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環境市民運動の発展を求めて(上) : 現代日本における「市民」運動の意義と課題

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環境市民運動の発展を求めて(上) 1

環境市民運動の発展を求めて

(上)

―現代日本における

「市民」

運動の意義と課題―

! はじめに 20世紀最後の四半期から21世紀初頭にかけて,アメリカ主導のグローバリ ゼーションの深化と手を携えながら,市場原理主義的思潮が経済理論や政策を 主導してきた。その帰結が眼前に見るような種々の格差の拡大,地球環境問題 の深化,福祉国家の後退1)等々の社会的不安定である。K.ポランニーが早くに 洞察していたように,市場経済システムは決して自立的に機能しうるものでは なく,むしろ多様な社会的制度によって支えられるべきものであることがあら ためて示されたと言えよう。したがってまた,「経済」を市場とそれに関わる 社会的諸制度の総体として捉えようとする関心,しかもいわゆる公私ないし国 き ま り 家と市場の二極モデルではなく,インフォーマルな中間的組織やその規則ある いは社会的慣習等を含んだ多様な形態において社会的諸制度を捉えようとする 関心が高まっている。こうして,地域共同体ないしコモンズなどの「共」とい う第三の極がかねて経済システムの安定に果たしてきた役割にあらためて目を 向け,近代化とともに国家と市場の両極に蚕食され,やせ細ってきた共の世界 を現代的にどのように再構築していくかにも注目が集まるようになった。 こうした動向は,環境問題にも深く関わる。地域の生態系との共生はそれと 日常的に関わる地域住民の積 ! 極 ! 的 ! 協力なくしては果たされえない。また,地域 1)単なる削減や縮小というより,社会的連帯のためのコストを大きな重荷と感じ,強者(中 産階層)が弱者にルサンチマンを抱くというように, 基盤そのものが壊れようとしている。 福祉国家が持つ「非人称の強制的連帯」だからこそのメリット,あるいは壊れかけた基盤 再構築のためのナショナリズムへの傾斜の罠等の指摘を含め,齋藤純一『公共性』岩波書 店,2000年,66―67,76―83,87―88ページなど参照。

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2 彦根論叢 第368号 平成19(2007)年9月 の生態系と共生すべくその特性を深く知ろうとすれば,科学的調査のみならず 伝統的なくらしのうちに体現している地域住民の知 ! 恵 ! からも学ばねばならな い。環境アセスメントにおいて地域住民による検証,コメントが積極的に求め られねばならないひとつの重要な所以である。かつ,生態系との共生をめざし た活動にせよ,パブリック・コメントにせよ,個人的レベルでの対応は現実的 には難しい。それらを単なる形式に留まらせるのでないならば,なんらかのグ ループ形成が要請されることとなるというわけである2)。 といっても,かっての共の世界を現代的な社会的諸条件のもとで単純に復活 しうるものではない。のみならず,かっての共の世界が個人を集団に埋没させ る村社会的な息苦しさを伴っていたことも事実である。こうして,現代的諸条 件のもとで,また成員一人一人の主体性を尊重するとともに開放的性格を備え た共の世界をどのように構築していくかが課題として浮上してくる。 そこで注目されるのが,NGO や NPO ということになる。じっさい,社会福 祉をはじめ,街づくり,教育・文化,環境保全等の領域において地域で活躍し ている NGO 等は今や数多い3)。さらに,多くの若者が震災被災地の救援等に ボランティアとして積極的に参加するようになっていることもよく知られたと ころであろう。くわえて,財政危機を背景に,近年では地方自治体が積極的に NGO等との協働を求めるといったケースも少なくない。 しかも,こうした現代的な共の世界の広がりは,「新しい公共圏」を切り開 くものとも期待されている。後発国としての近代化の過程で,公共性は「お上」 として君臨する「公」の専管事項として囲い込まれ,また村社会の集団主義的 な束縛も根強く残存して,「市民」すなわち個々人として主 ! 体 ! 性 ! を持つととも に深い公!共!的!関!心!を備えた人々4),及び彼らの開かれた公論の場はなかなか 育ってこなかった。現今ようやく上記の動向が示すように市民が育ちはじめ, 2)河原晶子「どう変わる行政と市民の関係」大久保武他編著『地域社会へのまなざし』文 化書房博文社,2006年,所収,174―175ページ参照。 3)内閣府国民生活局「NPO 法人の現状と課題」2005年,1ページ参照。 4)「市民」の「特権性」も含め,たとえば福田歓一「西欧思想史における公と私」『公共哲 学1公と私の思想史』東京大学出版会,2001年,所収,2―4,11―13ページなど参照。

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環境市民運動の発展を求めて(上) 3 「新しい公共圏」すなわち市民が公権力と緊張関係を保って公論を交わしなが ら公共的事象に関する合意を築き,共同性という価値を実現し,さらにそれら を通じて世代を超えて市民として成長していく場5)が切り開かれつつある,と。 もっとも,NGO をはじめとした市民活動がほんとうに社会全体に幅 ! 広 ! く ! 浸 透していっているか,あるいは若者のボランティアへの参加も恒!常!的!な活動と なると依然貧弱ではないか6),要するに日本における「市民社会」の成熟はや はりいまだしではないか7)といった疑問は現代においても拭い去られていな い。そもそも資本主義社会における「市民」というカテゴリー自体にある種の 危うさが宿されていはしないかという根源的問題もある。 さらに, 地方自治体による NGO や NPO との協働の促進や支援の積極化も, 財政危機への好便な対処手段としてのみ目が向けられるのであれば,NGO 等 てい が自治体の下請けとして体よく利用されるだけという事態に陥りかねない。 とはいえ,他面で,上述のような社会風土であるとすれば,「お上」の側が 積極的に意識改革し,NGO 等の成長を支援しようとするなら,新しい公共圏 への展望が切り開かれやすくなるとも解される。たとえば,「市民」へと脱皮 しつつあり,また NGO の活動に関心は抱きつつも,「世間」から「意識の高 い特別な人々の仲間」と見られるのは避けたいと参加を躊躇していた人々は, 「お上」の支援,世間に対するお墨付きがあるなら安んじて活動に加われよ う8)。さらに,活動を通じて市民としていっそう成長を遂げることも期待され る。つまり,「お上」意識が残存している社会風土だからこそ可能な,新しい 公共圏の切り開き方もありうるのではないかというわけである。 本稿は,こうした問題意識を前提に関西の二つの興味深い環境市民運動につ いて検証し,日本における環境市民運動のいっそうの発展を促すための示唆を 5)長谷川公一『環境運動と新しい公共圏』有斐閣,2003年,202ページなど参照。 6)井上治子「環境ボランティアの自立性・主体性とは何か」鳥越皓之編『環境ボランティ ア・NPO の社会学』新曜社,2000年,所収,135―138,145ページなど参照。 7)大衆消費社会の爛熟とともにもはや「成熟」そのものが危機にあるとも解される。 8)「全国ボランティア活動者実態調査の概要」(内閣府ホームページ)にも,ボランティア グループからの行政や社会福祉協議会への期待のなかで「ボランティア募集への協力」が かなりの比率で挙げられており,この点との関連でちょっと興味深い。

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4 彦根論叢 第368号 平成19(2007)年9月 得ようとするものである。そのため,本号では上記の問題意識について先行研 究に学びつつ以下の手順でより詳らかにしておきたい。まず,旧来の日本の公 共圏のあり方が市民運動にどのような影響を及ぼしてきたかを考察する。つい で,地方自治体が NGO や NPO との協働に積極的関心を寄せるようになった 背景を踏まえ,随伴される懸念や新しい公共圏へ通じる契機について検討する。 さらに,しばしば旧来型の公共圏の地域的構成要素と目されながらも地域に環 境市民運動を浸透させようとするならば決して無視しえない存在となる町内 会・部落会にも目を向ける。最後に,環境市民運動を1960年代以降世界に広がっ た「新しい社会運動」の一環として捉えたうえで,それが孕む脆弱性を「市民」 概念の宿すある種の危うさに引きつけて検討する。 ! 公共性をめぐる日本の状況とその市民活動への影響 敢えて図式化すればと断りながらであるが,長谷川公一氏は環境運動を二つ の類型,すなわち直接的な利害当事者の生活防衛型運動である「住民運動」と, 良心的構成員としての市民によって普遍主義的な価値の防衛が目指される理念 志向的な「市民運動」とに区分する。そして,日本の環境運動は前者が中心で, 欧米に見られるような市民や専門家を中心とした後者の類型は大都市圏での支 援運動などに限られる傾向にあったと評している9)。日本の環境運動の多くは, 深刻な環境破壊の危機に直面せしめられ,生活を破壊する開発の阻止,あるい は被害の拡大防止,損なわれたものの多少ともの回復をなにより優先せざるを えなかった。したがって,座り込みやデモ行進などの直接的表出行動が選択さ れがちで,普遍的価値に照らして対話を進め,対案を提示しながら共同で新し い公共圏を切り開くという方向にはなかなか進まなかったということであろ う。企業や行政の側にそもそも対話の姿勢がなく,被害住民がうえのような対 応しかとれないように追い込まれていたということであり,日本の旧来の公共 圏の貧しさを浮き彫りにするものと解される10)。 9)長谷川氏,前掲書,71,78―79ページ。 10)水俣病はこうした点でも典型を示している。企業との関係では,後藤孝典『沈黙と爆発』!

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環境市民運動の発展を求めて(上) 5 さらに言えば,やはり長谷川氏も指摘しているように11),「お上」は「公益」 の定義を独占して自らの推進する公共事業に対する批判に耳を傾けず,強権的 にそれを押しつけるばかりか,「懐柔」や「切り崩し」を行って推進派,反対 派双方の住民間に相互不信を高め,地域社会に長期にわたって解消されがたい 分裂,地域社会の破壊という紛争コストをもたらしてきたのであった。 しかしながら,後者の類型の環境運動があまり広がりを持ち得なかったのは, 日本における「市民」の層の薄さに起因するという側面もあると解される。上 述した旧来の公共圏の貧しさと併せ,前節で触れた,日本では「お上」として 君臨する公が公共性を自らの専管事項として囲い込んできたという問題の環境 運動に即した顕現であり,以下ではまずこの点について,齋藤純一氏による「公」 の三側面についての整理を手掛かりに少しく立ち入ってみよう。 「公」には,公益や公共の秩序のように「すべての人々に関係する共通のも の(common)」という側面がある。また,公開という「誰に対しても開かれて いる(open)」という側面もある。たとえば,公 $ 園は,共通に楽しむことので きる,誰もに開かれた場所である。と同時に,そうした公共財はフリーライダー 問題を随伴するがゆえに私的には供給されがたい。こうして,個々の成員こそ が基礎的単位とみなされる近代社会においても,その建設,そのための財源調 達,さらに誰もが楽しめるための秩序維持といった権力を成員から委任された 「国家に関係する公的な(official)」という第三の側面をも「公」は併せ持つ12)。 ところが,周知のように,日本ではこの「公権力」としての側面がいわゆる 「お上」として成員の頭上に君臨する前近代的形態を清算することなく産業社 会化=近代化が推し進められることとなった。その結果,三つの側面のなかで 集英社,1995年を,また行政の姿勢については石田雄「水俣における抑圧と差別の構造」 色川大吉編『新版 水俣の啓示』筑摩書房,1995年,所収,参照。但し,緒方正人氏のよ うに,生活防衛から出発しながらきわめて普遍的な文明論的視点に立って事件を捉え直す ところに至った人もある。同氏『チッソは私であった』葦書房,2001年。さらに,石牟礼 道子氏の諸作品はまさに水俣の失われたくらしが宿していた普遍的価値を照射すること で,事件の罪深さを抉り出そうとしたものと言えよう。 11)長谷川氏,前掲書,224ページ。 12)齋藤氏,前掲書,!―"ページ。 #

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6 彦根論叢 第368号 平成19(2007)年9月 「公権力」が突出し,なにが「公益」であるかは「公権力」が決めればよいこ ととして公共事業が推進され,被害者が反対運動を起こせば「公益」に逆らう エゴイストと断罪された。また,「お上」が決めればよいのであるから「公開」 の必要はなく,日本の「公権力」はきわめて閉鎖的な体質を長らく維持してき た。部外者には閉ざされた場所であることを指示する private(たとえばホテル やレストランでのこの表示を想起せよ)の対語として誰もへの開放性を強く含 意する public と,日本人が馴染んできた「公」とは大きなズレを含んでいると いうわけである13)。 では,このように日本では「公」が「誰もに開かれている」というより「公 権力」として受け止められてきたことは,NGO や NPO の活動にどのような影 響を与えてきたであろうか。第一に,そもそも一般の人々の間に NGO 等の活 動に関心を抱き,それらを設立したり,活動に参加したり,あるいは資金等を 支援したりしようという意欲を喚起する精神風土の醸成が損なわれてきた。し かもそれは,「お上」にたてつくエゴイストないし「ふつうの人々」から浮き 上がった意識の高い「市民」として目立ちたくないという消極的理由からばか りではない。 より積極的に,公共的関心を持とうとしない精神風土が醸成されることとな る。自治体と地域住民,あるいは地域住民間の利害対立等の調整が,政府の決 定すなわち「お上」の声を仰ぐかたちで行われるかぎり,住民は「上から下り てくる公共的な規制」を「できるだけ拒否」するという姿勢で臨むこととなる というわけである。たとえば,都市計画における土地利用規制に対して,「公」 が「他者」である「お上=官」として理解され,道路をはじめ「公共施設整備 の権限と責任」がそうした「お上」にあると認識されているかぎり,土地所有 者側が計画規制をできるかぎり逃れようとすることに「多くの国民が共感を覚 え」,逆に「土地の公共性に対する認識」は脆弱に留まるというように。公共 的な事柄に自らのものとして関心を抱き,積極的に関わるのではなく,むしろ 「お上」のすること,他人事として腰を引いてしまう精神風土が広がってしま 13)長谷川氏,前掲書,195―196ページをも参照。

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環境市民運動の発展を求めて(上) 7 うのである14)。 こうして,NGO 等のなかには,財源面で苦境に陥ったり,人材補給がうま くゆかなかったりして,活動がマンネリ化し,停滞してゆくといった事例が見 出されることとなる。じっさい,旧厚生省が実施した「全国ボランティア活動 実態調査」(1996年度)によれば,団体・グループ会員の60%弱が50歳以上で あり,65歳以上の高齢者だけでも20%前後を占めている15)。 さらに,人材という点では,対案を準備するような専門的スタッフが日本の NGOに不足していることも指摘されている。欧米のメジャーな NGO や大学 町の NGO のように専門知識を持った人々が積極的に加わろうとしていないと いうわけである16)。これは対案を提示して対話を進めてゆくという「新しい 公共圏」を切り開く能力に関わる問題でもある。しかも,ここには,単に公共 的関心が育ちにくいというばかりでなく,次のようなかたちで旧来の公共圏の あり方が作用を及ぼしてきたと解される。 すなわち,「お上」が「公共性」を自らの専管事項として囲い込む限り,「公 共事業」による生活破壊からの防衛を図ろうとする環境運動はひたすら阻止行 為に力を注ぎ,対案の提示といった建設的努力にはなかなか向かえなくなる。 こうして,日本の環境運動には「原理主義的で禁欲主義的」な傾向が強かった17) ということにもなるのだが,「お上」意識の強い国において,原理主義的傾向 があるとすればなおのこと,そうした運動に関わる人を企業や大学は特別視し たり,警戒したりしてきたであろう。そのことが環境運動には関心を抱く専門 家たちに運動への参加を躊躇わせる要因となったと解されるのである。 さらに,スタッフ不足という点で言えば,内閣府国民生活局によって次のよ うな深刻な調査結果も報告されている。認証された NPO 法人のうち,政策提 案を行うスタッフはおろか,経理専門のスタッフでさえ備えているところは2 14)田中重好「地域政策策定過程と公共性担保の技法」岩崎信彦監修『地域社会の政策とガ バナンス』東信堂,2006年,所収,167―168ページ。 15)内閣府ホームページ。 16)長谷川氏,前掲書,225ページ以下,参照。 17)同上書,236ページ。

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8 彦根論叢 第368号 平成19(2007)年9月 割でしかない。また,回答1023法人のスタッフ平均数10名弱のうち,常勤スタッ フはその半数,しかもその3分の2が無給のボランティアである,と18)。況 んや法人認証されていない零細 NGO や NPO についてはというわけである。 この点は,容易に理解されるように NPO の財政事情と深く関わっている。 同じ調査からは,回答2498法人のうち年間支出規模が500万円未満のものが 53%,100万円未満のものに限っても28%という姿が浮かび上がってくる。1990 年代半ばの数字ではあるが,非認証団体を含めば年間財政規模100万円未満の ものが8割近く,専用オフィスを備えているのは1割以下で,多くはメンバー や会員の個人宅に事務局を置いており,有休の常勤スタッフを雇用しているの は2割以下という状況にある。多くの NGO はボランティアに依存してはじめ て活動できているというわけである19)。 こうした財政事情の背景に,NPO 法人でも収入の多くを行政からの委託費 を含む「事業による収入」に依存しているという実態がある。同じく内閣府国 民生活局の調査により回答2023法人についてみれば,会費の占める比重は7%, 寄付のそれは9%に過ぎない。たしかに,非営利セクターが「多元主義と個人 のイニシアティヴ」という国民的価値の担い手となっているアメリカ合衆国に おいても,社会サービスや市民活動,相互援助組織といった分野での非営利セ クターの収入内訳では政府からの補助金等が過半に達し,最大項目を占めるの であって,政府との協働が非営利組織を支える重要な支柱であることにかわり はない。とはいえ,上掲の二つの分野について言えば,寄付も収入総額の3割 を超えている20)。日本の NGO や NPO が資金不足に悩む大きな要因のひとつ に,寄付を通じてこうしたタイプの公共性を支えようという社会風土が十分 18)内閣府国民生活局「NPO 法人の現状と課題」(2005年),内閣府ホームページ参照。 19)長谷川氏,前掲書,57ページ。さらに,「全国ボランティア活動者の実態調査の概要」 前掲,をも参照。 20)L.サラモン,山内直人訳・解説『NPO 最前線』岩波書店,1999年,28―29,48ページ参 照。また,清水洋行は,ヨーロッパでのサードセクターが「チャリティや協同といった思 想・文化によって,国家と市場から明確に区別されている」ことを想起させつつ,問われ るべきは NPO 法人という制度に「どのような文化や思想を内実化」してゆくかであると 鋭く指摘している。「市民が生み出す事業と組織」大久保武編著『地域社会へのまなざし』 (前掲)所収,284ページ。

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環境市民運動の発展を求めて(上) 9 育っていないということをやはり挙げることができるであろう21)。 さらに,こうした財政難が先に言及した原理主義的性格と相乗することに よって,現代の NGO に危機が生み出されている。すなわち,財政難に直面し て,原理主義的・禁欲主義的性格を守り通そうとする人々と自ら市場活動に乗 り出したり,自治体や企業との協働に活路を見出そうとする人々との間で確執 や摩擦が生じているわけである。また,市場の自己運動に巻き込まれたり,行 政の下請け化することを警戒し,禁欲的に踏みとどまるにせよ,専門スタッフ に不足し,対案を提示して価値観や意見を異にする人々と対話する能力や意欲 を培えないなら,内外からの建設的批判を欠いたまま,「成員間の情緒的なつ ながりと団体の存続自体が自己目的化」する危険も懸念されることとなる22)。 こうして,日本の旧来の公共圏のあり方は,NGO 等に人材の確保,資金の 確保の両面で大きな壁を形成してきた。また,NGO に原理主義的・禁欲主義 的という性向をも与えがちであった。さらに,それらが相俟って生み出された 専門スタッフの不足は,情報取得や情報発信という面で NGO 等に制約を課し, それがまた上記の諸点に跳ね返ってゆくことともなっている。その結果,活動 がマンネリ化したり,停滞したり,あるいは内部分裂の危機に見舞われたりと いった深刻な問題を抱える NGO も必ずしも少なくないというわけである。 ! 地方自治体の NGO や NPO に対する関心をめぐって 地方自治体が NGO や NPO との協働に関心を寄せるのは,一面で,社会が それを求めているからであり,新しい公共圏がそれなりに開かれつつあること の証左である。じっさい,90年代半ば以降,地方自治体も単なるお題目として ではなく,むしろ実質的なものとして市民との協働を求めるようになってきて いる。「ガバメントではなくガバナンス」という思考,すなわち政府や地方自 21)ここには寄付税制のあり方も関与している。アメリカ合衆国における税制改革が NPO 財政にかけた負荷はその好例であろう。L.サラモン,前掲邦訳,42ページ以下参照。 22)長谷川氏,前掲書,236―237ページ。なお,前者の問題については,増田みどり氏が修 士論文(未公刊)で実施したアンケートやヒアリング調査からも興味深い知見を得た。

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10 彦根論叢 第368号 平成19(2007)年9月 治体ばかりでなく地域で活動する企業やさまざまな団体,さらに地域住民が協 働して地域を運営してゆこうという思考23)も社会的に広がってきた。 だが,そこで求められている市民参加も,地方自治体が「お上」意識を抜け きらないかぎり,「行政と親和的な関係にある一部の市民と,行政との『お祭 り』に終わる」ことが危惧される。たとえば,パブリック・コメントを求めて もその実効性を市民が実感できなければ参加者は増えない。しかも,予算の単 年度主義に縛られてどんな意見が出てこようと既定のスケジュールのもとでし か事態が進んでいかなかったり,事業の実施自体は大前提で,したがって真っ 向からの反対意見は「趣旨が違う」と切り捨てられるというように,「お上」 意識を抜けきらない行政の対応,またそれを助長するような制度は厳存する。 くわえて,協働が「主流」化するほど,行政の側で市民の「異議申し立て運動」 に消極的な評価が与えられる傾向も認められるというわけである24)。 のみならず,地方自治体には財政危機への幸便な対処策として NGO や NPO との協働に関心を寄せている面もある。そうしたなか,前節で見たような財政 事情から NGO や NPO の側も地方自治体からの委託が欲しいということにな れば,それらがていよく地方自治体の下請け化する,しかも責任の所在は曖昧 化されて25),といった事態が懸念される。以下,玉野和志氏に拠りつつ地方 自治体が NGO 等に関心を寄せるようになった背景,経緯を振り返りながら, この点に立ち入ってみよう。 まず,近年地方分権化が大きな進展を見つつあることの背景には,一方で, グローバリゼーションが深まるもとで,多国籍企業が自由に活動するために, また国内企業が厳しい競争に勝ち抜くために,国家によるさまざまな規制の緩 和, 小さな政府が求められているということがある26)。 くわえて, 玉野氏は, 湾岸戦争が日本の外交政策や国家安全保障政策の見直しに火をつけ,中央政府 23)河原氏,前掲論文,167,185ページなど参照。 24)同上論文,173―176ページ。 25)同上論文,170,176―177ページ参照。 26)規制緩和が進んだからこそ地方自治体がケアしなければならない仕事も拡大したという 面もある。河原氏,前掲論文,168ページ参照。

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環境市民運動の発展を求めて(上) 11 の本来の存在根拠が問い直されるなかで,小さな政府,それに照応した地方自 治体への権限委譲という方向性が打ち出されたことに注目している27)。 他方で,オイルショック以降の景気対策が巨額な財政赤字を累積させ,行政 改革が焦眉の課題とされていたことも周知のところであろう。中央官庁には, 地方分権化を機会に「財政赤字を地方へ転嫁することで交付税負担を削減した い」28)という思惑があったというわけである。 こうして,第3次臨時行政改革推進会議の提案した「パイロット自治体」構 想を嚆矢に分権改革が進められてゆくことになる。その間,中央官庁の強い抵 抗があり,それに対抗して都道府県を味方につけるべくいわゆる受け皿論(= 道州制)は一時棚上げされるなどの紆余曲折を経ながら,結局,一方で機関委 任事務を廃止し,原則自治事務とするという方向での地方分権推進,他方で受 け皿論の変形としての市町村合併の推進が実現することとなった29)。 したがって,基本線のみ見れば,グローバリゼーションの深化のなかで「行 政のスリム化」を求めた財界の意向に,「外交・軍事の領域での強いリーダー シップ」を求める一部政界と「高齢化の進行による将来的な財政破綻」を恐れ る官庁が呼応して,事態が進んでいったということになる。つまり,そこにあ るのは「行政のスリム化」と「補助金ないし交付金の削減」への意欲であって, 「住民自治を積極的に実現しようという意志は全く存在しない」。だからまた, 地方自治体の側も,ガバナンスとは言いながら,そこに「財政の縮減と行政の 合理化のつけを住民のボランティアな活動や民間企業の営利事業によって肩代 わりさせよう」という思惑を込めることとなっているというわけである30)。 とはいえ,玉野氏は,近年の地方分権改革を単純に否定的にのみ評価してい るのではない。それが,上述のような基本的性格を孕みつつも,地方自治にお ける軽んじ得ない質的転換を内包していることを指摘している。本稿の問題関 27)玉野和志「90年代以降の分権改革と地域ガバナンス」岩崎信彦監修,前掲書所収,135― 136ページ。 28)同上書,136ページ。 29)同上書,136―143ページ参照。 30)同上書,145―146,148,150ページ。

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12 彦根論叢 第368号 平成19(2007)年9月 心に引きつければ,上述の改革には「新しい公共圏」を切り開くことに向けて のきわめて興味深い質的転換が内包されているということである。 すなわち,機関委任事務のかなりの部分が自治事務になったからといって, 実態的にはもともと自治体において遂行されていた業務にほかならず,従来と 大差なく思われるかもしれない。しかしながら,この改革によって自治事務と 法定事務,すなわち「自治体固有の事務」と「法律に定められた範囲で請け負っ ている国の事務」という区分が定立されたことにより,自治体は,国の事務を 引き受ける場合もあくまで法規に則った範囲で執行すればよく,それ以外の場 面では「あれこれ指示を受ける」必要はなくなった。国と地方はあくまで対等 な関係にあるべきだという行政手続法的な考え方が志向されたのである。とい うことは,自治事務については,「基本的に自治体の判断と裁量」によって行 われることになるわけで,「これまでのように国で決められていますからとい う逃げは打てなくなる」31)と。地方自治体が主体性を求められ,力量を問われ るだけでなく,先述のように「お上」の調整に依存して「公共性」を「他人事」 視する社会風土に風穴を開ける契機が内包されているというわけである。 くわえて,「確実に交付金が減らされる」と覚悟している「地方」と,「交付 金がもどってくる」ことを期待できる「首都圏」とでガバナンスへの取り組み に「温度差」があるという玉野氏の指摘にも注目したい。「首都圏」の自治体 は,行政と住民との協働といっても「実働部分を手放すだけ」で「全体的な調 整機能」は握り続けるつもりでいる。それに対し,「地方」の自治体は率直に 財政事情を明かして,「住民でやれるところはやってほしい」,「権限も含めて お任せしたい」というところまで踏み込んでいる。行政としては「負い目」ゆ えに,従来「けっして手放そうとしなかった権限すらも,初めて市民の手に直 接ゆだねようとしている」。つまり,財政危機がより深刻であるがゆえに,住 民と行政の関係のあり方という点では「より抜本的な改革の可能性」が展望さ れうる。皮肉だが,財政的事情から役割の縮小を余儀なくされた地方自治体の もとで「改めて市民が公的な責任を自治的に受け止める機会が訪れた」と32)。 31)同上書,139ページ。

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環境市民運動の発展を求めて(上) 13 もちろん,財政危機が深刻な地方自治体がすべて「権限も含めておまかせし たい」と踏み込んでくるとは限らない。むしろ,そうなるかどうかは,地域住 民がそれまで培ってきた力量,実績――当該地方自治体の「お上」意識をどれ だけ揺さぶってきたかを含めて――に依存することとなろう。さらに,個々の 事業について「権限も含めておまかせ」されても,関連する他の諸事業との調 整が図られなければ十分な成果は挙げえない。地方自治体には,いわゆる丸投 げではなく,また「お上」として諸事業を委託した各 NGO 等のうえに君臨し て「仕切る」のでもなく,諸 NGO 等と一体となって公論を交わしつつ総合調 整してゆくことが求められる。NGO 等の側について言えば,自らの専門分野 に閉じこもることなく,関心を広く持ち,アンテナを高く掲げて見識を培って おくこと,そのうえで他の分野の NGO 等,場合によっては意見や価値観を異 にするかもしれない NGO 等ときちんと討議し,また地方自治体に対しても対 等なパートナーとして主張すべきことはきちんと主張することが求められるの である。 のみならず,協働が主流化するほど,異議申し立て運動は疎外されがちとな るという,冒頭で触れた河原氏の懸念も看過されるべきでない。本稿が対象と する環境運動は,ときには地方自治体に対して真っ向からの対立意見をぶつけ る必要の生じうる領域であるだけにいっそう留意しておきたい。かつ,ここで も地方自治体の「お上」意識が問われるのみではない。協働主体となっている 諸 NGO に対しても,意見や価値観を異にする運動を地方自治体といっしょに なって疎外しないこと,むしろそうした運動に対しても耳を傾け,対話する度 量を持っていること,さらに地方自治体に対してそうした運動と対話するよう に積極 的 に 働 き か け る 民 主 主 義 的 セ ン ス を 持 っ て い る こ と が 問 わ れ て い る33)。総じて,直上のパラグラフで見た論点とあわせ,まさに新しい公共圏 を切り開く能力が試されていると言うことができよう。 32)同上書,150―152ページ。 33)齋藤氏は,「他者に耳を傾けてもらえる」ことの重要性を強く訴え,「他者を自らのコー ド(規範・話法)に回収」せず,「了解に達するのをあきらめる」コミュニケーションも 公共性の不可欠の一環であることを指摘している。前掲書,14―19,95―97ページなど。

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14 彦根論叢 第368号 平成19(2007)年9月 こうして,近年の地方分権改革は,それを推進した諸勢力の思惑からすれば 決して住民自治を積極的に実現しようとするものではなかった。だからまた, 地方自治体による NGO 等への関心も,いわば政府から回されてきた財政危機 のツケのさらなるツケ回しとして NGO 等を都合よく利用したいという方向に 傾きがちとなる。だが,分権改革の中身には住民自治の実現,ひいては新しい 公共圏の開拓に向けての大きな一歩となりうる興味深い質的転換も内包されて いる。かつ,分権改革の一方の主要モメントをなしてきた財政危機そのものが, それが深刻であるほどこの可能性を現実性に転化する媒介環として機能する。 チャンスを活かせるか否かは NGO 等をはじめその地域の住民が培ってきた住 民自治の担い手としての力量次第である。のみならず,住民自治の実現の過程 そのものが,地方自治体やそれと協働する NGO 等の新しい公共圏の担い手と しての力量を試し,またそれを鍛える機会となるというわけである。 ! 伝統的地域共同体の評価をめぐって 環境市民運動が真に地域に浸透していこうとするならば,都市での町内会, 農村部での部落会といった伝統的な地域住民組織をどう評価し,それらとの関 係をどのように構想するかの検討が欠かせない。たしかに,こうした伝統的地 域組織には,「お上」の君臨する旧来の公共圏を地域で支えてきた末端組織と いう相貌がつきまとう。また,多くのこうした伝統的地域住民組織において空 洞化が進んでいるという現実がある。さらに,空洞化が進んでいるところほど 実態的に「お上」の末端組織的性格を濃厚にしがちとなっている。だが,地域 によりかなり差異が認められるとはいえ,いちおう全員参加の建前のもとで, それなりに地域の錯綜した利害の調整にあたってきたという機能が完全に空洞 化しているとは思えない。また,それに関連して,伝統的地域組織をもっぱら 旧来の公共圏を支える末端組織にのみ還元してしまうことにも疑問が残る。他 方で,環境運動の側から言えば,多様な利害が複雑に絡む地域社会のなかでシ ングルイッシューとしての環境問題のみを掲げた運動体が,しかも地域住民の 一部に地域外の人々が加わって構成される運動体がいくら力んでみたところ

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環境市民運動の発展を求めて(上) 15 で,その運動が地域のなかで挙げうる成果には限界がつきまとおう。町内会や 部落会が今でも上述のような機能を完全には空洞化させていないとすれば,そ れらとの協働はむしろ不可欠と解されるのである。そこで,以下,町内会や部 落会を旧来的公共圏を支える地域末端組織にのみ還元するのは一面的に過ぎは しないかという論点に少し立ち入ってみよう。 たしかに,先の大戦にさいして町内会や部落会は総力戦を遂行するための国 家の末端機構として再編強化され,大きな役割を果たした。つまり,町内会や 部落会には「お上」として公共性を自らの専管事項として囲い込んだ公権力に 連なる面がたしかにある。だからまた,戦後,GHQ は町内会・部落会を日本 を戦争に導いた前近代的,非民主的遺制の一環とみなして解散させた。のみな らず,占領が終わって復活した町内会や部落会も,市町村発行の各種文書等の 配布や回覧をはじめとして,市町村が主催する地域美化事業や各種スポーツ大 会,文化イベント等への住民の動員など,行政協力実務を多く抱え,やはり行 政の末端組織的性格を残している34)。うえにも触れたように,地域住民組織 として空洞化すればするほどこうした性格の業務のみがむしろ目立つ。 とはいえ,じつは占領中も町内会や部落会はインフォーマルに地域内での一 定の調整機能を果たしていた。そもそも,町内会や部落会は先の大戦時に総力 戦のための末端機構として創設された制度ではなく,原型は江戸期までの近世 チョウ ムラ 都市の「町」と農村の「村」であったとされる。しかも,「村」は,封建的支 配の末端機構として機能しつつ,内部では一定の自治を備えていた。また,都 市においても商工業者は「町」という狭い範囲内においてではあるがやはり一 定の自治を認められていた。つまり,同じ地域に住まうことに起因する共同利 害を処理するための仕組みは時代を超え,体制を超えて必要であって,町内会・ 部落会にはそうした「住縁アソシエーション」的側面もまた認められる35)。 だからこそ,また,1970年代に旧自治省等によって推進されようとした,町内 34)たとえば,鰺坂学「地域住民組織と地域ガバナンス」岩崎信彦他,前掲書,所収,178― 180ページ参照。 35)吉原直樹『アジアの地域住民組織』お茶の水書房,2000年,第7章。また,吉野英岐「国 際比較で考える地域住民組織の特徴」大久保武編著『地域社会へのまなざし』(前掲)所!

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16 彦根論叢 第368号 平成19(2007)年9月 会をもはや時代遅れな組織とみなしてその疎外を図ったコミュニティ行政は, その後再度方向転換を余儀なくされることとなったというわけである36)。 こうして,いわゆる「近代化論」のように,町内会を基本的に行政の意思の 下達のための前近代的な組織とのみ見るのではなく,むしろ町内会が「地縁社 会の基層で見いだされる<共同性>」37)の担い手として時代を超えて具備して いる,住縁アソシエーションとしての役割をも評価すべきことがわかる。と同 時に,先の大戦時の町内会や部落会が端的にそうであったように,住縁アソシ エーションは決して抽象的にそれ自体として存在しているのではなく,歴史を 背負い,またときどきの体制的,社会システム的規定を受けてきたことも決し て看過されるべきでない。つまり,住縁アソシエーションとしての伝統的地域 住民組織は,各時代や社会ごとの「マクロ・レベルでの構造的要件」に規定さ れ,また権力主体から自らに有利な形で取り込もうとする働きかけを受けなが ら,具体的姿容を変遷させてきたのであり,「地域の課題に直面してたえず『権 力』と『生活』の間を往還」しながら存在してきたという複 # 眼 # 的 # 視点で捉えら れなければならない存在と解されるのである38)。 したがって,「新しい公共圏」を切り開いていくうえでこうした伝統的地域 住民組織と協働することは望ましくないということにはならない。むしろ,社 会風土自体を転換してゆくことと連動させながら,空洞化して「お上」の末端 実務組織という性格のみを色濃くしている状態を「新しい公共圏」の担い手の 一環にふさわしい住縁アソシエーションに変えてゆくことが積極的課題として 浮かび上がってくる。また,じっさい,町内会や部落会のなかには,子どもを 対象としたイベントや地域の祭りの担い手として,さらに商店街の活性化,街 づくりの当事者として,現代的な「共」の世界の再構築への展望を豊かに内包 収,には,大阪市天王寺区通称「上六(地区)」にて終戦直後の不法占拠から始まった住 縁アソシエーションの興味深い例が紹介されている。293―95ページ。 36)拙稿「環境市民運動をめぐって―ランプーンを遠望しつつ―」『彦根論叢』第359号,所 収,で既に紹介しているので再論しないが,詳しくは吉原氏,前掲書,264―266ページ。 なお同書第1章,第7章,第8章をも参照。 37)同上書,244ページ。 38)同上書,!ページ。吉野氏,前掲論文,298ページをも参照。 "

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環境市民運動の発展を求めて(上) 17 した積極的な活動を展開しているところも少なからず存在しているのである。 ! 「新しい社会運動」の脆弱性をめぐって 1960年代後半からアメリカ合衆国をはじめとして世界に広がった公民権(= 市民権)運動や第二波フェミニズム運動,あるいは反戦平和運動等は,社会主 義政党や労働組合に主導された従前の社会運動とは異質の草の根の市民運動で あって,「新しい社会運動」と呼ばれる。環境運動もこうした新しい社会運動 の一環にほかならない。さらに,新しい公共圏を切り開くという課題と絡めて 日本における環境運動を詳しく考察している長谷川氏は,C.オッフェになら いつつ,新しい社会運動について次のような諸特性を指摘している。 まず,主体は女性や若者,エスニック・マイノリティなど「近代産業社会の 周辺者」,自由と平等という近代社会が掲げる理念から「実質的に排除」され てきた人々である。第二に,主たる争点は「生活世界」に関わっている。これ は伝統的な「公私の領域区分が曖昧化」されてきていることの反映でもある。 第三に,新しい社会運動は「運動の志向する価値,意味の開示」にもっとも意 を注いできた。その基軸的価値の一方が「自律性」であり,他方が「集合的な アイデンティティ」である。また,そうした特性ゆえに,行為様式としてはデ モ行進や座り込み,人間の鎖など「非日常的」で「多くの人々がその場に反対 の意志をもって存在すること自体を示威する戦術」が好まれる。最後に,堅固 な組織より「非官僚制的なネットワーキング」に強く傾き,運動体内での「役 割分業には否定的」,さらに「直接民主主義的な活動原則の徹底化」を好む, と39)。 こうした諸特性を帯びる新しい社会運動の「新しさ」についてあらためて振 り返ったとき,一方で,その基底に先進国における「豊かな」社会の一定の定 着という社会構造的変化があることは見やすいところであろう。「豊かさ」が それなりに社会に浸透していったからこそ,もはや労資といった単純な二分法 では人々の集合的アイデンティティを十全に指し示せなくなり,そうした二分 39)長谷川氏,前掲書,124―126ページ。

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18 彦根論叢 第368号 平成19(2007)年9月 法を超えて人々が持つ多様な属性に目が向けられることとなった。また,それ に照応して,労資の階級対立を核として従前の社会運動が焦点化した矛盾,摩 擦は重みを減じ,むしろそうした括り方では律しきれない多様な矛盾,摩擦が 関心を呼ぶようになったというわけである。 じっさい,フェミニズム運動にせよ環境運動にせよあるいは平和運動や学生 運動にせよ,さらには市民権運動に共感を寄せそれを支える広範な人々にせよ, 新しい社会運動の主体はいわゆるニュー・ミドルクラスが多い40)。 と同時に, そうした人々は,自らが悩まされるないし自らが関心を抱く主要な矛盾,摩擦 に即して,自らの集合的アイデンティティあるいは価値関心を再確認すること となる41)。のみならず,ミドルクラスとしてそれなりに生活基盤を確保でき ていることが自律性への関心を鋭敏にする。また,それは組織のあり方につい ての既述のような特性を導くことともなる。さらに言えば,環境破壊や女性差 別,人種差別等々の矛盾を認めつつ,それらは中核としての階級矛盾を解決す るなかでこそ解決されると説き,それらに対する闘争を自らの戦略に従属,埋 没させようとした従前の社会運動への不信が,自律性や上記のような組織特性 への傾斜をいっそう強めたことも想像に難くない42)。 他方で,新しい社会運動が孕む「新しさ」には,「近代の再審」という意味 での新しさもあることを看過してはならない。従前の社会運動が近代の達成し た成果に立脚して次の時代を築こうと展望していたのに対して,新しい社会運 動には,環境運動が端的に示しているように,近代が信奉してきた基軸的価値 40)「シアトルの反乱」に代表されるような,20世紀末に高まった IMF や WTO の新自由主 義的開発政策に対する反対運動も草の根的という意味では新しい社会運動であり,しかも 参加者の同質性は大きく崩れている点にも留意が必要であろう。そもそも新自由主義的政 策がもたらした社会的不安定は労働者運動を復活させている側面がある。また,ヨーロッ パでは,新しい社会運動が人脈的にはかっての組合運動時代の知己に支えられたりしてお り,新しい社会運動と従前のそれとを単純に対称化・分離のみすることにも陥穽がある。 D.della Porta et al. Social Movement2nd edition, Blackwell,2006,p.p.!―".chap.5.

41)「豊かな」社会において多様化が進んだからこそ,矛盾,摩擦の社会経済的基盤への着 目のみでなく,問題を的確に「象徴」し,人々の「心」に訴える力を持つアピールを作り 出せるか否かといった点も社会運動にとって重要となっている。ibid., p.p.5―19.

42)たとえば,L.サージェント編,田中かず子訳『マルクス主義とフェミニズムの不幸な 結婚』勁草書房,1991年,第1章における編者の回想を参照。

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環境市民運動の発展を求めて(上) 19 すなわち経済成長(=「豊かさ」),そのための生産力や効率性の追求等々を問 い直し,そうした近代の基軸的価値に照応したライフスタイルや組織のあり方 の見直しを迫るところがある。 また,第二波フェミニズムや市民権運動は,近代がたえず「周辺者」を再生 産する独!自!の!仕組み――前近代のいまだ払拭できない遺制としてではなく―― を内蔵していること,普遍的に基本的人権を保障するというその標榜する理念 は仮象でしかないことを鋭く告発した。換言すれば,女性やエスニック・マイ ノリティを差別から解放しようとすれば,それらの人々の差別を再生産してい る近代固有の仕組みと対決しなければならないことを鮮明にした。新しい社会 運動が自律性や集合的アイデンティティに鋭敏にならざるをえないのは,こう したところにも由来していたのである。くわえて,近代が内蔵するこうした差 別こそが近代の「豊かさ」を支える重要な支柱のひとつになってきたかぎ り43),これは環境運動が追求する近代の再審とも結びつくこととなる。 さらに,ライフスタイルを問うにせよ,女性やエスニック・マイノリティの 差別を問うにせよ,生活世界が争点の場として浮上する。そしてここには,一 方で,公私の世界を峻別してきた近代的リベラリズムへの批判が見出される。 女性差別について言えば,選挙権や相続権といった公的世界での差別解消が進 んでも,家庭内での女性差別には私的世界のこととして目を閉じるとすれば差 別の根源的解消にはいたらない。まさに,「個人的なことは政治的なこと」で ある,と。他方で,福祉国家化が進むことで,国家による管理が生活世界に深 く浸透し,「生活世界の植民地化」が生じていることへの批判も投げかけられ た。 長谷川氏は,J.コーエンの言葉を借りながら,「自己限定的なラディカリズ ム(self-limiting radicalism)」という点に新しい社会運動の大きな特質を見出し ている。体制変換を目指すのではなく,「市場経済と議会制民主主義を基本的 に受け入れたうえで,市民社会の自律性の防衛とパブリックな空間,公共圏の 43)たとえば,M.ミース他,古田睦美他訳『世界システムと女性』藤原書店,1995年,や 大沢真理『企業中心社会を超えて』時事通信社,1993年,を参照。

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20 彦根論叢 第368号 平成19(2007)年9月 拡大をめざす」運動というわけで,従前の社会運動との対比という点ではたし かに正鵠を射ていよう44)。だが,新しい社会運動の「新しさ」は,見てきた ようにさまざまに「近代の再審」という契機を孕んでいる。この運動は,資本 主義か社会主義かといった近代システムの枠内での体制の争いを超えて45) いっそう根源的なレベルでまさにラディカルな契機を孕んでいるのである。 もっとも,この「新しさ」がどこまで突き詰められてゆくかは必ずしも定か ではない。「豊かな」社会の到来という社会構造の変化,それに立脚したミド ルクラス中心の運動という,もう一方の「新しさ」からすれば,かの「新しさ」 の突き詰めは自らの足元を掘り崩しかねないものであって,当然,適当な妥協 を求めるであろうからである。というわけで,新しい社会運動はそのまさに「新 しさ」があやうい均衡を宿し,それがこの運動にある種の脆弱性を孕ませてい るように思われる。じっさい,長谷川氏による新しい社会運動論の紹介のなか にも,新しい社会運動論者内部の揺らぎを垣間見ることができる46)。 しかも,この点は,かって日高六郎氏が鋭く抉り出した市民運動の「ある種 の軽さ」に通じるし,その基底には「市民」概念自身の宿す危うさが検出され るように思われる。すなわち,日高氏は,市民運動における目標の限定性と連 動した「参加の部分性」に一定の合理性を認めつつ,その裏に,面倒や不利益 ないし危険が小さい限りでつきあうという「市民」的態度を認め,「抵抗の核 としての<個>が消え,分解し,部分化した<個>だけがのこる」ことを危惧 していたのだが47),この危惧は資本主義社会における「市民」が一定の抽象 のうえに成り立っていることに淵源を求めうるのではないだろうか。 44)長谷川氏,前掲書,75,124ページなど参照。 45)但し,資本主義と一対に扱われて然るべき特質もたしかに保持されているが,フランス 等の社会主義思想を問うまでもなく,マルクスの社会主義思想に限っても,その初期の著 作には簡単に近代システムの枠内と切り捨て得ない豊かさを見出すことができる。 46)直接民主主義への志向性や生産の自主管理を唱える論者の存在はかの特質と相克する し,生活世界の植民地化への批判も女性の社会進出を支える福祉制度の充実を求めるフェ ミニストと摩擦を生じえよう。長谷川氏,前掲書,124―125ページ参照。ちなみに,新自 由主義と共同体主義が相補しつつあることについては,齋藤氏,前掲書,78―79ページ。 47)やはり前掲拙稿で取り上げているので詳説を避けるが,日高六郎「市民と市民運動」『岩 波講座現代都市政策Ⅱ 市民参加』1973年, 所収,39―40,45,55,58―59ページなど参照。!

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環境市民運動の発展を求めて(上) 21 すなわち,人々は現実にはこの社会システムのうちで相対的に恵まれていた りいなかったりしながら,そうした格差を捨象して「市民」として並列される。 そのことは,一方で,抽象化した次元に成立している平等と現実との落差に気 づいてその落差の所以を追求しようとする人々をも生むであろうが,他方で格 差を再生産してくるシステム固有のメカニズムへの関心を棚上げする方向にも 作用する。しかも,前者の途を突き詰めてゆけば,恵まれている側にとっては 自らの基盤を掘り崩すことに通じる。人間には無自覚的にせよ保身感覚が働く から――ミドルクラスのように,そ " こ " そ " こ " 恵まれたという立場ほどいっそうそ うなりがち――後者の途を歩む人のほうが多数化しよう。こうして,恵まれた 側はシステムの孕む問題性をも射程におさめるようなシステム全体の有機的理 解からは身を引き離し,したがってまたそうした理解に立たないと得られない 「抵抗の核としての<個>」に至りつくことなく,自らにとってのシステムの 不都合性を孤立的に対象化した「部分化した<個>」に満足しがちとなる,と。 といっても,上述のところは,だから「市民運動」はたいした意味を持てな いと切り捨てようとしているのではない。そもそも資本主義システムはその価 レーゾン・デートル 格体系が――増殖という自らの存在根拠に関わる世界が――それなりに資本固 有の論理のみで閉じうるメタ・システム,換言すれば他者を自らの論理に抽象 化して包摂することができるメタ・システムである。たとえば,どのような文 化,価値観等を持った労働者でもすべてい"く"ら"で"雇用できたかのみで包摂する というように。そのさい,ジェンダー意識のように自らには外的な他システム の論理をそのままにメゾ・システムとして包摂し自らに都合よく利用もする が,場合によっては,なんらかの事情で包摂せざるをえない外的システムの論 理との摩擦を拡大することを回避して妥協を図ることもある。だからこそ,資 ちなみに,池子米軍住宅建設反対運動は市民運動として多くの収穫を残したが,組織原則 として「政治的立場をとらない」ことを掲げていた。多くの市民の力を結集するためにや むをえないことではあったろうが,テーマがテーマだけに日米安全保障条約の評価を棚上 げしては「部分化」した個の集団に堕さなかったか,「抵抗の核としての<個>」を堅持 することと市民運動との折れ合いの難しさを感じさせる。森元孝「“普通の主婦”と環境 ボランティア」鳥越皓之編『環境ボランティア・NPO の社会学』新曜社,2000年,参照。 !

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22 彦根論叢 第368号 平成19(2007)年9月 本主義システムは世界で多様に展開することとなるのである。 さらに,資本主義システムの基盤としての市場経済システムも,決して無味 乾燥な目的合理性ばかりの世界ではなく,むしろ売買の過程を通して当該市場 経済システムを枠づける価 ! 値 ! 意 ! 識 ! の ! 再 ! 生 ! 産 ! を遂行している。どこまで要求すれ ば暴利を貪るものと解されるのか,何は貨幣で売買される対象となりえ,何は それを許されるべきでないのかといった相互了解を再生産していっているわけ である。それゆえ,この面からも資本主義システムは多様化する48)。 このように資本主義市場経済システムが本性的に多様化しうるものである限 り,その多様化のポイントに働きかけて,望ましいと思われる方向へと大なり 小なり誘導することはできる。「市民運動」が果たしうることはあるわけであ る。但し,それをより有効なものとするためにも,「抵抗の核としての<個>」 に少しでも近づくこと,そのためにシステム全体の有機的理解に迫ることが求 められる。社会主義的運動には普遍を僭称するような錯誤もあれば組織論的欠 陥もあり,それを乗り越えようとする運動が登場するのは必然でもあるが,そ れとの差異化を急ぐあまりそれが有していたシステム全体の有機的理解への志 向をもあっさり捨て去るならば惜しいことと言えよう49)。 48)さしあたり拙稿「女性労働差別問題とマルクス派社会経済学の再構築」久場嬉子編『経 済学とジェンダー』明石書店,2002年参照。 49)紙幅の都合上もはや詳論できないが,次の点はやはり確認しておきたい。すなわち,NGO や NPO が努力し,また目覚めた地方自治体からの支援が活発化したとしても,現代世界 が「市民」の輩出をもたらすような状況にあるかというと予断を許さない。私たちが眼前 にしているグローバルな大衆消費社会の広がりは,ふつうの人々が確固とした「主体性」 を培養し,かつ「公共性」に真摯な関心を抱くこと,換言すればふつうの人々が「市民」 としての要件を備えるように成熟することに逆風を吹きつけているかもしれない。そもそ もポスト・コロニアルなフェミニズムから問いかけられているように,「確固とした主体 的個人」という観念自体が「近代」の構築物であって,「近代の問い直し」を課題として 内包する「新しい公共圏」の開拓はそれを疑い,自らにふさわしい新たな「主体的個人」 の創造を求めているかもしれないのである。小林富久子「フェミニズム文学批評」江原由 美子他編『フェミニズム』新曜社,1997年,所収,130ページ以下参照。

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