瀬戸ノべルティのパイオニア・丸山陶器(株)論 :
経営・技術の沿革とその評価を中心にして
著者
十名 直喜
雑誌名
名古屋学院大学論集 社会科学篇
巻
41
号
4
ページ
57-90
発行年
2005-03-31
URL
http://doi.org/10.15012/00000819
名古屋学 院大学論集 社会科学篇 第41巻 第4号 (2005年 3月)
瀬戸 ノベルテ ィのパ イオニア・ 丸 山陶器棚論
―
経営・ 技術 の沿革 とその評価 を中心 に して 一
十
名
直
喜
目次 1. (まじ2蟷〉│こ
2.丸
山陶器い の経営 。技術の沿革 2.1.丸山陶器 の創業 とビス ク人形 の生産 2.2.最高級品をめざ しての技術 と経営 の発展 2.3.高級人形 (磁器製)の国産化 2.4.戦後復興下 における大型人形 (磁器製)の
生産 2.5.高度成長か ら (急激 な円高で)生
産停止 に至 るプ ロセス3.瀬
戸 ノベルテ ィ・ 丸山陶器 の人形 とその歴史的 。国際的評価 3.1.丸山陶器 の「 ノベルテ ィ」資産 とその今 日的意義 3.2.東西磁器交流 のダ イナ ミズムとョーロッパ「 ノベルテ ィ」 3.3.瀬戸 ノベルテ ィ 。丸山陶器 の歴史的 。国際的到達点 3.4.丸山陶器の人形 とその芸術的 。文化的評価―画家・ デザ イナーの視点―4.陶
磁器原料調合 と焼成管理 の技術および職場事情 ―陶磁器原料調合 の第一人者 。今井俊夫氏の幅広 い仕事 を通 して一 4.1.陶磁器原料の仕入れ 。調合 4.2.石炭窯の世界 4.3.ガス窯への転換プ ロセスとその歴 史的 インパ ク ト 4.4.丸山陶器 の工場 レイア ウ トとその変遷―ガ ス窯への転換 と工場の拡張合理化―5.お
わ りに1.は
じめに
「 ノベルテ ィ」といえば,英
語 の nOveltyを 思 い浮かべ るが,い
ずれ も多義的で,
しか も両者 の意味は必ず しも一致 しない。「 ノベルテ ィ」と いえば,一
般的には「広告媒体 。景品広告」 と して使われ ることが多いが,そ
れが市民権を得 たのは1970年代後半以降の ことである1。 これに対 して,輸
出向けにつ くられた人形類 をは じめ とす る瀬戸の陶磁器製の置物や装飾品1
増淵宗―「瀬戸の人形 ・ 玩具 。 ノベルテ ィ その文化交流 。文化摩擦」『人形玩具学会年報』 第8号,1997年。 に,「ノベルテ ィ」の呼称が付 けられたのは,第
2次
大戦後のこととみ られ る2。 ノベル テ ィ(す なわち瀬戸 ノベルテ ィ)は
,大
正か ら昭和 にか けて黄金期を築 き,全
国生産額 の5割
以上 を し め るなど瀬戸の最大産業 として発展す るが,陶
磁器の業界用語 にとどまって きた。瀬戸 ノベル テ ィは,そ
の種類 も多種多様である。素材 とし ては磁器,半
磁器,自
雲,ボ
ーンチ ャイナなど が あ り,用
途 としては芸術性の高 い観賞用の も の,宗
教用の もの,キ
ャラクター もの,花
器 。 壁掛 けなどの装飾兼実用的なものなど,多
岐 に2
山川一年「セ ト・ ノベルテ ィー瀬戸の陶磁器製 人形」『人形玩具学会年報』第8号,1997年。名古 屋学 院大学論集 図
1
丸山陶器い の事務所 。倉庫棟 (1931年築) (注)手
前が事務所・倉庫棟の玄関日,向う側は加藤豊社長のご本宅で,いずれも1931年 築である。1988(工場閉鎖前) に撮影 したものである。 わ た る。9割
を輸 出 して きた瀬戸 ノベルテ ィ は,海
外での認知度・ 普及 に比べて国内ではご くわずかに とど まる。 日本 人形玩具史において も「 もっとも認知 されていない領域」 といわれ る3。 瀬戸 ノベルテ ィのパ イオニアで高級人形 に定 評 のある丸 山陶器m,そ
の4代
目社長・ 加藤 豊氏をは じめ各関係者への面談調査は,足
かけ8年
を越える。同社を初めてお伺 いしたのは, 1996年7月 の ことである1。 円高進行下の 1988 年 に生産停止 して8年
余が経過 していたが,な
3
増淵宗―,前掲論文。4
名古屋学院大学の地域研究会 として,西村昌夫, 岸田賢 司の両氏 と一緒 に,丸山陶器を訪問 した。 先達の西村昌夫氏 (名古屋学院大学名誉教授)に は,瀬戸地域の主要なセラ ミック・ メーカーを紹 介 していただいた。 お余韻を残す3千
坪近 い工場跡地や建物,数
多 くの ノベルテ ィ製品,お
よび同社の経営・ 技術 の沿革 などについて調査 した。97年
2月 には 筆者 だけで再 ヒア リングを行 い,論
文にまとめ た 。。 続 いて1997年 6月 には,
ノベル テ ィ絵付を 担 って こられた3人
の シニア絵付職人か ら丸山 陶器 の絵付職場 と技能・ 労働 について ヒア リン グ し,98年
5月 の再 ヒア リングをふ まえて論文 にまとめている。。 同社 の見学 ヒア リングの際 にお借 りした,創
5 1‐ 名直喜「瀬戸の地場企業にみる伝統 と新地平-4企
業モデルにみる陶磁器産業の求心力と遠心 カー」『地場産業研究』第19号,1997年。ならび に十名直喜「セ ト・ ノベルテ ィのパ イオニア 丸 山陶器に見る今昔 と文化的資産」『 日本人形玩具学 会年報』第8号 1997年。業者 山城柳平の ノベルテ ィ事業 と生涯を描 いた 本7の魅力 に惹かれ
,ま
た加藤 豊氏 の語 りに 共鳴 して,い
つかは同書を超 える丸山陶器論, 瀬戸 ノベルテ ィ論をまとめてみたいとの思 いを 抱 く。 それか ら,は
や6年
以 上 が経過 して い る。 この間,筆
者 の英国留学 (1999-2000年) などで構想が頓挫するうちに,瀬
戸 の陶磁器産 業,
と くに ノベルテ ィの衰退は一段 と進んだ。 2004年 9月 14日,丸
山陶器株式会社を久方 ぶ りに訪れた。1931年築 の事務所 。倉庫棟 (図1)お
よび隣のご本宅は,長
い歴史の風雪が偲 ばれ,新
築 の多い周囲 とは対照的な感がす る。 加藤豊社長 と久 しぶ りに面談 し,同
社 の経営・ 技術や職場事情 について系統的に まとめたい旨 をお話 して協力をお願い した。 こうして長 いブ ラン クを経 ての再調査が スター トしたので あ る。 近隣に在住 され るお元気なシニアの方 々を, 紹 介 して いただいた。すでに工場閉鎖 (1989 年)し て10数年経過 し,工
場 の息吹や職場仲間 たちの面影 もない中での ヒア リングである。職 場 の感触 も仕事 の数 々のエポ ックも,彼
らの記 憶 の深層 に沈んで いることも少な くな く,
ヒア リングを通 して彼 らの深層記憶を引 き出 してい く協同作業が不可欠 となる。予想を超える難作 業 とな ったが,得
られた もの もそれだけ深 いよ うに感 じられ る。彼 らが担 って きた,陶
磁器原 料調合,焼
成,原
型づ くり,製
品出荷など主要 な各職場の状況や仕事ぶ りを,幾
つかの内外資 料 を もふ まえつつ,丸
山陶器論 として描 き出 し てみたい。6「
セ ト・ ノベルテ ィの絵付職人 と絵付職場―丸 山陶器にみるノベルテ ィ絵付の技能 と労働の足跡 ―」『地場産業研究』第 20号,1998年。7
小出種彦『黒い煙 と白い河―山城柳平 と瀬戸の 人形―』貿易之 日本社,1959年。 瀬戸 ノベル テ ィのパ イオニア・ 丸 山陶器閉論 同 日 (2004年9月 14日)に
は途中で,同
社 の試験室長を永 くや って こられた今井俊夫氏に お越 しいただ き,原
料調合やガ ス窯導入時など 焼成管理 について興味深 く拝聴す る。 それを ス ター トに した各関係者への ヒア リングは,2005
年 1月 までの間に10回(1回
あた り3-4時
間) に及んだ8。 各 ヒア リング時 には,加
藤 豊氏 に同席 していただ き,論
点や ヒア リング内容を 整理 していただ くなど,
まさに同氏 との二人三 脚 とい った形で ヒア リング調査を進 め ることが で きた。 2004年 9-12月 の最新調査をベースにし,さ らに1996-98年における調査の成果 も織 り込ん で,丸
山陶器 の経営 の沿革か ら原料調合一原型 一素焼―絵付などにまたが る技術・ 技能および 職場事情 などについて,体
系的にまとめよ うと 試み る。 しか し,論
文 のボ リュームが膨れ上が ることか ら,
ノベルテ ィの技術 と文化の要をな す原型 と絵付,お
よびそれを中心 とす る生産工 程 などについては,別
稿 として発表す ることに したい。 8 10月 5日 には丸山陶器に再度お伺いし,今井氏 か ら第2回目の ヒア リングをするとともに,同社 の元原型室長の宮石 功氏にも原型の仕事や職場 事情 などについて第1回目の ヒア リングを行 っ た。10月26日には今井氏に第3回日,11月 2日に は宮石氏 との第2回目, また12月 7日には両氏に 再 ヒア リング(第4,3回目)を させていただいた。 さらに12月 21日は,画
家 ・ デザ イナーの上野山 エイシ氏より,丸
山陶器の人形 とその評価につい て拝聴する。2005年1月には加藤 豊社長への面 接を重ね,資料収集 も行 った。名古屋学 院大学論集
2.丸
山陶器
(抑の経営・ 技術の沿革
2.1.丸
山陶器の創業 とビスク人形の生産 瀬戸 ノベルテ ィと丸山陶器 瀬戸 ノベル テ ィの歴史を語 る場合,丸
山陶器 株式会社 を抜 きにす ることはで きない。瀬戸 ノ ベルテ ィのパ イオニアとして, またハ イレベル の技術・ 品質を誇 る トップ級 メーカーとして歩 んで きた。同社が切 り拓 いた様 々な技術や ノウ ハ ウが,瀬
戸 ノベ ル テ ィのバ ックボ ー ンとな り,数
多 くの華 を咲かせて きた といえよ う。 丸山陶器の製品は欧米 と くに米国に輸 出 され て きた。 ドレスデ ン調の人形やハ ンメル調の人 形 など高級人形 を主体 に しなが ら鳥・ 花 などの 置物を含むギ フ ト・ア イテム,テ
ーブル トップ。 ア イテム (花瓶 など),バ
スル ーム・ ア イテム (石鹸皿,ブ
ラシ立てなど)と
い った多様 な も の,い
わば食器以外の ノベルテ ィと称す るほぼ すべての磁器および半磁器製品を扱 っていたの である。 丸山陶器の沿革 については,1959年
に出版 さ れた小出種彦『黒い煙 と白い河一山城柳平 と瀬 戸 の人形―』(貿易之 日本社)に大 き く依拠 して い る。本書 は,瀬
戸 のみ な らず 日本 の ノベル テ ィ業界の草創期か ら発展期を,パ
イオニアの 視点 か ら系統的 に詳述 したほ とんど唯一 の資料 として注 目され る。 丸 山陶器の創業 丸山陶器の創業は,1914年
(大正3年
)に
遡 る。陶磁器卸を商 う山城柳平商店 として,丸
カ 商店か ら独立 した山城柳平(1886年山梨県南 巨 摩郡増穂村 の生 まれ,1900年
に来瀬戸)に
よ っ て開業 された。1934年 (昭和9年)に
合資会社 丸山製陶所 を設立 し,37年
には山城柳平商店 と 丸山製陶所を合併 して丸山陶器合名会社を新設 す る。山城柳平 は,そ
の後,「玩具王」(小出種 彦,前
掲書,153ペ
ー ジ,以
下 ではページ数 の み)と
も「 日本におけるノベルテ ィ界の第一人 者」(佐伯卯四朗 。日本陶器社長,付
録5ページ) とも評 され るよ うになるのである。 創業 当時の瀬戸 ノベルテ ィは, まさに夜明け 前 の状態であ った。西洋人形 の華 とされたビス ク人形 (艶消 しの肌 を特徴 とす る磁器製 のヘ ッ ドを持っ人形)が,森
村組の発注 によ り,初
め て瀬戸で山城柳平 らによってつ くられようとし ていた時期にあたる。 森村組 と瀬戸の関係 森村組 は,傘
下 に 日本最新かつ最大の製陶工 場 を有す る日本陶器,お
よびニ ュー ヨー クの邦 人商社中で最古の歴史を もち発行す る手形は紙 幣 と同一視 された森村 ブ ラザ ースを擁す る大商 社であ った。 当時,ア
メ リカの玩具市場は,
ド イッの独 占に委ね られていた。第1次大戦 によ る ドイツ製品の後退の間隙をぬ って,人
形玩具 類でのア メ リカ市場制覇 を夢みた森村 ブ ラザ ー スは,資
源や技術,立
地面などに優れた瀬戸で の生産を企図す るのである (101ペ ージ)。 森村組 と瀬戸 との深 いつなが りは,1883,4年
頃 に川本桝吉が初 めて コー ヒー茶碗 を伏せ焼 き して以来のことである。瀬戸は森村組の手窯 と して,日
本陶器が設立 され る(1904年)ま
で対 米輸 出生地の大半 をつ くっていた。 その後,
日 本陶器の生産力が向上す るにつれ,瀬
戸の手窯 は次第に廃止 されてい くが,人
形玩具 について は依然 として瀬戸生地を使用す ることが有利 と み られていた。 森村組 の取引方法 は,当
時にあ って も際立 っ ていた。普通の貿易商者 は,問
屋の言 い値 を値 引 きさせ るのを常 とす る。 ところが森村組 は, 極 めて厳格 な計算 によ って算 出 された基準 の価 格 を もっていた。 た とえば,15円
の原価を もつ 品を 10円 でや るとい う問屋が あ って も,その商瀬戸 ノベル テ ィのパ イオニア・ 丸山陶器い論 品の品位 を維持す るために
,注
文価格を崩す こ とはない。 あ くまで品位 の維持 にはやか ま し か った (102ペ ージ)。 石膏型鋳込法の導入 とその意義 明治時代 につ くられた「 インド人形」 や「陶 製浮 き玩具 (金魚)」 (図2)は ,瀬
戸 における ノベルテ ィ生産の原点 とみ られ るが,国
内向け あるいは イン ド・ 中国向けの安物で,お
おむね 土型 の 二つ割であ った。型が二つに割れ るだけ なので,複
雑 な造型品では型か ら抜 けない こと になる。 タイ焼や今川焼を思 い浮かべれば,ほ
ぼそれに近 いものといえる。瀬戸 における本格 的な ノベル テ ィ生産 は,大
正初期に始 まる。 今川焼的 な手法か ら脱 して,
もっと高度 な造 型品を完成す るために画期的な役割を果た した のは,石
膏型鋳込法である。石膏の吸水性を利 用 して,型
に泥漿化 された粘土を流 し込み,一
定時間を経 たのちに余分の泥を流出 させ ると, 型の内側表面 に所要の厚みを もった粘土が付着 す る。 この場合,上
の厚みは時間にある限度 ま で比例す る。 さらに,型
を造形物 の形態 に従 い,頭,手
足,台
などい くつにも細分す ること によ って,い
かな る複雑 な原型 も製品化す る道 が開かれたのである。 石膏型鋳込法はすでに明治初年,政
府 の派遣 した海外伝習性 によ り国内にもたらされていた が,陶
磁器産業に実用化 されたのは1904年 (明 治37年
), 日本陶器の百木三郎技師が四段仕様 法をア メ リカよ り伝え同社で採用 して以来の こ とである。 明治中期 よ り森村組,
日本陶器 との関係を深 めていた瀬戸の陶磁器業界は,自
己の保守的な 伝統 に近代産業の成果をとり入れ ることに成功 した。石膏型鋳込法 に加えて,石
炭窯や 自動 ロ クロ等 も,大
正時代 に入 るとともに急速 な普及 ぶ りをみせ るのである (103-4ページ)。 図2
陶製 浮 き玩具 (金魚) (注)幅
10imで
190卜15年 頃に瀬戸でつ くられたも のである。 元来,瀬戸には玩具や人形の伝統がな く,玩具人 形は一種の邪道 とさえみられていた。床屋の発明し た浮かぶ陶器にヒントを得て「浮かぶ金魚」を商品 化 したのは,山城柳平 とみられる。瀬戸 に来て丸力 商店に勤めて4年目の頃である。その美 しい色合い と形の自由さが子供や親たちの心をとらえ, さらに 明治40年ごろ,技術的な改良が加えられてまっす ぐに浮 くようになり,人
気は爆発的に高まった。丸 力商店だけでさえ,1ケ月に 1万 個以上売れたとい う。(小出種彦『黒い煙 と白い河―山城柳平 と瀬戸 の人形―』貿易之 日本社,1959年 ,5■59ペ ージ) (出所)人
せともの祭協賛会・ せとものフェスタ'97実 行委員会『セ ト・ ノベルテ ィ』1997年,90ペー ジ。 ビスク人形の生産で確固たる地歩を築 く ニ ュー ヨー クの森村 ブ ラザ ースは1913年, ア メ リカ向けビスク人形の試作を開始 し,そ
の 産地 として瀬戸を指名 した。典型的な無表情 さ を特色 とする伝統的な日本人形 に対 して,西
洋 人形 には豊 か な表情 が体全体 にみ なぎ って い る。人形の伝統がな く,
ましてや西洋人形を知 るもの も少ない瀬戸にあ って,西
洋人形 の原型 をつ くることは至難の業であった。難関は原型 だけにとどまらない。絵付 に関 して も,そ
の障 壁 は ど うに もな らな い もの と さえ言 われ た (104-6ページ)。 しか し,柔
軟 な造型 の才を も つ若 い加藤佐久衛(後に山サ製陶を創業)によ っ て ビスク人形の原型がで きあが り,1914年
よ り名古 屋学 院大学論集 図
3
ビスク人形 (手活 人形) (注)大
正初期に丸山陶器でつ くられたものである。 (出所)大
せともの祭協賛会 。せとものフェスタ'97実 行委員会『 セ ト。ノベルテ ィ』1997年,90ペー ジ。 丸 力と山城 の両 商 店 にお いて生産・ 出荷 が ス ター トする。1916年には,総
計500グロス (1 グ ロスは12ダースで144個)に
達 す る大量 の ビスク人形がすべて山城柳平商店に発注 され, 山城 は瀬戸 において確固た る地歩 を占め るに至 るのである (111-5ページ)。 第1次世界大戦 によ って ドイツか らの供給が 途絶えたア メリカ向けに輸出 されたビスク人形 (図3)は
,ド イツ製 には劣 るとはいえ飛ぶ よ う に売れてい く。輸出好調 なこの時期は,瀬
戸 に とって も大 きな転機 とな った。森村組傘下の窯 屋 として多 くが創業 し,瀬
戸 ノベルテ ィ産業 の 礎が固 まってい くのである。2.2.最
高級 品をめざ しての技術 と経営 の発 展 ドイツ製 ビスク人形に比肩できる原型水準に 到達 1920年には,第
1次大戦 (1914-18年)後
の 異常 な好景気の反動 による世界的な恐慌で輸出 が落 ち込み,陶
磁器が暴落 に転 じた。不況下の 1920年代 は,山
城柳平商店が技術的な充実 を 図 った時期 で もあ った。1923年に若 い彫刻家 の 白土博雲が大震災後 の東京 か ら瀬戸 に来 る と,加
藤佐久衛 によってその もとを築かれたビ スク人形 は,自
土 を得てようや くドイツ品に比 肩で きるよ うになるのである。20世
紀 に入 って緒 に つ い た瀬 戸 の ノベ ル テ ィは,ア
メリカ向けビスク人形の生産を通 じ て,造
型的に大 きな飛躍をなしとげた。生産技 術 の面か らみ ると,石
膏型 による流 し込み技法 がすでに普及 していた大正時代の瀬戸陶磁器業 界 に とって,(釉
薬 をか けない とい うことを除 いて)成
型・ 焼成 にそれ ほど困難 な問題 はな か った。すべては作家 (デザ イナー 。原型師) の造形力にかか っていたのであ り,加
藤佐久衛 と自土博雲 の果 た した役割 の大 きさもそ こに あ ったのであ る (115ペ ージ)。 上絵付を充実 させ最高級品をめざす 「原型 を肉体 とすれば,絵
付 は顔」とみ る山城 柳平 は,こ
の時期 (1920年代)に
上絵付の本格 的な充実 にも乗 り出 している。 当時,上
絵付 の 技術 は,瀬
戸 に比べて名古屋が格段 に優れてい た。少 な くとも名古屋の レベルに引 き上げ るべ く,名
古屋か ら三輪吉光 を雇 い入れ,見
本 の製 作 にあた らせたのである。 白土の原型 に三輪が 絵付 した見本 は,従
来 の瀬戸人形 の水準 を見事 に飛び越 えた(138-9ページ)。 これに山城柳平 の卓抜 な商品化 セ ンスが加味 され9,山
城 の製 品は輸 出業者 の高級化 ニーズに応えてい くので ある。 1927年,陶
磁器輸 出が回復 に転ず るなか,滝
之湯町に電器炉を築 き,本
格的な上絵付工場 を 設立す る。 この工場でつ くった製品は,南
天赤 を総吹 きした家や犬の置物をはじめ,大
変 な好 評 を博 した。 当初,絵
付工場 は全 く採算が合わ ず に毎期赤字を出 していたが,山
城柳平 は「最 高級品をつ くることによ ってのみ,人
並み以上瀬戸 ノベル テ ィのパ イオニア・ 丸 山陶器
m論
の利益を獲得すると確信 し」,精
力的に品質向 上に努める。やがて,1929年
に始 まる世界大恐 慌下にありながら,絵
付加工の面からもかなり の収益が出るようになった。「置物人形の最高 級品をめざす」という彼の経営目標が実を結び, 同社の製品は輸出業者に不動の地位を認められ るようになるのである。 輸出業者との分業関係とその発展 1920年 代に山城柳平商店が取引 していた主 な輸出業者は,日 本陶器,田
代商店などである。 最高級品をめざして品質向上に励む山城柳平の 経営姿勢は,
日本陶器の伝統である良品主義 と も共鳴し,良
品に徹 して海外顧客の評判をとる など,互
いに助け合 って発展 していった1% 1926年 に始 まる田代商店 との取引は,第 1次
大戦後におけるニューヨークの森村ブラザース の経営戦略の転換に伴 うものである。森村ブラ ザースは,専
門商社 としての性格を強めるため に陶磁器一本に営業をしば り,雑
貨部を廃止 し たのである。雑貨部 の関係者が設立 したL・9
山城柳平の優れた商品化センスは,次の記述に も如実に示 されている。 「原型か ら完成品に至 るまで,何
一つ自分でで きるものはない くせに,一
つ一つその結果につい て,手
厳 しい判断を下 した。原型師も窯屋 も絵付 師も一度は彼に盾ついてみるものの,売れるとい う冷厳な事実に対 しては頭が上が らな くなった。」 (139ページ) 画家・ デザ イナーの上野山エイシ氏は,「自分 で描けないか らデザ イナーではない, とはいえな い。 口頭で も何で も的確に伝えるものがあれば, デザ イナーといえる」という。山城柳平は,優れた デザ イナーでもあったといえよう(2004年12月 21 日の ヒア リングに基づ く)。 10 良品に徹 した日本陶器の佐伯卯四朗社長 (1959 年当時)による,ま た輸出業者の立場からの丸山評 価として興味深い(付録5-6ページ)。HOH商
会 は,エ
ージ ェン トとして田代商会を 選 び,山
城柳 平商 店 が その指定 問屋 にな った (135ペ ージ)。 やがて,L・HoH商
会 (の荒木 彦造)が
考案 したデザ インを,自
土が造型 し, 山城が製品化す るとい うラインが田代商店 との 間に出来上が る (139ペ ージ)。 瀬戸陶磁器工業組合 に加盟 し生地焼成事業に 着手 不況下 の1931年,山
城柳平商店 は事業所 の 大拡張 。合理化 を実行 に移 し,店
舗,居
宅,画
工場を瀬戸町大字今に集中 させた。原型に加え て絵付部 も飛躍的な充実を図 り,営
業部や生地 検査部 も陣容 を厚 くして,全
製造工程の中で生 地焼成の部門を欠 くのみ とな った。 焼成工程 を持 たず生地焼成が思 うに まかせな い ことが,最
高級品をめざす山城柳平 にとって の大 きな ネ ックとな ってい く。1926年に結成 された瀬戸陶磁器工業組合による大不況下の厳 重 な生産統制が,商
業間屋の性格を脱 しきれ な い同社の前に立 ちはだか っていたのである(144 ページ)。 1934年,瀬
戸 の有力問屋すべてが工業組合に 加盟 し生地の製造県を獲得す ると,同
社 は直 ち に生地焼成事業に着手す る。同年 に設立 された 合資会社丸山製陶所 は,生
地焼成部門の端緒を なす ものであ った。 また,
これに呼応す るかの 如 く,ニ
ュー ヨー クでは ドレスデ ン人形の 日本 で の 製 造 を 本 格 的 に 決 定 す る の で あ る (149,15■ 5ページ)。2.3.高
級人形 (磁器製)の
国産化 山城柳平 は一代 に して財をな し,瀬
戸 の陶磁 器玩具商 として最大の地位を築 いた。 しか し, 「玩具王」としての彼の名声はむ しろ,その後 に おける磁器製高級人形の国産化 とい う事業が同 社 によ って達成 された ことによるもの といわれ名古 屋学 院大学論集 る (153-4ページ)。 ドレスデ ン人形 とその潜在的需要への注 目 ドレスデ ン人形あるいはマ イセン人形 は
,
と もに ドイツ東南部の工業美術の中心地の地名が 付 け られた ものであ る。 ドレスデ ン人形 は17,8 世紀 の衣装を着 けた男女 の置物人形であ り,ア
メ リカの中流層に潜在的な需要があ った。パ イ オニア時代の ロマンチシズムが,彼
らを して, 強い祖国の独立時代への郷愁 をか きたて る何 も のかを秘めていたようである。 しか し,非
常 に 高価 なものであ ったために,広
く普及す るまで には至 っていなか った。 ニ ューヨークの森村ブラザースは,
これに眼 をつけた。 よ り安 い値段で,よ
り広 いア メ リカ 市民層 に浸透 させ よ うとい うのである。 ところ が,
これを実現す るには次の3つの条件が必要 であ った。第一 に白色硬質磁器であること。第 二 は ドイツ品の造型力に近 い人形の技術を もっ ていること。第二 には,安
い値段を可能 にす る 生産力をもっていること (151-2ページ)。 ドレスデ ン調人形の量産化へのチ ャレンジ ドレスデ ン調人形 の研究が,
日本の関係者す なわち森村ブ ラザースー 日本陶器一山城 の ライ ンで始められたのは,1932年
頃 とみ られ る(154 ペ ージ)。 と りわけ,直
接製作 にあた った山城 の創意的な意欲 こそ高 く評価 されなければなら ない。 ドレスデ ン調人形の原型 は,
まず完全 な模倣 か らスター トした。模倣 といって も,形
態だけ をその まま真似 るのではな く,様
々な工程 につ いての細心 の考慮が払われなければならない。 当時は,高
級人形 についての知識が浅 く参考品 も少な くて,
ア メ リカ人のニーズに応える優れ たア イデアやセンスを磨 く機会に乏 しいとい う 根本的なハ ンデ ィキ ャップを抱えていた。 こうしたなかで,原
型か ら最後の工程 まで一 図4
ドレスデ ン調人形 (注)戦
前 (1935年以降)に ,丸山陶器でつ くられたも のである。 (出所)大
せともの祭協賛会・せとものフェスタ'97実 行委員会『 セ ト・ ノベルテ ィ』1997年,90ペー ジ。 部 の隙 もない慎 重 さを要 す る高級 人形 の生産 を,生
地焼成 の歴史を有 しない丸山製陶所 にお いて開始 したのである。当時は,垂
直に高 い土 質 の研究 も進んでいなか った し,火
度の調整 も 人間の カンに頼 る部分が多か った。 複雑 な形姿 を もつ高級人形 にあ っては,型
と りの場合,非
常 に細か く分割 しなければな らな い。 それが仕上工程においては,原
型師 とは全 く別の技術を もった鋳込工や生地仕上工によっ て まとめあげ られ る。 さらに 1,250度 を超 え る 高温での焼成で,い
ったんは溶融状態になるの である。 原型 において重心 のかけ方一 つ間違 え ると, 後 の工程でいかに正確 を期 して も,人
形は窯の 中でひ っ くり返 る。 また,型
とりや仕上げの方 法を間違 えて も同 じ結果を引 き起 こす し,窯
た きに失敗す るとペケが続 出す る。高 さ 10イ ン チ (H25.4cm)に 達す る高級人形になると,生
地 を乾かすのに も骨がおれ る。最初の うちは, ビ スク人形や小物のつ もりで,す
ぐさま天 日に さ らして失敗 した。窯場では重心の狂 った人形が瀬戸 ノベル テ ィのパ イオニア・ 丸山陶器(榊論 図
5 1959年
当時の丸山陶器いの全容 (出所)小
出種彦『黒い煙と白い河―山城柳平と瀬Hの 人形一』貿易之日本社,1959年 。 よ くひ っくり返 ったとい う (157-9ページ)。 同社 は,様
々な技術的ハー ドルを克服 して ド レスデ ン調人形(図4)の
量産化に成功 し,1935 年 に森村 ブ ラザ ースの発注を受 けて出荷 したの を皮切 りに,
ア メリカ市場での需要に応えてい くのである。 丸山陶器合名会社によるハンメル調人形の量 産化 1937年,山
城柳平商店 と丸山製陶所の合併に よ り,丸
山陶器合名会社が誕生 した。生地工場 を増築拡大 し,倉
庫を1棟増築す るとともに, 旧中央倉庫を本事務所,社
員室,見
本場 などに 改造 して,戦
後の体制を完了す る(160ペ ージ)。 図5は,1959年
の同社の全容を上空か ら撮影 し た ものである。 図6
ハ ン メル調人形 (注)戦
前 (1937年以降)に,丸山陶器でつ くられた ものであるc (出所)『セ ト・ ノベルテ ィ』1997年,91ページ。 丸山陶器は,
ドレスデ ン調人形 に続 いて,ハ
ンメル調人形の国産化 も手がけた。ハ ンメル調 人形 は,童
話風のあどけな さを もっている人形 で,そ
の特色は形や色 もさることなが ら生地質 が半磁器 とい う点 にある。 それ までの高級人形 はすべて,還
元焼 成 に よ る硬質 磁器 で あ った が,ハ
ンメル調人形は酸化焼成 による半磁器で 艶消 しされた軟 らかい色感が得 られ る。瀬戸 に は,酸
化物 に半磁器についての伝統が まった く ないなか,
さまざ まな失敗を重 ねなが ら,1937
年 にはハ ンメル調人形 (図6)の
量産化を軌道 に乗せ るのである (187ペ ージ)。 こうして,陶
磁 器人形市場における2大品種が出揃 い, 丸山 陶器 は輸 出人形市場 に君臨 して い くことにな る。 また,1932年
頃には後藤松吉 によ って レース 人形が開発 され,翌
年 には商工省陶磁器試験所 で白雲陶器が開発 され るなど,1930年
代 は瀬戸 の ノベル テ ィ技術が一応 の完成 をみ るので あ るH。 準戦 時・ 戦時下 の対米輸出 とその途絶 1989年 ,国際間の緊張が高 じ日米間の緊張 も 一段 と高 まるなか,丸
山陶器の高級 人形 は極 め て高 い販売水準を維持 した。森村,LHHな
ど 11 服部文孝「セ ト・ ノベルテ ィの歴史」人せとも の祭協賛会・ せとものフェスタ97実行委員会『 セ ト・ ノベルテ ィ』1997年,91ページ。名古屋学 院大学論集 の現地 における奮闘 もさることなが ら
,よ
うや く丸山の人形が品質的にもドイツ品に代替 しう る声価を高めたことを示す指標 とな ったのであ る (188ペ ージ)。 1941年に入 って も,ア メリカの人形市場 は相 変わ らず品薄傾向を示 し,
ことに丸山の製品は 最 も高 く評価 されていたが,同
年末 の 日米開戦 によって陶磁器の対米輸出は一気に途絶 した。 一時期,内
地向けの人形玩具が,金
属製品の製 造禁止 によって思わぬ活況を呈す るが,1943年
になると本業の生産 もで きな くな り,軍
需工場 への転用を余儀 な くされ るのである。2.4.戦
後復興下 における大型人形 (磁器製) の生産 生産再開 と「公団貿易」時代 敗戦直後 の丸山陶器は,巨
大 な廃屋 と化 し, 復 旧作業は困難を極 めた。戦時中は金属工業 に 転用 したので鉄分が各所 に付着 し,徹
底的な水 洗 いを しなければ陶磁器製造 に使えない。水道 管 も錆 を生 じていてすべて鉄製か ら砲金のパ イ プに取 り替えるなど,
もろもろの設備・ 機械か ら窯・ 小道具 に至 るまで全面的な新調を要 した (219ペ ージ)。 1947年4月 に貿易公団法が公布 され,同
5月 に鉱工品貿易公団が設置 されて,同
8月 に制限 付民 間貿易 が再 開 され る と,ア
メ リカのバ イ ヤーが 日本の陶業界にど っと押 し寄せた。 この47年
か ら48年
にかけての「公団貿易」時代 に, 日本の陶磁器業界は「面 白いように儲か った」 とい う。 そ うしたなかで も,山
城柳平の「最高 級品主義」 は引 き継がれ,彼
の名が無限の信頼 感 を取 引先 に与えて いたので あ る。1948年に は丸山陶器の従業員は170名を超 えた (220-2 ページ)。 この時期 の輸出用 ノベル テ ィには, 占領下 の 日本 を意味す る「Occupied Japa倒 印 を入れな くてはならず,瀬
戸においては1947 年から52年
頃まで焼 き付けられていたようで あるlt 高級人形 に一新紀元を画す る大型人形の生産 技術水準 の一般 的 な向上 によ って,「人 のつ くれない最高級品を」をモ ットーとす る丸山陶 器だけが,高
級人形 を独 占す ることは難 し くな る。 と くに,丸
山陶器で育 った人材が相次 いで 独立 し,上
田工業 (上田知一)や
光和陶器 (川 原茂男)ら
が同 じ分野でどんどん伸びて くるな か,新
しい方途の開拓を迫 られていた。ニュー ヨークのC.M.C(コ
ンチネンタル・ マーチ ャン ダ イス・ カンパ ニー)が
,1949年
に高 さ 18イ ンチ (H45.7cm)の大型人形 を丸山陶器 に発注 したのは,そうした状況下での ことである(228 ページ)。 陶磁器人形 は,10イ
ンチ (25.4cm)を 超える と,1イ
ンチご とに コス トが倍加す る。 それ以 上 に,
ク リアすべ き技術的な諸課題が控えてい たので あ る。 まず,原
型 師の造形力が問われ る。原型 師の造形 力 は,大
き くなれば な るほ ど,優
劣の差 を作品の上 にハ ッキ リあ らわ して くるか らである。加藤龍蔵(2代
社長)は
,三
郷陶器 のあ っせんによ り東京 の著名 な彫刻家・ 海老 沢三一 を招 いて,こ
の問題 の解決 を図 っ た。焼成について も難関で,
こんなに大 きな人 形 を焼 くのは初 めての ことである。技術陣は, 成型,焼
成 に細心 の注意 を払 い研究を重 ねた。 しか し,高
さ 18イ ンチ (H45.7cm)の鳩 もち は,か
ってビスク人形か らドレスデ ン調高級人 形 へ の飛躍時代 に見 られ る困難 には出会 わな か った。土質の研究か ら焼成の度合いに至 る一 貫 した作業上 の長 い経験が,新
たな試みに対 し 12 服部文孝,前
掲論文,92ページ。瀬戸 ノベルテ ィのパ イオニア・ 丸 山陶器口論 図
7
マ ス ク持 ち男女 (ペア) (注)高
さ54 0cmの大型人形で,1951年に丸山陶器 でつ くられたものである。 (出所)『セ ト・ ノベルテ ィ』1997年,10ページ。 図8
エ ンゼル・ コーチ (注)横
幅 (width)37 6cmの大型人形で,1951年に 丸山陶器でつ くられたものである。 (出所)『セ ト・ ノベルテ ィ』1997年,15ページ。 て も十分にその威力を発揮 したのである。 やがて,海
老沢 のすば らしい原型は,見
事 に 陶磁器人形 として再現 され,高
級人形 に一紀元 を画す るものとなる。 ニュー ヨークでの人気 も 爆発的であ った。 この人形一組 で,93ピ
ースの デ ィナーセ ットー組 とほとんど同 じかそれ以上 とい う高価格であるに もかかわ らず,た
ちまち 売 り切れ となる。続 いて1951年には,同
じ作 者 によ って さらに大 きな 22イ ンチのマ ス ク人 形 (「マスク持 ち男女」54.Ocm,図7)が
つ くら れた。横長の「 エンゼル・ コーチ」(W37.6cm, 図8)も
,同
年 につ くられて いる。 つねに人 の つ くり得 ないものをめざ して きた山城柳平の精 神 は,戦
後 の若 き経営者 の中に も受 け継がれた のである (230-1ページ)。 2.5。 高度成長か ら(急激な円高で)生
産停止 に至 るプ ロセス 高度 成長期 の生 産体制一 高級 人形 は社 内生 産・ その他は外注― 1960年代か ら70年
代 にかけて,瀬
戸 は全国 最大の ノベルテ ィ産地 として全国生産 の5割
以 上 (愛知 県内の約3/4)を
占め,100∼
150 社 の メーカーが年産100∼270億
円をあげた。 瀬戸か らの ノベルテ ィ輸 出販売額 は,1977年
に269億
円 (ピー ク)を
記録 している1ち そ うしたなかで,丸
山陶器 は,高
級人形を主 体 とす る ノベルテ ィの トップ級 メーカーとして 歩 んだ。1948年に170人を超えた従業員数は, 1960年頃には約300人
に達 し,70年
代後半 の 最盛期 に月商は1億円に上 った。 当時,陶
磁器 工場 は若者の集 う職場で もあ り,1950年
代末 に は丸山陶器の工場で高千穂ひず る主演の映画撮 影 が行 われて い る (図 9)。 同社 は,バ
イヤー (輸入業者)の 注文に応えて各種の優れた ノベル テ ィ製品を輩出 し,主
にア メリカ向けに輸出 し 13 滝澤浩幸「輸出統計にみる ノベルテ ィの生産」 『セ ト・ ノベルテ ィ』94-7ページ。名古 屋学院大学論集
図
9
高 千穂 ひず る主演 の映画撮影 (1950年代末 の丸山陶器 にて)(注
)生
素地の天日乾燥場での高千穂ひずるで,1950年代末に丸山陶器で撮影 されたものである。写真は,加藤豊氏の 提供による.図
10
米国人バ イヤーを長良川 の鵜飼 に招 待 (1960年頃)(注
)有
から2人││がニューヨー クのcharlcs Sadek lmpOrt CO.のサデ ック社長,左
手前は丸山陶器2代ll社長の加藤 絶蔵氏。長良川の鵜飼にバ イヤーのサデ ック人妻を招待 したものであるc1960年当時は,「メーカーも,商社 (サブ瀬戸 ノベル テ ィのパ イオニア・ 丸山陶器
m論
図11
恋 す る二人 (ペア) (注)高
さ57 0cmの大型人形で,1969年に丸山陶器 でつ くられたものである。『セ ト・ ノベルテ ィ』 (1997年)の表紙を飾 った。 たが,輸
出先 は ヨー ロッパ各国や カナダ,南
米, 南 ア メ リカ,中
近東などにも及んだ。バ イヤー (charles sadek lmpOrt CO.)を 長良川の鵜飼 に 接 待 した写真 (図10)に
も,1960年
頃 の活況 が窺われ る。『 セ ト・ ノベルテ ィ』(1997年)の
表紙 を飾 った「恋す る二人 (ペア)」 (H57.Ocm, 図11)は
,1969年
の作品である。 社 内生産 は人形 (と くに高級人形)が主体で, それ以外の製品は主 として外注生産で まかな っ ていた。外注製品については,小
さな人形か ら 花瓶,灰
皿 などに至 るまであ りとあらゆるもの をつ くっていたが,手
づ くりの鋳込生産品は瀬 戸市内か ら,一
部 の機械生産品は美濃か ら仕入 高級人形 については,生
産 に手間がかか るう えに不良率 も高 い。製品不良率は,簡
単 な もの (低級品)で
は1割前後であるが,高
級品になる と大 きなサ イズで複雑なものほど不良率 も高 く な り5割
前後 に跳 ね11がる。仕 上Ii程や窯詰の 際に,指
や木の枝の先が折れた り花び らが取れ た りするし,絵
付の際の失敗 もあるc窯
に入れ た後 も,破
損や焼成不良 などがある。原型か ら 最後 の工程 まで,
まさに一部のす きもない慎重 さが求め られ るのである。 それで も,1950-60
年代 には高級人形 も儲か っていた。70年
代以降の生産 。経営事情70年
代 に入 り変動相場制 に移行 して為替 が 不安定 にな り円高 に転 じると,高
級人形 は採算 上かっかつになるも,看
板商品 として何 とか生 産 を続 けた。一方,外
注生産 に関 しては,為
替 変動 の影響 を受 けなが らも,採
算 を合わせてい た。1ド
ル200円レベル までは,何
とか対応で きた とい う。 受注量 の最後の ピー クとな ったのは,や
や円 図12
ラバ ンゼル (注)高
さ21 9cm。 レ ノ ッ ク ス・ コ レ ク シ ョン ズ (Lenox Collections)か らの注文により,1984年に丸 山陶器でつ くられたもので,好評を博し,その後の レノックス・ シ リースにつなか っていった。 (出所)レ
ノノクス・ コレクションの販売 カクログ『L← nOx』。『セ ト・ ノベルテ ィ』(17ページ)にも掲載 されている。 れ て いた。 1′くヽ1■()、.名古屋学院大学論集 安期 にあ った
1985-6年
であ り,
フル生産の状 態が続 いた。社内生産 の高級人形 について も, 「 ラパ ンゼル」(H21.9cm,図12)を
は じめ とす るレ ノックス・ シ リーズなど,ア
メリカの通信 販売 (Mail order)の 良 い顧客がついたとい う事 情があ って収益 も良か った。 ア メリカ向けの輸 出 品 は,輸
入 業 者Cmporter)兼
・ 卸 業 者 (Wholesaler)を 経 由 して,ア
メリカの小売店に 渡 っていた。 しか し,円
高 の進行 とともに,そ
うした中間マージンの商売が難 し くな って大手 のデパー トやス トアーが直接買付けに くるよう にな り,
また他方では通信販売の増加 もみ られ た。 そ うした内外の流れのなかで,丸
山陶器 は つかの間の好機 に浴す るのである。 しか しなが ら,1985年
のG7の
プ ラザ合意を 契機 とす る急激 な円高進行によって,87年
初 め よ リー挙 に受注減 。採算悪化へ と転 じ,生
産停 止へ と追 い込 まれてい く。 生産停止の発表 (88年 2月)と
その舞台事情88年
2月 に丸山陶器 は生産停止 を発表す る が,当
時社 内には約90人の従業員がいた。70 人体制や30人
体制 などの ス リム化 を検討 した が,い
ず れ も採算 の メドが立 たなか った とい う。永 く貢献 して くれ た従業員 の うち,誰
を 切 って誰 を残すか とい う飾 にかけることも難 し く忍びない。 そ うしたなか,生
産停止・ 全員解 雇 に踏み切 ったのである。 「 いろいろと危惧 したが,混
乱 もな く,誰
も何 も言わずに承諾 して くれたのが有難か った」(加 藤 豊社長)と
い う。退職金は規定どお りに支 払 い,割
り増 しもつけたが,と
くに再就職 の あ っせんには全力を尽 くした。生産停止を発表 した翌 日か ら,幸
いにも再就職の話が舞い込む など,最
終的 にはほぼ全員の再就職先を見つけ ることがで きた。「丸山陶器でや っていたか ら 大丈夫」 とい う会社看板への信頼 にずいぶん助 け られた とい う。 受注残があ ったが,顧
客 には「3-4ヶ
月で完 納 します」 と約束す る。従業員には,受
注残の 仕事 に応 じて順次辞めて もらい,完
納 した88年 7月 の最 後 まで残 って くれ た人 は10人弱 に な っていた。 なお,追
加注文 については,懇
意 の同業者 に移管 している。移管先には,型
や転 写紙,
ノウハウなどを提供す る一方,そ
れ まで 使 って いた下請 の生 地 屋,絵
付 屋 などを必 ず 使 って もらうことを条件 に した とい う。3.瀬
戸 ノベルテ ィ・ 丸山陶器の人形 とそ
の歴史的・ 国際的評価
3.1.丸
山陶器の「 ノベルテ ィ」資産 とその今 日的意義 各種製品0資料 とその整理 同社 の建物 は1931年に建て られた ものであ り,70年
余の歳月が刻 まれている。 そ こには, 数千点を超えるとみ られ る「 ノベルテ ィ」の各 種製品が眠 ってお り,石
膏 の元型 (ケース)も
数 え切 れ ないほど多数 残 され て い る。二 階 に は,応
接室を含む3部
屋に,高
級人形を中心 に した各種製品が名札 (品名,製
作年)付
きで陳 列 されている。 三階の旧営業事務室には,出
荷台帳や見積 り (原価)台
帳 など も保存 されて いた。 その他 に も,登
録証,製
造指示書,ア
ルバ ム,出
荷 カー ド,転
写,元
型 についてそれぞれ台帳があ り, 彩色 カー ド (絵具 の配合表)な
ど もある。 これ らの大半は,加
藤豊社長 の手で整理 された もの で あ る。以下 の本項 は,9卜
7年
にか けて2回
にわた り見学・ ヒア リングしてまとめた小論11 14 +名直喜「瀬戸の地場企業にみる伝統 と新地平-4企
業モデルにみる陶磁器産業の求心力 と遠心瀬戸 ノベル テ ィのパ イオニア・ 丸 山陶器口論 をベースに して まとめ直 した ものである。 バイヤー別の見積 り台帳や出荷台帳 見積 り台帳には
,各
種製品の詳細 なデ ッサ ン が手で描かれている。 これは,豊
氏 の父 (加藤 龍蔵・2代
社長)が
始 めた もので,の
ちには写 真 を貼 り付 けるよ うになった。2代
社長 は,趣
味でプ ロに絵を習 っていたとの ことである。見 積 り台帳 には また,生
地や絵付 などのコス トも 品番 。品名ご とに記載 されている。低単価の も のは,1個
単位 よ り 1ダ ース単位 の単価が記載 され て い る ものが 多 い。 さらに低単価 にな る と,グロス単位の単価で記載(昭和20年代 まで) とい うもの もある。 商品 は,昔
は木箱 に入れ られて出荷 されてい たが,そ
の後,カ
ー トンボ ックス (ボール箱) に切 り替わ っている。出荷台帳にはボ ックスサ イズが立法 フ ィー ト(1立
方 フ ィー ト=30.48
cm3)で記載 されてお り,木
箱当時 は机 に近 いサ イズ もみ られ る。 登録証 日本陶磁器意匠センターの「登録証」 は,輸
出認証制度 に基 づ き意 匠登録 を行 うものであ る。発行 された登録証は,2年
間有効 とされ, さらに継続 す るときには再発行 の手続 きを と る。同制度の目的は,模
倣や過 当競争の防止 に あ った。 「彩色 カー ド」 にみ る色への こだわ り 整理 された「彩色 カー ド」(絵具の配合表)に
も,話
が及んだ。同社は,「お客 さんの要望どお りの色 を出す」 ことで定評があったとい う。例 えば,人
形 の肌色で も,多
くの メーカーが2∼ カー」『地場産業研究』第19号,1997年。ならび に十名直喜「セ ト・ ノベルティのパ イオニア 丸 山陶器に見 る今昔と文化的資産」『 日本人形玩具学 会年報』第8号,1997年。3種
類 に限 られ るのに対 し,同
社 は製品ご とに 微妙に違 う色を出す こともしていた。注文が来 ると,
まず見本をつ くって商社 に渡す。 それでOKに
な ると,今
度 は荷 口生産 の前 に再度調合 し,「色見」するのである。 これは,絵
具屋か ら 仕入れた材料 (絵具)が
前回 と同 じものかど う か必ず しも定かではないとい う事情 にもよって いた。 絵具 を溶かすのは水であ った り膠油であ った りと,絵
具 によ って溶剤 を使 い分 けていた。窯 で焼 くと,溶
剤 の油が燃 えてガ スが出 るし,窯
詰 の場所によって温度 なども微妙 に違 う。 こう した雰囲気の違 いが発色具合に も微妙に影響す るのである。 丸 山「 ノベルテ ィ」の技術的・ 文化的資産を め ぐる課題 丸山陶器 の技術 や ノウハ ウは,い
まや上記 に み るような各種資料・ 資産 に跡を留めるのみで あ る。 しか し,
これ らに基づいて再生産す るこ とも可能 なものであ り,瀬
戸 ノベルテ ィの技術 的資産 として貴重 な ものである。 1996年7月 の第1回見学調査に先立 って,日 本人形玩具学会 の関係者50名が同社 を訪れて いる。 それ までは,2階
の陳列品に名札 (品名) を付けていなか ったが,彼
らの来訪を機に整備 す ることに したとい う。 阪神大震災 の直後 に加藤 豊氏 は,同
社 の倉 庫 にあ る ノベル テ ィ製 品 の保存 と活用 に関 し て,瀬
戸市長 と話を されたことがある。市長か ら,「大 きな地震が来 ると,こ の ままでは壊れて しまうのではないか」 といった質問 も出された とい う。 ノベルテ ィ発祥の地 として,何
らかの 保存対策が必要であることを市長 自らが示 した もの と して注 目され る。筆者 は,地
域 の経 営 者0有識者 の方 々とともに,同
社 の各種資産・ 資料 を ノベルテ ィ記念館 として一括 して保存 じ名古 屋学院大学論集 公開する提言をまとめたが
,種
々の制約 もあっ て実現には至 ってはいない。3.2.東
西 磁 器 交 流 の ダ イナ ミズ ム と ヨー ロッパ「 ノベルテ ィ」 東西磁器交流のダ イナ ミズム・ 屈折現象 瀬戸 ノベル テ ィは,第
一次大戦の勃発で ドイ ツか らの輸入が途絶 えた ことによ り,「 マ イセ ン人形の代替品」15と して米国に最 も輸 出 され た。 そ うした経緯か ら,「 瀬戸 ノベルテ ィは コ ピーだ」 とい う人 も少な くない。 たしかに瀬戸 ノベルテ ィは,マ
イセン人形やハ ンメル人形 な ど ヨーロッパ製品の模倣品,代
替品 として,ア
メ リカで受 け入れ られた。移民国家であるア メ リカの中・ 低層階級 は,本
当はマ イセ ン磁器が ほ しいが,高
価で手が届かないため,
日本製の 模倣品で代替す る。増淵宗一氏 は,
このような 屈折 した現象 を,磁
器文化 の国際交流 をめ ぐる 「文化屈折現象」 と呼 び,
これ まで も4重
にわ た って繰 り返 しみ られた一 つ と捉え る1%そ
れ らは東西磁器交流の歴史的ダイナ ミズムとみな す こともで きよ う。 かつて伊万里焼 きにおいて,主
客逆転の形で 行われた。1660年頃,日本の古伊万里 は,中
国 磁器の代替品 として ヨーロッパに輸出 されたの である。中国明朝が滅亡 し,中
国か らの磁器輸 出が ス トップす る(1652年)な
か,オ
ランダ東 インド会社 は日本に磁器を求 めた。当初 は,景
徳鎮磁器 の模倣,代
替品 として出荷 されたが, 日本磁器の レベルが急速 に向上す るなか,伊
万 里焼 きは ヨーロッパ諸国にとって憧れの対象, 15 加藤 豊氏は「マイセン人形の代替品というの は畏れ多い。マイセン人形は別格であり,正
確に はいわゆるドレスデン人形などの代替品 として輸 出された」 という方が実態にあっているという。 16 増淵宗一,前
掲論文,61-2ページ。 模倣の対象に転 じてい くのである。 中国の影響を受け明朝の赤絵 とデザ インの模 倣から始 まった伊万里焼であるが,柿
右衛門様 式 として日本独自のデザインが確立 してい くポ イントとなったのが「余白」の感覚であるr。 色 絵で,余
白をうまく残 し,主
として梅などの草 花文,時
折の人物文などが描かれ,赤,薄
い青 色,緑,部
分的な金彩 などに特徴をもつ。「赤 絵」,「余白」,「濁手」の 3つ を総合 した柿右衛 門様式 が完成 す るのは,1670年
代 といわれ る1% マイセンでは当初,中
国の宣興窯や徳化窯風 のものをつ くっていた。やがて,よ
リカラフル な,
しかもオリエンタル風の味わいある柿右衛 門様式が現れると,そ
の模倣へと転 じる。素地 の白と余白を活か した日本的な構図をもつ柿右 衛門様式は,マ
イセンさらにヨーロッパを魅了 し「磁器のジャポニズム」1'をもたらした。 1730年 頃 までのマ イセ ンは東洋 の模倣で あったが,1740年
頃から独自の歴史が始まる。 ヨハン 。グレゴ リウス・ ヘロル トは金属酸化物 を主成分 とするた くさんの顔料を創案するとと もに,模
倣を超えたマイセン独自の図柄を確立 するのである。ヘロル トはまさに「 ヨーロッパ の柿右衛門」だ った20。 やがて,マ
イセンをはじめヨーロッパの各窯 が苦心のすえ磁器の焼成に成功 し,食
器の他に フィギュア製品の花が開 く。そして今度は,マ
イセン・ フィギュアがアメリカ社会の憧れの的 17 14代酒井田柿右衛門『余自の美 酒井田柿右衛 門』集英社,2004年,22ページ。 18 14代酒井田柿右衛門,前掲書,22,189ページ。 19「マイセンの目指 した日本 (下)」 日本経済新聞, 2005年2月 20日付。 20「マイセンの目指 した日本(中)」 日本経済新聞, 2005年2月13日付。瀬戸 ノベル テ ィのパ イオニ ア・ 丸 山陶器
m論
にな り,瀬
戸 ノベル テ ィがその代替品 として関 わ るのである。 三杉隆敏氏は,
こうしたグローバルな歴史的 プ ロセスを東西磁器交流史 としてダイナ ミック に俯欧す る21。 それ らはふ まえて,本
稿 で は次 のように整理する。①中国における磁器 。白磁 の開発,ペ
ルシア陶器の染付の導入による色絵 磁器の開発,②
日本における磁器・ 図柄 (柿右 衛門様式)の
開発,③
ヨーロッパにおける磁器・ 図柄の開発,④
日米におけるヨーロッパ磁器ヘ の憧れ,瀬
戸 ノベルティの模索。 ヨーロッパにみるフィギュリンの伝統と文化 加藤 豊氏によると,ア
メリカのバ イヤーは 「 ノベルテ ィ」 とはいわず,ポ
ーセ リン・ フィギ ュ リン(pOКelain igunne:磁 器製人形
)と
か フ ィギ ュ リン・ オ ー ナ メ ン トGgWme
Ornament:人形装飾品),テ
ーブル・ トップ・オー ナメント(tabbtOp Ornament:卓 上装飾品)と
呼んでいた。 1910年 にマイセン陶磁器工場の創業200周年 記念に出版 された『マイセン・ チャイナ図史』 では,掲
載 された製品写真の9割
が擬人化 した 神々やイエス,マ
リア,英
雄,偉
人,宮
廷風俗 や市井風俗を写 した人物像などのフィギュアで 占められていることにもみられるように,西
洋 の「 フィギュア文イロ は,徹
底 した「人間中心 の文化」「風俗肖像文イ臼 であり22,絵画・彫刻 をベースとした宮廷文化 といえる。それと比較 できるものとして,
日本には「置物文化」があ るが,主
として床の間に置かれる置物,美
術, 骨董品などによる文化であり,花
鳥風月など自 然を尊重 したものが多い。 21 三杉隆敏,『マイセンヘの道―東西磁器交流史 一』東京書籍株式会社,1992年。 22 増淵宗一,前掲論文,62ページ。 西洋では,igrQ igunneと
言われる造形形 象は,長
い歴史をもつ。紀元前のギ リシアでつ くられたといわれるブロンズ (青銅)製
彫刻の 傑作「踊 るサテュロス」(H143cm)な
どにみら れるように,古
代のギ リシア人は,生
命感のあ る人体をいかにブロンズや大理石で表現するか という課題に何世代にもわたって取 り組み,紀
元前5世
紀中頃には完成 させていた23。 ョ_
ロッパの陶工たちも,人
物やさまざまな自然の 造形を象 った置物など,早
くから陶土を用いて 彫像をつ くることに喜びを見出 していたよう で,マ ヨリカ陶器の彫像は15世紀半ばにイタリ アで焼かれた2ち フィギュリン(figШme)は
今 日では,磁
器で つ くられた人形の総称 とされるが,磁
器人形の 生産は, ドイッのマイセンから始 まった。1708 年にヨハン・ フリードリッヒ・ ベ トガーが磁器 製造に成功 し,中
国徳化窯白磁の観音像に影響 されてつ くったのが,磁
器人形の始 まりといわ れ る26。 1712年 にはグ レゴール・ フ リッツ , 1727年 にはヨハン・ コ ットフ リー ト・ キル ヒ ナー,そ
して 1731年 にはヨハン・ ヨアヒム・ ケンドラーの彫塑家たちが集められ東洋風人物 像,動
物像,天
使やキ リス ト教 にモチーフを とった群像などの製作が始 まり,磁
器 という素 材を十分に活用 した新 しい彫像の世界を生みだ していった2%こ
れがいわゆる「 ノベルテ ィ」, すなわちフィギ ュ リンの原点である。ケンド ラーによって優れた原型がつ くられ,マ
イセン の彫像はヨーロッパ諸国の王侯貴族たちによっ 23 青柳正規「美 しき旋回一古代彫刻の傑作『踊 る サテュロス』―」読売新聞,2005年2月12日付。 24 長谷部楽爾編『世界や きもの史』美術出版社, 1999年,150ページ。 25 長谷部楽爾編,前掲書,150ページ。 26 三杉隆敏,前
掲書,177-8ページ。名古屋学 院大学論集 て高 い評価を得 るなか
,磁
器彫像=磁
器人形 は 瞬 く間 に ヨー ロッパ中に広が ってい った。他 の ヨーロッパ諸窯で も,ギ
リシア神話を主題 にし た神 々や ヨーロッパの風俗を写 した彫像がつ く られ るよ うになるのである。色絵磁器だけでな く,釉
薬 をかけない白磁 の彫像 は大理石 のよ う な美 しさで,
これ もマ イセンをは じめ ヨーロッ パ各地で焼かれている27。 現在で も,
ドイツで はマ イセンのケンドラー,ヘ
キス トの メル ヒオ に よ りつ くられ た もの,イ
ギ リスではチ ェル シー窯のものが第一であるが,他
に もレース人 形 をは じめ として ロイヤル・ ウースターなど, かわいいものがつ くられている。 イタ リアのジ ノ リの人物像 など も,喜
ばれている2%3.3.瀬
戸 ノベルテ ィ・丸 山陶器の歴史的・国 際的到達点 人形生産をめ ぐる初期の企業間競争―森村ブ ラザース,
日本陶器 との関係― 日本陶器が人形生産か らなぜ撤退 したのか は,興
味深 いテーマである。20年におよぶ技術 開発 によ ってデ ィナーセ ッ トを完成 し本格的 な 生産 に乗 り出 した日本陶器 にとって,異
質 な技 術や文化 の不可欠 な置物・ 玩具 (人形)に
経営 資源を割 くことに メ リットを見出せず,そ
うし た余裕 もなか ったためではないか と推察す る。 『 日本陶器70年
史』によると,1917年
(大正6年
)に
日本玩具株式会社を設立す るも,1921
年早 々,米
国の商況が急悪化す るなか解散 して いる29。 日本陶器では「他陶係」とい う部署で, 「 ビスクドール」を外注でつ くらせていた。陶磁 27 長谷部楽爾編,前掲書,150ページ。 28 三杉隆敏,前掲書,263-4ページ。29
日本陶器株式会社編『 日本陶器 70年史』日本陶 器株式会社,1974年,235ページ。 器だけでな く服 や髪 の毛 など多様 なパ ーツか ら な り,手
間がかか って量産 も難 しい。 ノリタケ ブ ランドをつ くって売 ってい くほどの ものでは ないと判断 し,撤
退 した とみ られ る。 この頃は,米
国市場か らの高 まる需要を背景 に,「 ビスク人形」(手活人形,四
ツ割人形)の
技術開発,高
品質化,量
産化をめぐって,
日本 陶器 と瀬戸,
さらに瀬戸 における山城柳商店平 (1914年創業,丸
山陶器 の前身)と丸 力商店など の間で,受
注競争が激化 した時期で もあった。3年
ほどで山城が制 し,
ノベルテ ィのパ イオニ アとしての地位を築いてい くのである3% 瀬戸,丸
山陶器の人形の国際的位置 丸山陶器の人形 は,瀬
戸の他の メーカーの人 形 よ りも良 くで きているといわれ る。顔かたち や所作,バ
ランスなどが,よ
り本物の西洋人 ら し くみえるか らである。バ イヤーなどが持 って きた見本や現地の カタログなどが揃 っていたこ とが大 きいし,彼
らとの交流を通 して ヨーロッ パ人形のバ ックグラウンドをより深 く理解で き た ことも力にな っていた。 丸山陶器の中で も高級品は,受
注量が少な く 生産歩留 も低 くてあまり儲か らない。市場 性が 減少 し,バ
イヤーおよびユーザーの価格帯か ら はみ出 して生産で きな くなるとい う悪循環 に陥 りが ちであ った。 アメ リカ市場 における日本の 手仕事製 品の評価 は,1963年
頃 まで は高 か っ た。 しか し,65年
頃か ら高価格への不満や警告 がみ られ るようにな り,変
動為替相場制への移 行 に伴 って71年
頃 よ り高級 品 は ます ます市場 性 を失 ってい くのである。 瀬戸 の ノベルテ ィ,な
かで も丸山陶器の人形 30 小出種彦『黒い煙 と白い河―山城柳平 と瀬戸の 人形―』(貿易之 日本社,1959年,101-115ペ ージ) は, この間の事情を リアルに描いている。瀬戸 ノベル テ ィのパ イオニア・ 丸山陶器い論 の品質 と技術を国際的・ 歴史的にど う評価すべ きかについて