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らく田問題の整理 : 古代紅河デルタ開拓試論 [A Preliminary Essay on the Reclamation in the Ancient Red River Delta]

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東南 ア ジ ア研 究 17巻1号 1979年6月 桜

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由 身

弓雄*

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YumioSAKURAI*

Thepurposeofthisarticleistocritici2:etheview ofancientVietnamese agriculture held by some Japanesehistorin sofVia etnam that`Ⅰ・争CDほn,'or r

icefieldsofL争C,describedinthe`GiaoChauNgo争1 VtFCKデ quotedinthe`ThayKi nhChd,'aChinese

geographyinthe6thcenturycanbeidenti丘edwi th thetidalirrigation system presentlyusedin `Thai Binh'provinceintheRedRiverDelta・・

Parti. From a comparison ofthisview with other oplnlOnS held by Vietnamese and French historiansorgeographers,and an analysisofthe geographicalsituationandhistoricalb;lCkgroundof thetidalirrigationsystem in`ThaiBillh'province,

itisevidentthatthebasisofthisview jsamisinter -pretation ofFrench geographerp・Gourou'si n-formationonthatirrigationsystem,anditisimpos -sibletoconcludethatthissystem wasusedinthe ancientRed RiverDelta.

Part2. W ithidentiBcation oftheRed River's namesin the`ThayKi nhChd'with presentRed RiverDeltageography,indicatesthat`Giao Chi'

provinceinthe`Han'Dynasty,whicllWasCOmpOSed of10or12counties,wasboundedbythemountain areaof`V王nhYさn'and`BacGiang provincesin thewest,the`Ph

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ダ River-`KhoaiChauLSept Pagodeslineonthesouth and the `D6ng Triさu' mountainsin the east. Countieswerenotestab・ *京都 大学東南 アジア 研究 セ ンター;The Center

forSoutheastAsianStudies,KyotoUniversity

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lishedinthelowerdeltaorthe`ThaiBinh'Delta. Part3. Analysisorethnographicalandarche0

-10glCaldatasuggeststhatthereclamationin Red RiverDeltawasaccomplishedbytheintroduction oftheplantingcomplexof丘fh-tmonthrice,tent h-month riceand Aus-typerice,the五rstand last plantedinlower-lyingrice丘elds,forexampleinthe backswamp,beforethe貞oodseason,andthesecond plantedmostlyathigherplaces,suchashillsides,

terraces and natural levees to avoid dooding. Furthermore,in the eastern partof'BicNinh' province,whereuntilthe19th century,thelower r

ice丘eldswerefrequentlyinfluencedbytidal move-ment,rice varietieslligllly resistanttosaltwere probably Introduced on themud丘atoftheriver beach. Thecultivationofthesetidalareasmight haveattractedtheattentionofChinesetravellers.

Part4. A comparisonofthedescriptionof'Lac Dほn'andthetidalareasin`GiaoChauNgpaiVlFC

Kタ'withthe`Nam VietChi'quotedin`ThaiB主nh QuangKデ suggeststhattheidenti丘cation of`L争C

Diさn'Withthetidalareasisa forced analogy to explainthemeanlngOf`Lac'astheethnicnameof oldVietnamese.

Ⅰnconclusion,thecultivationoftheancientRed RiverDeltainvolvednotenglneeringmethod,but agronomicfarmlng,SO thatbasisoftheancient `LacTtrbng'orGeneralsof`Lac'and`LacVtrcrng'

orking of `Lac'mustlie in otherfactorsthan thecontrolofatidalim gationsystem.

(2)

東 南 ア ジ ア研 究 17巻1号 ほ じ 京 都 大 学東南 ア ジア研 究 セ ンターで は高谷 好一 , 坪 内良 博両 氏 を 中心 とす る平 野史 研 究 会 が隔月 で もたれて いた。 この成果 は別 に特 集 と して発 表 され る予定 で あ る。 この席 上 , ヴ ェ トナ ム史 研 究者 と して の筆者 に問わ れ た の は,紅 河 を除 く他 の東南 ア ジア3大デル タ (イ ラワジ, チ ャオ プ ラヤ ー, メ コ ン)が いず れ も19世紀以 降,米 作 モ ノカル チ ュア と して 爆発 的 に発 展 した とい われ るの に, な にゆ え 紅 河 デル タのみ が定説 に した が え ば紀 元前 後 か らすで に開拓 された とされ るの か とい う点 で あ った。 背後 に広大 な 「平 原 」 を有す る他 のデ ル タ と異 な り,水 源 か らデ ル タ流入 まで の過程 が, 極 めて短 く, か つ狭 陰 な峡谷 に狭 め られ た紅 河 が,河谷移 住 民 のデ ル タ突 入時 期 を著 しく 早 めたで あ ろ う こ とは十 分 に考 え られ る。 し か し,他 の東 南 ア ジア諸 国家 の歴史 がいまだ 1 雑 田の理 解 を め ぐる諸説 M aspero の 見 解 め に 曙光 に も達 して い な い紀 元前 後 に,紅 河 デ ル タだ けが高 度 な農業 技 術 を もって低 デ ル タ ま で開拓 した1)とす るの は,不 自然 を免 れ得 な い 。 日本 ヴ ェ トナ ム史 家 の間で,古 代紅 河 デ ル タ開拓 の根 拠 とされ る の は,水 経注37所 引の 交 州外 域 記 と史記 113史 記索 隠所 引の虞 州 記 に ひか れる「雑 田」また は「賂 田」の記載 で あ る。 本論 は 自然 科学 者 か らな され た紅 河 デ ル タ 開拓史 へ の疑 問 に答 え るべ く, まず雑 田 に関 す る これ ら文献 ・論 考 を整理 し,再 検 討 しよ う とす る もので あ る。2) なお本 論 の大 部分 は任 地 バ ンコクに滞 在 中 執 筆 し,帰 国後 ,短 期 間 に補 筆 ,訂 正 した も ので あ り, ヴ ェ トナ ム考 古学 にお け る新 知 見 の未 消化 を は じめ,専 門的 な論稿 と して は不 備 が多 い 。 ヴ ェ トナ ム古 代史 専 門家 の叱責 を 乞 う次第 で あ る。 Ⅰ 学 説 史 の 紹 介 「… …6世紀 の交州外域 記 は言 う。昔 ,交 州 が い まだ 郡 県 にわ か れて い な か った 時 , そ の領域 は潮 の流 れ に よ って水 が上 下 す● ●●● ●● ● ● ● ●● ● ● る ( 傍 点筆者 。 以 下 同 じ) 『雑 田』 を形成 し て い た。住 民 はその土 地 を耕 し, 食糧 を得 て いた。 これが住 民 が雑 民 と呼 ばれ た理 由で あ る。郡 県 の頂点 には雑 王 と雑 侯 が いた。県 の 中 には多 くの雑 将 がい た」(H.M aspero)3) 日 本 人 研 究 者 の 見 解 「中国侵 略以 前 の ベ トナ ム の地 に は雑 田 と呼 ばれ る水 田が あ り, これ は潮 の干満 1)松本信広 r印度支那の民族 と文化』岩浪書店, 1942,pp.95-96. 4 を利 用 して河水 の調 節 を しなが ら濯 概 す る も● ● ●● ● ● ●● ● ● ので, この 水 田を 耕 作す る 民 は雑 民 と 呼 ば れ た。 その離 田 ・雑 民 を支配 す る有 力者 が す で に存在 して いたが, 中 国 は ヴ ェ トナ ムを支 配 して郡 県 体 制 を確 立す る と, この有 力者 で あ る雑 王 ・雄 侯 に郡 県 の ことを担 当 させ ,県 の ことは多 く離 将 につ か さ ど らせ た

(片 倉 穣)4) 2)なお本論執筆中,石井米雄教授か らの教示によ って, 宇野公一郎氏が 「古代ベ トナムの農業」 (ルー ・チャン・ティエウ)を訳出し,同時に雑 田潮水濯概論 に対する批判を行なっていること を知 り,多 くの貴重な示唆を得た。 宇野公一郎 「古代ベ トナムの農業」『えとのす』 9,1978,pp.168-174.

3)HenriMaspero

,

"Etudesd'histoire d'Annam

(I),"BEFEO,XVIII-3,1918,pp.8-9・ 4)片倉穣 「中国支配下のベ トナム (Ⅰ)

『歴史学

(3)

桜 井 :碓 田問題 の整理 図1 旧 仏 領 行 政 区 画 「紅 河 下 流 域 の人 び と (雑 民) は, は る か 昔 か ら北 部 湾 の 汐 の満 干 に応 じて 河 川 の水 位 が 上 下 す る, とい う自然 環 境 の な か で水 量 を● ● ● 調 整 して ,水 田 (● ● ● ● 雑 田) を 切 り開 き生 活 して い た。 そ こに は濯 概 設 備 を 握 って 管 理 す る, つ ま り土 地 を支 配 す る首 長 (雑 将 ) た ちが い た 。 この在 地 の 支配 者 た ちを , 漢 の 政 府 はベ トナ ム (交 祉 郡 )の役 人 に任 命 した の で あ る」 (後 藤均平 )5) ヴ ェ トナ ム人 研 究者 の見 解 「鞭 田 は潮水 の 上 下 に した が って 生 ず る。 民 は そ の 田 を耕 作 し, 食糧 とす る 。 し た が っ て 雑 民 と よ ぶ

(L享cll S

Viet Nan)6) 「田土 は雑 田 とい う。 この 田 は潮水 の 上 下 に した が う」(Nguy6nKim Than)7),8)

こ こに雑 田 に 関 す る代 表 的 原 史 料 な 見解 を 5種 あ げて み た 。 この5種 の理 解 は実 は ま っ 5)後藤均平 「ベ トナム古代の村落社会」歴史学研 究特集号 『民族 と国家』1977,p.57. 6)L享chS在VietNam,HaNSi,1971,.p.46.

7)NguyさnKin Than,"Th心Tim Ngu6nGacNg荘 Nghia caaTliT8 L争C,"Hdng Vuo,ng Dtrng

Nu・bc,TをpIV,I-IAN¢i,1974,p.137.

8)後藤均平 「前掲論文」p.58. た く同一 の史 料 を 翻 訳 , 或 い は, 読 み 替 え た もの で あ る。 そ の史 料 とは 「現 在 ま で ほ とん ど唯 一 の文 献 史 料 」 で あ る水 経 注38に ひか れ た 『交 州 外 域 記 』 お よび史 記 113 索 隠 に ひ かれ る 『贋 州 記 』 の逸 文 で あ る。 交 足止昔 末 有 郡 解 之 時 , 土 地 有 維 田。 其 田従 潮水 上 下 , 民 墾 食 其 田, 因 名馬 雑 民 。設 雑 王雑 侯 , 主 語 郡 牌 。願 多馬 維 将 .雑 播 銅 印 青綬 。 (交 州 外 域 記) 交 祉 有 賂 田, 仰 潮水 上 下 。 人 食 其 田, 名馬 騎 侯 。 請 願 自名 馬 , 騎 清 。銅 印 青 綬 。 即 今 之 令 。 (広州 記)9) わ ず か に これ だ けの文 章 が , い か に 多 義 に 解 釈 され た か が わ か る。10)さて これ ら種 々の 訳 解 は ,古 代 ヴ ェ トナ ム社 会 を理 解 す る上 に 9)交州外域記の文章 は前段が 「交虻昔未有郡麻之 時」 とあって中国服属期以前を指す。 したが っ て 「設雑王雑侯,‥‥‥」以下は漠武帝 による交 祉郡設置以後 の ことと理 解 すべ きであろう。 Masperoが銅印青綬を除 く全文を中国服属期以 前の こととするのはおか しい。 さらに 「県 には 多 くの雑将がいた」(Danslessous-prefectures,

ilyavaitbeaucoupdecllefslo)とす るのは疑問

である。広州記では当該個所は 「諸豚 目名馬路 賂」 とある。あるいは水経注所引交州外域記の 「多」 は 「名」の誤写ではなかろうか。 交州外域記 ・広州記の史料的性格 については, 鰻宗暇 「安南古 史上安陽王輿雄王之問題

『南 洋学報』 新加岐南洋学会,24-1,2,1969, pp. 41-42に異論がある。(ほぼ同意は,鏡宗鯨 「安 陽王 と日南伝 について

『史学』42-3.)

10)E.Gaspardoneは,後述す るこの雑田記載 にか な り特殊 な解釈を加える。すなわ ち 「中国の侵 入以前,土地 は潮水 (と江水)に洗われていた。 人びとは これを 沃土 と した。(人びとは水の上 に集住 し,耕 した。) そ して,それは雑 とい う名 を得た。それはかな りすすんだ技術を推定 させ る」。 これは,水経注37の 「民墾食」に注 目し た理解であるが,2史料 とも「其 田徒潮水上下」 「賂 田仰潮水上下」 とあ って,未耕地 が 潮水 に 洗われている意味ではない。 この説 は容れがた い。またのちの論者で この説を援用 している例 を知 らない。

E・ Gaspardone

,

"Champs Lo et Champs Hiong,"Journa/A∫Z'attgue,CCXLIII,1955,

pp.475-476.

(4)

東南 ア ジア研 究 17巻 1号 どの よ うに利用 されただ ろ うか。 紘) Masperoは太平 虞 記482所 引の南越志11) をひいて, ヴ ェ トナ ムが世襲 的小封建社会 を形成 していた と説 いたの ち 「そ して もし●● 彼 らの田に港淑す るた め に潮汐作用 による 川 の水位 の変化 を利 用す る ことを知 って い た とい う ことが事 実 な らば, 彼 らはす ぐれ●●● ●● た農業技 術者 で あ った にちがい ない」 と し て い る。注 目すべ き ことは, この場合 ,舵 田が潮 汐利用 の濯 概で あ った可能性 を示唆 しつつ も, これを封建 制, もし くは農業 共 同体 の成立 な どの契機 と して は考 えて いな い ことで ある。12) (B) 「まず第一 に潮水 の上下 を利 用 す る潅淑 方式 に よ る水 田 (雑 田) 経 営 が行 わ れて い たが, その濯 概施設 は首長 な どが実質的 に 管 理 して いたで あ ろ う。 その場合 で も,共 同体 的秩序 と伝統 に抵触 しな い限 りにおい て のみ可能 で あ った 。 この雑 田経営 は当時 の生産 用具 が石 製工 具や木製農 具 を主要 な もの と した点 か ら考 えて,個別家族 的 な労 働 力で行 いえた とは思 われず, かな りの規 模 の労 働力 に よる協業 を必要 と したで あろ う。雑 田 ・雑民 とい う用語 か らも,雑 田社 会 が潅概用水 と耕地 を集団労働で 開発す る 共 同体規 制 の 強 固な社会 で あ った」13) (片 倉穣 )片倉 氏 はさ らにす す めて , この交州 外域記 の記事 か ら, 当時 の ヴ ェ トナム農民 の結合 体 を マル クスが 「ヴ ェ ラ ・ザ ス- リ ッチ- の手 紙」で措 定 した農業 共 同体 に該 当す る と考 えた。14) (C) 「‥‥‥と もか く もこれ はデル タ住民 が水 と取 り組 んだ最古 の記事 で あ る。初歩 的 か も しれぬが,土地 の 自然条件 に応 じた 運河

●●

ll)南越志の当該部分は他に旧唐書41の安南都護府 平道条,太平棄宇記170の交州平道県条などに 引用される。 12)H.Maspero,oP.lit.,p.9. 13)片倉穣 「前掲論文」p・19・ 14)片倉穣 「前掲論文」p.19. 6 水 門の●●●

池設 備 が あ った。 そ してその施 設●●● を管 理支配 す る土地 の有 力者層 が 当然存 在 した。 この記事 でい う雑 王 ・維侯 ・雑 将で あ る」 (後藤均平 )15) (I)) 「交州外域記 は我 々の祖 先が雑 田をつ く った と して い る。い ろい ろちが った意見 が あるに も拘 らず , す べて これが 水稲 田 で あ る ことは認 めて いる

(Ha.Van Tan,

N

guyさnDuyHinh)16)「周知 の如 く,雄 王 時代 の住民 の農 業活 動 は,我 々の史 料 と同 じ く,中 国の古 い書 籍の 中にわず か に記 さ れ るのみで ある。 .‥.‥た とえば (水 経注 に ひかれ る) 交 州外域記 に は 『往昔,交虻 が い まだ郡願 で なか った とき,雑 田とよばれ る田土 が あ り,水 は潮水 に した が って上 下 して いた。田を耕 作 して生活す る住民 を雑 民 とよぶ』。 この一節 は多 くの 本 に引用 さ れたの ちで もな お,価値 を もってい る。 し か し,明 らか に この記録 は, この時代 の農 業 活動 の イメー ジをえが くには, あ ま りに も不 十分 で あ る」(Ltru TranTi8u)17) 以 上4者 の水 経注 所 引交州外 域記 の理 解 を み る と,雑 田を潮水利用 の水 門濯概 と し, そ の港 淑管理 者 と して雑 王以下 を理解 しよ う と す るの は後藤 ・片 倉両氏 に 限 られ,他 は雑 田か ら古代 ヴ ェ トナ ム社会 を理 解 しよ うとす る傾 向には きわ めて慎 重で あ る こ とがわか る。18) 2 潮水潅概 と して の雑 田論の再 検 討 本来 「田 は潮水 の上下 に従 う

「その 田の耕 作民 を雑 民 とい う

「(漠 は) 郡 牌 に雑 王 ・雑 侯,麻に雑将 を おいた (広州 記 によれば 自 ら 15)後藤均平 『ベ トナム救国抗争史』人物往来社, 1975,p・62.

16)HaVan Tan,Nguyさn Duy Hinh,"Kinh Tさ Th&iHdngVuαng,"H血ngVuung,IV,p.51. 17)LIJu Tran Tieu,"N6ng Nghiep ThaiHdng

Vtrcrng,"HdngVtrcrng,IV,p.159・

18)ヴェ トナムの研究者は雑田が水門濯概である点

さえ認めていないという。宇野公一郎 「前掲論

(5)

桜井 :雑 田問題 の整理 名 乗 った )」とあ る にす ぎない文章 が, な にゆ え個 別 に 日本 で は① 潮水 に よ る濯 翫設 備 の存 在① さ らにその濯 概 設 備 を管 理 す る雑 将 層 の 成 立 とい う理 解 に まで発 展 した のだ ろ うか。 もとよ り, その最 も大 きな背 景 には マル ク ス の 「資本 主 義 的生 産 に先行 す る諸 形 態 」 の 発 見 に始 ま り,

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年 代 , 日本 の ア ジア史 学 界 を お しつつ ん だ 感 の あ る, い わゆ る ア ジア 的生 産 様式 論 争の重大 な影 響 が あ る こと はい うまで もな い。19)しか し, 論理 的 な密 度 は と もか く, 実証 的 な検討 と して は, は な はだ 安 易 に この雑 田記 述 を 引用 し, もって ヴ ェ トナ ム古 代 社 会 を理 解 しよ うと した ことは否 めな い。 これ は次 に述 べ る よ うな 日本 にお ける雑 田論 の展 開 過程 を み る こ とに よ って 明 らか に な る。 この文章 を具体 的 な農 法 の 問題 と して 理 解 した の は H.Masperoの簡 単 な示 唆 を 別 にす れ ば,P.Gourouが最 初 で あ ろ う。P. Gourouは次 の よ うに言 う。 我 々は年代 記 (筆者 注一越 史 通 鑑綱 目の 仏 訳) の 中 にみ られ る記 述 か ら真 実 を ひ き だす ことは ま った くで きない 。 そ して 中国 の史 料 か らはただ紀 元 前 2世 紀 に は, トン キ ンデ ル タに は堤 防 が な か った ことを知 る● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●● ことが で きるのみで あ る。● ● ● ● ● ● 『この 時代 ,雑 と よば れ る 田土 が あ り, そ れ は潮 の干 満 によ って その姿 を かえ る● ● ●● ● ●

それ は事 実を 目撃 した 中 国人 の 観察者 が, い まだ トンキ ンにお いて存 在 す る特異 な農 法 に驚 いた こ とを示 して い る。 なぜ な ら-イズ ォ ン地 方 で は今 な お潮水 は 自由 に水 田 に 出入 り して い るか らで あ る。20) こ こで P.Gourouは,初 めて雑 田を- イズ ォ ン省 で

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年 代 に行 わ れ て いた農 法 に結 び つ けた。 しか し,Gourouは雑 田を 潮汐 が 自 由 に侵 入す る きわ めて 粗放 な形 態 の 田 とみ な

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)

片倉穣 「前掲論文」p・20・

20)P.Gourou,"LesPaysansduDeltaTonkinois,"

Paris,1936,pp.83-84. し, これ か ら古 代 紅 河 デル タに は堤 防 がな か● ● ● ● ● った ことの証 明 と して い る。 これ は 日本 にお● ●●● ける P.Gourouの 引用者 た ちの間 で はま っ た く誤 解 して用 い られ た。21) 雑 田を よ り高度 な 潮水 漕 概 の シス テ ム と し て紹介 した の は松 本信 広氏 で あ ろ う。松 本 氏 は交 州 外 域 記 お よび広 州 記 の 当孟亥文 を紹 介 し た の ち, 次 の よ うに述 べ て い る。 この文句 の 中 潮水 の上 下 を仰 ぐとい うの トンキ ン は今 日で は東京 沖積 平 野 の南 部 海 岸 か ら程 遠 か らぬ所 で 安商 人 に よ り行 ほれ て を る伝 統 的確 概方 法 を指 す もので あ ろ う。 即 ち彼 等 は海岸地 域 の河 川 の虞 水 が上 潮 の時 ,海 潮 にお されて 堀撃 した溝 に流 れ こむ の を待 ち,適 当な水 か さに達 す る と水 門 を閉鎖 す る。又 海 水 の到来 を恐 れ る時 には小 舟 に乗 った番 人 が張番 を な し,時 々水 を嘗 めて 若 し礎 か ら くな って きた場合 に は直 ちに水 門 を しめ るので あ る。 こうい う殖 概法 が千 五 , 六百 年 も前 に行 ほれ て いた ことが この二 書 の記事 か ら証 明 され るわ けで あ る。22) この松 本氏 の見 解 , 即 ち雑 田潮水 濯 概 の説 は杉 本 直 治郎 氏23)を経 て,後 藤 均平 氏 に積 極 的 に支 持 され る にい た る。24)で は松 本 氏 は こ 21)ただ し,P.Gourouは別の箇所では紀元前後の ヴェ トナム農業にふれて 「彼 らは水田を港概す るために潮汐運動を利用 した」と言 っている。 (P.Gourou,op.cit・,p・132.)これは注20)の説 と矛盾する。原拠が明 らかでないが,恐 らくこ れは H.Maspero,"Etudesd'histoired'Annam

(I)日のp.9か ら援用 したもので あろう。 原典 が同一であるとは考えなかったのであろう。 22)松本信広 『前掲書』pp・95-96・ 23)杉本直治郎「秦漠両代における中国南境の問題」 『東南アジア史研究 Ⅰ』 日本学術振興会,1956, p.33・ 24)後藤氏は 「北部ベ トナムではいつごろ水田耕作 がは じまったか,ずいぶん古 くか らだと思 うが, いまとりあげている西漠期には,すでに 『運河 で水田に水を引き,水門を設け,海水の増減で 押 される真水で潅鶴するという,まことに低湿 地耕作 に適当 した』(松本信広)濯概方式 によ る水稲栽培が行なわれていたことが,この記事 か らうかがえる」(『ベ トナム救国抗争史』p.61) としている。後藤氏の雑田濯概論が松本氏の見 解に直接由来 していることは疑いえない。 7

(6)

東 南 ア ジア研 究 17巻1号 の知見 を ど こで得 たの だ ろ うか。特 別 に注 記 が な いので或 い は氏 の実見 か も しれ ぬが 同様 の農 法 はや は り P.Gourouによ って紹 介 さ れて い るので あ る。 (南 部 タイ ビ ンの)住 民 はい つ も高 潮 時 の 河 川 と輪 中 (casier)内部 の水 位 との差 ,逮 に低 潮時 の河川 と輪 中 内部 の そ れ との差 を 利用 しよ う とす る。 彼 らは河 の低 い方 の堤 防 に水 門 を作 り, 時 に応 じて排 水 のた め に 低 潮時 に これ を ひ らき,濯 概 の た め に高 潮 時 にひ らく。時 々,舟 にの った監視 人 が水 を な め、 彼 らが塩 か らさを感 じた 時 に,人 人 は水 門を しめ る。25) 松 本氏 は トンキ ン地 方海岸地 帯 と言 い,

P.

Gourou はタ イ ビ ン南 部 とす る。両 者 が同一 の地 方 にお け る同一 の農 法 を指 して い る こと は はば誤 りな い。 しか し,注 目す べ き こと は,す で に雑 田の存 在 を知 って いた Gourou白身 は,維 田を この タイ ビ ン地 方 にお け る潮水 濯 概排 水 技 術 と は 少 しも結 びつ けて いな い ことで あ る。 この点 ,●● ● ● ● ●● ●● ●● 後 藤 均平 氏 が 自説 の 補 強 の た め P.Gourou の 記 述 を 引用 し,26) 石 井 米 雄 氏 が さ ら に Gourouの タイ ビ ン地 方 の記 述 が雑 田を ほ う ふつ とさせ る とす るの は,27)P.Gourouの所 説 を曲解 した もの とい え よ う。 3 タ イ ビ ン地 方 にお け る潮水 港 概 と雑 田 で は P.Gourouの紹 介 す る タイ ビ ン地方 に お ける潮水 濯 概 は,松本 氏 の説 くよ うに雑 田 と同一 視 で きる もの か, あ るい は Gourou 白身 の説 くよ うに ま った く異 な る もの なの だ ろ うか。 P.Gourouは この 潮水 港 概 の説 明 に タイ ビ ン地 方 の 巨大 な輪 中 を 図 示 して いる。28) (図 2参 照) この図 に よれ ば, この潮水濯 概地 域 25)P.Gourou,op.cit.,p.101. 26)後藤均平 rベ トナム救国抗争史』p.61. 27)石井米雄 『インドシナ文 明 の世 界

講談社, 1977,p.74. 8 は旧行 政 区画29)で い うタイ ビ ン省 (太平 )の TrvcI)与nh県 (真定 )VaTien県 (武倦 )Thr Tr主県 (野 池)の3県 を含 み, 旧院 朝時代 で い う建 昌府 (KiさnXtrung)と同一 で あ る。 この地 域 はTraL夕・河 と紅 河本 流 ,海 の三 辺 か らな る三角 形を な し,紅 河水 系諸流 の流 しだす 土 砂 に よ って形 成 され た いわ ゆ る沿岸 砂丘 列地 帯(cordonslittoraux)に あた る。した が って タイ ビ ン市 西 方 がわ ず か に標 高1メ ー トル を こす 起 伏 を残 す 以 外 ,海 岸 線 まで低 い 砂丘 と低地 が 交互 に現 われ るにす ぎない。30) これ は この地 帯 の村 落 が,海 岸 線 に対 して平 行 に分 布 して い る こ とか らもわ か る。 か よ うな特殊 な砂丘 列 村 落 はデ ル タ開拓 史 上,通常 最後 期 に属す る もの と考 え られ る。31) 事 実,大南 一 統 志 に よれ ば, この建 昌府 3県 の さ らに東 方 に隣接 す る TほnHai県 (銭 海 ) は明命10年 (1829)に 「沿地 開拓 」 した もので あ る。 また 紅 河本 流 を は さ んで 向か い あ う TrtrcNinh県 (真 寧) は明命14年 (1833)に 設 置 され た 。史 書 に は こ こで い う潮 水確概 を もつ建 昌府 3県 の設 立年代 の記述 はない が, この よ う に地 形 的 に同一 の これ ら隣 接諸県 の 28)P.Gourou,oPlit.,p.100.同図は菊池一雅 『ベ トナムの農民』古今書院,1966,p・155や石井 米雄 『前掲書』p.74に引用 される。 29)通常,歴史論文で用い られるヴェ トナムの行政 区画は (1)旧王朝時代 (位置同定が明確にな るのは繁朝前期 ・同後期 ・院朝),(2)仏領時 代,(3)1964年以降,(4)1974年以降の新行政 区画の4種が用いられる。 本来 (4)を用いる のが常識的であるが,これは (1),(2)の旧省 を2省または3省ごとに統合 したもので省韓が 拡すぎる。 また (2)の行政区画は基本的には (1)を引きついだもので,旧地誌のそれと一致 する。以上の理由か らヴェ トナムの歴史家たち も, 仏債時代の行政区画 を用い, これにⅩua (旧)を付するのが常のようである。 本論 もこ れにな らい,仏髄行政区画をカタカナで表記 し て,基本とし,院朝行政区画を漢字で表 して補 助 とする。クォッグーで表記 した ものは省の下 位区画である県 (huyen)を示す. (図1参 照 ) 30)P.Gourou,op.cit・,p.36. 31)菊池-雅 『前掲書』p.40.

(7)

桜井 :雑 田問題 の生理 図

2

タイビ ン省潮汐港概図 (P.G ourou,op.tit.,p.

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よ り作図) 歴 史 か らみて , さ して 古 くさか の ぼ りう る と は思 え な い。 現 存 す る も っ と も古 いヴ ェ トナ ム地 誌 で あ る抑 奔 集 地 輿 誌

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世 紀 末) と園朝 官 制 典 例

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世紀 末 )には, す で に この

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県 の 名 が あ り, か つ 在県 の村 落 数 も

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世 紀 初 め の段 階 と あ ま り違 わ な い。32)当地 域 で は輪 中な くして これ ほ どの 人 口が養 わ れ る とは思 え な い。 し た が って , この3県 を 囲続 す る輪 中堤 防 が裂 朝 初 期 に はす で に完 成 され て い た と考 え る こ とが で きる。33) この前 代 の 明永 楽

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)

の府 州 県 設 置 を み る と, 建 昌府 に は俸 田県 ・建 昌県 ・布 県 ・裏 利 県 の 名が み え る。34) この うち, 俸 田 はお そ ら く後代 の野 池県 俸 田総 俸 田社 に発 し た 名で あ り, ま た布 は武儀 県 楽 道 総 奇布 杜 に 32)拙稿 「ヴェ トナム中世社数 の 研究

『東南アジ アー歴史 と文化

』1

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33)大南一統志36によれば,武倦県 は 「袈鴻徳年間 置」, 辞池県 は 「黍改今名」, 真定 は 「古口州 豊池 ・野地,後改今名」として,この 3県がいず れも繁代設置であることを示 している。〔いる。 その崩壊

『ベ 34)山本達郎 「明のベ トナム支配 と トナム中国関係史』山川出版社

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起 った もので あ ろ う。 また 大 南 一 統 志

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に よ れ ば建 昌府 は もと野 池県 にあ った とい うか ら, お そ ら く俸 田 に接 して いた の で あ ろ う。実利 県 はお そ ら くの ちの真 定県 で あ ろ う。 した が って 行 政 区画 は異 な って も, 野 池 ・武 仙 ・真 定3県 の地 域 の人 口集 住 はす で に

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世 紀 初 め に はあ った と して よか ろ う。 さ らにそ の前 代 の陳 朝 の記 述 を み る。大 越 史 記全 書

5

天 応 政平

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に は

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路設 置 の記 事 がみ え, 同天 応 政平

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)

に は軍制 改 革 にふ れて ,龍 興 ・建 昌 の2路 の 名 が み え る。龍 興 は明 の鎮 蛮府 で 旧 タイ ビ ン省 北 半 , Duy昌n

Ha

県 (延 河 )・ThanKh昌県 (神 瑛 )に あた る。 建 昌 は明 の建 昌府 か ら快州 を除 いた もので あ ろ う。 した が って 旧 タイ ビ ン省南 半 , す な わ ち当該

3

県 はす で に

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世 紀 中葉 に お いて 独 立 した 行 政 区画 を与 え られ て いた ことにな る 。 さ らに前 代 を み る と, 大 越 史 記 外 紀 全 書 5 呉 使君 の条 には十二 使君 (10世 紀 中葉 ,紅 河 流 域 各地 に拠 った

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の 土侯 ) の- 陳 覧 (陳 明 9

(8)

東南 アジア研究 17巻1号 公) が 「布海 口」 に拠 った とす る記 事 があ る。 これ は越史 略 で は 「江 布 口」 とな って い る。 越史 通鑑綱 目前編 5宋 乾徳 4年 (966)の註 に は,布海 口は 「武仙願 奇 布社」 の ことであ る とされ る。 奇 布社 は院 朝 の建 昌府 ,現今 のThaiBinh で あ り,現 在 の地 理 で は海岸 線 よ り25キ ロメ ー トル以 上 隔た った砂丘 列上 に位 置す る. し か し, 前述 の よ うに大南一 統志36に よれ ば, 実 は この地 に 建 昌府 が遷 された の は1808年 (嘉 隆 7年) で あ り, そ れ以 前 は よ り後方 の 野 池原 にあ った ので ある。 とす れば10世紀 こ の地 が海 口で あ った とす る綱 目編 者 の意 見 は 十分 に首 肯 しうる。 次 に大越史 記全 書2,越史略 2をみ る と李 朝 の通端5年(1038), この布海 口に籍 田が設 け られた記述 があ る。 これ は この地 が11世紀 以 降急速 に開拓 がすす め られ た ことを示 す例 証 とな ろ う。 さ らに推論 を下 せ ば1397年 の胡 氏発 布 の限名 田法 の 中にある宗 窒 諸 家 が瀕 海 の地 に堤堰 を築 き,戯水 を障 いで 田土 をつ く った とす る記 述 は,35)奇布社以 南 の 沿岸 砂丘 列村 落 の成立 の状況 を示す もの と理解 す る こ と もで きよ う。 以 上 の ど と く,P.Gourouの紹介 す る タイ ビ ン南 部 の潮水 濯概地 域 は10世紀末 ,11世紀 初 か ら開拓 が本格 化 し,陳朝期 にいた って発 展 し, よ うや く独 立 した行 政区画 と して認 め られ,陳末 ・属 明期 にほぼ現在 の大 輪 中 内3 県 の大勢 が確立 された とみ るのが正 しい。 し た が って文献史 料 で み る限 り少 な くと も奇布 杜, 現 在 の ThaiBinh市 以 南 の開発 を10世 紀以 前 に さか の ぼ らせ るのは難 し く,36)これ を漠代以 前 の雑 田 に比定す るの は誤 りで あ る。 4 バ クニ ンにお けるタイ ビ ン型潮水 潅 鶴 の 可能性 につ いて 後藤 氏 はDinhVanNhをtの徴姉 妹起 義時 35)大越史記全書8 陳廃帝光泰10年 (1397)0 10 の浪 泊 の地理 的研究 を紹介 す る中で, バ クニ ン省 にみ られ る輪 中虻 か ら

,

「雑 田社会 は輪 中 村 落で はなか った か」 とい う問題 を提示 して い る。37)先 に紹介 した よ うな氏 の雑 田 に関す る理 解 か ら推定 す れ ば,松 本氏 の言 う輪 中を 前 提 と した潮水 港 淑 (タイ ビ ン型) が紀 元前 後 に は,バ クニ ンにおいて も存在 して いた こ とにな る。 これ は一方 で 「ソ ンコイ下 流域 」 に雑 田を比定 す る氏 の立場 か らす る と,38)矛 盾 す るよ うで あ るが,39)あるい は当時 の海岸 線 の上昇 を現 デ ル タ上方 部 にまで拡 げて考 え たの か も しれ な い。 いず れ にせ よ, 旧 ラ ピ ッ ド河線 まで輪 中を前提 とす る潮水 濯 激 が あ っ た とす れ ば,地 名比定 か らみ た紅 河デ ル タ開 発 史 の上 で は, さ して矛盾 を きた さない。で はバ クニ ン省 の よ うな海岸線 を は るか に隔 た った地 域 で タイ ビ ン型 の潮水 濯 概 が可 能 で あ ろ うか。 後藤氏 は 「雑 田社 会」 の 中で Dinh VanNhをt氏 の説 と して 「まず北 部平 野 に海 バク 抜2メー トル の等 高線 を引 いてみ る。す る と北 ニ ン パ クザ ン 寧一 北江地帯 に ひ とつ の大 きい盆地 が兄 いだ され る

「また この盆 地全 域 の 河川 は 潮 の満 36)H.Masperoの唐代安南都護府時代の歴史地理 に関する研究によれば 「・--より下流のバ ンプ

-運河(CanaldesBambous)は明 らかに唐代の 文献にはあらわれない・-

-

」(H・Maspero,"Le protectoratdlAnnam souslesT)ang,"BEFEOZ

Ⅹ,1910,p.680)と言 っている。 バ ンプ-運河 はHtrngY8n市の南を走 り,紅河とタイビン 河を結ぶ河流である。当該3県がはるかにこの 南に位置することはいうまでもない。 また歴史地理学の観点か らMさLinh県 (鳶冷 ・ 寒冷)の位置比定を考察 した DinhV昆n Nhit 氏 は属漢期,バ ンプ-運河の南は海洲であった とする。DinhVanNhat,"HuyenM昌Linhv芭 ThbiHaiBaTnrng

,

H Ngh i仝n CtruLich S丘

(NCLS),172,p・27付図.

37)後藤均平 「雑田社会- ベ トナム古 代 の村落社

会」p・62・

DinhVanNhat,りVungLang-bacvさTh&iHa主 BaTrlrng,りNCLS,155,p.32付図。 38)後藤均平 FIベ トナム救国抗争史』pl63・ 39)通常紅河下流域 とは低デルタ部 BasDelta(メ イビンおよびナムディン省南半)を指すと考え られよう.ただ しヴェ トナム語のh争du(下落) の訳として用いるなら,紅河デルタ一帯を指す。

(9)

桜 井 :雑 田問題 の整 理 千 によ って水 位 が影 響 され る」と して い る。40) 宇野公 一 郎氏 は後藤 説 をデ ル タ一・般 に雑 田 潮水 濯 概 があ った と理 解 し,次 の よ うな批 判 を加 え てい る。 現地 の人 に確 めて も らお う。 『た しか に 潮汐 は一 定程 度川 の水 位 を上下 させ る。だ が その程 度 も限 りがあ る。今 日た とえば ニ ン ・ビ ン省 の ホア ・ル地 方 の よ うな かな り 海 岸 か ら離 れ た所 に まで潮汐 は影 響 して い る。 しか し, その影 響 は稲 作 に利用 で きる ほ どの もので はな く,実 際 この地 方 の人民 はそれ を利用 して はい ない』 さ らに雄 王 時 代 に は 「北 部平 野 は今 日 と基 本 的 に似 た形 を して いた。 その時代 に は堤 防 が未 整備 だ った か ら,潮汐 の影 響 はフ ォ ン ・ケ (コー ・ ロア) 区域 に まで 達せ ず, また 当時 の 人 間 の活動地域 各所 にゆ きわた り もしな か っ た」 … … ベ トナ ムの研 究者 た ちほ,彼 らが 困難 な状 況 の もとで蓄積 した多方 面 の研究 成 果 を示 しつつ ,今 さ らなぜ 『外 域 記

だ けで か くも断 定 的 に運河水 門潮汐利 用 濯 概 を主張 で きるの か と,松 本説 の後 継者 た る 斉 藤 (斉 藤玄 氏一 筆 者注)・後 藤 両 氏 に問い か けて い るよ う に思 わ れ る。41) 宇 野氏 の指摘 にあ る よ うに,後藤 氏 が 潮汐 作用 をバ クニ ン省 まで及 ぼ した の は,P.Gou-rou の潮汐 限界 図 に拠 る。42)・43)しか し, この 原 図 で は, 潮汐作用 が数 量 的 にいか な る もの と して と らえ られて い るのか不 明 で あ る。 そ の 限 りで は宇 野氏 の批 判 は正 しく, また仮 に 潮汐 作用 が あ った と して も, か よ うに高 度 に 発 達 した 潮水 濯 鶴 が なぜ現 在 当該地 で は廃れ 40)後藤均平 「雑田社会- ベ トナム古 代 の村落社 会」p.59. 41)宇野公一郎 「前掲論文」p・174・なお宇野氏の 引用部分はNguyさnDuyHinh氏の 「雄王時代 の水稲栽培」第3回雄王時代研究会議における 報告か らとられたものという。筆者は未見であ る。 42)P.Gourou,oP・citリp・781 43)後藤均平 『ベ トナム救国抗争史』p.61・ た の か と問 うヴ ェ トナ ム人 史 家 の指摘 は正 し い 。 次 にバ クニ ン省 の現 在 の村 落 の 多 くは残 丘 を利用 した 丘 陵周辺 の村 落 で あ る (Villages deborduredecollines)。P.Gourou も この 型 の村 落 の実例 の多 くをバ クニ ン省 に求 めて い る。44)両地 域 の村 落 の形 成 過程 は, 居住地 が先行 す るか 田土 が先行 す るか とい う点で 完 全 に異 質 で あ る。 した が って 安 易 に タイ ビ ン 型 の 潮水潅 概 をバ クニ ン省 に適 用 すべ きで は ない 。 さ らに タイ ビ ン地 域 の 3県 を 囲続 す る大 堤 防 は延長

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キ ロメー トル に及 ぶ。 か よ うな 大築 堤 に よ って初 めて潮汐変 化 を港 概 に利用 す る ことが可能 とな って い る。か よ うな高 度 かつ大 規 模 な堤 防 が紀 元前 後 のバ クニ ンに あ った と は考 え られず ,仮 にあ った とすれ ばか よ うな技 術 が, なぜ 現 在 の よ うな小 規模 輪 中 耕 作 に変 化 して い った のか の考 察が な けれ ば な らない。 以 上 の3点 か ら, 後藤 氏 の説 は地 形 と歴史 過程 の ま った く異 な る タイ ビ ンの農 法 を, き わ めて安 易 にバ クニ ンに結 び つ けた もの と し な けれ ば な らない 。 と くに, その所説 の 多 く を P.Gourouの提 供す る資料 (タイ ビ ンの潮 汐濯 概 ・デル タの潮汐 限界 図) に拠 りな が ら, P.Gourouの得 た名住田に関す る結論 を ことさ らに無 視 して 立論 された こと には大 きな疑 問 を持 た ざ るを えな い。 以 上 の簡 単 な学説 紹介 に よ って 日本 にお け る特殊 な雑 田社 会論 ,す なわ ちタイ ビ ン型 潮 水 港概 の管 理 に基づ く離 将 社 会 の成 立 論 が, P.Gourouの不 完全 かつ不 当 な紹介 に基 づ く, 傍証 を無 視 した仮説 にす ぎなか った ことが諒 承 され よ う。 しか し, 中国史 料 の中 に は紀 元前後 ヴ ェ ト ナ ム社 会 に何 らか の形 で潮水 と関係 した雑 田 とよばれ る農 法 ,す なわ ち低 デル タ部 の一 定 44)P・Gourou,op・lit.,p1240・ 11

(10)

東南 アジア研究 17巻1号 の開拓 が述 べ られている ことも事実で あ る。 次 にこの雑 田記述 はデル タ開拓史上, どのよ うに位置づ け られ るか,筆者 な りに考 えてみ たい。 Ⅱ 紀元前後の北部 ヴ ェ トナム地 名の同定 雑 田問題 は当時の北部 ヴ ェ トナムの開拓状 況 と密 接 な連繋 を もってい る。元封6年 (B.C. 110),漠 は北部 ヴ ェ トナムを 占領 し,交祉郡 を 設 置 し, 10県 に分 けた.水 経注 に は 「麻 多烏 雑婿 」 あ るい は 「諸雑将 主民如故」45)とある か ら, この県 は当時 の土着 勢力の分 布 に した が って設 け られた もの と して よか ろ う。 した が って この10県 が現在地 の ど こに比定 され る かを考 え る ことに よ って, 当時 の土 着勢力 が デル タの ど こに進 出 して いたかを知 る ことが で きる。 交祉郡10県 の名 は漢書28下地 理志交祉郡 に よれば龍編 ・蔵障 ・安定 ・荷漏 ・弟 冷 ・曲陽 ・北帯 ・稽徐 ・西千 ・朱戴 である。建武

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年 (A.D.43)馬接 の奏請 に よ り, 酉千 が分割 さ れて,西千 ・封森 ・望海 の 3県 とな ったので, 後 漠代 で は12県 にな る。 この古県 名を現在 の地 名 に同定す る作業 は

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47)によ って な され,の ちの研究者 は これ らの業績 の うちに 論 を展 開す るの が常 とな って い る。48)しか し, この両者 の研 究 は麓 冷 ・望海 ・封彩 ・龍 編 の 4県 の比定 に一致す るのみで,後 述す るよ う に水経注 中の河川 の比定で はま った く相異 し て い る。両者 の異 同を明確 に しないままに, 個 々の比定 のみを と りいれるの は我 田引水 を 45)水経注37 菓輸水条。

46)H.Maspero,"Leprotectoratg6n6rald'Annam souslesT'ang

,

〟pp.5401694;"L'exp6ditionde MaYuan,H BEFEO,XVIII,1918,pp.3-28. 47)Cl,Madrolle,"Le Tonkin ancien,"BEFEO,

ⅩⅩⅩⅤ

Ⅰ,1937,pp.263-330. 48)たとえば陳荊和 「交祉名称考

『文史暫学報』 第4期,台北,1952,p.87;杉本直治郎 『前掲 書』p.13;後藤均平 「徴姉妹の反乱

『中国古 代史研究第三』中国古代史研究会編,吉川弘文 館,1969,p.33. 12 免 れえない。 ここで は一度原点 に戻 って古代 紅河デル タの地 名を再考 し, 当時の開拓 限界 を考 えて みた い。 交祉郡10県 また は12県 の比定 には,水 経注 37が唯一 の史料で あ り, これ に「元和郡願 志」 「太平宴宇記」な どの後代 の史料 が補 助 的な理 解 を与 え る。 先ず水経注37は益州 の群 村郡 を 抜 けた葉輸水 ,す なわ ち紅 河が交祉郡 に流入 したの ちを,次 の よ うに言 う.49) (A) 過交祉 ,麓 冷願北分馬 五水,絡交祉 郡 中, 至東界,復合馬 三水 ,東入海 。 (B) 北二水左水 ,東北逗 望海願南 …...又東遅 龍 淵麻 北,又東合南水 。

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水 日産 冷騎乗,遷封 渓願北 ……又東進浪 泊‥….又東遷 龍淵解 放城南,又東 左合北水 。 (D) 其水又東選 曲易麻,東注 干浪轡 。経 言干 郡東界復合為 三水 ,此其一 也。 (E) 其次-水 ,東遷封賂麟南 ,又西南遷 西干 願南 ,又東進蘇障輝北,又東遅北帯解南, 又東遷 稽徐麻,遷水 注之。水 出龍編願 高山 東南流入稽徐願 ,注子 中水 。 (F) 中水 又東進蘇隈願南...…其水 自解凍遷 安 定麻北岸長江 ……其水 又東流……又東南合 南水 。 (G) 南水又東南 (もと東 北)遷 九徳郡北 …... 又東選浦 陽麻北,又東選 無功 (もと無 切) 輝北。其水又東選 句漏麻帯江水 ,江水 封 安 定麻 .…..又束輿北水合 ,又東注轡乱流而逝 実 。此其三也 。 (A)は水経 の本文で ある。 これ によれば, 菓輸水 は麓 冷麻 の北 で五 流 に分 かれ, やがて 三 流 にな って海 に没す る とある。 この五水 は 49)水経注には多 くの版本と注釈があるが,ここで は楊守敬 ・熊会貞の 『水経注疏』を用い,必要 に応 じて永楽大典本他を参考にする。

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慶 SJLJ 額 図3 水経注37 菓 愉 水 水 系 図 1)sangThtrcrng 2)SangLUGNan 3)S6ngCa.u 4)S6ngCaL8 5)SangCon 6)S6ng王)ay 図4 紅 HU I: 競 競 軸 軸 鵬 t= rJ=3 g.J 仙 川 LT ・;・'・ 水 河 desRapides PhaLチ desBambous KinhThay ThailiinII Nan Dinh 図 水 経 注 で い う(B)の北水 左 水(C)の北 水南 水 (E)の其 次- 水 (F)の 中水 (G)の南 水 の こと で あ ろ うが ,次 の海 に流 入す る三 水 は(D )と (G)が あ るば か りで

,

「其 二」に あた る記 載 が な く比定 を 困 難 に して い る。 さ らに現 実 の方 位 と無 縁 な記 載 も多 く,水 経 注 の記 載 を そ の ま ま凶示 した 図 3と,現 実 の 紅 河 水 系 を概 念 化 した図 4と で は相 互 に ま った く異 な った もの とな って い る。 これ は後 述 す る よ うに伝 来 の過 程 で 多 くの脱 落 ・誤 記 が 生 じた た めで あ る。 したが っ て この復 元 の た め に は先 ず水 経 注 以 外 の他 の史 料 に よ って 判 明 しうる地 名 を確 定 し,つ い で これ に基 づ いて- 水 ,一 地 点 ごとの地 名比 定 を積 み重 ね る しか な い 。 1 麓 冷県 (図5参照) 麓 冷県 の比 定 は, 建武16年 (A.D.40)の徴 側 ・徽 式 の起 義 が この地 で 起 り,彼 女 た ち もま た この地 の離 将 の娘 で あ った とされ る こ とか ら,雑 田 雑 将 理 解 の上 に はきわ めて 重 要 で あ る。 麓 冷 県 の位 置 につ い て は古 来 諸説 が あ り,19世 紀 中葉 ま で の諸 見 解 を ま とめた 越史 通 鑑 綱 目前 編2建 武 5年 に は 膏 史 註 , 即 山西 安朗。 院 薦 輿地 志 ,麓 冷 即福 寿 古福 禄 。 繁 貴 惇 芸 台 類 語 ,麓 冷 即 峯 州 ,又 云麓 冷 即 安朗 。 唐地 理 志麓 冷 在福 禄 ・唐 林二 牌 之地 。文 献 通考 註 云 嘉 寧 ・ 承 化 ・新 昌泣 漠蒼 冷 僻地 。 又 唐書 峯州 統 嚇 五 ,嘉 寧 ・承化 ・新 昌 ・高 上 ・珠 緑 , 則麓 冷 即 峯州 馬 是. とあ る。 この よ うに ヴ ェ トナ ム側 の所 伝 で あ る山西 省 安朗 県 (フ ンイ ェ ン省Y昌nLang県 ) 読 , 同省 福 寿 県 (ソ ンタイ省

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県 ) 説 と, 中 国側 所 伝 で あ る峯 州 説 が 旧来 の諸 説 13

(12)

図 5 漠 代 麓 冷 県 関 係 図 (DinhVanNhat,oP・cit・,p・31よ り作図) と して は有 力で あ った。次 に各説 の根 拠 を検 討 してみ よ う。 旧史註 とある よ うに早 く大 安 朗 ・福寿 説 越史記外紀全 書 3に麓 冷 を 安朗 とす る見解 がみ られ る。 これ は弟 冷県 の雑将 の女 とされ る徴側 ・徴 式 の伝道蹟 が この地 に多 く分 布す るた めで,大 南 一統 志31によれば, 安朗県 の居安社 に は2 廃塁 があ り, これ は徴 王 (徴 側) の故 塁 で あ った とされ,同県 居安 ・下雷 の2社 には徴側 ・ 徴 弐 の両 が残 されて いた。 同 じ く福 寿説 もこ の徴側 ・徴 弐伝 承 に由来す る もので,徴姉 妹 入水 の地 とされ る福寿県 喝 門社 に は岡 が建 て られて い る。別 に安朗県 が徴 王 の都 した地 で ある とい う伝 承が皇越地輿 誌1にみ られ る。 1972年初 め, ヴ ェ トナムの考古学者 のグル 14

- プ は Y芭nLang県 のCl∫An・Ttr

Lをp 2社 に残 る Thanh Dさnとい う敵城 虻 を発 掘 した。 これが伝承 の 居安社徴 王廃塁 である ことはい うま で もない。 この城虻 か ら発 見 された 遺 物 は紀元前 2世紀末 か ら

1

世紀初 め に比定 された とい う。50)このほか 同県Tam Dang社 のThanhVtron の遺跡 ・住 居地 か ら紀 元前後 にかな りの人 口の集 住を示す 遺物 が発掘 さ れた とい う。51) これ らの遺跡 と伝 承 か ら,安朗県 ・ 福 寿県 が徴 側 ・徴 弐 と関係 す る当時 の一 つの 中心地 で あ った ことははば 誤 りな く, したが って この地 が麓 冷 県 の少 な くと も東端 を形成 して いた とす る ことがで きよ う。 次 に各 時代 の地 理 峯 州 説 志 を探す と,麓 冷 県 は呉代 に はい っ て新興郡 (の ち新 昌君田 と して交祉 郡 よ り独立 した。普代 には新 昌郡 は 6県 に分 け られ,麓 冷県 はこの6県 の うちに 名を とどめる。南斉書州都志,新 呂郡8県 に は もはや麓 冷 の名 はない。陪審地理志 で は旧 新 昌郡 は嘉 寧 ・新 昌 2県 に分かれ,唐代 で は 種 々の変遷 を経 て元和年 間 に峯州

5

県 (嘉 寧 ・承化 ・新 昌 ・嵩 山 ・珠 録) と して安定 した。 峯州 の領域 につ いて Masperoはデル タの北 西部,紅河 の両岸 お よび清江 (RiviとreClaire, 宣江 また は清 江, Sang

L

6Giang上流 ,

50)NguyさnLSc,"VaiY Ki さnvさBaiくくHuy合n Me LinhThaiHaiBaTrlrng)),"NCLS,175,p.92.

なお徴側 ・徴弐関係の遺顔,伝承地については

NguyさnNgpCChlXang,"BtrdcDauGibiThieu MSts8Ngや6n T血Lieu玉ungQuanhDiTich L

ich S在 ThuScv苔CuScKh8iNgh 王aHai Ba TrtTng,"NCLS,146,pp.23127に詳 しい紹介 が ある。

(13)

桜 井 :雑 田問題 の整理 Sらng Thanh Giang の 名 が あ る), 柁 江 (RiviもreNoire,黒 江,SangDa)の各渓 谷 低 位部 と し, 裂 朝 下 の 山西 承 宣 ,仏 領下 の ソ ン タイ ・ヴ ィンイ ェ ン ・フ トー各 省 に ほ ぼ ひ と し く,西 方 は雲 南 省 境 ,東 方 は S6ng

CaLB

を隔 てて交 祉 郡 と対 す る と した。52)行政区画 の変 遷 を追 う限 り, 多 少 の移 動 はあ って も, おお よそ 漠代麓 冷県- 南 朝新 呂君B=-唐代 峯州 -繁 朝 山西 承 宣 とす るの は首 肯 しうる。 しか し,班.Masperoは峯州 の東 城 をS6ng

Ca

.

Li

Sで画 して い る。これ は特 に典 拠 を付 し て い ない が,恐 らく太平 宴 芋 記 170交 州 条 で 「西北 至 峯 州嘉 寧牌 界 漏江 口水 陸 一・百 五十 里」 と し, 元 和郡県 志38峯州 条 で 「南 至 海 口江 -百 里」 とあ る点 か ら,峯州州 境 を 漏 口-Sang C

aLa

と考 え た の で あ ろ うO とす る と,先 の 安朗 県 は峯 州 の城外 とな り, 麓 冷 =-安朗読 と は矛盾 す る こ とに な る。 筆 者 は峯州 とす るの は いわ ば 目安 にす ぎず , 峯州 +安朗 と考 え るの が妥 当で な い か と思 う。 後代 , 峯 州 をつ い だ 山西 省 は, 安朗 県 を そ の 県 韓 に含 んで い る。53) Vi8t Tr主. B 早chH争C説 1918年 にい た -JてMaspero は麓 冷県 を Viet Tr主(越 池)・B争ChH早.C(白鶴)と す る説 を だ し多 くの学者 もこの説 を支 持 して

52)H・Maspero,"Leprotectoratg6n6rald'Annam souslesT'ang

,

"

p.605. 53)濯概排水学の海 田能宏氏の教示によれば,当該 地域の集落の位置,旧河道を思わせ る湖沼群, 行政区画線などをみると,S6ngCa

L

a

はかな り大 きな幅をもって,移動 していた可能性が強 いという。S6ngThiapの水源をなすH争L6i東 方の低地か らはもう一つの小河川が北上 して, S6ngThiapに向かっていることがわかる。 そ して この低地 と紅河本流の堤防とはわずかに2 キロメー トルほどしかへだたっていない。或い はかつて,S6ngC

a

LB

は現河口のほかに, も う一つH争L6i周辺に河 口をもち,それが一方 では S6ngThiapに流入 していた可能性はきわ めて強いと考え られる. とすれば現Y8nLang 県の西半は漏江 (S6ngCaL8)の酉にあること にな り,Masperoの峯州 -麓冷県 と矛盾 しな い。 い る。54)Masperoが 漢代麓 冷県 を 山西 省 西 端 に限定 す るの は,北 西 よ り交 祉郡 に流 入 す る 3大河 が 「麓 冷 」で 交 わ って1本 にな る とい う水経注の記載に拠 る。55) た しか にい わ ゆ る紅 河本 流 と柁 江 は現 在 の VietTri市 の西 南 約 7キ ロメー トル の地 点で 合 流 し, さ らに清 江 と は VietTr主市 の南 方 Bg,chH争C市 北 部 で交 わ り, 紅 河 1本 とな っ て デ ル タに 流 入す る。 した が って Maspero が西 随 三水 の合 流 点 を VietTri・B年Ch HすC とす るの は あ る程 度合理 性 が あ る。 実 は この記 載 は水 経 注 本 文 に はな く,水 経 注釈 37にあ る全 祖 望 の釈 文 中 に あ る。 この典 拠 は漢書 28上地 理 志 に載 る益 州 郡 来 唯県 ・群 村 郡 西 随県 ・都 夢県 条 に基づ いて い る。56)こ れ を全 祖 望説 の よ うに麓 冷水 道 の意 と とるか, 57)或 い はた だ農 冷県 轄 を意 味 す る ととるか, いず れ にせ よ Masperoのい うよ う に麓 冷県 を三水 の一致 す る地 に狭 く限 定 す る必要 はな い。 また 仮 に前述 の ど と く,漢 代轟 冷県 に相 当 す る唐代 峯州の府 治 がVietTri・B争ChH早一Cに 54)H.Maspero,``L'exp6dition deMaYuan,"p. 12;Cl.Madrolle,oP.cit.,p.272.;片倉穣 『ベ ト ナムの歴史 と東アジア』杉 山書店,1977,p・39・ なお このほか後藤均平氏は安朗説 (「徴姉妹の 反乱」p.214;『ベ トナム救国抗争史』p・76)を とり,LichS丘VietNam,T各plは 「旧 ソンタ イ省 と現ヴィンフー省」(pl80)として,峯州税 をとっている。

55)H.Maspero

,

"

Leprotectoratg6n6rald'Annam

,

"

p.573.

56)L.Aurousseau,"Lapremiとreconquetechinoise despaysannamites,"BEFEO,XXIII,1923, p.164. 57)釆唯。従隠山出銅,勢水出徹外,東至麓冷入南 海,過郡三行三千五百六十里酉随。廉水西受徽 外,東至麓伶人尚龍乳 過郡二,行千一百六里O 都夢。壷水東南至弟冷,入尚龍累,過郡二行千 一百六十里. 水経注釈37は 「全氏日」としてこの漢書地理志 をひいたのち,「是皆所云摩冷水道也」 と して いる。この場合蔑冷水道 とは,後述のように, 麓冷県 と益州の責古県を結ぶ水路をいう。現在 の紅河上流を指す と考えてよかろう。 15

(14)

東南 ア ジア研 究 17巻1号 比定 しえた と して も,58),59)峯州 府 治 が即麓 冷 県 城 であ った とす る い わ れ はな い。60)た とえ ば青書 地 理 志 に ひ く新 昌郡 6県 で は,嘉 寧県 とと も に縮少 され た麓 冷県 が別 の県 と して お かれて い る。 これ は漠代麓 冷県 の 中心 が, 磨 代嘉 寧県 の府 治 とは異 な って いた ことを示 す もので あ る。 した が って M asperoが麓 冷 一 義 寧- Viet Tri-B早ch H早.Cと直線 的 に結 びつ ける理 解61) は首 肯 Lがた く,む しろ漢 代麓 冷 はVietTri・ B早ch H 争.Cを その県 韓 の中 に含 んで い た もの と理 解 した い。 これ は峯州

+

安朗 説 と矛盾 す る もの で はない。 Dinh Van Nhをt 説 最 近 で は DinhVan Nhをt氏 が農 冷県 を北西 は紅 河上流 に 沿 って フ トー省 に拡 が り, 南 西 はニ ン ビ ン省 にわ た る広大 な領域 で あ った とす る説 をだ して い る。62)す なわ ち氏 は水 経 注37に載 る建 武19年 (A.D.43)の馬 援 の奏 請 に 「徒麓 冷 出費 古 撃 益州

「馬 援 言,徒弟 冷水 道 , 出進桑 王 国, 至 益 州 貴盲爆 」 か ら,農 冷 58)H・Maspero,op.lit.,p.667.この論拠は大南一 統志,皇適地輿誌などに山西省白鶴に三帯また は白鶴 という両があり, これは峯州都督を帝巳っ たとあるに拠る。 59)Binh氏は峯州府拾, すなわち嘉寧城の位置を より南方,泥江 と紅河の合流点に近い,バ ビ丘 陵の外郭に位置するTrungHa-YenKタ線に考 えている.(DinhVanNhat,oA.cit.,p.30.)し か し,この論拠は都護府より130里 という元和 郡願志の記述より,130里すなわち69キロメー トルをハノイより逆行 させたものにすぎない。 唐代承化君即ま峯州州治嘉寧城の北西5里に位置 し,同郡には可瀬山 ・仙嶺山という山岳があっ たという。 (太平棄宇記170;H.Maspero,op. cit・,p・667・) Dinh氏説の TrungHa-YenKタ を嘉寧 とすると,その北西方面の地に,こうし た山岳地帯 を考えることは難 しい。 この点, Masperoの VietTrトBチChH争C 説は西北方に フ トー省 の 山岳地帯 を有するだけ妥当性 があ る。 60)ただ し太平棄芋記170は 「嘉寧願,五郷,州所 理,漠麓冷僻地,属交祉都農冷」としている。 61)H.Maspero

,

"L'exp6ditiondeMaYuan,〟p.12. 62)DinhV孟nN】埴t,oP.lit.,pp.24-43. 16 県 の北 西 を 旧 フ トー省 全 体 を包 み こみ, 益 州 (雲 南 方 面 )に連 な る もの と考 えた。63)次 に三 国志

5

3

辞 綜 伝 中 の「交祉 麓 冷 ・九真都 厳 二

解」

の句 か ら, 九真 (通常 タ イ ンホ ア省 Thanh H(iaに比定 され る)と麓 冷県 が 隣接 して いた と した。64) た しか に雲南 省 にあ った と思 われ る西 随県 の南 に は県 が な く,麓 冷県 に直 通す る。 これ は弟 冷県 が交虻 郡 最西 北 の県 で あ った ことを 意味 す る が, しか し, それ は弟 冷県 が紅 河 沿 い に中 国南境 に達す る ことを意 味す る もので はな く, この間 に拡 が る非 漠化民 の広 大 な 空 間を考 え な けれ ば な らな い。65) さて水 陸注36に は 「究 」 の字 を もつ地 名 が 散 見 す る。66)いず れ も九徳 郡 (タイ ンホ ア に 比 定 され る) 以 南 の地 で あ る。 この究 につ い て水 経 注36所 引の竺 枝扶 南 記 で は 「山渓瀬 中 謂 之 究」と して い る。鄭 道 元 は これを うけて 地 理 志 (漢書) 日郡 (九度) 有 小水 五十 二 井 行大 川 ,皆 究之謂 也。 と して,現 中部 ヴ ェ トナ ム の南 海 に流入す る 諸 小 河 川 の名で あ る と考 え て い る0 - 万, 磨 草 懐 太子 は後 漢 書116南 蛮伝 注 に 「究不 事 人 , 轡 夷別 競 也 」 と して, 究 が蛮 夷 の 意 で ある と して い る。 いず れ にせ よ, 究 が 山 間渓谷 部 , また はそ こに居住 す る南方 非漢 化 民 の呼 称で あ る ことは誤 りな い。67)この究 名 を もつ地 名 63)DinhVanNhat,op・lit.,pp.25-26・ Dinh氏は後者を 「麓冷県の水道にしたがって TiさnTang(進桑)国にいで --益州の責古県 にいたる」 と訳出 しているが正 しくない。粛冷 水道とは注57)にひいた着水,もしくは全祖望 にしたがえば麓水 と労水のことであり,麓冷県 の水道の意ではない。 64)DinhV孟nNh各t,oP.ci

z

.,p.26.

65)AurousseauはDinhVanNhatとはまった く逆

に,前述の漢書28上の西随 ・進桑両県の記載か ら,この両県 はVietTriの北まで迫 っていたと して, トゥエンクァン地方であるとしている。 (L.Aurousseau,op・cit

,p・164・) 66)郎究,越裳究,九徳究,南陵究,文狼究,無狼 究,金山郎究,古郎究など。 67)水経注要疏制37。また水経注疏37に引用する洪 願焙の説では 「究蟹夷附落名」とある。

(15)

桜 井 :雑 田問題 の整理 は交 虻郡 内に も存 在 す る。 後 漢書54馬 援 伝 で は徴 側 が馬 暖 に敗 れ る と 「禁 糸 」 とい う地 に 逃 げ こんだ とあ る。 これ は水 経 注37で は 「金 渓 究 」 と して い る。 もと は水 経 注 の記 載 の よ うに 「究 」 名 を も った もの とみ え ,後 漢書 章 懐 太 子注 で は越 志 か らひい て 「金 浜穴 」 と し て い る。68) この金 渓 究 ま た は禁糸 の 位 置 に つ いて は章 懐 太子 は 「其 地 今苓 州 (峯 州 の誤 )新 昌

」 69) と し, 胡 三省 は 「蓋 ,麓 冷麻 西 南」70)と して い る。 さ らに綱 目前 編2は 「接 此 ,則禁 渓 富 在 山西 之 永 祥 地 轄」 と し,L享chS丘 VietNan はⅤ王nhPhd省 の Y8n L争C県 と して い る.71) Yen L争C は院 代 で は 永 祥分 府 を 形成 して い た か ら, 後 者 は前者 の系統 を ひ くと考 え られ よ う。 筆 者 は 後 年 李 童 の反 乱 で, 李 責 が 嘉 寧 城 (Viet Tri・B年Ch H争C)を逐 わ れ 潜 居 した の が新 昌郡 中 の猿 の地 で あ った こ と,また2/-3 年72)漠 軍 の進 攻 に耐 え るべ き 要 害 の地 で あ った こと, ま た 唐代 で は新 昌県 と考 え られ て い た73)こ とか ら,現 今 の フ トー省 山岳 盆地 の 68)選一清は 「穴」は 「究」の誤 りとしている。水 経注釈37。 69)後漢書52 割隆伝注;H.Maspero・,op.liz.,p. 17.なお楊守敬は苓州 は峯州の誤 りとしている。 (水経注疏37)これは資治通鑑43 建武18年胡 氏注に拠 った ものであろう。 70)資治通鑑43 建武18年胡氏注。 71)この見解は恐 らくDaoDuyAnhのGiaido苧n quad¢sangchさdSphongki6n・にあるVinh Yan省,AnLg.C県,Cam Khさ または Cam Vien説 に基づ く もので あ ろう。 (Dinh Van Nhat了`DNatC互m Kh昌,C昆nCtlCu6iCingCaa HaiBaTru・ngTrong Cu与cKhる・iNgh 王aMe -LinhN益・m 40-43,"NCLS,148,pp.27-28.)し か し,この地は馬接が根拠地をおいたであろう TiさnDu山塊か らは, わずか50キロメー トル -だたっているにすぎず, しか もこの間,行軍 を妨げるべ き山地はない。またこの地 は唐代峯 州 の最東端に位置 し,誤 りな く漢代では麓冷県 の地である。 この地が放れて 「走入 し」 (水経 注37),2年 にわたって漢軍の攻勢を支えたと は思えない。 72)後漢書54では2年,水経注37では3年。 73)太平蒙手記170「新昌願--乃奔金渓穴中二年, ---郎此其地也」。 いず れ か に比 定 で きる と考 えて い る。74) いず れ にせ よ漢 代 の交 祉 郡 西 北 と中国西 南 との境 に は 巨大 な非 湊 化 民地 帯 が あ り, そ の 東 端 に は究 名を もつ地 域 が存 在 し,県 と して は意 識 され な か った と考 え るべ きで はな か ろ うか 。 とす れ ば,麓 冷 県 の境 界 はや は り,VietTri 付 近 か ら渓 谷 平 面 に沿 って 若干 遡 及 した程 度 と考 え るべ きで あ ろ う。 元 和 郡県 志38によれ ば峯 州 の州 治 か ら北200里 に 「南 康 平 南 州 界」 が あ る とい う。 州 治 を M aspero説 に した が って,VietTri・B早.ChHg,Cとす れ ば,北 方200 壁 (約112キ ロメー トル)は紅 河上 流 で は Yen Bai(安浦 ) にあた る 。 この地 は院 朝初 期 に は土 歯 の支配 下 で あ った 宣 光 省 と, 直轄 地 山 西 省 の境 界 にあた る。 唐 代 にお い て よ うや く Y昌n Baiの線 まで とす れ ば,漠 代 にお い て は Dinh説 の ど と く, 麓 冷県 が紅 河 に沿 って フ トー省 河 岸 平地 部 を 含 んで いた とは考 え られ な い 。 次 に麓 冷 県 の南 限 につ い て の Dinh氏 の見 解 を み る。 Dinh氏 の唯一 の論 拠 で あ る三 国 志 の記 述 は交 昆止郡 ・九頁郡 内で特 異 な風 俗 が 残 って い る県 を た だ並 べ ただ けで ,都鹿 ・麓 冷 2県 が 隣 接 して い る意 で はな い。75)さ らに 74)DinhV昆nNhatは 「究」(Cllu)を谷間と考え, 綱 目引用の水経注にひく越志では金漠,禁糸は 糞冷県 の西南にあるという点,またバ ビ丘陵の 長南に VuaBa(女王)という山があることを 主たる論拠 として, バ ビ丘陵 よ り流れるSu6i Vangの渓谷を禁累 とした。 (Dinhvan Nhat, NCLS,148,pp.29-32.)しか し,これは綱 目注 の完全な読み違いである。原文は 「鄭道元水経 註 ・越志作金渓地在麓冷1蘇西南」とあり,水経 注および越志は禁累を金渓 とよんでいるという にすぎない。 この地が麓冷県の西南であるとい う知識は恐 らく前述の胡三省註をで るものでは なかろうか。ちなみにここでひ く越志は後漢書 章懐太子注をひいた ものであることはいうまで もないo したが って,禁糸 -SudiVang説 はか なり根拠が薄弱である。

75)仮に九真郡 と歪冷県が接 していたとして も,両

者の境界は S6ngDay,SらngConの西方に拡 が るバ ビ丘陵の広大な非漢化地帯であった こと

は誤 りない。

(16)

東 南 ア ジア研 究 17巻 1号 { こI.≠ 二 ヽ 、、、 iI 、\、 l -___≡0 _____--I ′._∠ ビ ッド河 __一′ 7 .′ 一--一一一′ L∼unglくh毒 ーー一一_一一′ ・ lKhJd

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河 幅 - 3メートル標 高原 ◎ 都 市 ■■ 残丘 I 士 王関 係村 落 図6 ラピッド河床沿いに発達 した3メー トル以上の徽高地および残良

(P.Gourou,op.lit.,CarteHypsom6triqueより作図)1/250,000

麓 冷

1

県 を この よ うな広 大 な地 域 と して理 解 す る と,他 の9県 , と くに九徳 郡 に接す る南 水 沿 いの句 漏 ・安定両県 の位 置比 定 が 困難 と な り, この説 は容 れ がた い。 しか し,水 経注37に載 る水 経 本 文 をみ る と 葉 輸水 , す なわ ち紅 河 は麓 冷県 の北 をす ぎて 五流 に分 流す る とあ る。 した が って麓 冷県 は 紅 河 がS6ngBay・S6ngCaL8と本 流 に分 岐 す るPhdcTh()県 以 前 の南 岸 に もあ った こと は誤 りな い。 PhdcThQ県 の南 に は Th早.Ch That県 が あ るが , 後 述 す る よ うに この県 を 漠代 の句 漏県 とす る ことは諸説 が一致 して い る。 したが って麓 冷県 の商 域 は紅 河 とバ ビ丘 陵 の間,QuangOai(贋威)So,nTay市,Phdc Thgの 諸県 に 限 る のが妥 当で あ ろ う。 以 上, 筆者 は漢 代麓 冷県 韓 を 北西 は Viet Tri・BachH争C,北 はヴ ィ ン トゥオ ン省 の 山岳 部 ,南 はQuangOai府 ,東 は Y6nL卑・C・Yさn Langの2県 を含 む地 域 に限定 し,遺 蹟 を重 視 すれ ば,YさnLang方面 に そ の 中心 が あ っ 18 た と考 えた い。 2 義 隆 県 (図6参照) 前 漢の郡 治 が おかれ た蘇陵 の位 置 につ いて 現 在 まで に有 力 な説 が だ されて い る。越 史 通 鑑 綱 目前 編2元封 元年 条 註 に は 蘇陽 願 。 名威交配 郡 , 今北 寧超 類 焼渓 社 。 猶有 故 城遺 虻 。 と し,大 南 一統 志38北 寧省 で は 隣渓故 城 。在超 類障 渓 社 。安南 志士 饗 治 蘇障城 。即此史記 元 即龍 編。76) と して い る。 両 者 に共 通 して 陳渓 社 を蘇陽 とす るの は, この地 に上 述 の故城 址 が残 されて い た か らで あ る。 また 同 慶御 覧地 輿 誌 北寧省 に は 陳渓古 廟 。乃 南郊 学 社 祖士 王,故 都蘇 障 城 也。 其陵在 三亜社 。 とあ る。 こ こで い う士 王 の 廟 の あ る 三亜 社

(Tham

A)

は陳漢 社 (LangKh8)の東 方 1・5 キ ロメー トル の地 で あ る。 この よ うに ラ ピ ッ ド河南岸 の Thu合.nTha.nh県 (腫 城府) を 中 心 に士 王の遺 蹟 が集 中 して い る。77)

この伝 承 に も拘 らず,H.Masperoは元 和 郡 県 志38に義 隆 は都 護府 の西北65里 とあ る記 述 か ら,現 在 のHaD6ng市 の南 に設 定 した078) しか し, この所説 はその唯一 の根 拠 で あ る元 76)史記 とは大越史記全書のことである。漢書地理 志 ・後漢書郡国志の記載 にしたがえば,龍編県 と粛β婁県は明 らかに別であり,全書のこの記載 を誤 りとする綱 目前編2 元封元年条の指摘は 正 し

い。

77)この地域における土埜関係の遺蹟 ・伝承を紹介 したものにHaBacNganN且m VanHiさn,Tをp l,HaBac,1973,I?P・22-26がある0 78)H・Maspero,op・czt・,p・11・

(17)

桜 井 :雑 田問題 の整 理 和郡県 志 の記 述 が方角 ・距 離 と も信用 で きな い こと は M aspero自身 が説 くところで あ り, 後漢書 師古 住 で は 「庭 。郡 治。在 龍編 之東 。 蓋 蘇陽 城」79) と して,龍 編 (M asperoに よれ ばバ クニ ン市 付近) の東 に設 定 して い る。 さ らに 当の M asperoが別 の書 で は- ドン市 南 方 に は定安県80)を考 えて い る。 した が って 蘇 陽 -- ドン説 は賛 同 しがた い。 1937年 にいた って

C

l.M adrolleは再 び, 蘇 陽 を Thuan Thanh府 の LGng Kh8ま た は Khro・ng Ttr (妾寺) とす る 説 を だ し た。81) これ はほ とん ど M .HenryW intrebert の踏 査記 に よる もので , その 論 拠 は第 1に LangKhさ に接 して, 散 城虻 が残 り, Li昌n Lau(南陽 )と呼ばれ て い る こと,第 2に住 民 は士 壁 を 敬愛 して い る こと, 第 3に 古 塔 が Khu・αngTIFに建 て られて い る ことに集 約 さ れ る。 この よ うに M adrolleの説 は旧来 の士 饗 廟 の位 置 か ら蘇陽 を比定 した もので,綱 目, 一 統 志 の説 のむ しかえ しに過 ぎな い。 士 壁 廟 の 信 悪 性 で はヴ ェ トナム側 の伝 承 に はどの程 度信 頼 がお け る も のだ ろ うか。交 州 太守 とし て威 をふ る った士 壁 は黄初7年 (226)に没 す るが, 死後 ま もな く神仙伝説 中の人物 とな っ た ことが三国志49所 引の 神仙伝 中 に み られ る。82)さ らに卑 旬 幽霊 集 中で は普 天 ,林 邑が 侵 入 して土壁 の陵 を廉 いた こ と,唐 の威 通年 問, 高齢 が この地 を通過 した ことが記 され て い る。 この よ うな早期 の神格 化 過程 をみ る と, 士 嬰 の死後 ま もない ころか ら, この地 を陵廟 の地 とす る伝 承 が生 まれ て いた こと は誤 りな く, とす れ ば陳渓社 が士饗 と大 きな関係 を も って いた こと も誤 りなか ろ う。83) この敵 城祉一 帯 は1971年 にヴ ェ トナ ム考古 79)後漢書54 馬援伝。

80)H.Maspero,"IJeprOteCtOratg6n6rald'Annam," p.582. 81)Cl.Madrolle,op.lit.,pp.267-27L. 82)後藤均平 『ベ トナム救国抗争史』p.180. 学 院 の手 に よ って発 掘 され たが,い まだ (1975 年 末) その報 告書 は公 表 されて い ない。84)し か し, 現 在 の ヴ ェ トナ ム人研 究者 は Thuをn Thanhを南陽故 城 とす る ことにほ とん ど 疑 い を もって いない。85) 筆 者 は M aspero 説 が前述 の よ うに きわ め て根 拠 が薄 弱な こと, また筆者 の知 る限 り, 蘇 陽 を tJang Kh昌以 外 の地 に比 定す る積 極 的 な議 論 が ない こと,IJGngKh昌を蘇陽 とす る伝承 が か な り古 くか ら残 され て いる こと, そ して後述 す るよ うに,水 経 注 の記述 か らも ラ ピ ッ ド河南 岸 に同定 して無理 が ない ことな どの理 由か ら, か な り消 去 法 的な議 論 で はあ るが, 蘇篠 を ThuをnThanhの LGngKh昌 付 近 と考 え る。 3 封 渓県 紅 河 左岸,現 在 は- ノイ特 別市 に含 まれ る D6ngNgan県 の台地 上 に,CaLoa(古 螺 ) とよばれ る古 代 の大 通 蹟 が あ る。86)古 螺 城 は 萄 安 陽王 の築 城 による とい う伝承 が古 くか ら あ り,87)最近 の考 古 学 調査で も ドンソ ン期 と 83)しか し,実は土壁に関するほとんど唯一の信頼 できる記録である三国志49 土壁伝には,士饗 が龍編侯に任 じられた記録はあっても,その治 所を蔵陣 とする記述はない。土壁の治所を巌P宴 としたのは,安南志原引用の偽越外記が 「士埜 築歳隠城」とし,卑旬幽霊集が 「王治哀隈,及 虞信二所」としたのに始まる。恐 らくヴェ トナ ム側の所伝では士埜治所蔵P真説がかなり古 くか らあったのであろう。

84)Tra

mQ

u6cVtrgng,HaVanT孟n,DiepDinh

Hoa,"C6S6・KhaoC8HqC,"HaNらi,1975, p.228.

なお これ ら漠代諸遺跡 の発掘状況 については LさVanLanの HTaiLieu KhaoCa HQCVa

ViecNgh ien C血1ThふiKy HaiBaTnrng," NCLS,148,pp・35-40に詳 しい紹介がある。 85)Ibid.,p.245. 86)遺跡の詳細な地図は L主chS古VietNan,T与pl, p.71および本論図9を参照。 87)たとえば安南志原 2 城郭故地に 越王城在東岸願,又名螺城,以其屈曲形如螺也。 其制始白安陽王,環九曲重。又名可蛙城。古安 陽王所築所也。=・-城中有安陽王宮。故地猶存。 19

図 5 漠 代 麓 冷 県 関 係 図 ( Di nhVanNh a t ,o P ・c i t ・ ,p・31 よ り作図) と して は有 力で あ った。次 に各説 の根 拠 を検 討 してみ よ う。 旧史註 とある よ うに早 く大 安 朗 ・福寿 説 越史記外紀全 書 3 に麓 冷 を 安朗 とす る見解 がみ られ る。 これ は弟 冷県 の雑将 の女 とされ る徴側 ・徴 式 の伝道蹟 が この地 に多 く分 布す るた めで,大 南 一統 志 31 によれば , 安朗県 の居安社 に は
図 9 CaLoaの遺跡図 ( L享 c hS丘Vi e tNam,p.7 1より) 月徳 ・天徳 ・五麻渓 ‥‥ ● ●● ‥」 の句 があ り, 五県 漠 は明 らか に S6ngCaL 6, ラピ ッ ド河 とな らんで紅 河 の分 流 と して意識 されて い る。 同 奏 文 中 に は西 山院 氏 の時,紅 河 の! 是防 が完成 され, このた めに支流 の江 口が完全 に塞 がれ た とある 。 これが正 しければ, 1 8 世紀 末 には 切 り離 されたが, 1 9 世紀 中葉 で もな

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