 。しかも天啓年間の戸部尚書李起元の上奏文 によれば、冊庫司は税金の徴収状況のみならず、税金の徴 収に対する考成法による査定も管理してい た ︶50 ︵ 。したがって、 冊庫司は戸部の中の会計部局といった存在であり、しかも 地方官の人事査定にも関わる重要な機関であったことが分 かるのである。

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96 新 餉 司 は 全 称 を 専 理 新 餉 山 東 清 吏 司 と い う ︶51 ︵ 。﹁ 新 餉 司 ﹂ に収録される上奏文は各司の中で最多であり、すべて新餉 の徴収や使用、或いは対金戦争の軍事費に関するものであ る。辺餉司は全 称 ︶52 ︵ が判明しないが、新餉以外の九辺十三鎮 の兵餉を担当することを確認できる。 前述したように、新餉司は新餉を管理し、辺餉司はそれ 以外の辺鎮兵餉を管理する。それでは新餉、 辺餉、 及び﹃度 支奏議﹄に頻出する旧餉、遼餉、京運年例などの兵餉とは 具体的には何を指すのであろうか。既存の研究を検討しつ つ解明していく。 まず、京運年例銀と民運銀を確認しよう。京運年例銀と は、毎年、戸部により管理される太倉、及び内帑に所属す る内承運庫から、辺鎮に分け与えられる軍費である。京運 年例銀は正統年間以前には現物を中心としたので、京運年 例 と 呼 ば れ、 正 統 年 間 以 後 に 銀 の 徴 収 に 変 更 さ れ た た め、 京運年例銀と呼ばれるようになった。民運銀とは華北各地 から辺鎮へ直接輸送される様々な現物であり、京運年例銀 のように、正統年間以降、一部の現物は銀に換算して納入 することを業務づけられ、それが﹁民運折色銀﹂と呼ばれ ることとなった。京運年例銀、民運銀はいずれも国家の正 額の収支であ る ︶53 ︵ 。 研究者によって見解が相異するのは旧餉、新餉、遼餉で ある。李華彦は、遼餉は旧餉と新餉により構成され、旧餉 は万暦末期、九厘銀を追加する前の土地税の加派を指すと 述べ た ︶54 ︵ 。そして、李氏は旧餉、新餉、京運年例はそれぞれ 独立するものと考え た ︶55 ︵ 。朱慶永は、泰昌元︵一六二〇︶年 ﹁ 新 餉 庫 ﹂ が 創 立 さ れ て 太 倉 庫 か ら 独 立 し て、 遼 餉 を 専 管 するようになって以降、嘉靖三十年代以来全辺鎮に対して 支給されていた兵餉が旧餉と呼ばれるようになったと述べ た ︶56 ︵ 。林美玲は、万暦末期に行なわれた土地税の加派︵即ち 九厘銀︶が遼餉であり、遼餉はまた新餉と呼ばれ、新餉に 対する旧餉が辺餉であると述べ た ︶57 ︵ 。ただし、辺餉の構成に ついては具体的に言及していない。吉尾寛は、遼餉は新餉 とも呼ばれ、土地の加派銀をはじめとして塩課・関税の加 派銀などの銀両から構成され、対金戦争のため支給されて いたものと述べ、また旧餉は主に京運年例銀、その他太倉 庫に徴解される塩税銀・関税銀などから構成されて支給さ れたものと解釈し た ︶58 ︵ 。 ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ の 多 く の 記 載、 林 氏 の 研 究、 吉 尾 氏 の 研 究 からすれば、明末における遼餉は新餉であり、またそこに は万暦末期の土地税の加派だけではなく、塩税、関税など の加派も含まれるものである。 そして ﹁登答方関院薊密永三協兵餉疏﹂ ︵﹁辺餉司﹂ 巻一、 五冊・四二頁︶の記載からは、当時の官僚たちが新餉、旧

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97 明末の財政管理について(時) 餉をどのような財源として認識していたのか知ることがで きる。 関臣之言曰旧餉、則京運民運是已。⋮⋮関臣之言曰新 餉、則地畝加派是已。⋮⋮自遼事初熾、徴調四出、用 餉如流。加派一議、始於万暦四十六年、逓加至毎畝九 厘則始於万暦四十八年也。 以上の史料からすれば、辺鎮の官僚は、旧餉とは京運年例 銀と民運銀を指し、新餉とは、万暦四十六︵一六一八︶年 以降、行われた土地税の加派を指すことがわかる。 また旧餉について、 ﹁議祛餉司宿蠧十款疏﹂ ︵﹁堂稿﹂ 巻七、 一冊・二六七頁︶には、 計開。 一曰痛革京運庫折之弊。 九辺軍餉除塩兌民運外、 什七仰給京運。 ⋮⋮二曰力滌民運出納之規。 各鎮餉銀、 除京運外、多頼民運。 と あ る。 ま た﹁ 旧 餉 告 匱 辺 鎮 呼 庚 疏 ﹂︵ 堂 稿 ﹂ 巻 一、 一 冊 二八頁︶には、 一曰覈民運之逋欠。国初九辺主客兵餉倶有各省□州□ 民運以資供億、後来間発京帑、不過一時権宜之計、□ 済急需。若民運一分之充足、即京運一分之節省。 とある。以上の史料からは九辺軍餉、京運年例銀、民運銀 という三者の関係を窺え、旧餉は主に京運年例銀と民運銀 により構成されたことがわかる。 ま た 新 餉 司 と 辺 餉 司 の 職 掌 に つ い て、 ﹁ 登 答 方 関 院 薊 密 永三協兵餉疏﹂ ︵﹁辺餉司﹂巻一、 五冊・四二頁︶には、 臣部所発者、旧餉則属辺餉司箚付、旧庫有巡視科院在 焉。新餉則属新餉司箚付、新庫有督餉御史在焉。 とある。また﹁覆薊鎮餉司呂一奏収放餉銀数目疏﹂ ︵﹁貴州 司﹂巻一、 八冊・一五九頁︶には、 本司︵貴州清吏司︶以旧餉係辺餉司所発、新餉係新餉 司所発⋮⋮。 と あ る。 要 す る に、 新 餉 司 は 主 に 新 餉︵ 遼 餉 ︶、 即 ち 万 暦 四 十 六 年 以 降 に 行 わ れ た 土 地 税 の 加 派 を 主 と し て、 塩 課・ 関税などの加派銀も含まれる税金に関する収支を掌ってい る。また辺餉司は主に辺餉、即ち、京運年例銀と民運銀を 主 と し て、 太 倉 庫︵ 即 ち 新 餉 を 預 け る 新 庫 に 対 す る 旧 庫 ︶ に徴解される塩課銀・関税銀も含まれる税金に関する収支 を掌っている。 以上、新餉司、辺餉司、冊庫司の職掌に関して検討して きたが、この三清吏司は戸部の中にどのように位置づける ことができるだろうか。つまり三清吏司は従来の十三清吏 司の下で運営するか、それとも全十六清吏司として存在す るかという問題である。まず冊庫は﹃熹宗実録﹄の記載か ら確認できる。 ﹃実録﹄ 巻八十六 ・ 天啓七年七月戊寅条には、 戊寅。戸部尚書郭允厚疏陳八款、大略為欲 覈 辺餉当厳

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98 冊庫之職掌、欲足京糧当除流動之名目。十三司各有分 職、然所轄者止一省耳。有此省銭糧而為彼省用者、不 与聞也。有本司止存入数而為別司之出数者、 不与聞也。 有此項銭糧参罰而別項之応罰応開、不与聞也。一部之 中、藩籬稍隔、呼吸若不相通、惟責成于冊庫、為提綱 挈領之道。応将郎中劉応遇、新創各冊、永遠遵守、更 相交代十三司並銀庫、毎月将月会冊、実実呈堂、送庫 註冊、必使無事不有冊、無冊不用印、一有稽査、信手 拈来、靡不明悉、外則杜各解侵欺興販之弊、内則杜攬 保仮印之姦、有一不備、有一不真、責在理庫之官、即 以冊為考 覈 之殿最也。至于銭糧所以稽遅有司可以藉口 者、則流動不一、 四 字 害 之 耳 。 ⋮ ⋮ 職 此 之 故 、 謂 宜 責 成冊庫。将天啓六年、 奉旨、 已行之歳会冊、 遡至元年、 合六年内総撒、併五年再閏応増之額、逐省細加 啇 確較 数歳之中、以為嘗預派勘合応為定額、寧稍贏余、毋使 匱 歉、 寧 流 動 于 太 倉、 毋 流 動 于 徴 収、 酌 成 会 計 全 冊、 通行海内、可以歴千百年而不弊。仍刊刻成書、送吏戸 二科、並発省直諸司、歳歳行之。庶部司有可摸索、守 令有可秉成、吏書無可顛倒。此一労永逸之道也。因留 冊庫郎中劉応遇、以新陞参議職銜、仍管冊庫、以終其 事。得旨、⋮⋮倶依議。⋮⋮。 とある。戸部は厳密な財政管理を求めるため、十三清吏司 にそれぞれの各省に関する財政状況の報告書を纏め、月一 回その報告書を提出させたうえで、 冊庫司へ送り登録する。 報告書の内容により、 税金の徴収を担当する官員を﹁考成﹂ ︵査定︶する。 ﹁十三清吏司の報告↓戸部へ提出↓冊庫司の 登録↓官員を評定﹂というルートから考えてみれば、冊庫 司は十三清吏司から独立している部局ということだけでは なく、財源管理の十三清吏司から官僚査定の吏部までの各 所とも非常に深い関係があることが分かる。 続 い て 新 餉 司 と 辺 餉 司 を 分 析 し て い く。 ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ に 収 め ら れ る 上 奏 文 の 中 で は、 ﹁ 新 餉 司 ﹂ が 三 十 六 巻、 六百九十九本を占め、 畢自厳が戸部尚書として提出した ﹁堂 稿 ﹂︵ 二 十 巻、 三 百 五 十 二 本 ︶ の 二 倍 以 上 に 達 し て い る。 しかも、元々の内容はこれにとどまらず、畢自厳は﹁新餉 司﹂を編纂する際に二割から三割におよぶ内容を削除した と述べてい る ︶59 ︵ 。所収される上奏文の数量から、当時戸部は 新餉司を非常に重視していたことが分かる。 次 に 新 餉 司 の 設 立 を 再 検 討 し よ う。 新 餉 司 は 泰 昌 元 年 ︵一六二〇年︶ 九月に設立されたが、 万暦四十六年 ︵一六一八 年︶六月には戸部はすでに新餉司の設立を検討し始めてい た。戸部は、六月四日に兵餉の徴解を監督する官員を増設 し、 郎 中 の 肩 書 を 与 え る こ と を 提 案 し た ︶60 ︵ 。 続 い て、 同 月 二十日、主事潘宗顔を戸部山東司郎中専理新餉とした。た

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99 明末の財政管理について(時) だ し 新 餉 の 責 任 者 に 郎 中 の 肩 書 を 与 え た が、 関 防︵ 印 鑑 ︶ を 鋳 造 し て い な か っ た よ う で あ り、 泰 昌 元 年 八 月 十 七 日、 戸部は関防の鋳造を再申請 し ︶61 ︵ 、九月十一日に﹁戸部専理新 餉﹂の関防を郎中楊嗣昌へ与 え ︶62 ︵ 、二十日、新餉司が成立し た ︶63 ︵ 。楊嗣昌の上奏文からは、ここで新設された新餉司は責 任 者 が 楊 嗣 昌 一 人 し か い な い こ と を 確 認 で き る ︶64 ︵ 。 し か し、 崇禎年間に入ると、十人は新餉司に勤めており、その中に 郎中が三人、 主事が一人いる。 ﹃度支奏議﹄ ﹁新餉司序﹂ ︵二 冊・二百八十五頁︶には、 今十人而不佞共事其四、歳月滋久、薪膽相鄰、如蜀之 范子鉱、 亳之薛子邦瑞、 楚之劉子鎬、 上谷之張子鵬 翀 、 皆相与寒沾暑湿⋮⋮。 と あ る。 曾 美 芳 氏 の 研 究 に よ れ ば、 当 時、 范 鉱、 薛 邦 瑞、 張鵬 翀 は郎中であり、劉鎬は主事であ る ︶65 ︵ 。ここからは新餉 司が誕生したのち、責任者の地位が上昇し、権力の象徴た る関防が与えられ、郎中の人数が拡大し、新餉司の地位が ますます重要になっていったことがわかる。また辺餉司に も新餉司と同様に、人数の拡大を確認できるのであ る ︶66 ︵ 。 以上、戸部内の新餉司に対する認識を検討してきた。つ いで戸部以外の他官庁の場合を述べる。遼東経略袁応泰の 認識では、戸部の新餉司は他部の清吏司と並置される存在 であ る ︶67 ︵ 。崇禎三年、崇禎帝は吏部、都察院に以下のように 述 べ た。 ﹁ 今 後 戸 部 侍 郎 は 一 人 が 新 餉 の 責 任、 も う 一 人 が 辺餉の責任を持つべきである﹂ と ︶68 ︵ 。新餉司の新餉管理、辺 餉司の辺餉管理は前文の分析により確実であるが、 ただ ﹃崇 禎長編﹄の記載からは、侍郎が新餉司、辺餉司に対して直 接的に責任を持つかどうかは即断できない。とはいえ新餉 司、辺餉司については皇帝、及び他官庁の認識から重要な 位置であったことを確認できる。したがって、泰昌 ・ 天啓 ・ 崇禎年間における新餉司の発展、及び朝廷の新餉司・辺餉 司に対する認識からすれば、新餉司・辺餉司は従来の十三 清吏司と比べて、非常に重要な地位を有していたと思われ る。 し か も さ ら に 崇 禎 中 期 以 降 に は、 前 述 の 遼 餉 に 続 き、 さらなる付加税の勦餉や練餉の徴収を開始した。それぞれ 勦餉は陸続と発生する農民反乱を平定するための軍事費で あり、練餉は国境ラインにおいて全面的に清兵の侵入を防 衛するための軍事費であ る ︶69 ︵ 。そして練餉には辺餉や新餉と 同様に清吏司の設置が確認されるのであ る ︶70 ︵ 。史料の限界に よって練餉司などについての状況はまだ明らかにはし得な い。しかし新餉司・冊庫司・辺餉司についての本稿での検 討を通じて、戸部の部局が洪武・永楽以来の十三清吏司と いう枠組みを超え、特定財源を専門とする清吏司を陸続と 誕生させるに至ったと言い得よう。

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100 終わりに 第一節では明代の戸部における国所以来の所謂十三清吏 司の設立過程と人員構成を検討してきた。また第二節では 万暦初期以降の戸部に現れた新職掌、及び当時戸部が重視 していた財政問題を述べた。そして第三節では泰昌・天啓 年間に新設された新餉司、冊庫司、辺餉司の職掌とその地 位を論じた。以上の分析によると、業務の多忙による主事 の増加、及び業務専門化的性格を持つ郎中の増加という傾 向は明代を通じて、持続的に表れていた。とりわけ明末に 至ると、遼餉即ち東北部における清朝に対する防衛の軍事 支出は明朝財政の最高度の重要性を持ち、国家が行なった すべての財政政策は遼餉を中心として運営された。こうし た膨大な軍事支出にうまく対応できるように、財源は稠密 に、また厖大になるよう模索され、戸部による財政管理の 効率化が必要とされるようになった。こうした情勢こそが 戸部の部局の拡大そしてそれぞれの清吏司での財政管理の 専門化を促したのであろう。実際吉尾寛は﹁堂稿﹂に基づ き財政データを処理した際に緻密で実務的な方法こそが明 末の特徴の一つであると述べてい る ︶71 ︵ 。本稿で述べた戸部の 職掌の変容はそのような明末的特徴の発露であったと言え る。総じて言えば、万暦前期以降、戸部の各清吏司は担当 地 域 の 財 政 本 省 財 政 ほ か に 専 門 的 財 政 項 目 も 分 担 し て お り、そのうえこの財政項目は時期が進むにつれてより細密 化し、また専門化していった。 なお明朝戸部の発展の特徴を明らかにしてきたが、これ から清朝の戸部についても一瞥しておきたい。清朝に入っ て 以 降、 中 国 本 土︵ China pr oper ︶ の 行 政 区 分 は 明 朝 の 両 京十三省から、大きく変化したが、戸部清吏司の構成につ いては劇的な変化はみられない。この変化とは、ただ四川 清吏司の南直隷︵清朝初期の江南省︶の事務をやめ、その 事務を清朝で新しく創立された江南清吏司に担当させたこ とに過ぎない。各清吏司の職掌から見ると、財政項目の管 理は明朝 ︵万暦時点︶ よりさらに専門化している。ただし、 それはあくまで明末の職掌変容をうけたものであった。と いうのも陝西清吏司が国家の茶法を管理したこと、及び広 東清吏司が戸部における漢族官吏の人事関係を管理するこ とは﹃光緒会典﹄に明確な記載があるのであ る ︶72 ︵ 。この二つ の職掌は﹃万暦会典﹄には記載がなく、明末の戸部にはじ めて見出すことができる。また、明末には山西清吏司が捐 納 事 務 を 担 当 し て い た の で あ る が、 ﹃ 光 緒 会 典 ﹄ で は 各 清 吏司の職掌に捐納をみることができない。しかし戸部の項 目には捐納房なる部局があり、捐納のことを専掌させたこ と が 記 載 さ れ て い る ︶73 ︵ 。 ま た 清 朝 が 中 国 本 土 へ 進 出 し た 後、

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101 明末の財政管理について(時) 万暦四十六年以降の加派は名目上一切撤廃されたが、遼餉 や練餉は中国本土の統一戦争のため、なお徴収されつづけ た ︶74 ︵ 。以上に述べた現象、とりわけ広東清吏司の職掌や捐納 房の出現が明末の戸部と如何なる関係を持つか、また清初 では如何にして遼餉・練餉を管理していたのか、今後の課 題としたい。   注 ︵ 1︶   例 え ば、 内 閣 制 度 に つ い て は 高 橋 亨﹁ 明 代 永 樂 期 内 閣 官 の 性 格 に つ い て ﹂︵ ﹃ 歴 史 ﹄ 一 一 六、 二 〇 一 一 年 四 月 ︶、 ﹁ 明 代 内 閣 職 掌 形 成 過 程 の 研 究 ﹂︵ ﹃ 史 林 ﹄ 九 五︵ 三 ︶、 二 〇 一 二 年 五 月 ︶。 都 察 院 制 度 に つ い て は 小 川 尚﹃ 明 代 都 察 院 体 制 の 研 究 ﹄︵ 汲 古 書 院、 二 〇 〇 四 年 十 月 ︶、 総 督・ 巡 撫 制 度 に つ い て は 辻 原 明 穂﹁ 明 代 巡 撫 の 地 方 常 駐 化 と そ の 意 味 ﹂︵ ﹃ ア ジ ア 史 学 論 集 ﹄ 六、 二 〇 一 三 年 四 月 ︶ に そ れ ぞ れ の 分 野 の 研 究 が 概 略 さ れ て い る。 ま た 大 野 晃 嗣 は﹁ 最 近 の明代官僚制研究﹂ ︵﹃中国史学﹄ 十三、 二 〇 〇 三 年 十 二 月 ︶ で二〇〇三年以前の明代官僚制度の研究を整理した。 ︵ 2︶   王 天 有﹃ 明 代 国 家 機 構 研 究 ﹄︵ 北 京 大 学 出 版 社、 一 九 九 二 年 九 月 ︶。 黄 阿 明﹃ 明 代 戸 部 機 構 及 其 運 作 ︱︱ 以 一 六 世 紀 為 中 心 ﹄︵ 華 東 師 範 大 学 に 提 出 し た 修 士 論 文、 二〇〇五年、 中国国家知識基礎設施 ︵ C N K I︶ から入手︶ 。 ︵ 3︶   ほ か 戸 部 政 書 と し て、 趙 世 卿﹃ 司 農 奏 議 ﹄ 十 四 巻︵ ﹃ 続 修 四 庫 全 書 ﹄﹁ 史 部 ﹂ 第 四 八 〇 冊 所 収、 一 九 九 五 年 ︶、 汪 応 蛟﹃ 計 部 奏 疏 ﹄ 四 巻︵ ﹃ 続 修 四 庫 全 書 ﹄ 第 四 八 〇 冊 に 所 収、 一 九 九 五 年 ︶、 李 起 元﹃ 計 部 奏 疏 ﹄ 十 巻︵ ﹃ 中 国 文 献 珍 本 叢 書 ﹄ に 所 収、 全 国 図 書 館 文 献 縮 微 複 製 中 心、 二 〇 〇 七 年 六 月︶ 、 倪元璐﹃倪文貞奏疏﹄巻六∼巻十二︵ ﹃四庫全書﹄ ﹁集 部 ﹂ 第 一 二 九 七 冊 に 所 収、 一 九 八 六 年 ︶ が 存 在 す る。 本 稿 では﹃度支奏議﹄の補足として利用していく。 ︵ 4︶   ﹃ 太 祖 実 録 ﹄ 巻 三 十 四、 洪 武 元 年 八 月 丁 丑 条、 ﹁ 中 書 省 奏 定 六 部 官 制。 部 設 尚 書 正 三 品、 侍 郎 正 四 品、 郎 中 正 五 品、 員 外 郎 正 六 品、 主 事 正 七 品。 先 是、 中 書 省 惟 設 四 部、 以 掌 銭 穀、 礼 儀、 刑 名、 営 造 之 務。 上 乃 命 李 善 長 等 議 建 六 部、 以 分 理 庶 務。 至 是、 乃 定 置 吏、 戸、 礼、 兵、 刑、 工 六 部 之 官。 ﹂ ︵ 5︶   ﹃ 太 祖 実 録 ﹄ 巻 七 十 四、 洪 武 五 年 六 月 癸 巳 条、 ﹁ 定 六 部 職 掌、 歳 終 考 績、 以 行 黜 渉。 吏 部 掌 天 下 官 吏 選 法、 封 勲、 考 課之政⋮⋮戸部掌天下戸口、 田土、 貢賦、 経費、 銭貨之政。 其属有四、 一曰総部、 掌天下戸口、 田土、 貢賦、 水旱、 災傷。 二 曰 度 支 部、 掌 管 考 校、 賞 賜、 禄 秩。 三 曰 金 部、 掌 課 程、 市舶、 庫蔵、 銭帛、 茶塩。四曰倉部、 掌漕運、 軍儲、 出納、 料 量 ⋮⋮ 各 部 設 郎 中、 員 外 郎、 主 事 分 掌 其 事、 而 以 尚 書、 侍郎総其政務。 ﹂ ︵ 6︶   ﹃ 太 祖 実 録 ﹄ 巻 一 百 二 十 九、 洪 武 十 三 年 正 月 癸 卯 条、 ﹁ 罷 中書省陞六部、 改大都督府為五軍都督府﹂ 。 また同巻甲辰条、 ﹁ 定 六 部、 御 史 台 等 官 品 秩。 六 部 尚 書 正 二 品、 侍 郎 正 三 品、 郎 中 正 五 品、 員 外 郎 従 五 品。 御 史 台 左 右 中 丞 正 二 品、 左 右 侍 御 史 正 四 品。 在 外 承 宣 布 政 使 正 三 品、 左 右 参 政 従 三 品。

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102 提 刑 按 察 使 正 四 品、 副 使 従 四 品、 僉 事 正 五 品。 都 転 運 塩 使 正四品、副使従四品。 ﹂ ︵ 7︶   ﹃ 太 祖 実 録 ﹄ 巻 二 百 四、 洪 武 二 十 三 年 九 月 戊 戌 条、 ﹁ 分 戸 部 四 部 為 十 二 部、 曰 河 南、 曰 北 平、 曰 山 東、 曰 山 西、 曰 陜 西、 曰 浙 江、 曰 江 西、 曰 湖 広、 曰 広 東、 曰 広 西、 曰 四 川、 曰 福 建。 毎 部 分 領 一 布 政 司、 及 直 隷 府 州 銭 穀、 金 帛 之 事。 其 雲 南 則 以 四 川 部 兼 領 焉。 又 置 照 磨 検 校 各 一 人、 以 稽 文 書 出 入 之 数、 而 程 督 之 更。 鋳 印 十 二 文 曰 戸 部 某 部 印。 毎 部 置 郎中、員外各一人、主事二人。 ﹂ ︵ 8︶   ﹃太祖実録﹄巻二百四十六、 洪武二十九年八月庚戌条、 ﹁改 六 部 諸 属 部 為 清 吏 司。 上 以 六 部 之 属 皆 称 部 混 而 無 別、 故 欲 易 其 名。 因 寓 飭 励 之 意、 凡 諸 属 部 皆 曰 清 吏 司。 更 其 名 者 十 有 三。 吏 部 選 部 曰 文 選 司、 封 部 曰 験 封 司、 勲 部 曰 稽 勲。 礼 部 儀 部 曰 儀 制、 祠 部 曰 祠 祭、 膳 部 曰 精 膳。 兵 部 司 馬 部 曰 武 選、 駕 部 曰 車 駕、 庫 部 曰 武 庫。 工 部 営 部 曰 営 繕、 屯 部 曰 屯 田、 水 部 曰 都 水、 虞 部 曰 虞 衡。 其 戸 刑 十 二 部 及 吏 部 考 功、 礼部主客、兵部職方名皆仍旧、倶改部為清吏司。 ﹂ ︵ 9︶   ﹃太宗実録﹄巻十七、 永楽元年二月庚戌条、 ﹁設北京留守、 行後軍都督府、 北京行部、 北京国子監。改北平府為順天府、 北 平 行 太 僕 寺 為 北 京 行 太 僕 寺 ⋮⋮ 順 天 府、 北 京 行 太 僕 寺 官 制 如 旧。 革 北 平 布 政 司、 按 察 司 及 北 平 都 司 等 衙 門。 刑 部、 戸 部 之 北 平 清 吏 司 倶 改 北 京 清 吏 司、 都 察 院 北 平 道 改 北 京 道。 ﹂ ︵ 10︶   ﹃ 正 徳 会 典 ﹄︵ 巻 十 六、 戸 部 一 ︶ 及 び﹃ 万 暦 会 典 ﹄︵ 巻 二、 京 官 ︶ は 永 楽 十 九 年 と 記 載 し て い る が、 ﹃ 明 史 ﹄︵ 巻 七十二、 職官一、 戸部条︶は、 永楽十八年と記録している。 た だ し﹃ 太 宗 実 録 ﹄︵ 巻 二 三 一、 永 楽 十 八 年 十 一 月 壬 午 条 ︶ に は、 ﹁ 革 北 京 刑 部 並 所 属 吏、 戸、 礼、 兵、 刑、 工 六 曹 清 吏 司、 照 磨 所、 司 獄 司、 其 属 官 倶 倶 調 用。 及 革 行 在 戸 部、 刑 部 并 南 京 戸 部、 刑 部 之 北 京 清 吏 司、 行 在 都 察 院 并 南 京 都 察 院 之 北 京 道。 刑 部 増 置 雲 南、 交 阯、 貴 州 三 司。 ﹂ と あ る。 十 八 年、 刑 部 に は 雲 南 司、 交 阯 司、 貴 州 司 が 設 置 さ れ た。 こ の 条 の 前 半 で、 ﹁ 戸 部 ﹂、 ﹁ 刑 部 ﹂ が と も に 登 場 す る こ と か ら 考 え て み れ ば、 ﹁ 刑 部 増 置 雲 南、 交 阯、 貴 州 三 司 ﹂ の 前 に、 ﹁ 戸 部 ﹂ の 二 字 を 落 と し た 可 能 性 が 考 え ら れ よ う。 したがって、ここでは﹃明史﹄の繋年を採用する。 ︵ 11︶   ﹃ 英 宗 実 録 ﹄ 巻 五、 宣 徳 十 年 五 月 庚 辰 条、 ﹁ 革 両 京 都 察 院 交阯道并戸部、刑部交阯司。 ﹂ ︵ 12︶   ﹃ 正 徳 会 典 ﹄ 巻 十 六、 ﹁ 戸 部 一 ﹂。 例 え ば、 河 南 清 吏 司 は 南 直 隷 の 松 江 府、 鳳 陽 府 を 分 担 す る。 江 西 清 吏 司 は 応 天 府 を分担する。雲南清吏司は北直隷の順天府を分担する。 ︵ 13︶   ﹃ 神 宗 実 録 ﹄ 巻 四 十 三、 万 暦 三 年 十 月 庚 寅 条 に は﹁ 戸 部 尚 書 王 国 光 題、 為 帰 併 職 掌、 以 一 法 守、 以 便 責 成。 議 欲 以 北 直 隷 府・ 州・ 衛 帰 併 于 福 建 司。 南 直 隷 府・ 州・ 衛 帰 于 四 川 司。 各 辺 中 外 並 之 山 東 司。 臨 德 諸 倉 併 之 雲 南 司。 御 馬・ 象 房・ 二 十 四 馬 房 倉 帰 于 広 西 司。 崇 文・ 許 墅・ 河 西・ 臨 清 各 関税帰于貴州司。一方同司、 一事専管、 則総核者有所責成、 承 行 者 庶 無 推 諉 、 可 久 之 規 也。 奉 旨。 這 各 司 職 務 既 分 属 明 白、 都 依 擬、 著 永 為 遵 守。 你 毎 堂 上 官 還 要 精 核 責 成、 毋 容 怠 玩 曠 職 ﹂ と あ る。 ま た﹃ 明 史 ﹄ 巻 二 二 五﹁ 王 国 光 伝 ﹂ に

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103 明末の財政管理について(時) は﹁ 天 下 銭 穀 散 隷 諸 司、 国 光 請 帰 併 責 成、 畿 輔 府 州 県 帰 福 建司、 南畿帰四川司、 塩課帰山東司、 関税帰貴州司、 淮、 徐、 臨、 徳 諸 倉 帰 雲 南 司、 御 馬、 象 房 及 二 十 四 馬 房 芻 料 帰 広 西 司。 遂 為 定 制 ﹂ と あ る。 ﹁ 塩 課 帰 山 東 司 ﹂ は﹃ 明 史 ﹄ の み に 見 ら れ る が、 注 43で 後 述 す る よ う に﹃ 皇 明 条 法 事 類 纂 ﹄ の 内 容 か ら 考 え れ ば、 遅 く と も 弘 治 元 年︵ 一 四 八 八 ︶ に は 山 東 清 吏 司 が 塩 課 を 掌 っ て い る。 恐 ら く 万 暦 三 年 よ り 山 東 清吏司の塩課に対する管理を明文化したのだろう。 ︵ 14︶   正徳年間については ﹃正徳会典﹄ 巻三 ﹁官制一﹂ ﹁戸部﹂ 、 万 暦 年 間 に つ い て は﹃ 万 暦 会 典 ﹄ 巻 二﹁ 戸 部 ﹂、 崇 禎 年 間 については、 ﹁題議裁汰本部冗員疏﹂ ︵﹃度支奏議﹄ ﹁広東司﹂ 巻 一、 六 冊 ・ 五 五 三 頁 ︶ を 参 照 。 こ れ は 崇 禎 二 年 四 月 十 三 日、 戸 部 の 人 員 を 削 減 し よ う と し た 上 奏 文 で あ る。 こ の 上 奏 文 の 内 容 に よ り、 崇 禎 二 年 四 月 前 後 の 戸 部 人 員 の 構 成 が わ か る。 戸 部 は 人 員 を 削 減 し た 後、 寧 遠 餉 司 の 郎 中、 東 江 餉 司 の 郎 中 を 除 き、 す べ て﹃ 万 暦 会 典 ﹄ に 記 載 さ れ る 規 定 に戻した。 ︵ 15︶   ﹃ 英 宗 実 録 ﹄ 巻 一 八 四、 正 統 十 四 年 十 月 甲 子 条、 ﹁ 擢 進 士 鄭 和、 趙 蕃、 楊 紹、 江 真、 知 県 楊 寿、 劉 豫、 張 禎、 董 英、 監 生 馮 敬、 丘 逵、 韓 文、 陸 禎、 陳 安 倶 為 戸 部 主 事、 専 理 京 師各門、預備糧儲。以虜寇臨城、戸部奏請添置故也﹂ 。 ︵ 16︶   ﹃ 万 暦 会 典 ﹄ 巻 二、 ﹁ 戸 部 ﹂。 ﹃ 神 宗 実 録 ﹄ 巻 一 〇 八、 万 暦 九 年 正 月 辛 未 条、 ﹁ 吏 部 査 議 裁 革 在 京 各 衙 門 官。 戸 部 浙 江、 湖広、 河南、 福建、 広東、 広西司主事各一員。江西、 雲南、 山東、 四川、 山西、 貴州司各二員。陝西司三員﹂ 、 及び﹃神 宗 実 録 ﹄ 巻 一 三 九、 万 暦 十 一 年 七 月 乙 酉 条﹁ 命 戸 部 浙 江 司、 江 西 司、 福 建 司、 山 東 司、 山 西 司、 河 南 司、 四 川 司、 陝 西 司、 雲 南 司、 貴 州 司、 礼 部 儀 制 司、 祠 祭 司、 主 客 司、 兵 部 武選司、職方司各復設主事一員﹂で確認できる。 ︵ 17︶   ﹃ 万 暦 会 典 ﹄ 巻 二、 ﹁ 戸 部 ﹂ 条、 ﹁ 嘉 靖 三 十 八 年、 添 設 雲 南司郎中一員、 管理糧運。貴州司郎中一員、 総理密雲糧儲。 四十三年、 添設貴州司郎中一員、 総理永平糧儲。隆慶六年、 添設雲南司郎中一員、東官庁收放銭糧。 ﹂ ︵ 18︶   例 え ば、 ﹃ 熹 宗 実 録 ﹄ 巻 十 一 天 啓 元 年 六 月 壬 辰 条﹁ 差 戸 部 江 西 司 主 事 康 爾 韞 管 河 西 鈔 関 ﹂、 巻 十 二 天 啓 元 年 七 月 庚 戌 条﹁ 差 戸 部 陝 西 司 主 事 丁 魁 楚 天 津 管 糧 ﹂、 巻 十 四 天 啓 元 年 九 月 癸 亥 条﹁ 差 戸 部 山 西 司 郎 中 霍 允 猷 管 薊 州 糧 儲 ﹂、 巻 二 十 六 天 啓 二 年 九 月 丁 巳 条﹁ 差 戸 部 江 西 司 郎 中 周 之 大 永 平 管 糧。 四 川 司 主 事 涂 喬 芳 管 滸 墅 鈔 関 ﹂。 こ の よ う な 例 は 多 く存在している。 ︵ 19︶   ﹁ 題 覆 会 議 辺 餉 議 単 十 二 款 ﹂︵ ﹃ 度 支 奏 議 ﹄﹁ 堂 稿 ﹂ 巻 五、 一冊 ・ 二一一頁︶において、戸部が軍事費を提供するため、 土 地 税 の 加 派 を 除 き、 多 く の 対 策 を 行 っ た こ と を 確 認 で き る。 な お、 具 体 的 な 対 策 に つ い て は、 李 華 彦﹃ 財 之 時 者 ︱ ︱ 戸 部 尚 書 畢 自 厳 与 晚 明 財 税︵ 一 六 二 八∼ 一 六 三 三 ︶﹄ 第 五 章﹁ 畢 自 厳 的 財 経 思 維 和 規 画 ﹂︵ 王 明 蓀 主 編﹃ 古 代 歴 史 文 化 研 究 輯 刊 ﹄ 八 編、 第 十 六 冊、 花 木 蘭 文 化 出 版 社、 二〇一二年九月︶を参照。 ︵ 20︶   寧 遠・ 東 江 両 餉 司 は 後 文 で 検 討 す る 新 餉 司 と の 関 係 を 示 す 史 料 は 見 つ か ら な か っ た が、 ﹃ 崇 禎 長 編 ﹄ 巻 十、 崇 禎 元

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104 年 六 月 壬 子 に は、 ﹁ 専 理 東 江 餉 務 戸 部 員 外 郎 黄 中 色 覈 東 江 兵 三 万 有 奇、 具 疏 上 聞 ﹂ と あ る。 も し 東 江 兵 餉 を 担 当 す る も の が 戸 部 員 外 郎 で あ っ て 郎 中 で は な い と す れ ば、 東 江 餉 司 の 行 政 レ ベ ル は 新 餉 司 の 下 に 位 置 づ け ら れ る 可 能 性 が あ ろう。 ︵ 21︶ 以 上 の 畢 自 厳 の 経 歴 は﹃ 明 淄 川 畢 少 保 公 年 譜 ﹄︵ 一 巻、 畢盛鑑著、 鈔本、 東洋文庫 II︱一〇︱ C︱一一二︶ 、﹃明史﹄ 巻 二 五 六﹁ 畢 自 厳 伝 ﹂、 ﹃ 光 宗 実 録 ﹄、 ﹃ 熹 宗 実 録 ﹄、 ﹃ 崇 禎 長 編 ﹄、 及 び 李 華 彦 著 書︵ 注 19︶ 第 三 章﹁ 畢 自 厳 的 家 世 与 生 平 歴 練 ﹂ を 参 照 し た も の で あ る。 畢 自 厳 の 事 績 は、 ﹃ 明 史 ﹄ のほか、 蔣平階の﹃畢少保公伝﹄ ︵﹃明季遼事叢刊﹄に所収、 満 日 文 化 協 会、 一 九 三 六 年 ︶ に 詳 細 に 紹 介 さ れ て い る と い うが、未見。 ︵ 22︶   筆 者 が 使 用 す る 版 本 は 北 京 図 書 館 収 蔵 の 崇 禎 刻 本 で あ る。 こ の 版 本 は 一 九 九 五 年 に 上 海 古 籍 出 版 社 よ り、 ﹃ 続 修 四 庫 全 書 ﹄ の 一 部︵ 史 部 四 八 三∼ 四 九 〇 ︶ と し て 刊 行 さ れ た。 ﹃ 賦 役 全 書 ﹄ の 編 纂 は、 崇 禎 三 年 五 月 の 時 点 で な お 道 半 ば で あ っ た︵ ﹁ 堂 稿 ﹂ 巻 十 四、 ﹁ 修 書 司 官 遴 選 補 題 疏 ﹂ 一 冊・六二七頁︶ 。 ︵ 23︶   な お 吉 尾 寛﹁ 明 末 の 戸 部 尚 書 畢 自 厳 の 兵 餉 運 営 に 対 す る 一 視 点 ︱︱﹃ 度 支 奏 議 ﹄﹁ 堂 稿 巻 ﹂ 部 に 記 載 さ れ る 数 値 史 料 を 手 が か り に し て ﹂︵ 岩 井 茂 樹 編﹃ 中 国 近 世 社 会 の 秩 序 形 成 ﹄ 京 都 大 学 人 文 科 学 研 究 所、 二 〇 〇 四 年 三 月 ︶ は 一千九百八十四本とするが、 ﹁堂稿﹂ 、﹁新餉司﹂ 、﹁辺餉司﹂ 、 ﹁ 浙江司﹂ 、﹁湖広司﹂ 、﹁四川司﹂ 、﹁雲南司﹂ 、﹁貴州司﹂ 、﹁山 西司﹂ ﹁陝西司﹂で収録本数を誤ったようである。 ︵ 24︶   佐藤文俊 ﹃明代王府の研究﹄ ︵研文出版、 一九九九年二月︶ の第一部第三章 ﹁王府分封と地方社会﹂ ︵初出一九九七年︶ 、 第 二 部 第 七 章﹁ 清 初 に お け る 旧 明 朝 の 王 府 荘 田 ﹂︵ 初 出 一九九〇年︶を参照。 ︵ 25︶ 恵 王 は 万 暦 二 十 九 年 に 封 じ ら れ、 天 啓 七 年 に 湖 広 省 の 荊 州 府 へ 移 動 し た。 桂 王 は 万 暦 二 十 九 年 に 封 じ ら れ、 天 啓 七 年 湖 広 省 の 衡 州 府 へ 移 動 し た。 ︵﹃ 明 史 ﹄ 巻 一 〇 四、 ﹁ 諸 王 世表五﹂を参照︶ ︵ 26︶   ﹁ 福 建 司 ﹂ に は 藩 王 の こ と だ け で は な く、 外 戚 の こ と も 多 く 述 べ ら れ る。 ﹁ 山 東 司 ﹂ に は 塩 税 収 入 の 一 部 を 藩 王 の 宗禄へ提供する記載が多く存在する。 ︵ 27︶   一 例 を 挙 げ よ う。 天 啓 年 間 に 湖 広 省 へ 移 動 し た 恵 王、 桂 王 に 提 供 す る 工 事 に つ い て は、 戸 部 は 各 地 の 官 庁 に 協 済 銀 を 出 さ せ た が、 各 地 の 官 庁 が 規 定 の 銀 を 完 全 に は 提 供 で き な か っ た。 そ こ で 戸 部 は 太 倉 庫 よ り 各 種 の 財 源 よ り 経 費 を 支払わざるを得なかった ︵﹁藩工協済未清全楚京辺久逋疏﹂ 、 ﹁ 冊 庫 ﹂ 巻 一、 八 冊 ・ 五 五 二 頁 ︶。 第 三 節 で 述 べ る よ う に 、 太 倉 庫 が 主 に 辺 餉︵ 旧 餉 ︶ を 支 え て い る。 戸 部 は 軍 需 頻 発 の 時 期 に お い て も、 手 を 焼 く 藩 王 に 対 し て 妥 協 せ ざ る を 得 なかった。 ︵ 28︶   崇 禎 年 間、 清 朝 が 国 境 線 を 越 え、 何 回 も 明 朝 の 内 地 を 攻 撃した。例えば、 崇禎二 ︵一六二九︶ 年十月、 七 ︵一六三四︶ 年 七 月、 八︵ 一 六 三 五 ︶ 年 八 月、 九︵ 一 六 三 六 ︶ 年 九 月、 十一︵一六三八︶年九月、 十五年︵一六四二︶十月である。

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105 明末の財政管理について(時) ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ で 言 及 さ れ る 侵 入 は、 崇 禎 二 年 の 末 か ら 三 年 の 初 め に か け、 清 朝 が 初 め て 中 国 の 内 地 へ 侵 入 し た 己 巳 の 変である。 ︵ 29︶   ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ に 出 現 し た 漕 運 総 督 の 官 銜 は 一 般 的 に 総 督 漕 運・ 提 督 軍 務・ 巡 撫 鳳 陽 等 處 地 方・ 兼 理 海 防・ 戸 部 右 侍 郎・ 兼 都 察 院 右 僉 都 御 史 で あ る。 な お、 漕 運 総 督 に 関 す る 詳 細 な 沿 革 は 黄 仁 宇 著、 張 皓・ 張 升 訳﹃ 明 代 的 漕 運 ﹄︵ 九 州 出 版 社、 二 〇 一 二 年 二 月、 初 出 一 九 六 四 年 ︶ 第 三 章﹁ 明 代管理大運河的行政機構﹂で確認できる。 ︵ 30︶   李 洵﹃ 明 史 食 貨 志 校 注 ﹄︵ 中 華 書 局、 一 九 八 二 年、 一 一 二 頁 ︶ に よ れ ば、 南 糧 と は 長 江 中 下 流 に お け る 浙 江、 江西、 湖広、 南京、 蘇州などで生産された漕運の米を指す。 ま た 白 糧 と は 江 南 五 府 よ り 内 府 へ 輸 出 さ れ る 白 米 で あ る ︵ 同 書 一 二 七 頁 ︶。 な お、 江 南 五 府 は 蘇 州 府、 松 江 府、 常 州 府、 嘉興府、 湖州府であり、 現在の長江デルタに相当する。 明 末 に 入 る と、 白 糧 は 五 府 に と っ て す で に 重 い 税 金 と な っ ていた ︵﹁覆総漕総河題議催 儹 白糧疏﹂ ﹁四川司﹂ 巻四、 六冊 ・ 四五二頁︶ 。 ︵ 31︶   ﹁雲南司﹂の序︵七冊 ・ 五九頁︶には、 ﹁余待 辠 度支日久、 新 旧 二 餉 外、 惟 漕 運 為 鉅、 而 区 区 節 省 拮 据 一 念、 実 与 新 旧 二餉鼎立而為三繇﹂とある。 ︵ 32︶   ﹁ 題 覆 比 城 考 成 捕 塩 各 官 疏 ﹂︵ ﹁ 山 東 司 ﹂ 巻 四、 五 冊・ 七 一 五 頁 ︶ に は、 ﹁ 国 家 設 漕 糧 以 給 京 軍、 設 塩 筴 以 資 辺 戍、 関係並重。 ﹂とある。また ﹁題覆長蘆塩院喩思恂条陳塩法疏﹂ ︵﹁ 山 東 司 ﹂ 巻 一、 五 冊・ 五 九 〇 頁 ︶ に は、 ﹁ 国 家 財 用 自 税 糧 正 賦 之 外、 惟 塩 筴 是 頼。 ﹂ と あ る。 そ し て﹁ 題 覆 御 史 張 養 条 陳 両 淮 塩 法 疏 ﹂︵ ﹁ 山 東 司 ﹂ 巻 一、 五 冊 ・ 五 六 四 頁 ︶ に は、 ﹁国家財賦半居塩筴、而両淮又居塩筴之半。 ﹂ ︵ 33︶   例 え ば、 岩 井 氏 は﹃ 中 国 近 世 財 政 史 の 研 究 ﹄︵ 京 都 大 学 学 術 出 版 会、 二 〇 〇 四 年 二 月 ︶ 第 一 章 第 一 節﹁ 歳 入 歳 出 構 造 ﹂︵ 初 出 一 九 九 二 年 ︶ に お い て、 明 末 と 清 初 の 歳 入 構 造 を述べた。 ︵ 34︶   ﹁覆御史黄仲曄補還青銀僉報流商疏﹂ ︵﹁広西司﹂ 巻一、 六 冊・ 五 七 〇 頁 ︶。 草 料 を 招 商 買 弁 の 形 式 で 購 入 す る 銀 は 戸 部 の 太 倉 庫 よ り 支 給 さ れ、 ﹁ 青 銀 ﹂ 或 い は﹁ 巡 青 銀 ﹂ と 呼 ば れ る。 な お 招 商 買 弁、 巡 青 銀 の 説 明 な ど は 連 啓 元 の﹁ 明 代 的 巡 青 史 ﹂︵ ﹃ 明 史 研 究 専 刊 ﹄ 第 十 五 期、 明 史 研 究 小 組、 二〇〇六年八月︶を参照。 ︵ 35︶   明 代 以 前 の 捐 納、 及 び 明 代 に お け る 捐 納 の 制 度 化 に つ い て は、 伍 躍 の﹃ 中 国 の 捐 納 制 度 と 社 会 ﹄︵ 京 都 大 学 学 術 出 版社、二〇一一年二月︶を参照。 ︵ 36︶   陝西清吏司のことは﹃万暦会典﹄巻三十七、 課程六、 ﹁茶﹂ 条に書いてない。また魏志静 ﹁明代茶法研究﹂ ︵二〇〇七年、 中 国 政 法 大 学 へ 提 出 さ れ た 博 士 論 文、 C N K Iか ら 入 手 ︶ 第 三 章﹁ 明 代 茶 法 的 発 展 ﹂ 第 一 節﹁ 洪 武、 永 楽 時 期 榷 茶 制 度 的 建 立 ﹂ に お い て、 明 代 に お け る 茶 法 の 管 理 は 茶 馬 司、 茶 課 司 及 び あ る 地 方 官 庁 と 関 係 が あ る と 述 べ、 戸 部 陝 西 清 吏司には言及していない。 ︵ 37︶   ﹁ 覆 梁 大 司 馬 条 議 茶 法 疏 ﹂︵ ﹃ 度 支 奏 議 ﹄﹁ 陝 西 司 ﹂ 巻 三、 八 冊・ 六 五 一 頁 ︶ に は、 ﹁ ⋮⋮ 欽 遵 抄 出 到 部 送 司。 査 得、

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106 疏 内 茶 法 一 款、 事 隷 陝 西 司 掌 行、 相 応 移 付 単 疏 議 覆 等 因。 ﹂ とある。なお、 茶馬司は陝西と四川の両方に設置されたが、 ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ の﹁ 四 川 司 ﹂ で は 茶 法 に 関 す る 上 奏 文 は 見 ら れ な い。 陝 西 清 吏 司、 茶 馬 司、 茶 法 の 管 理 と そ の 沿 革 に つ いては別稿に譲りたい。 ︵ 38︶  ﹁題議裁汰本部冗員疏﹂ ︵﹁広東司﹂ 巻一、 六 冊 ・ 五 五 三 頁 ︶、 ﹁題主事盧世 進 瀋終養疏﹂ ︵﹁広東司﹂巻一、 六 冊 ・ 五 五 五 頁 ︶、 ﹁題参梁応科仮印移咨疏﹂ ︵﹁広東司﹂ 巻一、 六 冊 ・ 五 五 六 頁 ︶、 ﹁ 題 郎 中 張 朝 綱 請 復 俸 級 疏 ﹂︵ ﹁ 広 東 司 ﹂ 巻 一、 六 冊 ・ 五六六頁︶ 。 ︵ 39︶   ﹁査催司属赴部供職疏﹂ ︵﹁堂稿﹂ 巻十一、 一冊 ・ 四八八頁︶ 。 ︵ 40︶   ﹃ 計 部 奏 疏 ﹄︵ 李 起 元﹃ 計 部 奏 疏 ﹄ 巻 十﹁ 広 東 司 ﹂、 ﹃ 中 国 文 献 珍 本 叢 書 ﹄ に 所 収、 全 国 図 書 館 文 献 縮 微 複 製 中 心、 二 〇 〇 七 年 六 月 ︶ に は 広 東 清 吏 司 が 地 方 官 の 徴 税 に 関 す る 考 成 を 処 理 し た 上 奏 文 が 存 在 す る。 も と よ り 部 内 の 人 事 を 担 当 し て い た わ け だ が、 さ ら に は 地 方 官 の 考 成 に も 関 与 す るようになったようだ。詳細な考察を別稿に譲りたい。 ︵ 41︶   表 一 を 参 照。 多 く の 清 吏 司 に は 郎 中 が 一 人、 員 外 郎 が 一 人いるが、 陝西清吏司には郎中が三人、 員外郎が一人おり、 山西清吏司には郎中が四人、員外郎が一人いる。 ︵ 42︶ 李 華 彦 は 氏 の 著 書︵ 注 21︶ 第 五 章﹁ 畢 自 厳 的 財 経 思 維 和 規 劃 ﹂︵ 七 十 一∼ 七 十 七 頁 ︶ に お い て、 ﹃ 度 支 奏 議 ﹄ に﹁ 欽 奉上伝覆査外解 拖 欠疏﹂ ︵﹁堂稿﹂巻二、 一 冊 ・ 三 七 頁 ︶、﹁ 辺 塞 呼 籲 日 聞 京 辺 起 解 中 断 疏 ﹂︵ ﹁ 堂 稿 ﹂ 巻 七、 一 冊 ・ 二 七 六 頁 ︶ に よ り、 天 啓 六 年、 七 年、 崇 禎 元 年 に お け る 新 餉、 旧 餉、 京 運 年 例 銀、 旧 餉 の 塩 税 に 関 す る 各 地 の 徴 収 状 況 を 整 理 し、 表 を 作 成 し た。 広 東 省 は 新 餉、 旧 餉、 京 運 年 例 銀 を 全 部 徴 収 し 戸 部 へ 送 っ て い る。 広 東 提 挙 司 は 崇 禎 元 年 の 旧 餉塩税について、四七%の税金を滞納していた。 ︵ 43︶   ﹁ 巡 塩 御 史 査 究 勢 要 頂 名 中 塩 例 ﹂︵ ﹃ 皇 明 条 法 事 類 纂 ﹄ 巻 十 九 、第 一 条 。﹃ 中 国 珍 稀 法 律 典 籍 集 成 ﹄乙 編 第 四 冊 に 所 収 ︶。 ︵ 44︶   ﹃ 熹 宗 実 録 ﹄ 巻 一、 泰 昌 元 年 九 月 甲 午 条、 ﹁ 戸 部 尚 書 李 汝 華 請 立 新 餉 司、 専 理 遼 餉 五 百 余 万、 而 以 本 部 原 任 主 事 鹿 善 継董其事。上従之。 ﹂ ︵ 45︶   ﹃ 熹 宗 実 録 ﹄ 巻 十 七、 天 啓 元 年 十 二 月 辛 巳 条、 ﹁ 戸 部 議 設 冊庫一差、総十三司歳額銭糧、請鋳給関防。許之。 ﹂ ︵ 46︶   ﹃ 熹 宗 実 録 ﹄ 巻 八 十 七、 天 啓 七 年 八 月 乙 巳 条、 ﹁ 戸 部 請 設 督 餉 専 官。 得 旨。 辺 餉 重 務、 照 倉 場 銭 法 例、 宜 専 官、 説 得 是。 著 将 該 部 左 侍 郎 加 督 理 辺 餉 字 様、 専 董 其 事、 公 挙 堪 任 的 來 看。 至 専 理 辺 餉 司 官 選 精 敏 的、 加 銜 用。 其 堂 司 官 応 鋳 関 防、 倶 如 議 行。 卿 掌 邦 計、 辺 腹 財 賦 咸 所 提 衡、 還 宜 兼 総 其成、以裕辺儲。 ﹂ ︵ 47︶   管 理 内 容 は 注 48を 参 照。 全 称 に つ い て は、 ﹁ 冊 庫 ﹂ に 所 収 さ れ る 上 奏 文 を 読 め ば 了 解 さ れ よ う。 例 え ば﹁ 題 覆 浙 江 山東甘粛冗官冗役疏﹂ ︵﹁冊庫﹂巻一、 八 冊 ・ 五 五 五 ︶ に は 、 ﹁ 題 為 汰 冗 已 経 奏 報、 助 餉 不 宜 緩 期、 懇 乞 聖 明 敕 令、 速 行 扣 解、 以 裕 国 計 事。 冊 庫 山 西 清 吏 司 案 呈、 崇 禎 三 年 二 月 初 五日奉本部送戸科抄出⋮⋮﹂とある。 ︵ 48︶   ﹁ 題 王 員 外 接 管 辺 餉 司 疏 ﹂︵ ﹁ 山 東 司 ﹂ 巻 二、 五 冊 ・ 六 〇 一 頁 ︶ に は、 ﹁ 本 部 冊 庫 之 設、 総 核 省 直 之 完 欠、 任 綦

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107 明末の財政管理について(時) 重 責 綦 厳 矣。 先 年 臣 部 又 以 各 辺 旧 餉 無 一 責 成、 特 題 設 専 理 辺 餉 司。 凡 各 辺 之 額 餉 有 無 加 増、 京 民 二 運 有 無 完 欠、 各 辺 餉 之 可 否 生 節、 各 辺 事 之 条 陳 章 奏 尽 以 責 之。 仍 以 管 冊 庫 官 兼 摂、 是 前 此 冊 庫 止 職 其 入、 今 此 冊 庫 復 職 其 出、 不 勝 其 綦 且難矣﹂とある。 ︵ 49︶ 例 え ば、 支 出 を 切 り 詰 め る た め に、 各 地 に お い て 人 員 を 削 減 す る 状 況、 各 地 の 官 庁 が 戸 部 か ら 借 り た 協 済 銀 に 関 す る状況などである。 ︵ 50︶   ﹁ 庫 支 日 増 外 解 日 緩 疏 ﹂、 ﹁ 辺 儲 匱 乏 已 極 疏 ﹂、 ﹁ 蒙 恩 簡 抜 敬 竭 芻 蕘 疏 ﹂︵ 李 起 元﹃ 計 部 奏 疏 ﹄ 巻 十﹁ 冊 庫 ﹂。 三 本 の 上 奏 文 は﹁ 冊 庫 ﹂ に 所 収 さ れ る が、 い ず れ も 考 成 法 と 関 わ っ て い る。 冊 庫 司 は 税 金 の 徴 収 状 況、 即 ち 滞 納 状 況 を 管 理 し て い る。 し か も 滞 納 問 題 は 徴 収 官 員 に 対 す る 考 成 と 非 常 に 深 く 関 わ っ て い る。 以 上 の 二 点 に よ り、 冊 庫 司 が 徴 税 に 関 す る 考 成 を 担 当 し て い た こ と が 推 測 さ れ る。 具 体 的 分 析 は 別稿に譲りたい。 ︵ 51︶   新餉司の全称は注 47を参照。 ︵ 52︶   例 え ば、 ﹁ 辺 餉 司 ﹂ に は 専 理 辺 餉 山 西 清 吏 司、 専 理 新 餉 辺 餉 司、 専 理 辺 餉 新 餉 司、 旧 餉 司、 辺 餉 司 と い う 様 々 な 名 称 が 見 え る。 そ れ ぞ れ の 上 奏 文 の 内 容 よ り、 辺 餉 司 の 全 称 は判断し難いが、辺餉司を名称とする頻度は極めて多い。 ︵ 53︶   京 運 年 例 銀、 民 運 銀 に 関 す る 説 明 は 頼 建 誠 の﹃ 辺 鎮 糧 餉 ︱︱ 明 代 中 後 期 的 辺 防 経 費 与 国 家 財 政 危 機、 一 五 三 一 ︱ 一 六 〇 二 ﹄︵ 浙 江 大 学 出 版 社、 二 〇 一 〇 年 八 月 ︶ を 参 照。 頼 氏 は﹃ 万 暦 会 計 録 ﹄ を 中 心 史 料 と し て、 著 書 の 第 二 編 の 第五章と第八章で民運銀と京運年例銀を詳しく検討した。 ︵ 54︶   李 氏 著 書︵ 注 19︶ 第 五 章﹁ 畢 自 厳 的 財 経 思 維 和 規 劃 ﹂、 七十二頁。 ︵ 55︶   李氏著書︵注 19︶第五章、七十一∼七十六頁。 ︵ 56︶   朱 慶 永﹁ 明 末 遼 餉 問 題 ﹂︵ 一 ︶︵ ﹃ 政 治 経 済 学 報 ﹄ 第 四 巻 第一期、一九三五年九月︶ 。 ︵ 57︶   林 美 玲﹃ 晩 明 遼 餉 研 究 ﹄︵ 福 建 人 民 出 版 社、 二 〇 〇 七 年 十二月︶ ﹁前言﹂ 。 ︵ 58︶   吉尾寛論文︵注 23︶。 ︵ 59︶   ﹁ 新 餉 司 ﹂ 序︵ 二 冊・ 二 八 四 頁 ︶、 ﹁ 刻﹃ 度 支 奏 議 ﹄ 新 餉 居其四五、刻新餉奏議芟佚尚居其二三。 ﹂ ︵ 60︶   ﹃ 神 宗 実 録 ﹄ 巻 五 七 一、 万 暦 四 十 六 年 六 月 辛 酉 条、 ﹁ 戸 部 議 添 設 督 餉 司 属 以 便 責 成。 謂 援 兵 糧 餉、 除 請 発 内 帑 十 万、 太僕寺二十万、 工部二十万、 先已解去。又議借南京戸、 兵、 工 銀 五 十 万、 今 已 差 官 領 解。 此 後 收 支 頭 緒 甚 煩、 請 照 援 朝 鮮 例、 添 設 司 属 一 員、 加 郎 中 職 銜、 給 敕 書、 関 防 等 項、 随 軍 督 餉、 府 佐 軍 衛 営 操 等 官、 悉 聴 挙 劾、 有 勤 労 聴 本 部 考 核 優敘。従之。 ﹂ ︵ 61︶   ﹃ 光 宗 実 録 ﹄ 巻 六、 泰 昌 元 年 八 月 壬 戌 条、 ﹁ 命 給 戸 部 専 理 遼 東 新 餉 関 防、 先 是 該 部 以 遼 東 新 餉 煩 鉅、 議 増 山 東 司 官 一 員 専 任 料 理、 以 江 西 司 員 外 楊 嗣 昌 陞 補、 至 是 請 給 関 防、 以 杜詐偽。従之。 ﹂ ︵ 62︶   ﹃ 熹 宗 実 録 ﹄ 巻 一、 泰 昌 元 年 九 月 乙 酉 条、 ﹁ 命 造 戸 部 専 理 新餉関防、為郎中楊嗣昌給也。 ﹂ ︵ 63︶   前注 44

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