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アクィナスにおける人間の知性的魂の見方 : 「境界」としての人間の知性的魂 利用統計を見る

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アクィナスにおける人間の知性的魂の見方 : 「境

界」としての人間の知性的魂

著者

辻内 宣博

雑誌名

白山哲学 : 東洋大学文学部紀要 哲学科篇

50

ページ

39-67

発行年

2016-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007933/

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はじめに 知性的魂は、一方では非物体的な実体であるけれども他方では身体の形相である限りにおいて、その限りでいわ ば物体的諸事物と非物体的諸事物との間の何らかの < 地平・境界 > のようなものだと言われるのであ る (( ( 。 これは、トマス ・ アクィナス︵ Thomas Aquinas, 1224/5-1274 ︶が考える﹁人間﹂という存在者の位置づけを端的に表 わしたものである。つまり、人間は、一方では天使という分離実体との共通点を持ち、他方では動植物といったこの 自然的世界の生物や諸事物との共通点を持つ、いわばアンビバレントな存在者だと認定されているのである。しかし このことは、もっと積極的に捉えるならば、自然的世界と超自然的世界との架け橋となっている存在者が﹁人間﹂と いう存在者なのだとも言えるだろ う (( ( 。   このように、アクィナスの哲学的/神学的世界観はこの自然的世界と超自然的世界とを通底する仕方で構築されて

アクィナスにおける人間の知性的魂の見方

 

──「境界」としての人間の知性的魂

 

 

 

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い る。 こ の こ と は、 ア ク ィ ナ ス の 思 想 の 跡 を 辿 っ て み る と、 例 え ば、 ﹁ 哲 学︵ philosophia ︶﹂ と﹁ 神 学︵ theologia ︶﹂ との関係や徳と恩寵との関 係、人間の幸福論などの様々な局面で認められるであろう。つまり、アクィナスという思 想 家 は、 単 な る ア リ ス ト テ レ ス 哲 学 の 教 条 的 哲 学 者 で も な け れ ば、 単 な る 聖 書 や 信 仰 の 狂 信 的 神 学 者 で も な い の だ。 彼は、緩やかな合理性の下に、自然的世界と超自然的世界とをひっくるめて一つの世界として捉え、そして、その世 界全体について、人間の理性によってなしうる限りでの説明を試みたと言えよう。だから、アクィナスという思想家 の魅力は、厳格な合理性に凝り固まった理性的な世界理解だけに依拠するのでもなく、また、カトリック信仰の教え をただ信じるだけの妄信的な世界理解だけに依拠するのでもなく、理性と信仰、哲学と神学との自律的な協調関係を その基礎においた点にあると言えるだろ う (( ( 。   しかしながら、本当にこんなことが可能なのだろうか?   本稿では、この疑問に答えるために、人間の知性的魂に ついてのアクィナスの分析を通して、自然的世界と超自然的世界とを通底する人間理解が、どのようにして理論的に また哲学的に可能になるとアクィナスが考えていたのかを明らかにする。その検討を踏まえた上で、アクィナスの説 明における問題点を抽出してみたい。   問題の出発点   ア ク ィ ナ ス は、 ﹃ 神 学 大 全 ﹄ 第 1 部 第 ₇₅問 題 と 第 ₇₆問 題 に お い て、 人 間 の 魂 の 本 質 に 関 わ る 議 論 を 行 っ て い る (( ( 。 し かしながら、第 ₇₅問題と第 ₇₆問題とでは、一見するところ、それぞれ相反する主張が行われているように見える。つ まり、第 ₇₅問題において主張されるテーゼは、 ﹁人間の魂は自体的に自存するもの︵ per se subsistens ︶である﹂とい うものだ。この主張の要点だけを取り出せば、人間の魂は、自分以外のどんなものにも依存することなく、ただそれ

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だ け で 存 在 す る こ と が で き る と い う 主 張 だ と 理 解 さ れ る。 他 方、 第 ₇₆問 題 に お い て 主 張 さ れ る テ ー ゼ は、 ﹁ 人 間 の 魂 は 人 間 身 体 の 形 相︵ for ma corporis hominis ︶ で あ る ﹂ と い う も の だ (( ( 。 こ の 主 張 も 要 点 だ け を 取 り 出 せ ば、 人 間 は 魂 と 身 体 と か ら で き て い る 複 合 体 で あ り、 魂 と い う 形 相 と 身 体 と い う 質 料 と の 合 一︵ unio ︶ に よ っ て 人 間 と い う 一 つ の 実 体 が 存 在 す る と い う 主 張 だ と 理 解 さ れ る。 し た が っ て、 ﹁ 人 間 の 知 性 的 魂 ﹂ は、 一 方 で は﹁ そ れ だ け で 存 在 す る も の だ ﹂ と 言 わ れ て い る に も か か わ ら ず、 他 方 で は、 ﹁ そ れ と 身 体 と の 合 一 に よ っ て は じ め て 人 間 と い う 一 つ の 複 合 体 として存在するものだ﹂ 、つまり、 ﹁人間の魂はそれだけで存在するものではないのだ﹂と言われているように見える のである。ここに一つの大きな矛盾を見てとることができるだろ う (( ( 。   さて、以上のような一見したところ矛盾しているように思われる点に対して、アクィナス自身は無自覚だったので あろうか。もちろんそうしたことはない。次のような異論が提出されていることがその証左となるだろう。 『神学大全』 、第 1 部、第 76問題、第 1 項、第 5 異論 【大前提】 自体的に存在を持つようなものは、形相として身体と合一されることはない。 【 理 由 】 と い う の も、 形 相 と は、 そ れ に よ っ て 何 か が 存 在 す る と こ ろ の そ の 当 の も の の こ と で あ り、 ま た だ からこそ、 形相の存在そのものが、 それ自体として形相そのものに属するなどということはないからである。 【小前提】 ところで、知性的原理︹=知性的魂︺は自体的に存在を持つのであり、自存するものである。これは、 上述の通り︹第 1 部第 ₇₅問題第 2 項︺である。 【結論】 だから、知性的原理︹=知性的魂︺が形相として身体と合一されることはないのであ る (( ( 。

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この異論は、先の見かけ上の矛盾を先鋭化したものであると言えよう。ほとんど説明も要らないほど明白な推論であ るが、問題点を摘出する意味でも簡単に説明しておこう。   こ の 異 論 は 次 の よ う な 推 論 に な っ て い る。 ま ず 大 前 提 に お い て 形 相 の 定 義 が 確 認 さ れ て い る。 つ ま り、 ﹁ 形 相︵ for ma ︶﹂ と は、 そ の 最 も 基 本 的 な 性 格 を 取 り 出 す の で あ れ ば、 そ れ に よ っ て 形 相 そ の も の と は 別 の 何 か が 存 在 す る よ う になるところのもの、つまり、例えば﹁ソクラテスの青銅像﹂について考えてみると、単なる﹁青銅の塊﹂を﹁ ソク 4 ラテスの 4 4 4 4 青銅像﹂にするようなもののことである。だから、 ﹁ソクラテスの青銅像﹂の形相にあたる﹁ソクラテス像﹂ と 質 料 に あ た る﹁ 青 銅 の 塊 ﹂ と は、 ﹁ ソ ク ラ テ ス の 青 銅 像 ﹂ と い う 一 つ の 存 在 者 に 対 し て そ れ ぞ れ 別 個 に 存 在 す る も のであることはなく、むしろ反対に、形相と質料の両者が組み合わさって初めて一つの﹁存在者﹂を作り上げるので あ る。 だ か ら、 質 料 形 相 論︵ hylomorphism ︶ と い う 枠 組 み で 考 え る 以 上 は、 形 相 の 側 が も し そ れ だ け で 存 在 を 持 つ ようなものであるとすれば、それが質料と結びついて一つの存在者を構築するといったことはできないはずなのであ る。以上の主張が大前提のテーゼである。他方、 小前提では、 知性的魂そのものの本質的な在り方が確認されている。 つまり、文脈上は、この異論より前の問題である第 ₇₅問題第 2 項の帰結なのだが、知性的原理、つまり人間の魂はそ れ自体として自存するものだというテーゼが措定される。以上の大前提と小前提とを組み合わせると、その結論とし て、 知性的原理、 つまり人間の魂は、 それ自体として自存するものなのだから、 その質料に相当するはずの身体にとっ ての形相であることは、質料形相論にしたがう以上は不可能であるということが導かれることになるのである。した が っ て、 こ の 異 論 の 焦 点 は、 ﹁ 形 相 の 基 本 的 な 性 格 ﹂ と﹁ 人 間 の 魂 の 自 存 性 ﹂ と は 相 容 れ な い と い う こ と に あ る の で ある。   この異論は合理的に考えるのであれば至極当然な理解であろう。しかしながら、この異論に対するアクィナスの解

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答こそが、冒頭で確認したような超自然的世界と自然的世界の架け橋となりうる人間の魂の独自性を導く理論的支柱 とな る (( ( 。そこで、彼の解答を見てみよう。 『神学大全』 、第 1 部、第 76問題、第 1 項、第 5 異論解答 第 5 異論に対しては次のように言わなくてはならない。 魂は、 それにおいて自らが自存するその当の ﹁存在 ︵ esse ︶﹂ を物体的質料と共有するのであり、 そして、 この物体的質料と知性的魂とから一つのものになっているのである。 そ の 結 果、 複 合 体 全 体 に 備 わ っ て い る﹁ 存 在︵ esse ︶﹂ は ま た 魂 そ の も の に も 備 わ っ て い る の で あ る。 こ う し た こ と は 他 の 諸 形 相 に お い て は 生 じ な い の で あ る。 と い う の も、 他 の 諸 形 相 は 自 存 す る も の で は な い か ら で あ る。 そしてこのことを理由として、 人間の魂は身体が滅びても ﹁自己の存在 ︵ suum esse ︶﹂ において留まるのである。 しかしながら、他の諸形相の場合にはそうはいかないのであ る (( ( 。 見事な解答であ る ((1 ( 。つまり、人間の魂はそれ自体として﹁自己の存在﹂を持っている。これは第 ₇₅問題第 2 項で確定 さ れ た テ ー ゼ で あ る。 し か し な が ら、 人 間 の 魂 は 身 体 と 合 一 す る と い う﹁ 自 然 本 性︵ natura ︶﹂ を も 持 っ て お り、 そ の 自 然 本 性 の 実 現 が、 魂 の 持 つ 自 己 の﹁ 存 在︵ esse ︶﹂ を 身 体 と﹁ 共 有 す る︵ communicar e ︶ と い う 仕 方 で 成 し 遂 げ られているということだ。これは、確かに人間の魂の﹁自存性﹂と﹁形相性﹂とをうまく調和させる解答となってい ると言えるだろう。とはいえ、この解答は本当に﹁形相性﹂をも十全に保てることになるのであろうか。つまり、形 相の本来の性格は、質料と結びついて一つの複合体を存在者として成立させるものではなかったのか。こうした形相

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の規定は、裏を返すと、形相に相当するものが何かにとっての﹁形相﹂であるためには、その何かに相当する複合体 の存在にとってみれば、形相の存在はあくまで可能態にあるものでなければならず、やはりその形相に相当するもの がそれ自体として現実態において存在を持っているのだとすると、 これは不合理なこと、 ないしは﹁形相の規定違反﹂ を犯していることになるのではないか、 という疑問がどうしてもつきまとってしまう。そこで、 アクィナスの﹁形相﹂ についての理解を確認しておこう。   アクィナスにおける質料形相論   まずは、質料形相論の基本的な規定から確認しておこう。アクィナスが﹃自然学註解﹄第 2 巻でコメントしている 通 り、 質 料 と 形 相 と の 区 別 は、 説 明 規 定︵ ratio ︶ 上 の こ と で あ っ て、 実 在 的 世 界 に お け る 存 在 者 の 区 別 で は な い ((( ( 。 だ から、形相と質料という別々の存在が実在的世界において認められているのでも、また、存在原理の異なる形相と質 料 と の 混 合 物︵ mixtum ︶ と し て 実 在 的 世 界 に お け る 個 々 そ れ ぞ れ の 存 在 者 が 捉 え ら れ て い る の で も な く て、 む し ろ、 こ の 実 在 的 世 界 に 存 在 し て い る 存 在 者 に つ い て の 2 つ の 異 な る 観 点 か ら の 説 明 規 定 と し て、 質 料 形 相 論 と い う 分 析 ツールがあるにすぎないのである。したがって、質料と形相という区分は、あくまで説明規定上の、あるいは概念上 の区別なのであって、存在者として本来的に認められるのは、形相単体でも質料単体でもなく、形相と質料から成立 している一つの﹁複合体︵ compositum ︶﹂なのである。   また、こうした質料形相論の妥当する範囲についてもアクィナスは明確に規定している。つまり、物体的諸事物に しかこの質料形相論は当てはまらな い ((1 ( 。だから、知性実体や天使、神といった非物体的な存在者に関しては、質料形 相論による分析は適用できず、 可能態と現実態という別の分析ツールによって考察が行われるのである。だからこそ、

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知性実体や天使は、 本質︵ essentia ︶と存在︵ esse ︶との複合体なのであって形相と質料との複合体ではない し ((1 ( 、また、 神 は 純 粋 現 実 態︵ actus pur us ︶ な の で あ っ て ((1 ( 、 質 料 と 形 相 と い う 語 を 厳 密 に 適 用 す る な ら ば、 神 は 純 粋 形 相︵ for ma pura ︶であるはずがないのであ る ((1 ( 。   さて、以上のような理解に基づくと、物体的諸事物においてのみ質料と形相という説明規定は適用されるのである が、そもそも、この質料形相論という枠組みは、アリストテレスによれば物体的諸事物の変化一般を説明するための ものであったのだか ら ((1 ( 、アクィナスにおいても、この現実世界で生じる変化一般について整合的に説明できる理論組 みを維持しなければならないはずである。そこで、 この現実世界に存在する様々な変化を見てみた場合、 大別して﹁∼ になる/∼が生じる﹂という変化には 2 通りの生じ方があることが確認できる。一方は、例えば、葉っぱの色が緑か ら紅になるといった紅葉の変化のような意味での﹁∼になる/∼が生じる﹂である。つまり、この意味での﹁紅色に なる/紅色が生じる﹂は、もちろん、葉っぱそのものが実体として変化してしまうわけではなく、むしろ、葉っぱは それ自体として葉っぱのままでありながらも、葉っぱにたまたま付帯している﹁紅色﹂が生じるという変化なのであ る。この場合に、葉っぱを現実に紅色にするものとしての形相を規定することになるのであるが、こうした意味での 形 相 は﹁ 付 帯 的 形 相︵ for ma accidentalis ︶﹂ と 言 わ れ る。 他 方 は、 例 え ば、 人 間 が 生 ま れ る や 犬 が 生 ま れ る と い っ た 実体の生成変化という意味での﹁∼になる/∼が生じる﹂である。このタイプの変化は、もっぱら﹁∼が生じる﹂と いう用語が使われることになるのだが、それは、それ自体としては変わらない葉っぱを基に据えてその色の変化を考 え る の と は 異 な り、 そ の 変 化 の 基 に あ る も の︵ ﹁ 基 体︵ subiectum ︶﹂ と 言 わ れ る ︶ が 存 在 し な い よ う に 思 わ れ る か ら である。だから、人間が生じる︵生まれる︶場合や犬が生じる︵生まれる︶場合には、端的にそれがそれ自体として 存 在 す る よ う に な る。 こ の 場 合 に 形 相 に 相 当 す る も の は﹁ 実 体 的 形 相︵ for ma substantialis ︶﹂ と 言 わ れ る の だ が、 こ

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の場合の質料に相当するものを考えることができるのであろうか。この疑問に答えるためにも、前者の付帯的形相も 含めた﹃デ・アニマ註解﹄第 2 巻でのアクィナスの解説を見てみることにしよう。 さて、次のことを知っておかなくてはならない。付帯的形相と実体的形相との間の違いは次のことである。すな わち、付帯的形相が作り出すのは、端的な意味で現実態にある存在者ではなくて、むしろかくかくの性質でしか じかの量を持つような現実態にある存在者である。例えば、大きいものや白いものやその他こういった類のもの である。他方、実体的形相が作り出すのは端的な意味での現実態にある存在者である。したがって、付帯的形相 は、すでに現実態において存在している基体へと到来するのであるが、他方、実体的形相は、すでに現実態にお いて存在している基体へと到来するのではなく、むしろ、ただ可能態においてのみ存在しているもの、すなわち 第一質料へと到来するのであ る ((1 ( 。 このテクストから明らかなとおり、実体の生成変化であれ付帯性の変化であれ、いずれも質料形相論という理論的枠 組みに則る形で、付帯的形相と実体的形相による変化の端的な違いがきわめて明確に抽出されるのである。整理する と以下のようになる。 ︵a︶ 実体的形相 端的な意味で現実態にある存在者を作り出す      ⇒ ︻結びつく相手︼ ﹁第一質料︵ materia prima ︶﹂ ︵ただ可能態においてのみ存在するもの︶ ︵b︶ 付帯的形相 かくかくの性質・しかじかの性質を持つ現実態にある存在者を作り出す

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     ⇒ ︻結びつく相手︼ ﹁すでに現実態において存在している基体/存在者﹂ そうすると、確かに、生物の実体生成一般について言えば、形相に相当する魂は付帯的形相ではありえず、実体的形 相 に な る は ず で あ り、 そ し て、 そ の 実 体 的 形 相 の 結 び つ く 相 手 と し て の 身 体︵ corpus ︶ は、 概 念 的 に 分 析 す れ ば 第 一 質 料 に な る と い う こ と は 合 理 的 な 理 解 だ と 言 え よ う。 実 際、 こ の 点 か ら 考 え て み れ ば、 ﹁ 魂 と は 可 能 的 に︹ 可 能 態 に おいて︺生命をもつ自然的物体の、形相としての実体であ る ((1 ( ﹂というアリストテレスによる魂の一般的な規定ともう ま く 合 致 す る よ う に 思 え る。 も ち ろ ん、 ﹁ 可 能 態 に お い て 生 命 を 持 つ 自 然 的 物 体 ﹂ と い う 規 定 そ の も の は、 そ う し た 自然的物体が単体の存在者として取り出せるわけではなく、すでにその中にその可能態を現実化する魂の存在を含意 していることは明らかである。しかしながら、 それでもあえてそうした自然的物体を概念的に取り出してみるならば、 それはただ可能態においてしかないという性格しか付与されないような何か、すなわち、第一質料がそうした自然的 物体に相当するということになるであろう。   ﹃ 神 学 大 全 ﹄ 第 ₇₆問 題 第 1 項 で ア ク ィ ナ ス が 行 っ て い る﹁ 人 間 の 魂 は 身 体 の 形 相 で あ る ﹂ と い う テ ー ゼ の 証 明 は、 確かにこうした質料形相論を前提とした議論となっている。その証明の核となっているのは次のような推論である。 『神学大全』 、第 1 部、第 76問題、第 1 項、主文 【 大 前 提 】 そ れ に よ っ て 何 か が 第 一 に は た ら く と こ ろ の そ の 当 の も の が、 は た ら き が そ れ に 帰 属 さ れ る と こ ろ の その当のものの形相である。

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【 具 体 例 】 そ れ に よ っ て 身 体 が 健 康 に な る と こ ろ の そ の 当 の も の は 健 康 で あ り、 そ れ に よ っ て 魂 が 知 識 を 持 つところのその当のものは知識であり、このことから、健康は身体の形相であり、知識は魂の形相であると いったようにである。 【 理 由 】 そ し て こ の こ と の 理 由 は、 ど ん な も の も そ れ が 現 実 態 に あ る 限 り で し か 活 動 し な い の で あ り、 こ の ことから、それによって何かが現実態にあるところのその当のものによって、その何かが活動するからであ る。 【 小 前 提 】 と こ ろ が、 そ れ に よ っ て 身 体 が 生 き て い る と こ ろ の 第 一 の も の と は 魂 で あ る と い う こ と は 明 ら か で あ る。また、生きていることは生物の様々な段階における様々に異なったはたらきに応じて明らかにされるのだか ら、 それによってこれらの生きていることの営みのあらゆるはたらきを私たちが行うその当のものとは魂である。 【 理 由 】 な ぜ な ら ば、 魂 と は、 そ れ に よ っ て 私 た ち が 栄 養 を 取 り、 私 た ち が 感 覚 知 覚 し、 場 所 的 に 動 く と こ ろの第一のものだからである。そして、同様にして、魂とはそれによって第一に私たちが知性認識するとこ ろのものでもあるのだ。 【 結 論 】 だ か ら、 そ れ に よ っ て 第 一 に 私 た ち が 知 性 認 識 す る と こ ろ の こ の 原 理 は、 そ れ が 知 性 と 呼 ば れ る の で あ れ知性的魂と呼ばれるのであれ、身体の形相なのであ る ((1 ( 。 この議論は、アクィナス自身が言っているように、アリストテレスの﹃魂について﹄第 2 巻第 2 章での議論に基づく も の で あ る (11 ( 。 こ こ で は ま ず 大 前 提 と し て、 形 相 の 規 定 が 与 え ら れ て い る。 具 体 例 か ら 明 ら か な 通 り、 ﹁ 健 康 な 身 体 ﹂ にとって形相に相当するのは健康な身体を現実化している健康そのものであり、他方、その形相の質料に相当するの

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はその健康そのものの帰属先である身体である。このことは先の質料形相論の分析から明らかな通り、健康そのもの がそれ自体として存在しているわけではなく、健康の存在が認められるのはあくまで﹁健康な身体﹂においてである ということである。だから、大前提は、質料形相論の大原則の確認をしていると言えるだろう。   そして小前提では、生物と無生物との分岐点として﹁生きている﹂という厳然たる事実を掲げ、何らかの存在者が それによって生きるというはたらきを行うその当のものに相当するのが魂であることを確認する。そして、何かが生 きているということの証左は、様々な活動やはたらきを通して認められることになる。その代表的な活動が、栄養摂 取活動であり、感覚知覚活動であり、知性認識活動なのだ。だから、結論として、それによって知性認識活動を行う ようなその当の知性的魂は、その帰属先である人間身体の形相であるということが導き出されるのである。   したがって、この議論そのものには、知性的魂が持つ﹁それ自体として自存する﹂という性格は一切考慮に入れる 必要はないのであり、また、この性格を考慮に入れてしまうと、大前提が崩壊する危険性があることは容易に理解で きるだろう。つまり、もし﹁それ自体として自存する﹂という性格を全面に押し出すのであれば、知性認識活動を行 う根拠、原理となっている知性的魂がその帰属先として身体を選択する必要がなくなってしまう。実際、分離実体や 天使、神に対して、質料や身体の存在を認めていないのである。だから、ここでの知性認識活動によって意図されて い る の は、 人 間 の 4 4 4 知 性 認 識 活 動、 す な わ ち、 人 間 の 身 体 器 官 を 必 要 と す る 表 象 内 容︵ phantasma ︶ か ら の 抽 象 作 用 と しての知性認識活動なのである。したがって、本来的には、この議論の中に、形相としての魂の存在論は入ってこな いはずなのである。   ところが、アクィナスの﹃デ・アニマ註解﹄第 2 巻での解説を見てみると、小前提において提示された﹁生きてい ることは生物の様々な段階における様々に異なったはたらきに応じて明らかにされる﹂というテーゼの中に、アクィ

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ナスが自らの存在論的ヒエラルキーを導入していることをわれわれは見て取ることができる。そして、そこでの導入 根拠は、 生物がはたらきを行うのはその生物が存在者である限りにおいてなのだから、 その生物の持つ﹁存在︵ esse ︶﹂ の分析を必要とするということである。その分析結果をまとまると次のようなものにな る (1( ( 。 ︵ 1 ︶ 質料的存在( esse materiale )栄養摂取的魂︵ anima vegetativa ︶      質料あり+質料的諸条件+身体器官、内的原理︵ principium intrinsecum ︶ ︵ 2 ︶ 中間的存在( esse medium )感覚的魂︵ anima sensitiva ︶      質料なし+質料的諸条件+身体器官、可感的︵ sensibile ︶ ︵ 3 ︶ 非質料的存在( esse immateriale )知性的魂︵ anima intellectiva ︶      質料なし+質料的諸条件なし+身体器官なし、可知的︵ intelligibile ︶ こうした三分類自体はそれほど目新しいことではない。しかしながら、 3 つにタイプ分けされたはたらきと、それぞ れ の は た ら き を 行 う 作 用 者 の 持 つ﹁ 存 在︵ esse ︶﹂ の 区 分 と を 明 示 的 に 対 応 さ せ る と い う こ と は、 ア ク ィ ナ ス に 特 有 の考え方だと言えるだろう。その証拠に、この分析は註解というスタイルの書物の中で行われてはいるけれども、そ の文脈はアクィナス自身が問題を設定して解答するというものであって、アリストテレスのテクストの註解そのもの ではないのである。   こ う し て、 ﹁ は た ら き︵ operatio ︶﹂ と﹁ 存 在︵ esse ︶﹂ と を 厳 密 に 対 応 さ せ る と い う ア ク ィ ナ ス 独 自 の 理 解 を 生 み 出 し、その結果、やはり、質料形相論の厳密な理解には収まらないような形相理解が生まれることになるのである。そ

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れ が 典 型 的 に 現 れ る の が 人 間 の 魂 の 存 在 論 な の で あ り、 そ の 予 兆 が 先 の 分 類 の︵ 3 ︶ 完 全 に 非 質 料 的 な 存 在︵ esse penitus immateriale ︶ に 現 れ て い る の で あ る。 そ れ は、 人 間 身 体 の 形 相 と し て の 知 性 的 魂 と い う 観 点 と 矛 盾 す る よ う に思われる人間の魂の性格づけ、 すなわち、 ﹁それ自体として自存する﹂という側面なのである。さらには、 このテー ゼを基にして、 ﹁人間の魂の不滅性﹂の証明にまで至ることになる。そこで、今度は、 ﹁人間の魂はそれ自体として自 存するものである﹂というテーゼの分析に移ろう。   それ自体として自存し不滅である人間の魂   さて、 ﹁それ自体として自存する︵ per se subsistens ︶﹂という人間の魂の性格づけは、 ﹃神学大全﹄第 ₇₅問題第 2 項 において行われている。この箇所での論証は 2 段構えになっており、 前半部において﹁知性は物体ではない﹂ 、つまり、 ﹁知性は物体的な特徴を備えていない﹂ということが証明され、続く後半部において、 ﹁そうした知性は自存するもの である﹂ということが証明されている。それではまず、前半部の証明を簡単に見てみよう。 『神学大全』 、第 1 部、第 75問題、第 2 項、主文(前半部) 【大前提 1】 人間があらゆる物体の自然本性を認識することができるのは明らかである。 【 小 前 提 1】 と こ ろ で、 何 ら か の 事 柄 を 認 識 す る こ と が で き る も の は、 そ う し た 事 柄 の 持 つ ど ん な も の も そ の 自 然本性の中に抱えていないということは当然なことである。 【 理 由 】 と い う の も、 そ の も の に 内 在 し て い る で あ ろ う も の は 自 然 本 性 的 に 別 の も の に つ い て の 認 識 を 妨 げ

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ることになるだろうからである。 【 結 論 1】/ 大 前 提 2】 し た が っ て、 知 性 的 な 原 理 が 自 ら の 中 に 何 ら か の 物 体 の 自 然 本 性 を 有 し て い る と す る な らば、知性はあらゆる物体を認識するということができなくなってしまうであろう。 【小前提 2】 ところで、物体はすべて何か特定された自然本性を有している。 【結論 2】 したがって、知性的な原理が物体であるということは不可能なのであ る (11 ( 。 こ の 論 証 の 核 に な っ て い る の は、 ﹁ 知 性 は あ ら ゆ る も の を 認 識 す る こ と が で き る ﹂ と い う こ と で あ る。 つ ま り、 事 物 の認識は、その事物の自然本性を受け取ることによって成立するのだから、その自然本性の受け手となる知性の側に 何らかの特定の性質が備わっているとすれば、その特定の性質に関わるような事物の自然本性を受け取ることができ ないのである。だから、 そのような事物の自然本性を認識することができないということになってしまう。ところが、 知性が認識できないような事物の自然本性などないのだから、その前提、つまり、知性が何らかの特定の性質を備え ているということが間違っているということになる。その結果、知性は物体的な特質を全く備えていないということ が証明されることになるのである。   続いて、後半部の証明を見てみよう。 『神学大全』 、第 1 部、第 75問題、第 2 項、主文(後半部) 【大前提】 精神とか知性とか言われる知性的な原理そのものは、 物体がそれとは交わりを持たないようなそういっ

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た自体的なはたらきを持っているのである。 【 小 前 提 】 そ れ 自 体 と し て 自 存 し て い る も の で な け れ ば、 い か な る も の も 自 体 的 に は た ら く こ と は で き な い の で ある。 【理由】 なぜならば、 ﹁はたらくこと﹂は現実態にある存在者にしか備わっておらず、このことから、何かが はたらくのは、その何かが存在しているその在り方においてだからである。このことのために、私たちは熱 が熱くするとは言わず、むしろ熱いものが熱くすると言うのである。 【 結 論 】 し た が っ て、 知 性 と か 精 神 と 言 わ れ る 人 間 の 魂 は、 非 物 体 的 な 何 か で あ り ま た 自 存 す る 何 か で あ る と い うことが残るのであ る (11 ( 。 この論証の大前提は、先の前半部の論証における結論から必然的に導出されるものである。つまり、知性は物体的な 特質を備えていないのだから、物体との交わりを持たない知性それ自体としてのはたらきを行っているということで ある。続く小前提において、そのような自体的なはたらきをおこなうものはどういった存在形態を採っていなければ ならないかが確認される。つまり、それ自体としてのはたらきを行うものは、必ずそれ自体として自存していなけれ ばならないのである。だから、結論として、知性は自存する、つまり、人間の魂は自存するということになるのであ る。   以上の議論は、 結局のところ、 ﹁知性はあらゆる物体の自然本性を認識できる﹂という事実認定、 それに加えて、 ﹁物 体の認識とは物体の自然本性の受容である﹂という認識理論の枠組みに依拠するものだと言える。つまり、知性認識 という人間の認識活動はどのように特徴づけられるのかを観察した結果と、そもそも認識はどのようにして成立する

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の か と い う 構 造 の 問 題 な の で あ る。 そ う す る と、 ﹁ 知 性 は あ ら ゆ る 物 体 の 自 然 本 性 を 認 識 で き る ﹂ と い う 観 察 さ れ る 事 実 は 衆 目 の 一 致 す る と こ ろ で あ ろ う か ら、 問 題 と し て 考 察 に 値 す る の は、 ﹁ 物 体 の 認 識 と は 物 体 の 自 然 本 性 の 受 容 である﹂という認識理論の構造であることになろう。つまり、認識理論の構造として、自然本性の﹁受容﹂だけに強 調点を置いた説明ではなく、認識活動に寄与する能動的な側面をも受動的な側面と同等に組み込むような認識理論の 構造を採用する立場においては、この論拠は必然性を持たなくなるだろう。そうすると、結果的に出てくる﹁知性の 自存性﹂という帰結も成立しない可能性が出てくることになる。   さて、以上のような仕方で﹁知性の自存性﹂が確保された後、第 ₇₅問題第 6 項において﹁知性の不滅性﹂の論証が 行われている。もちろん、知性的魂︵人間の魂︶が自存するのであれば、知性的魂が身体から分離した︵=死︶とし ても、その後も知性的魂が存在し続けることはある意味で自明であるとも言えよう。とはいえ、アクィナスがこの項 において組み立てている論証の核心は、このある意味での自明性がどうして自明なのかを説明するものとなっている ので確認しておこう。 『神学大全』 、第 1 部、第 75問題、第 6 項、主文 【 大 前 提 】 そ れ 自 体 と し て 何 か に 適 合 し て い る と こ ろ の も の が、 そ の 何 か か ら 分 離 さ れ え な い も の で あ る と い う ことは明らかである。 【小前提 1】 ところで、存在は自体的に形相と合致する。 【 理 由 】 と い う の も、 形 相 は 現 実 態 で あ り、 し た が っ て、 形 相 を 獲 得 す る 限 り に お い て 質 料 は 現 実 態 に お け

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る存在を獲得するのだが、他方、形相が質料から分離される限りにおいて質料における消滅が生じるからで ある。 【小前提 2︼ところが、形相が自分自身から分離されるということは不可能である。 【結論】 したがって、自存する形相が存在するのを止めるということは不可能なのであ る (11 ( 。 以上の論証における要点は 2 つある。つまり、 ︵ 1 ︶﹁消滅とは形相と質料との分離である﹂ということ、 そして、 ︵ 2 ︶ ﹁ 自 体 的 に 自 存 す る も の が 自 分 自 身 か ら 分 離 さ れ る こ と は 原 理 的 に 不 可 能 で あ る ﹂ と い う こ と で あ る。 こ の 2 点 を 踏 まえると、自体的に自存するものである知性が自分自身から分離すること、つまり消滅することは不可能であるとい うことは明らかであろう。したがって、人間の魂の不可滅性が証明されたことになる。   以上の各部分の論証を一連の流れとして再度整理してみると、次のようなまとめをすることができる。 ◯ 知性はあらゆる物体の自然本性を認識することができる ◯ 知性認識とは、物体の自然本性・本質を受容することである ◯ 知性は自体的に自存するものである     ⇐ 知性はあらゆる物体の自然本性を受容できる ◯ 知性は不可滅である     ⇐ 消滅とは形相と質料の分離であり、知性は分離不可能

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  さて、このように整理してみると、問題の焦点は次のことに絞られてくる。すなわち、結局のところ、人間の存在 とは、 ︵a︶自存する存在である魂なのか、それとも、 ︵b︶魂と身体とが結びついた複合体なのか、という二者択一 である。もちろん、質料形相論の原則から言えば選択肢︵b︶を採用することになるはずである。他方で、知性認識 理 論 の 構 造 か ら す れ ば 選 択 肢︵ a ︶ を 採 用 す る こ と に な る で あ ろ う。 そ こ で、 ﹃ 神 学 大 全 ﹄ 第 1 部 第 ₇₆問 題 第 1 項 第 6 異論解答を見てみよう。 身体と合一されるということは魂にそれ自体として適合する。それはちょうど、上方にあるということが軽い物 体にそれ自体として適合するようにである。そして、軽い物体が固有の場所から離されてしまっても、しかしな がら、その軽い物体は固有の場所への適合性や傾向性を伴ったままで実際に軽いものであり続ける。これと同じ ように、人間の魂が身体から分離されてしまっても、人間の魂は身体との合一への自然本性的な適合性や傾向性 を伴ったままで自己の存在において留まっているのであ る (11 ( 。 この箇所で述べられていることは、基本的には人間の魂は自存するのであり、身体から離れても存在し続けるのだと いうことである。ただし、 人間の魂は自存しつつも、 身体との合一への﹁適合性︵ aptitudo ︶﹂や﹁傾向性︵ inclinatio ︶﹂ を失わないのである。だから、人間の魂は、形相として質料である身体と合一しようとし続けるのだと異論に対して 解答していることになる。もちろん、人間の魂の形相性を担保できるという意味では、異論への解答としてはこれで 充分なものだろうが、しかしながら、先の選択肢︵a︶と︵b︶のどちらを採用するのかという観点からこのテクス トを眺めてみた場合には、人間の魂の 形相性を担保できる 4 4 4 4 4 4 4 4 4 というだけでは、厳密な意味での形相として認定するには

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不十分だと言わざるをえない。つまり、このテクストが表明している立場は、むしろ、選択肢︵a︶を知性的魂の最 も本質的な在り方だと認めるテクストとして考えることもできるのである。なぜならば、 ﹁適合性﹂ や ﹁傾向性﹂ を持っ て い る と 言 う だ け で は、 ﹁ 人 間 の 魂 が 本 質 的 に 4 4 4 4 身 体 と 合 一 を す る と い う 属 性 を 持 つ ﹂ と い う こ と へ の 必 然 性 は 確 保 で きないからであ る (11 ( 。したがって、 もちろん﹁自存する人間の魂が自己の存在を身体と共有する﹂という理解によって、 選択肢 ︵a︶ と ︵b︶ の両方の側面を汲み取ろうとしているアクィナスの理論展開は非常に高く評価できるけれども、 しかしながら、実際上は、選択肢︵a︶を基本的立場としながら選択肢︵b︶をその基本的立場に組み込もうとして いると言わざるをえないのであ る (11 ( 。そうすると、選択肢︵a︶に収斂させる形で選択肢︵b︶を理解せざるをえない の だ か ら、 ﹁ 存 在 の 共 有︵ communicar e esse ︶﹂ と い う 理 論 的 テ ー ゼ を 組 む 込 む こ と に よ っ て、 ア ク ィ ナ ス は 質 料 形 相論の原則を変容させているということにならざるをえない。もちろん、こうした変容は人間存在の特殊性を勘案す れば積極的に高く評価できる変容だと言うこともできる。とはいえ、こうした﹁存在の共有﹂理論を組み込むことに よ っ て 成 立 し た ア ク ィ ナ ス の 心 身 関 係 の 理 解 は、 心 身 問 題 全 般 に 対 し て 有 効 な 解 決 法 で あ る と 言 え る の で あ ろ う か。 最後に、この問題点を指摘しておきたい。   心身問題に関する哲学的理論として   以 上 の よ う に、 ア ク ィ ナ ス の 心 身 問 題 に 対 す る 解 答 は、 ﹁ 存 在︵ esse ︶﹂ と い う 観 点 を 組 む 込 む こ と に よ っ て か な り 精 密 な も の に な っ た と 言 え る で あ ろ う。 し か し な が ら、 ﹁ 存 在︵ esse ︶﹂ と い う 別 項 目 を 立 て る こ と に よ っ て 実 質 的 に は質料形相論の変容をもたらしており、その結果、逆に新たな問題が提起されることにもなる。   例えば、次のような 2 つの問題点を指摘することができる。

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[ 1 ] ﹁存 在︵ esse ︶﹂ を 別 項 目 と し て 立 て た 場 合 に 、 動 植 物 ︵ さ ら に は 自 然 物 一 般 ︶ ま で 含 め た 統 一 理 論 を 構 築 で きるのか [ 2 ] 人 間 の 形 相 ・ 本 質 に 相 当 す る 知 性 的 魂 に ﹁ 存 在 ﹂ を 認 め る の だ と す る と 、﹁ 本 質 ﹂ と ﹁ 存 在 ﹂ の 区 別 が 曖 昧 に なるのではないか   [ 1 ] の 疑 問 に 関 し て 言 え ば、 こ れ ま で の 質 料 形 相 論 の 原 則 的 な 立 場 か ら す る と、 非 常 に 有 効 な 解 答 が 提 示 で き て いた。つまり、自然物であっても動植物であっても﹁質料と形相﹂と﹁可能態と現実態﹂という枠組みの下で、合理 的な統一理論を組み上げることができていた。例えば、喜びや悲しみという感情のような心と体の両方にその影響が 認められるような現象に対しても、その両者を統一的に組み込んで理解できる非常に有効な理論であると言えるだろ う (11 ( 。   ところが、アクィナスのように、人間の場合にはその﹁存在﹂の本来の在り処を﹁魂﹂に認め、他方で動物の場合 にはその﹁存在﹂を本来の在り処を﹁身体と魂の複合体﹂に認めるのだとすると、例えばこうした感情に対する説明 において、質料形相論の良さが人間の場合には無くなってしまうように思われる。つまり、喜びや悲しみを感じたと きには、自然と顔が緩んだり強張ったりするということは日常的なことである。そして、こうした事態を質料形相論 は非常に明快に説明してくれる。しかしながら、アクィナスの人間理解に従うと、魂が受け取った感情は、魂自身が もつ存在に受けとられ、その後でその存在が共有される質料としての身体に反映されるといった、いわば 2 段階の説 明原理になるはずである。つまり、魂と身体とが合一しているとはいえ、どこかでその合一を魂と身体との分離可能 性を孕んだ仕方で理解することになり、合一の度合いが原理的に弱まってしまうのである。

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  そうすると、結果的に、犬の感じる痛みと人間の感じる痛みの生成プロセスが原理的に異なるのだから、動物の心 身関係の理解と人間の心身関係の理解とは原理的に異なることになるであろう。そして、もしこれを認めるのだとす る と、 ﹁ 人 間 は 理 性 的 動 物 で あ る ﹂ と い う 人 間 の 基 本 的 な 定 義 に お い て、 犬 や 猫 と も 共 通 す る も の と し て 理 解 さ れ る はずの、類としての﹁動物﹂とはいったいどういう意味なのかについて、再定義する必要が出てくるであろう。ある いは、下手をすると人間はそもそも﹁動物﹂ではないということにもなりかねない。これが一つ目の問題点である。   他方、 [ 2 ]の疑問に関して言えば、 結局のところ、 人間の魂がそれ自体として自存することができるのだとすると、 たとえ魂が身体との合一への﹁適合性﹂や﹁傾向性﹂を自然本性として有しているのだとしても、それらはあくまで ﹁自然本性﹂ 、つまり、生まれながらに持っているある種の性質にすぎず、人間の魂の最も﹁本質的﹂な在り方とまで は言えないはずである。なぜならば、知性的魂の最も﹁本質的﹂な在り方とは、あくまでそれ自体で存在することで あ る は ず だ か ら で あ る。 つ ま り、 ﹁ 自 然 本 性 と し て ﹂ と い う 概 念 と﹁ 本 質 と し て ﹂ と い う 概 念 と の 間 に は、 も ち ろ ん その意味内実として重なるところが多いとはいえ、 正確には概念的にその意味の内包は異なるのである。したがって、 人 間 の 心 身 合 一 は あ く ま で﹁ 自 然 本 性 的 ﹂ な こ と で あ っ て、 ﹁ 本 質 的 ﹂ な こ と で は な い と い う こ と に な り、 ア ク ィ ナ スの言う意味での心身合一の﹁自然本性﹂としての繋がりは、質料形相論の言う意味での心身合一の﹁本質﹂として の繋がりと完全に同一視することはできないのである。   もちろん、アクィナスは、人間の魂と天使との境界線を﹁知性認識活動における身体的要素の必要性﹂に引いてお り、 認 識 活 動 の 違 い と 存 在 の 違 い と を 対 応 さ せ て 理 解 し て い る 以 上、 ﹁ 人 間 の 魂 が 身 体 と 合 一 す る こ と は 必 然 だ ﹂ と 言 わ な け れ ば な ら な い こ と は 理 解 で き る。 し か し な が ら、 ﹁ 自 存 し 不 可 滅 で あ る 存 在 者 が 何 か と 合 一 す る ﹂ と い う こ と は 原 理 的 な 必 然 性 を 要 求 し な い。 だ か ら こ そ、 ﹁ 人 間 と は 何 な の か ﹂ と い う こ と の 理 解 が ぶ れ て し ま い、 ぼ や け る

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ことになりはしないか。これが、二つ目の問題点である。   も ち ろ ん、 以 上 の よ う な 問 題 に 対 し て、 ア ク ィ ナ ス 研 究 者 か ら さ ら な る 応 答 が 提 示 さ れ る 可 能 性 は あ る け れ ど も、 現時点ではいまだその解答は見当たらな い (11 ( 。とはいえ、このような問題点はそれ以上問うことのできない哲学的問題 であったかといえば、もちろんそうではない。アクィナスよりも後の時代を生きた哲学者たちは、質料形相論の理論 的な整合性や厳密性を維持する形で、自身の議論を展開していくことになる。そのうちの一人は、 ₁₄世紀の代表的な 神学者であるオッカムのウィリアム︵ W illiam of Ockham, c.1287-1347 ︶であり、もう一人は、 ₁₄世紀パリ大学の学芸 学 部 の 教 師 で あ る ビ ュ リ ダ ン︵ Johannes Buridanus, c.1300-1362 ︶ で あ る。 ご く 簡 単 に ま と め て し ま え ば、 オ ッ カ ム の立場は、 ﹁知性的魂の自存性﹂を必然的な帰結として認め、 ﹁知性的魂の形相性﹂については論証不可能だとする見 解を出すことにな り (11 ( 、 他方、 ビュリダンの立場は、 ﹁知性的魂の形相性﹂を論証による必然的な帰結として認めたので、 ﹁ 知 性 的 魂 の 自 存 性 ﹂ に つ い て は 認 め な い か の よ う な 立 場 を 採 る こ と に な っ た (1( ( 。 つ ま り、 哲 学 的 な 問 題 と は、 歴 史 的 な文脈や流れの中で受け継がれながら、さまざまな形で応答されていったということなのである。 参考文献 ■ 1 次文献原典 ST A QUINAS . Petri Caramello. 1952.

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︵ 4 ︶  第 1 部 第 ₇₅問 題 ∼ 第 ₈₉問 題 ま で の 最 も 大 枠 の 位 置 づ け は、 第 ₇₅問 題 の 序 文 に お い て な さ れ て い る。 そ の 区 分 け は、 デ ィ オ ニ シ ウ ス に基づいて提出される霊的な実体が持つ 3 つの項目にしたがって行われている。つまり、 第 ₇₅問題と第 ₇₆問題が ﹁魂の本質 ︵ essentia ︶﹂ に つ い て の 考 察、 第 ₇₇問 題 ∼ 第 ₈₃問 題 が﹁ 魂 の 力︵ vir tus ︶・ 能 力︵ potentia ︶﹂ に つ い て の 考 察、 第 ₈₄問 題 ∼ 第 ₈₉問 題 が﹁ 魂 の は た ら き︵ operatio ︶﹂についての考察に充てられている。 ︵ 5 ︶  正 確 に は、 第 ₇₆問 題 で は ほ ぼ 一 貫 し て﹁ 知 性 的 原 理︵ principium intellectivum ︶﹂ と い う 表 現 が 用 い ら れ て い る。 そ し て、 こ の﹁ 知 性的原理﹂は、 第 ₇₇問題、 ないしは第 ₇₉問題に至って、 人間の知性的魂と同定されることになる︵ cf. [ Pasnau 2002a ] , p.240 ︶。したがっ て、 ア ク ィ ナ ス の 本 来 の 議 論 線 か ら す る と、 こ の 両 者 の 同 定 に は い く つ か の 議 論 を 経 る 必 要 が あ る の だ が、 い ま は 論 点 を 明 確 に す る ために、 ﹁知性的原理﹂を﹁人間の魂﹂と同定して議論を進めていくことにする。 ︵ 6 ︶  [ 川 添 1983 ] に お い て、 非 常 に 丁 寧 に こ の 問 題 点 が 整 理 さ れ 分 析 さ れ て い る。 ま た、 こ の 問 題 は、 い わ ゆ る﹁ 知 性 単 一 説 ﹂ の 論 争 の焦点となった論点でもある。アクィナスとブラバンティアのシゲルス︵ Siger us de Brabantia, c.1240-c.1284 ︶との間の論争について は、 [川添 1990 ][川添 1992 ][川添 1994 ]の三部作を参照。なお、この問題の研究に関しては、国際的に見ても、これ以上の成果を 上げることはできないであろうほどに詳細で秀逸な論考である。 ︵ 7 ︶  A QUINAS . ST , 1a, q.76, a.1, ar g.5: Praeter

ea, id quod per se habet esse, non unitur corpori ut for

ma: quia for

ma est quo aliquid est; et sic

ipsum esse for mae non est ipsius for mae secundum se. Sed intellectivum principium habet secundum se esse, et est subsistens, ut supra

dictum est. Non er

go unitur corpori ut for

ma.. ︵ 8 ︶  [川添 1983 ]、 および[川添 2009 ]の解説︵特に、 4 .4 アクィナスの立場︵ 2 ︶ │ 存在のコミュニケーション︶を参照。なお、 この 箇 所 で の﹁ 存 在 の 共 有︵ communicar e esse ︶﹂ を ア ク ィ ナ ス に お け る 心 身 問 題 の 核 に な る も の と し て 提 案 す る 研 究 は 国 際 的 に 見 て も 見 受 け ら れ な い。 し か し な が ら、 [ 川 添 1983 ] お よ び[ 川 添 2009 ] で 繰 り 返 し 指 摘 さ れ て い る と お り、 こ の﹁ 存 在 の 共 有 ﹂ の 次 元 に ま で 理 論 的 に 掘 り 下 げ な け れ ば、 ア ク ィ ナ ス の 心 身 問 題 に お け る 立 場 は 理 論 的 整 合 性 を 正 確 に は 保 て な い は ず で あ り、 逆 に 言 え ば、 この点を見過ごす形でアクィナスの理論を取り押さえる議論は、すべて不十分と言わざるをえないのである。 ︵ 9 ︶  A QUINAS . ST , 1a, q.76, a.1, ad 5: Ad quintum

dicendum quod anima illud esse in quo ipsa subsistit, communicat materiae corporali, ex

qua et anima intellectiva fit unum, ita quod illud esse quod est totius compositi, est etiam ipsius animae. Quod non accidit in

aliis for

mis,

quae non sunt subsistentes. Et pr

opter hoc anima humana r

emanet in suo esse, destr

ucto corpor

e: non autem aliae for

mae.; cf.

ScG

(28)

cap.68, 1451-1452. ︵ ₁₀︶   も ち ろ ん、 そ う は 思 わ な い 研 究 者 も い る。 [ Kenny 1993 ], p.150 ︵[ ケ ニ ー 1997 ], p.257 ; 訳 は 一 部 改 変 ︶ This answer quite fails to

meet the objection. Per

haps it can be r

ephrased so as to eliminate the suggestion of the pr

e-existence of the soul, which fits Platonism bet

-ter than Thomism. But it pr

esupposes the ver

y possibility which the objector denied, namely the possibility of

subsistent for ms ︵この解答 は 異 論 と か み 合 う こ と に ま っ た く も っ て 失 敗 し て い る。 恐 ら く こ の 解 答 は、 魂 の 先 在 と い う 提 言 を 排 除 す る た め に 言 い 換 え ら れ る こ と は で き る だ ろ う が、 こ の 魂 の 先 在 は ト ミ ズ ム よ り も よ り い っ そ う プ ラ ト ニ ズ ム と 適 合 す る も の な の で あ る。 し か し、 異 論 の 提 題 者 が否定しているまさにその可能性、つまり自存する形相の可能性こそをこの解答は前提としているのである︶ . ︵ ₁₁︶   A QUINAS . In Phys

., II, lect.2, 151: ... quae

[=

for

ma

] licet non separ

etur a materia secundum r

em, tamen dif

fer

t ab ea ratione. Sicut enim

aes et infiguratum, quamvis sint unum subiecto, tamen ratione dif

fer

unt, ita materia et for

ma. ︵ ₁₂︶   A QUINAS . QDA

, q.6, c.: Vnde materia non inuenitur nisi in r

ebus corporalibus, ... ︵ ₁₃︶   A QUINAS . ST , 1a, q.50, a.2, c. ︵ ₁₄︶   A QUINA s. ST , 1a, q.3, a.1, c. ︵ ₁₅︶   cf. A QUINA s. ST , 1a, q.91, a.2, c. ︵ ₁₆︶   cf. A RISTOTELES . Phys ., I, 7, 190b17 sqq. ︵ ₁₇︶   A QUINAS . In DA , II, 1, ll.242-257: Sciendum est

autem quod hec

est dif fer encia inter for mam accidentalem et substancialem, quod for ma

accidentalis non facit ens actu simpliciter

, set ens actu tale uel tantum, ut puta magnum

uel album

uel aiiquid aliud huiusmodi,

for

ma

autem substancialis facit esse actu simpliciter; unde for

ma accidentalis aduenit subiecto iam existenti in actu, for

ma autem substancialis

non aduenit subiecto iam pr

eexistenti in actu, set existenti in potencia tantum, sciiicet materie prime.

︵ ₁₈︶   A R IS T O T E LE S . De anima , II, 1, 412a19-21: ἀναγκα ῖον ἄρα τὴν ψυχὴν οὐσία ν εἶναι ὡς εἶδος σώματος ϕυσικοῦ δυνάμει ζωὴν ἔχοντος. ︵訳は[中畑 2001 ] ₆₁│ ₆₂参照︶ ︵ ₁₉︶   A QUINAS . ST

, 1a, q.76, a.1, c: Illud enim quo primo aliquid operatur

, est for

ma eius cui operatio attribuitur: sicut quo primo sanatur cor

-pus, est sanitas, et quo primo scit anima, est scientia; unde sanitas est for

ma corporis, et scientia animae. Et huius ratio est, quia nihil agit

nisi secundum quod est actu: unde quo aliquid est actu, eo agit.

Manifestum est autem

quod

primum quo corpus vivit, est

anima.

Et

(29)

vita manifestetur secundum diversas operationes in diversis gradibus viventium, id quo primo operamur unumquodque hor

um oper

um vi

tae, est anima: anima enim est primum quo nutrimur

, et sentimus, et movemur secundum locum; et similiter quo primo intelligimus. Hoc

er

go principium quo primo intelligimus, sive dicatur intellectus sive anima intellectiva, est for

ma corporis. ︵ ₂₀︶   A QUINAS . ST

, 1a, q.76, a.1, c.: Et haec est demonstratio Aristotelis in II

de Anima . ︵ ₂₁︶   A QUINAS . In DA , II, c.5, q.1 ︵ p.88, l.43-p.89, l.120 ︶. ︵ ₂₂︶   A Q U IN A S . ST

, 1a, q.75, a.2, c.: Manifestum est enim quod homo per intellectum cognoscer

e potest naturas omnium corpor

um. Quod

autem potest cognoscer

e aliqua, opor

tet ut nihil eor

um habeat in sua natura: quia illud quod inesset ei naturaliter

, impedir

et cognitionem

alior

um; sicut videmus quod lingua infir

mi quae infecta est cholerico et amar

o humor

e, non potest per

ciper

e aliquid dulce, sed omnia vi

dentur ei amara. Si igitur principium intellectuale haber

et in se naturam alicuius corporis, non posset omnia corpora cognoscer

e. Omne

autem corpus habet aliquam naturam deter

minatam. Impossibile est igitur quod principium intellectuale sit corpus.

︵ ₂₃︶   A QUINAS . ST

, 1a, q.75, a.2, c.: Ipsum igitur intellectuale principium, quod dicitur mens vel intellectus, habet operationem per se, cui no

communicat corpus. Nihil autem potest per se operari, nisi quod per se subsistit. Non enim est operari nisi entis in actu: unde

eo modo aliquid operatur , quo est. Pr opter quod non dicimus quod calor calefacit, sed calidum. - Relinquitur igitur animam humanam, quae dicitur

intellectus vel mens, esse aliquid incorpor

eum et subsistens. ︵ ₂₄︶   A QUINAS . ST

, 1a, q.75, a.2, c.: Ipsum igitur intellectuale principium, quod dicitur mens vel intellectus, habet operationem per se, cui no

communicat corpus. Nihil autem potest per se operari, nisi quod per se subsistit. Non enim est operari nisi entis in actu: unde

eo modo aliquid operatur , quo est. Pr opter quod non dicimus quod calor calefacit, sed calidum. - Relinquitur igitur animam humanam, quae dicitur

intellectus vel mens, esse aliquid incorpor

eum et subsistens. ︵ ₂₅︶   A QUINAS . ST

, 1a, q.76, a.1, ad. 6: Ad sextum dicendum quod secundum se convenit animae corpori uniri, sicut secundum se convenit cor

pori levi esse sursum. Et sicut corpus leve manet quidem leve cum a loco pr

oprio fuerit separatum, cum aptitudine tamen et inclinatione

ad pr

oprium locum; ita anima humana manet in suo esse cum fuerit a corpor

e separata, habens aptitudinem et inclinationem naturalem ad

corporis unionem. ︵ ₂₆︶   こ の 点 に つ い て は、 [ Cr oss 1997 ] に お い て、 ア ク ィ ナ ス に よ る﹁ 魂 の 不 可 滅 性 ﹂ の 論 証 が 成 功 し て い る か ど う か と い う 観 点 か ら よ

(30)

り詳細に論じられている。この論理的に必然性が確保できないという結論は Cr oss がすでに指摘しており、筆者もそれに同意する。 ︵ ₂₇︶   こ う し た ア ク ィ ナ ス の 評 定 に つ い て は、 例 え ば[ Pasnau & Shields 2004 ] に お い て は、 プ ラ ト ニ ズ ム 的 立 場 へ の 親 近 性、 正 統 的 キ リスト教教義の採用という観点から支持されている。特に第 6 章第 5 節を参照。 ︵ ₂₈︶   ま た、 質 料 形 相 論 は、 例 え ば、 生 物 と 無 生 物、 有 機 物 と 無 機 物 と の 垣 根 を 分 け る﹁ 創 発 性︵ emer gence ︶﹂ と い う 考 え 方 と 親 和 的 な 関係を維持できる理論であるとも言える。この点については、 [中畑 2008 ]や[

Pasnau & Shields 2004

]第 6 章 を参照。 ︵ ₂₉︶   少なくとも、最後の参考文献に挙げた研究書/研究論文には見当たらない。 ︵ ₃₀︶   O CKHAM . Quodl ., I, q.10 を参照。なお、テクストの分析は[辻内 2011 ]第 1 章第 2 節︵未公表︶において行った。 ︵ ₃₁︶   B URIDAN . QDA 3 3, qq.3-6 を参照。なお、詳細な分析は、 [辻内 2005 ]/ [辻内 2011 ]第 1 章第 3 節において行った。

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