津田真道の法理論について
著者
松岡 八郎
著者別名
H. Matsuoka
雑誌名
東洋法学
巻
31
号
1・2
ページ
389-413
発行年
1988-01
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00003571/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja津田真道の法理論について
松 岡 八
B
良
﹁法は国民意識の表現であるという位であるから、 一国の法を他国に継受することは、決して容易の事ではなく、 多くの心労と、多くの歳月とをもって漸くその民情に適し、その時要に応ずるだけを継受することが出来るものであ ︵王︶ ︵2︶ る。﹂とは、明治大正期の法学界の大御所・穂積陳重博士が﹁法窓夜話﹂において、みずからの経験と学識とを込めて 述べ宅いるところであるが、法を継受するということが、いかに多年にわたる困難な複雑な過程を通じて行われるも のであるかを示している。 ︵3︶ いわゆる、法の継受︵罐8冨8︶という言葉は、普通、一般に法の移転現象を指すものとして使用されており、す なわち、法を形成し維持しできた本来の人間集団・社会・風土等の諸条件から一応切り離されたものとして、法が他 の異なる人間集団・社会・風土の条件の中に受け入れられるという現象をいうのであるが、このような法の継受は、東洋法学 三八九
津田真道の法理論について 三九〇 古代から現代にいたるまで、世界各国において種々様々な具体的な態様をもって行われて巻ており、p同じく法の継受 ︵4︶ といっても、そこには各種の態様が存在する。 臼本における法の歴史的展開をみるとき、外国法の大きな影響を受けた時期は三度あるが、最初は、七世紀におい て、大化改新によって中国大陸から当時の階・唐の法制を採り入れて、律令制度を整備したときであり、その後、封 建時代を通じて日本の固有法が形成されたが、ついで明治維新以後、明治期においてその固有法とは全く異質なフラ ンス、ドイッを中心とするヨi・ッパ大陸法を継受して、近代的法制度の確立をはかり、さらには第二次世界大戦 後、英米法の諸制度が種々の法分野で個別的に従来のヨ:・ッバ大陸法を基礎とする法制の上に導入されたのであ る。右の三時期のうち、最初の古代における中国法の継受は、現在の9本法の内容を考えるとき、ほとんどその意昧 をもっていないと考えることができるが、明治期以後の二回にわたる欧米先進諸国からの法の継受が、現在の日本法 ときわめて密接な大きな関係をもっていることは明らかである。すなわち、現在の日本法は圧倒的な欧米諸国の法の 影響を受けて、形成され、発展してきたのであり、したがって、現在の日本法の内容を正しく認識しようとするため には、この欧米諸国からの法の継受について十分な研究をしなければならないことはいうまでもない。殊に国際化が 叫ばれている現代の日本においては、この研究の重要性はいうまでもないことであろう。 だが一般的にいって、法の継受という現象はきわめて複雑な現象であり、また困難な問題でもあるのであるが、と りわけ日本における明沿期の西洋法の継受は、それまでの固有法、すなわち、徳川幕藩体制のもとにおける法とは、 全く言語を異にし、しかも全く異質的な西洋法を継受したのであるから、その継受は一層きわめて複雑なまた困難な
問題をもっていたということがでぎる。 ヤ ヤ ヤ そこで本稿においては、このような明治期における西洋法の継受の前段階として、明治維新前後においてこの継受 ヤ ヤ ヤ ヤ がどのように準備されたかという準備過程における一つのテーマとして、この継受を可能ならしめ、それに貢献した 法律研究者︵当時においては洋学者︶の果した役割・業績について考察したいと考えている。 ヤ ヤ ヤ ヤ それでは、このような準備過程において、右のような役割を果した洋学者にはどのような人たちがいたのであろう ︵5︶ か。それは、主要な学者として津田真道、西周、加藤弘之、箕作麟祥などを挙げることができるであろうが、本稿に おいては、右のうち、最も初めに本格的に西洋法学を導入した津田真道について述べてみたいと考えている。
((
2王))
︵3︶ 穂積陳重 ﹁法窓夜話﹂ ︵岩波文庫 一九八O年︶ 一六六頁 参照。 穂積陳重については、前掲 ﹁法窓夜話﹂ 福島正夫 解説 三九五頁以下、松尾敬一 ﹁穂積陳重﹂ ︵潮見俊隆・利谷信 義編著 ﹁日本の法学者﹂ 日本評論社 一九七四年所収︶ 五五i七二頁、穂積重行 ﹁明治一〇年代におけるドイッ法学 の受容!東京大学法学部と穂積陳重﹂︵稲田正次編 ﹁明治国家形成過程の研究﹂ 御茶の水書房 一九六六年 所収︶ 五 〇五−五六七頁、および唐沢富太郎﹁貢進生﹂︵ぎょうせい 一九七四年︶ 一二五!二二五頁 参照。 法の継受についての諸問題については、沢木敬郎 ﹁法の継受﹂ ︵伊藤正己編 ﹁外国法と日本法﹂ 岩波講座﹁現代法﹂ 斑 岩波書店 一九六六年 所収︶ 一一五ー一五八頁 参照。本稿はこれによっていることが多い。ただ法の継受という 言葉よりも、法の摂取という言葉の方がより適切であるという説がある。﹁︽法の継受︾が、決してある法文化圏のでき上っ た法体系︵又は法制度︶を品物を輸入するように、他の法文化圏にそのまま移しいれることを意味するものではなく、程度 の差はあるにせよ、そこには受けいれる側の主体的な干与が必然に伴なうものだということを強調しておきたい。そういう東洋法学
三九一津田真道の法理論について 三九二 意味では、︽継受︾という語より、表題に掲げられている︽摂取︾という語の方が、このような主体性を示すために一層適 切であると言えよう。﹂・野田良之﹁田本における外国法の摂取﹂序説︵伊藤正己編 前掲︶ 一六一頁 参照。本稿では両者 を同義に使用していくこととする。 ︵4︶法の継受についての一般的な過程については、沢木敬郎前掲 一五三i八頁参照。 ︵5︶ 穂積陳重 前掲 一七〇頁参照。﹁泰西法学の輸入および法政学語の翻訳鋳造については、吾人は津田真道、・西周、加 藤弘之、箕作麟祥の四先生に負うところが最も多い。﹂なお、ここでは西洋法知識の最も主要な受容者として四名が挙げら れているのであって、この四名以前からもこの受容はすでに行われてきており、また、ζの四名と同時代、あるいはそれ以 後においても、この四名以外によってもこの受容が行われている。この問題については、ここでは述べないこととしたい。 この問題については、水田義雄 ﹁西欧法事始﹂ ︵成文堂 一九六七年︶・参照。 二 ︵1︶ 津田真道︵一八二九年︿文政二一年﹀ー一九〇三年︿明治三六年﹀︶は、福沢諭吉、西周などと比較するとき、一般 に知られていることの少ない人ではあるが、明治啓蒙期の多数の著作家たちのなかでも、最も啓蒙の精神を体現して いる学者の一人であったといわれているっこのように津田は非常に優れたまた特異な啓蒙学者であったが、さらにそ の業績として特に高く評価され、またきわめてよく知られているのは、西とともに日本へ西洋の人文科学および社会 科学、殊に西洋法学を最初に本格的に受容し、導入したことである。 本稿においては、津田が西洋から学んだ種々な知識や学問のなかで、特に西洋法の知識・学問について、とりわ ︵2︶ け、西とともにオランダに留学し、ライデン大学のシモン・フィッセリング︵ω巨露く誘窪お会G oあ∼鵠o oサ︶教授
から教えられた法理論iそれは主として、後に津田によって﹁泰西国法論﹂として醗訳出版されたのであるがー について、それがどのような内容のものであったのか、について検討したいと考えている。すなわち、このような問 題を検討することによって、津田の受容した法理論が、西洋法の日本法への継受における準備過程において、どのよ うな役割を果すことができたのかを考察できるのではないかと考えている。 ︵3︶ 津田はオランダヘ留学する前、洋書調所の教授手伝であったが、西ととも幕命によって、文久二年︵一八六二年︶ ︵4︶ ︵5︶ 六月一八濤、オランダ留学の途に登るが、この留学を実現するまでの経過およびその目的は一体どのようなものであ ったか。 ハイダ ウキ 津田は、・文政一二年六月二五日、美作国津山字林田上︵現在の岡山県津山市︶において、津山藩の御料理番を勤め る下級武士の家に生まれたが、幼い頃から学問、特に国学を好み、父の職を継ぐことを好まず、やがて青年期に入る にいたって、大いに天下に活動して功名を成さんとする志をいだくにいたった。 津田がそもそも洋学を学び始めるにいたった動機は、嘉永三年︵一八五〇年︶八月、兵学修業の目的をもって江戸 へ上ったが、欧米列強の外圧が加わる状況のもとで、孫子の﹁知ゲ彼知ゲ己﹂の言葉に感銘し、西洋の事情、特に西洋 流兵学を知ることの必要を認識したからであった。やがて洋学の勉学が相当進んだ頃、長崎の海軍伝習所の伝習生た らんことを希望したが、出身である津山藩の許可が得られず、その希望を達することができなくなり、海軍技術︿西 洋流兵学﹀を学ぶ機会を失った。だがやがて、以前から知遇を得ていた幕臣大久保忠寛および箕作翫甫︵同じ藩の出 身で当時蕃書調所教授︶の推薦によって、安政四年︵一八五七年︶五月には蕃書調所の教授手伝並に任命され、洋学
東洋法学 三九三
津田真道の法理論について 三九四 者として認められるにいたった。この時、同じく教授手伝並に採用されたのが西周であったが、この両人はこれ以 後、心を許し合う親友として、洋学、殊に人文科学、社会科学に興味をもち、ともに研究に励んだのである。﹁一日 ︵6︶ 真道西と相議して曰く、西学の纏奥を究めんと欲せば、須らく海外に航せざるべからずと。﹂ここにいたって両人は、 海外への留学を決意して、上司に対してこの志を達成するために種々尽力したのであるが、なかなか成功しなかっ た。だが、遂に文久二年六月一一日にはオランダでの﹁軍艦製造中諸術研究﹂のために海軍操練所組五名および洋書 調所の津田と西との二名、計七名に対してオランダ留学の命令が伝達されたのである。 このように津田が留学を志した目的は、広く西洋の学問ー殊に人文科学、社会科学を学ぼうとしたことにあった が、このような目的をもつにいたった、当時の基本的思想はどのようなものであったのであろうか。この留学に先立 ︵7︶ ︵8︶ って、文久元年ごろ、未発表の二づの論稿、すなわち﹁天外独語﹂および﹁性理論﹂を書いているが、西洋の知識が ︵9︶ あふれているこの二論稿によって、当時の基本的思想を窺うことができるであろう。だがここでは詳細に説明する余 エイテル 裕がないので、結論的に述べれば、まず基本的思想としては、全世界のすべてのものが・﹁曳姪﹂︵エーテル︶の産物 であるとして、後年の唯物論的思想がすでに現われており、人間の肉体は魂によって支配きれ、この魂はエーテルの 凝集したものであるが、人間の死によって魂も霧散してしまうとして、唯物論的な立場から霊魂不滅論を否定してい る。また人間の本性は清であり、この情が中正を欠くと反道徳的行動をもたらすが、情を中正ならしめるものは、天 賦の蓋恥心︵﹁恥﹂︶と﹁知﹂と﹁道理﹂であるとしており、こうして情を本性とする情念人・欲望人としての人間を 尊重する合理的な利己主義を説いている。また政治思想としては、智者である治者によって、無智な民衆をよく統治
すべきであるとする善政主義が基本であり、したがってそこでは啓蒙ということが重要であるが、その善政を行うた めの根本政策としては、鎖国を否定する開国政策と富国強兵策とを行うべぎであるとしている。自﹁天外独語﹂には津 ︵10︶ 田が少年期から親しんできた国学の影響を認めることができるが、熱心に洋学を学んだことによって、当時の基本的 思想を結論的にいえば、概して西洋の学問を基礎とする開明的な進歩的な合理的思想であったということができるで あろう。このような津田の基本的思想は、後に述べるように、フィッセリングの基本的思想ときわめて類似してお り、津田がフィッセリングの学問を受け入れる素地をなしていたということができる。﹁ このように津田は、開明的な進歩的な合理的思想をもって、さらに広く西洋の学問を勉学すべく留学の途についた のであるが、それでは具体的にどのような学間を学ぼうとしたのであるか。これについては、西が船上で﹁関係者各 ︵11︶ 位殿﹂宛に書いた手紙に明らかであり、その手紙の内容から、津田と西の留学の目的は、第一には、当時の臼本にお いて内外の状況に対応するための有用な学問として、統計学、法律学、、政治学、外交などの学問を修得すること、第 二には学問研究に必要な重要な語学としてのフランス語の学習、第三には、、、段本の文化の向上に寄与すると思われる 哲学・思想の分野の学習、など、要するに、西洋の近代思想や近代国家学を勉学せんとしたのである。だが、時間的 余裕が少ないため、これらの学問を徹底して学ぶことは不可能であり、したがって重点的に要領よく学習したいとし ており、また、このような学習を理解してくれる良い先生を選んで欲しいとも述べている。 ︵犯︶ 留学生一行がオランダの冨ッテルダム港に着いたのは、一八六三年六月五日︵文久三年四月一八臼︶のことであ ︵捻︶ り海両名は同夜にはライデンに到着したが、右のような学習希望を受けていた留学生世話係ホフマン︵ざ訂旨︸8⑦嘗
東洋法﹃学 ・ 三九五
津田真道の法理論について 三九六 瓢o駿Bき⇔︿お8∼嵩蕊﹀︶は、すでに両人の指導に最も適する先生として依頼していたフィッセリングにこの二人の ︵M︶ 学習希望を伝えていたのである。そこでフィッセングは六月一六目付の﹁﹁津田、西両氏への教育に関する覚え書﹂を ホフマン宛に送って、その希望に答えた。 、この覚え書によれば、二人の留学目的を考慮して、・全体の目標としては留器富類薄。霧。訂竈窪︵国家学︿政事学﹀︶ の基礎を教授するが、その内容としては、次の五科についてできるだけ簡潔明瞭に教授する。その五科とは、ゼ留 訂欝置くきぼ貯2餌密弩富αQ樽︵自然法︿性法﹀の知識︶や留落馨凶ω︿き冨けくO涛①謹oαq一︵国際法︿万国公法﹀の 知識︶o o。留落窪置くきン卑紹器韓紹酔︵国家法︿国法﹀の知識︶群留訂琶置くき留即器島忌警O&ざ鼠Φ︵経済 学︿制産学﹀の知識︶9留訂窪びくき留ω糞搾一魯︵統計学︿政表学﹀の知識︶以上であるが、右の学科を勉学す る以前において、まずオランダ語の徹底的な学習が必要であるとし、また講義は二年間で終了できるようにフィッセ リングの自宅で毎週二晩行われると述べている。 こうして二人は、オランダ到着後、まずホフマンと小学校長ファンダイク︵<掌 D鋒9祷︶とから徹底的にオランダ ︵妬︶ 語の教育を受け、一八六三年二月三日からフィッセリングの講義が開始され、それから二年間、非常に熱心に受講 して、一、八六五年コ月には五科の講義が終了した。そこで二人は同年一二月一日︵慶応元年一〇月一四日︶にライ デンを出発して帰国の途につき、慶応元年二一月二八日、留学の大きな成果をもって、横浜に帰着したのである。西 洋の学問を初めて本格的に受容したこの留学は、二人の学問の発展にそれぞれ大いに寄与したことはいうまでもない が、近代β本の学術史上まさに不滅の光を輝かせている。
帰国した当時の国内の政治状況は、慶応元年九月には第二回長州征伐が幕府の強圧によって勅許されており、他 方、これに反対する薩摩藩と長州藩とが接近して、やがて倒幕のための薩長同盟が結ばれようとしており、政治的対 立がようやく尖鋭化して、騒然たる状況となっていた。帰国した津田は、西とともに、慶応二年一月一五βには前職 ︵絡︶ に復して、開成所教授手伝に就任し、さらに同年三月ご二日には直参に抜擢されるとともに、開成所教授職に昇進し ︵17︶ たが、幕府からいかに期待されていたかをうかがうことができる。ついで同年四月には、留学中、フィッセリングか ら受けた講義筆記を翻訳するよう命ぜられて、津田はまず国法学の翻訳を担当し、同年五月一五日から着手し、八月 下旬ごろには脱稿して、九月には幕府に提出していると思われる。この進献本が後に改訂されて、慶応四年春、江戸 ︵掲︶ ︵B︶ 開成所から出版された﹁泰西国法論﹂である。また西は、津田と同じく、国際法の翻訳を命ぜられ、慶応二年一二月 ︵2 0︶ 末には京都において訳了し、将軍慶喜に奉ったが、後に慶応四年夏、﹁万国公法﹂として出版された。 二人がフィッセリングから教授された五科のうち、法学関係は、右のように﹁泰西国法論﹂および﹁万国公法﹂と して翻訳出版されたが、もう一つの自然法︵性法︶も、本来、西が分担するところであり、慶応二・三年ごろには京 都で翻訳し、﹁性法説約﹂と題されていたが、慶応三年末、西が将軍慶喜に従って京都を退いた混乱の際にその原稿 ︵雛︶ ︵22︶ を紛失してし蓑った。その後、明治四年︵一八七一年︶春、神田孝平によって﹁性法略﹂として翻訳出版された。 こうして右の法学関係の三冊は出版されたが、津田の法理論を知るためには、勿論、この三冊のすべてについて考 察することが必要であると思われるのであるが、なかでも津田自身が翻訳執筆した﹁泰西国法論﹂について考察する ことが最も重要であることはいうまでもない。したがってここでは、﹁泰西国法論﹂を中心としてその法理論を考察 東 洋法 学 三九七
津田真道の法理論について してみたいと考えている。 三九八
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︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ 津田真道の生涯については、津田道治﹁津田真道﹂︵東京閣 一九四〇年︶ 参照。 フィッセリソグの生涯と業績については、渡辺与五郎﹁シモソ・フィッセリング研究﹂︵文化書房博文社 一九八五年︶ 参照 および麻生義輝﹁近世嚴本哲学史﹂︵近藤書店 一九四二年︶ 五六−九頁 参照。 安政三年︵一八五六年︶二月一一日に設立された蕃書調所は文久二年︵一八六二年︶五月一八臼には洋書調所と改称され た。 明治五年までの月日は旧暦によっている。 この留学の許可を得るにいたるまでの具体的な経過については、西周﹁西家譜略︵自叙伝︶﹂︵大久保利謙編﹁西周全集﹂ 宗高書房 一九六〇年 三巻 所収︶七三七ー八頁および森林太郎︵鴎外︶﹁西周伝﹄︵﹁鴎外全集﹂ 岩波書店 一九七二 年三巻所収︶七一ー五頁参照。 津田道治 前掲 一五頁 参照。なおこれまでにいたる経過については、拙稿 ﹁津田真道の啓蒙的政治思想について﹂ ︵﹁法学新報﹂︿中央大学法学会﹀ 九一巻 丁二合併号 一九八四年六月三〇日 所収︶ 一五六i八頁参照。 この全文については、大久保利謙編 ﹁明治啓蒙思想集﹂︵﹁明治文学全集﹂ 筑摩書房 一九六七年 三巻︶ 一〇七i一 二二頁 参照。なお﹁天外﹂とは﹁天外如来﹂の津田の号に由来している。この稿本には起稿年代が明記されていないが、 万延元年の遣米使節のことが述べられているから、それ以後のものであり、恐らく文久二年のオラソダ留学以前、西と留学 運動をしていたころのものであろう。またこれは、もともと半紙一六枚の自筆の稿本で未定稿である。大久保利謙編 前掲 解題 四四一頁 参照。 この全文︵漢文︶については、津田道治 前掲 一五〇i一六一頁 参照 および大久利謙編 ﹁西周全集﹂ 前掲 一巻 二二i四頁参照。なおこの稿本は、朋瞭に文久元年二月三二暇の製作であることを示している。︵9︶ ︵10︶ ︵n︶ ︵12︶ ︵13︶ ︵1 4︶ ︵節︶ ( 16 ) ︵η︶ (18
) 江戸開成所とは従来の幕府直轄の開成所のことである。当時はすでに幕府は倒壊していたが、開成所が旧幕文化の残塁を 史著作集﹂ 5 ﹁幕末維新の洋学﹂ 吉川弘文館 一九八六年 所収︶ 一五三ー四頁 参照。 この教授職への任官に当っての幕府の理由書に明らかである。大久保利謙 ﹁津田真道の著作について﹂ ︵﹁大久保利謙歴 た。大久保利謙﹁田本の大学﹂ ︵日本図書センタi︿複製版﹀ 一九八一年︶ 一五四頁および一七八頁参照。 蕃書調所は文久二年五月一八日には洋書調所と改称され、さらに文久三年八月二九日には開成所と改称されるにいたっ 掲 一七九t一八一頁 参照。蘭文の原文については、呂蘭学会編 前掲 五科学習関係蘭文編 一九〇ー二頁 参照。 二人の学習態度については、一八六五年二月二八β付フィッセリソグの二人宛の手紙に明らかである。渡辺与五郎前 参照。 渡辺与五郎 前掲 一七六頁参照。蘭文の原文については、臼蘭学会編前掲 五科学習関係蘭文編 一八○ー一頁 た。宮永孝 ﹁幕府オランダ留学生﹂ ︵東京書籍株式会社 一九八二年︶ 六〇i一頁 参照。 ホフマンは当時、ライデン大学東洋学部の教授であり、かたわらオランダ植民地省のβ本語の翻訳の仕事を手伝ってい 五名であった。 この時、オラソダに到着したのは、海軍操練所組五名、洋書調所組二名、医学修業者二名、﹁職方﹂︵技術者︶六名の計一 集成﹂ ︵雄松堂書店 一九八二年︶五科学習関係蘭文編 一七六i八頁 参照。 渡辺与五郎 前掲一七二i五頁参照。蘭文の原文については、日蘭学会編 大久保利謙編著 ﹁幕末和蘭留学関係史料 て書かれている。 れと命ず、真道陽に之を容れ、陰に之を修めしと云ふ﹂津田道治 前掲 五頁 参照。なお、﹁天外独語﹂は擬古文をもっ を廃せず、時に本居某等に就て研鍵解らず。阪甫之を知り、其の実学にあらざるを諭し、若し之を断たずんば、来り学ぶ勿 津田は少年期から本居宣長、平田篤胤らの国学に特に親しんできたが、洋学を勉学し始めてからも、﹁真道、当時猶国学 この二論稿の大要については、拙稿 前掲 一五九ー一六四頁 参照。
守って、このような学術書を出版したのは注目すべぎことというべぎである。大久保利謙 ﹁幕末におけるβ蘭文化交渉が
東 洋法 学
︵B︶ ︵20︶ ︵21︶ ︵22︶ 津田真道の法理論について 四〇〇 近代日本の形成に与えた影響﹂︵﹁大久保利謙歴史著作集﹂ 前掲 5︶ 二二頁 参照。 この蘭文の原文は散逸して存在しない。この全文については、﹁明治文化全集﹂ ︵日本評論社 新版 一九五七年︶ 一三 巻 法律篇 六七−一〇四頁 参照。 この蘭文の原文については、目蘭学会締前掲 五科学習関係蘭文編 三二ー一二七頁参照。この全文については、 ﹁開治文化全集﹂ 前掲 二二巻 一七ー六三頁 参照。 森林太郎﹁西周伝﹂前掲 九五頁‘参照。 この蘭文の原文については、日蘭学会編 前掲 五科学習関係蘭文編 一⊥三頁 参照。この全文については、﹁明治 文化全集﹂ 前掲 二二巻 三ーコニ頁参照 あるいは、﹁西周全集﹂ 前掲 二巻 一〇三⋮一三三頁 参照。またこの 書物の冒頭には西と津田の序文がそれぞれ掲げられている。 三 この﹁泰西国法論﹂の考察に入るまえに、まずこれら五科の講義を行ったフィッセリングの基本的思想について、 その要点を述べておかねばならない。当時、フィッセリングはライデン大学法学部教授の職にあり、その担当した講 ︵1︶ 座は経済学、統計学、ヨー・ッパ外交史であったが、その教授就任演説が﹁経済学の基本原理、自由について﹂と題 されているように、自由主義経済の主張者であり、認識論的には実証主義、経験主義であり、倫理的には功利主義、 ︵2︶ 個人主義であり、論理的には帰納法をとっていたといわれている。このようなフィッセリングの基本的思想は、前述 のように、津田の基本的思想と類似しており、したがって津田はフィッセリングの講義をスムーズに受け入れること できたと思われる。
このように自由主義、実証主義、個人主義、功利主義の基本的立場に立って講義を行ったフィッセリングは、その法理 ︵3︶ 論の基礎を﹁性法﹂すなわち自然法に置いたのであるが、それは神田孝平の訳した﹁性法略﹂をみれば明らかである。 神田はその﹁緒言﹂において、﹁畢氏云、万国公法ハ性法ノ万国問二行ハル・者、国法ハ性法ノ官民間二行ハル・ 者ナリト。由〆是観ゲ之、諸種ノ律法其趣相異ナリト難其淵源ヲ究ムレハ未タ嘗テ性法ヨリ出テスンハナラサルナリ。﹂ と述べて、フィッセリングによれば、﹁性法﹂がすべての法の根拠をなしていると指摘している。要するに、 フィッ セリングから授けられた法哲学は自然法の思想であったということができる。それでは、﹁性法﹂とはどのようなも のをいうのであろうか。その﹁第一編 総論﹂の冒頭において、﹁性法ハ人ノ性二基ク所ノ法ナリ。﹂とあって、自然 法が人間の本性にもとづくものであるとしている。それではその本性とはなにかといえば、﹁人ノ世二在ル相生養セ サルヲ得ス﹂と述べて、人間は必ず共同生活において生存せざるをえないのであり、したがって共同生活を営むこと こそ人問の本性であるとしている。このように人間は共同生活を営まざるをえないが、その共同生活においては、当 然、種々な事件が起こってくる。そこでこの事件を規制していくために、法が必要となり、法が生まれてくる。また 人間の本性は﹁善悪曲直﹂を判別することがでぎるのであるが、道徳は個人の善悪を判断するものであるのに対し て、﹁性法﹂は人間の共同生活における相互関係の善悪を判定するものである。したがって、﹁性法ノ最大条例に日 ク、己力欲セサル所ヲ人二欲スル事勿レ。﹂﹁性法ノ最要条例二日ク、各人言行十分自在タル可シ、然レトモ己力自在 ヲ以テ他人ノ自在ヲ害スル事ヲ得ス。﹂とあり、各人はそれぞれ言論および行動の自由を有しているが、自己の欲し ないことを他人に強制することはできない。また自己の自由によって、他人の自由を侵害することはできないのであ
東洋法学
四〇一津田真道の法理論について 四〇二 る。こうして自由権には一種の義務を伴なうこととなり、他人の自由権を尊重しなければならないことになる。この ようにフィッセリングの﹁性法﹂は、要するに人はそれぞれ独立の存在ではあるが、その本性にもとづいて、共同生 活を営まざるをえないのであり、その共同生活においてそれぞれ人はその本性にもとづいて言論および行動の自由を 有しているが、だがその自由権は他人の自由権を尊重しなければならないという義務を伴うのである。 右のようなフィッセリングの﹁性法﹂の理論は、﹁泰西国法論﹂においても、その理論的根底をなすこととなるの はいうまでもない。以下、﹁泰西国法論﹂における法理論について考察を進めることとしたい。 この﹁泰西国法論﹂の書名は、前述のように、単欝密紹6の翻訳であるが、明治期に入って、やがて加藤弘之など によってドイッの国法学︵ω寅器お象巨魯8︶が導入されてきたことを考えるとき、蓋し名訳ということができよ う。慶応四年春、江戸開成所より出版されたこの書物は、まず冒頭に﹁凡例﹂を掲げ、次には﹁緒言﹂︵目次︶があ り、続いて﹁泰西国法論﹂巻一から巻四までの本論より構成されている。 ︵4︶ 最初の﹁凡例﹂はフィッセリングの講義の翻訳ではなく、津田自身の勉学にもとづく独立の著述というべきもので あるが、それには初学者が﹁泰西国法論﹂を学ぶのに必要な法的知識が述べられており、日本人の手になる最初のき ︵5V わめて簡潔な法学通論ともいうべぎものであるといわれている。それは勿論、フィッセリングの教え薩基本的には ﹁性法﹂が基礎になっていることはいうまでもないが、津田の法理論がここに基本的に示されている。 その﹁凡例﹂はまず、オランダ留学の成果としての本書の由来から説き起こし、ヨーpッパの大学における法学教 育の現状について述べ、さらに西洋の法学の起源と発達について触れ、法学の概念について論じて、﹁法論の本意は
人々をして其自立自主の権を保たしむるに在り。彼国に昔時一切の人権を奪ひて生ながら死人に同じうする刑ありた れども今は廃したり。是法学の一層高きを加へし一証なり。﹂﹁古昔彼土に人奴あり、生殺与奪の権皆其主人に在りて 人奴は毫麓も権を有せず、禽獣草木に等しく惟主人所有の一物耳。是大に天理人道に背けり。後世人文大は閲け人々 皆律法上に同権を得るに至り、人奴遠く縦を絶したり。﹂﹁英吉利人魁として之を廃し、晩近米利堅の奴乱平定して黒 奴始て人間に蘇生するを得たり。然るに我邦士人、無礼を餐めて人を殺す権あり。至強の権か、非理の理か、思ふ可 き事なり。﹂と説明して、人権尊重の主旨を説き、﹁ドロワ、ライト、レグトは本来正直の義にて正大直方自立自主の 理を伸る意を含む。﹂と述べて、近代法の基本的理念を明らかにするとともに、近代法成立以前の社会︵日本におい ては徳川幕藩制︶における法に対して鋭い批判を展開している。また法学と倫理道徳との区別についても、﹁人道は 仁義礼譲を説き、法学は惟事の曲直理の当否を論す﹂るものとして、これまた近代法の基本を説明している。最後に は、法の種類について述べており、こうして﹁凡例﹂は﹁泰西国法論﹂を学ぶために必要な西洋法学の基礎を簡明に 説明しているということができる。 ︵6︶ 次の﹁緒言﹂には﹁泰西国法論﹂の目次が掲げられており、それは四巻経﹁第一 国法論の総記﹂﹁第二 国家並に 其国住民讐方の権義﹂﹁第三 諸種の政体﹂﹁第四 見今定律国法の大旨﹂巨から成っていることを示している。そこ で次には、この四巻から成る﹁泰西国法論﹂の本論について、各巻の主要な問題に限って検討を加えたいと思う。 第一巻の最初に、まず国法論の意義について述べているが、﹁国法論は国家国民讐方の権と義とを彙集して論す。﹂ とあり、国家と国民との権能ないし権利および義務を集め分類して論ずるのが国法論であるとしている。
東洋法学 四〇三
津田真道の法理論について 四〇四 それでは国家とはなにか。﹁許多の人一箇の境域中に住し其公益を長じ衆利を増す為に共に一主長を戴き其権威に 服従する者あり、之を称して国と云ふ。而して主長は定立の条例に従ひ闇国民の全力を使用する権柄を操る﹂とあっ て、国家とは一定の地域のもとにおいて、公共の利益を増進するために、法にもとづいて政治を行う主長とそれに服 従する国民とによって成り立つものであり、またその国家は人間集団のなかで最大にして最も完備しているものであ り、その特徴としては、民族を構成単位とし、国境によって制限された土地を有し、全国家全国民の利益を最大の眼 目として、永続性と、自立自治の権能をもち、主権すなわ君権がすべての臣民を支配するものであるとしている。こ うして﹁立国の本意は散乱したる民力を統合し其条理を正し政令を理め国益民福を増加するに在り。﹂と述べており、 まさにフィッセリングの功利主義的国家観にもとづいて、国家は全国民の利益を増進するためのものであるとしてい る。したがって﹁若夫国を成ざれば人民相済養する道無し、故に其原は人間必要にして須奥も欠く可らざるに在るな り。﹂かくて国家は人問の共同生活にとって必要にして欠くべからざるものとなるのである。 それでは、国家を規整していく法律にはどのようなものがあるか。法律には国法︵公法︶と民法︵私法︶とがあり、 ﹁国法、列国公法︵国際公法︶と異なり、混ず可らず。列国公法は自立の諸国交際の誼を定む。国外の事なり。国法 は国内律法の可否政令の善悪等を論ず、国内の事なり。﹂﹁国法亦民法と異なり。民法又私法と称す。民人日用往来の 私権私義を論ず、民の私事なり。国法は国家国民讐方の公権公義を論ず、国の公事なり、故に国法又国内公法と称 す。﹂﹁方今文明の諸国に於ては刑法を国法論内の一分として之を論ず。﹂このように国法と民法とを明確に区別し、 国法としては、﹁根本律法﹂︵憲法︶﹁経編律法﹂︵行政法︶﹁刑法及び治罪法﹂﹁税法﹂﹁雑法﹂などを挙げている。ま
た国法の関渉する分野としては、制法︵立法︶、治道︵国民の権利を保障して国内秩序を保ち民利を増進する︶、政令 ︵行政縫法律や国政の執行︶、理財︵財政︶などを挙げている。こうして﹁泰西国法論﹂においては、主として国法 ︵公法︶について述べられることになる。 次には﹁国の主権﹂について論じているが、﹁本国に代り本国の名を称し其臣民及び他邦列国に対して事を行ふ権 位あるべし。﹂﹁通国の大権位は他一切小権位︵国内州郡都邑︶の本原なるを以て一箇の特称を設けて之を別ち、之を 称して主権と云ひ、此主権を操る人を君主と云ふ。﹂と述べ、この主権の作用を三つに分け、﹁第一 政治の大典及 ひ国家品序の総律法を制す︵制法︶。﹂﹁第二 右の大典律法を頒布し内外国事を総て障なく執行ふ︵政令、理財︶。﹂ ﹁第三 国内の品序を正し人々の権利を保護す︵司法、治道︶。﹂・とし、さらに﹁右主権作用の三向に従て国権を別て 三権とし之を制法・行法・司法の三権と云ふ。毎権作用の分界判然として素る可らず﹂と述べ、それぞれの区別につ いては、﹁第一 制法の権は律法を制定す。 第二 行法の権は律法を施行す。第三 司法の権は律法に従ひ権利を保 護す﹂とし、﹁国制政治共に品序正しく条理素れざるを緊要とす。是を以て制法・政令・司法の三体屹然として特立 し互に其領分を侵ざるを要す。﹂﹁右一主権の三作用互に均勢の状を為し彼此相控制して其偏重を防く。此は是国の平 安を護り且予以て暴君の虐政を防く至良法なり。﹂と説明して、三権の独立性および相互の抑制と均衡について述べ ている。また﹁制法・政令の二体は恒に互に和熟して其力を鐵すべし。﹂﹁司法は右の二体と屹然として別れ、自立し て他顧せず只管律例に準拠して裁断を為す可し。﹂としており、立法権と行政権との密接な関係および司法権の独立 性を説明している。そしてさらに、三権のそれぞれについて詳細な説明が行われており、このように、三権分立制の
東洋法学 四〇五
津田真道の法理論について 四〇六 理論が理路整然と展開されている。 第二巻︵﹁国家井に其国の住民讐方の権義﹂︶においては、まず最初に国民とはなにかについてきわめて詳細に説明 し、次にその国民が国家に対して有する権利について述べ、﹁住民の国家に対して有する所の通権は、第一に国家に 要するに立国の本意を達するを以てするなり。国家宜しく其経理する所の資用を以て総国の幸福を増益し、勉て其自 立を保ち国民の権利平安を護り国中の礼序を正し衆力を統合し相済相養の道を長して以て国益を増殖す可し。﹂とし て、前述の功利主義的国家観にもとづいて、国民の権利を保護することによって、立国の本意が達成されるとしてい る。したがって、﹁住民の本権は国家の律法に掲記して之を保護﹂しなければならず、﹁根本律法即国憲︵堂思法︶に住 民本権の大綱を明記確定す。﹂として、国民の国家に対して有する十二の権利を列記している。﹁第一 自身自主の 権﹂︵﹁明に人を逮捕し蜂に人を獄に繋ぐを禁ず﹂︶﹁第二 住居を犯す可らざる権﹂︵﹁主人の意に戻りては他人絶て其 家に侵入す可らざるを云ふ。﹂︶﹁第三 行事自在の権﹂︵﹁人民の往来交通等百事其意に任せて障無きを云ふ。﹂︶﹁第四 建社会合の権﹂︵﹁数人会社を結び衆力を合し銭本を湊め、一人の力にて為し能ざる事業を興立し共同の本意を達する 権﹂および角多人一地に合同して或は歓楽を同くし或は其共益を謀り或は其衆利を経理する権﹂︶﹁第五 思二言・書 自在の権﹂︵思想・言論・表現の権利︶﹁第六 任意に法教を信し法礼を行ふ権﹂︵信仰の自由︶﹁第七 書礼の秘密を 敬重せしむる権﹂︵親書の秘密︶﹁第八 其所有の物を自在にする権﹂︵所有権不可侵︶﹁第九 律法の上には万人同一 なる権﹂︵法の下の平等︶﹁第十 租税の課率家産の貧富に準ずるを要する権﹂﹁第十一 請願の権﹂︵﹁住民の国家に 対して有する所の諸権を防護する所の道﹂︶﹁第十二 国家と結びたる私約を国家に信守せしむる権﹂などである。だ
がそれぞれの権利は絶対的なものではなく、公共の利益によって制限せられることをも述べている。 次には﹁国民の公権﹂について述べているが、﹁純然たる無限君主の国に非る外は、諸国共に概するに国民国事に 関係し政事の方向を定む。﹂﹁斯る民権を其公権と称す。﹂として、参政権について説明しているが、その参政権とし ては、代議制のもとにおける選挙権と被選挙権とを挙げている。また選挙制度として普通平等選挙制および制限選挙 制について述べ、また、﹁代民議事は闊国全民に代り論議する職なれば、其議論宜しく恒に闘国全民の衆利公益を本 旨とし、絶て某品位︵身分︶某産業又某人の私利私益を防護す可らず。﹂として、代議制の本旨を力説している。さ らに参政権として、﹁官職に任せられる可き権﹂を挙げ、﹁一切国人皆平等に之を有す。﹂とし、﹁官に居るに尤も須要 とする所は、其人能く其職に称ふ才能を有するなり。﹂と述べて、官職にはそれにふさわしい才能が必要であると説 明し、官職に任ぜられるのはみな平等であるが、それには一定の才能をもつことが必要であるというのである。 これまでは国民の国家に対する権利について述べているのであるが、次には国家に対して国民の務めるべき義務を 述べている。第一の義務としては、﹁法律を敬守し君主及頭長其管内に施せる命令に服従する﹂義務を挙げている。 だが、この義務は﹁奴隷の如く君主頭長の命と云は惟命是奉す可しと謂ふに非ず。﹂したがって﹁若夫君主親ら万機 を操りて只管一人の私欲私情に任せ神に事る等、人民の正権を踏籍し暴政下を虐し社穫を珍滅に浜け、外国の兵威を 仮りて本国臣民の正義を圧し或は殊更に国を外敵に売るに至れば、王命を拒て従ざるを以て却て本国正民の正義とす るなり。﹂そして遂には﹁百方術尽き絶て彼不正を拒み我正を守るに由無きに至れば、暴を以て暴を拒む術を試ずん ぼある可らず。﹂と述べて、最終的には抵抗権までも是認している。
東洋法学
四〇七津田真道の法理論について 四〇八 第二の義務としては、﹁国家其本意を達する為に須要の費用を助る﹂義務について説明しており、その﹁国家須要 の費用二あり、甲 人力を役す 乙 貨物を用ふ﹂として、甲乙の﹁費用﹂を負担する義務について述べているが、 この義務の主要なものとしては、裁判において証人となるべき義務、内外の変乱に対して国家を助ける義務、納税の 義務、公益のために所有権を制約される義務などがあるとしている。 第三巻︵﹁諸種の政体﹂︶においては、政体論が述べられており、﹁政体は政治の体裁にして西人之を国貌と称す、 蓋政治の体裁異なるに従て国家の外貌互に異なればなり。﹂と述べ、その政体をまず二つに分類して、﹁甲 多頭政治 又多主の国と称す 乙 一頭政治又君主の国と称す﹂としている。﹁多頭政治の国とは、国家の大権即主権一人の手 に在ずして闊国全民或は某品位某種族に在り、或は惟其名のみ闘国全民某品位其種族に在る国を云ふ。﹂と述べ、こ の﹁多頭政治﹂をさらに二つに分類して、﹁甲 平民政治又民主の国と称す 乙 豪族政治﹂としている。また﹁一 頭政治とは国家の大権即主権を惟一人の手に握り、其三方向即制法・政令・司法を惟一人にて摂行する政体を云ふ。﹂ と述べ、この﹁一頭政治﹂を分類する方法として二つを挙げ、第一は﹁君主即位の権を得る状情に従て之を区別﹂し て、﹁甲 推挙 乙 継統﹂と二つに分けている。﹁推挙﹂は推挙もしくは選挙によって君主を定め、﹁継統﹂とは子 孫に継承させる場合をいう。また第二の方法は﹁君主君権を操持する状情に従て之を区別﹂するのであり、この場合 を三つに分類して、﹁君威無量の国﹂﹁無限君主の国﹂﹁有限君主の国﹂としている。 このように政体を分類して、それぞれについて詳細な説明を加えているが、なかで最も高く評価されているのは、 ﹁有限君主の国﹂である。﹁有限一頭政治の政体は諸般国制の善所を択取し、且各種の政体に同有の弊害を殆皆菱除し
て残す所寡し。﹂﹁有限君主の国体、平民政治の所長を取て大に国民自立自主の心を長し其気力を壮にし、豪族政治の 佳所謀慮遠く才智深きと、又一頭政治固有の国力強き所を兼ぬ。国力の強きは国事一君主に総摂して国力統一するに 由るなり。﹂﹁政道常なく朝暮に変換し易きは民政の弊なの、規模局少にして平民の賢才を登庸せず鍾室の私利を営む は豪族政治の弊なり、国の動乱を起し大変を来すは無限君主の弊なり。此数弊の予防周密なるは有限君主の国制な り。﹂と説いて、他の政体と比較して、﹁有限君主の国﹂すなわち制限君主制を最大限に高く評価している。この他、 ﹁籍土の制﹂︵封建制︶、﹁盟邦及び合邦﹂および﹁国内の区別﹂︵地方制度︶などについても論及している。 最後の第四巻︵﹁見今定律国法の大旨﹂︶においては当定律国法﹂および﹁根本律法﹂すなわち憲法について述べて いるが、まず﹁定律の国法とは、国家の由て以て制度法令を定むる所の条規条例を総摂して之を言ふなり。﹂といい、 ﹁定律国法﹂はすべての国家の法を包含するものであり、したがって﹁右の条規条例は概するに根本律法中に集記 す。﹂として、﹁根本律法﹂すなわち憲法にはすべての法令の基本が集中的に記載されていると説明して、﹁根本律法 は国家至高の律法にて又之を国綱或は朝憲或は国制又単に制度と称す。他一切律法の本原なり。﹂と説き、憲法が国 家における最高にして根本的な法であるとしている。そしてこのような憲法は近代以降、イギリス、フランスなどの 文明国において成立したものであるとも述べている。 それでは﹁根本律法﹂すなわち憲法はどのような内容のものであるか。﹁根本律法は惟国制の大綱領を掲ぐる耳。 其詳細なるは各箇の律法即所謂経論律法中に具載す。﹂と述べ、その内容としては、﹁根本律法の所載を別ちて二大綱 と為す可し。甲 国家住民彼此権義の定規 乙 国制即建国の法制﹂としており、憲法の規定する内容として、国民 東 洋法 学 四〇九
津田真道の法理論について 四一〇 の権利義務および国家の統治機構の二つを挙げているが、これはまさに近代憲法の基本的原則を明確に示していると いうべぎである。 こうして次には、国民の権利義務および統治機構のそれぞれについて述べているが、まず憲法の規定すべき国民の 権利義務の内容としては、﹁第一 国家に対して住民有する所の諸権。第二 国民の公権、即所謂都人士権。第三 国家に対して住民の務む可き義。﹂を挙げている。統治機構については詳細な説明が行われており、﹁根本律法中の尤 多く尤詳なる条款は、国の制度を定むる所の条目なり。﹂としている。 統治機構の規定について、﹁第一に記載す可きは政体の定議にして﹂﹁次に国家の主権を操持する人を定め、次に其 三方向制法・政令・司法の権を執行する法を定むべし。﹂として、政体、主権者、三権分立制の順序にしたがって規 定すべぎことを述べている。またさらに、﹁政令︵行政︶理財︵財政︶の綱領及国家の特に心を用ふ可ぎ国事は亦根 本律法の定む可き所なり。﹂として、その項目として、﹁第一 通国政令の制︵行政制度︶第二 州邑政令の制︵地 方制度︶ 第三 収納出費貨幣及び国債の制︵財政制度︶ 第四 法教︵宗教︶学校済貧産業水利道路橋梁兼摂地方等 重大事件須要の定則﹂などを挙げている。こうして憲法が規定すべき主要な統治機構として、三方向︵三権分立制︶、 代民総会︵議会制︶、宰相︵内閣制︶、財政制度、会計局︵会計検査院︶などの制度について説明を行っているが、な かでも議会制について非常に注目しており、﹁見今定律国法の要旨は、国内に威権の平均を調べて威権を操る者の威 福を張るを防ぎ、人々自主の業及ひ其諸権を保全し、井に国家の公益を保護するに在り。﹂﹁定律の国法に於て右の要 旨を達するが為に殊に緊要とするは、国家の頭主たる政府に平列して代民総会を立て、制法の権を別ち政令を監視せ
しむるなり。﹂と述べて、議会制の重要性を強調しているのは高く評価することができる。 以上、﹁泰西国法論﹂の本論について、その概要を述べてぎたのであるが、この概要からも明らかなように、それ はフィッセリングの自由主義的功利主義的国家観を基礎として、制限君主制を高く評価し、主としてその政体のもと における近代憲法の基本問題としての国民の権利義務および統治機構ー特に三権分立制iを中心として、そこにおけ る国法について概論したものということができる。 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶
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以下の﹁泰西国法論﹂からの引用は、前掲の﹁明治文化全集﹂ 二二巻 法律篇 七〇ー一〇四頁 によっている。 麻生義輝 前掲 七六頁 および 大久保利謙 ﹁幕末の和蘭留学生﹂ 前掲 九七頁 参照。 て﹂ 前掲 一七一ー一八○頁 参照。 が此数言を国法論の巻首に置く由縁也。﹂とある。﹁泰西法学要領﹂の詳細については、大久保利謙﹁津田真道の著作につい る。﹁泰西法学要領﹂はその冒頭において、﹁本邦に於て泰西の法学を講する人尚稀なり、震を以て甚目を知る人少し、是余 この﹁凡例﹂は、訳稿本の﹁泰西法学要領﹂と題されているものとほとんど大差はないが、術語の訳が相当異なってい 以下の﹁性法略﹂からの引用は、前掲の﹁明治文化全集﹂コニ巻 法律篇 六ー一三頁 によっている。 麻生義輝 前掲 八○頁 参照。 渡辺与五郎前掲四九頁参照。 四 ﹁泰西国法論﹂ 東 洋法の
本
字論
は
、
前述のようにフィッセリングの講義の翻訳であり、 津田自身の法理論を述べたものでは 四二津田真道の法理論について 四一二 勿論ないが、﹁凡例﹂においては法学通論ともいうべきものを掲げており、ここには津田が学んだ﹁性法﹂を根拠と する近代法の基礎理論が説かれている。さらに本論では主として国法としての憲法が体系的に説明されており、した がってこの書物は、当時のβ本において西洋の国法についての学間を体系的に移入した最初の教科書であったのであ る。それ故、明治初年においては、福沢諭吉の﹁西洋事情﹂、西周の﹁万国公法﹂、加藤弘之の﹁立憲政体略﹂、神田 孝平の﹁性法略﹂などともに、一般に非常によく読まれ、また明治新政府の制度改革に与えた影響も非常に大きかっ ︵1︶ たといわれている。当時においては、新しい政治変革のもとで、官民ともにこのような法的知識を渇望していたので ある。 このように﹁泰西国法論﹂は官民ともに多大の影響を与えたのであるが、それのみならず、学問の世界においても ︵2︶ 多くの影響を与えたといわてれいる。たとえば、加藤の﹁立憲政体略﹂をみるとき、特にその﹁国民公私二権﹂は ﹁泰西国法論﹂における﹁国家に対して住民有する所の通権﹂および﹁国民の公権﹂ときわめて類似しており、﹁巧み ︵3︶ に焼直したもの﹂とさえいわれている。このことからも明らかなように、当時の日本においては﹁泰西国法論﹂は最 高の西洋法律書であったということができる。 また﹁泰西国法論﹂には種々な法律用語が翻訳されているが、従来の日本にはなかった言葉の移植であったから、 ζれらの翻訳は津田の苦心の作といってよく、この点において﹁泰西国法論﹂は後世の法律ないし法学に大きな貢献 を果たしたということができよう。勿論、津田のみならず、西、福沢、加藤、箕作麟祥など、多くの人びとが苦労し ︵4︶ ︵5︶ たところであるが、津田の訳した、公法、民法、私法、主権、人権、物権などはいまなお使用されている。
最後に、津田はこの﹁泰西国法論﹂を翻訳した後、その法理論にもとづいて、現実の政治において種々な主張を ︵6︶ しているのであるが、その主要なものにしては、慶応三年九月の﹁日本国総制度 関東領制度﹂、慶応四年閏四月の ︵7︶ ︵8︶ ﹁天皇陛下に上る書﹂および明治二年三月の﹁郡県議﹂などがあり、さらに後年、明治政府の官僚となってからは法 律の整備に尽力したことがあり、その法理論をただ理論としてのみ終わらせることなく、みずからも法の継受のため に努めたのであった。これらの問題については、いずれ別稿を期したいと考えている。 ︵1︶ ﹁明治文化全集﹂ 照。 ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ 加藤弘之 麻生義輝 穂積陳重 穂積陳重 津田道治 前掲 一三巻 法律篇 解題 一三頁 および 大久保利謙 ﹁幕末の和蘭留学生﹂ 前掲九七頁参 年︶三四九ー三五二頁 津田道治 照。 大久保利謙﹁津田真道⑳著作について﹂ ﹁立憲政体略﹂︵明治文化全集﹂ 顕本評論社 新版 一九五〇年 三巻 政治篇︶ 二四ー二六頁 参照。 前掲九四i一〇二頁参照。 前掲 一七〇頁 参照。 前掲 一八○頁 参照。 前掲 一一八⋮ごご二頁 尾佐竹猛 ﹁維新前に於ける憲法草案﹂ ︵﹁帝国学士院紀事﹂ 一巻二号 一九四二 および 大久保利謙 ﹁津田真道の著作について﹂ 前掲 一五二i一七一頁 参照。 前掲 一二九ーコ一三頁 および 大久保利謙 ﹁津田真道の著作について﹂ 前掲 一二一ー一二二頁 参 前掲 二二一−二一六頁参照。