• 検索結果がありません。

他 方 , 元 和郡 県 志 で は朱 戴 県 は 「東 南 至 府 132)H.Maspero,oP.tit.,p・582・

133)H.Maspero,"Etudes d'histoire d'Annam,"

BEFEO,XVI,1916,p.4.

134)嘉寧城の西 とすれば, 紅河上流, フ トー省の あた りか。ちなみに後藤均平氏 はこの毅を ラオ 族 と解 し (後藤均平 『ベ トナム 救 国抗争史』

p.211),Tram Qu6cVtrgng氏 はTayC8 (古 岱 族) と した。 (Tran Qu6c Vtrgng,"Bat

N

血ocNgutrbivaVan Minh VietNan Thai

Ca,"Hもng Vucrng DlJng Nu6・C,ⅠⅤ,p.92.) いずれ も民族名称 と考えている。 ラオ (タイ) 族の北部高地進出時期 は明 らかでな く,かつ古 代 中国史料が近代 の民族分布 に正確 に漢字表記 をあてた とも思えない.棟は本来栄子 または山 子 として,中国西南部 に居住す る非漢化民の一 般名称である。片倉穣氏 は唐代ヴェ トナムの税 制を分析する中で,夷瞭戸 とは 「比較的漠化の うすか った人 々」を指す としている。筆者は片 倉氏の見解 に賛同す る。 (片倉穣 「中国支配下 の ベ トナム(Ⅱ)

歴史学研究』 381,1972, p.34.)

36

五 里 」 す な わ ち都 護 府 の西 北 5里 の地 に あ る とされ , また馬 援 が 鋼 船 を 沈 めた河 は 「朱 戴 江 」 と され る。 別 に龍 編県 に朱 戴 江 が あ るの は太 平 棄 宇 記 と同 じで あ る

。Ma s pe r o

にお い て は この龍 編 県 にあ る朱 戴 江 が朱 戴 ‑‑ イ ズ

ォ ン説 の‑ 根 拠 とな って い る。

しか し,先 ず 龍 編県 に あ る朱 戴 江 と朱 戴 県 にあ る朱 戴 水 ま た は朱 戴 江 が 同一 の もので あ るか が 問 題 で あ る。後 者 の朱 戴 江 は県 の北 1 里 に あ る とい う。(元 和 郡 県 志 )他 方 前 者 は龍 編 県 城 の北 で あ る と され る。(元 和郡 県 志 ) 両 者 が 同一 の 河 とす れ ば, 龍 編県 は朱 戴 県 と こ の 河 の 間 1里 の 中 に位 置 しな けれ ば な らず , 龍 編県 が府 城 の東 南45里 (太平 棄 宇 記 ・元 和 郡 県 志 ) に あ る とす る記 述 と大 き く矛 盾 す る

二 つ の県 に お の お の記 述 が あ る以 上 , 別 の河 と考 え るの が 自然 で あ ろ う。

こ こで前 述 の水 経 注 に, 交 祉 郡 北 界 の一 江 が朱 戴 県 に対 して い る と した 明 らか な誤 伝 が 問題 とな る。 交 祉 郡 北 界 を走 る一 江 と, 龍 編 の 北 を 抜 け る一 江 は 前 述 の よ う に

S6 ng

Ca

L

6 以 外 に は考 え られ な い が , 太 平 蒙 芋 記 , 元 和 郡 県 志 の 作 者 は と もに水 経 注 の この誤 伝 にひ か れ て ,

Sa ng

Ca

L 8 ‑Sa ng

C

a u

を朱 戴 江 と命 名 した の で はな か ろ うか 。

で は一 方 の朱 戴 県 に存 在 す る朱 戴 江 また は 朱 戴 水 は ど の よ うに考 え るべ きだ ろ うか。 こ こで , 馬 援 が鋼 船 を 沈 め た とす る伝 承 が 問題 にな って くる。

前 述 の よ うに太 平 棄 芋 記 170, 元 和郡 県 志

38

に よれ ば, 馬 接 は朱 戴 江 も しくは朱 戴 水 に 鋼 船 を 沈 め た とす るO この 伝 承 は

Ma s pe r o

が す で に指 摘 す る よ うに, 水 経 注 , 後 漢 書 郡 国 志 北 堂 書妙 137, 太 平 御 覧769の交記 に引 用 され る越 王 が 安 定県 に沈 めた 鋼 船 の 話 に酷 似 す る

。Ma s pe r o

は これ を違 う話 と して い る が,135)江 に鋼 船 を 沈 め る とい うモ チ ー フ は ど 135)H.Maspero,"Le protectoratg占ngrald'An

nam,"p・582・

桜井 :離 田問題 の整理 うも同地 方 に伝 わ った 同一 の伝 承 の よ うに思

え る。 先 にみた よ うに,安定 は紅 河 と S6ng Dayの 中間,ハ ドン省南 部 か らp‑haL3,運河

にか けて の地 で あ り,水 経 注 で は この鋼船 は 帯 長 江 (筆者 の考 証 に したが え ば紅 河) に沈 め られ た とあ る。 したが って朱戴 江 は ラ ピ ッ

ド運 河 と分離 後 の紅 河 の別 称 とす る ことがで きる。 これ も‑ ドン地 区 を朱戴県 とす る こ と に矛盾 しな い

次 に, 行政 区画 の点 か らみ る 朱戴 の 名 は 六朝 ・晴 を 通 じて用 い られたが, 唐 の武徳 4 年

( 6 2 1 )

, 戴州に改 め られた 戴州は高 陵安 定 の

2

県 を有 して いた が, 後 貞 観元年

( 6 2 7)

両県 は廃 されて 旧名 の朱 蔵 が用 い られた。 こ れ は朱戴 が安定県 に隣接 した地 域 で あ った こ とを示 して い る。 また隔 書地 理志 に よれ ば隔 以 前 ,朱 戴 は武平郡 に属 して いた が,武平 は 先 にみた よ うにS6ngCA士‑6の北 か ら封 漢県 , す なわ ちD6ngNganを含 む地 で あ るO した が って朱戯 は封 渓県 に も隣接 しな けれ ばな ら ない。封 渓県 (ドンガ ン県) と安定県 (‑ ド ン省 南 部) に同時 に隣接 しうるの は‑ ドン省 北部 しか ない。

次 に, ヴ ェ トナ ム側 所伝 をみ る と李 責 の滅 んだ あ と, これを継 いだ朱 戴 出身 の超 越 王 は 大越 史 記外 紀全 書4に よれ ば朱戒 の 夜

滞( D

TrすCh)の地 に拠 って 中国軍 と抗 戟す る。D早一 Tr卑一Chは外紀全 書4によれ ば別 名 自然洲 とよ

ば れ, 当時現 存 して いた とい う。綱 目前 編 は 大清 一統 志 にい う建 呂府 東 結県 で あ り, 快州 府東 安県 で ある とい う。現 に, 同慶御 覧地 輿 誌図 には 「夜揮虞 」 が快州府 治 の北 に示 して あ る。 この伝承 が仮 に何 らかの根 拠 に基 づ い て い た とす れ ば,朱 戴県 の県 轄 は一 部紅 河 を こえて Kh(SaiChau周 辺 まで お よん で いた こ とにな る

次 に同 じ く大越 史 記外 紀全 書 4によれば, いわ ゆ る後李南 帝李仏 子 は, この超 越 王 と和 議 を結 んで, 両者 の 国境 を君 臣州 と し, 自 ら

は烏 武 威 に篭 った とい う。君 臣州 は全 書 割 註 で は慈廉 県 上葛 ,下 葛 の2社 で あ る。 これ は 覗‑ ノ イ市 の西 方 に隣 接す る

T

止Liem 県 で あ り,朱戴 県 の領域 の西端 とす る にふ さわ し い。 同 じ く烏戴 城 は全書 割 註 で は慈廉 県 の下 姥 社 で あ る。烏 戴 が朱蔵 に対 する もの と考 え● ● れ ば, あ るい はS6ng

Tt

rLiem を指 した の か も しれ ない 。

この よ うにみ る と き,朱 憩 に関す る伝 承 も こと ご と く‑ ドン省 周 辺 に集 中 してい る こと が わか る。以 上 の理 由 に よ って,朱 戴 をS6ng Dayと紅 河 に囲まれた地 域 とす る先 の仮説 は 妥 当であ った ことがわ か る。】36)

Ⅲ デル タ地 形 の 多様 性 と農 業 形態 に関 す る仮 説

1 地 形 的分類

以 上 の どと く,水 経 注 を 中心 とす る古 中国 文 献 を み る限 り,前漢交祉郡

1 0

県 また は後 漢 代 の12県 は,最大 に考 えて も北 辺 を タムダ オ

山塊 とバ クソ ン弧状 山脈 のつ くるテ ラス まで, 西 辺 を フ トー省 の東方 山塊 か らバ ビ丘 陵 の南 東 腹 まで,南辺 はPhaLテ運河‑KhdaiChau

‑SeptPagodes線 まで, 東 辺 を ドンチ ュウ (BangTri8tl)丘陵 の南西 腹 か らSeptPago‑

desまで にお さま る こととな った。 した が っ て ほ ぼ標 高1メー トル未 満 の紅 河 デル タ ・タ イ ビ ンデル タの大 部分 は県 を形成 す る, すな 136)なお太平棄芋記170交州には「東至朱戴願界小 義江口,水路五百三十里。南至朱戯願界何努江 口,水路五百三十里」とある。黄江 とは安南志 原によれば紅河下流,LyNhan以南の流れを指 す らしい。 小黄江口は現 S6ngTr

aL

タに比定 されるという。(山本達郎編 『ベ トナム中国関係 付図』山川出版社,1975.)もしこの比定が正 し ければ,唐代の失意県の商域はバ ンプー運河を 越えていたことになる0‑万の何労江口は読史 方輿宗己要112によれば,はるか北方のランソンに

あったとされ,甚 しく比定が困難 となる。

37

東 南 ア ジ ア研 究 171 わ ち集 住 に よる農 業 開発 の段階 にい まだ いた

って い な か った とす る こ とがで きよ う。(図

1 1

参 照) で は紀 元前 後 の この時期 ,該地 域 にお け る農耕 に はどの よ うな種別 があ り, その中 で雑 田 はどの よ うに位 置づ け られ るだ ろ うか。

該地域 は,高 谷 好一 氏 の分 類 に した が えば

137)(1)Terraceandhill(2)Northfloodplain

( 3 )

W estfloodplain

( 4 )

Upperdeltaの地 域 に あた る。 そ して 同時 に この地 域 は P.Gou‑

rouの村 落分 類 によれば, ち ょうど起 伏地 上 の村 落 (Villagesderelief)の分 布 と完全 に一 致138)す る。

両者 の分類 を もとに, 既述 の漢代 各県 を地 域 分類す る と以 下 の よ うにな る

(1)テ ラス これ はデ ル タを 囲続け るパ ピー タムダ オー バ クソ ンー ドンチ ュウ各 山塊 の南 面 また は東面 で行 われた もので, 漠代 の扶 巌 究 ・禁 渓 究 な どが これ に あた る

(2)扇 状地 テ ラス下 位 に 沿 って VietTri 以 西 の紅 河 ・清江 ・氾 江 お よび S6ngCau・ SangThuげng各 河川 のつ くりだす 扇状 地 で , 漠代麓 冷県 西 部 ・望海県 北部 ・曲易県東 北部 , 句 漏県 西 部 な どが これ にあた る。

(3)Northfloodplain西 部 お よびW estflood‑

plain北 半,Upperdelta これ らの地 域 に は 多 くの例外 を 含 み つつ も,大 河 の つ くりだす 自然堤 防上 の村 落(Villagesdeborrelets且uv‑

iaux)が分 布 して い る。 漢代弟 冷県 東 部 ・封 渓 県南 半 ・義 隆県 ・朱戴 県 ・安定県 ・句 漏県 東 部 な どが これ にあた る。

(4)Northfloodplain 中央部 バ ク ソ ン山塊 の残 した残丘 の周 辺 に村 落 が成 立 す る。(ViL lagesdeborduredecollines)漢代 で は西 干 県 ・龍 編県 ・北帯県 西 部 が これ に あた る。

(5)North 且oodplain東 部 これ は(3)と同 じよ うな 自然堤 防 上の村 落 で あ りな が ら, 潮 137)Y.Takaya,"Rice Cropping Patterns in

Southern Asia Delta,"South Ed∫t A∫ian Studie∫,13‑2,1975,pp,271‑272.

138)P・Gourou

, o p

・lit.,pp・237‑249.

38

水 の影 響 を うける地 域で あ る。漠代 北帯 県 東 部 ・稽徐県 ・曲易県 な どが これ にあた る。

次 に以 上 の分 類 に した が って各地 域 の特性 とそ こか ら規 定 され る伝統 的 な農 業 形態 を紹 介 し, これを もとに漠代 農耕 を推 定 して みた い 。

2

テ ラスお よび扇 状地 にお ける農耕‑ 作 付選 択

デル タを 囲擁 す る段丘 部 高位 において ,主 と して Mu

ふng・Tha.iな どの少 数 民族 によ っ て な され る焼 畑 ・水 田複合 の 農 耕 はつ と に JeanneCuisinierらに よ って 紹介 され た と こ ろで あ り,139)低地 農耕 との 関連 において きわ めて興 味 深 い が,将 来 にわた る民族 学 的調査 の課 題 と して, こ こで は省略 す る。

段丘部 下位 ・扇状 地 ・沿河 低地 ・河 中洲土 の複合 か らな る これ ら中浜地 域 が, 漠代麓 冷 県 と して, ヴ ェ トナ ム古 代 史 のい わ ば発 祥 の 地 であ る ことはい うまで もな く, た とえば雄 王 関係 の遺 蹟 ・伝 承 が この地 域 に集 中 して い る ことが報 告 され て い る。140)したが って この 地 域 の農 業 こそが, ヴ ェ トナ ム農 法 の もっ と

も基 層 を構 成す るで あ ろ う ことは容 易 に想 像 され る。

この 中湛地 域 の ヴ ェ トナ ム人 の伝統 的 な農 法 につ いて は,民族 学者 DinhThi氏 に興味 深 い報告 があ る。141)Thi氏 によれ ば,中浜 の 水 田地 形 は次 の

6

種 に分 け られ る とい う。

① 大 河 に沿 った平地 田。昔 か ら中済地 方 の 139)

J .

Cuisinier,oP.lit.,pp.110‑113.

140)たとえばヴィンフ‑省には600以上の雄三洞, フ トー省では40の雄王両,228の傘円山神,高 山神などの神Jl1,q 77の雄王妃Jll,そ して8q 7が雄 王時代の史実に関連 したものであり,ソンタイ 省では164の雄王関係の岡があるという。

NguyさnDlrαngBinh,"TrungDuBacB令,Cai N6iCnaNgu・&iViet,"TをpChiDanTらcH9C, 1977‑3,p.10.

141)DinhThi,"VaiNitvさCanhTacLdaNubc CaTruyさnc且aNglrbiViet61TrungDuBac B与,"TをpChiDanTScHqC,1977‑3,pp.17126.

#:E]F,地8

O

F<

東南 ア ジア研 究 171

穀 倉 で あ った 。①丘 陵 間 には さま れた 田。多 く水 脈 を受 けて,

r u6ngr 6

Cとよ ばれ る。⑨ 丘 腹 の テ ラス 田, 高地 田.(む湧水 を もつ低地 田

。 ( c handam)

多 く泥 沼状 で あ る。 ⑤ 河 中 の洲土 上 の 田。(む丘 陵 上 の早 田。

この うち(参③ ④ の 田が 中済農業 の特徴 で あ る とされ るが, と くに注 意 を ひ くの は, テ ラ ス田 の耕 作 に関す る記 述 で あ る

。Thi

氏 によ れ ば テ ラス 田で は雨 季 に は高 位の 田 に秋稲 が 植 え られ,下 位 の 田 は潜 池 と して用 い られた。

この 際,潅概器 具 と して

gaus bng

とよばれ るひ しゃ く

,g

au

dai

とよばれ る2人 用 の ひ もつ きバ ケ ツ,揚水 車 な どが使 わ れた.142)乾 季 には高 田で は雑穀 ,低 田で は夏稲 が植 え ら れ た。143)さ らに雨 季 に は水 没 し,かつ 乾季 に 給 水 が不 十分 な地 域 で は

bag iang

とい う3

カ月で収 穫 で きる品種 が用 い られた 。

Thi

氏 の紹介 す る この 田の高低 に よ る秋夏 両稲 の使 い分 けは,

1 9

世紀 に はテ ラス下 位 の 一般 的 な耕 作 法 として用 い られ て いた。 同慶 御覧地 輿 誌北 寧省 多福 牌物 産 には

地 近 山瞳 。 田之 高 低 相 去,有 至 敷尺者 。其 低 田以 稼 夏未 。冬 春 少 雨故 。 其 高 田冬 春 間 , 可植 芋蔓 歩 藷 之 類 ,夏初 而 採 , 随稼 秋禾麦 秋多雨故。然 多碗 沙不 甚肥 沃 也.

同書 山西 省 気候

夏 田大 深下稼 ,毎 至 正月 底, 秋 田太 高下 稼 , 至 八月底 。

同書 青波1除気 候

夏 田太 探 ,秋 田太 高 。 同書夏 和解 気 候

夏 田太 深下 稼 ,毎 至 正 月底 , 秋 田太 高下 142)gausbng,gaudaiの大きさ ・用途 ・効力につ

いては,R.Dumontの"Laculturedurizdams ledeltadu Tonkin,"Paris,1935,pp.311‑312 に図示説明される。また山地で用い られる揚水 車についてはC.Robequain,"LeThanhHda,"

Paris,1929,Vol.Ⅰ,p.162,Carte9にみえる.

用途機能はR・Dumont,oP・tit.,p.316,p.322.

143)拙稿 「裂朝下 ヴェ トナム村落 における漂散農 民の分析 (Ⅰ)上

『東南 ア ジア 研究』 15‑4, 1978,pp.555‑556,pp.562‑563.

40

稼 ,毎 至 八月 底。

な ど とあ って ,デ ル タ北 辺 テ ラス部 諸県 に共 通 した農 耕 で あ った ことがわ か る。

次 に

Thi

氏 は自然 に生 じた河洲 上 の米 田 に つ いて

この地 に は2種 の米 田が あ る。一 つ は 田植 え を用 い る田で あ り, もう一 つ は

1 dam¢

また は

l dac争 n

を播 く田で ある.かつて 人 び とは棒 (g各y)を用 いて穴 を うが ち, 種を まい た。

これ はC

をm hnng

と よばれ た とい って い るO この

1 dam

6 とよばれ るuTjt,種 は

1 8

世紀 の百 科

うん

全 書 芸 台 類語 に紹 介 され る慕

( mS)

の ことで あ ろ う 芸 台類語 はい う。

慕 。 大 原 出。宜 山 田刀耕 火 種 。二 月 種,六 七 月収, 樹茂 穂 火 (大 ?),頼 小粒 赤 。亦 宜 堤 外江 津地 植 之 ,如植 玉 萄黍 。● ● ● ●

ここで い うよ うに

l damS

は本来 , 山 田 に おいて刀耕 火 種144)によ って 栽 培 され る焼 畑 陸稲 系 の品種で あ る。 この高地 型 の耐 早 性 の 稲 を乾 季 の堤外 洲 土 に点播 し,水 位上昇 が ピ ー ク に達 す る旧暦 七月以 前 に収穫 す る この農 法 は,高 谷好一 氏 の教示 に よれ ば, イ ン ドに お け る

pr e mons oonr i ce

aus

(ア ウス) 型 の栽 培パ ター ン に似 て い る とい う以 後 この 型 を仮 にア ウス型 とよび たい。

作 付 選 択

の 導 入

この よ うに中済地帯 にお け る伝 統 的農 法 は高位 田に お ける秋稲栽 培 ,低 位 田にお け る夏稲 栽 培 ,低湿地 にお け るア ウス型稲 栽 培 とい う3種 の複合 に よ って成 り立 って いた。

で は これ ら適地 作付選 択 の技 術 はいつ ごろ ま で さかの ぼれ るだ ろ うか。

144)通常, まず林木を伐 ってこれを焚き, 灰 となし るのを待 って種を布 く農法。(東斉記事) ただ し,ヴェ トナム人史家はこれをすすめて,「刀を 用いて草を刈 るとともに,種を植え付ける土地 を整備 し,そののちこれを焼いて,次に穴をうが って種を蒔 く」 と理解 している.D昆ngPhong,

"Kinh TさThbiNguy合n Th丘y 8・VietNan,= Ha.NSi,1970,p.185.

関連したドキュメント