行信関係の基本的立場
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信
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係
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基
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場
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︵ 同 朋 大 学 ︶ 宗祖は﹁御本書﹂後序に﹁選択集﹂の附属と真影の図画を一汗されたことを感激的に叙述せられ、その中に﹁選択 集﹄について﹁真宗筒要念仏奥義摂三在干二斯一﹂と記している。この﹁選択集﹂を﹁御本書﹂六巻の中行巻にのみ引 用し、その文は題号と題下の十四字並びに総結八十二子である。これらの文は﹁選択集﹂の精要を抽出したものに して、古来いう如く﹃選択集﹄ 一部全体を引用する意と窺われる。この引用の祖意より窺うに﹁選択集﹂の中心は 二行章にありと見るべく、又行巻の大行は二行章相承の称名念仏なりと見られる。元祖はこの称名念仏が正定業であ る所以を本願の行なるがゆえとしている︵貫主いんしι
社おじ。果して宗祖は行巻に大行を釈するに称名念仏を以 い い て真実の大行とせられた。行巻のみならず﹁尊号真保釘丈﹂末一 γ における﹁選択集﹂の文を釈する下にも明らかに称 イ 寸 名念仏をもって往生の正業正因となしている。称名を住生の正業となす所以ば凡夫相応の易行なる、かゆえにして、本 願に﹁乃至十念﹂と誓与える願意を宗祖は﹁尊号真像銘文﹂本一い、﹁E m M
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文意﹂仁計、﹁工事念文意﹂計四にそれρ
\解明し﹁この誓願はすなはち易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまふなり﹂と 釈し、又行巻の行一念釈に﹁謂就ニ称名術数一顕二間選択易行至板一﹂といっているにても明らかである。 元祖はこの称名念仏の一行が本願に選択せられた願意を鋭い﹁選択集﹂本願章に易勝の二義をもって説明してい る。称名が易行なるのみにては往生の正業たりえぬのである。易にして然も勝なるがゆえに可能である。こうした元 祖の釈意を承け宗祖亦大行釈に﹁称元碍光如米名﹂とあるは易徳を、﹁斯行乃受名大行﹂は勝徳を顕わすものと窺われ る。元祖はこの勝徳を顕わすに名号の徳より釈しているが、今宗祖も亦称名をその行体である名号の徳より之を明ら か に し て い る 。 大行が称名であることは既に明らかであるが、然しそれは単なる称名ではない。宗祖はこ与に﹁論﹂ ﹁ 論 註 ﹂ の 釈 をかりてその称名が如実修行の称名なることを明らかにしたのである。即ち元祖相伝の称名念仏は単なる口称の称名 ではなく、如実修行の称名なりとなした。こ与に宗祖における大行の性格が明らかになると同時に、信別間の必然性 が顕わされる。既に元祖は﹁選択集﹂三心章に﹁念仏行者必可具足三心之文﹂と標し、善逗の三心釈を引き私釈に﹁所 引三心者是行者至要也﹂といい、﹁欲 v生 二 極 楽 一 之 人 全 可 ν具 一 二 三 心 一 也 ﹂ と い い 、 更 に ﹁ 当 v知生死之家以 ν疑 為 ニ 所 止 一 担 架 之城以 ν 信為二能入こと信心正肉の義を閃顕している。又﹁三心料簡および御法語﹂ ︵ 法 然 上 人 全 集 四 五 三 一 頁 ︶ に は ﹁ 取 一 一 信 於 一 念 一 尽 ニ 行 於 一 形 一 疑 一 二 念 往 生 一 者 即 多 念 皆 疑 念 之 念 仏 也 ﹂ と あ り 、 ﹁ 常 に 仰 せ ら れ け る 御 詞 ﹂ ︵ 人 エ 上 回 九O
頁 ︶ には﹁上人かた利給へる詞には、名号をきくといふとも、信ぜずぱ聞かざる、が如し、 たとへ信ずと云とも唱へずぱ信 ぜざるが如し、只つねに念仏すベし﹂といっている。その他信を必要とする文は幾多あるが、既に元祖かくの如く行 行信関係の基本的立場。
行信関係の基本的立場
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に信の離れざることを注意し、その称名は信具の称名なることを明している。こうした元祖の念仏義を直接票受せら れた宗祖であるから、この元祖の真意を開顕するに非常な苦心をせられたことは想像に難くはない。それが﹃御本 書﹂における行信二巻の釈明となって顕われた。即ち行巻は元祖相伝の称名念仏がそのま L 如実修行の信具の称名な ることを顕わし、信巻は行中の信を別閲して如実修行の根底が信心にあることを明らかならしめたのである。 和 讃﹄に﹁如実修行相応は信心ひとつにさだめたり﹂とあるは、今と全く同意である。 如実修行の称名は二知三信の上の称名なること﹃論註﹄下ι
讃嘆門釈に明す通りである。口業讃嘆の称名は信具の 称名であらねばならぬ。信具の称名即ち如実修行の称名なればこそ、称名に破満の徳用が具する。それゆえ称名が正 定業たり得るのである。 宗祖は行巻に信具の大行を明し、信巻に行具の大信を明す。行信は不離一体であるから行巻の大行は所修の行、信 巻の大信は能修の信にして法と機の両面より如実修行の行信を明したのである。大行が如実修行の称名なることは明 らかであるが、大信がこれを論証する根底をなすとはどうして知りうるであろうか。 先づ第一に﹃御本書﹄の題号が﹁教行証﹂の三法立題になっている。この中行は行巻に明す大行であるが、信巻の 信はこの行中より別開せられたものにして、もと/\行中に出せられる。行中摂信の信を別閲することが称名の如実 修行を証明する意趣のあらわれと窺われる。第二に信巻の大信即ちコ二問答によって明らかにする三信即一の一心は 単に信心を説明するためのものではない。それは無疑の一心が称名を如実修行たらしなるためのものである。元祖 が﹃三心料簡および御法語﹄に一念の信疑が称名の如実不如実を分別する根源となることを指摘しているが、この元 祖の意を一層明瞭にしたものといえよう。それゆえ宗祖は信巻大信を明す下に﹃論詰﹄讃嘆門の釈を引用し大信の証 明としているが、これ亦単なる大信の証明ではなく、如実修行相応が信心ひとつにあることの証明に外ならぬ。このことは更にコ二問存を見ることによって せられる。即ら第一日答を桔ぶに三信を疑主任⋮符の一心となし ﹁ 是 故 論 主 建 言 二 一 心 一 也 応 ν知 ﹂ と 論 、 一 立 の 一 心 に 会 人 口 し 、 次 に 第 二 川 答 を 結 ぶ に ﹁ 信 知 至 心 伯 楽 欲 生 立 一 一 円 胤 レ 呉 其 意 悦 一何以故三心巳疑茶無 v雑 故 真 実 一 心 是 名 一 一 金 剛 真 心 一 金 剛 真 心 是 名 二 真 実 信 心 一 真 実 信 心 必 具 二 名 号 一 名 ザ 必 不 v口 六 三 闘 力 信 心 一 也 是 故 論 主 建 言 一 一 我 一 心 一 又 一 一 一 一 口 ニ 如 彼 名 義 欲 如 完 修 行 相 応 故 一 ﹂ といい、更に二二川容を総結するに﹁故知一心是名 如 実 修 行 相 応 一 ﹂ と い っ て い る 。 コ二問答に字訓釈︵約機釈︶と仏意釈︵的法釈︶の二問答がある、が、要するにこれは疑来無雑の一心を明らかにする にあり、而してこの一心、行巻に明した称名が如実修行の称名たることの根氏がこ L にあることを明示せんが為めの ものに外ならなかった。それ故この一心ば行中より別閉した一心にして、一川もこの一心は称名が現行する行具の一心 である。真実信心必具名号とはこれを端的に表明したものにして、 必具名号の一名号はいうまでもなく如実修行の称名 である。称名の如実不如実を決定するは信心にあり、宗祖は大行釈に﹁真如一実之功徳宝海﹂といい、大信を明すに ﹁真如一実之信海也﹂と、何れも如実の行信なることを明言している。こ与に自ら他力廻向の行信なることが判明す る 行巻の標挙に﹁諸仏称名之願紅一日肺訴﹂とあり、浄土真実之行とは化巻に明す浄土方使の行に対し、選択本願の 行は第十八願の乃至十念の念仏にして、何れも称名念仏である。この称名念仏が大行であることは申すまでもない が、この称名念仏と第十七願との関係は如何であろうか。 第十七願が諸仏の能讃を誓える願なることには異論はない。然し﹁称我名者﹂の称が称揚の義であるか、称念の義 行信関係の基本的立場
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行信関係の基本的立場 0 四 とするかは存覚師の﹁六要紗﹂以来の問題である。この問題については既に﹁宗祖の第十七願観﹂ ︵ 同 朋 学 報 第 八 ・ 九 合併号﹀に私考を発表したから今は之を再説しない、が、私は﹁次口監﹂は称揚にして﹁称﹂は称念の義とする。随って 第十七願は容嵯と称名の一広略二讃を誓える願とする。 行巻の大行を衆生の称名とする時、第十七願の諸仏の称名とは如何なる関係をなすであろうか、衆生の称名は第十 八願の乃至十念の称名であるが、今宗祖はこれを第十七回下に選択本願之行として細註せられた。これは衆生の称名 を第十七願の上に発見したことを物語るものである。もと/\乃至十念を称名とすることは道梓、善導以来の浄土教 の伝統的宗義であるが、元祖はそれの論証を念戸是一の義をもってせられた︵選収集本願市参照︶。 ﹂ の 念 声 是 一 の 義 は観経下々品の十念往生をもって本願の乃至十念が称名念仏なることを証明したものにして、宗祖また﹁唯信紗文 意﹂の終りにこのことを認めている。然し本願文を他経を以て証明することは合理的とはいえない。そこで宗祖は直 接第十七願文の﹁称我名者﹂の上に乃至十念の義を求めたのである。即ち称我名者は訪仏の称名であり、諸仏の称名 の上に乃至十念の衆生の称名の本源を窺ったのである。 ﹃唯信紗文意﹂八左﹁すでに称名の本願は選択の正悶たるこ と悲願にあらはれたり﹂とあるはそれである。衆生の称名を第十七願下に出すことはこうした理由によるが、更にこ のことは諸仏の称名との関係を考察することによって一層明瞭となる。 古来先輩は行巻を約法の巻と見る。衆生の称名を約法とすることは如何なる意味であろううか、称名と名号は相即 するから所行所信を明す行巻では称名を名号に帰して扱うという意味であろうか、名号大行論の主張せられる所以で あろうが私はそうは考えない。衆生の称名は諸仏の称名より現はるるのである。 ﹁ 斯 行 者 出 v 於 二 大 悲 願 一 ﹂ と あ る も 衆生の称名が第十七願の廻向成就であるとの意である。行の廻向成就とは衆生の上に念仏が称えられるという現実を 指してのことである。衆生の称える念仏は悉く第十七聞の願力廻向である。具体的には詰仏の称名を聞き衆生のも
らい受けた称名である。御忠臣促の大行である。この諸仏を浄言の上書︵ポ灯紗十七︶こ工言心の行者となし、これに
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対し宗祖は諸仏等同について詳細なる書簡を賜っている。 活仏の名号讃嘆にしろ称名にしろ口業農嘆であるから、衆生よりすれば所聞の法となる。衆生は所聞の法を能聞す ることにより信心歓喜するのである。この所聞の法は必ずしも第三者の諸仏の称名のみとは限らない。衆生の称名ま た所閣の法となる。自ら称名しつ与自らこれを聞くのである。称名相続すれば信心いよ/\増長し、信心増長すれば 称名いよ/\相続するのである。こうした称名が所聞の法となる時、その称名は衆生の称名でありつつ諸仏位の称名 となる。大行を衆生の称名となし、これを第十七願諸仏称名の願下に明す祖意正しくここにあったのではなかろう か。衆生の称名を常に諸仏位の称名と仰ぐ所に廻向の大行たるの意義があり、終日能行すれども所行海を出でずとの 先輩の名言にも契合するのである。四
宗祖における行信関係は該摂一願の伝統的理解と二願分聞の己証の両面がある。 一願建立の場合は三信を十念に摂 め、念仏往生の本願と領解し称名念仏を勧めるのである。この場合宗祖は本願の乃至十念を釈するに﹁ちかひの名号を と な へ ん ﹂ ︵ 唯 信 紗 文 意 仁 計 、 尊 号 真 像 銘 文 本ι
等︶といい、誓願の名号を称うること与する。誓願の名号といえば信受 称念すべきである。単なる口称の称念ではない。それゆえ広本﹁尊号真像銘文﹂本︵真聖全二、五七七頁﹀ に乃至十念 を釈し、それに続いて﹁如来の御ちかひをたまわりぬるには尋常の時節をとり臨終の称念をまつべからず、 た け ふ 如 来 の至心信楽をふかくたのむべしとなり、この真実信心をえむとき摂取不捨の心光にいりぬれば正定策のくらゐにさだ まるとみえたり﹂とあり、更に若不生者不取正覚を釈して﹁すなはち至心信楽をえたるひとわが浄土にもしむまれず 行信関係の基本的立場 0 五行 信 関 係 の 基 本 的 立 場
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六 は仏にならじとちかひたまへる御のり也﹂とあり、乃至十念の称名を三信に摂め、信心決定によって正定衆に住すと 釈 し て い る 。 以上の二釈を総合する時、前者は三信を十念に摂め念仏往生の誓願となし、後者は十念を三信に摂め信心正因の義 を明す。宗祖は伝統の宗義を承けつつ信心正因の義を開顕せんとしている。この事は﹃末灯妙﹄有阿弥陀仏への御返 事の章に明瞭に教示せられている。これを見るに三信の対象は﹁乃至十念若不生者不取正覚﹂の念仏往生の誓願であ り、この誓願を信ずる三信には乃至十念の念仏が必具する。行は常に信に先行し信には必ず行が具する。伝統の宗義 では信具の行たる称名が往生の正業であり、宗祖の己証では行具の信が必定の正固たることを開顕しているのであ る。
宗祖は己証の立場を明瞭にすべく二願を分間し行信を別問したのである。乃至十念の称名が既に第十七願に顕われ ていること前述の通りである。更に宗祖は﹃御消息集﹂ ︵ 善 性 本 、 真 聖 全 二 、 七 一 五 頁 ﹀ に 第 十 七 願 に 諸 仏 の 称 名 を 誓 ぃ、第十八願に信心まことなることを誓いたまへりと行信を二願に分ち、更に﹃三経往生文類﹂捌に第十七願は正業 ︵称名︶成就、第十八願は信心成就の願となし、本願の三信十念をそれ九九十七、十八の二願に分間し往生の因たる 行信共に願力廻向なることを明した。即ち本願の願事は必ずしも一つと限らないが願体は必ず一つである。その願体 が所廻向の主体となる。所廻向には能廻向の願心が離れないから行信共に﹁ちかいの名号﹂ ﹁ちかいの信心﹂といわ れ本願力廻向の行信であることを顕わしている。信巻に﹁雨者若行若信無 v有 四 一 事 非 一 − 一 阿 弥 陀 如 来 清 浄 願 心 之 所 ニ 廻 向 成 就 一 非 ニ 無 ν因 他 因 有 一 也 可 v知 ﹂ と あ る 。 往生の因が他力廻向なること未だ元祖の明らかにせられなかった所にして、 不廻向の行が如来廻向の行なることを 明瞭にしたのは正しく宗祖である。かくて宗祖は信不離の行を行巻に、行不離の信を信巻に明し、行巻には行信といぃ、信巻には信行といって行信不離一体なることを注意している。更に﹃末灯紗﹄信行一念章には行信不離の関係が 実に巧みに教示せられている。かくて行巻の大行は信具の大行にして如実修行の称名なること明らかである。その称 名が如来廻向のものであり、諸仏位の称名として所聞の法となるをもって、衆生の称名が大行として第十七阪下に明 さるム所以が領解せられる。信心は称名を能修する機の立場を似わし、何れも如実の行信として衆生往生の正業正悶 をなす。存覚師は﹁六要紗﹂にこうした行信関係を所修の行と能修の信の関係で説明している。所修の行は能修の機 に対して法とせられ、この法は名号、称名何れもその内容となること勿論である。而して能信の信は﹁歎具抄﹂にい う﹁念仏申さんと思い立つ心﹂にして、その思い立つ一念が往生の正因となり、現生に正定茨に住する。これ法の機 に受得せられた相にして、この一念称名を現行する一心なるこというまでもない。この機法また不離一体である。
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﹁唯信紗文意﹄一一昨に五会法事讃の﹁開名念我﹂を釈し﹁聞はきくという信心をあらはすみのりなり、名は如来の ちかひの名号なり、念我とまうすはこのみなを憶念せよとなり、諸仏称名の悲願にあらはせり、憶念といふはまこと なる人は本願をつねにおもひいづるこふろのたえずつねなるなり﹂とあり、又化巻に﹁横超者憶ニ念本願一離ニ自力之 心一是名ニ横超他力一憶也斯即専中之専頓中之頓真中之真乗中之一乗斯乃真宗也巳顕ニ真実行之中一畢﹂とある。この二文 を対照するに既に第十七願に信心まで成就せられであることを述べ、又行巻には本願一乗︵愚禿紗上六左には第一希有之 行という﹀を拐すと共に、本願を念する信心も明し畢ることを記している。行巻に信心を明すとは大行が信具の称名で あり、称名を所閣の法として信心を増長する称名として見る時、称名それ自体を如来招喚の勅命と聞くのである。称 名の上に如来招喚の勅命を聞き、称名を通して往生の確かさを信知せしめられる。称名が正定業といわれる所以もこ 行 信 関 係 の 基 本 的 立 場一
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七行信関係の基本的立場