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(1)

社会政策と社会保障

著者

小林 端五

著者別名

Kobayashi Tango

雑誌名

経済論集

14

2

ページ

p81-98

発行年

1989-01

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00005461/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

東洋大学「経済論集

J

14巻 2号 1989年 1月

社会政策と社会保障

小 林 端 五

目 次 1 V土しカ:き 2 社会保障体系の主柱としての社会保険発達の意義 3 世界的規模で発達した社会保障 4 生存権・人権と社会保障 5 む す び 1 V

ましヵ:き

近年,社会政策という用語に代って,労働経済とか福祉もしくは社会保障というような用語が流 行語となり,社会政策は理論的にも実践的にもすでに過去のものであり,現実的にはあまり役立た ない,過去の遺物であるか如く,主張する傾向がある。私の所属する東洋大学経済学部スタッフの なかにも,いわゆる実証主義学派を学問・科学の最高の理念として信奉する研究の者の聞から,政 策学は科学として成立しないという乱暴な主張をきく。いまここで,こうした論議の理論構成にわ たって,逐一反論する積りもないし,また,紙幅もなし、。ただ,次のことだけを云っておこう。数 理実証学派の主張は,せし、ぜい因果性の運動の説明に役立つが,社会科学の究極の目的であるとこ ろの必然性の論証には無意味であるしレーニンが指摘しているごとく,原因と結果が相互に繰り 返す,因果性の運動だけを追うことは,社会科学の方法論上,馬鹿らしいことであり,社会政策学 の観点からすれば,社会政策はもはや博物館行きであるとの,主張に通じるもので,これもレーニ ンの指摘と五十歩百歩であるといわざるをえない。 さらに最近,社会科学上横行している傾向に,理論構成から階級論を抜き去り,階級論は社会科 学とは別なイデオロギー論で,しかもそれが何か罪悪視されている。残念なことには,マルキスト を自認する者の聞にも,かかる傾向が一部に現われているO かかる論者からみれば,いまどき階級 一一-81

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性とか,階級闘争の必然性を強調する者は,石頭なのかも知れないが,私をしていわしむれば,没 階級論者は,おうおうにしてオポチュニストか,マヌーパか転向者か,あるいは最初からのノンイ

デオロギーストである。

周知のごとく, 今世紀のはじめに, 倫理派経済学者・シュモラー (GustavSchmoller)らとヴェ ーバー (MaxWeber)とゾンバルト (WernerSombart)らとの聞に,有名な価値判断論争 Wertur-teilsstreitが展開された。ヴェーパーが提起したのは, i価値自由」論であった。「なお, Wert-freiheitとは戦前には『没評価性』ないし,

r

没価値性』とか,

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価値判断排除』の意味に理解され る不幸な誤解をうけてきた。戦後のヴェーバー研究者たちの手により『価値自由』論は長い誤読の 歴史から解放され,それは認識の対象から価値判断を排除するのではないことはいうまでもなく, 価値判断を生み出す価値観を認識の主体から排除するのでもないことは,すでに自明の理となって いる。

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i問題の要は,経験科学者が科学者として価値判断を下すそのことにあるのではなく,闘い 合う諸価値の中から自分は一つのものを選択したという自覚があるかどうかにある。

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(大陽寺11頃ー稿 「総会社会政策論の再構成への一試論」西村鎗通・木村正身編『総合社会政策と労働福祉』社会政策学会研 究大会社会政策叢書第羽集, 48ページ。) したがって,政策学に価値判断が存在するのは,極めて当然であるが,この「論争」を通じて肝 要なことは,シュモラーを代表とする倫理派経済学者たちは, ドイツ絶対主義の社会政策の政策主 体の意図を,政策主体の階級的立場からのみ合理化しようとしたことが,社会科学の科学性を希薄 化しているのであるから,その政策主体の意図の必然、性を論証しようと思えば,ユンカー以外の諸 階級の対立関係をも含めて論究する必要がある,ということである。倫理派経済学者・シュモラー やワグナー (AdolphWagner)が構築した分配政策としての伝統的社会政策論は, ホーへンツォレ ノレン家的ドイツ帝国に忠誠を誓った社会政策論であっても,それは実在する当時のピスマルク型社 会政策を科学的に説明しうる政策論たりえなかった。実在する社会政策の必然、性を論究するために は,実在する社会政策の主体・社会的王制の元首,ホーへンツォレルン家を超階級的存在とするの ではなく,同家をとりまくユンカー的支配階級そして資本制経済の進展とともに台頭した資本家階 級,労働者階級,さらには中産階級などの諸階級の対立抗争の諸関係の分析からはじめて可能とな る。だから,広い意味では社会科学一般,狭い意味では社会政策から階級論を抜き去ることは,科 学性の喪失に通じることになる。そして社会政策論の構成のなかに階級論を導入するか,どうかは,

3

主主主主を生き生きとした理論とさせてし、るところの,価値献がけするか, どうかに依 存していることを附言しておこう。 さて,社会政策は,没階級論的立場からは総資本の労働力の保全・培養政策であるが,階級論的 立場からは労働者階級の反抗運動に対する資本とその国家の窮乏化緩和を内容とする譲歩政策であ る。現代においては,労働者階級とはマルグスがえがいた古典的意味よりも,いっそう広いカテゴ 一一一 82

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リーとして,いわば勤労者階級とでも云った方がより適切である。そして勤労者階級のまわりには, 彼らとあまり生活環境が変らない,多くの自営業者なども含めて考えてよL。、 私は階級論的観点に立つ,社会政策論者の一人であり,社会保障は社会政策に取って代るという ような見解には反対であり,それよりも,むしろ社会保障は社会政策の一部が国家独占資本主義の 発達段階において,政策対象の領域をより拡大し,本来社会政策ではないが,それにその近隣の領 域,具体には社会福祉とか社会事業を包括した政策体系で、あると,考えている。それ故に,社会保 障の研究には社会政策の基礎理論の理解が必須要件であるといわざるをえなし、。社会政策の基礎理 論とは各国資本制経済に共通しうる,社会政策実現の一般理論と,その特殊理論である。ここでい う特殊理論とは各国資本制経済の発達の特殊性に制約された,社会政策実現の仕方・様式の理論的 問題である。 本稿では,以上のような社会政策と社会保障の諸関係を,なにほどか検討し,真の社会保障の発 展を期待するためには,階級論的社会政策論の理論武装が,し、かに重要であるか,明らかにするこ とを呂的とする。断っておくが,紙幅が充分でないので,詳細な理論構成の叙述はおこなわない。

2

社 会 保 障 体 系 の 主 柱 と し て の 社 会 保 険 発 達 の 意 義 各国社会保障制度の柱は,各種の社会保険制度である。いまあえて,社会保険を一般的に規定す れば次のごとくし、えるだろう。「社会保険とは資本制経済の矛盾が高度にしかも広範囲にわたって 現われる独占資本主義の段階において,主に勤労者階級を対象に,彼らがある一定の事故によって, 短期的または長期的にあるいは永久に労働能力を喪失した場合,強制・国庫補助・国家管理の要素 を取り入れた保険技術によって彼らの生活を保護・救済し,彼ら自身および彼らの代行者の労働能 力を回復せしめることを目的とする公共施設である。J(拙著『社会政策各論J青木書庖, 19i7年, 333 ページ〉ところで,社会保険とし、う社会政策は,也の諸々の社会政策, 例えば, 工場法や労働組合 法,最低賃金制などと同様に,すぐれて歴史的な形成物であることは,いうまでもなし、。 周知のごとく,全世界にさきがけて社会保険が成立したのは, 1880年代鉄腕宰相ピスマルクによ って制定のはこびになった,ー連の社会保険立法,疾病保険法 (Krankenversicherungsgesetz,15 Juni 1883) ・災害保険法 (Unfallversicheruugsgesetz 6 Juli 1884)・老齢・廃疾保険法 (Invalidit量t und Alterversicherungsgesetz, 22 Juni 1889)であった。この意味でドイツは,社会保険の母国であ るといわれる。 なぜ,独占資本主義の段階に出現すべき社会保険が,英・仏などと比較して後進国としてスター トLtニドイツにおいて,いちはやく出現したのて、あろうか。総じていえることは, ドイツが国家的 統ーを遂げたのは普換戦争と普仏戦争を経たた1871年のことであり,この背景にはプロイセンを中 一一-83一一一

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心とした1850年以降の顕著な産業革命の進展があり,統一国家ドイツ帝国は,世界市場の競争にお いて,英,仏,米などと対抗するためには,国家権力が資本制経済の発展に積極的に介入し,しか もそれを先進諸国と比較し,短期間に遂行したため,高度に発達した固有の資本制経済の深刻な矛 盾が統一国家形成後,間もなく現われたので,体制維持のためそれに対する諸方策の一環として, イギリスの工場法や救貧法の漸次的発達の社会政策立法を待つまでもなく,社会保険立法を即座に 必要としたからである。この辺の事情をまとめると次のごとくである。 ピスマルク (OttoEduard Leopold Bismarck)は, プロイセン, アルトマルクの一零落貴族の出 身で,青年のころは熱狂的ユンカー派=反動派に属していたが,彼は1862年駐仏大使としてノリ滞 在中,ナポレオン三世の労働政策を見聞したり,またラッサール (FredinandLassalle)の影響を受 けるようになってから,しだし、に従来の見解を変えるようになった。ピスマルクは, 1869年北ドイ ツ連邦に産業法 (Gewerbeordnung)を成立せしめ,はじめて団結権を容認した。これは, ピヌマル クが資本家の強力な反対も,頑迷なユンカーの反対をも押し切って,成立させたものであった。し かし,彼の依拠する支配階級はユンカー的貴族階級であったから,団結権の容認もけっして近代的 社会政策がもたらす労働力の保全を直接的に指向するものでなく,父権政策的伝統に基づく慈恵政 策の一環として容認したものであった。また, ビスマルクは1867年にプロセインにおいて普通選挙 法を施行した。これも彼の政策的意図は,恩恵的方策によって労働者階級に対して保守的効果を, すなわち,労働者階級を味方につけ,資本家階級に対して自由主義的進歩党の勢力を抑制すること を期待したものであった。それにもかからず, ドイツ労働者階級にとっては,これら二つの政策主 体の懐柔政策は,画期的なものに違いなかった。 1875年 5月ゴータでドイツ社会民主党 (DieSozialstische Arbeiterpartei Deutschlands)が結成さ れ,党の周囲には労働者が結集し,彼らはプロイセン的範囲を逸脱し国際的な運動に走り,現存社 会秩序そのものを意識的に批判しはじめた。こうした状況のなかで, 1877年ドイツ帝国の総選挙が 行われ, ドイツ社民党は50万票を獲得し, 12人の議員を当選させることに成功した。そこで,ピス マルクは,この忘恩な労働者らを徹底的に弾圧しようと決意した。そこへ突如として惹起したのは, 1887年の二回にわたる皇帝狙撃事件で-あり,これを契機に,ピスマルクは1887年10月,帝国議会で, 弾圧立法,社会主義者鎮圧法 (Sozialistengesetz)を可決成立せしめた。しかし,この弾圧法は多く の団体や出版物を禁止することができたが,労働者大衆は弾圧が強化されるのに反比例して,社民 党に走った。そこで,かかる赤レ炎の危険性を感知したピスマルクは,よりいっそうの懐柔政策, フランツ・メーリング (FranzMehring)流にいえば,鞭の政策(社会主義者鎮圧法)に対する飴の政 策(社会保険立法)を必要とした。こうした政策主体の鞭に対する飴の政策の必然、性は, 1881年11月 17日の帝国国会におけるカイザー・ヴィルヘルム一世の詔勅にも端的に現われている。詔勅はこ うし、った。「すでに本年二月, 余は社会的害悪を救済するには, 単に社会民主党的な暴挙を鎮圧す 一 -84一 一

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るだけではたりなし、。進んでまた労働者の福祉をも積極的に増進するの策をとらなければならない という所信を明らかにした。余は国会に対して,この任務への関心を再び想起させるのが皇帝とし ての義務であると信ずる。そして,こうした施策によって,祖国に国内の新たなる,かつ永続的な る確保をもたらすことができ,窮民に対して,かれらが要求し得るさらに一層安全にしてかつ豊富 なる扶助を与えることができるとすれば,神がわれわれの政府に明らかに授け給えしあらゆる功績 を,余はさらに大なる満足をもって想起することになるであろう。J(Friedrich Kleeis, Die Geschi -chte der sozialen Versicherung in Deutschland, 1928, S.99.近藤文二著『社会保険』岩波書広, 1953年,

92ページ。)と。また近藤文二氏によれば,この詔勅は, ドイツ社会政策のマグナ・カルタとして重 視されるべきである。(向上, 91ベージ)かくして, ドイツにおいては, 前述の一連の疾病・年金・ 労働災害に関する社会保険が1880年代につぎつぎに実現したので、ある。 イギリスにおいて,はじめて社会保険が実現したのが, 1880年の「雇主責任法J(Employers' Lia -bility Act)であり,同法によって,労働者は雇主にたいし労働災害の補債を要求する法的権利を認 められた。しかし,同法は, 1871年に結成された「合同鉄道従業員組合J(Amalgamated Society of Railw丘yServants)を中心とした自覚した労働運動に対する譲歩政策で、あったが,災害補償は過失主 義であったため, 1880年代の不況続きを背景にイギリスの労働運動は保守的なニュー・モデルから ラジカルな新組合主義 (newunionism)へ転田したことを契機に,イギリスの労働者階級は, 1897

年に「労働者補償法

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(Workmen's Compensation Act)を勝ち取り, 労働災害の補償として, はじ めて無過失責任主義を貫徹せしめた。換言するならば,同法の成立は,はじめて社会保険の有効性 を実現せしめた,といってもよし、。そして,同法は不況にあえぐ貧困化過程で,激発する労働災害 にたいする完全な補償制度の要求にたし、する譲歩政策であったが,現実的には, 1895年の総選挙に 際して,保守党が勝利を得るために,労働者階級にたいし, i災害原因とかかわりのない労働者補 償法の制定」を公約し,大勝を得た政党責任の結果であった。 だが,イギリスにおける社会保険成立の画期性は, 1911年に成立した国民保険法 (Nationa lIn-surance Act 1911)であった。同法は,第一部は健康保険,第二部は失業保険であり,後者は国家的 強制保険としては世界最初であり, ピスマルク社会保険と同様に,国際的見地からも画期的である といってよし、。またここで,同法は,戦後イギリス社会保障制度の先駆的存在であったことも,附ー 言しておく。 資本制経済がボランタリーに発達したイギリスでは, 1388年以来救貧法が発達していたが, 1911 年の国民保険の実現は,特殊的に1834年の新救貧法の解体過程によるものである。新救貧法は,古 典経済学の教理にしたがって可能なかぎり自由放任原理を徹底し,各人の生活にこTたLい、する配膚 人の責任でで、ある,とし寸原則を貫徹せしめたものであったから,旧救貧法の院外救助を一切拒否し, 院内救助 (in田doorrelif)もただ最も屈辱的な条件においてのみ与えようとしたものであった。した 一一-85-一一

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がって同法は,労働働者階級からは,貧乏人切り捨て政策であるといわれた。当然のことながら新 法に対する労働者階級の反抗運動は激化した。この反抗運動は,時あたかも惹起した労働者の他の 政治・経済的な反抗運動すなわち,チャーテイスト運動と労働時間短縮運動=10時間運動と,大な り小なりからみ合いをもってレた。 チャーテイスト運動は, 10年間にわたり数百万の大衆を動員できた革命的な運動であったが,失 敗に帰した。しかし,成年男子普通選挙権・無記名投票・選挙区改正・毎年改選・議員財産資格の 撤廃・有給議員の六カ条の人民憲意をかかげて戦ったこの運動は,支配階級の心胆を寒からしめる に十分であったといえよう。他方,時短=10時間法は, 1847年法 (AnAct to limit the Hours of Labour of Young Persons and Females in Factories)として実現した。 これはイギリス工場法史上, 画期的なものであった。なぜならば,同法は長年にわたる10時間運動の集大成であったからだ。 いうまでもなく,工場法は直接生産過程における労働力保全策として,就業年齢および労働時間 などの規制,さらに作業場の施設や労働環境の整備などについて規制を設けることによって生産過 程における保健・衛生と災害防止とををはかる社会政策である。したがって,どれほど画期性のあ る工場法が実現できても,直接労働過程以外の労働力の再生産を保全することは不可能である。こ の必要性に対応する社会政策は,とくに疾病保険である。 「疾病は資本による『生命と健康との浪費』と労働者暗級の貧困とのもたらす必然的結果の一つ である。J(小川喜一著『イギリスにおける社会政策史論』有斐閣, 1964年, 137ページ)ところで,イギリ スでは疾病に対する救助策は,前述の新救貧のほかに,自助の手段として,友愛組合と労働組合の 疾病保険制度が存在した。疾病手当を支給する組合を一般友愛組合と呼ぶが,これはあまり普及率 が高くなかった。理由は,拠出率が高く,しかも受給資格者にとってもその保障は極めて不十分で あったからである。また労働組合の疾病手当制度は, 1851年設立の合問機械工組合以来発達してき たが,これは高級熟練労働者にその資格が限定されたため,大多数の不熟練労働者の組織,未組織 労働者は,同制度の対象から除外された。マニーの指摘によれば, 11910年組織労働者約240万のう ち,労働組合の疾病手当を受ける権利を有するものは,約90万にすぎなかった。

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(前掲小川喜一著, 151ベージ)そして新救貧法による救助は,いうまでもなく医療の名に値いするものではなかった。 以上の友愛組合や労働組合による任意的な疾病

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保険制度がすでにその限界に直面したことと,他 方では救貧法体制の医療救助の非能率性と浪費にたいする非難とし、う事態に逢着し,経済的にはモ ーリス・ドップがし、うように富裕階級にはたしかに繁栄の時期ではあったが,労働者階級には逆に 購買力の低下,実質賃金の低下, 失業が増加し (MauriceDobb; Studies in the Development of Capitalism, 1946,邦訳II,岩波書庖, 1955年, 137-141ベージ参照), 政治的にはイギリス労働者階級が はじめて独自の政党,労働党を1906年に成立させたという背景のものに, 1906年1月の総選挙にお いて政権に復帰した自由党政府=アスキス (Asquith)内閣は,社会改革の断行を決意し,蔵相ロイ 一 一 一 部 一 一

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ド・ジョージ(LloydGeorge)の提案によって, 1911年国民保険法は成立の運びになった。かくて, これはただちに自由放任原理の廃棄なりその反対物への転化を意味するものでなかったが,制止的 原理を至上命令とする救貧法体制の解体を決定的たらしめたことは,明瞭であるといわわざるをえ ない。 わが国における社会保険の鳴矢は, 1922年(大正11年)制定公布, 1927年(昭和2年〉全面的に実 施された,健康保険法である。 すでに検討したピスマルク型社会保険はいわゆる鞭に対する飴の政策として成立したとしても, それはすでに存在していた共済組合や労働者保険の延長線上に制定されたこと,またイギリス国民 保険法も友愛組合や労働組合の共済活動,さらには救貧法による救助事業などの限界と矛盾にたい する対策として制定されたとするならば,これらは¥,、うなれば,災害に対する労働者の自助の弁 証法的発展を意味するものであった,といえよう。ところがわが国の健康保険法の成立は,これら の場合と事情を異にした。日本の場合は,救貧制度は未発達であったし,共済組合は名目的には早 くから存在したが,それは雇主の補助を前提としたもので,したがって自助の原理に基づくもので なく,家父長的な慈恵的福利施設といった方が,より適切であったからである。 日本資本主義の発達は, ドイツよりも先進国としてはさらに遅れてその絡についた。政策主体の 権力構造は,講座派理論にしたがえば,寄生地主と産業ブルジョアジーを基盤とする絶対主義天皇 制であった。この意味では, ドイツとよく近似しているが, ドイツの場合よりもいっそう弾圧体系 が強化されたところの,いわばアジア的専制的絶対主義権力構造として特徴づけることができる。 この理由については,おおくの問題を指摘できるが,ここで端的に二つだけ指摘すれば,第一に弾 圧体系として治安警察法一治安維持法が,第二に労働者にたいする団結権の容認=労働組合法が, いずれも今次大戦終了まで,前者は持続され,後者は実現されなかったことである。 それにもかかわらず,私がここで強調したし、ことは,健康保険法の成立は,英,独の場合と基本 的には同様に,資本蓄積の運動が必然、的に招来するところの労働者階級の社会的成長とその抵抗が 必然化せしめた,ということである。 日本資本主義発達史上,独占資本が確立されたのは,第一次大戦 (1914-1918年〉を経過した時期 であった。開戦の当初から連合国の一員として参戦したわが国は,この大戦中,欧米の先進帝国主 義列強がアジア市場から手を引し、た間隙に,これを奪取し,園内ではとくに重工業の飛躍的発展を 促進したからである。大戦の結果,軍需工業を中心とする産業ブルジョアジーは巨額の富を手にし たが,労働者階級は逆に深刻な窮乏化に直面した。これを基盤に階級的自覚に基づいた労働者は, 明治時代の冬の時代から再び活発な労働組合運動,社会主義運動,社会運動史上大正デモグラシー 運動として特徴づけることができるさまざまな大衆運動,そしてこれもわが国労働運動史上特筆に 値いする,参加人員約1000万におよんだといわれる米騒動,各地の軍工廠に飛び火したストライキ

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一 一

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の激化などが展開された。この時代の労働組合運動は政策主体の団結権の容認がないままに展開さ れたが,わが国労働組合運動史上,第二次大戦前における最高の高揚を示したものであった。しか し,労働組合と労働者政党の指導者聞におけるいわゆるアナ・ボル論争を契機に,運動は分裂と対 立に彩られた。だが,総じてこれらの民衆の社会運動は, 191i年ロシア十月社会主義革命勝利の国 際的影響と併せて,おそらく支配階級と政府の心胆を寒からしめるに十分であった。 独占資本の確立と相侯って,政策主体の側にも構造的な変化があったことは当然のことである。 すなわちブ、ルジョアジーの政治的進出が,これである。大正7年 9月,原敬がはじめて純政党内閣 として政友会内閣を組織したことは,その端的な現われである。しかし,われわれはこのことをも って,ただちに実質的にアールジョアジーが官僚的勢力にたいする制覇を確保したと理解するのは, 早計である。なぜならば,この段階においてもわが国の人口の約半数は農民であり,しかもその大 部分は資本主義的発達から取り残された半封建的な零細農民で‘あり,彼らは地主的支配のもとに隷 属し,この膨大な農民層を背景にもつ地主勢力は,なお依然として都市工業を地盤とする産業資本 家勢力にたいして優位を占めていたからである。しかしながら,われわれは,日本資本主義の独占段 階への発展は,下部構造をプルジョア的に改造せしめたし,その結果として従来までの絶対主義的官 僚政治をもってしては新局面に対応しきれなくなった状勢を,積極的に評価して大過はないだろう。 そこで,こうした新しい状勢にたし、し,絶対主義と離別することなく,たえずそれと妥協しなが ら存続した新しい政策主体は,労働運動や社会主義運動またはデモクラシー運動を,

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穏健なもの」 と「過激なもの」と識別し, lII

i

者を容認し,後者を弾圧する,という新しい弾圧体系を整備し,他 方では革命運動にたいする「解毒剤」として,よりすすんだ社会政策立法を必要とした。 新しい弾圧体系とは,明治33年制定公布した治安警察法から大正14年に制定公布した治安維持法 であり,これは労働運動のみならず,大正15年わが国にはじめて実現した普通選挙法による労働者 政党および労働者の政治への発言に備えるものであった。普選は新局面tこたし、する政策主体の新し い弾圧体系の整備をともなった政治的譲歩であったが,政府と支配階級にとっては,新しい大戦後 の局面にたいしては,体制維持のためにはそれだけでは不十分で、あり,彼らはいちだんと経済的譲 歩ニ労働力保全をともなった社会政策立法を準備した。具体的に政府官僚の手によって提示された 社会政策立法は,労働組合法や健康保険法,あるいは疾病保険法ならびに失業保険法などの諸立法 案であったが,実現したのは,大正11年 3月13日第45帝国議会に提出し,同年 3月25日,貴族院本 会議において可決された健康保険法だけであった。したがって,同法はあまりにも短時日に,しか も十分な審議も行わず,さらには民意をなんら反映させることなく,上からの,官僚の独善的な産物 として生みおとされた。この辺の立法者意図は,野党ではあったが,加藤憲政会総裁の発言に端的 に現われている。すなわち「若し自然の盤に放任して顧みざる時は人心の動揺益々甚だしきに至り 将来政治上社会上如何なる結果を生むも剖るべからず

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(横山勝太郎監修『憲政会史

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大正15年, 289ベ 88一 一 一

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ージ)と。 3 世 界 的 規 模 で 発 達 し た 社 会 保 障 私は,拙著『社会政策 各論』のなかで, i社会保障は社会政策の一部, しかもそれは国家独占 資本主義の発展段措に即応して社会政策の一部が変形したもの,……この意味で社会保障は社会政 策の亙種であるともいってよいだろうJ(拙著『社会政策各論』青木書百, 1977年, 438ベージ〉とい った。ここでいう社会政策の一部とは,いうまでもなく社会保険であり,社会政政策の亜種とは, 資本制経済発達の矛盾に即応して,国家独占資本主義の政策主体が社会保険の対象を,単なる労働 者からもはや全国民的規模に拡大し,それとあわせて,本来社会政策のカテゴリーに入らなかった, 社会福祉,社会事業の領域をも包摂し,体制化したという意味であるO 周知のごとく,社会保障とし、う用語は, 1935年のアメリカ連邦社会保障法(Federalsocial Seニurity Act)にはじまるO これは 1929年世界恐罷勃発の直後大統領に就任 (1933年 3月4日)したフランク リン・ルーズヴェルト (FranklinDelano Roosevelt)の提案によって成立せしめられた。だが,この 段階では社会保証の理論的体系が形成されたとはいえなし、。なぜ、ならば 1935年法は,連邦政府の直 接管理経営するのは唯一つ老齢年金だけで,あとは各介!の経営する失業保険,公的扶助,社会福祉 制度にずこいする連邦政府の補助だけであるからである。したがって, 1935年法の出現に意味がある とすれば, i従来から使用されてきた社会保険とか社会事業といった用語ではなく, 社会保障とい う言葉が登場したJ(沼田稲次郎稿「社会保障の思想J, 沼田稲次配・松尾均・小J!I政亮編『社会保障の思想 と権利~ 24ベージ〉こと,それ自体であった。かくして, 1935年法の成立以来,社会保障とし、う用語 が世界的に普及したが,社会保障の理論的および実践的体系が整備されたのは,第二次大戦を契機 に,戦勝国であろうと,敗戦国であろうと,各国政府は体制維持のため,社会保障の理念を導入し, それを整備拡充することが不可欠であると認めたし,他方各国の労働者も社会保障を生存にかかわ る権利として要求しはじめたからである。 社会保障の体系の構築に貢献した文献は,国際的には I L Oの1942年の「社会保障への途J (Ap-proaches to Social Security)や, 1944年の一連の勧告, i所得保障に関する勧告J(Recommendation concer出 1碍 IncomeSecurity), i医療保護に関する勧告(Recomme吋 ationconcen山 gMedical Care),

「雇用サーピスに関する勧告J(Recommedation Concerning Employment Service)などがあるが, なんとし、つでもベヴァリジ (WilliamHe町 y Beveridge)単独の責任執筆した報告書「社会保険およ

び関係サービスJ(Social Insurance and Allied Services)が有名である。

ベヴァリジ報告は,わが国でもいわゆる「ゆりかごから墓場まで国民の最低生活を保障する」も のとして,広く知られている。ベヴァリジは同報告が 1942年12月に公表されたとき, ブリティシ

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ュ・パラマント・ニュースで,こういった。「私の報告は,戦後社会の目標として労働条件の改善お よび経済進歩ならびに社会保障を掲げた大西洋憲章に基づいている。J(William Henry Beveridge: Power and Influence, Hodder and Stoughton Limited,伊部英男邦訳,至誠堂, 1975年,解説 6ページ〉 と。 大西洋憲章とは1941年8月148.チャーチルとルーズベルトによる大西洋上会談の結果発表され たもので,特にイギリスが「社会保障」を書き込むことを強調し,その結果八つの共通原則のーっ として「すべての国民の労働条件の向上,経済的進歩および社会保障をすべての者に確保する目的 をもって,経済の領域におけるすべての諸国民間に完全な協力をもたらすこと」をかかげた。ここ に社会保障は「人類の最も深く且つ最も普遍的な願望の一つを呼びかけたスローガン」となった。 (小)11政亮編著『人権としての社会保障原則』ミネルヴァ書房, 1985年t 37ベージ,参照。)そして,われわ れが注目に値いするのは,いまだ戦局は連合軍にとって不利な1941年の段階で,チャーチノレは無任 所大臣グリンウッドの名において,ベヴァリジを委員長とする「社会保険およびこれに関連する諸 施設に関する各省関係係官委員会Jを任命した, 政策的意図である。「これはイギリスが第一次大 戦後に経験した苦い教訂ト一大戦に勝利を占めても国民経済が不安になるならば何もならないーー を考恵したからである

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(前掲,拙著各論, 440ベージ)といわれ, より積極的な意味は, 社会保障計 画は反ファシズムの戦争努力を喚起し,さらに民主主義のための闘い,窮乏からの自由は勝ちとら れるものであると同時に, 戦後の「よりよい世界」を示すための計画で、あった, (前掲,小川政亮編 著, 38ベージ参照Jということである。換言するならば,以上の保守党の政治家,チャーチルが大西 洋憲章を具体化しようとしたダイナミックな政策転換は, 19世記の初期から湾rr次発展してきた工場 法体係,最低賃金制,団結権の容認、, 労働者を対象にした一部の社会保険(労働災害補償保険,国民 保険)だけでは,労働者階級を中心とする国民大衆の協力を得て, 反ファシズム戦争を勝利に導く ことも,またたとえ戦勝後といえども安定的にイギリス資本制経済体制を維持できないと,判断し たからであった。 前述のプリティシュ・パラマント・ニュースで,ベヴァリジはまた「この報告は最後の言葉『社 会保障』を実行に移そうとするもので,働ける聞に働く限り,失業,疾病,災害,老齢に際して, 窮乏に苦しむことはなく,死んだ後に妻子を路頭に迷わさないために第ーに,週に単一の保険料 を支払うことによって,必要がある限り,給付を支給し,第二に,荷親が子供を健康に保ち,子供 がふえても今までの子供に負担がかからないように児童手当制度を実施し,第三に,全国民に医療 を保障することを内容としている」と, (前掲, W. H. Beveridge : Power and Influence,邦訳, 10ベ ージ) ¥,、った。そして,同「報告」によれば,

i

W

社会保障』とは,失業,疾病もしくは災害によって 収入が中断された場合にこれに代わるための,また老齢による退職や本人以外の者の死亡による扶 養の喪失に備えるための,さらにまた出生,死亡および結婚までに関連する特別の支出をまかなう

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ための,所得の保障を意味する。J(W. H. Beveridge : Social Insurance and Allied Services, 1942, 山田祐'三邦訳,至誠堂,19i5年, 185ページ) そのうえで,同「報告」は三つの指導原則を提示している。第一に提案はつぎはぎ措・置で、はなく 卒命として行われること。第二に,社会保険組織は再建の道をはばむ五つの巨人(疾病,無知,話量, 察、為,窮乏)のうち窮乏に対する攻撃である。第三に,社会保障は国と個人の協力によって達成され るべきであり,強制j社会保険をその手段とし,国民扶助と任意保険を補助的手段とするものである (さらに,児童手当, 保健およびリハピリ, ならびに雇用の維持が計画の前提とされる)0(前掲,小)11政亮編 著『人権としての社会保障原則.'i38ページ)そして,柱となる社会保険運用の原則として, 均一額の最 低生活費給付,均一額の保険料拠出,行政責任の統一,適正な給付額,包括性,被保険者の分類(こ こでいう分類とは雇用労働者か非雇用者か,主婦か,労働年齢に達しているかどうかなど,社会の呉:なる階層の 生活様式の相違を考慮に入れるためのもので,一般的意味での経済的または社会的階級ではない〉の六原則を 基本としている。 (W.H. Beveridge : Social Insurance and Allied Services,前掲,邦訳 186-188ベージ 参照。) 以上にベヴァリジ報告について,その指導原則と社会保険原則を列挙しただけでも,ベヴァリジ の構想、はたしかに雄大であり,かつまた国民の生活保障を目標したかかる遠大な構想、は資本制経済 においてははじめてであり,それだけに世界史的な画期的意義をもっといってもよいだろう。しか しそれはけっして資本制経済の境界を越えるものではなく,むしろ体制!の維持に役立てようとした ことは自明である。この点に関して,端的に指摘すれば,ベヴァリジの構想は所得の再分配に,社 会保障制度の最大の機能をもたせたものであったが,その再分配とは生産における異なった要素, すなわち土地,資本,経営,労働の間における分配,より短絡的には利潤と賃金との聞における分 配ではなく,賃金と賃金との間,あるいは賃金労働者自身の間で就業しているときと,そうでない 聞に,家族扶養責任の重いときとそれが軽いかまったくないときの聞に行われる購買力の分配を意 味したものであったからである。したがって, iここでの分配:土, 階級間の分配ではなく, また労 働者階級内での再分配ですらなく,個人の努力に立脚したいわば時間的に水平な所得の移行を意味 したJ(前掲,小)11政亮編著『人権としての社会保障原則~ 39ページ〉。 また「報告書」の生活保障水準 は,労働者自身およびその家族の物理的ないし生理的な再生産を保障すればよいということである。 換言すれば,歴史的,社会的慣習によって規定される伝統的な生活水準を保障する必要はないとい うことである。「報告書」が計画したすべての国民を同ーの給付と同ーの拠出のもとに網羅的に保 険に加入せしめ,国民の最低生活を保障しようとするのは,そうした考え方からきている。だから こそ,ベヴァリジ案は生活保障の方法として社会保険と国民扶助のほかに,任意保険を基本的な措 置に付加することを認め, i高い支出水準に備えることは本来個人の責任である」と規定したので ある。かくて, i報告書」の意図は終局的には, 国民の生理的最低生活を保障することによって, 一一-91一一一

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資本制社会の体制維持に役立てようとしたといってよし、。それにもかかわらず I報告書」は国民 最低限,ナショナル・ミニマムを導入したことは,大きな功績であり,この思想が中心となって, 第二次大戦後の世界各国の社会保障制度の著しい発展に少なからざる影響を与えたと評価しでも, 過言ではないだろう。 紙幅がないので,第二次大戦後における各国の社会保障制度発展におよぼしたベヴァリジ報告の 影響について叙述できないが,わが国に関して,その点について若干のべておこう。 今次大戦の敗戦直後における政治・経済・社会,その他あらゆる混乱に直面した際,昭和21年 3 月,社会保険制度調査会が設置された。この目的は,戦後の国民生活の安定をはかるため,失業保 険やその他社会保険の整備・拡充などについての対策を確立するために必要な調査研究をおこなう ことであった。この「調査会」は三つの小委会を組織したが, これとは別にこの「調査会」に所属 する園乾治,近藤文二,末高信の三委員は,社会保障研究会を組織した。そもそもベヴァリジ計画 は,わが国においても,すでに戦時中に伝えられていたが,この研究会はベヴァリジ計画を参考に して社会保障制度要綱の草案を作成L. 小委員会に発表して審議を重ね,昭和22年10月に「社会保 障制度要綱」を厚生大臣あてに勧告した。この要綱はベヴァリジ案以上に徹底したものであるとい われた。 ついで,アメリカは昭和22年8月,ウィリアム・ワンデル博士を団長とする社会保障制度調査団 をわが国に派遣し,この調査団は前記の「要綱」に関心をよせ批判・検討し,同年12月,日本占領軍 司令官マッカサーに報告した。いわゆるワンデル・リポートはこれであるO そして日本政府はこれ を「社会保障制度調査団報告」として受け取った。この報告書にもられた勧告内容は,老齢・疾病・ 失業などにかんする各種の社会保険制度の統合・整備,生活保護制度の拡大などであったが,とく に園会ならびに責任ある政府行政機関にたいして,社会保障にかんする企画・政策決定・法律制定 につレて勧告をおこなう任務をもっ内閣と同列の各方面代表者による諮問機関を設置することであ った。「勧告」は占領軍の日本政府に対する命令と同様であったから, 昭和23年12月には「社会保 障制度審議会」が設置された。 この「審議会」の設置法によれば.I審議会」は, 内閣総理大臣の 所轄に属し,社会保障制度につき調査,審議および勧告を行い,社会保険による経済的保障の最も 効果的な方法につき,文は社会保険とその関連事項に関する立法および運営の大綱につき,研究し, その結果を,国会に提出するように,内閣総理大臣および関係大臣に書面をもって助言する任務お よび権限を有する。一方内閣総理大臣および関係各大臣は,社会保障に関する企画,立法又は運営 の大綱に関しては,あらかじめ.I審議会」の意見を求めなければならないことになっている。 「審議会」の第1回総会は昭和22年 5月に開催され, それ以来今日にいたるまで, わが国の政 治・経済・社会の発展段階における変化に対応し,多数の勧告および答申を出してきた。勧告・答 申の作製の都度,指針となったのは,ベヴァリジ構想であり,またわが国の新憲法第25条「すべて 一一一-92一一一

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国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は,すべての生活部面について, 社会福祉,社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならなし、」の理念であった。注目 に値するのは, 昭和34年, わが国史上はじめての最低賃金制の実現 (1L 0の労使同数主義を無視 した業者間協定方式が中心であったが)とともに, 国民皆保険と皆年金を達成したのち, 昭和37年, 「審議会」は「社会保障制度の総合調整に関する基本方策についての答申および社会保障制度の推 進に関する勧告」を出したので、ある。これはいうなれば,社会保障制度の近代化の実施をせまった もので, そのなかで, 110年後には, 日本の社会保障制度を西欧先進諸国の現行の社会保障水準ま で,引き上げるよう意図された」。もちろん, 政策主体は, これまで「審議会」の勧告や答申をそ のま忠実に実行してきたとは,とうてい云えない。しかし,最近におけるレーガノミックスやサッ チャーリズムに代表された福祉切り捨て政策に迎合した臨調路線にしたがった結果,わが国の政策 主体も福祉政策を後退させたが,今日までの社会保障制度体系は,誠に複雑で昔話j度的に統合の目標 からはほど遠いものがあるとしても,総じて西欧といっても,とくにイギリス型に接近していると いえるだろう。そして保守党・自民党政府は,せまりつつある高齢化社会の到来に直面して,安定 した活力ある社会の建設をうたいもんくに,社会保障政策を自助,民活,受益者負担の方向に,換 言すれば社会保障を通じての新しい搾取政策に転換しつつあるのも事実である。これは,ベヴァリ ジ構想や新憲法の理念から,ますます離れて行くことを意味する。しかし,はたしてそうした方向 転換は,政策主体や支配階級の思惑のごとく,スムーズに進展するであろうか。私はそうは思わな い。戦後の民主主義とともに発達し,構築された社会政策・社会保障の諸制度が,労働者・国民に 生存権ならびに人権意識を顕在的にも潜在的にも蓄積した,と考えるからである。

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生 存 権 ・ 人 権 と 社 会 保 障 生存権と人権とは同義ではないが,人権の前提またはその最大のものは生存権である。その生存 権とは何か。アントン・メンガー (AntonMenger)はこうし、っている。生存権とは,

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社会の構成 員が,他人のよりさしせまっていない欲望を満足せしめるに先だって,その生存に必要な物財およ び労務をば, 現存資料に応じて, かれに分与されることを要求する権利J(Anton Menger; Das Recht auf den vollen Arbeitsertrag in geschichtliche Darstellung, 3 Aufl, 1904, S. 9)と。これは, いうなれば,人は相当な生活をする権利がある,ということだ。生産手段の私的所有と自由競争を 基本とする資本制社会においては,かかる権利は認められないのが原則である。しかし,メンガー は,

1

生存権」は「労働全収益権」とともに, 社会主義社会においてはじめて実現可能な基本権で あると主張したのであるが,それにもかかわらず,彼は資本制社会においても制限されているが, 「生存権」に近い権利が承認されていることを認めた。その権利とは,老齢,疾病その他労働不能 一一-93一一一

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にたいする社会保険,あるいは労働能力者にして労働の機会をえない者に対する失業保険,そして 未成年者の教育を受ける権利などである。換言すれば,資本制社会に実現された一連の社会保険を 中心とした社会政策が,生存権を承認したことになる,とし、うわけである。 各国とも社会保険は成立した当初は,いわゆる労働保険ともいわれ,おもに労働者自身あるいは その家族をも含めて対象としていた。だが,社会保険から社会保障へと広く発展した段階で、は,そ の対象は,勤労者,国民全体へと拡大されてきた。これは,政策主体が労働者階級を中心とした国 民の各階級・階層聞に生存権意識が拡大強化され,その圧力が強大になったため,もはや単なる労 働者だけを対象とした社会保険ならびに福祉政策だけでは,体制維持の安定に不十分である,と認 識したからである。こうした政策課題を理論的に統ーした,その典型は,前述のヴノミァリジ報告で あった。 したがって,世界的規模でみても,生存権の承認とその具体的実現方法は,社会政策・社会保障 制度であるとの認識は一般的すう勢である。 周知のごとく, 1945年10月,第二次大戦終了直後,国際連合が創立され, 48年第 3回国連総会は 世界人権宣言を採択した。この宣言は,

r

何人も社会の一員として社会保障を受ける権利を有する」 (第22条)と規定したごとく, 人間の尊厳に由来する人権の保障, そして人権として位置づけられ た社会保障は人類普遍の原理であること,さらには,人権の保障は平和を前提とし,平和はまた人 権の保障を前提として成り立つとし、う関係を高らかにうたったものであった。われわれは,こうし た認識こそ戦後の世界的出発点であることを忘れではならなし、。 またグローバルな観点から,人権としての社会保障に取り組んだILOについて触れておかねば ならなし、。前述したごとく, 1 L Oでは戦時中から社会保障の推進拡大をはかつてきたが, 1952年 第35回総合で社会保棒最低基準条約(第102号条約)を採択したことは, 加盟国に対する社会保障制 度の指針として画期的で、あった。注目に値するのは,中進国,低開発患の達成可能な最低水準を設 定したことである。そして同条約は加盟各国の事情を考慮して,弾力的で批准しやすい方向で実質 的な内容を,①最低三部門の達成とし、う最低基準,①最高九部門全部の達成,①さらに主として低 開発国を対象とする暫定的な例外規定を設けた。条約によれば,九部門とは,医療,疾病,失業, 老齢,業務災害,家族,出産,廃疾,遺族であり,加盟国の批准義務としての必要最少限は,上の 九部門のうちから, (失業,老齢,業務災害,廃疾,遺族)のいずれか一つを含む,三部門である。 1984年 1月現在で,批准国は30カ国におよんでいる。(前掲,小川I政亮編著. w人権としての社会保障 原則.il45-46ベージ参照。)これは,人権としての社会保障制度が ILOを通じて達成された現況であ る。 地域的国際組織の観点から社会保障を人権とみなした例として, ヨーロッパ審議会 (Councilof Europe)について記しておく。ヨーロッパ審議会はチャーチルの提唱によって,第二次大戦後の東 一一一 94一一一

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西冷戦の深化のなかで資本制西ヨーロッパ諸国の連帯を求めて,英,仏など10カ国によって 1949年 に創設された。同審議会は統一目標として,人権と基本的自由の維持と拡充をかかげたが,そのな かで,社会保障の重要性が認められ,近代的社会保障制度創設と社会保険から社会保障への展開を 促進することが決められた。そして1950年には,同組織では「人権と基本的自由の保護に関する条 件J(ヨーロツバ人権条約)が締結された。さらに53年には社会保障に関する暫定協定が結ばれ,老齢, 廃疾,遺族に関するものと,疾病,母性,失業,業務災害,葬祭料,家族給付などその他の側面に 関する茨定を設け,加盟国の平等待遇と二国間,多国間条約の利益を全加盟国民に拡大するもので あった。そして,前述の1950年に締結された「ヨーロッバ人件条約の延長線上に, 1961年ヨーロァ バ社会憲章が「審議会」加盟国の聞で実現した。同憲章は, 社会保障に関して, iすべての労働者 と被扶養者につレて,社会保障に関する権利を定め,適当な資力のない者に対しての社会扶助,医 療扶助の権利,他のすべての者についての社会福祉サービスからの給付の権利,障害者,家族,母 と子,移民労働者と家族についての個別の権利を定めた。J(前掲,小川政亮編著『人権としての社会保 障原則~ 58ベージ)さらにこの憲章の延長線に, 64年4月には,社会保時法典が誕生し,同法典は, 社会憲章のいう, より高い水準へと引き上げる漸進的改善を意図したもので, 内容は, 1 L Oの 102号条約とおおよそ同じ程度のもの(向上, 59ベージ参照。〉であった。 この項自の最後に,国際労働組合の社会保障の対応につレて,叙述する。 1947年 6月のマーシャ ルプランに代表されるアメリカの対社会主義戦略のなかで,再軍備強化,独占資本の攻撃のもと, 1949年には国際自由労連(ICFTU)が結成され, 国際労働組合運動は分裂した。 こうした状況 と符節を合せたが如く,世界的に社会保障制度の後退が顕著になってきた。 かかる情勢のもとで, 1953年 3月, ウィーンで, 世界労連 (WFTU)の呼びかけによって, 社 会保障制度の防衛,前進を目ざして国際社会保障会議が開催された。ここで会議に参集したのは, 社会主義国はもちろんのこと,資本主義国,植民地,半植民地国からの人々であり,社会保障問題 討議のため,こうして一堂に会したのは,史上はじめてであった。会議の目的の主なものは,資本 制諸国で再軍備促進からの攻撃を受けている社会的成果の擁護と改善であり,低開発国,植民地に おける社会保障の導入と発展に資することであった。そして,この会議では「世界中の普通の市民 の一般的願望」を現わした綱領を採択した。それは,社会保障の一般原則と社会保障の基準が柱と なっていた。 1961年モスクワで第 5回世界労連大会が開催されたさい,同大会はさきのウィーンで まとめた綱領に基づレて,あるいはそれを発展させて,社会保障憲意を採択した。同憲意は社会保 障を次のように規定した。「社会保障は労働者階級の基本的権利である。」と。労働組合大会である から,労働者階級の基本的権利とうたったのであって,草案の討議によれば,社会保障の対象から 労働者階級以外を除外するということではなかったようである。同時に61年憲章の特徴は,社会主 義国,資本主義国,先進,低開発国を関わず,いずれの国にも適用できる普遍的な極めて高度な原 一一-95一一一

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則を規定したことである。したがって,この憲章は各国労働者・国民の社会保障問争の規範になっ たことはいうまでもなし、。 以上の61年社会保障憲章の影響もあって, 1960年代70年代前半は,世界的に人権としての社会保 障の拡大・強化が進展した時代であった。それは,前述の48年世界人権宣言の延長線上に, 1966年, 国際人権規約が採択されたことに象徴される。人権規約A規約ほ,第 9条で「この規約の締約国は, 社会保険を含む社会保障についてのすべての者の権利を認めるJ(前掲,小)11政亮編著『人権としての 社会保障原則~ 55ベージ〉と規定した。これは一見して自明のごとく, 社会保障は基本的人権である ことが,世界の普遍的原理である,と承認されたことを意味する。 しかし, 80年代に突入すると,核・軍備拡張による各国政府の財政的圧迫によって,各国とも社 会保障の後退を余儀なくされた。そこで,世界労連は, 1982年ハパナで第四回大会を開いて, 1982 年社会保障憲章を採択した。 82年憲章は51年憲章の基本原則を踏えて,それを80年代の情勢に対応 し,現代化したものである。例えば, 82年憲章は,危険,事故の事後的補償だけでなく,それらが 発生する原因を除去する予防を社会保障の基本であると強調し,高齢化社会問題として,当然のこ とながら年金,医療が特に問題とされていることや,児童,障害者等には国連の人権保障実質化な ど,社会保障は全労働者・市民の物質的な社会的必要を完全に充足し,彼らに差別のない生活をも たらし,彼らを肉体的・精神的に全面的発達させるように機能させていることである。 わが国における生存権・人権と社会保障のかかわりを指摘するならば,戦後の民主・平和,人権 の新憲法を挙げることに, ~書賭する者はなかろう。憲法13条は人聞の尊厳を, 14条は全国民は法の もとに平等であること, 25条は生存権と社会保障権,そして27条は労働権. 28条は団結権を規定し ている。戦後民主主義の発達は,総じていわゆる反動分子でなし、かぎり,永久に殺争を放棄した新 憲法を,政治,経済,社会,文化,その他あらゆる部面において,精神的,理論的,実践的規範と してきた,といっても過言ではなし、。そのなかで,私は最大であると思うのは,少なくとも人聞の 尊厳・平等,生存権意識が労働権や団結権に裏づけられて,戦後40年余り経過した今日,労働者, 市民の聞に定着してきたことだと思う。 新憲法が正しく尊守されてきたならば,わが国の社会保障制度は,西欧の社会保障の先進冨と同 程度かそれ以上に発達しただろうと想像することは困難ではない。しかし,周知のごとく,占領政 策を脱皮したと称した連合国との単独講和締結と同時に,日米安全保障条約体制のもとに組み入れ られた時点から,わが国の政治,経済,社会,文化体制は,新憲法の精神とは矛盾するアメリカ帝 国主義の世界戦略の一環に,好むと好まぎるとにかかわらずはめこまれ,歴代の首相は就任の挨拶 として, ワシントン詣でをすることに端的に示されているごとく,アメリカへの従屠的立場に立た たされ,現在もなお基本的構図は変らなし、。前述した社会保障制度審議会が,歴史的には,その時 時の政権の方針に翻酌または遠慮しながらも,新憲法が規定する高道な原則,人間の尊厳・平等, 一一-96一一一

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生存権の実現を曲りなりにも盛りこんだ勧告・答申をしたが,それは自民党政府によって歪曲され, 時には無視されて,新憲法の精神とあし、いれなし、社会保障が,実現されてきた。 それにもかかわらず,私は上述の憲法の高遺な諸規定に自覚した権利意識は,労働者,市民の聞 に詠々として生きつづけたし,ますます拡大されていると思う。こうした権利意識に基づいた運動 こそ,し、くたの社会保障裁判闘争ではなかろうか。代表的な例としては,朝日訴訟,堀木訴訟,牧 野訴訟などをあげることができる。そしてこれらの訴訟においては,いずれも一審において原告側 が勝訴し,高裁,最高裁に移されることによって,冷酷にも人聞の尊厳,平等,生存権,人権がに べもなく否定され,違憲性は逆転されているO そして判決文を通じて,労働者・市民の真の敵,味 方が判然、となったように思われる。それらの訴訟は,最終的には原告が訴訟なかばで死亡したり, 敗訴となったが,長い間の裁判闘争は良心的な労働者・市民を数多く戦列に加え,真の社会保障立 法の樹立にむけて世論を喚起したエネルギは,計り知れないものがある。最近の動向としては,こ れを感知したところの政策主体は,ますます巧妙にマヌーパ的な懐柔策を錬成しているのも事実で ある。

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む す び どうやら紙揺がなくなったので,まとめの段階に入る必要があるようだ。社会福祉や社会事業の 問題についても,触れる予定であったが,割愛せざるをえない。しかし,これは本稿の総括に支障 をきたすものではなし、。 社会保障制度は国家独占資本主義の発展段階に対応し,政策主体が体制維持・安定のため,対象 を単なる労働者階級から労働者・全国民へ拡大した社会保険を中心に,それに社会扶助,ならびに 従来まで社会政策に隣接していた社会福祉,社会事業あるいはこれに環境,公衆衛生問題をも含め て総合統括し,労働者・全国民の全生涯にわたって最低生活を保障する施設である,とし、う意味に ついては,本稿でしばしば主張してきた。これを私流にいえば,社会保障は資本制蓄積の運動が, 国家独占資本主義の発展断階で必然、化した,社会政策の一部の亜種である。あるいは社会政策の一 部・社会保険の拡大発展である,といってもよし、。だから,社会保揮は社会政策の一部であって, 社会政策全体に取って代るものでもなければ,社会政策とは別なものでもなし、。したがって,社会 保障を理論的にも実践的にも理解するためには,あるいは社会保障の本質論研究にとっては,社会 政策論の基礎理論としての窮乏化理論を含めた社会政策の一般理論と各国別の社会政策の発展的特 殊性の探究に必要な社会政策の特殊理論が不可欠である。以上の観点から,もはや社会政策は産業 資本主義の遺物で,それは博物館行きであるとの見解は,もはや全くナンセンスであることは自明 であろう。 また,社会保障と社会政策との関係についていえば,前者は後者に取って代るものではないが,

一-

97一 一

(19)

両者は機能的に密接な関係にあることも,忘れてはならなし、。あるいはこう云い換えてもよし、。す なわち,強固な社会政策に裏付けられない社会保障は空洞化または形骸化するに違いないと。これ は,ここでは詳論できないが,工場法から社会保険一社会保障の発達にいたる各国の社会政策史の 証明するところである。労働者保護法や団結権の容認のないところに社会保険の実現もなかったろ うし,まLてやそれが社会保障へ発展することは,考えられなし、。また社会保障がたとえ,実現さ れたとしても,最低賃金制が存在しなければ,労働者の賃金水準が上昇しないのであるから,社会 保障の水準もまた向上しないのは当然のことである。わが国においては,昭和34年,史上はじめて 国民皆保険と皆年金と同時に最低賃金制が実現されたのであるが,それは日本の労働者階級が少な くとも社会保障と最低賃金制の相互的機能を認識して,曲りなりにも勝ち取った証左であった。 社会保障制度の中心であるところの社会保険の成立について,デッサン的ではあったが, ドイツ, イギリス,日本と叙述してきた。そこで,共通する社会保険成立史の意義は,総じて,社会保険は 各国の政策主体が,資本制蓄積の一般法則の貫徹過程において必然化した労働者階級の反抗運動に 対する譲歩政策として,あるいはその反抗運動のエスカレートを予見した先見性に基づいた先取り 政策として実現された,ということであった。そして社会保険から社会保障へ拡大発展した第二次 大戦を契機とする歴史情況においても,その原動力となった生存権,人権の労働者・市民の権利意 識の定着は,世界的規模において国際的にも国内的にも労働組合運動や市民・社会運動,あるいは 社会主義運動が勝ち取ったものであった。 そうであるとするならば,労働者・市民に最大多数の最大幸福をもたす真の社会保障の実現に不 可欠な社会政策の理論的観点は,資本の合理性を讃美する没階級論的生産政策論ではなく,労働者 階級の反抗運動を不可欠の根拠とする階級論的譲歩政策であることは,もはや自明ではないのか。 われわれは,わが国においても, 1954年政府のM S A協定に基づく社会保障関係の国庫負担費の大 幅削減を広範な市民の反対運動が阻止した経験,あるいは政府をして,いわゆる5万円年金を実現 せしめ, ["福祉元年J,["年金時代」を切り開し、たといわれる1973年の 4.17ゼネストの歴史情況を想 起すべきであるO 一一-98一 一

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