(
32
)梵 我
一如
一シ
ャン
カ ラ
に
よ
る
一(
1
)
金
沢
篤
‘‘The
present article startsfrom
the general , methodological consideration thatas elsewhere
in
Indology
it
is
micro −philological study whichis
now neededfor
afull understanding of the
UpaniSads
whichinspite
of the endeavours Qf manygenerations of
Indologists
continue topose
a series ofproblems
,particularly
ofaSemantic natUre .1),,
1
は じ め に 今 日の イ ン ド思想史 概 観 に於て は , ウパ ニ シ ャ ッ ド の 中心 思 想を 「ブ ラ フ マ ン ー 元 の 哲 学」 と説 明 す る こ と が 普通
に行な われ て い る。 ま た , ウパ ニ シ ャ ッ ドを 継 承 し, そ れ を絶 対的 な権 威 と仰 ぐこ と に よっ て 明確な一 つ の 哲 学 体 系 と して 確 立 を 見 た の が, ヴ ェ ー ダー ン タ学派 で ある。 そ の 根 本 経典 た るr
ブ ラ フ マ ・ス ー トラ』 に対
して 様々 に加え られ た解 釈 を通 じ て , 以後の学
派 的展 開 ・変容
が あ っ た と, 先 ず は言え る だ ろ う。 そ う し た流れ の 中で顕
著に な る 一 つ の 思 想 (傾向) を 表 わ す の に 「梵 我一 如 」 とい う用語が屡
々 用 い られ て い る。 こ の 用 語は , やは りか な り古 くにまで 遡 り得 る 「精 神 原 理」 と し ての プ ル シ ャ と 「物 質的 原 理 」 と して の プ ラ ク リテ ィ に よ る 「二 元論」 を 説 くサ ー ン キ ヤ 的思 想 に対 す るア ン チ ・ テ ーゼ と し て, ウバ ニ シ ャ ッ ドない し ヴ ェ ーダ ー ン タの 「ブ ラ フ マ ンー元 論」 を 位 置 付 け よ うとする際に, 実に便 利 な 用 語の よ うに も思わ れ , 事 実 こ れ まで は 何 人 も抵 抗 な く受け 入 れ て き た観が ある。 実 際 「梵 我一 如」 と は, 二 つ の 異な っ て い る か の 如 き 「原理」 と し ての 「梵」 と 「我」 と が , 実は 「同一」 で ある こ とを,端
的に, し か も全 く見 事に表わ して い る よ うに見え る か らで あ る。 こ う し た事情 は , こ こか しこ に 散 見 する 以 下 の 如 き一 般的叙 述 か ら も容 易に窺え る に 相違ない 。 「ウパ ニ シ ャ ッ ド の核心 をなすの は, い わ ゆる 「梵 我 一如 」一 ブ ラ フ マ ン (梵)と ア ー トマ ン (我 ) とが本質的に一体であるとい う思 想で ある。 ブ ラ フ マ ン は宇 宙の最高 原 理 と して , ア ー トマ ン は 個 体の 本 質と して , 先 行 する時 代か らすで に重 要な概 念と な っ(34) 梵我一如 (1)(金沢 ) 性 ) とい うレ ッ テ ル 」 は , 「ウパ ニ シ ャ ッ ドの哲 学」 ない し 「ヴ = 一 ダ ー ン タ 哲 学」 な い し 「
Sahkara
」 の 思 想 の 核心 を表わす もの で は な い , との 氏の ユ ニ ー ク な見解 が 率直に披 歴 され て い て 興 味 深い 。 ま た, 氏 は 「レ ッ テ ル 」 とい う語に よ っ て , 先に見 たと 同様, 「梵 我 一 如 」 と い う語 が, 原典 中に根 拠 を持た ない , む し ろ誤 解に基 づ く新造 語で ある こ と, 例え ば 上 記辞 典 中に掲げ られ て あ る “brahma
−atma −aikya ” とい っ た語 6)が 単に想 定され た もの で あ り, シ ャ ン カ ラ のBrahma
−satra −
Safikara
・BJtasova
(BSBh ) 中 には 見 出 さ れ ず, 「“ atman ” と “
brahman
” は 同一 だ な ど とい う表 現」 は 見 当 らず, ま た 「万物の atman とbrahman
は同 じ で あ る。」 とい う表 現は , 「ウパ ニ シ ャ ッ ドやSahkara
に殆 ど見い 出 す こ と は で き ない 」 こ とを 言わ ん と して い るの で あ る。 この 松 本 氏 の 指 摘が仮 りに事 実だ と すれ ば, 我 々 は , こ れ まで 膨 大 な 量に 上 るウパ ニ シ ャ ッ ドない しヴ ェ ーダ ー ン タ 思 想 を扱 う研 究 ・解 説 文中 で 必 ずとい っ て よい 程に出会 す 厂梵 我一如」 とか , そ れ と 同 じ意 味 合い の 「梵
我 同 一 」 な どを, どの よ う に 遣 り過 ご せ ば よ い の か 。 全 くイ ン ド思 想 史 研究上 の 大 問題 と な る に 相違 ない 。 これ に対 して ,BSBh
中 に は, 確か に “brahmatmaikya
” と い う語や, そ れ と置換 し得 る “brahmatmaikatva
” とい う語が用い られ て い る こ と, あるい は 「 “ atman ” と “brahman
” は同一」及び 「万物の atman とbrahman
は同 じ 」 とい う表 現 は, 「ウ パ ニ シ ャ ッ ドや §ahkaraに 」 た くさん見 出さ れ る こ とを 考慮 し て , そ うし た 全 くの 事 実誤 認 に 基づ く よ うな氏の 主 張を黙 殺 する こ と も あ る い は 可 能で あ ろ う。 だが, 筆者 は, 氏 に ょっ て表 明 され た 「ヴ =一ダ ー ン タ哲 学の 根 幹 をなすの は, 「万 物 (個 我 を も含め た現 象 世 界 )は, “
brahman
” を “atman ” (本 質 ) と してい る。 _ “brahman
” だ け (eva ) が実 在 で あ る。 …」 とい う確 信や, 先の 記 述に後 続 する箇 所 に 見 出 され る ノ 「Sahkara
を通 じて 見た ウパ = シ ャ ッ ド の哲 学
と は,決
して “ ekatva ” を説
くも の で は な く, 全 く “tadatmya
” 〔それ =brahman
を 本 質とす る こ と〕 の 思 想 , つ ま り “eva ”の 思想 で あ る と言 うべ きで ある 。 こ の 様に見な けれ ば 我 々 はVedanta
哲 学
の 本質
を見 失
うで あろ う7)」 との指摘
は , ヴ ェ ー ダ ー ン タ哲 学
ない しシ ャ ン カ ラ哲 学の 研究 の 上 で 極め て 重 要な 示唆を含ん で い る と考 え る。 こ こ で は , ウパ ニ シ ャ ッ ド で もヴ ェ ー ダー ン タ で も な く,単
に歴史上 の 一 入物に過 ぎ ない シ ャ ン カ ラ の , しか も独 立の 著作
では ない が その哲 学
を考
え る上 で は極 めて重 要 な著 作BSBh
に対象 を限 定 した 上 で, 少 し く検 討 す る こ と に し たい 。周
知
の通
り, シ ャ ン カ ラ の哲
学は, これ まで に も全 く多 くの 学 者 達 に よっ て,NII-Electronic Library Service 梵 我 一 如 (
1
}(金沢) (35
) 繰 り返 し研 究 され, そ の 成 果 を 通 じて ほ ぼ その 全 容が明 らか に され て い る と見 な し得 る。前
田 専 学博
士 に よっ て 公刊 され たr
ヴ ェ ー ダー ン タ の哲 学』 8)は, 主 と し て シ ャ ン カ ラ の唯一 信 頼 し得る独 立 の 著 書た るUPades
’asahasrl の 解 説に基づ い て い る もの の , 目配 りが行き届い て お り, 常に原典
の 記 述 に立脚
して い る とい う点で , これ まで書 き表わ され た数 多 くの シ ャ ン カ ラ哲 学の 一般 解 説 書 中, こ の 上 ない もの で ある よ うに思 わ れ る。 ま た 金倉圓 照博士 に よっ て 恵 まれ た 膨 大 なBSBh
の 全和訳 9)は , それ らに先立 っ て 公 けに され て い る同 博士 によ る シ ャ ン カ ラ の 重 要な ウ パ ニ シ ャ ッ ドに 対 す る注 釈 等の 和 訳 ・ 研 究10) , 並 び に, 圧 倒的 な中 村 元 博士 の 一 連の 研究 ・ 和 訳 等11)を補 っ て , 本 邦に お け る シ ャ ン カ ラ研 究 の 総決 算 と も言 うべ き もの と なっ て い る。 これ らが, 今 後 日本 語 を 理 解 し得 る諸学
者の , 更 なる シ ャ ン カ ラ 研 究に もた ら し た便 宜の 程 は計 り知れ ない もの がある。こ うし た 種 々 の 事 情 を踏 まえ た 上 で , 小論で は, 主 と して 金倉 博士 の
BSBh
の 全 訳と, 服 部正 明 博士 に よ る その 部 分 訳12)を参 考に しつ つ , こ れ まで 明確 に 指 摘 され た こ と が な かっ た と思 われ る 「梵我 一 如」 の 表 現 に纒わ る問題 点 に 二 ・三 言 及 を 加 え, 既 に明 らか に な っ て い る に も拘 らず, 時 に誤解 され る こ とが あ る シ ャ ン カ ラ の 哲 学の 大綱
を 再 説 する に止 まる こ と にな るだろ う。H
Brahmasatra
−Sdnkara
・Bhasya
(BSBh )
と シ ャ ン カ ラ の 立 場金 倉 博士 の
BSBh
の 全 訳 を 通 読 して 思 うこ と は, そ こ で シ ャ ン カ ラ が執 拗に 展 開 し て い る議論 の 特異 な性格 につ い てで ある。 シ ャ ン カ ラは 自 ら が 直接の 拠 り所 とす るBrahmasatra
(BS ) を 注釈
す る に 当た っ て , 基本的 に はBS
の 立場を擁i
護 すべ く振 る舞っ て い る。 それ は,BS
の 意 向の 解 明で ある と共に,BS
に盛 られ た 思 想に 対す る疑 問や 他 学 派 か らの 論難 を 相 手にす る こ とで あ る。 そ の 疑 問 ・論 難 とは , と り も なお さず,BS
が そ の 成 立 を 全 面 的 に負っ て い る だ ろ うと こ ろ の 各種
ウパ ニ シ ャ ッ ド中のSt
k な言 明 , 及び既 に権 威 と して認
め られ て い る種々 聖 典 (9ruti
& s叫 ti)の 記 述 との 関 係 を顧 慮 した 上で 発せ られ た もの で あ る。 つ ま り, シ ャ ン カ ラ は,各
種 ウパ ニ シ ャ ッ ドと,BS
と, もしか し た ら抱
懐 し て い た か も 知れ ない 自己 固有の 思 想とい う, 文 字 通 りに は 必ず
しも矛 盾 なく
鼎立 し得
ない か も知れ ない 処で , なお か つ 整合的 な一 つ の 真理の 体系 (解 脱へ の道 )を 目指
しつ つ 具 体 的に論 述 を進め て 行か ね ば な らな かっ たの で ある。 こ うし た作業
を破綻
な く 遂 行 して い くこ との 困 難 き わ ま り ない こ と は想 像 に難 くない が, そ れ を見 事に成 一582
一 N工 工一Eleotronlo LlbraryNII-Electronic Library Service
梵 我一如(1)(金 沢) (
37
) 知 る者は, 他な らぬ 梵と な る」(brahma
vedabrahmaiva
bhavati
)22)等の ウパ ニ シ ャ ッ ドの教え に適 う もの と して位 置 付 け られ るの で ある。 その 間
暫
しatman
と い う語 は, 打 ち捨
て られ て ある。 それ が ,brahman
との 関わ りの 下 で 再 び 登 場 す るの は ,rbrahman
は周 知 の もの (prasiddha
)で ある か, 周 知 の もの で な い (aprasiddha ) かで あろ う23)」 との 二 者 択一 を 迫 る問い か けに対す る以 下 の 記 述 に お い て で あ る。(
ii
)sarvasyatmatvEc ca
l
〕rahmastitvaprasiddih /sarvohy
atmastitva単pratyeti
, nanaham
iti
/ yadihi
natmfistitvaprasiddhib syat , sarvoloko
naham asmiti pratfytit/atma ca
brahma
/ (BSBh
,p
.81
,11
.1
−2
) (2
) 「ま た, 一切 〔の もの〕の 我 (atman )で あ るこ と に よっ て , 梵の 存 在 性は一 般に 承認せ られ る。 何 となれ ば, 一切 〔の もの〕は , 我の 存 在 性 を了 解 (確信 )してい る か らで あ る。 「私は存 在 しない 」 とは い わ ない 24)。 何となれ ば, もし も我の 存 在が 一 般 に 承認せ ら れ なけれ ば, 一切 世聞の 人々 は 「私 は存 在 する」 と 了解 し ない で あろ う か らで あ る。 そ して 〔こ の 〕我は, 梵で あ る。」 (金倉, 上 , p. 13,ll
.2−5)atmastitva → atma
brahma
[atman =brahman25
)]→brahmastitva
そ し て シ ャ ン カ ラ は, に も拘わ らず なお 「梵」 に つ い て の 考 究が必 要と な る理
由は,
梵
に等 置
され る 「我」(atman ) につ い て の 所説
に差異
が見 られ る こ と と して い る26)
。 つ ま り,
brahman
= atman と説 くの で ある か ら,brahman
に つ い ての考 究 と は, と り もなお さ ず,
atman
につ い て の 考 究で あ ると, 位 置付け られ て い るの で ある。brahman
と は 「こ うこ うしか じか の もの 」 と考え られ もの に対 す る一 つ の 「名称 」 に過 ぎ ない こ と, 問 題 とな るの は,brahman
, atman との 語 で は な く, それ らの 語 に よっ て 意味 さ れて い るモ ノ で ある こ と を確 認 して お く必 要 が ある。 こ うし た 注 釈 を 可 能 と す るBSI
−1
−1
に 続い て あ る,BSI
−1
−2
は,BS
の 作 者に よっ て , 明 確 に与え られ たbrahman
の 根 本的規 定として , 注 釈 作 者 と し て の シ ャ ン カ ラ を絶 対 的に拘 束
す る もの で ある。 だ が, こ の ,考究
の対
象 と し て のbrahman
に つ い て の 規 定を与え るBS
I
−1
−2
の 意 義 づ け27) を 誤 る な らば, ウパ : シ ャ ッ ドない しヴ ェ ー一B
“ 一一ン タ ない しシ ャ ン カ ラ の 主張を真に理 解 し得な くな る筈 である。 そ の 意 味で で もその ス ー ト ラ に対 する注釈
の 末尾 に引か れ て い る 丁露 彦〃砂 σ一び ρ砌 加4
(TaiUp )皿 一1
は 見過 ご し に出来 ない もの が ある。(
iii
)‘
bh
;gur vai varupih /varularTl pitaram upasaShra /adhihibhagavo
brahmeti
’ity
upakramyaha − ‘yato vaimani
bhtttani
jayante
jivanti
/yatprayanty
abhi −sarpvi6antl tad vijijfiasasva /tad
brahmeti
’ (Tai
Up
皿一1) / (BSBh , p.92
,11
.3
−
6
) 一580
一(
38
) 梵 我一如 (1)(金 沢) (3
) 「《ヴ ァ ル ナ の 子ブ リ グ (Bhrgu )は実に父 な る ヴ ァ ル ナ (Var
叫 a)に 近づ け り。 〔而 して〕尊 者 よ梵を 教 え 給 え》と 言 う に 始 ま り, 《それ よ り実 に これ 等 の 存 在物 (bhUta
即 ち 万有 )が 生 じ, そ れ に よ りて生 じたる ものが 生存 し, そ れ ら が それ に向かっ て逝き, 消え失せ る 所 の もの , それ を 汝は研究 すべ し。 これ梵な り》(タイテ ィ リーヤ 三 ・一 )」 (金倉, 上, p .19
,ll
.9
−12
)即ち シ ャ ン カ ラ は , こ の
TaiUp
の 文 章 を示す (pradargana ) 為 に, “janmady
asya yatah ” (BSI
−1
−2
)が ,置
かれ て い るの で あ る と 解 釈 し, そ の 意義
は 「常住 , 清 浄, 覚, 解 脱 を 本 性 とせ る (nitya −
9uddha
・buddha
・mukta −svarapa )一 切 知 者 (sarvajfia ) に して 全 能 (sarvaSakti ) た る主 宰者 (iSvara )よ り, 世 界 (
jagat
)の 生 ・住 ・ 滅 (
jani
−sthiti −pralaya ) が ある28)」 の で あっ て , 「知 性 を 欠 く (acetana ), プ ラ ダー ナ (
pradhana
) ない し他 の もの か らで は ない 29)」 とい うこ と が主 張 され てい る こ と に あ る と して い る。 そ の こ とを 明確にす るた めに も, 次 のBS
I
−1
−3
“ ξastra
・yonitvat
” が, シ ャ ン カ ラ に よっ て 二通 りに 解 され る 必 要 が あ っ た の で あ る。brahman
が , 「聖 典 の 母 胎」 に して 「聖 典を 母 胎 とす る もの 」 で あ る が故 に, とであ る。 つ ま り, 「リ グ ・ヴ ェ ーダ等 の 一 切知の 源 (sarva ・
jfiana
−akara )の 出現は, その 母胎と し て の 一 切知 者に して全 能 た る モ ノ の 存 在 なしには説 明 され ない 30)との
前 者 は,
BS
1
−1
−2
の 解 釈の一 つ の 根 拠 を 示 す もの で あ り
, 後 者は 次 の
BS
1
−1
−4
“tat tu Samanvayat ” へ と向か うの で ある。 そ の 際の 「母 胎」(yoni )が, 厂知識
手 段」 (pramarpa )と解 釈 され る31) こ とは 言 うまで もある まい 。 そ こ で は, 「一 切
知 者に して , 全 能 た る, 世 界 の 生 ・ 住 ・ 滅 の 原 因 (
kara
胆 ) た る梵 は, ヴ = 一 ダー ン タ聖 典に基 づ い て の み (vedanta .
9astrad
eva ) 了知 され る32)」 と, 詳細 に宜揚さ れ るの で ある。 次い で
BSI
−1
−5
以 下 , 哲 学上 の 様 々 な 問 題 に つ い て , 主 に論 難 ・応 答の 形で , 議論 が 展開 さ れ る こ と に な る が , そ れ は本 稿 の 目 的で は ない か ら触 れ る 必 要を認め ない 。 た だ, 本 稿 で 扱 う 「梵我 一一如 」 の 内実を検 討す る 上 で 不 可 欠と思わ れ る も う一 点, 即 ちBSI
−3
−25
に対 する注 釈 の 一 節 を, 問 題 を 先 取 りする 形 で , 見 て お くこ と に したい 。(
iv
)dviraps
hi
vedantavakyanarp prav;ttib 一kva
cit parama ±g
.TasvarapanirUparpa
−para ,
kva
cid vijfianatmanab paramatmaikatvopadegapara / (BSBh ,p
.317
,U
,1
−2
) (4
) 「何 となれ ば, ヴ=一ダ ーン タ の 章 句の 現れ 方に は , 二種の形式 がある か ら で ある。 或
場
合に は, 最高我の 木性の説明 を 目的と し, 或 場合に は識 別我の最 高 我 との 同一の 教示を目的 とす る。」(金 倉, 上, p .
241
,11
.12
−13
)即 ち, ウパ ニ シ ャ ッ ド思想ない し シ ャ ン カ ラ の 哲 学の 核心 を探 る 上 で 重 要な ウ
NII-Electronic Library Service
梵 我一如 (1)(金 沢) (
39
)パ ニ シ
ャ ッ ド の 様 々 な 文章が , 以 下の 二通 りの 目 的 を持 つ もの に大 別 され る とい
うこ とをシ ャ ン カ ラ は 言 うの で ある。
parama −atma ・svarUpa −nirUpapa −para ・(α)33)
vijfiana −atmana
翠parama
−atma −ekatva −upadega −para ・(β)34)こ こに, つ ま り本 稿 冒頭で も見た 如 く, 屡々 「梵 我一如」 と い う言葉で 要 約し て 説 明 され る こ と があ る ウパ ニ シ ャ ッ ド の 教 説の 目 的 を 分 類 しよ うとす る表 現 の 中 に 「梵 (
brahman
)」 とい う語が 見 られ ない と い うこ と は , ある意 味で は 奇 妙 な こ とで あ る。 シ ャ ン カ ラ の 哲 学 体 系が, 「梵」 (brahman
) とい う用 語 を 一 切 用 い る こ と な く,単
に 「我」 (atman )の 哲 学 と して も成立 し得る こ と を端的 に 示 し て い る と言え ない で あろ うか。 だ が安心 あれ , (iv
)の 前 後の 一 文 は , 以 下 の 通 り で あ る。(v )
...pratyucyate − ‘
sa atma tat tvam asi ’
ity
−fidivatsarpsarirpa eva sato
’figu
§
tham
巨trasyabrahmatvam
idam
upadi 忌yataiti
/(BSBh
, p.316
,4
.10
− p .
317
,e
.1
)(5 ) 「〔わ れ わ れ〕は次の ように答え る。 一 《こ の 我 (ア ー トマ ン ), 汝 そ れ な り》 等の 如 く, ま さに輪廻 する もの と して ある栂指 量 の もの に , こ の梵た るこ と が ある と教 示せ られ てい る, と。」 (金倉, 上 , p .241,
64
.10 −12
)(
iv
) tad atra vij負anatmanab paramatmanaikatvam upadiSyate , nahgu §thamatrat
・va 卑
kasya
cit / (BSBh , p .317,64
.2
−3
) (6
) 「そ こで , こ こ で は, 識 別 我の最 高我との 同一が教示せ ら れ る。 或 もの の 拇 指 量 で ある こ とが 〔教 示 さ れて は〕い ない 。」 (金 倉, 上 , p .241
,e4
.13
−14
) シ ュ ヴ ェ ータ ケ ー ト ゥ に対す る ウ ッ ダ ー ラ カ ・ ア ール ニ の 言 と して あ ま りに も 有 名な《
こ れ は我 (ア ー トマ ン) で ある。 汝 そ れ な り》の 場 合 と同様に, 「ま さ に 輪廻す る もの と し て ある拇 指 量 もの に, こ の 梵た る こ と」 が あるこ と を説 くこ と は, 即 , (B
) の 場 合 「識別 我 の 最高我 との 同 一 の 教示 」 で ある こ とが, 明確に表現
され てい るの で ある。 こ こ に は , 「識別 我の 最高 我 との 同 一 」 (識別 我= 最 高 我 ) 〔Atman
(A
) =Atman
(B
)〕の 以 前 に , 「梵 と最 高 我 と の 同 一 」 (梵 = 最 高我) 〔Brahman
=Atman
(B
)〕35) が 前 提 と され て い るの で ある。 こ の こ と を銘記 した 上 で以 下の 「梵
我一如」 の 考 察に移ろ う。 一578
一 N工 工一Eleotronlo Llbrary(40 ) 梵 我一如 〔1}(金 沢 )
皿
梵 我一 如 (
brahman
, atman , ekatva )先 に も述べ た よ うに
BSBh
中 に は 「梵 我 一 如」 と訳 し得るか も知れ ぬ “brah
− matmaikya ” (。rbrahmatmaikatva
) 等の 語 が一度 な らず 用い ら れ 36) て お り, しか も金倉 博
士 は その 全 和訳 中に全
く屡
々 「梵
我一如
」 を 訳 語と し て用い て お られ る 。 その 訳 語 が 仮 りに 「梵 と我 と が同 一 で あ る こ と」 を 意 味 し て お り, しか もそ れ が “brahmatmaikya
” (。rbrahmatmaikatva
) 等 の 語の 訳語と して 妥 当 で あ る と す る な ら ば, 松 本 氏の 主張 の重要 な部 分が 全 く無意味な もの と な るで あ ろ う。 その 点 を検 討 す る こ とが本
節の 主 た る 目 的 で ある。金 倉博 士 に よ っ て 「梵我 一 如 」 とい う訳 語が与え られ てい る もの は以 下 の通 り で ある。 但 し, 訳の 補い と して 「梵 我 〔一 如〕」 とある もの , ま た 「梵 我の 同一」 と ある もの 等 をも含め て 考えたい 。 (イ) ybrahma −atmay
(ロ ) ybrahma −at皿 a・tvaY
1brahma ・atma ・tay
=
brahma
.atma .bhavay
(ハ ) ybrahma −atma −ekatv ゴ
Ybrahma ・atrna −aikya137 )
以上 の 用 例 は,
BSBh
全篇中, 少 な か ら ず見 ら れ る。 これ らの 複 合 語, ない し 複 合語 の 一 支 分 を 解釈す るに 当 た り, こ れ まで の 学者達は全 く難 儀 して い るよ う で あ り, その 解釈の 具体 的 成 果 と して 与え られ る訳 語 に も各 々 様 々 な工 夫 が見 ら れ る。 だ が, そ れ らはい ずれ も常に釈 然と し た もの と は言い 難 い 38)。さて 筆 者は先 ず, それ らの 共 通 要 素で ある
(
イ)の 用 例 に 注 目 し たい 。 (イ) ybrahma −atma !BSBh
中に は , 複 合語 の 一支 分 と して の 】brahma
−atma 一が少 な くと も3
例 ある 他, 独 立 の 複合語た るbrahma
−atman は, 筆 者の知 る限 り,2
例 ある (孰れ も単数 語尾 を持つ )。 こ こで 敢え て 「独 立の 」 と言 うの は ,
A
(nom )B
−atman (nom .) とい うよ うに, 何 某か の 「実 体」 を表わす 他の 実 名 詞 と共に, そ の
B
・atman という
複
合 語が用い られ た場 合, 「A
は ,B
の atman (本質)である」 (Tp
−comp .)や,「
A
は ,B
をatman
(本 質)と して い る」 (Bv
.cornp .)など と解 釈 され るの が普 通でNII-Electronic Library Service 梵 我一如 (
1
)(金 沢) (41 ) も,B
が 「梵」 と訳 し得るbrahman
で あ り, − atman が 「我」 と も訳 し得る も の 39) で ある こ とを, 先 ずは銘 記 す る必要が あろ う。【
】brahma
−atma 一 の 場合】
(vi) tatraivarp sati
yathabhatabrahmatmaviSayam
apijfianarp
na codantitantram /(BSBh , p .129,
4
.9) (6
) 「そこ で , か よ う な 次 第 であ るか ら, 真実の 梵我 〔同 一〕 を 客 体 とす る 知 も また , 教 令に拠る もの で は ない 。」 (金 倉 L , 上 , p .36,6
. 18 )(vii) ...tasyaiva vedapramapajanitabrahmatmavagame tadabhimananivrttau _ (
BSBh
,p
150
,4
,4
) (7
) 「その 同じ人が , ヴ ェ ーダの 認識 基準か ら生 じた梵40)を 確認 して , その 自負心 を停止 し た時に,」(金倉, 上 ,
p
.41
,e
.15
) こ こか らだ けで も, こ の 複 合 語 (ない しその 一支分)の 解 釈 が容 易な らざ る もの で ある こ と が窺
われ るで あ ろ うが, 三 つ 目の 例は,brahma
−atman と 同一 文中に 出て くる もの で ある た め , そ れ と併せ見て み よ う。【
brahma
−atman の場
合]
(viii) _vedantavakyana 珥
brahmatmavagatiprayojananalp
brahmatmani
tatparyenasamanvitanam antarerpapi
karyanuprave6a
卑brahmaOi
paryavasanam uktam /(BSBh
,
p
.161
,11
.1−2) (8 ) 「梵我 〔一如 〕 の確 認 を日標 と し, 趣 旨の上 で 梵我に密 接に連 絡 し た ヴ ェ ーダー ン タ の聖 句はJ 所作に関 係な くて も, 梵に 帰着 する こと (・ ・)を述べ た。」 (金倉, 上 , 48,6
.18
−p
.49
,6
.1
)特に こ の 用 例は
brahma
−atma
・,brahma
−atman
,brahman
が一緒に見 られ る もの と して 興味深 く思 わ れ るの で , 他 の 翻訳 も見 て み たい 。
(
8
’)
So
far
it
has
been
declared
tha亡 the
Vedanta
・passages , whosepurport
is
the cQmprehension of Brahman
being
theSelf
, and whichhave
their objecttherein, refer exclusively to
Brahman
without any reference to actions .(Thibaut
,
i
,p
.45
,IL
17
−2Q
)(
8
’,)
On
adit
jusqu
,a
pr6sent queles
propositionsdu
Vedanta
, rnotiv6es [parle
souci ]
de
comprendrele
Soi
commebrahman
et concordant (samanwita )dans
cette
intention
匸d
’identifier
]le
Soi
au brahman , ontleur
ach6vement(
p
α ror−av αsana ) en
le
brahman , sans qu ,il y ait
d
’ actionqui
s’
int6gre
k
leur
suite .(
Renou
, p .40,11
、5
−9
)こ の 様に, 様々 に訳 され る 】
brahma
−atmaU
が 全て 同一 の モ ノ を意味
して い る 一576
一 N工 工一Eleotronio(
42
) 梵 我一如〔1
〕(金沢)と考え られ ない の は,
BSBh
全 篇 中に 充 満 し てい るbrahman
, atman に関するいわ ゆ る 「梵 我一 如 」 的 表 現 と思 想に つ い て の 教 養 過 多に よ るの で あ ろ う。 と りわ
け (vi五
i
) 中の tatparyena samanvitanam に先 立つ 「単 数 ・ 処 格」 の
brahma
−atman
が, 続 い て 現れ るparyavasanam
に先立 っ 「単 数 ・ 処 格」 のbrahman
の よ うに, 一 つ の 「実 体」 と し て解 釈 され ない こ とに は , そ の 辺 の 事 情 が反 映 し
て い る よ うで ある。 筆 者は, そ れ を
brahman
=brahma
・atman と考え て 差 し支 えない よ うに思 うが, 如何で あろ うか41)。 ま た, 今の筆 者の推
定
を 支 持 する もの とし て 以下の
用
例 を 見て み たい 。 こ れ は,brahma
−atman
が 独 立 の複 合
語 と して現れ る も う一 つ の 用 例で あ る。
(
ix
)tatha ’
jatvam
avikaritvam avik ;tasyaivabrahmarpo
jivatmana
〜avasthanambrahmatmana
ceti / (BSBh
, p .6G2
,%7
−8
){
9
) 「同 じ.く不 生性, 不変異性 が 〔了解せ ら れる〕。 ま さに 不変 化 の梵が, 生 命 我と して安住 する こ と, そ して それ が梵 自体 と して (
brahma
−atmana ) 〔安 住 する こと が 了解 せられ る〕。」(金 倉, 下, p.
41
,IL
4
−
6
)こ こ で,
問
題 のbrahma
−atman (sg.instr
.) がjiva
・atman (sg .instr
.)と対比 的に(並列 的 に) 用 い られて い る こ と に 注意 し たい 。 こ の
jiva
−atman と は, 前 節 冒頭でも触れた一般 に 「命 我」 と訳 され る
jiva
=jiva
−atman (=garira
=Sarlra
−atman )で ある。 例えば こ の 場 合 “
yatha
ca m ;d
−atmana 〜ekatvatp ghata ・9rava
.ady .atmanananatvam42 )”
の よ うに, 対比 さ るべ きは
jiva
とbrahman
で あっ て,jiva
−atmanと
brahma
−atman で は な い , と して , 上 引 の 金倉 博士 の 訳 は, 「生 命 我 (jlva
) とし て 」 厂梵 (
brahman
) と して 」 と改め られ るべ きであ る, とい う意
見
もあろ う。だ が, こ こ で の
jiva
・atman は, こ のBSBh
に あっ て屡 々 重 要な ウパ ニ シ ャ ッ ドの 言 明と し て 引き合い に出さ れ る
Chandogya
一σ ρ硼 加4
よ りの “ seyamdeva
・taik
§atahantaham
imas
tisredevata
anenajlvenatmana
・−anupravigya namarapevyakarava4i43 )” を顧慮 す る こ とな く済 ま す こ との 出来 ない もの で あろ う
。 ま た
BS
II
−3
− 17 に対 す る BSBh 中の こ の 場 合に は, それ に 先立 つ もの と してjiva
−atman と
parama
−atman
と を 対 比 的 に 記す “jivatmano
hi
paramatmana
sarapabhavanti
caitanyayogat44 )” が あ り, また そ の 冒頭に “
asty
atma
jivakhyah
_45)”が, さ らに “
_
jivatmanah
parasmad
brahrnarPa
utpattir _46)”があ るの で ある。
そ れ よ りすれ ば,
(
ix
)
中のjiva
・atman がrjiva
と称 するatman
」 (orrj
互va である atman 」) の ことで あり, そ の
jiva
一且tman
と 対 比 的に表現
さ れ る もの が,NII-Electronic Library Service
梵我一如 {
1
〕(金 沢 ) (43 )parama
−atman (最 高 我)で あ り,para
〜brahman
(高 位の 梵 or 最 高 梵 )で あ り, また 問題 の
brahma
−atman (梵 我= 梵 と称 する我 or 梵で ある我 )で ある と考 え得る ように 思 われ るの で あ る。 な お, それ を 補 強 す る もの と して , 以 下 の 用例を引こ う。
(x ) eSa vyaVrttasarvasarpsaradharmako ’
nubhavatmako
brahmasarpjfiakas
tat・padartho vedantabhiyuktan 巨甲 prasiddhab / (
BSBh
, p .935
,』
44
.2
−3) (10) 「この , 一切の輪廻 の 属 性 を 滅 し, 直 覚 を 本 性 とす る梵の名 前 をもつ ものが, 「そ れ 」とい う語の 意味で ある こと は, ヴ = 一ダーン タ に通 暁 し た 人 々 に, 広 く知 ら れ て い る。」 (金 倉, 下 , p479 ,ee
.S
−9
)(
viii )中の , ま た そ れ に先 立 つ(
vi)(vii)中の 複 合 語の 支 分 と して あ る 】brahma
−atma 】
も全て , こ の
jiva
−atman
に対比 され るbrahma
−atman
(=parama
.atman= =
para
−−brahman
= =brahman
) と解 釈 し得 る よ うに思わ れ る の で ある。 言 うま で も な く, こ の こ とは以 下 に検 討 され る, や は り金 倉 博士 に よっ て
屡
々 「梵 我一 如」 と訳 さ れ る Ybrahma −atma
−tv
ゴ , Ybrahma −atma − ekatvaY (or −aikyay ) の 解釈
に 際 して 一 つ の 重 要な視点 を与え る もの となろ う。ま た これ と の 関わ りで 言 え ば ,
jiva
・atman と 同様Sarlra
・atman につ い て の 検討
も必要
であ
ろ う。BSBh
中に は, ξarira−atma
−tva
−,9arirasya
brahma
−atma
・tva −,atma −ekatva , ekatva な る
複
合 語 も数 多 く現 われ る が , そ れ は 後で・問題 にす る として , こ こで は 取 敢 えず ekatva に つ い て 簡 単に触れ て お こ う。
brahman
は 「多」 で はな く 「一」 で ある こ と, ま た, い わ ゆ る 「梵 我 一 如」で あ る こ と を説 く
BSBh
中に ekay や Yekatvay (・r YekataY ) カ{多 出 す る こ と は当 然 で あ る47)
。 両 者は一般に, 「一 」 「唯一」 「同一」 や, 「単一性 」 「唯一 性」 「同
一 性」 等 と訳され るが
, 注 意 して お か ね ばならぬ の は, こ れ を 「単一 (性)」 と解
す る の と 「同 一 (性 )」 とす る の で は意 味が違 っ て くる と い うこ とで ある。 複 数の
brahman
や atman を否 定 す る場 合 に は, atma −ekatva は atman の 「単一性」と して ,
A
とい うatman
とB
とい う atman の 別 異 性 を否 定 す る もの とし て ある場 合 に は,
A
のB
と の 「同 一性」(ekatva ) と い うよ うに で ある。 時 にA
とB
の「同 一性」 と表
現
され る こ と もあ る。 そ れ を以 下 に見て み よ う。【
A
(nom .)B
(instr
.)ekatva (acc .)gam
− (Qrapad
−)M
(xi ) suSuptikale ca
parepa
brahmapa
jiva
ekatarpgacchati
/(BSBh, p .409,
4
.25 )(11) 「また, 熟睡時に命我は最上 の梵 と一体に帰す る。」(金倉, 上 ,
p
.339
,4
.6
)(xii)
tadvat suptah
parepaikatvam
apannab sarpprasidati ...(BSBh
,p
.704
,6
. 4)(12 ) 「その よ うに眠っ て最 高 〔我〕と合一一
ec
達 し た者は, 快 適 と なる (… )。」(金 倉,一 574 一
f
(
44
) 梵 我一如 (1}(金 沢)下, p.
207
,4
.1
)(xiii)
vidyaya ’vidya 卑 vidhfiya
jivab
pale
厚anantenapr
昌1
丘enatmana 〜ekat 昌lp gac .chati / (
BSBh
, p722
,Il
.11
−12
)(
13
) 「知 に よっ て無 知 を駆 逐 し て, 命 我は最高の 無 限な る 智慧の 我 (prajfia atman )と合一する。」 (金 倉, 下 , p .
242
,11
.3
−4)【
A
(gen .)B (instr
.)
ekatva .】
(xiv )
anudya sarTlstirisvaraparTl parepa
brahma
’syaikatarp vivak 爭ati /(
BSBh
,P .369,
4
.3)(14 ) 「輪廻 す る もの の 本性 を 説い て か ら 最高の梵 と こ れ との 同一48)a を 説 こ う と して
い る。」 (金 倉J 上 , p .
288
,11
.14
−15
)〈xv )
athagrhltarp ξarirasya
brahmaDaikatvam
, tada mithyalh 盈naninlittab ξariras .yopabhogah ,(BSBh , p .237,
11
.1−2)(15 ) 「然 し な が ら, 有 身 〔の命 我〕の 梵 と の唯一 性を把 握 しな け れ ば, そ の 時 に は,
誤 知 に も とつ い て有 身 〔の 命 我〕の 享 受 が あ る。」 (金 倉, 上, p137 ,
Il
.13
−14
)(xvi ) na
hy
atrδtmana i6vareηaikatvarp muktva ,nyat
kilp
cic clntayitavyamasti / (BSBh , p .
824
,ll
.4−5
)(
16
) 「何 となれ ば, こ こ で は , 我が主宰と 同一で あ るこ と以 外 は, 全 く他の い か なること も 思 量 すべ き (cintayitavya )で ないか らで ある。49)」(金倉, 下, p.
345
,11
.11− 12)(xvij )
kva
cid vijfianatmanab paramfitmaikatvopadeSapara /tad atra vijfianatma .nah Param 置tmanaikatvam upadi ξyate ,50)(
BSBh
, P , 317 ,11
.2−3)(
17
) 「或 場 合 には 識 別 我 の 最 高 我との 同一の 教示 を目的 とする。 そ こ で , こ こ で は 識
i
}il我 との 同一が教示 され る。」 (金 倉, 上 ,p
.241,11
.13−14 )こ れ らは, 次 の ケ ー ス と同様, 特に
BSBh
全 篇 中に屡 々 見 られ , 文 句な く「梵我一 如」 と訳 し得るよ うな
brahma
−atma ・ekatvasi ) の 解 釈に重 要な視 点 を与え るもの で あ ろ う。
A
(ge: .)B
(instr.)ekatva − 一一→A
(gen .)B
.ekatva (nDm .)−
A
−B
.ekatva .??【
A
−B
(du
.gen
.)ekatva −】(xviii ) na ,
jlvapraj
且ayor ekatvabhyupagamGt /bhavet
praStavyal
〕hedat
pra6na
−bhedo
yady anyoj
豆vahprajfiat
syat /na tv anyatvam asti ; tat tvam asity ・Edi.6rutyantarel
〕hyah
/(BSBh ,p
.383,11
.10−12 )(
18
) 「そ うで は ない 。 命 我と聡 慧 (最 高 我 )の 同一52)が承 認せ られ る か らで ある。 も
しも聡 慧 (最 高 我 )よりも命我 が他53)である な らば, 問わ れ るもの の 区 別 か ら, 問の 区
NII-Electronic Library Service
梵我一如〔1)(金沢) (45)
る か らで ある。」 (金 倉, 上 , p .
307
,4
.17
−p .308
,e
. 1)(ロ) Ybrahma .atma −tva1 (or 」
brahma
.atma .ta1)
BSBh
全篇
中に は ,Ybrahma ・atma ・tva1
(or 皐
brahma
.at 皿 a−taつ が 全 く屡
々 用 い られ て , 解 読者 を摺
らせ て い る。 金倉 博士 は, これ を多 く 「梵 我 一 如 」 (「梵 我の 同一 (性 )」) と訳 され る他, 場 合に応 じて 「梵が我で ある こ と」 「梵を本性 とす る こ と」 等と訳 し分 けて お られ る。 筆 者の 知 る限 り, 】brahma
−atma −t ゴ が6
例, Ybrahma −atma ・tva】が,
25
例 ある。 その 全て の 用 例 を, 文 脈 に即 し て検 討 す る ことが出来 ない こ と は遺 憾 で ある が, 以 下に は主だ っ た 用例 を 示 し て , 私 見 を述べ
てみ たい 。
KYbrahma
・atmatvay 】(xix )
heyopadeya6anyabrahmatmatavagamad
eva sarvakle6aprahapat puru鐔rtha .siddhe 奪/ (BSBh ,
p
.107,4
.1)(19 ) 「取捨 を空 じ た 梵 我の 本 質 (
brahmatmata
)の 証得か らの み, 一切の 憂 苦 (klega
)を棄て て, 人 間の 目 的 が達成 さ れ る か らで ある。」 (金倉, 上, p .24,
11
.8
−9
)(xx )
brahmatmatvapratipattau
puru
§arthasiddheb / (BSBh
,p
.624
,4
,23
)(
20
) 「梵 我同一 (brahma
・atmatva )の証 得 (pratipatti)に於て, 入生 の 目 的が 成就する か らで ある。」 (金 倉, 下, p.
90
,IL
11−12
)(xxi )
brahmatmatva
耶 tviha
vivakSitam / (BSBh
, p .772
,11
.2
−3
)(
21
) 「これ に 反 し て, 梵が我で あ る こ と (梵 我 一如)が, こ こ で言 お う とせ ら れている所 (主要 事 )で ある。」(金倉, 下,
p
.293
,11
.12
−
13
)以上 の よ うな形であ ら われ る Ybrahma −
atma
−tvaY の 用 例の 解釈
の 一 つ の 裏付 けと な るの は, シ ャ ン カ ラ に よ っ て与 え ら れ た 次 の よ う な
表
現で あ ろ う。(xxii )
yadi tarhi
Ioke
brahm
互”tmatvena
praslddham
asti ,_54)(BSBh ,p
.81
,6
.3
)(22) 「然 ら ば, もし も, 世 間に於て, 梵が我とし て一 般に 認 め られ てあ る とすれ ば…」
(金 倉, 上 , p .
13
,4
.6
)(xxiii )
yatra
hi
nirastasarvaviSeSasarpbandha 卑pararTl
brahmatmatvenopadi
≦yate ,..。(
BSBh
,p
.211
,6
.3
)(
23
) 「何 と なれ ば一切 の特殊 性 (viξe§a 差別) と の結合 を離れ た最 高の 梵が, 我 (アー トマ ン ) と して教示され る所で は, …」 (倉 金, 上 , p .105,
e
. 18−p . IO6,e
. 1)っ ま り, rahma −atma −
tva1
は, 一 つ に は , 「梵が我で あ る こ と」(
梵= 我 ) とい う観 点よ り解 釈 し
得
る とい うこ とであ
る。 よ り厳密
さ を装
っ て 言う
な ら ば,「梵は我で ある」, 即ち
brahman
(n。m .) atman (nom .)→brahman
(gen .)atmatva一
572
一(46 ) 梵我一如
tl
)(金 沢 ) (nom .) と して の , Ybrahma −atmatvaY で ある 55) 。 だ が, そ の 全て をそ の 線 に沿 っ て 解し得る か は, ま だ疑 問で あ ろ う。 先の (イ)の検 討に よっ て 見た如 きbrahma
・atman に抽 象 名 詞 化 す る 一tva, −ta が付い た もの との 可 能 性 も ま た残さ れ てい る
の で ある。 即ち, 「
A
は梵 我 (brahma
−atman )で ある 」 よ り誘 導され る,A
(gen .)brahma
・atma ・tva (nom .)に於 }ナる もの と しての ,Ybrahma −atma −
tvaY
で あ る。 それ に つ い て は ,
A
の 如 きもの と共に 現れ る 以 下 の 用 例に 於て 検 討し よ う。KA
(gen .)Ybrahma −atmatva1
】(xxiv ) tena tu vijfianena
prayojanam
astijivasya
brahmatmatvavadharaOa
無svapnajagaritavyavaharavimuktatvavadhararparp ca /(
BSBh
, p.703
,11
.3
−4
)(24 ) 「而 して か ように識 別す るこ とに は, 効 用 があ る。 命我 が 梵 を 本性と す るこ との
確 認56), 及びそ れ が夢 と 日覚め た時の 営為 (vyavahara 振舞 )か ら 解 き 放 たれ てい る こ
との確 認で ある。」 (金 倉, 下 , p .
204
,11
.16
−17
)(xxv ) ‘
sa atma tat tvam asi
Svetaketo
’iti
ca6arirasya
brahmabhavopade6at
/ svayarpprasiddha
単hy
etac chfirirasyabrahmat
皿atvam upadi6yate , na yatnantara ・prasadhyam
ata ξ ceda 単6astriyarTl
brahmatmatvam
avagamyamanarp svabhavika . syagariratmatvasya
badhakarp
sampadyate , rajjvadibuddhayaiva
sarpadibuddhinam/
badhite
cagariratmatve
tada6raya 皐 samastah svabhaviko vyavaharobadhito
,bhavatL
..(BSBh
,p
.457
,ll
.4
−8
) (25
) 「また 《そ は 我 な り。 汝それ な り。 シ ュ ヴ = ・一タケ ー トゥ よ》 (同 6.7
.8
) と, 身体の 雫 (Sarira
即ち)個人の 我 が, 梵 で あ るこ と を教え る か らで ある。 何 と な れ ば, こ の 身 体 の室 が梵を本 性 とするこ と は , それ 自体 成立せ るこ と (svayalpprasiddham
自 明の理 )で , 他の努 力 に よっ て成 就せ られ るべ きこ とで はない と, 教えられ てい るか らであ る。 そ こ で ま た こ の聖 典に説か れ て い る 厂梵が 我 で あ る」 こ と を 了解す れ ば, 生 得の個 人 我 を 真 実の 我とす る観 念 (9arira
・atmatva )の否 定が 生ずる。 恰 も蛇 等の 意識 (buddhi
)に対 し, 縄等の 意 識が 〔否 定の働 きをする が〕如 くで ある。 〔…〕そ し て個 人 の 我 が 〔真の 〕我で あ るこ と が 否 定 さ る れ ば, 其 〔個 人 我〕に依 拠す る 〔無明 か ら成る〕 全 体の 生得の 日常生活は否 定せ られ る。」 (金 倉 L , 上,p
.401
,IL
2
−9
) 以上 に見 る如 く, こ の (XXV )の 用 例は , 極め て重 要な表 現 に満 ち て い る よ う で あ る。 従 っ て服 部 正明 博士 の 和訳 も参照 し よ う。 vbrahma −atma ・tvaU }こ関 わ る 重 要な局面 が顕に な る に相 違 ない 。 (25
’ ) 「…他方に は, / そ れ は ア ー トマ ン である。 シ ヴ = 、 ・一ターケ ー トゥ よ, お まえ は それ である 」(『チ ャ ーン ドギャ 』6
.7
.8
)/ と, 経 験 的 個 我 がブ ラ フ マ ン で あるこ と が教示 さ れ て い る か らで あ る。 / 実に, こ の 経験的 個我が ブラ フ マ ン を本質 とし てい る こ とは, (聖典の語 句 を用い た だけで )お のずか ら わ か る事 柄と し て教 示され て い るNII-Electronic Library Service 梵 我 一如 ω (金 沢) (
47
) の で あっ て, 何か他の 努力に よっ て立証 さ れ るべ き事柄で は ない 。 し た が っ て, こ の , 典拠に も とつ い て理 解 され る (事 実,す な わ ち), (経 験 的 個 我 が ) ブ ラ フ マ ン を 本質 と し てい る とい うこと は , (そ れ が理 解さ れ る まで )当然の こと と さ れ て い た, (経 験的個 我は そ れ 以外の 何 もの で も な く,)経 験的個 我そ の もの で ある とい う観念 を排 除 するの で あ る。 (縄を 見 な が ら 誤 っ て い だい た)蛇 とい う 観 念 を, (縄 を はっ き り見 るこ とに よ っ て 得 ら れ た ) 縄 とい う観 念 が 排 除 す るの と同 じ である。 / (経 験 的 個 我は) 経 験 的 個 我に ほ か な ら ない とい うこ と が否 定 さ れ れ ば , それ を拠 り ど ころ とするす べ て の , (そ れ まで )当然な こ と され て い た 世 間 的 な 慣 行 は, 否 定 され る こ と に な る…」(服部, p250 ,下,4
.15
一 p .251
,下 ,β.2
)こ の 同一 の テ キ ス ト
(
XXV ) に対 する, 装 い を 異にする 二 つ の 訳 例 は, 難 解 で あ る。 そ の 難 解 さ は , と り も なお さず, 前 者にあっ て の 「本 性」57), 後 者 に あ っ て の 「本 質」58) とい う訳 語 に 由来す る もの で ある。 何 故 こ ん なに も難 し く表 現 し な けれ ば な ら ない の か , シ ャ ン カ ラ の 言 お うと し て い る こ と は , そ ん な に も難 解 な こ とで あるの か 。 だ が, 筆 者 が 先 に指 摘 して お い た Ybrahma ・ atmay に対す る 解 釈の 可 能 性 を顧慮 し さ え す れ ば, その 難 解 性 は 見 事 に ク リア 出 来 る よ うで ある。煩
を厭わ ず, 筆 者の 訳 文 を 示そ う。 (25
” ) 「また, 《そ れ は ア ー トマ ン で あ る。 汝は そ れ な り。 シ ュヴ ェ ータケ ー トゥ よ》と, 身我 (
9arira
)が, ブ ラ フ マ ン であるこ と (brahma
−bhava
)が教示 さ れ る が故に。何 故 なら, こ の こ と, 〔即ち〕身我 (
9arira
) がブ ラフ マ ン (brahma
−atman )で あ ること が, それ 自体で知 らし め られ る もの と して, 教示 さ れて い るの で あっ て , 他 の努力 に
よっ て知 ら し め ら れ るべ き もの と して , 〔教 示 さ れ てい る の で は〕ない か らで あ る。 そ
して ,こ の故に,聖 典に 〔教示 され る〕(
6astrlya
)〔身我が〕ブ ラ フマ ン (brahm
・atman )で ある こ と が ,了知さ れ るな らば , 本 性上 の もの で あ る 〔身我 が〕身 我 (
9firira
−atman で あ るこ との, 否定 (badhaka
) が 成 立 す るの で ある。 ち ょ うど, 〔縄 等の 諸々 の もの に 対 する〕縄等 との 諸々 の 知 (buddhi
)が , 〔縄等の 諸々 の もの に 対 す る〕 蛇等との 諸k の 知を, 〔否 定 する〕よ うに。 そ して, 〔身我が 〕身 我 (9arlra
−5tman )であ る こと が否 定 さ れ るな ら ば , そ の こ と を拠 り所 とす る, 本 性上 の もの で ある 世 俗 (vyavahara )が, 否 定 さ れ た こ と に な るの で ある。」こ の
拙
訳 に よっ て , 筆 者の 意 図 す る こ と は 明瞭 に な る と思 われ る が, な お 敷 衍 するな らば こ うい うこ とで あ る。 「A
は,A
で あ っ て ,B
で ある こ と は ない 」, 即ち, 〔
A
(gen .)A
・tva
(nom ,)〕→ na 〔A
(gen .)B
−tva (nom .)〕。 こ の論理 に 従っ て世俗 は あ る。 と こ ろが, 勝 義が 示 され るこ と に よ り, その 世 俗が否 定され る こ と
に な る59)
。 即ち,
〔
A
(gen .)B
−tva (nom .)〕→ na 〔A
(gen .)A
−tva
(nom )〕
とで あ一 570 一
(
48
) 梵我一如 く1) (金 沢)る。 つ ま り,
rA
は,B
で あっ て ,A
で は ない 」 とい うこ とで あ る。A
が , 「身 我 」(
9arira
=9arira
−atman )で あ り,
B
が, 「ブ ラ フ マ ン 」 (brahman
)= 「梵 我 (篇 梵 とい う我 )」 (
brahma
・atman )で ある。 これ に拠れ ば, (xxiv)
も 「命 我 (liva
) が, ブラ フ マ ン (
brahma
−atman )で ある こ と」 と解 し得 よ う。だ が , こ れ に 対して 筆 者 は, 以 下 の よ うな 用 例 を提 示 せ ざる を得ない 。
(xxvi )
ki
単 canyan niyogani §thatayaiva
paryavasyaty amnaye yad abhyupagatamaniyojyabrahrnatmatvarp
jivasya
, tad apram 的akam eva syat /athaSastram
eva −niyojyabrahmfitmatvam apy acak爭ita tadavabodhe ca puru §arTl niyuijita ,...(
BSBh
,p .715,
11
.4−6)(
26
) 「さ らに ま た, 聖教 (amnaya ) 〔の全領 域 〕が指図 に基づ くこ と だ け に終 る ものとすれ ば, 命 我に関 して一般に承認 さ れ た 「指 図 を超越 し た梵 我 一如の教え (aniyojya −
brahmatmatvarp
jivasya
)」 は, ま さ に全 く権 威の ない 〔主張, 無 価値 な もの〕 (apra ・mapaka ) とな ろ う。 そ こで 〈経 典 は あ くまで 指 図 を 越 え た 「梵 我一如」 を も説 くで あ
ろ うし, 且 つ そ れ を 自覚せ し め る た めに人を指図する で もあろ う〉。」 (金 倉, 下, p231 ,
11
.4
−7
)これ は さ らに次の 用 例 との 関わ りで 検 討 すべ き もの で あろ う。
(xxvii )
dvitiye
’pibrahmaiv
巨niyojyasvabhavalpj1vasya
svarttpamjivatvarp
tv avidyak ;tam eveti pratipaditebrahma
ロi
niyojyabhavan niyogabhava eva /(BSBh , p . 713,IL
16 −18
) (27 ) 「第二 の選択 (分 別 ) に 従っ て も, 指 図せ られ べ か ら ざ る 自 性 の 梵が まさ に命 我 の本性で ある。 併 し命 我で ある こ と (jivatva
) 〔即 ち命我の状態に あ るこ と〕は ま さ し く無知 に も とつ く。 従 っ て, 梵が 理解せ ら れ た 時 〔即 ち 無知が消散 した時 〕に は, 指 令を受け る もの は存 在 しないか ら, 指 令は全 く存 在 し ない 。」(金倉, 下,
p
. 230,11
. 3−6)こ の 二 つ の 用 例は , 我々 が現 在 関心 を持 っ て い る
1brahma −
atma
・tvaYが, 就 中
先 の (XXV
)
中の そ れ が, シ ャ ン カ ラ 自身に よっ て , ど の よ うな もの と 考 え られて い た か を如 実に示 して い る よ うに思 わ れ る。 なお, −
brahma
・atma −tva 一に 対 す る金倉 博士の 「梵我一 如 」 との 訳 が, こ の 場 合全 く相応 し くない もの で ある とい う
こ と は 明 白で あろ う60)
。
aniyojya ・
brahma
・塑 一tvarlljivasya
(α)
brahma
〜eva 〜aniyojya −svabhavarpjlvasya
svarapam (β)筆 者
に は, こ の(
α) (β)
が, ほ ぼ 同一 の 事 態 を表 現
する もの で あると考え られ る。 「ほ ぼ」 と言 わ ね ば な ら ない の は,