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『宗教研究』新第1巻第1号(*19号)

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(1)

――目次―― 1,口絵,照法師勝鬘経疏(失題) 2,教祖の人格に関する観念,姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.1-16. 3,近代における宗教研究上の一大革新(上),矢吹慶輝,Keiki YABUKI,pp.17-32. 4,首狩について,宇野円空,Enkū UNO,pp.33-46. 5,仏教の中心観念,羽溪了諦,Ryōtai HATANI,pp.47-68. 6,釈尊説法の言葉について,干潟龍祥,Ryūshō HIGATA,pp.69-82. 7,教団の社会的考察,二十二鉄鎧,Nisoji TETSUGAI,pp.83-94.

8,Community Church Movement について,今岡信一良,Shinichirō IMAOKA,pp.95-101.

9,折伏より忍伏へ,常盤大定,Daizyō TOKIWA,pp.102-106.

10,カンボヂアの宗教,植木謙英,Kenei UEKI,pp.107-116.

11,支那仏教事情,廬山便り,木村泰賢,Taiken KIMURA,pp.116-123.

12,新刊批評

Jeremias, Allgemeine Religionsgeschichite,石橋智信,Tomonobu ISHIBASHI,pp.124-125.

Unwin, Religion and Biology,大塚道光,Dōkō ŌTUKA,pp.125-130.

常盤大定氏著『支那仏教史蹟』,高桑駒吉,Komakichi TAKAKUWA,pp.130-132.

John Mckenzie, Hindu Ethics,甲斐実行,Jikkō KAI,pp.132-137.

A.Berriedale Keith, The Sāinkhya System,脇本寿泉,Zyusen WAKIMOTO,pp.137-140.

Lévy-Bruhl, Primitive Mentality(Tr.from French),松井了穏,Ryōon MATSUI,pp.140-142.

Edwin, W.Smith, The Religion of Lower Races,原田敏明,Toshiaki HARADA,pp.142-143.

(2)

彗瑚 ′ ゝ‰}・瞥考∴牒㍉ 暫 鳩 声 irl ︰・てヒ

督サ﹂湧水賢汐鼠執務摘

凍え祖増加告せ呵易牒軽度

認耳虜制空かイ盲を乞貯

碑甘柿真蜂長峯草葺華泰虜鰍彗隠滅洩密廃漣埠れ≠⋮五

為薄竺珂曝或思必ネ終演蜜柑縫わ患崖萄為濱−ノ㌣ ︷

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(3)

照法師勝掌経疏 ︵失撃

後記lこ日く﹁照津師疏﹂、﹁延昌四年五月廿三日於京承明寺常勝軍疏一部高昌寄道 人待受所供暮許﹂寸J。延昌四年は高昌年波寸Jすれば西紀五六四年に−して、北魂年茨 ミすれば西紀五一五年lこ嘗ろ。大英博物館には本書の外、﹁慧掌落、勝琶義認一巻、 正始元年︵西紀五〇四︶二月十四日寓託、用紙十一張、章献共立洒上人校了﹂の奥馬 及後記な有すろ勝彗軽義認あり。現存支部撰述諸膝葦軽疏中、義認に慧遠の﹁義認﹂、 吉成の﹁賛窟﹂、窺基皇.速記﹂に非ろは勿論和漢の諸膝写経疏申に引用ぜらろゝ ﹁首 謀﹂、暦鰻¢﹁江藤電﹂、梁林法師¢﹁一巻疏﹂、﹁無名疏﹂とも符合ぜす。本疏と合ぜイ、 嘗て世に知られざりlし現存古逸勝葦軽疏とす。︵矢吹度輝Lろす︶ 財団法人啓明合併赦¢スタイン支那寓木口 ートゲラフより複製、原水大英博物館所蔵

(4)

l ﹁誠に紳にして誠に人﹂といふニカイ信條の文句は、千数百年間諭軍の和となつて凍て、種々異論 のあるにか∼はらす、具によくキリスト教の信仰空言ひ表はして居る。それと相應じて、偶数で﹁法 身﹂及﹁如凍﹂といふ考は、概念として見れば、困難を合むといひ得るが、係数の中心観念として、 その宗教信仰の枢機を担って居る。而してその他の諸宗教では、此れほど明確に一言で云ひ表はさ ないにしても、多くは同様の観念を中軸として動いてゐる。それをもつと卒易にいへば、教剋と仰 く人格に対する信念である。﹁紳人合一﹂とか、﹁人法一如﹂とかいふのは、此の信念に形而上的解辞 を加へて云ひ衷はしたものであるが、それを近頃の信仰傾向では、自然ま義を加味して、﹁人格の戚 化接触﹂とか、人格を通しての経験﹂とかいふ工合に云ひ表はして居るに外ならぬ。勿論、同様の信 念でも、それを如何に意識し、如何に之を云ひ表はすかといふ事、即ち重きをおく鮎の異なる庭

教組の人格に関する観念

教組の人格に閲する親念

ム〓 、V一l

(5)

’ 二 教組の人格lニ開寸る碍念 に、それぐ意味もぁるに蓮ひないが、前後を達観すれば、問題はやは♭同じ中軸を廻樽して居る のである。 此の問題は、此の如く舜産もあり礎積もあるが、結着は、宗教信仰が何等かの意味での細露智仰 ぎ、それとの接近︵又は融合︶を究克の理想として、而かも、その理想的紳電を具髄的に人格の生命 に求めようとする焉に生じた事賓である。即ち一般に教戒として仰がれる人の人格について、その 意義を求めるから生じ化問題で、此を概念的に云ひ表はせば、紳畢宗義の問題となるが、感化の内 容から云はい信仰経験の問題であり、且つその含蓄する所は種々の信仰問題に亙ってゐる。即ち一 系の宗教が、まとして一人格の戚化から洗れ出て、その信徒がその人を細入と仰ぎ、伝仰のめじる しをその人に置き、又従って信仰の内容をその人の数へ︵それが畢に訓言であらうと、又は数理に 組織せられてあらうと︶に基いて筆立する場合、その人を如何なる資格に於て教戒と仰ぐかといふ 粘にある。 そこで此の問題に含蓄する第一の要鮎は、教戒人物の人間世界に活きて居たといふ事賓、その生 活の賓相と一生の経歴など、即ち歴史的人物たる資格に閲する問題である。勿論、神話的人物を教 組と仰ぐ宗教もあり、又歴史的人物でも、多少ともそれを紳詩的に修飾し又は理想化するといふ尊 もあるが、それは今問題外として、兎に角、歴史的人物であるといふ事が、数剋に対する観念の一

(6)

●u 要素たる事について考へる要がある。 此は、各宗教に於て教組の侍記を何等かの形で有し、即ち紳詩的修飾はあつても、その人の地上 人界に於ける活動を何等かの形で博へようと努力してゐるに照らして明かでぁる。勿論、近代的意 義での博記、例へば境遇、造侍、心理状態などを主題とする意味での侍記といふものは、今までは 殆ど存在しなかつたが、それでも単に理想︵現賓に射する意味で︶の人物、架容の侍諒としては信 仰を満たすに足らない。そこで、その人が地上人界の生存に於て救世済民の事業をなし、数粛とし ての活動をした、その跡を侍へるといふ侍記は、或は螢歌の形な♭、又は頑青書︵即ち侍造用の手 引︶の形なり、又はその人を追慕し沈思所念する戚想錬の形と行アり、何等かの形での侍記が信仰の 一要素として聖典の中に存するを常とする。その最もうぶな表現は、彿数の﹁異論集﹂︵国旨㌣召tth且 で、彿陀は事質入界の存在を有してゐた事を澄する焉に、その誕生、成造、嘩法翰七人滅︵所謂四舶︶ の場所が印度国内に現存して、記念碑も建ってゐるじやないかといふ諭をしてゐる如き、その一例 である。又キリストの革青書にも、その誕生の場所と事情を示し、又ほダビデ王以凍の系譜を奉げ、 又復活の時には、弟子でその手に観れたものもあるとしてゐるのも、他の一例である。日蓮宗で、 その宗租遭難の場所を神聖とし、眞宗で本願寺は、その法主が宗剋の血統を引いてゐるといふ事に 重きを置くのも、方面は異なつても、宗租の歴史的人物たる事に信仰の重要なる一角を据ゑてゐる 教組百人格に関する観念 ▲

(7)

▲一 焉である。近頃の天理教や大本敦が、数租老嬰の墓所に重きを置くのも、大嘘同様の心理から出て ゐると思はれる。 侍ほ歴史的事賓といふ事に関しては、種々の問題も出て凍るが、後に述べることにして、そこで 問題は、進んでその歴史的事賓と信仰との開聯如何といふことになる。而Lてこの﹁信仰﹂といふ鮎 は、又二要素として考へる必要がある。帥ら、歴史的人格を信仰の標準権威として仰ぐといふ方面 と、直接に信者各自の信仰経験に照らして見るといふ方面と、二つにな♭、それに伴って、又樺威 と経験との周係如何といふことが問題になる。 そこで権威といふのは、自分の考へ又は行動をそれに托し得るといふ、信頼信用の依トニところで. ある。自分が未だ知らぬこと、未だためぅぬーと、若くは知♭得す、ためし得ぬと思ふことについ で、構成の輿へる所に信頼し、その命やる所に服従するのが、権威に射する線度で㊦る、而かも、 知らぬとかためさぬといふことは、同一の人でも場合によつて壁遷するから、一つの敦又は一つの 人物を権威として仰ぐといふことも、棟準は相対的に憂遷するを免れない。此の意味で云はぃ世の 中に﹁絶対Lの構成といふものはあり得ないわけであるが、宗教信仰に於ては大に趣牽異にする鮎が ある。即ち宗教信仰は、畢術研究の線度と違って、自ら知り自らためすといふ努力をも︵場合によ っては︶棄てゝかゝつて、萬事を樺成に托さうとする。此の臨依の鰻度が徹底すれば、自ら知う、 教組の人格に附すろ概念

(8)

■○

自らためし得たことでも、それはやはら構成を信頗したお蔭で知ら文元めし得たのだとするに至る。

通常ならば自分の意志で動いてゐると意識することでも、此の如き信魔の濃度に組み入れて見ると、

神意の賜、又は樺威の命令だとして動くことになる。所謂る純他力といふのは1此の態度を寒かう とするから生する観念であつて、他人の所見又は批判如何にか∼はらす、自分セは樺威に己れを托

してゐるのである。此の如き﹁絶対﹂の意簸で、数剋を樺成として仰ぐといふことになう、又数剋の

人格又事鱒曾歴史的事賓として之に信腰するといふ場合に、その﹁事賓﹂といふことに対する判断文

は信念は何に基くかといふ問題が生じて凍る。即ち敦へ︵又は信仰の内容︶は、教戒の権威によ.つて

倍ずるとして、どの数へは果して事賓教戒の輿へたものであるや否やといふ鮎は、どこで決するか

といふ問題におしつめざるを得ない。約して云はて事賓に射する判断は標威に対する信魔の一部

であるか、又はその外にあるかといふ問題になる。

此の問題を知力判断の事柄として見れば、一種のいたちごつこをやることになるが、倍仰の解渾

は趣を異にする。而して此の問題は、係数では数理の方が重きをなし、彿陀の歴史的人格が段々稀

薄になつた虜に大して問題にはならなかったが、キリスト教では、璧量の権威といふ問題として、

早くから重要の位置を占め、今日でも何ほ豊富の性質如何といふ問題になつて残ってゐる。その後

代の串は別にして、この問題については、既に早く璽日記者ルカが一種の解繹で進んでゐる。即ち

散組百人格にこ珊すろ観念 五

(9)

貞V ル空鱒青書の努頭、福音記藤の由雄書に、その意味を述べ、その編纂は、﹁我等の中に篤く倍せられ たる事柄を、始より親く見て道に事へたる者の、我等に侍へし通りに書きつらぬん﹂焉だと明言して ゐる。即ちキリストの一生、その誕生から十字架上の死、復活に至るまでの畢置密事賓として承認 するほ勿論、それは信者の仲間では﹁篤く信せられたる﹂、即ち疑問のない事賓だとし、且つキリス ーの直弟子たちはその事賓を終始現しく見開した謹人であるから、その人等の問に侍へたことを書 き記すといふのである。而して書き記す目的は、信仰を輿へ信仰を確立する焉なるは、勿論の事で ある。即ち救主としてのキリストが一生の事賓と、その権威と、それに封する信仰と、此の三つが よく一敦敵合して、その間に隔てがないといふ見解であるから、その限に於ては問題は起らない。 それであるから、この三つ巴の一角に勒童が生すれば、それが仝憶に及ぶのは自然の勢で、近代に 至って歴史批評の精細が教戒の樽記に却はるに及んで、何れの宗教も、その勤務を受け、標威とい ひ信仰といふ立場を改訂する必要に迫られる所以はこゝにある。此の動揺から生じて凍た問題の数 々は、今一々述べす、さういふ動揺の免れ発いといふ事を一言するに留めておく。 そこで次は﹁経験﹂といふ方面に移るが、此は殆ど信仰と同義であつて、而かも又多少趣窒異にす る方南がめる。﹁経験﹂といふのは、その由つて凍る所を問はす、その基く所に開せす、意識の内容 として勒かすべからざる主観的革質だといふ鮎に重きを置く見地である。廉く云ほい、何れの時代 ′ 教組¢人格lこ頗すろ親念

(10)

7

にも、宗教には各々その信仰の繹駿があら、又宗教でなくとも一人問の主観的生命は経験の連結又

は堆積に外ならぬ。此の如く一粒約に見れば、票数信仰は﹁経験﹂だといふのは、自明の事、又殆ど

無用の重複に過ぎない。盛るに現代以前の宗教では、鮭駿の事賓はあつても︵特に多く紳秘家の閏 に︶、﹁繹琴盲力率しなかったのに対して、近代になつてその力説が曙長して黍たのには、その由寒 がなくてはならぬbその重要な理由の一つは、即ち前に述べた、革質と樺威と信仰圭一つ巴の動揺

にある。﹁革質﹂といふ観念の動揺に加へて、﹁標威﹂も亦大に動揺し始め、知識の方面では科挙の賓

験的持前と、賓生活に於ては、敢皆の民本約束風とが、共に桔威を疑ひ、不信用とし、終には権威

枝盛が一代の気運になつて凍た。そこで数蒐一生の事準竺′事賓﹂だとして承寧し信服するといこと

がぐらつくのみならす、たとひ﹁事賓﹂だとしても、果してそれが権威になるや否やといふことも疑

問となる。否−謄威にならない。文一股に権威といふものを認めないといふまでにも進む。此に於

て三つ巴の一角セる信仰はよほど異なる足場を求めざるを得ぎるに至った。即ち﹁経験﹂といふ安宅

に立てこもる途が開けたわけで、歴史的﹁事賞﹂はどうあらうとも、信仰の経験に訴へてその満足を

得れば足らるといふ夙に、一般に信仰問題が傾き、その気凪が教戒の人格に射する信念にも及んで

凍たのでぁる。その趣く朗は、﹁革質﹂をも﹁痙験﹂の中に組み入れ、数親の人格、尊厳、戚化、常﹁経

験﹂の事賓とならすば、信仰のカなしとし、数親の人格を沈思してその戚化窒息誠に現前しーその精

教組の人格lこ節する観念 七

(11)

00 八 教組¢人格lこ闊†る観念 神妖患とそれから出て凍る生命の事賓︵即ち健験︶とを併せて、そこに信仰といふ経験の畢ひ難く、 自立濁得の境地を開くべしといふま荻になつて凍た。 此の傾向は、何れの宗教にも、多少は神秘的経験として費見し得るが、彿数よりもキリスト教に 多かった。即ち偶数では、傭心を己心に鰹現するとか︵踵に於ける如く︶、傍観浄土を観念に浮べる とか︵畢吉や渾土門の如く︶いふ経験はあつても、それは殆ど全く﹁事賓﹂としての偽陀と無園係であ った。勿論、法華三味、富山渾土の税法の如きは匂辞令を中心とはするが、それも人界に生存した 辞令との関係は極めて稀薄であつた。之に反してキリスト教の神秘家は、多くは頑青書を基本とし てキリストの襲わ壷ハ想し、その誕生、洗祀などの事濃、特に受難、復活の跡を冥想して、それをあ ちあらと心に浮べようとするのみならや、文字通りに身燈に経験しょぅとまでした。即ち﹁篤く信 せられた事賓﹂と数骨の樽統とに加へて、宗祖り寮蹟壱身に憶験しょうとしたのであるから、その 信念に於ては、勿論﹁事賓﹂と﹁経験﹂との合一であつた。但しその﹁重賞﹂が今自の批評的立場から見 ての事賓と必しも同一でないのは勿論の次第である。 此等は﹁経験﹂といふことについて在凍の事例を馨げる男に述べたのでめるが、今Jゝに考へて凍 た近代に於ける﹁経験﹂偏重は、在家紳秘家の経験とは少々頚を異にし、自然ま義の風潮から生じて 凍た現象である。云はゞ軍配の偏重であつて、自家信念の要求を標準とし、その﹁経験﹂の中に教組

(12)

9 の人格をも寮蹟一ギも信念をも組み入れようとするもの、而してその解繹には多少倫理的のもあるが、 叉本能本位、戚備本位の傾向な帯びたものも多い。即ち﹁人間ヤソ﹂とか﹁人間親鸞﹂とかいふ方面を 力説して教組を解辞し、又その解渾に依って自己信念の強みを宿さうとする。そこに単なる自然重 義との違ひほあるので、単に白銀のま∼に自分の信念又は本能要求で満足するならば、教組若くは 類似の人物をかつぎ出すに及ばない繹であるが、自家の﹁経験﹂を重んじながら、やはちその支持を 何物にか求め、その射手の戚化にカを得ようとする。而かも﹁寧賓﹂や﹁痩威﹂としてでなく、﹁経験﹂ として戚化に接するを旨とするから、どうしても主観偏重になり、場合によつては教組をだしに使 ふことになる。そこに至れば、宗威の感化で自分が引き上げられるのと、自分の主観︵戚じ又は偏 見など︶で宗祖を引き下げるのと、どちらが多いか、疑問になる場合が多くなる。 近年、日本で流行した所謂る﹁創作﹂物の数威樽、暗に親鸞宗の作には、此の自然的傾向が最も著 しく、﹁出家とその弟子﹂の如き、親鸞セだしに使って、自らの蕃鸞に﹁涙ぐましい﹂経験を托した のを始め、日蓮を水軍政蓬動の一両で描き、老子牽漂浪の遊野郎にし、ヤソをヒステリクの客想家 ︵食革命家︶と見、辞令の出家を款奨の倦怠と見るなど、一般に偶像破壊の傾向が随分極端になつて きた。此に至れば、通常いふ意駄の﹁数威﹂として仰ぐのではないが、それでも﹁創作﹂家の心持ちで は、どこかに自分の要求又は信念理想を托さうとし、而して此等宗教的人格をその立場から見て、 教組画人終に脚する観念

(13)

教執¢人格に約すろ観念 一〇 異相こ∼にあゎ、戚他力も亦こゝにあ♭として、その人物を描き出したのであるから、一種戚他の 源泉として之を仰ぐ鮮度はある。そこに今までとは別種の憲政ながら、宗教的意昧があ♭、此等の ﹁創作﹂家が宗教的人物をま題にしけ動機もそこにある。それ故、今教組に関する問題に閲して、此 の粘に論及した次第である。兎に角、数厳に関する自然主義的﹁創作﹂は既往三四年の間に、大鰹、 嘉火蟹焼き温した。後に来るべきは何か′、他日に験する外ない。 / 経嬢偏重から韓じて、構成と事賓との聯絡に移る。此亦傲故には鎗ら多く存しない問題で、キリ スト教でも近代的傾向の聾に多く現れてゐる。構成といふ倒は、舌衆キリスト教皆の歪要事であつ たが、歴史批評の問題が起って以来、而して致曾の橙威を韓じて教組キリストの人格的槙準に集中 する喬に、二者の関係は、特にリチル振から出た所謂る﹁自由藤率﹂にとつて塵要の問題となつて建 た。その間に種々の試みと傾向とはあ′るが、結局、福音書を事賓の記厳とし見て、その間に歴史的 批評の取捨を施し、その結果、キリストの人物とその放とは、どこに除著するかといふ見地で研究 と考慮とを進める。キリスト教の﹁心髄Lとか﹁本質﹂とかいふ観念が表面に衷はれて凍たのは、此の 取捨撰澤の意酸から出て、その中には歴史事賓の問題と、信仰に対する梗準の問題とが合燈してゐ る。一方歴史家たる♪ルナツクが、他方﹁キリスト教の本腰﹂哲キリストの説教の中に求めて、後代 教生の数理、散骨組識、制度などを排除しょうとしたのは、この傾向の最も明確な一例でめる。

(14)

♪ルナツク風の考へ方で見れば、﹁構成﹂といふ観念にも、在凍のと舜化はめるが、大健に於て信

仰の棟準といふ観念は保存しっ∼、而してそれを歴史批評の結果だといふ事賓、特に山上訓諌の中

に食む倫理教訓に求めるにある。山上訓誠のみがキリストの眞意であつて、他は棄つべきや否やと

いふ様な内容上の問題は、論題外であるから、之に嘲れない。此靂で考ふべき鮎は、信仰の榛準を

キリストの数︵特に倫理的︶に求めること、その標準の取捨撰澤で得たといふ事賞の異相に基くこ

と、此の二鮎にめる。此は一見して頗る客観的のやら方の如く見えるが、その結果決してさう行か

ない。といふのは、此の傾向が、趣に於てほ、先に述べた経験偏克と異なつても、問題の依って適

った動機と、その周囲の気風とが、経験偏重と同じく近代風の自己中心から出てゐる焉である。従

って、葦歯偏垂が、教組の人格を一般の水軍に引き下げる虞があると同じく、﹁事賓﹂の取捨が、教

組の戚化を一面のみに局限する危険を必然的に伴ってゐる。ワァジーがハルナツクを批評して、後

れの見るキリストは畢克ハルナツク自身に外ならすといつたのは、その翁であつて、結果はやはり

三つ巴の破片になる。

そこで出費粘に立ち戻って、事賓と権威と経験︵信念︶との三つ巴を如何に打ち建てるかといふ問

題を見る。在凍の信仰の如く﹁事賓﹂に批許を施さないのは、近代思想には到底容れられす、近代的

歴史批評の立場は︵結果は必しも一致しないでも︶、到底棄てるわけに行かない。又﹁構成﹂といふこ 教組の人格にこ囲すろ観念

(15)

教組¢人格にこ鰐†ろ概念

〓一

とに関しても、在凍の如き絶対標準、場合によつては百目的信服を要するといふ立場は、現代の我

々には出奔ない。然しそれならばといつて、﹁経陰﹂偏重で、自己満足を目やすとして構成又は榛準

を排除するならば、数剋の戚化といふことは全く問題にしない方が正普なのである。そこで、今論

じた如く、現代の自然主義的教組観でも、全然それを排除しないといふのは、畢孟︵解繹は如何にし ても︶、人格の戚化が信仰の重要事たる名である。即ち一系の数理を輿へ、一定の組織ある数圏の創

立者といふ意味でなくとも、信仰の上に、どれだけかでも感化の源泉となる人を、廣義での教組と

して、その人格に対する観念を如何に廃置するかといふ問題ほどこまでも裁って行く。

此の如き贋い、又従って稀薄な意味での教組に関しても、苛もその人を理想信仰のよわどころに

し、幾分かでもその人格の中に神霊の閃き又は啓示を見て、その人を尊貴することなれば、その人

はその限に於て、一般人問よ♭も油壷に近い人、又は眞理理想の餞現者として仰がるペきである。

畢なる英雄崇詳でも、その意義を求めて、深みに進めて見れば、同様の滑息に触れるペきであるがー

心慮生活の帝導者としては、必然にその人格の室的性質について何等かの観念又は信念を以て之に

射すべきことになる。﹁誠に紳にして誠に人﹂たらすとも、少くとも﹁竿は紳にして竿は人﹂とか、遠

を燈現した人格とか、法身の一面、加須に近い資格の人とかいふことにならざるを得ない。細入の

圃聯、人法の聯洛に関して形而上的問題は、別諭に譲って、極めて現象的方面から見ても、心室の

(16)

荷尊者︵即ち廣義の教組︶に射する崇敬者、信服者、或は少くとも嘆美する者は、その教組の人格に 関する信念の憩度について明確の観念を要求すべきである。 此の観念を定める第一着は、どうしても﹁革質﹂の問題で、特に歴史的批評と心理的解剖とを経た 史賓を基本とした近代的知力の承認を経るを必要とする、今までの如き醐轟的侍設や修飾を施した 侍記︵除塵ならぬ悪政での︶で満足し得ないのが近代思想の特質であ㍗り、此の批評解剖の虜には、多 ぐの場合に幾分の偶像破壊を避けるわけに呼かない。キリス∵rについても近代的侍記が出来、その 他備敦の数厳達にも段々その憲政の研究を必要とするに至ったのは、此の現象である。︵著者自らの ﹁法華経行着日蓮﹂も此の意奴と目的とを以て出凍たものである︶。 ﹁事賓﹂といへば極めて客観的に確定してゐる事で、明白の楼であるが、賓はそこに中々賃貸上の 困難が倖ひ、如何なる歴史でも又報道でも、直に客観的確賓を以て許すべからざるものがある。特 に事が心憲問題に関する場合には、教組その人の精細には、奥の奥があら、言説行動以外に不可詭 の滑息がこもることを免れない。材料が豊富に存する場合すら、外に現れて残った材料のみで心室 の奥を遺し行ないのは勿論である。されば、材料の不足を補うて、政情を埋め、飛び/\の事旗に 聯絡をつけるといふ以外︵此は何れの場合にも必要︶、更に材料そのものゝ解繹についても心整の奥 に入る解蒋を施さなければ、侍記の事賓も草野ぞ失ふ虞が多い。心藍的英雄︵政宗︶の侍記に於ては、 数組百人終に園でろ覿念

(17)

一四 敦軌の人格に関する観念 殊更此鮎に注意しなければならぬ。そこで客観の﹁事賓﹂と主観の﹁信念﹂との問に、極めて密接の聯 絡、デリケー†な相互覇助が必要となる、即ち初は先つ外商の表裏﹂を見、そこに何物か神霊の閃 きを螢見し、その人の理想信仰︵即ち法︶の一端に接鰯して、云は∵ざその人の数を幾分憶得する。そ の儀得によつて、今まで研究者自分の﹁経験﹂に入った以上の戚化を得たとすれば、それだけ自身が 致親に引き上げられ、自分の限界がそれだけひろがつたのである。その引き上げられた精細で、﹁事 賓﹂を再検すれば、更に新滑息Jで螢見して、一段淀′\敦親の稗前に入る。此の入紳は又信仰の新鮮 瞼になる。此の新鮮歯が更に﹁事賓﹂の奥に入ら、奥に入るに従って、それだけ、数親の人格に於て 信仰の幣導を得、其を構成と仰ぐことになる。何となれば、自分の精神が引き上げられるといふの は、それだけ目接が高くなるわけであるから、それだけ権威に信滅する階段が播進するのである。 標威に対する信戯の増進は、帥ち又その人格の中に眞理理想の憶現を一層洗く見ることであるから、 その人の中に細入の聯絡、人法の一如を螢見して、一歩一歩、人の中に現はれた納受を教見するこ とになる。教組の人格中に紳窒の教現を見、加須又ほ之に近い人として之を仰ぐのは、又自分自身 の中にも室先の閃き草野す所以である。自分の精細に婁光が曙し、如凍に近けば、少くとも加水を 仰ぎ見てその戚化に段々深く接し得る様になゎ、それが又敏感の中に癖人、如凍の資格をそれだけ 多く費見することになる。

(18)

此の如く、事賓と構成と経験との三つ巴が相互助長すること、此が敦盛に対する濃度として執る べき路である。翠に事賓を求めるのでなく、只樺威に暇径するのでなく、叉経験で革質をも埋没し 又鼻造するのでなく、三者粕助けて進む。此の如くすれば、教祖の人格に、それだけ細入合一、人 紘一如の賓を認めることになる。如何なる教組がそれに常るか、又は党つ第一着にどの人に対して 此の態度の出費を試みるペきか、此等はその場合毎の具餞的問題として別に譲♭、一般に亙つて、 教組に対する感度は此の如くにして進む。此の一般的滑息は何れの時代、何れの囲にも存した事で あるが、近代思想と信仰との関係を調節する虜に特に必要となつて凍たのである。﹁紳人﹂、﹁如凍﹂ といふ観念ほ廊壷の人界に対する向下を兼し.云はヤ無限を有限化する虜に生する観念であるが、 特別典醍の教組に押入如凍の賓を螢見して、をれに信念を注ぐのは、自分といふ有限を無限化する 向上門である。向下と向上とは粕聯関して離れす、而して、教組に対する観念の三つの已ほそれと 聯絡して一倍として働く。 附富。先に述べ主知く、醐盲人ヾJに関する形而上的風食を別間庖ミすろ外、茸茸な理想催すろミいふこモ、並lこ倦記¢紳詩的修 飾lこついてほ匂大切光岡緩み含有すろが此lこほ飾れすlこおく。 教組の人格に謁すろ税金

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一はしがき

急激なろ邁渡期−﹁醐﹂叔の窒化1宗教﹂の新璧7徳川時代ミの封婿1レザジ亨y 横にも竪にも1達磨の世界に絶対の起因はない﹂︵ヘンリー、ジョーソス︶。傭敬啓挙が現象の縁っ て起りし因果の関係に無益縁起を認めた一面も亦同意義である。連庸律の術はる∼ところ如何なる 時代もその前代よら狗立せるものなく各時代は毎時も過去と婿建との連鎖であよ1歴史上の各時代

は此意義に於いて管過渡時代である。

明治維新にょゎて始まつセ薪自本は僅かに五十七年の短日月間に欧米に於ける近代数百年間の急

激なる舜化を侍ふること∼なつた。特に産業革命彼の文明の道具を入るれば政令問題の起るは常食

であ♭、それ等の道具に附加せる臭ひの費散が思想問題となつて表はるゝのも亦自然の教と謂はぎ

近代ほ於拍る宗教研究上の一大革新︵上︶

近代に於ける宗教研究上¢︼大革新

矢 吹 慶 輝

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近代に於けろ宗教研究上¢一大革新

︼入

るを得ない。要するに日本の歴史が始まつて坦凍斯かる急激なる過渡期に遭遇したことは極めて稀 であつた。 由凍道徳と宗放とは如何なる過渡時代でもその鼻化が最後に凍るものである。そして新日本の維 新は政治上の更地一新であつたが未だ敢合一般の維新ではなかった。舜るべきであるのに今飼牽は らざる所に新嘗不調和の悩みと悶えとがある。併し此の問にふγりて既に伏水の接に人の心の奥底か ら鼻化の淀に浸ってゐるものも少くない。新しい日本の宗教思想に於いて先つ注目さる∼のは紳 ︵カミ︶亨孟拍の内容が何時しか一大鼻催哲なしたこと是である。椀近の哲学書や文車上に使用さる る紳の語は宇宙論的、本髄論約意義を伴って最高賓在、人生の鯨趣、鎮命の根源、宇宙の原理などい カモ ふ種類の意義に壁って凍て、任務考へられた人間以上の上のもの、民族紳、部族痢、蛋養殖、開閉 紳乃至は至徳の賓現などいふ以外の意義が薪卸され陀。頑の思想の革命だとも云ひ得る。日本に於 いて壁化が起ったばか♭でなく西洋でも宗教の新研究が始まつてから同様に紳といふ名辞は中位以 蒸欧州人が考へた接に唯一単数のものとすることが出家なくなつて寒た。ギリシャ人はテオスt㌻? 忌といひラブy人はデタ言e宏といひ印度人はデーブde≦といひ支邦人は紳といふ様に各民族が種 種違った名で呼んでゐるのでそれ等に共通でしかもそれ等を統一する意義の語が必要となら超人力 警perl−2日an冒w宅。り冒wersとしたり超人老警peユ12彗n家長○巧茫ng放としたらしてゐるのも明

(21)

かに一大壁化でぁつた。自分が今唯一の異と思ふ宗教以外にも宗教は存在するといふことゝなれば、 ヽヽヽヽヽヽ 宗教そのもの彗eRe︼i宮nは未だ完成せられたのでなく今存在してゐる宗教は悉く時と虞と境遇と ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ の慶化によらて種々鶴として衷はれし宗教ARe−igiOnOrre−igiO星のみとする様な見方も起って凍 て役務の宗教思想に一軽化を見ること∼なつた。 魯盤﹁宗﹂と﹁致﹂或は﹁宗教﹂といふ文字は倍数々列諭に於いて古くから使はれた語で、膳正理論に

00ヽヽ

﹁経︵敢︶に別 ヽヽ 例であり、敢は客観多種多様の教義、宗はその多稀多様の教義中からま覿的に最高の原理︵狗尊の 義︶且つ人生観冊東観の蹄趣︵蹄趣の養、統放の義︶として採揮したる自己信仰の意義で、数列諭 としては依数分宗︵敏郎ち経に基いて宗が分かれ︶、依宗教別︵宗の異るに従って数即ち経が異る︶の 語ほ普通であるが、現今使はれてゐる宗教の語は謂ふまでもなく外国語の都謬であつて最初雷雨と 謬され後ち改めて宗放とされたものだといふことである。元凍両道、偽造の﹁温﹂があ丁り支部の造の 思想が加はりて通俗的には﹁温に背く﹂﹁造に合ふ﹂といふ慣用があち、更に係数が日本に於いて一度 は国数の形式を取りご且嘔三ホ放たるの観を呈するに至るや﹁宗門﹂﹁宗旨﹂の語が使用せられたが、 未だ一般に凡べての異種異磋の信仰を包括する語としての普通名辞がなかった。即ち新に出奔た票 数といふ評語の内容中に食まる∼やうな総括的の名辞はなかつた。蓋、徳川時代の彿数は秩序回復 近代に於ける宗教研究上¢一大革新

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近代に於ける宗故研究上の一大革新

二〇

抄時代に遭遇して最も巧みに政治上に利用され、経世の要具として乱世を鎮め民心夢二博さするの

安全牌とされた。﹁寺請帳﹂の制度によりて敵倉上の保護を受け、﹁朱印黒印﹂の制度によりて政治上

の優遇智慕う、封建世襲の俗風は形を代へて寺階倍階の階級制度となら、従って宗教の研究は廉く

して沸教位相各派並に儒学曾出です、多くは所謂﹁宗畢﹂の一局部を出でなかつた。勿論、徳川渚軍

中家康を始めとして畢問華厳の結果、元線享保を中心として新畢風新宗派の勃興するものもあつたe

即ち内にしては天台宗に安奨律が起り、選言宗に正法律が出で、外にしては隙元の葉菜繹が薪に入

り其他鳳渾の漸華厳諭、普寂の立法復古諭等各宗学者にして菌数を破もて濁別の一家見を螢表せし

ものも少くなかった。就中我邦心単著が今自より見れば縦令一種の混成ま義非科畢的憩度を執らし

とはいへ各宗教︵温︶を中等に見て、只管人間本心の馨揮に努め一環の道徳的宗教を唱導せるが如き あら、又特に今より宮入十年前、身は偽門の外にゐて傭典批評に指を染め、延享元年︵西紀一七四 四︶﹁出足後語﹂を著はせし富永仲基の如き先魔もあつたが、一般には肯き訓繹を踏襲することを圭 としたからして所謂1新規の義﹂を創喝することは禁止されてゐた。 由凍印度人は観念の民族で地よhソヰb海よらも峯に活きる凪があつたから数千年間の史乗を﹁磨滅

の碑銘﹂として竜も怪しまなかつた。従って彿敦経典も亦畢澄をまとしたからして紀年の必要もな

く凡ペて﹁一時彿在﹂で足みるとする凰が永く希いた。事情斯り如くであつたからして世界諸宗教の

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虎猫的研究又従って総括的研究の曹然の過程たるべき歴史的研究など∼いふ気分の起らなかったの は蓋曹然である。全健英濁彿語骨ラテン詠より凍た︼已igi。nを使って宗教を呼ぶ様になつたのは西 洋でも近代のことであらその語の意義がシセロCi扁rOの用例に示さる∼如く﹁注意する﹂なる意晩の 動詞から凍たか、ラクタンチタス訂旨nti己玩の解するが如く﹁結合する﹂なる意塊の動詞から凍たか、 済又﹁擾ひ辞め﹂或は﹁神聖﹂の意義の語からの特誰か、その何れとするも!前二者が有力だが原意は 不明−比較的宗教に冷挽であつたローマ人の使用語を適用するに至ったのは数奇の観なきを得な い。兎に角此の語の一般に使用さる∼に至ったのは第十六世紀以後のこと1も侍へてゐる。 古い日本語に徒凍なかりし薪意義を附け加へ、役務夢想せざ♭し新評語が出でたといふことだけ でも宗教思想の一大塵蓮といはざるを得ない。汲んや科撃と挿する新研究法が渡恋して宗畢宗乗の 一局部のみに立っての研究が妥嘗を快くものあるを知るに至って、日本在凍の宗教研究に一大同特 の横骨を輿へたことは勿論である。ゲーテの所謂﹁一団語のみを知るものは必ずしもその国語を知 れるものでない﹂とするならば、或る宗教の優越を覆せん虜にも勢ひ他宗教を知るの必要に迫られ、 抑も宗教とは何ぞやの研究には菅に他宗教を知るのみでなく徒凍の研究法に一大革新を見るに至っ た由雄を知るべきである。 近代に於ける宗教研究上の一大革新

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二 開明合理思想

近代宗教思想¢要尭1開明魚介−批舛の理埠−紳存在の問題−申せ時代ミの対照−自由主義

思想の潮流に碓然時代的甚劃をつけることは出凍ないが大略中世穀倉の拘束よらの解放は第十五

世紀の文轟復興期に始まち、第十六世紀の宗教改革期にその賓動となぇ明瞭にその線度が定まつ

たのは第十八世紀の開明思想期にある。近代宗教思想の要素中にはデーズム以凍の潮洗となつた合

理主義。文垂復興以水根幹となつた人本思想。外的なる儀式や数政よりも内的と打了り倫理的となつ

た格調ま義。世間と出世間、此世と彼世、天上と地上とを峻別しなくなつた現世ま義。其の他デモク

ラ′シーの要素も国際的要素も穀倉的要素も凡そ現代の所有思想は骨宗教に反映してゐるがー就中、宗

教研究に一大事新を促したる原因は速くは文萎復興の人本思想と宗教改革の自由思想とであつて、

近くは一般に開明思想及び科挙哲畢の進歩とであつた。其中本簡には開明田還と合理主義とに裁て

述べる。

第十人世紀の開明思想は恰かも地球の内熱が固い地殻を破って各所に噴出したかのやうに各方面

に頭を接げ出した。

政治の方面では人樺詭が中豊となつて立憲制とデモクラシーとの思想が国家の超自然的起原、法

改代に於ける宗教研究上¢︼大革新

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律締出の思想を破壊し、是等に対する中世の理論を緩め従って宗教上の過去の諸制度を卑しむこと . れた紳に関する議論も何時しか合理の鍵によ♭て遠慮なく開閉さるゝこと∼な♭、その結果はグオ かぬ様に紳畢老によりて高い棚の上に上げられた頑畢、中でも幾代幾年の間、﹁開けすの箱﹂とせら トソ、難問題の起る毎にそれを裁判する高等法院は何時も人間の理性であつた。役務普通人の手の届 根本よト改造する準備を整へた。更に又拳闘の方面では教権主義に反対し侍承や啓示を辿らなくな ブルジョアジー 制度を破壊し、昨日までの町人階級によりての新なる資本主義が表はれか∼ゎ、社務の敢骨制度を となり、制度重義から個人主義に向つて発た。又産業方面では経済上の白由主義が起って凍て封建 ルフの﹁理性敦﹂ともなり又コムトの﹁人道数﹂ともなつた。一般に文化が非常に俗的にわサり、智識階 級は借より俗に移ら、教育も数曾より国家に移り、道徳は次第に紳単に離縁を迫ること∼捏7り、中 世散骨の慈善は縦令一部の人からは﹁撒水慈善﹂と酷評せられたにしても、そは数曾の一大敦積であ った。然るにそれすら人類同胞の観念が共通になつた結果、是文数禽と握手を好まゃして動もすれ ば道徳と同じ様に濁点したがる凪が見えて凍た。世は滑々として現世の慣低、人間のカ、生活の興 味を過信するに至った。斯くしてアダムの堕落、仝人類の堕落、原罪説、紳の子としてのキリスト、 超自然的救ひ、数・曾の救ひ、恩寵、サクラメントの如きは開明思想が同情を放けるものとなつた。 古家偉大なる哲畢者の多くは不可知論に陥つてゐる。知らずと知ることが奥の知者だといはる∼ ア 荘代に於ける宗教研究上¢︼大革新

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近代に於ける宗教研究上¢一大事新

二拘

が如く何れの宗教もその一面は必す知らんことを求めてしかも﹁知れす﹂に終る。宗教と理性との闊

係は互に﹁汝なしには生きられす又汝と共にも生きられぬ﹂ものかも知れない。此の際﹁カイザlの ものはカイザーに紳のものは紳に﹂として二元的認識を立て∼雨着の調和を計るは奥の調和ではな

い。理性ほ毎に可見の世界を見てそこに科畢を造云と同時に理性は又毎に峯想を績けて不可見の世

界と交接を保たんとし、且つ此交渉を可能として宗教を造官。兎に角膏畢史上に表はれた理性の取

扱ひ方は初めは抽象的論理的から次第に具髄的に進んで凍た。カントが賓践理性を説いたのもヘー

ゲルが矛盾の論理以上なる綜合論理をま張したのもそれであつた。近代になつて理性が前代よりも

包括的になつて凍た。斯かる気運の中にあ

に難くない。

数骨の畢問即ち紳畢も今迄辿らるゝだけは理性を使ったものであつて教父時代の哲畢以凍各其昔

時の知識界に應するだけの合理的組織を試みたものである。そしてスヲフ哲畢の黄金時代には知識

ヽヽヽヽ の利用がその頂鮎に達した。併し中世迄の理性の使ひ方は在家の信仰を固めるため確かめる眉にの

ヽヽヽヽヽ

み使はれて決して批判の焉めではなかった。此鮎では宗教改革後に起ったブロテスタソトの紳単に

在りても同棲に批判専問の理性の鰯めに不調和が起って凍て、ブⅤテスタソトのスコラ紳撃といは

るゝルーテル以後の紳挙が幾度か苦しんだ鮎であつた。今や智識階赦が俗人の手に移か、宗次の守

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が教権を緩め、俗人によつて開けた新しい文化の時代、特に合理主義が理性を宗教に適用する際に は批判的となつた時であつたからして中世のスコラ暫畢よりも一盾不利な時に遭遇したとも見らる る。何れにしても合理主義は前代からあつて紳撃とても之を使ったが、此の古い合理主義に代ふる に骨て前代になかつた新合理重義を以てするに至ったといふことが根本的に開明期の特色で宗教思 想に射する大打撃であつた。 弦に近代批判哲畢の一例として紳存在の諭雷を述べる。 ドグマ 抑も中世暫畢の終幕ほ賓在諭が破れて名目諭が出たのは宗義の合理性が破れたことで此際昔の様 に散骨の教権で顔勢を娩同することは時勢が許さなかった。そして先づデカート∴ロe琵琶訂は凡てを ヽヽヽヽヽ 疑ふ疑ひの暫畢から出費して疑ふことの出水ぬ数畢上の正確さと同∵な正確さを有てる公理的根墟 を求めて賞憶︵紳︶を澄明し、骨て中世紀にアンセルムA琵l−ロがなした様に所謂本鰹諭的に所存在 の澄明をした。ライブニッヅ訂ibniNは更に預定調和によりて宇宙論的に同じく紳存在の澄明を加 へ、グォルフ宅Oe筍に至って宇宙の合目的牲からして又同じく紳存在の目的論的澄明を提出し、三人 共に薪なろ根接に立って兎に角紳存在の澄明をした。然るにヒユームHnmeの﹁自然宗教﹂崇已腐完 9neer巨ing欝t已已﹂紆−igiCnがその死後一七七九年に出版さる∼と経験論の立脚地から宇宙論的澄 明も目的論的澄明も成立し待ざるを宣言し、宇宙は宇宙が原因だとして差支なく、有限界の比論を 近代にこ於ける宗教研究上¢︼大革新

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近代に於ける宗教研究上¢一大革新

二六

宇宙の原因に適用するのは不雷なりとした。繚いて二年後一七人一年に出たカント舛邑の﹁純粋

理性批判﹂はま埋設の立脚地からして徒凍の宇宙論的澄明も目的論的澄明も婿た又本髄論的澄明も

成り立ち待ざるを詮き、次いで唯一燭自の澄明法として提出したものが道徳論的澄明であつた。か

くして紳の存在に関する侍承の澄明法は夙に破れ、新に探ら出された澄明法も亦批判暫畢、経験論

からは勿論、ま理論からも其の根接が被疑された。若し他に確かなる造が輿へられなければ雷然懐

疑に陥らざるを得ない

。此の欲情を禰はんが虜に破壊と同時に企てられし建設及び其の後の挽近習

畢の傾向を今夜に叙述することは省略するが、是によりて合理性が批判ま義となつてから徒死の侍

承を根本的に破壊するに至らし重要なる一両を暗示してゐると共に、近代哲挙が先つ宗教研究上に

一大革新を蘇らせし方面を知ることが出来る。

之を以て中世気分と比較すると其差等盛耳管ならざるものがある。

アンセルム︵一〇三三1二〇九︶のCurせeusH音〇コ輝何故に人と行アりしや﹂に於いてアンセル ムの弟子ボツ夢婆︶が間者と打了りて救ひに関する問答をなせる中、救ひに関する難問題は畢寛人類

の犯罪に起因するものなるを以て、何故に紳ほ人をして始めより善と就痛とを待て、罪を犯すこと

の出奔ぬ様に造り得ざりしかを反問せるや、アンセルムは斯かる問は甚だ不敬琴・Qものとして簡単

に答へ、ポッも亦斯かる質問をなせしを恥とするといつてゐる。﹁知らんが男に信す﹂をその損静鮎

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とせる彼の油単ではそれが普然とされた。﹁不合理なるが故に我は信す﹂はチルト,アーヌス宕rt。l・ −i昌Å初代キリスト致の教父︶の語に蹄せられてゐるが、克く中世時代の信仰印ち獣倍Imp−i貧家 tlあ気分を表明してゐるギ前の子は死んだ。是れ愚かしきことなるが故に全然信す可きである。彼 は葬られて磨った。是不可能なるが故に確賓である﹂︵ブルーリアーヌス︶。超理と不合理とは全然別

で超理は合理以上のものとした。即ち合理は人間の分際で不合理なるものこそ紳から発た澄接と

した。中世スコラ常畢の代表者たるトーマス、アキイナスTh音監A首n慧︵一二二八q三▼、︼し七四︶は

畢問を世間と啓示との二つに分けて、前者は人間の悟性によろて知ることが出水るが、後者は全く

紳の啓示に頗る外に途がない。而して聖経の啓示を了解するには永い問の研究と賞行とを要し、普

通人にはその際暇がないから仰信が必要だとしてゐる。

仝健此の仰信の気風は凡そ第四世紀の噴から次第に固結する様になつたもので、三人○年の勅令

によりて帝国領土内の住民の全部に解かつても解らなくて旦二位一倍の教義を信仰すべく命令した

のは仰信を賓行せしむる為に国家の権威を以てせるものであつた。績いて大グレゴクー昏肇1yは 此の仰信の教義に法王の教権を利用した。p−マ数禽の紳畢大成者アクグそアイヌス A磨u註n諾 ︵三五四!四三〇︶は嘩晋を信じ得るのも散骨の教権があるからだとし、前に引用したスコラ紳畢の

ドグマ 大家アンセルムの如きも之に呼應して宗義は癖の啓示と同一威すべきものとすらいつてゐる。敦骨

近代lこ於けろ宗教研究上の一大革新

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近代に於ける宗教研究上の一大革新 二八 は勿論この仰倍を葵願し群護し又之を永積させんとした。インノセソ上二世︷巨竜nニーI︵二六 一1一ニー六︶は縦令誤った教義を信じたからとて異端だとの誹難は受けぬ。何となれば数骨が彼 の信することを正しと信するのだから、功徳とはなつても罪にはならぬといひ、常時知名の或る借 正宅i声㌻mO﹃A宗erreの如きほ、数曾に於ける個々の信備は何れも皆歴代の畢者がその異なるを苦 したものであるから、一般民衆は単著が異なりとした凡てを仝健として異ならとして承餞すべきも のだといひ、インノセント四世H−1n。Centlく︵一二四三1五四︶の如きは無畢なものに取♭て解信す べきは、唯だ前の存在と行ひに対する報ひだけであつて他の凡ては獣倍すべきもので、曹に一般の 信者のみならす下級借は研究の横合が輿へられてゐないから俗人が解倍するものだけを了解すれば よいとさへ言ってゐる。 しかし寿があれば秋が凍る。 ベーター、アベラルドPeすA訂l莞d︵一〇七九−一一四二︶がその薯﹁紳畢序論﹂HntrOd邑iO乱 ≠eO−Ogiβm中に信仰は理性以上のものだが併し理性に反対のものではないとして信仰には之を信ず る根披に関して或る了解を有せざるべからすとし、グ井クール、フーゴー5eすSt由遥ワ︵一〇九 六−一一四こも亦信仰は智誠に件ふものなることを暗示し、クレルグオーのベルナール軒コlp乙○﹃ C−乱言責︵一〇九一−一一五一︶は昔時民間に在りても既に醐畢に疑問雰拝むに至りし事情を記

(31)

して﹁通りでも四つ角でも人々は今し信仰に就いて論議してゐる。或はマリアの母性に裁て、或は 醐壇のサクラメントに裁て又或は三位一倍の神秘に裁て﹂といつてゐる。此他に近代の自由研究に 入る迄の柴陣古布いた人々は単に二三には止らない。 ロージャー、ペイコンR品er出発On︵一二一四−一二九四︶は千二百六十六年にOpus試督デ三光 成してその中に研究を妨ぐる四拘束として教権、嘗慣、偏見、誤解を畢げ公正に舌代聾者の著述を 凄めば未だキリスト教を知らずして而かも最高の徳に達せるものありしを奉げ、プラトーンやアリ ストテレスやはキリスト教紳畢の根本的眞理を勝気に知ってゐたとなし、又シセロやセネカやの道 徳詭を奉げマホメット致すらも無益のものでなかつたことをま張し、結局キリスト教が此等諸宗教 の中にあらて最も勝れたものであることを示す焉には数骨に於ける草間の改良をなす必要があると した。彼は常時、既に諸宗教を六部となし蛋魂の問題を合ます司祭の制度なき異数と彿数や多軸故 に表はれた偶像敦と魔術で成れるタータールの宗教とマホメット数とユダヤ教とキリトス数とし た。今白から見れば不都合な見方でぁつたとしても第十三世紀にあらて既に贋く諸宗教の研究に基 いてキリスト教は暫畢上最高の宗教で奥の紳の敦たるを立澄すべしとせるはその先見の明を稀薯せ ざるを得ない。第十九世紀末に同書の評者ヘンリー、ブリッデ呂空lry暫idgeが此書を許して﹁宗 教の比較研究に於ける最初の計畜﹂といつてるのも蓋し過賞ではあるまい。此の他、マクス、ミュー 近代lこ於ける宗教研究上の一大革新

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近代に於けろ宗教研究上の一大革新 三〇 ラーがその薯﹁普遍的宗教﹂dni壱邑R註giさ中に﹁尊者として歴史家としての濁立の立場から非キ リスト数を研究せし最初の人﹂としてゐるニコラス、クザヌスヨ已aⅥCus昌宏︵一四〇一!一四六 四︶の如きも時代が遅かった関係もあらうがギリシャ、ローマ、ヘブライの諸宗教を研究し、此等 諸宗教の根抵に於いて形式の相違の下に、同一なる紳意の働きを探り待とせる膿度は確に近代的で あつた。 以上に列馨した一二の事例だけでも歩一歩近代風に人間の理性を醐単に適用せんとするに至った ﹂ 気運の動きを想像することが出凍る。アベラルドは放て教権を否定はしなかったが、それでも数禽 の二度の智議で欝軋られた。併し事物の異相を知らんとするは人の権利であり又義務でもある。昔 時欧州各地からその門下に集った撃徒中、ゴリアルデイの一派は四方にさすらひの放を績けて散骨 の特権を批評し倍侶の腐敗を攻撃し新気運を作るにカを添へた。 切開によりて死薪の生命を延ばす外科手術は正しく破壊によらての建設でぁる。 若し宗教が単に教権と紳聾者とによりて維持せらる∼こと∼なれば、凡ての人は各自の救ひに必 要なことを各自にきめることが出家す、.従って無関心の状憩に傾き、遂には宗故に無責任となる。 今日何づれの文明国も倍数の自由を認めて宗教選澤の自由を輿へてゐるのは普通避寒の場合と同じ く各自にその真底を自愛せしむることである。此の自由の自費を有った観民−宗教改革を敢てしゎけ

(33)

国民が近代史上に偉大なる事践を残したことは弦に附記する必要のない程明かである。 宗教改革が信者の全髄が司祭なりとして個人の白壁を促し、賞際運動としては分離派非一致次が 各庭に現はれて政治上の反射運動、藤井の自由の叫びから、延いて各種の運動と結合して所謂自由 運動を起したもので、第十六世紀から第十人世紀迄のオランダ、イギリス、フランス、ドイツ、ア メⅥノカの歴史は賓に宗教自由の運動と政治運動との結合であつた。政治上の改革派が宗教上の自由 トレレーションアクト 運動着であつたのも其のためであつた。斯くて各国における宗教寛容の法令が表はる∼様になつ た。前世紀以凍欧州各国の赴曾業並に労働薫の宣言に﹁宗教は私事﹂なるを以て、公権の〒渉を非怒 せんとするのも、その淵源は此等の自由ま義に馨したものである。︵未完︶ 近代に於けろ宗教研究上の一大革新

(34)

トコンの侍詮

昔ギルネオにトコソといふ一人の曾長があつた。部下の人民が隣りの部族の者に殺されたので、

之を懲らす虐めに兵を率ひて討伐に出かけた。それはいつも彼等が我等に出かける時と同℃く、恰

度肩の植付がすんだぼかりで少し手すきの時であつた。

船で河を下って森の奥に分け入ったが、三日目か四日目に小川の岸で飯をたいてると、川の中で

蛙が﹁アン コブコク ククク ノトク、アン コブコク ククク バトク﹄と頻♭に鳴いてゐる。

rクククメーク﹂といふのは﹃頸を切れ旨いふことでぁる。そこで蛙の鳴くのを開いてゐた骨長トコ

お ソは、

首 狩 に つ い て

甘狩lこついて

宇 野 回

(35)

鋸 ﹂三感何といふのか﹄

と蛙に尋ねて見た。すると蛙は、

﹃貴方等ケニヤの人は随分馬鹿だよ。戟寧に出かけて人を殺しながら、髪の毛ばかり取って経るが、

それが何になるもの潜漕それで若し首を取って蘇りさへすれば、何でも願ひ通らに叶ふので、来

もよくな♭、病気ふなく、何の面倒もないのだが、首の取りやうが分らんなら、一つやつて見せ

ようL

こう云って蛙は人々にからかひながら、一匹の小蛙を捉へて、其首をちよん切った。

トニ一ソは之を開いて

へこんだ。而して其晩慶な夢を見た。一面に沼田があつて、礪はうんと賓が入って穂が傾いてゐる。

それに樺々他の食物が山のやうに、砂糖きびでもさつま藷でも何でもめる。そこで翌朝になつてト

ゴソに向つて、

﹃私は昨日蛙の云ったことが気にか∼つてならなかったが、こんな夢を見ました﹄

とて夢物語をした。それでもトーソはまだあまり気にしないで居たが、臣蓮がやかましく拗めるの

で、都合よく行ったら一つ二つ敵の首を持って締ることにして出かけた。

やがてト一コソの一隊は敵の村を琴フて、七人の人皆殺したが、かの老臣はトゴンに説いて、決し

音符について

(36)

て何も炎難は凍ないからといふので、其許しを得て、敵の首を三つ提寵に入れて引上げた。

其魔から皆はいつものやうにおそろしい駈足で引返したが、随分迅く走ったけれどもちつとも疲

れない。例の河のとこまで凍ると、何時にない不思議なことに、海までは中々撞い河の水が、皆が

焙に桑るわアり急に上手に洗出して、途中殆んど船を漕ぐ苦労もなしに、大欒早く村に鋳らついた。

畑に上って見ると、驚いたことには、此間植付けたばかりの稽が、膝をかくす位に伸んでゐる。

そして畑の中を歩いて布く中にまだグングン伸びて、終ひに耳の速までといくやうになつた。

家のあるところに近いて、何時ものやうに凱聾をあげると、家の内からは銅侵をた1いてこれに

答へ、人々が出迎に禿たが、故足が立って踊り出すやら、長年の病人が元気になつて水を運ぶやら、

村中が壮健になつてゐる。取って凍た敵の首を家の内にぶら下げて、下に之を暖める火を焚くと、

長家中がすつかり気拝よくなつた。

一㌧ぅいふ観梅でトコソも終に戚心して云った。

﹃全く蛙の云ふ通りだ。lこれからは骨敵の首を取って掠らねぼならない。﹂

これはボルネオの夷領サ三ノブクの東部からオランダ領の方にかけて住んでゐるケニヤ人の樽へる

昔話であるが、そこに彼等の首狩をする意味が云ひ表はされて居ると同時に、私はこの昔話が首狩

調 の起源をおぼろに物語って居るやうに思ふ。

音符について

(37)

首狩の分布ご方法

骨狩といふやうな血腫いことを何の食めに行ふか。又こんな残忍な風習がどうして起ったか。音

符の意塊や起源については1徒凍単著の問に多少論議され、種々窒息見も螢表されてゐるが、未だ

十分に明瞭な説明は輿へられてゐないやうである。然し首狩の意味や起源を考察するには、大健い

かなる風習を首狩と云ふか、又いかなる種族がこれを行ってゐるかを確めなければならぬ。

骨狩といへば我々はすぐ毒滞の生番人を想ひ臼す。又生蕃といへば所謂出草で良民の骨を取ゎに

出かける既約な風習の所有者と開かされてゐる。然し首狩といふ風習の分布範囲はか捏了り廉いので

あつて、其種類も時と靂によつて区々である。毒滞ではタイヤル族が最も多く骨狩をやるが、パイ

プソ族−ブヌン族がこれに次ぎ、其他の部族も以前lこは背骨狩をしたらしい。

フィリヅビンの北部ルスソではサンバル、イ∇カノ、カガヤン、語族は早く止めたらしいが、ボン

トク、アバヤオ、タガロク、ティソギアン、カリソガ、イブp㌧ナノロイ等は近頃まで大小此風習 を持ってゐた。南に行ってピサヤ族も久しく首狩をついけ、ミンダナオのバゴギ、ピラーソ、:

ダヤ、クガカオラ、マノポの語族は今でも時として私かに之を行ふらしい。

インドネシアではスマーラのそフyアブy族クブ族バクク人に首狩の凪がめるといはれ、エアス 甘狩lこついて

(38)

島メソク弟島にもめつたといふ。南部ではスンバ、サブ、チモル其他の小スyダ諸島からチエンベ

ル、チモルラウてト諸島で骨狩が行はれたといひ、セムラ島や♪ルマヘーラ鳥人、セレべスではミナ

バナの語族、トラジヤ人が首狩をするといはれてゐる。ボルネオには最も盛んであつて、ダヤク人

の語族は英領蘭鋳を通じて最近まで首狩しないものは稀であつた。

ニューギニアでも仝髄を通じて贋く行はれたらしく、グールフィンク幣附近から、南部の蘭領地方、

英領の東南ニューギニアとトレスストレート諸島の西部に此風習のあつたことが報告されてゐる。

メラネシアではソロモン諸島の西部から北にかけて、ビスマルク群島一燈に首狩が行はれる。ポリ

ネシアでもサモア、タヒチ、マルケナス諸島一般に我等で得た首を保存し、又これを弔葬其他の供

物にするので、ニュージーランドのマオリ人も同一の風習を持ってゐる。

普通に首狩といはれる習俗は以上の太卒洋諸島に限られ、其他には殆んど之を見出し得ないやう

であるが、たいアジア大陸の東南部に取残された原始民族である上ビルマのワ一族、下ビルマのカ

ーレン族、アッサム地方のナーガ族等に此風習の残♭が認められる。

尤も廉く之を人身供犠として論じると、それは歴史的にも殆んど世界仝鰹に亘って見出されるが、

骨狩は人身供犠の一種であるとしても、他の人身供犠とは異った特殊のものである。そこで首狩と

はいかなる風習窒息醸するかといふに、其第一の形式は自分の村に入ら込んだ他所の人間や敵を殺

首狩について

(39)

三八 骨狩lこついて お して其首を取った♭、濠て使役してゐる奴隷や又特に他所から買って蒸た奴隷の首をはねるもので ある。これは多くは儀鹿上の必要から術はれるので、其屍健や首を紳に供へたゎ、一種の呪物とし て取扱ふのであるが、ミーギニア、ボルネオ、スマトラ遽で白人や了フィ人が屡々土地の蟹族の虐 めに殺され首を取られるのは之が焉めである。此習俗は自分の領土内で他族を殺し首を取るのが共 時微であつて、普通にいふ骨狩とは精々臭って居るが、其動機に於ては他の種の首狩と略々同棲で あつて、且つ他所から入卜込んだ者を殺す場合は、むしろ他の首狩の原形とも考へ得るのである。 次に我等に出た暗殺した敵の甘を取って軍学﹂とは、多くの場合に首狩の一種と見倣されてゐる。 上にあげたトコソの話の如きもそれであ㌻り、ポリネシア、フィリツピン等の首狩に之が多い。此場合 に持って掠った首は、時として観光に供へ、弔葬に用ひることもあるが、多くは勝利の記念として 保存し、又一種の呪物として蓄へて置く。又これは他の原因、例へば復仇、領土慌張の慾求等の虜 めに起った哉寧の副産物として首を取るのであつて、首を獲んが虜めの戦争ではないから、次のや うな狭い意奴の甘狩とは多少異る熱がある。 箪こに本務の意味の首狩とは、何等かの動機から首を獲ることをまな目的として出かけ、他族の 骨を切って掠る風習である。メラネシア、ボルネオ、萎潜等に行はれる首狩は此種のも¢が多い。 此中でも金蔵が集圃的に隊を成して他寮を襲ひ、事賓上戟撃となるものもあるが、首を取ることが

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主な目的でぁるから、成べく硲密に出かけて、深夜又は早朝に不意の襲撃を試みることが多く、且 つ全く個人的に単身深林や他村に潜入して、通行者を妾ひ首を取って掠るやうなのも中々多い。而 して之らの場合は凡て首を獲ること其自身が目駒であるから、女であらうと子供であらうと首を取 らさへすればい1ので、我等の序でに敵の戦士の首を持って蘇るのとは少くとも程度上の差異があ る○ なほ此外に骨長とか父親其他説線の老が死んだ時lこ、火葬、埋葬又は樹の上や屋内に晒らして、 或程度まで屍鰹の始末がついてから、一定の時期に其首だけを取って、腐らすか晒らすか或は火に かけるかして大健骨のみにし、眼球を牧めたり鼻をついだら幾分修飾して、これを住家、殖殿其他 に大切に保存して置く習俗がめる。これはポリネシアとメラネシアに最も多く、ニューギニアから北 部のインドネシアにも行はれるが、フィリッピンや墓幣には徐り多く認められない。又かういふ夙に 昔を保存する習慣は死老に対する尊敬愛慕の情から出て、こ沸く死者を記念し、死後の電と交通し、 電の加護詫宣を受けるが虜めであつて、固より首狩といふべきではないが、其動機に於て或種の首 狩と一致し、又首の岩井︵浄邑・邑t︶といふことに於て類似の鮎もめるので、常に首狩と闘聯して考 察さるべき一風習である。 甘狩lこついて

(41)

動機ご種類

さて我等で首を取ったゎ、特に昔狩に出かけたらして、彼等は其骨を何に周ひるか、又何の目的

で首を取るかといふに、骨狩をする人々は場合によ♭精々な動機から首を取るやうである。毒海の

生蕃が骨狩をするのは、これを持って掠って勝利と武勇の記念として保存し、婦女の歓心を買って

結婚の一手段とし、係寧のぁる場合に多く骨を取って正しい勝者と列足される食め、威光の露に供

物としてそなへ、首を保存して忍電脳除の呪物とし、又其皆の室を死後に奴隷として使役するが薦

めであるといはれる。此外畢に復仇の備を癒す薦めの首狩もあち、其肉や髄を食ってカや勇気を得

んとする食入の焉の首狩もあら、又之を弔葬の際の犠牲として供へる食めに必要とし、骨を祀って

其壷を慰め票りを避ける男めに首を持って締る場合もあるやうである。

又首を多く取♭之々澤山持ってゐる程鹿骨的地位が高くなること、成年式に必要であること、装

飾其他に用ひる人間の頭髪を得ること、骨を取られ者の藍を自分の守護窒にすること、骨を取ると

死後に勇者とし華南な雀活が得られること、骨狩又は首其物が豊作屠殖の供犠や家を新築し新船を

進水する時の供犠に必要であることなどが、骨狩の動機として指摘されて居わ、又地方によつて部

分的にでも此種の動機から首狩が行はれて居る事例は決Lて少くない。

骨狩の動機が場合によつて区々であると同時に、放ての首狩がその何れか一つの動機から行はれ

昔狩lこづいて

参照

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