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紫式部集の末尾をめぐる試考 -古典作品の終局の相というもの-

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はじめに   いうまでもないことだが、古典文学の「作品」としての 形態は、現代のわれわれの身近にあるそれを、無媒介で同 一地平に並置して論ずることはできない

はずだが、ほ んとうに 「はず」 と言い切れる研究の現状なのだろうか。 「い うまでもない」といえるのだろうか。   もとより、 古典

稿者の目のとどく範囲は平安時代の、 それもごく一部に過ぎないが

では原作者の特定すらむ ず か し い 場 合 も 少 な く な く、 作 者 が 判 明 し て い る 場 合 で あっても、原本にふれることも肉薄することもできない作 品ばかりであり、なおかつその伝本は、長年月の伝流の過 程で損傷を受けていることも当然考慮されねばなるまい。   さらに、

これこそ重要なことながら

首尾照応と い う ご と き「 構 想 」「 構 成 」 が 作 品 形 成 の 前 提 と し て 成 立 しうるかどうかも議論されなければ、無媒介でその概念を 導入することはできまい。現代文学でほとんど常識視され ていることが、古典のそれでは必ずしも通用するとは限ら ないのである。   こ こ で は、 ま ず、 「 作 品 」 の 外 形 を 見 定 め る こ と か ら は じめたい。冒頭のそれについては、だいぶ以前に言及した ことがあ る ( 1 ) ので、いましばらくは措き、末尾をひとつの典 型として考えるきっかけとしてみたい。   もう少し具体的にいうならば、こういうことである。   『紫式部日記』 『更級日記』 等々、 前半が特定の主題に沿っ て 一 貫 し て い る の に 対 し て、 末 尾 に 近 づ く に し た が っ て、

紫式部集の末尾をめぐる試考

古典作品の終局の相というもの

 

 

 

 

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その「特定の主題」からはずれた短い記事の連続の形態で あるかに見えることがあるはずである。現代の結末に向け て の「 構 想 」「 構 成 」 の 感 覚 か ら す れ ば、 い わ ば し ど け な 0 0 0 0 い 0 結末に見えてしまうのである。それについて一体どのよ うに考えればよいのか。   『紫式部集』末尾の現状   実 践 女 子 大 学 本『 紫 式 部 集 』 の 冒 頭 は、 『 百 人 一 首 』 に も採られる有名な歌からはじまる。 はやうよりわらはともだちなりし人 にとしごろへてゆきあひたるが、 ほのかにて、十月十日のほど、月に きおひてかへりにければ 1   めぐりあひて見しやそれともわかぬまに くもがくれにし夜はの月かげ さらに、同本の末尾はこのようになっている。 こせうしやうのきみのかきたまへりし うちとけぶみの、ものゝ中なるを見つ けてかゞせうなごんのもとに 124  くれぬまの身をばおもはで人の世の あはれをしるぞかつはかなしき 125  たれか世にながらへてみむかきとめし あとはきえせぬかたみなれども    返し 126  なき人をしのぶることもいつまでぞ けふのあはれはあすのわが身 を ( 2 )   「 わ ら は と も だ ち 」 と の 交 流 か ら 小 少 将 の 君 没 後 の、 お そらく紫式部の晩年期と目される歌群でむすぶ編年の構成 をみせて、

なかに歌序の乱れがあるにしても

みご とな統一された 「作品」 と見なすことができる。 『紫式部集』 の首尾照応を説く論を見かけるのは、実践女子大学本によ る立論だからではないか。   一 方、 陽 明 文 庫 本 は、 冒 頭 は ほ ぼ 同 一 で は あ る も の の、 末尾は、     すまひ御覧ずるひ、うちわたりにて 110( 120 たつきなきたびのそらなるすまひをばあめもよ にとふ人もあらじな    返し

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111( 121 いどむ人あまたきこゆるもゝしきのすまひうし とは思しるやは 雨ふりてその日はこえむとまりにけりあい なの/おほやけごとゞもや    (一行空白)    はつ雪ふりたる夕ぐれに、人の 112( 122 恋しくてありふる程のはつ雪はきえぬることぞ うたがはれける    返し 113( 123 ふ 新古 ればかくうさのみまさる世をしらであれたる 庭につもるはつ雪 114( ナシ) い 千 づくとも身をやるかたのしられねばうしとみ つゝもながらふる 哉 ( 3 ) となっていて、 大きな入れ替わりがある。さらに 114の直後、 丁をあらためず、二行分の空白ののち、 日記哥 三十講の五巻五月五日なり。けふしもあた         つらむ提婆品をおもふに、あした山よりも この殿のさだめにや、木のみもひろひをか せけむとおもひやられてこの殿のさだめに や、木のみもひろひをかせけむとおもひや られて 115( 65) たえなりやけふはさ月の五日とていつゝのまき にあへるみのりも       (* 「た」 ミセケチ) 以下の「日記歌」本文が後接していることは、古本系の形 態の特徴としてよく知られている。   『 集 』 の 諸 注 釈 ( 4 ) を 閲 す れ ば、 陽 明 本 110番 詞 書 の「 す ま ひ 御覧ずるひ」について、 ⑴ 寛弘四年(一〇〇七)八月二〇日(南波『全評釈』 ) ⑵ 寛弘六年(一〇〇九)七月二七日(萩谷『全注釈』 ) ⑶ 長和二年(一〇一三)七月二七日(岡『基礎』 、竹内 『評釈』 、田中『新注』 ) という諸説がある。さらに次の 112番以下の贈答についても 解釈がわかれており、 ⒜ 夫宣孝との贈答歌(南波『全評釈』 ) ⒝ 晩年とは限らず、宮仕えを退いて後の友人との贈答 歌(南波『文庫』 ) ⒞ 晩 年 の 友 人 と の 贈 答 歌( 岡『 基 礎 』、 今 井『 叢 書 』、 竹内『評釈』 、田中『新注』 ) などの諸説があり、また、実践女子大学本にない 114番歌を 112・ 113の 贈 答 と と も に 切 り 離 し、 「 こ の 末 尾 の 歌 が、 編 纂

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時の心情を表す」と、 「作品」であるところの『紫式部集』 の終結部としての構成を指摘する廣田 『世界』 などもある。   軽々にはいずれとも定めがたいが、⒜は 110・ 111の贈答の ⑴ ~ ⑶ の 諸 説 と の 取 り 合 わ せ で は 編 年 に な じ ま な く な る し、また、⒝⒞を同一に見なしたとしても⑵説とはかなり の 年 次 の 間 隙 が あ る こ と に な る。 「 日 記 歌 」 の 存 在 と と も に、陽明本の形態は、実践女子大学本における編年を基準 とするかに見えるそれとは距離が存することになる。その こと自体はこれまでにも幾度となく指摘されてき た ( 5 ) ことで はあるが、陽明本の「構成」とはいかなるものであるのか が、あらためてその「形態」の問題として問われなおすこ とになるであろう。   「散々なる本」の体裁   作品の末尾を考える際、いったん『紫式部集』から離れ てみると、つぎのような奥書 ・ 識語の類(紙背文書も含む) が気にかかるのであ る ( 6 ) 。 ①書陵部蔵『忠見集』 (「三十六人集」五一〇 ・ 一二) 以 散々木 (本カ)令書写之間、 不審其数多、殆雖不 得其意、如本写了、以 証本可令校合者也 ②書陵部蔵『鴨女集(賀茂保憲女集) 』 永仁五年三月十八日於西山菊房書写畢   承空 写本散々之間 乍不審書之不及校合以証本可見合也 ③金沢文庫保管『たまきはる』 本云 建保七年三月三日書了。西面にて昼つ方、風すこし 吹に、少納言殿に読ませまいらせて、と。 是は存生之時令書。 存生之時、不見此草子。没後所見及也。高橋殿南向 に て、 老 病 之 後、 狂 事 歟。 以 養 子 之 禅 尼 令 書 云 々。 文章詞躰不尋常、雖恥披露、暫不破却。 (中略) 是以下は、遺跡反古之中、以自筆書寄。 初めも果てもなきいたづら事を、何となく書き捨て られたりけるを、見つけて、あとなる人の書きつく るなり。切れ 〴 〵散 〴 〵選び集めて、書き写す 。

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④永観文庫蔵『普賢延命鈔 私 』紙背書状 改年御吉慶等誠申籠 候了、自他幸甚々々、 蒙仰候平家物語合 八帖 本六帖 後二帖 献借候、後書 候事 ハ 散々なる様 にて、 人 の 可御覧体物にも不候歟、 雖然、随仰献覧之候、 古反古共見苦物候、御覧 後、早可返預候也、事々期 拝謁候、恐々謹言、     正月十三日    深賢 ⑤吉田幸一旧蔵伝伏見院筆本『松浦宮物語』 本云 このおくも本くちうせて、 ハなれおちにけり、 と 。 (二三行分余白) 本云 貞観三年四月染殿院にてかきうつす (一行分余白)         」(一一九ウ) 此物語たかき代の事にて、哥もこと葉もさまことに ふるめかしう見えしを、蜀山の路のほとりよりさか しきいまの世の人のつくりかへたるとて、むげにミ ぐるしきことゞもみゆめり。 いづれかまことならん。 もろこしの人の「うちぬるなか」といひけんそら事 のなかのそらごとおかし 一校了        」(一二〇オ) 本 ニ 貞観三年四月十八日 そめ殿の院のにしのたいにてかきおハりぬとあり 花非花、霧非霧、夜半未天明去、来如春夢幾時、去似 朝雲無不見処 (以下余白)         」(一二〇ウ) ⑥書陵部蔵『とはずがたり』巻五 本云、 こゝより又、刀して切られて候 。おぼ つかなう、いかなる事にかとおぼえて候。   ここに掲げたのは、稿者の

文字どおりの

管見に およんだものでしかない。おそらく、類例はすくなくない に違いない。   後二者のうち⑤ 『松浦宮物語』 の奥書は、 「偽跋」 であり、 著者である藤原定家の創作的所為と見なされていて、本来 の奥書・識語ではないのだが、

それにしても、定家の

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時代に「ありうる奥書の体裁」として採用されたものとし て、限定的な意味で有意であろうと思い、ここに掲げた。   また、⑥『とはずがたり』の場合は、現存の孤本である 旧桂宮本にいたる以前の、いずれかの段階の事実を率直に 伝 え る 一 文 で あ っ て、 『 松 浦 宮 物 語 』 の 場 合 と は 異 な る も のである。   ④は横井清によって発見され た ( 7 ) 『平家物語』関連資料で ある。 「 深 じんけん 賢 」は、生年は未詳ながら弘長元年(一二六一) に示寂した醍醐寺の学僧であり、 書状の日付「正月十三日」 は 建 長 三 年( 一 二 五 一 ) に 推 定 さ れ て い る。 表 装( 軸 装 ) される際に宛所が断ち切られたらしく、誰への書状だった かはわからない。   『 平 家 物 語 』 の 現 存 諸 本 は 三 ま た は 六 の 倍 数 の 巻 で 構 成 されるものがほとんどであるが、深賢の所持していたそれ は 合 わ せ て 八 帖 の 本

「 本 」 が 六 帖、 「 後 」 が 二 帖

という中途半端な巻数の「平家物語」だったというのであ る。しかも「後二帖」は「散々なる様」であるという。横 井 清 は、 『 平 家 物 語 』 の 成 立 が「 三 巻 → 六 巻 → 一 二 巻 」 と 増益される過程を経たとする牢固とした旧説に対して、 「 本 六 帖 」 に「 後 二 帖 」 が 付 随 し て い た ……「 後 」 が 形成されて行ったことで、前の「六帖」の内実が漸く 「 本 」 と 呼 ば れ る に い た っ た …… す な わ ち、 い わ ば 続 篇の形成という新事態を反映しつつ、この平家物語は 実に 過渡的 0 0 0 に「本六帖、後二帖」の「合八帖」編成を 呈していたと考えてみたいのである。   (傍点―著者) と考察した。   『 平 家 物 語 』 が 特 定 の 作 者 に よ っ て 一 回 生 起 的 に 著 述 さ れたのではなく、さまざまな伝承・資料がいくつもの段階 をへて糾合され編集されて「形成」された、その過渡期の 八帖の本が、当時「散々なる様」をしながらも深賢の手許 にあったのだ、というわけである。横井清によるこの指摘 は、右の奥書等の証言を解釈するうえで参考になるのでは ないか。   ①「 散 々 な る 本 」、 ②「 写 本 散 々」 と は ど の よ う な 形 態 の本だというのだろうか。   ③『たまきはる』に藤原定家が「切れ〴〵散〴〵選び集 めて、書き写す」と、著者・建春門院中納言(健御前)の 「 反 古 」 の 遺 さ れ て い た 状 態 を 語 っ て い る よ う に、 単 な る 本文の不審、誤写の多さの指摘ではないことが類推される のである。④には 「人の御覧ずべき体の物にも候はず」 「古 反古ども見苦しき物に候」といっていた。定家が切れ切れ の反古を「編集」して『たまきはる』後篇をつくりあげた

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のと同様な作業が、ほかの「作品」にも結果しているので はないか、と思わせるのに十分な資料といえよう。   岩波新大系の『たまきはる』の校注を担当した三角洋一 は、 当該作品の前半 ・ 第一部を「本編」 、 後半 ・ 第二部を「遺 文」と名づけ、 遺 文 の 記 事 の 中 に は 、 内 容 的 に 本 編 と 重 複 す る 記 事 が あ っ て 、( 注 ― 遺 文 中 の 記 事 )[ 43] 建 春 門 院 の 夢 と [ 46] さ ぶ ら う べ き 所 と は 、( 注 ― 本 編 中 の )[ 32] 再 出 仕 に い わ ば 吸 収 合 併 さ れ て い る 。 … … こ れ は [ 43] [ 46] を い わ ば 下 書 き と し て 利 用 し つ つ 、 本 編 の よ う な か た ち に 書 き あ ら た め た も の と 解 釈 す べ き で あ ろ う ( 8 ) 。 などという実例をとおして、 「遺文」には、 書きとめておいた回想であるのに、適当な挿入箇所が なくて捨て置かれたものと、結果的に下書き段階の記 事ということで、捨て去られたものとがあった…… の を、 作 者 没 後 に 弟・ 定 家 が 遺 稿 を「 選 び 集 め 」 た の だ、 と い う。 「 本 編 」 末 尾 に は「 建 保 七 年 三 月 三 日 書 了 」 と い う作者自身による奥書があって、一応の「作品」結尾の形 態 を と と の え て い た に も 拘 わ ら ず、 定 家 が 遺 稿 を ま と め、 書き継いで現存本を作ったというわけである。   『たまきはる』に限ったことではないが、 「本編」 「遺文」 ともに作者の手になるものでありながら、内容が重複して いたり、本文が錯綜・混乱していたりするというのは、通 常は伝流過程での損傷の可能性を考えるべきところであろ う。 し か し、 『 た ま き は る 』 の 実 例 は、 そ れ に 加 え て、 別 人の「編集」操作が、さらに錯綜・混乱を増幅・増大させ ることがあることを実際に教えてくれる、興味深い例とい うべきものであろう。   「増補・改編」の形態   『 新 撰 朗 詠 集 』 編 纂 で 知 ら れ る 藤 原 基 俊( 一 〇 六 〇 ~ 一一四二) に自撰の 『基俊集』 がある。書陵部蔵本 (五〇一 ・ 七四三)は、二一八首を収めるが、一〇六番歌ののち、 これは、 ほり川の院の御時、 集めしゝかばまいらせし。 これよりのちの歌は、いにしへ・いまのをかきあつめ たるなり。 と あ り、 一 行 の 空 白 を お い て 一 三 丁 の ウ ラ を お え、 次 丁

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に 移 っ て、 「 み ち の く に の か み も と よ り の 朝 臣 の も と よ り ……」と一〇七番以下の歌を記す。さらに、一九〇番歌を 二六丁オモテに記して裏面の余白を残し、丁をかえて、   茲散木集弐冊召 僊洞新本謄写出后毎   輪直依 禁裏古本校正為蓋自正   月一日基俊集也   ……(中略)……    戊寅臘月七日        藤譚玄誌 と 識 語 を 記 し、 さ ら に 丁 を か え て、 「 基 俊 」 と 題 し た の ち に、 『中古六歌仙』所収歌一九首のなかから一首欠く形で、 一九一~二一八番の一八首を掲載する。つまり、書陵部本 『基俊集』は、 イ   応召歌集 ロ   補遺 ハ   『中古六歌仙』所収歌の増補 の三部からなり、自撰によるイ・ロに対して、ハはあきら かに後人の所為とわかる体裁をなしている。ロも、堀河帝 の「 め し 」 に 応 じ た イ に 対 し て、 「 い に し へ・ い ま の 」 自 作を「かきあつめ」たという。これは一箇の「作品」のな かに、いくつかの位相を異にする操作が加わっている、わ かりやすい実例である。   もともと私家集という分野は、自由というか融通無碍と いうべきか、自撰もあれば他撰もあり、物語や日記や自伝 やさまざまな形態をとることが可能で、しかも、 『基俊集』 のごとき明確な構造の例はむしろすくなく、簡単に割り切 る こ と の で き な い よ う な 複 雑 な 様 相 を 呈 す る 作 品 が あ り、 むしろそのほうが例挙しやすい。そのひとつが『和泉式部 集』である。重出歌が全体の二割強にもおよび、それが多 く 含 ま れ る 歌 群「 相 互 の 関 係 は 入 り 乱 れ、 錯 綜 し て い て、 必 ず し も 明 確 な 小 歌 群 の 存 在 を 証 明 す る も の で は な 」 く、 「重出歌が必ずしも平面的な歌群の結合にのみ由来するも のでな い ( 9 ) 」とまでいわれたりする。   私 家 集 の 多 く に つ い て は、 「 そ の 私 的 な 性 格 と 資 料 的 な 性格などから、その伝承の過程に於て、任意に増補された り修正されたり、又一首々々の独立性から、分離したりし て、 原 型 か ら 変 形 せ ら れ る 事 が 多 い 」( 関 根 慶 子 )(1 ( )、 「 二 種 以上の別系統の本を伝える例は枚挙にいとまなく、その別 系統が生ずる理由や原因にあっても、集それぞれに特質が あって、 必ずしも一つの物さしで測ることはできない」 (森

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本元 子 )(( ( )、 「勅撰集のように制約を受けず、本来、内容・形 態は自由である。そのため一方では伝来の途上でしばしば 増補や改編が行われ、異本を生じ、本来の形の不明なもの が多い」 (平野由紀 子 )(1 ( )など定評がある。 『紫式部集』の場 合もご多分に漏れず、ということになる。   ただし、ことは私家集に限らない。それは、さきの奥書 等 の 証 言 で も 明 ら か だ ろ う。 『 平 家 物 語 』 の 成 立 過 程 に つ いては長年の議論の歴史があり、紙背書簡によってひとつ の 方 向 性 が 見 え て き た わ け で あ る。 『 た ま き は る 』 も、 作 者自身の奥書と定家の識語があるおかげで、その制作過程 と現状との関係が判明した例であった。   しかし、日記や物語などにおいても、末尾に「増補・改 編 」「 変 形 」 さ れ る 例 が す く な く な い こ と も、 そ れ ぞ れ の 分野で周知のはずである。   た と え ば、 『 更 級 日 記 』 は、 冒 頭 部 に 上 総 か ら の 上 京 の 旅の記がひとつづきに続いているが、その後には年紀の空 白がすくなからずあって、短小の記事が増加することはよ く 知 ら れ て い る。 杉 谷 寿 郎 の 章 段 分 類 )(1 ( ( 段 数 は 玉 井 幸 助・ 日本古典全書『更級日記』 )によれば、 ㈠ 第一段(寛仁四年 ・ 一三歳)~第三七段(万寿三年 ・ 一九歳) ㈡ 第三八段(長元五年・二五歳)~第四九段(長元九 年・二九歳およびその後の生活) ㈢ 第四九段(長暦三年・三二歳)~第六〇段(寛徳元 年・三七歳) ㈣ 第六一段(寛徳二年・三八歳)~第七二段(永承六 年・四六歳) ㈤ 第七三段(天喜五年・五〇歳)~第八〇段(晩年) となり、それぞれの章段に付せられた年紀をみれば、その 間の空隙が明瞭になるはずである。杉谷は、上京の旅の記 が『日記』全体の五分の二にもなって著しくアンバランス で あ り、 「 更 級 日 記 が 後 年 に な る ほ ど 記 事 量 が 減 少 す る 傾 向にあることからみて、作者の構成力や持続力とも関わり がないとはいえまい」という。   現存『更級日記』はすべてが定家本の本文を伝えるもの にほかならず、了悟『光源氏物語本事』にごく一部とはい え、非定家本の本文が紹介されているのを参看するかぎり では、定家本に依拠するしかない現状にかなりの不安があ る。が、とりあえずは、右のような『日記』の形態におい て享受されてきた歴史の重みを受けとめておくほかあるま い。   物語の例では、たとえば『大和物語』 。   全体の三分の二を占める前篇 (第一部) と後篇 (第二部) とにわけられ、 前篇が 「宮廷のメディアによる言説、 打聞き、

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雑談」などの「近い時代の宮廷ゴシップの集成」であるの に対して、後篇は「蒼古の伝承的な説話」であり、異なる 立場によって集積された話材が接ぎ木された説話集が、 この「歌物語」だ、と田渕句美子は評するのであ る )(1 ( 。   し か も、 『 大 和 物 語 』 が 損 傷 を 受 け て い る こ と は、 第 一六九段の、 ……かくて七八ねむ(年)ばかりありて、又おなじつ かひ (御幣使) にさゝれて、 やまとへいくとて、 ゐで (井 手)のわたりにやどりて、ゐてみれば、まへになむあ りける。かれに、みづくむ女どもがいふや う )(1 ( 、 と い う 中 途 半 端 な 末 尾 の か た ち が、 よ く あ ら わ し て い る。 かつて、この段は、 「物語の末尾切断」という形式による、 書 き さ し の 筆 法 な の だ と い う 評 価 が 一 部 に あ っ た が、 「 切 断 」 と い う 方 法 の 実 例 は 前 期 の 物 語 の 時 代 に は 存 在 せ ず、 結局は物理的な脱落

つまり、伝流の過程における損傷 にほかならないのであっ た )(1 ( 。   こうして私家集・日記・物語など、ここにあげたものは 比較的わかりやすい、定評のある例をあげたが、各分野に おいて同様な形態の作品、類例のすくなくないことは周知 であろうと思う。   「原型」はどこにあるか   「 作 品 」 の 末 尾 の 体 裁

首 尾 照 応 と か、 物 語 の よ う な 末 尾 の 形 式 を 踏 ま え る と い っ た こ と の な い 現 実

つ ま り、 い わ ば し ど け な い 0 0 0 0 0 結 末 と い う こ と を 論 う 場 合、 『 紫 式 部日記』のほうが『紫式部集』よりもさらにふさわしいと いえよう。   萩谷朴の『紫式部日記全注釈』は上巻一九七一年刊、下 巻一九七三年刊と三〇年前の著述ではあるが、いまだに最 大の注釈であり、 もっとも詳細をきわめる。その解説に 『日 記』全体の構造を、つぎのようにまとめてみせ た )(1 ( 。 第一部   日記体記録篇 寛弘五年八月から同六年正月に及ぶ、敦成親王御 生誕儀礼を中心としての後宮記録。 第二部   消息体評論篇 「 こ の つ い で に、 人 の 容 貌 を 語 り き こ え さ せ ば、 ものいひ性なくやはべるべき」と前置きして、第 五四節の容姿心性の描写批評にひき続き、宮廷女 房の人性論へ移行する。 第三部   『前紫式部日記』の残欠本文 寛弘五年五月・六月の土御門第における体験的事 実にかかる。

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〔第四部〕   第一部補遺 寛弘七年正月の事実にかかる。   萩谷は、ここでいう「第二部」の末尾が第一部から通し ての跋文であり、本日記の「第一次原初形態」をしめすも のという。この見解を是とするとしても、第三部といま仮 に第四部と称した「第一部補遺」も、 「残欠」 「補遺」とい うしかない、断片的詞章にすぎない。したがって、 『日記』 の結末部分は、第一部以降の全体の結尾を意識したものと 見えない。つまりは、語弊のあるのを覚悟してあえていわ ば、やはり「 しどけない 0 0 0 0 0 結末」ということなのだ。   『紫式部集』に話頭をもどそう。   この、比較的ちいさな私家集が、ほぼ編年によっている ことはすでに論じ尽くされており、定家本系の形態ではそ れが特に顕著の体裁をしていることは、本稿冒頭でもふれ たとおりである。古本系・陽明文庫本のかたちでも、五〇 番歌までは定家本系と一致しているように、ゆるやかに編 年体をなしていると目される。   しかも、古本系・陽明文庫本では、他の紫式部作品『紫 式部日記』所収の和歌を、本編には掲載しないという姿勢 を し め し、 『 集 』 の 独 自 性

つ ま り 独 立 し た「 作 品 」 と しての意識を読みとるのが廣田收であ る )(1 ( 。巻末に後人の手 によるとおぼしき「日記歌」を付載し、これが藤原定家に よ っ て 本 編 に 組 み 込 ま れ た 結 果 が 定 家 本 系 の 形 態 な の だ、 と。   しかし、陽明本によっても定家本によっても、和歌配列 に問題のあること、錯簡としてさまざまに「復元」案が模 索されているにもかかわらず、議論が絶えないということ は、いまだに納得のゆく解答が得られていない現状を示す ものでもあろう。   前節で私家集の共通する問題にふれた際、 その多くの 「作 品 」 が、 自 撰 に せ よ 他 撰 に せ よ「 増 補・ 改 編 」「 変 形 」 さ れる例が多いという証言に耳をかたむけた。そうした定評 を形成する論者たちはまた、その変形していることがむし ろ通常ともいうべき状況であることから、当然「推移変遷 し た 形 か ら 出 来 る だ け 原 型 に 復 元 」( 関 根 ) す る こ と が 必 要 で あ り、 「 本 文 研 究 の 究 極 の 目 的

作 者 の 手 に な る 本 文

に 立 ち 返 る、 そ れ を 復 原 す る こ と に あ る べ き も の 」 ( 森 本 )「 原 型 再 建 が 避 け て 通 れ な い 」( 平 野 ) と 異 口 同 音 にい う )(1 ( 。   『 紫 式 部 集 』 の 撰 者 に は 自・ 他 の 両 説 が あ り、 お お む ね の意見は自撰にかたむいているようである。 とするならば、 なおさら「立ち返る」べき「作者の手になる本文」の「復 原」 が問われることになる。しかし、 たとえば 『紫式部日記』 の場合はどうだろうか。萩谷の説くように、 第一部から 〔第

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四部〕までの配置を紫式部本人の所為とし、なおかつ現存 の形態が「後人の、 さかしらな竄入処置によるものではな」 く、 「現行本の形態は、早く平安末期以前に安定してい た )11 ( 」 と考えうるのだとしたら、あの「 しどけな 0 0 0 0 」 く見える 0 0 0 0 結末 もまた作者の所為によるものということになる。   こ こ で わ れ わ れ は、 「 作 品 」 と い う も の の 像 を 問 い 直 さ れ る こ と に な る の で は な い か。 「 文 学 」 も「 作 品 」 も 平 安 時代の作者たちには、本来無縁の概念ではあったが、概念 として存在しなかったとしてもそれらしき意識構造はあり えたのではないか、と想像するとしても、冒頭があれば結 尾 も 対 応 し て 存 在 し な け れ ば な ら ぬ と す る よ う な 観 念 は、 とりあえず、とらわれる必要がないかに見える。   「作者の手になる本文」とは、 「本文研究」においてはい わば 理想の 0 0 0 「 原型 0 0 」と称すべきであろう。しかし、作者自 身 が「 増 補・ 改 編 」「 変 形 」 を 加 え て い た と す る な ら ば、 何をもって「原型」と考えるのか。わかりやすい、と先に ふれた『基俊集』にしても「応召歌集」ができたのち、基 俊みずから「いにしへ・いまの」自作を「かきあつめ」た というのである。しかも後人の増補とみられる部分をも含 めて、ひとつの「作品」として享受してきた人びとの存在 を 忘 れ て は な る ま い。 彼 ら に と っ て『 基 俊 集 』 の「 原 型 」 はどれだけ意味のあることだったか。   くりかえしになるが、 『紫式部集』 の場合も 「理想の原型」 をもとめて「錯簡」とおぼしきものに対する「復元」案が 提唱されてはきたが、論者個人のなかでは完結したところ で、他者の納得するところではなかった。   これまでの研究史のなかで、それらは意味のないことで はないだろう。しかし、その営為にみずから仮構するとこ ろの「理想の原型」を追尋しているに過ぎないのではない か、と反照してみる必要があると考えるのである。つづめ て い え ば、 「 理 想 の 原 型 」 は ほ ん と う に 存 在 す る の か、 と いう命題を措定してみる必要があろう。   本稿は、最後はやや性急になりすぎて、論に具体性、説 得力を欠いたきらいがあると思われる。しどけない議論に なってしまった。   まだ問題の扉の前に立ったばかりである。 いましばらく、 この命題をまえに、試行錯誤をしてゆかねばならぬと考え る。

(13)

( 1 ) 本 稿 の 問 題 意 識 に 沿 う も の で は な い が 、 横 井 『〈 女 の 物 語 〉 の な が れ

古 代 後 期 小 説 史 論 』( 加 藤 中 道 館 、 一 九 八 四 年 一 〇 月 刊 ) 所 収 「 序 説   〈 女 〉 に お け る 物 語 史 」 「 光 源 氏 物 語 始 末 」 で 、 物 語 の 冒 頭 の 話 型 に つ い て 言 及 し た 。 ( 2 ) 実践 女子 大 学 本 の 本 文 は 、 久 保 田 孝 夫 ・ 廣田 收 ・ 横 井 孝 『 紫 式 部 集 大 成 』( 笠 間 書 院 、 二 〇 〇 八年五 月 刊 ) 影 印 な ら び に 翻 刻 に よ る 。 ( 3 ) 陽 明 文 庫 本 の 本 文 は 、 注 ( 2 ) 前 掲 書 『 紫 式 部 集 大 成 』 所 収 の 翻 刻 に よ る 。 カ ッ コ 内 の番 号 は 、 対 応 す る 実 践 女 子 大 学 本 の 歌 序 を さ す 。 ( 4 ) こ こ で 参 照 し た 『 紫 式 部 集 』( 一 部 『 紫 式 部 日 記 』 も 含 む ) の 諸 注 釈 ・ 研 究 書 は 以 下 の 諸 書 と 略 号 に よ っ た 。 岡 『 基 礎 』 = 岡 一 男 『 源 氏 物 語 の基 礎 的 研 究 』( 東 京 堂 、 増 訂 版 一 九 六 九 年 八 月 刊 ) 今 井 『 叢 書 』= 今 井 源 衛 『 紫 式 部 』( 人 物 叢 書 、吉 川 弘 文 館 、 一 九 五 八 年 六 月 刊 ) 竹 内 『 評 釈 』 = 竹 内 美 千 代 『 紫 式 部 集 評 釈 』( 桜 楓 社 、 一 九 六 九 年 六 月 刊 。 改 訂 版 = 一 九 七 六 年 三 月 刊 ) 萩 谷 『 全 注 釈 』 = 萩 谷 朴 『 紫 式 部 日 記 全 注 釈 ・ 上 / 下 』( 角 川 書 店 、 一 九 七 一 年 一 一 月 / 一 九 七 三 年 三 月 刊 ) 南 波 『 文 庫 』 = 南 波 浩 『 紫 式 部 集   付 大 弐 三 位 集 ・ 藤原 惟 規 集 』( 岩 波 文 庫 、 岩 波 書 店 、 一 九 七 四 年 一 〇 月 刊 ) 南 波 『 全 評 釈 』 = 南 波 浩 『 紫 式 部 集 全 評 釈 』( 笠 間 書 院 、 一 九 八 三 年 六 月 刊 ) 田 中 『 新 注 』 = 田 中 新 一 『 紫 式 部 集 新 注 』( 青 簡 舎 、 二 〇 〇 八 年 四 月 刊 ) 廣 田 『 世 界 』 = 廣 田 收 『 紫 式 部 と和 歌 の 世 界 / 一 冊 で読 む 紫 式 部 家 集 』( 武 蔵 野 書 院 、 二 〇 一 一 年 五 月 刊 ) ( 5 ) 廣 田 收『 家 集 の 中 の「 紫 式 部 」』( 新 典 社 、二 〇 一 二 年 九 月 )、 同 『『 紫 式 部 集 』 歌 の場 と 表 現 』( 笠 間 書 院 、 二 〇 一 二 年 一 〇 月 刊 ) な ど が 最 新 の 業 績 。 ( 6 ) 以 下 の 奥 書 等は 、『 私 家 集 大 成 』、 岩 波 新 大 系 『 と は ず が た り   た ま き は る』 、 横 井 清 『 中 世 日本 文 化 史 論 考 』( 平 凡 社 、 二 〇 〇 一 年 六 月 刊 )、 吉 田 幸 一 『 松 浦 宮 物 語 伏 見 院 本 考 』( 古 典 聚 英 6 、 古 典 文 庫 、 一 九 九 二 ・ 一 一 刊 ) に よ る 。 ( 7 ) 横 井 清 「「 平 家 物 語 」 成 立 過 程 の 一 考 察

八 帖 本 の 存 在 を 示 す 一 史 料 」( 『 文 学 』 第 四 二 巻 第 一 二 号 、 一 九 七 四 年 一 二 月 )。 の ち 、注 ( 6 ) 前 掲 書 『 中 世 日 本 文 化 史 論 考 』 に 所 収 。 ( 8 ) 三 角 洋 一 「『 たま き は る 』 解 説 」( 岩 波 新 大 系 『 と は ず が た り   た ま き は る 』 岩 波 書 店 、 一 九 九 四 年 三 月 刊 、 所 収 )

(14)

四 三 三 ~ 四 三 四 頁 。 ( 9 ) 平 田 喜 信 『 平 安 中 期 和 歌 考 論 』( 新 典 社 、 一 九 九 三 年 五 月 刊 )、 一 六 頁 。 ( 10) 根 慶 子 『 中 古 私 家 集 の 研 究

伊 勢 ・ 経 信 ・ 俊 頼 の 集 』 ( 風 間 書 房 、 一 九 六 七 年 三 月 刊 )、 三 八 頁 。 ( 11) 本 元 子 「 私 家 集 と は 何 か 」( 和 歌 文 学 論 集 4 『 王 朝 私 家 集 の 成 立 と 展 開 』 風 間 書 房 、 一 九 九 二 年 一 月 刊 、 所 収 )、 一 二 頁 。 ( 12) 野 由 紀 子 「 私 家 集 研 究 の 現 在 」( 秋 山 虔 編 『 平 安 文 学 史 論 考 』 武 蔵 野 書 院 、 二 〇 〇 九 年 一 二 月 刊 、 所 収 )、 五 三 三 頁 。 ( 13) 谷 寿 郎 「 更 級 日 記 の 構 造 」( 橋 本 不 美 男 ・ 杉 谷 ・ 小 久 保 崇 明 『 更 級 日 記   翻 刻 ・ 校 注 ・ 影 印 』 笠 間 書 院 、 一 九 八 〇 年 四 月 刊 、 所 収 )、 三 〇 五 ~ 三 〇 六 頁 。 ( 14) 渕 句 美 子 「『 大 和 物 語 』 瞥 見

「 人 の 親 の 心 は 闇 に あ ら ね ど も 」 を 中 心 に 」( 谷 知 子 ・ 田 渕 句 美 子 編 『 平 安 文 学 を い か に 読 み 直 す か 』笠 間 書 院 、二 〇 一 二 年 一 〇 月 刊 、 所 収 )、 八 四 頁 。 ( 15) 部 俊 子 『 校 本 大 和 物 語 と そ の 研 究 ・ 増 補 版 』( 三 省 堂 、 一 九 七 〇 年 )、 六 一 七 頁 。 ( 16) 井 孝 「 物 語 ・ 終 焉 の か た ち

『 狭 衣 物 語 』 結 尾 の 位 相

」( 実 践 女 子 大 学 文 芸 資 料 研 究 所 編 『 物 語 史 研 究 の方 法 と展 望 ( 論 文 篇 )』 同 研 究 所 、 一 九 九 九 年 三 月 刊 、 所 収 )。 な お 、「 『 狭 衣 』 結 尾 の 風 景

物 語 ・ 終 焉 の 位 相 と し て 」 と 改 題 ・ 修 正 し て 『 源 氏 物 語 の 風 景 』( 武 蔵 野 書 院 、 近 刊 ) に 収 め た 。 ( 17) 谷 朴 「 解 説 / 作 品 に つ い て 」、 前 掲 注 ( 4 ) 書 『 全 注 釈 』 下 巻 、 所 収 。 五 一 〇 ~ 五 二 六 頁 か ら 摘 記 し た 。 ( 18) 田 收 『 家 集 の 中 の 「 紫 式 部 」』 ( 新 典 社 、 二 〇 一 二 年 九 月 刊 )、 同 『『 紫 式 部 集 』 歌 の 場 と 表 現 』( 笠 間 書 院 、 二 〇 一 二 年 一 〇 月 刊 ) な ど 。 ( 19) 掲 注 ( 10)( 11)( 12) 書 等 に よ る 。 ( 20) 谷 前 掲 注 ( 17) 書 、 五 二 七 頁 。 付記

本稿は廣田收 ・ 久保田孝夫両氏との 「紫式部集研究会」 ( 二 〇 一 二 年 九 月 一 〇 ・ 一 一 日、 於 同 志 社 大 学 ) の 共 同 討 議 の な かから生まれた成果の一つである。両氏と横井による鼎談 「『紫 式部集』研究の課題と展望」も近刊の予定。 (よこい たかし・実践女子大学教授)

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