文学的美意識と「日本」 : 川端康成と三島由紀夫(
五)
著者名(日)
瀧田 夏樹
雑誌名
井上円了センター年報
号
9
ページ
185-198
発行年
2000-07-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002847/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja文学的美意識と百杢
川端康成と三島由紀夫︵五︶瀧田夏樹§§§
︵十七︶ だんぽぽ﹂ 昭和三十九年六月から四十三年十月まで、﹁新潮﹂に連載され、未完結のまま残された川端康成のこの作品を、 未完の故にことさらな意味を与えるのは正しくないだろう。これは、さしあたり、同じ年の十月、日本人として 初のノーベル文学賞受賞という未曾有の出来事があり、身辺の思いもよらぬ多事から、執筆を一時的に中断した というのが主な理由であろう。だが、三年半後の死の時︵四十七年四月︶までこれを書き継ぐにいたらなかった ことの裏には、それ以上の理由がありそうにも思える。そのもっとも重要なものが、ノーベル賞受賞の一連の動 きの延長上にあるとも見られる、三島由紀夫の、あの余りに衝撃的な割腹自殺事件に求められる。昭和四十五年 十一月二十五日白昼のことであり、川端康成のノーベル賞受賞、約二年後の出来事であった。それから約一年半 たらず後に、彼自身がガスによって自らの死を選ぶことになる。 われわれは、この未完の作品を、そのような目でも慎重に検討しなければならない。作品の内容は、一人の精 神障害者をめぐる、その母親と許婚の間の延々たる会話であり、低くくぐもった声でなされる会話は、木崎稲子 185 文学的美意識と「日本」という若い女性の社会生活を今や奪おうとしている不思議な﹁病気﹂の原因を求め、ひいては自分たちが明日と らなければならない行動について、せっぱづまった思考の交換が行なわれる。主題である﹁狂気﹂という憂欝さ を、唯一明るませる材料として、生田病院から駅前に戻る川沿いに咲く、黄色味の濃い大型のたんぽぽと、その 道でふと出会った﹁人間の子﹂とは思えないような、﹁あざやかに黄の濃いたんぽぽのやうな少年﹂がある。母 は、土地のこの﹁利発さうな﹂小学生を、﹁小妖精﹂かとも思った。娘を失ったと思うさびしさから、﹁盗んで帰 りたい﹂とさえ口に出して言う。題名となっている﹁たんぽぽ﹂はここに由来する。 186 生田川の岸には、たんぽぽが多い。川岸にたんぽぽの多いことが、生田町の性格をあらはしてゐる。たんぽ ぽの花が咲いた春のやうな町である。三万五千ほどの人口のうちに、八十歳以上の高齢者が三百九十四人ゐ る。 この出だしの文章が十分説明してくれよう。日本のどこにでもありそうなこの架空の小都市は、日本の、あた たかな小さな田舎町の代表といっていいだろう。唯一ふさわしくない不吉な存在が、丘の上に立つ﹁気ちがひ病 院﹂であるといい、この明るい風光を精神の癒やしに選んだ当路の人の気持ちが、さながら伝わって来そうなた たずまいなのである。 稲子のかかっている病気は﹁人体欠視症﹂といい、相手にしている人物の体の一部が完全に見えなくなるとい う、珍しい症状で、余り害はないように思われるが、見えなくなった自分の赤ん坊をしめ殺した母親の例が挙げ
られ、通常の生活には適合しないことも事実であるらしい。稲子の母と、婚約者の久野とは、彼女をこの精神病 院に入れた日の午後、﹁生田川﹂沿いの道をくだり、駅前のとある旅館に泊るまで、そして夜半に至るまで話し こむが、会話は尽きない。二人は、稲子を入院させたそのことにも、まだ確信が持てないでいるのだ。久野など は、明日にもまた引き取って結婚生活に入り、生活のなかで治してゆくべきかと思い迷っている。その間に、さ まざまの話題が飛びかって、当然、病気の発端や原因がたどられる。 最初は高校時代のピンポン試合中、急に球が見えなくなった時であったという。この症状が、結婚を前にした 二人の男女に、どういう激しい現われ方をしたかについても、最後の方でショッキングな描写があるが、久野自 身は、さしたることとは思っていないふしがあり、刺激的とさえ感じている。実際、稲子の症状が、隔離された 療養所にあずけなければならぬ程の重症なのかどうかは、いま一つはっきりしないのだし、早期に治そうという 母親にしても、この奇病の原因がどこにあるかという点をつかんでいるわけではないのだ。二人の尽きることの ない会話には、稲子の生い立ちのなかから何とか原因を見つけだそうという共通の動機が働いており、核心をめ ぐっての空回りの部分もある。だが明らかにその中心には、一つの驚くべき物語があって、稲子の精神がそれに 深くかかわっているらしいことも明らかになってくる。 それは、稲子の父、木崎中佐の物語である。それは、太平洋戦争の敗戦を傷だらけの体で迎え、死に場所を失 い、彼にとってはあり得べからざる﹁終戦﹂という不可解を肉体に刻印したまま、戦後まで生きてしまった一人 の男の物語。戦後をよく生きぬきながら、自分で背負った運命の﹁ねじれ﹂を、みずからの非業の死によって証 明したような、一人の陸軍将校の悲劇的な物語である。彼は、戦争とは無縁の娘の目の前で、その悲劇を演じて 187 文学的美意識と「日本」
しまう。乗馬がことのほか得意であったというこの将校は、中国やフィリピンでの歴戦の勇士だったらしいが、 重傷を負い、すでに﹁左の足が腰の附け根から義足であった﹂。しかも米軍の九州上陸作戦にそなえるべく、も と参謀としての経験をかわれて、現役の隊長として鹿児島に駐屯していた。彼は、九州の地形を知るべく危険な 山野を祓渉したが、それも、馬という手段があってのことである。この木崎隊長の、八月十五日の終戦時の行動 が、周囲にはまことに曖昧模糊としていた。彼は一時、﹁隊から愛馬を飛ばせて、行方知れずになつた﹂のであ る。人知れず自殺でもしたかとうわさされたが、五日目に人馬ともに憔埣して戻った。この間のことは、家族以 外には一切話したことがない。この敗戦時、稲子は二歳だった。 圧倒的な制空権をもち、無数の艦船と、機械化された火力で怒涛のように太平洋の諸島や沖縄を攻略した連合 軍の記録を知るわれわれにとって、義足で馬を走らせる木崎隊長の抵抗の姿は、ほとんど時代錯誤な戯画を思わ せる。つまりほとんど現実味を失った、モダニズム文学の産物であるかに思われるのだ。このような、むしろコ ミカルな設定によってしか、日本の奇妙な﹁終戦﹂の状況は文学表現出来ない、といった地点に、川端康成がい たというほかはない。とまれ、木崎の戦後を支えたのが、再びこの馬であった。 敗戦後二年、東京のある乗馬倶楽部に懇望されて、そこの教師として木崎は息を吹き返す。敗戦の虚脱、窮 乏、混迷のなかで、おちぶれ貴族、富豪、成金、占領軍の便乗者、それにアメリカ軍家族など、さまざまな人種 にとって﹁馬術﹂は、スマートなスポーツとなって復活していた。そこで木崎は、自分の特技をいかすわけであ るが、戦死軍人の遺族で、アメリカ語がよく出来る、派手な﹁北尾﹂未亡人との浮名が立ちかけ、お目付役に、 五歳の稲子も馬場に通わされることになる。父もそれを喜び、一緒に遠乗りにもゆくようになったが、稲子は父 の馬術が誇りだった。父もそういう一人娘を生きがいとしたが、木崎の乗り方は、片足がないだけ、かえって大 188
胆だったとある。そしてやがて悲劇が起こる。 娘と二人だけの伊豆の遠乗りで、崖の側を行く父木崎の馬が、足をすべらしたのか、断崖絶壁から転落する。 人馬が墜落していく一部始終を、うしろの稲子が目撃することになった。稲子は瞬間に気を失ったが、岩にぶつ かる音、人馬が離れる落下の様子、そして﹁義足がはつれた﹂様子までを、稲子は﹁見た﹂と信じている。手綱 をしっかり握っていて、馬にまかせ、落馬もしなかったが、もし気を失わなければ、父を追って崖から身を投げ たかも知れなかった。 左足は真直ぐに突つ張つてゐた。乗馬ズボンのなかであるが、左足は人間と縁切れして、死であつた。 木崎は、このようにして、死にそこねた自分の死に追いついた格好であるが、そういう父の死にざま、﹁悲劇 のクライマツクス﹂を、﹁生命の泉﹂として大切に育てた自分の娘の心に焼きつけてしまったのだ。久野などは その一部始終を、運命的といって忘れればよいとするが、たしかに、少女を失神させた衝撃が、そのまま彼女の トラウマとなってしまった可能性は考えられる。それが、高一の年のことであった。 さて久野の提案で、母も一緒に、駅前の粗末な旅館で一夜を明かすことになるが、眠ることも出来ず、問の襖 をしめたまま、程遠からぬ病院にいる稲子のことを思いつつ、あてどない過去の記憶にそれぞれ沈みきってい る。二人をこのような状況に追い込んでいる小説の﹁明日﹂がどう展開しようとも、稲子だけを襲っているもの すごい不幸に、彼らが全く無力である事実には、おそらく変りはないであろう。そしてそこで作品は中断されて 189 文学的美意識と「日本」
いるのである。作品をおおっているものは巨大であって、あえてその恐ろしい何かを名づけるとすれば、全くち がう二つの時代 昭和前期と昭和後期を、ねじ切るように走っている亀裂のイメージが浮かび上がる。厳密に 昭和前期と後期の間を走り、二つの連続を許さぬもの。﹃山の音﹄における父親の信吾と息子の修一の間にも、 これと同じ亀裂は走っていたといえる。忌まわしい過去に呪縛され、それぞれ深い傷を負って生きなければなら ぬ﹃千羽鶴﹄の若い男女の運命にも、亀裂の力は隠微に働いていた。今その力は、稲子の結婚という人生の門出 に立ちはだかろうとしているかに見える。 190 抱擁していない時、開かれた稲子の視野から、突然相手の久野のコ肩から下のからだ、いや口までが﹂消え、 二人の間を、気泡の集まりのような透明の﹁虹﹂がさえぎったことがあった。久野にも、それは、すでに気付い ていた彼女の﹁人体欠視症﹂が進んだものと思われた。抱擁の折にも、消えるときと消えないときがあり、一旦 症状が起こると、目をふさいでも相手の姿は消えたままであった。この進行性﹁欠視﹂を食い止める治療法を、 病院は持っているのだろうか。﹁稲子は眠りましたよ。病院で鎮静剤か睡眠薬を飲ませられてね﹂という母親の 口ぶりから、家庭で治す手段はつくした後のことと推定され、そして、思い余って入院させたが、なおふっきれ ない、その宵の二人の孤独な状況。 稲子は主人公でありながら、したがって作品には一度も姿を現わすことがない。ただ、三時、六時、九時の三 度、病院が境内を借りている﹁常光寺﹂の梵鐘が鳴ったうちの、三時のものが、たぶん稲子の手で撞かれたもの だろうと、二人は聞いた。医者が、﹁今日の三時の鐘は、お嬢さんに撞いてもらふことにします﹂﹁新しい患者さ んは、入院の日に、病状がゆるせば、撞いてもらふことにしてゐます﹂と言ったのを裏書きするように、治療の
一環として患者に撞かせるという、たどたどしい鐘が、静かな田舎の空気を縫って四つ、五つと、二人に呼び掛 けるように聞こえたのが憐れだった。久野などは動揺して、今から病院へ引き返そうかとうったえたものだっ た。 六時の鐘が聞こえてきたのは、二人が駅前旅館﹁生田館﹂に入り、夕食をとっている時だった。明らかに撞き 方が先程とはちがっており、久野の心を緊張させ、誰が撞いているのかとあやしんだ。そして、その音を﹁底の ない暗がりへ引き落してゆくやうだ﹂と聞いた久野は、﹁気の狂つた気ちがひか、気高い問罪者﹂によるのでは ないかと、耳をすます。母の方は、三時の鐘のことを思い出して、精神病院においてきたばかりの娘が撞かせて もらったことを、改めて痛切に思うばかりである。この六時の鐘をめぐっての二人の対話は、いずれにしても、 この作品のもっとも重要な意味を秘めた部分である。久野は、精神異常者の多くが、潜在的な自己問罪者だと見 る。中には、実際に極悪の罪をおかした人さえいるかも知れない、という。二人は、鐘の音の聞き方、解釈をめ ぐって、自分の説を主張して譲らず、互いに気が立っているところを隠さないが、どちらかというと、母親の方 が、冷静に娘の容体の深刻さを受けとめており、久野の方が、愛するものを取り返したいという思いに駆られが ちである。 久野が、六時の鐘を気高い﹁問罪者﹂が撞いていたと主張するのは、ある具体的な個人を念頭においてのこと であることが、告白される。それは、昼間、患者たちに開放されて自由に活動させている常光寺本堂で見かけ た、一人の西山という老人のことである。病院の・王といわれている大人しい患者だが、古新聞紙を大きく広げ て、書にふけっており、それが、たいていは﹁仏界易入 魔界難入﹂の八字なのである。﹁仏界、入りやすく、 魔界、入り難し﹂と読み、力のある字で俗気はないが、狂気がひそんでいるような文字だという。あとは、ラジ 191 文学的美意識と「日本」
オの天気予報を好んで聞く。というよりも、女性のアナウンサーの声を慰めとしている。老残の、この﹁病院の 主﹂の存在が、なぜか久野の気にかかり、﹁問罪者﹂という言葉を引き寄せる。 川端康成文学の読者であるわれわれにとって、この一休禅師の書はすでになじみで、昭和二十六年の﹃舞姫﹄ のなかに、謎めいたあらわれ方をしていることを知っている。また川端康成がとくに好きであったらしいこの語 は、その後、スウェーデン・アカデミーでのノーベル賞受賞講演﹁美しい日本の私﹂でも引用されている。とす れば、狂してのちも、この八字を筆墨でくり返し表現してやまないその老患者は、まさに、著者その人であると とるのが一番自然であろう。夕暮、六時の鐘を狂せる著者が撞いているとは、奇怪な構想ではないか⋮⋮﹁問 罪﹂の響きをこめて。愛するものの狂気を前にして、ひたすら自分の無力を感じ、自分を責めるほかない、その ような耳に、はじめて、同じく自分の罪を問う老人の撞く鐘の音は、意味を伝えてきたのだといえよう。 たんぽぽ1朝になると開き、夜になるとつぼみ、野の妖精のようにつよく自然に生きる花と長寿の里で、稲 子は、いわば雷に打たれ重すぎるエネルギーを負った体を、少しつつ回復していかねばならないのだろう。一本 の﹁生命の樹﹂、自然の大きな時間の、病める人を癒やす力を信頼するほかはないだろう。それは二つの昭和時 代を﹁かなしみ﹂によって乗りこえた作家、川端康成の、戦後世代の再生への祈りに通じている。 192 ︵十八︶ コ美しい日本の私﹂ 川端康成のノーベル賞受賞講演が、右のような、やや変則的な題名をもち、話題としても、現代作家からは一 見遠い、禅宗的雰囲気に包まれていることは、誰しもがよく知っている。道元禅師の﹁春は花夏ほととぎす秋は 月冬雪さえて冷しかりけり﹂という古歌の引用からいきなり始まる論の展開は、川端文学の説明とどうつながる
のかが容易にはつかめず、再読を強いる内容といってよいであろう。文脈は豊かであるが、論者によって選び出 された、修道僧の歌人たち、道元のほか明恵上人、西行法師、一休禅師、僧良寛らは、ほとんどの外国人聴衆に は未知の詩人であり、それぞれ二、三の作品では紹介し切れないとっこつたる存在なので、霞にふもとをかくさ れた墨絵の山々のような印象だったとも考えられる。この講演の独特の難解性は、しかし、二ヵ月前に中断され た﹁たんぽぽ﹂の次にこれを置くという手続きで、著者の地盤に根付かせることが出来るかも知れない。 この講演を川端康成は、自分が好んで揮毫する和歌の話からはじめている。ひとつは、先にのべた道元の作 品、もうひとつは明恵の、﹁雲を出でて我にともなふ冬の月風や身にしむ雪や冷たき﹂で、禅堂で座禅三昧のの ち、夜ふけて房に帰るときに見た雲間から出た月が、あたかも自分の友のように雪に照り映えて見送っている様 を、なつかしく歌った作品である。﹁揮毫﹂は、その後につづく、﹁雪月花﹂すなわち日本の自然が、いかに日本 文化の心に不可欠な要素であるかを説く論旨を引き出すための話題ともとれるが、揮毫の話はもう一ヶ所あっ て、それが、一休の書﹁仏界入り易く、魔界入り難し﹂に触れたところである。その少し前の所で、頓智和尚と して子供たちに愛され、不罵奔放な逸話で知られるこの柔和で無碍な禅師が、実は、他者のために自分を責める ことの大きかった人で、二度も自殺を試みたことや、禅僧としては型破りの﹃狂雲集﹄という漢詩集を出し、 ﹁人間の実存、生命の本然の復活、確立を志した﹂ことなどが述べられている。一休が、むしろ﹁魔界﹂で苦し み抜いた﹁人間﹂であったことが強調されている。 ﹁仏界入り易く、魔界入り難し﹂という一行書きの一休墨筆も、川端康成自身が所蔵するものの一幅であるこ とが、そこで言われている。彼はこの句に惹かれ、よく揮毫すると述べるのである。﹁たんぽぽ﹂の﹁西山老人﹂ 193 文学的美意識と「日本」
が、いくらか狂気のこもったような文字で、同じ句を書くことにふけり、この老人が撞いていると思われる鐘の 音から、久野は、﹁問罪者﹂の音色を聞き取った。老人がどのような経歴の人で、どんなきっかけで生田病院に 収容されたのかは、まだ述べられていないのだが、著者のいう、﹁魔界﹂との悪戦苦闘の末、精神に異常をきた した人が、一休の語に述懐を託して、人を慰めようとしている姿だととっていいだろう。 一休は、この講演のなかでは、﹁自殺﹂の話題をきっかけに入って来た人で、一番詳しく生涯を紹介されてい る歌人僧であることによって、注目されなければならない。すなわち、この時期の川端康成の心情に切実にうっ たえた禅僧であったと見てよく、それも、悟りの境地の次に続けて、﹁魔界﹂への恐れ、祈りを躊躇なくつらね ている飾らぬ自我のあり方が、近代芸術家の心をとらえているのである。他を頼らず、意志と力のみによって悟 りを得るという精神上の荒ら業、自我を滅し、内からの無に達する禅の修業の非情と厳しさを話題としつつ、川 端康成は、﹁魔界﹂なくして﹁仏界﹂はないのだ、と説いている。 194 そして﹁魔界﹂に入る方がむつかしいのです。心弱くてできることではありません。 こうして眺めると、﹁たんぽぽ﹂の人物は、稲子を含めすべてがこれから﹁魔界﹂に入ろうとしている人間に 見える。久野と母の、恐ろしく実存的な会話がそれを物語っている。彼らは、これから来るであろうあらゆる苦 しみの、前菜をすでにすすっているともいえるだろう。そこには、苦しくとも何とか生きていこうとする彼らの 意志を原動力とする、普遍的な人間の姿に連なる形がある。一人一人が、自分の﹁魔界﹂を背負っているのだ。 それを安易に避けることをせず、真っすぐに入っていくことのむつかしさを、一休の書は語っているのではない
か。 その﹁魔界﹂で何よりも必要とされるものが、﹁人間﹂であり、﹁友﹂であろう。この講演は、禅の世界と日本 の美の関係を詳しく語っているのであるが、常に﹁人間﹂への視線を忘れていないことが大きな特徴をなしてい る。﹁冬の月﹂に対して、まるで友人にでも呼び掛けるように歌い掛ける心の背後に、﹁自然、そして人間にたい する、あたたかく、深い、こまやかな思ひやり﹂を感じ、﹁しみじみとやさしい日本人の心の歌﹂を見るのであ る。日本美術の特色として﹁雪月花の時、最も友を思ふ﹂という言葉を挙げ、四季の美への感動が、人間へのな つかしさを呼び起こす作用にふれている。 受賞対象作品のひとつ﹃千羽鶴﹄が、茶会本来の集いの精神を逸脱し俗悪化した、今の﹁茶﹂のあり方への批 判として書かれたことが、ここできっぱり言われている。川端康成が、現代作家としての立場、つまり批判的視 占⋮を、いささかもゆるがせにしていないことを表明する部分である。前にも述べたように、それは、戦後の茶人 への警告として書かれた、痛烈な﹁否定の作品﹂なのである。彼の関心は、常に現代と未来に向けられている。 華道、庭園、茶器、風景画における日本的特質としての﹁自然﹂を紹介しつつ、それらがいずれも、禅の影響 を通過して成った経緯を、あくまでも自分の経験をもとに語っている部分が、説得的である。そして、﹁山川草 木、森羅万象、自然のすべて、そして人間感情をも含め﹂た﹁美﹂の根本を、最も厳しく煎じつめた禅僧たちの ﹁歌﹂によって紹介しようとしている作家の姿勢に、われわれは、日本を代表してその文学の根を語る人の、個 性と気概を感じる。一方で、約千年前に、﹁異様な奇跡﹂のように、源氏物語をはじめとする平安文化が結実し、 日本文化の美意識を長く支配するのだが、その平安と鎌倉をつなぐ位置にある西行法師を借りて、川端康成は、 195 文学的美意識と「日本」
最も重要なしめくくりを行なう。 ﹁月の歌人﹂と呼ばれた明恵に対して、﹁桜の詩人﹂と称された西行であるが、この川端講演には一首も紹介さ れていない。だが、親しかった明恵の伝える西行の言葉によって、この﹁生得の歌人﹂︵後鳥羽院︶が、自分の 歌について平生感じているままの告白を伝えることで、講演者の言いたい核心を一気につくのである。西行は、 自分が歌をよむあり方は、ずいぶん尋常ではないようだ、と言う。﹁花、ほととぎす、月、雪、すべて万物の興 に向かひても﹂、すべてこれらが﹁虚妄﹂であることが耳目を圧倒してしまう。花を歌っても月をよんでも、そ れは変わらない。ただ折にふれ興にしたがってよんでいるだけなのだ。そして西行は、これを﹁虚空﹂にたとえ る。 196 紅虹たなびけば虚空色どれるに似たり。白日かがやけば虚空明かなるに似たり。しかれども、虚空は本明ら かなるものにもあらず。また、色どれる物にもあらず。我またこの虚空の如くなる心の上において、種々の風 情を色どるといへども更に縦跡なし。この歌即ち是れ如来の真の形体なり。 川端康成は、この言葉をうけて、日本や東洋の﹁虚空﹂、無とはこれだ、という。そして、自分の作品につい てその虚無性がいわれるが、自分の場合も、それは﹁西洋流のニヒリズム﹂ではなく、強く禅につながる心の態 度だととってほしい、といって講演を閉じている。自分の文学の根が、日本の美を育んだ禅の文化そのものを土 壌として生いいでたものだと、彼は言いたがっているようである。﹁美しい日本の私﹂という、多少無理な表現 に託した心はそこにある。後年、二人目のノーベル文学賞受賞者となった大江健三郎が、受賞講演の題目を、ア
イロニカルに﹁あいまいな日本の私﹂としたが、アイロニーそのものは果たして生きているであろうか。 中断されたまま最後の作品となった﹁たんぽぽ﹂で、著者は、木崎中佐という人物の変死という形で、まさに ﹁あいまいな日本﹂を痛烈に打っている。だが、その呪いは、ほとんど戦後育ちの娘﹁稲子﹂に、まともに襲い かかったのだった。稲子の目には、愛しようとする人の、体のほとんど全部が消え、空白でしかない。その空白 には、﹁透明な虹﹂さえかかるが、この心理のいたずらが作る﹁空虚﹂ないし﹁虚空﹂は、二人をへだてるばか りである。母親さえも娘から引き離す。この現実を直視するのは、﹁心弱くてできることでは﹂ないのだ。この ように見てくると、小説﹁たんぽぽ﹂と、受賞講演﹁美しい日本の私﹂とは、不即不離に補いあって、川端康成 の最終的な境地を説明しているように思われる。小説は、厳しい会話を通じて、不毛に陥りつつある昭和後期の 状況を真っすぐに引き受け、それの克服をめざしている。講演は、そのような日本文化の過去の中枢を、禅の精 神であると説き、意志と力によって我を克服した﹁無﹂の悟りの境地が、索莫たる不毛なニヒリズムではなく、 自然、人間、宇宙を包含した実に豊かな生命の色を宿しているものであることを、語っている。絶望的な状況か らの転回があるとすれば、おそらくそこであろう。 講演は、芥川龍之介や戦後の太宰治の自殺を語り、モダニズム画家古賀春江の自殺願望と一休禅師の執拗な自 殺の企てを述べて、﹁魔界﹂が死と接している相貌にもふれているが、﹁西洋の死の考へ方﹂とは違う、という部 分は十分に説明されているとはいえない。自殺を肯定しているのではない、と書きつつ、﹁あの一休禅師﹂が真 剣に死のうとした人だった、というところで感動するのは、﹁仏界入り易く、魔界入り難し﹂の語を、無碍奔放 で死と最も遠かった禅師その人の肉声として納得させる、大きなヒントだったからであり、その人のコ肩の上﹂ 197 文学的美意識と旧本」
の重さを分かちあえた喜びだったであろう。
︵未完︶