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岡大本『三勇和歌集』について

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Academic year: 2021

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(1)

れている。 ているように、 この小冊子は、

岡大本『

三男和歌渠

頼の歌を跛せた江戸中期の私撰集である。撰出歌は、 は、 池田家の旧蔵になるものであるが、 岡山大学の蔵掛になる池田家旧蔵の『三勇和歌集』は、 中古の歌人曾根好忠と瀕仲正、 それに金葉集の撰者源俊 各々六十七首、 六十六首、 六十七首の全歌数をあわせても二 かも好忠・仲正・俊頼という歌人の組合せからも特 百首のこじんまりとした小冊子であるが、 他に伝本もなく 異な私撰集といえよう。 またこの歌集には、 所々に古人の注釈が付け加えられており、 序において撰者自身も「古 人の注解を摘採ある^年来きAおく旧説なとか たはらに備考してl.Lだ圧むヤぎんの需めに`思せんとすなり」 と述べ 「こと好むすき人」が、 時折思い出しては絹くアソソロジーという観 を呈している。 先にも述べたように『三勇和歌集』の伝本 は、 今のところ他にみられず、 岡大本一本のみとな ている。 この本 その中でも池田家の家老であった土肥経平の遺書に入っており、 筆跡から して経乎の自錐笞写本と思われる。 体裁は、 横十五セソチ、 縦二十一セソチ の袋綴の写本で` 奥畜の類はないが、 本文の他に、 前に撰者の書いた序が付き、 後には、 それぞれの歌人の所収歌数が部立別に誌さ 本文の行数は、 片面十二行で、 一行一句習きである 0 詞書が付く場合は、 歌の前に歌よりも三字程度下げて書か

』について

一冊から成っている。

(2)

れ、 作者名は、 十四字程度下げて書かれている。 この作者名は じ作者の歌が、 部立別に二首以上十五首までま 、と めて戟っ いる ために、 その同一歌人 の歌群の冒頭の歌のみ記されている。 そしてそれぞれの歌の後に二字あま り下げて、 引歌や古人の注釈などが、 所々につけ加えられているのであ るつ 所収歌数については、 撰考自身が付け加えたとみられる党書によって俊頼六十七首、 好忠六十七首、 仲正六十六 首であったことが知ら れるが、 実際にこの 本では、 俊頼 雑歌を一首、 好忠の冬歌を一首欠 てい る。 また好忠の 亀の甲さし出の.磯にちりかAる花をかつかぬ鱗そ なき(源仲正楳•四 一) の歌は、 家集や夫木抄からみても仲正 の作である ことがわかる。 その結呆、 岡大本『三勇和歌集』は、 俊頼六十 首、 好忠六十五首、 仲正六十 七首の総歌数百九十八首を収めていること なる。 首、 夏部三十二首 .. 秋部四十首、 冬部二十五首、 恋部三十一首、 雑部二十五首である。 ここで序を全文掲げておこう。 一方、 部立別にみ ると春部四十二 三勇和歌集といふハある人廿根好忠源仲正源俊穎三たりの家集より抜出し一冊と して座右のもてあそひとせしも 歩路となりぬおほよそ四十とせあまりをちつかたの事にて浜庇久しくとり見る峯もな く岸に生てふ草のうち忘れ しを此比物の中より見出てめつらしく周覧するに誠に春の駒のいさましく御牧の原のひろく物ー\`しき寄の限な り此 首の中に代/\、の勅撰 堀河院両度の百首の詠かつ/\`見えたり是ら撰集ハ常 のまくらことな れは 彼是舟 首にちかくさし除て此たひあらたに増減せしつゐてさらに百首を 加へて二百首となして部類を分ちぬ天然の奇仙 春歌の中に入っている - 1

(3)

4-+ 「紹老」 のしわさ にて朝夕握翫し見習ふへき風体にハあらねど又棄へきにもあらされは所 /\ 古人の注解を摘採あるハ年 来きAをく旧説なとかたはら に備考してこと好むすき人 需めに鹿宅んとすなり和奇の浦半のな /\、ならぬな のりをかたく なAる心に まかせてかき集ぬれハ芦辺の鶏のたつ/\、しき事のみ多く猶あやまりすくなかるましけ 法橋弐炊翁 なる寃保三年の『策華領』では、 れハあなかしこみた りに 他見すへからすとそ 享保元年 申季秋上浣 このように撲者は、序の最後に「享保元年

PP

季秋上沈 年に 八十六オで没した一炊庵こと小野紹廉が擬せられる。 紹朕は、 祐徳門で、 丈石編『俳諧家譜』(寛延四年) よると 「小野氏号-―銀竹堂乙後改.__炊庵_」とある。 この他に小野紹廉の名は、 『俳諧水鏡」『箪華領』『秋 声』などにみられ、 天理大学所蔵綿屋文庫所収になる享保十五年の『俳諧水鏡』では 廉の自序と自跛が付き、 序の最後に「銀竹堂小野紹朕」、 跛の最後に「浪花 「一炊庵紹廉」 (『日本歴史大辞典6』)であったが、 それが仏師な 法橋弐炊翁」 「一炊庵印指」とあり、 十三年忌追善集安永二年の『秋の声』 「一炊庵」などと呼ばれている。 しかしいずれも「一炊翁」と いう署名には接することができない。 た享保十五年の『俳諧水鏡』の時点では、 一炊庵という号名もみえず、 寛保一 i 一年の『華華領』においてはじめて 「一炊庵」と出てくる。 したがって『俳諧家譜』の「後改ニー炊庵」という記事とも照合し、 おそらく紹廉は、 保十五年から寛保三年の間に一炊庵と改号したも のと推察され るのである。 その結果、 享保元年の時 点で 「一炊 称し いた『三勇和歌集』の撰者と、 一炊庵小野紹 廉とは、 別人物と思われる C 一方、 法橋は元来「地下四位諸大夫に進ずる」「上人位」 ど工人に与えられるようになり、 さらに武士・医師・儒者などにも及んでいる。 したがって俳諧師でも法橋の位に 紹廉」と誌されている.同じく天理大学所蔵綿屋文庫所収に (筆者付点) とあることから` 宝暦十

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叙したものも いるが、 もっと公的な立場の・人の方がそれにふさ わしいよう に思われる。 そこで、 俳諧ではなく連歌 .に 目を転じてみよう。 幕府の連歌指南をつ とめた里村家は、 代々法眼か法橋に任ぜられる のが習わしで、 享保頃の 当主といえば、 享保十三年に五十九オで没した北家のの民、 或は享保十 1 年に六十七オで没した昌億などが考えら れる 。果して里村家の中に一炊翁と号した人物がいるかどうか、 なお調査を進めたいと思う。 さて、 序の前半においてこの集の成立事惰が述ぺられている が、 それによると、 に'「ある人」によってすでに『三弟和歌集』という私撰集は編まれており、 していたのである。 それを何年か後にみい出し再撰 したのが、 元の『三勇和歌集』は、 勅撰築撰入歌や堀河太郎、 次郎百首な どの歌 を所収していたらしいが、 歌は撰集の「まくらこ と」であるので、 三十首近くをとり除いたと言っている。 そしてその上に新た に百首をつけ 加えて二百首にしたのである。 これにより元の歌集は、 総歌数百三十首程度の秀歌抄という程のものであったこと 一炊の撰によって『三勇和歌集』は、 公的な均で詠まれたいわゆる睛の歌が除かれ、 されるこ とに なったの ある。 この ような撰歌規準は、 単に撰集の平凡さを避けるというだけで なく、 ここでは、 俊頼・好忠・仲正ら三歌人の歌にも即したものとなっている。 この『三勇和歌集』の存在によって我々は、 これら 歌人における歌風の共通性を知ることができるのである。 『三勇和歌集』の「三刃」という題名は、 の三名の歌人を指し、 が想像されよう。 それを一炊は、 おそらく元 撰者 による命名であろう。 「勇」 は、 これら三歌人の歌風を称したも と思われる。 つよい。 「座右のもてあそひ」 ほぽ私的な歌によって構成 「三」とは、 俊頼・好忠・仲 『大漢和辞 典』による と「勇」 は、 一、 さむ。 いさましい。 二、 意志の果敢なこ と。 三、気力のあるもの。四、 思いきり よい。 五、 たけだけしい など、 行動的で男性的な性状を言い表わし ている。 元の撰者は、 かれら三人の活々した男性的な歌 一炊は、 それらの 一炊撰になるこの『三勇和歌楳』なのであった。 一炊撰の撰集が成る四十数年前 16

(5)

-また一炊も、.久しぶりに元の『三勇和歌集』に眼を通した時の感想を、 'と述ぺている。 これは、明らかに「三勇」.という題名を念頭に屈いてのことで あろうが、 ここではそれをさらに具 体的、 印象的に語っ いる。俊頼・好忠・仲正ら三歌人の歌風を` これ程具体的に語り得た評語を、 他にみる こと はできまい。古今集以来の伝抗的な歌風に対し、早くから革新を試みていた好忠、 その歌壇の中にあって源�二位頼政の父・仲正、 さらにそれを推し進めた俊頼、 かれ は、 内なる美よりも生命あふ る新鮮な印象美を求めていた。 .そ のような かれらの歌風が、 雄々しく男性的な ものとなったのは当然と いえよう。けれどかれらは、 末期では あっ たが、 王朝 歌人、卑位ではあっ たが、 宮廷官人である0 紫朴な る万葉人の雄々しさとは、 自然に異な るも のがあ それ を、 このようなi-_歌人の特徴は、 伝統美が重んぜられる公F'ん席の歌よりも、 自由で私的な恋お歌の方に一陪発揮さ れるであろう。撰者一炊は、 暗黙の中にそれを了解していた いえよう。そして一方で、それらの歌が、 必ずしも 歌としての高い価値を持っているものではないことも認めている。 天然の歌仙 のしわさにて朝夕握仮し見習ふへき風体にハあらねと又菜つへきにあらされは云々 「天然の歌仙」とは、 自然のままの歌人という程の意味であろう。和 歌の典型や模 範となるような磨 きぬか た歌 体では ないというのである。 しかし、 棄ててしまうべきものでもない。 ここに江戸時代 文化人 「こと好むすき」 の心意気を感ずるこ とができよう。和歌 の典型を離れた所に、 個性 的な価値を見つけ出した ので ある°さら は連歌 ・俳諧に通ずる命脈を、 くみとっていたのかもしれない。 一炊は、 御牧で遊ぶ駿馬でたとえた ので はなか ろうか。 誠に春の駒のいさましく御牧の原のひろく物

I\

、しき面の 限なり U 風を、 観念的 抽象的に「勇 J う一語で表わしたのである。

(6)

歌数については、 先にも述べたように俊頼六十六 首、 好忠六十五首、 仲正六十七首であるが、 俊頼の歌は、 すぺて かれの私家集『散木奇歌集』からの抄出になっている。 ちなみにその番号を、

こう

0

七、 四五、 二六八、 二八

0

i _二八、 三一

l-0

一_二、 三五一、一 1 一五四、 三六

0

0

八二、

0

三、 四四 四ー一 四六四、 四七 六、 五ーニ、 四九六、 五三二、 五四二、 五七

0

七二、

0

六、 六二八、 六一九、 六四四、 六五九、 三、 六八二、 ――二六、 ー四ニー‘ 一六、

10

六、 また、 好忠の歌六十五首も、 すぺて家集にみられる。 一八

101、

番号によった。) ――四八、 一四二七、 ー一五

0

一四八八、 四五、 ―一五、 三八五、 ――八二、 一五 ー一、 ーニ七、 ーニ九、 ーニ

0

!010、

一五ーニ(以上歌の番号は、 関根慶子著『校本散木奇歌集』の通し 四七、 五二 五五、 五八、 六三、 七八、 八四、 八三、 三七八、 三八二、

10

七、 一五

0

七七、

IOI

七、 =!IHハ、

10

ニニ、 -i二八、 『三勇和歌集』の列挙順に印してお 一五三、 一七九、 二三

0

四二、 ―――八 ――二三、

l-=-―-‘ 六四、 一七八、 一八一 一九七、

0-、 l-l-、 ―五、 ニー七、 ニー九、 ニニ七、 i 二二 二三五、 二四一、 二四八、 二五

0

二五六、 二七四、 二八

0

九-―-、 三三八、

0

三三二、 四〇五、 一、 三六六、 四一〇、 四一三、 四一 六、 一三五、

eg-、 六一、 二六六、 二七 二、 七、 二、 七三、

0

四五 島田良二、 神作光一編著『校注曾根好忠家集』の通し番号によった。) 一五九(以上の歌の番号は、 ―二二五、 六九五、 八三一、 八五四、 八九四、 一三八五、 二ハ、 _ここ、 六、 七、 六、 九七、 八、 次に掲載歌の出典について調べてみよう。

10

六八、 一六

0

ー18

(7)

--H一八、 なお、 神作光一氏は、 の歌を、 仲正作と指摘され、 「源仲正とその家集について」 をとめ子か染るひさこの歯黒めに面かはりして見ゆる夕もハ 残り六首は、 次のような歌である。 集」の国会図書館本の通し番号によった。) 一五旧、 ニ――10、 ―ニ―二、 ―二四、 一八九、 次に仲正の歌であるが、 四、 ニニ0、 九六、 四、 n _九、 0 ―-、 三八、 四四、 101―-、 九八、 九0、 101、 二0九 かれの欧の 十七首中六十一首は、 家裳にみえる。

-i-l-、

0、 ニニ四、 ―二二、 五一 1-、 0四、 氷とくたな井にのそむ片岸のむこぎの目かひ早出にけり 笈ヽの滋みにすた<石字のあくちハ花におほはれにけり わか門の室の早わせ学むまもなくて生れしいなこ丸かな 吾妹子か衣のゑりのあかつきと仰きてきけハ油鶏嗚 かた庭に幾の組あくる塔みれハ砂のさかこそそこらこめたる 五二‘ 1110、 五八、 六五、 七二、 六九 八三、 ーニ六、 妓後の四一の歌は、 先に指摘した好忠の歌 中に混入していたものである ーニ九、

-i

二七、_一三一、 10九‘ 一五二、一九=f 一五 ―― -、 二ニ―‘ (以上の歌の番号は『王朝文学』第十四号所収神作光一氏の翻刻による「源仲正 以上六首は、 仲正の家集にもみえず 夫木集・万代集・六華集・新校群書類従・歌合大成などにもみることができ (『言語と文芸』第五五号・昭四二年十一月刊行)において、 最後に『三勇和歌集』について触れておられる 3 その中で「亀の甲さし出の磯にちりかかる花をかつかぬ鱗そなき」 「わが門の室の早わせ争むまもなくて生れしいな子丸かな」と「をとめ子か染るひさこ 一七七、

-i-W-‘

一囮〇、 一四三 一四六、

-pg

一四九、 一六 9 一七四、 一五一― -‘ :-: ごこ 一六八、

(8)

,' ー : ' .'’ ちている。 この歌集の中でも、 また他の仲正の歌と比較してみても極端な奇歌といえよう。 しかしこれは、 単に仲 正一人の傾向ではなく、 好忠、 俊頼をはじめとする平安末期の新風をめざす歌人にとって、 往々にしてありがちな しか も顕著な例を、 これら六首にみることができるの である。 歌の価値からみれば ことでもあっ た。 その極端な、 低きそしりも受けようが、 撰者は、 珍奇なるがゆえに選んだのであろう。和歌としては破格の‘逸脱した新奇さの中 に魅力を感じたものと思われるリ これは、 またこの私撰集の動機にも通ずるものである いずれにしても、 これら六首の歌を除いて他は、 それぞれの家集に所収さ れてい る。 このことから『三勇和歌集』 の撰者、 特に一炊は、 それぞれの歌人の家集から歌を抄出したものと思われる。 以上のように題名や序、 それに仲正の出典不明歌などから、 この歌集の性格を知ることができたが、 らに 体に即して考祭してみよう。和歌にお ける新奇さ、 和歌を逸脱しようとするところ、 それは、 述歌の赴くところ、 俳諧に通ずるものであった。 すでに述歌や俳諧の世界で った江戸時代に生きた撰者、 しかも連歌師である もし 「油幾」 これら六首は、いず れも「むこきの目かひ」 集』のみの独自の歌と して指摘するものである。 の歯黒めに面かはりして見ゆる夕も"」と「かた庭に蛾の組あくる塔みれは砂のさかこそそこらこめたる」の以上一―― 首を新出歌とされている。 しかし、 私見によると以上三首の外に「氷とくた な井にのそむ片岸のむこぎの目かひ早 出にけり」と「故冬の滋みに すたく臣子のあく ちハ花におほ れにけり」と「吾妹子が衣のゑりのあかつきと仰き てきけは油鶏鳴」の以上三首も家集(国会本・彰考館本)ならびに夫木槃などにもみえず、 合計六首を『三勇和歌 「篠手のあくち」 「いなこ丸」 「歯黒め」 「錢の組ぁくる塔」など、 素材としても用語としても新奇なものを取り上げており、 歌いぶりも卑俗に落 「衣のゑりのあかつき」

(9)

-20-この歌は、 仲正集によると、 「寄船恋」の題の下によまれたものであ る。 おそらく撰者は、 「あ か」 「えそ舟」 わか恋はあしかをねらふえそ舟のよりみよらすみ波間をそまっ とよまれている。 ますらをか殺河の瀬々に鮎とるとひくしら栂のたAすも有哉 いずれも蛙・蚕のまゆ・子規・鮎を索材にしている。 蛙や子規は、 古来歌の素材として幾度も使 われているが、 沼田で根弱粂(ジュソサイの古名)を ふんで嗚くというような蛙の状態そのものを、 視覚的に捕え たものはない。 また子規の異名であ る「<きら」を用いて「雨もしみらにくきら鳴也」と調子をとった のは、 俊頼 の新案であった。 前者からは、 辿句や俳句 状漿を、 後者からは、 俳句の典のようなも を連想 ることができよう。 そして蚕の歌 野趣に富んだ風流な状娯をみることができる。 いずれも、 歌や俳諧の世界に通ず ものを持っているようである。 箸認・鯉な このようにして小動物を織り込んだ歌は、 他に咄•水鶏・菊二底・年・千烏•水鳥・醤蝦.魯虫・ ど、 二十首にも及んでい る。好忠の歌においても、 小蝸・嘩[.鴬・蝸・感蚤・鳩・埠 子・鶴.雀など十四首が選ば れており、 仲正の歌でも、 亀゜鶯・鳶 賠雀・子規・経。綾虫・鴬:鈴鴨・森・歯・蹄.嗚.礁子・庖蝶.姐・油 幾.誠・蟻と多彩を極めてい た、 小動物とはいえないが、 仲正の歌で葦鹿をよ だ歌 選ばれている は、 月光によって繭のすじを見わけるという、 一首・全体を冴えた観照性でまとめている。 次の鮎 歌には、 山里ハ振屋のえひらにもる月の影にもまゆのすちハ見えけり れない撰者は、 歌人とは異なる鑑賞眼を持っていたといわなければならな い。 選ばれた百八十八首の歌の特徴とし て、 小動物を紫材にして詠み込んだ歌が多いということが挙げられよ う。 俊頼の歌では、 をくろ崎ぬだの根笛rふみしたき日も夕ましに娃なく也 誰きかぬこせのは山の杉かうれに雨もしみらにくきら嗚也

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られゑこの外に「袖中抄」 (二 (一沼どか 二首み (『散木奇歌集註』のこと) 妹とわれ脳の風戸に昼ねして日高き夏のかけを過さん 歌の時問意識は.、 多くは恋の情趣と結びついたも のである。 ここでもそれを認められるが、 濃い情趣は払拭され、 時間そのものの方が前面におし出 された感がある。時間の推移を主題にしたところ 、時の変化に敏感となる近世 人の選択眼を感じることができる。俳諧の瞬時をつくような時間世界には 次に注釈についてみ て行こう。注釈 については、 先にも述べたように有名な古人 の旧説を歌の読解のために参考 程度に書き添えたもので、 撰者自身の歌の解釈に までは及んでいない。 引歌のみ のものも含めて、 注は七十一首の 歌に施されており、 その他に歌の語句の右に小字にて付けられた注 一ヶ所ある。 俊穎の歌においては、 三十七首に注が付され、 その中で「顕昭秘抄」 (三) 「八婁御抄」 (三) 「和名 「奥義抄」 十二首に及んでいる。 またそ れとは明記していないが、 明らかに「顕昭秘抄」を参考としたと思われる注が 「俊頼抄」(二)

...

ノ‘

への関心という点で、 撰者の選択を促したのであろう。 たまくり掛つA引し糸よりも長 しや 夏の暮るまつまハ で、 和歌よりもさらに短詩型となった連句や俳句の世界との共通性を感じていたことがわかろ う。 一方、 好忠の歌の中には、 移り行く時間に意識を集中した歌が、 選ばれている。 夏引の白糸のてくりまたしきによるハみしかく成にける我 という素材の珍らしさから選んだもの ろう。 からの引用が、 動物そのもの に対する珍らしさから選ばれたも のもあろう。 しかし、 動物の中でも特に小励物に 注目している点 まだまだほど遠い ものがあるが、 時間 - 2

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2-(一)という注もあり、 も引用され多彩を極めている。語句のみの引用としては「文選」 ッコ内の数字は、 引用された回数を示す) 引歌については、 万葉集が圧倒的に多く、 十二首に及び、 次いで催馬楽二首、 詞花集 1 首、 夫木抄一首、 為忠家 百首一首とな っている。 また 「古歌二」とあっ 一首引用 されているが、 この歌は、 『俊頼髄脳』にみえるので おそらくそれを参考にしたのではな いかと思われる。 他に新古今集(一)西行集(一)などの頚歌が引用されてい 首、 仲正十六首で、 好忠と仲正の歌になると、 俊頼のように尊用の注釈掛がないだけは、 注の施される回数も減ってくる。好忠十八 さらに簡単になっ いる。 また ここでは難解な 句の説明 それも引歌だけの注もあるので、 わかり易いものを用いていたともいえよ 和名抄」 「日本書紀」からの引用が、 ニケ所である。引歌は、 万葉集二首、 古今集一首、 散木奇歌集一首、 新古今集 一首、 堀河百首三首、 古今六帖一首、 夫木抄一首となっている。堀川百首からの引歌が三首に上ってい るのは、 川歌壇への好忠の影響を垣問みることができよう。仲正の については「和名抄」 「塑恒打聞」(一)という名がみら れる。 また「花鳥云」とあリ、 「花鳥余情」も引用されてい るの が注 目される。引歌 忠家百首より二 首、 夫木抄一首、 源氏物語 末摘花巻より一首、 西行家集より一首引用され 以上七十一首の注の中には、 ている。 」篇 (一) (一 に注が施されているので、 それだけ好忠と仲正の用語が いる。 さらに「新古今注こ 「仙覚抄」 「文選注」 「本草綱目」 (一)と蔀全土春秋」 旧説から引用さ れた と明記して ない注釈も含まれているが、 いずれも語句の常識的 な説明に終っており、 撰者の常識的歌語知識によって省かれたも と思われる。 撰考独特の注目すべきような注釈 (一 (二 より引用され、 「詩碩人 (一 )の名前がみえる。 (カ (一) さらには、 経説( 一) 引用され、 俊頼には万葉語の使用が多いこと から (!11)宗祇の「万葉集 (二)からも引用されて

(12)

(本学大学院第一回卒業、 ノートルダム消心女子大学助手) 以上のように、 私撰集においては、 新出歌六首という資料的価値とともに、 連歌・俳諧が中心となった江戸 中期の撰者の世界と、 平安末期の新風とのつながりをみる点で、 興味深いものがあるといえよう。 は、 残念ながらみることはできない。

参照

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