お金の話
―イエスのたとえ話より― 最近、 フィナンシャル・プランナーという職業をよく耳にします。 少子高齢化が進む中、 現在の公的年金や医療補助の制度に不 安を感じる人が増えたせいかもしれません。 人々は、 老後の生活 に困らないよう賢く蓄え、 その蓄えが将来にわたって目減りしない 方法を知ろうと専門家に相談するようになりました。 しかし、 どんなに優秀なフィナンシャル ・ プランナーでも、 イ エスのような知恵は持っていません。 イエスはお金について、 た とえ話をしておられます。 正しい価値観がなければ、 将来に備え て一生懸命蓄財したところで、 最後にはすべてを失ってしまうかも しれません。 この冊子は、 ギャリー ・ インリグ著 『イエスのたとえ話 : イエス が語ろうとされたこと』 の抜粋です。 インリグ氏は、 お金に関する イエスのたとえ話を 3 つ取り上げ、 主がその中で教えようとされた ことを検証しています。 資産運用について、 豊かな知識と経験を持つフィナンシャル・ プランナーに相談するのは良いことかもしれません。 しかし、 イエ スこそ、 最高のプランナーです。 そして、 イエスほど私たちの生 活の心配をしてくださる方はおられません。 また、このお方以上に、 知恵のある人も存在しません。 RBC ミニストリーズ社長 マート ・ デ ・ ハーンお金の話 ―イエスのたとえ話より―
2007 年 4 月 10 日 初版第 1 刷発行 2012 年 6 月 10 日 PDF 版 翻訳 : 田井淳子 ・ 藤井正也 編集 : 田井淳子 カバー写真 : 相馬正人 表紙デザイン : Dwiyanto Fadjaray、 大浦優子 発行者 : 田井淳子 発行所 : 日本アールビーシーミニストリーズ 〒 630-0291 奈良県生駒郵便局私書箱 46 号 TEL: 0743-75-8230 FAX: 0743-75-8299 EMAIL: [email protected] WEBSITE: rbcjp.info/ 聖書個所は新改訳聖書より引用 原作 “Jesus’ Parables About Money” ©2007 RBC Ministries この冊子は、 正統なキリスト教の教義に基づいて書かれたものです。 エホバの 証人、 末日聖徒イエス ・ キリスト教会 (モルモン教)、 統一協会とは関係ありま せん。 転載 ・ 転記には、 許可が必要です。 この冊子は非売品です。 RBC ミニストリーズは、 特定の教会や教団にではなく 読者のみなさまの献金によって支えられ、 人生を変える聖書の英知を伝えてい ます。目次
序 ... 1 豊かさを追い求める風潮... 4 愚かな金持ちのたとえ話... 5 不正な管理人のたとえ話... 16 不平を言う労働者のたとえ話... 29豊かさを追い求める風潮
アメリカの 1980 年代は、 「ヤッピー」 の時代だったと言えるで しょう。 ヤッピーとは、young (若い) urban (都会の) professional (プ ロフェッショナル) の頭文字を取った造語です。 ヤッピーが出現 する前も、 アメリカ人は頑張れば何でも手に入ると言っていました。 ところが、 ヤッピーのモットーは、 「何もかも絶対に手に入れる」 でした。 この時代の人々の関心は、 次から次へと新しい物を買う ことでした。 しかし、 数年後には不況になって、 生活の安定を追 い求めるようになりました。 これもまた、 形を変えた物質主義にす ぎません。 そして、 これはヤッピーだけに限らなかったのです。 1988 年に 10 代の若者を対象に行われた信頼できるリサーチ の分析結果は次のようなものでした。 「この年代の若者の価値観 は、 驚くほどに物質主義である。 今までの人とは比較にならない ほど、 金を儲けたいと切望している。」 (『トリニティー・ジャーナル』 1988 年秋季号、 216 ページ) このような考え方を取り入れて、 ク リスチャンには健康と富と繁栄が約束されていると説く牧師たちも 出現しました。 ひとりの牧師は次のように語ります。 「もしマフィア が黒塗りのベンツに乗っているのなら、 王の王である神の子ども たちが、 高級外車に乗れないわけがない。」 ここに彼らの考え方 がよく表れています。 豊かさの追求という生き方は、 団塊の世代と呼ばれる戦後生 まれの人たちが始めたわけではありません。 もっとも、 それに磨 きをかけたことは確かですが。 また、 1990 年代になってバブルが はじけても、 その考え方が大きく転換したわけではありません。 私 たちは、 「もっと豊かにしてあげよう」 という誘惑に魅了された世
の中に生きています。 そこでは、 人間の価値が地位と財力によっ て計られます。 仕事で成功すること、 経済的に安定していること、 または金持ちになることでさえ、 それ自体は、 何の問題もありませ ん。 しかし、 クリスチャンであるなら、 「一線を越えた」 と言わざる を得ない状態があります。 そうなってしまっては、いけないのです。
愚かな金持ちのたとえ話
聖書に 「金の好きな」 と記されているパリサイ人たちに向かっ て、 イエスは言われました。 「人間の間であがめられる者は、 神 の前で憎まれ、 きらわれます。」 (ルカ 16:15) 私たちは成功して 裕福になり、 物心両面にわたってその恩恵を得るのは良いことだ と考え、それに向かって努力しようとします。 それなのに、イエスは、 私たちが頑張って得ようとするものを 「憎まれ、きらわれる」 のでしょ うか。 イエスに心を探られると、 私たちは痛いところを突かれたと感 じます。 イエスは 「愚かな金持ち」 のたとえ話をなさいましたが (ル カ 12:13-21)、その話に耳を傾けるならば、私たちはひとり残らず、 自分の心を真剣に探らなければならなくなるでしょう。イエスは人の心を探られる
律法学者やパリサイ人たちは、 エルサレムに向かっていくイ エスに対して激しい敵意を燃やし、 執拗な質問攻めを始めまし た。 イエスの言葉尻をとらえて言いがかりをつけようと、密かに計っ ていたからです (ルカ 11:53-54)。 一方、 おびただしい数の群衆も集まって来て、 互いに足を踏み合うほどになりました (ルカ 12:1)。このように、群集の喝采と権力者たちの敵意が交錯する中、 イエスはまず弟子たちに言われました。 「…人間たちを恐れては いけません。」 (ルカ 12:4) そして、 大胆で勇気ある神の証し人と なるようにと教えられました。 ひとりの男性が群衆の中にいました。 この人は、 証し人になる ことにはまったく興味がありません。 遺産をめぐる争いに心を奪わ れていました。 この男性は、 ふたり兄弟の弟でした。 ユダヤの律法によれば、 兄には父親の土地や財産の大半を相続する権利がありました。 ま た分配する権利もありましたが、 通常は財産が離散しないように するものでした。 ところが、 弟の考えは違っていました。 自分の 思い通りにできるお金が欲しかったのです。 当時、 律法に関することで意見の相違があると、 信頼できる ラビのところへ行って答えをもらうのが常でした。 というわけで、 彼 はイエスのもとに来たのです。 そして言いました。 「先生。 私と遺 産を分けるように私の兄弟に話してください。」 (13 節) 彼の言葉 は、 その本心を語っています。 彼は、 兄と自分のどちらが正しい のかを知りたいわけではありません。 兄をやっつけるために、 味 方が欲しいのです。 彼は、 後の時代の多くの人たちと同じように、 金銭欲を満足させるために、 イエスを利用しようとしたのでした。 イエスは 「いったいだれが、 わたしをあなたがたの裁判官や 調停者に任命したのですか。」 (14 節) と語られ、 関わりを拒否 されました。 律法の規定から判断すると、 この問題を調停する法 的な権威は、 イエスにありません。 しかし、 それ以上に注目すべ き重要なことは、 イエスの使命は、 このようなことと関係ないという
ことです。 レオン ・ モリスは 「イエスは、 人を神のもとに立ち返ら せるために来られたのであって、 土地や財産を人に与えるために 来られたのではない。」 と注解書の中で述べています。 この言葉は、 しっかりと覚えておくべき真理です。 神は健康と 金銭的な成功を必ずクリスチャンに与えてくださると教える人がい たら、 特に気をつけなくてはなりません。 仮に、 この男性の兄が 間違っていたとしても、弟である彼が正当な権利を手にすることが、 必ずしも良かったかどうか分かりません。 相続財産をごまかされる こと以上に深刻な問題が、 彼の心の中に潜んでいたからです。 イエスは人々に目を向けて、 「どんな貪欲にも注意して、 よく 警戒しなさい。 なぜなら、 いくら豊かな人でも、 その人のいのち は財産にあるのではないからです。」(15 節)とおっしゃいましたが、 それがまさに彼の問題でした。 「注意して、 よく警戒しなさい」 という警告に、 主のおっしゃり たいことがはっきりと示されています。 それは、 貪欲というものが、 起こるかもしれないし、 起こらないかもしれないという漠然としたも のではないということです。 主イエスの見方によれば、 貪欲は単 なる罪ではなく、 大きな罪でした。 しかし、 人には見過ごされが ちな微妙さを含んでいます。 誰の目にもはっきり罪だと分かること があります。 クリスチャンは、 それらの罪を悪だと決めつけて、 そ れに関わることはよくないと言います。 しかし、 貪欲が非常に恐 ろしい罪であるとは思っていません。 ところが、 驚いたことに、 イ エスは、 姦淫や酒に酔うこととは比較にならないほど強い言葉で、 貪欲に対する警告を発しておられるのです。 貪欲とは、 もっとたくさん欲しいという強い願望のことです。 も う少し、 もう少しと自分を駆り立てる欲望です。 これは、 クリスチャ
ンが持つべき 「満ち足りる心を伴う敬虔」 (Ⅰテモテ 6:6) と正反 対のものです。 大富豪のジョン ・ D ・ ロックフェラーに、 「どのくら いのお金を持っていたら十分ですか。」 と尋ねた人がありました。 彼の答えは 「あともう少し」 だったそうです。 貪欲という名の獣は、 決して満腹になりません。 いつもお腹をすかしているのです。 自分は金持ちではないので貪欲ではないと考えるなら大間違 いです。 貪欲とは心のあり方です。 貧しくても貪欲な人がいます。 他方、 金持ちでも貪欲にならない人もいます。 しかし、 お金が入 りだすと、 もっと豊かになりたいと思うのが人の常です。 イワン ・ ボースキーは、 インサイダー取引をして有罪になり、 一億ドルの罰金と懲役刑を言い渡されました。 しかし、 その数年 前まではウォール ・ ストリートの花形ディーラーで、 有名大学院の 卒業式で次のような祝辞を述べていました。「貪欲は良いことです。 私は、貪欲は健全だと思っています。 みなさんにそのことを分かっ ていただきたいのです。 貪欲な自分を 『かっこいい』 と思うことは 可能なのです。」 アメリカの代表的な週刊誌のひとつであるニュー ズウィーク誌が、 後にこう書いています。 「過去を振り返ったとき、 一番奇妙に思うことは、 イワン ・ ボースキーが、 MBAを取得して 卒業していく人たちに向かって語ったことではなく、彼のこのスピー チに対して、 会場から笑いと拍手が沸き起こったことだ。」 (ニュー ズウィーク 1986 年 12 月 1 日号) 貪欲はジョークですむ問題ではありません。 実際のところ、 そ れは偶像礼拝です (コロサイ 3:5)。 主は、 「いくら豊かな人でも、 その人のいのちは財産にあるのではない」 とはっきりとおっしゃい ました(ルカ 12:15)。 神だけが、人のいのちの源です。 神だけが、 いのちを支配しておられます。 そして、 いのちをお与えになるの です。
イエスは問題を明確に示される
イエスは、 漠然とした警告を与えておられるのではありません。 まず紀元 1 世紀の 「セレブ」 がどんな人たちだったかを、 愚かな 金持ちのたとえ話を語って描写されました。 「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中で こう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえて おく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を 取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみな そこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言 おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がた められた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、 今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意 した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のため にたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」 (ルカ 12:16-21) 富はさらなる富を生み出すものです。 お金があるなら土地を 買い、 その土地が多くの収穫物をもたらします。 この金持ちの男 が、 富んでいる事実、 それを得たり増やしたりする方法は、 ここ で特に批判されていません。 注目すべきことは、 この男がその富 をどうしようとしたかということです。 さらに決定的なことは、 実際 に何をしたかではなく、 むしろその背後にある彼の価値観でした。 彼にとって、 大きな倉を建てることは、 賢く現実的な決断でしたが、 それが問題でした。 倉ではなく、 その価値観が問題でした。 彼の人生観は、 以下のようにまとめることができるでしょうが、これは世の中で長年言われてきたことと同じです。 • 「私が私を大切にしないなら、 誰が私を大切にしてくれる だろうか。」 • 「誇示できる持ち物があることは、 成功した人間であるこ との証である。」 • 「倉 (今なら、さしずめ家や車) が大きければ大きいほど、 より良い人生だと言える。」 • 「お金で幸せは買えないかもしれないが、 安心と楽しみ ぐらいは手に入る。」 しかし、あっという間に「バブル」ははじけてしまいました。神は、 この金持ちにだけではなく、 貪欲を生きているすべての人たちに 有罪判決を宣告されました。 「愚か者。 おまえのたましいは、 今 夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いっ たいだれのものになるのか。」 主の審判のみことばは、 情け容赦 のないほどに正直で、 鋭い洞察に富んでいます。 以下に 3 つの ことを見てみましょう。 1. 彼は愚か者であって、 勝者ではない。 この人は、 みんな の羨望の的だったに違いありません。 しかし、 神の目から見れば、 愚かで憐れむべき人でした。 聖書で 「愚か者」 というのは、 頭 が良いか悪いかということではなく、 ものを見分ける霊的な力がな いことです。 詩篇や箴言に登場するこの言葉から判断して、 「愚 か者」 とは、物事をあたかも神がいないかのように独断で決めたり、 神のみことばを無視したりして生きる人のことです。 この男が語っ た言葉には、 「私」 と 「私の」 という言葉が 11 回も使われていま す。 彼の生き方には、 神が存在していませんでした。 2. 彼は、 しもべであって、 主人ではない。 この人は、 自分
の人生の主導権を握っていると信じていました。 お金があれば人 生を掌握できると思っていました。 しかし、 神の判決を聞くならば、 彼には今を支配する力さえまったくないことが分かります。 神は、 「おまえのたましいは、 今夜おまえから取り去られる。」 と言われま した。 この 「取り去られる」 と訳された単語は、 元々は商取引で 使われ、 借金を返済させるという意味でした。 彼は、 この危機的 な状況の中で、 すべての人が遅かれ早かれ到達する真理に行き 当たりました。 それは、人の生命の所有者は神だ、という真理です。 私たちは、 神から地上の人生という時間を借りているに過ぎませ ん。 そして、 神は貸していたものをいつでも回収することがおでき になるのです。 愚か者には、 将来を支配する力もありません。 「おまえが用 意した物は、 いったいだれのものになるのか。」 と書かれていると おりです。 伝道者の書の作者は、 次のように嘆いています。 「後 継者が知恵ある者か愚か者か、 だれにわかろう。 しかも、 私が日 の下で骨折り、 知恵を使ってしたすべての労苦を、 その者が支 配するようになるのだ。」 (伝道者の書 2:19) 3. 彼は、 金持ちではなく、 貧乏人である。 真理に目が開か れた途端、その金持ちは、少ない報酬のために多大なエネルギー を投入して働いていたことが分かりました。 永遠に残るものではな く、 消えゆくものに自分を賭けてきたのです。 死が辛いのは、 死 によって大切な何かが奪われるからです。 この人は、 すべてのも のを失いました。 自分が建てた倉、 自分が支配した人びと、 自 分が築いた名声。 彼は、 死にすべてを奪われ、 自分の本当の 姿を知りました。 イエスは語ります。 「自分のためにたくわえても、 神の前に富まない者はこのとおりです。」 (21 節)
私たち一人ひとりは、 21 節を読んだ後、 自分にこう問わなけ ればなりません。 「私は、神の目から見れば愚か者だろうか。 神は、 私の人生をどうご覧になっているのだろう。」 殉教した宣教師のジ ム ・ エリオットは、 次のように言いました。 「失うことのないものを 手にするために、 持ち続けられないものを手放す人は愚かではな い。」 この言葉は、 じっくり考えてみる価値のあるメッセージです。 人はそこそこの物を持っていると、 自分で状況をコントロール できると勘違いしがちです。 愚かな金持ちのたとえ話は、 そのよう な人を描いています。 まるで神がおられないかのように生きる生き 方です。 さて、 これとは別の愚かさもあります。 それは、 「神は私のこと を気にかけておられない。」と思うことです。私たちは、献身して持っ ているものをすべて捧げてしまったら、 日々の必要が満たされなく なるのでは、 という不安を持っています。
愚か者と呼ばれないために
ルカの福音書 12 章 22 ~ 34 節が、 群衆に対してではなく弟 子たちに向かって語られていることは明らかです。 そこに暗示さ れていることは、 キリストに従う者が陥りやすい罪のひとつが心配 だということです。 その理由は、 簡単です。 イエスの弟子になる ためには、 厳しい要求を突きつけられます。 つまり、 キリストを完 全に頼りきることです。 しかし、完全に頼りきるとどうなるのでしょう。 経済的な心配はないでしょうか。 もし、 私がすべての財産を人に 与えて無一文になったなら、 主は本当に私の必要を満たしてくだ さるでしょうか。 理屈では大丈夫だと分かっていますが、 心の奥 底では確信がありません。 箴言の作者は、このような気持ちを、「心に不安のある人は沈」 むと表現しています (箴言 12:25)。 これは、 身体の健康にも当てはまります。 胃潰瘍の原因は、 食べ物以上 に精神的なストレスです。 心配は、 心の平安を奪い、 霊的な確 信を失わせます。 「心配しないで」 というアドバイスは無益です。 そんなことを言 う人は、 たいてい、 非現実的か物を知らない人、 あるいは、 自 分が優位な立場にいることを自負したい人です。 一方、 主イエス は、 私たちがなぜ心配すべきでないのか教えてくださいます。 ま ず、心配することは、「愚かなこと」 です (ルカ 12:22-24)。 これは、 人生は物を得たり貯めたりすることだと考えていた前述の金持ちの 愚かさに通じます。 人生は、 何を食べて何を着るかといったこと 以上のものです。 そして神は、 どんな被造物よりも、 私たちのこと をはるかに大切にすると約束しておられます。 それなのに心配を するのは、 自分が神の大切な子どもであることや、 神が愛に満ち た 「私のお父さん」 であることを忘れているからです。 第二に、 心配するのは 「無駄なこと」 です (ルカ 12:25-28)。 心配をして寿命を縮めることはあっても、それを延ばすことは できません。 そして、 野原を美しく飾ってくださる神は、 私たちの 服をはぎ取って裸にされることなどなさいません。 心配でたまらな いというのならば、 神が面倒を見てくださるということを否定してい ます。 少し考えてみれば、 心配していることがらは、 済んでしまっ たことか (過去)、自分の力ではどうすることもできないこと (現在)、 または、 起こるか起こらないか分からないこと (未来) です。 そ んなことは無益です。 私たちに必要なことは、 信頼で心を満たす ことです。 神の御手にすべてを委ねること以上に良いことがあるで しょうか。
第三に、 心配は 「不信仰」 です (ルカ 12:29-31)。 自分の 必要に心を奪われているということは、 結局、 不信仰だということ です。 もし福音が本当に真理なら、 私たちの生き方は、 神を信じ ない人のそれとは異なってしかるべきです。 オズワルド ・ チェンバースは、 その著、 『今日一日のレースを 勝ち抜く』 の中で、 こう書いています。 「私たちのすべてのいらだ ちや心配は、神抜きで状況を予測することから生じます。」 心配は、 父なる神を正しく理解していないことから生じます。 神は、 私たち のことをご存知で、 私たちのことを気遣ってくださり、 私たちのた めに行動してくださるお方です。 神をどのようなお方として捉える かによって、自分の人生をどのように見るのかが決まります。 また、 これによって、 何を心配するかも変わってきます。 私たちにとって大切なことは、 心配すべきことを心配するとい うことです。 それは何でしょうか。 「神の国を求める」 ことです。 私 たちは、 何も気にしないのではありません。 ただ、 二義的なこと ではなく、 本当に大切なことに心を向けるのです。 神の御国だけ が、 究極の関心ごとであるべきです。 不安に似たものが恐怖ですが、 主イエスは 「恐れることはあり ません。」 (32 節) と語られました。 主は、 財産を使って思い切っ た施しをしなさいと言われました。 私たちは財産を信頼すべきで はありませんし、 しっかりと握りしめているべきでもありません。 む しろ、 永遠のことがらのために投資してしまうべきです。 実際、 財 産を真の意味で守りたいのなら、 その宝を天に積み上げるべきで す。 私たちの心は、 宝のあるところにあります。 もし私たちの宝が 天にあるなら、 私たちの心も天にあります。 デービッド ・ グーディ ングは、 こう記しています。 「天国に投資する気のない人にとっては、 天国とはリアリティー
の乏しい場所です。 同じように、 天国に宝を積んでいる人にとっ ては、 天国は、 益々現実的な場所になっていきます。」 (「ルカに よる福音書によれば」、 241 ページ) 私たちの人生で決定的なことは、 いくらお金を持っているかで はなく、 そのお金をどうしているかということです。 金持ちの男は、 財産をこの地上に置いていました。 彼は、 一時的で無意味なも のを中心に自分の人生を築いている愚か者でした。 イエスの弟子として召し出された私たちは、 神に対して富み、 尽きない宝を天に積んでいるべきです。 D ・ L ・ ムーディーは、 こう言いました。 「人がどこに宝を積んでいるかを知るのに、 長い 時間はかかりません。 たいていの場合、 15 分も話していれば、 その人が宝を天に積んでいるのか、 この世に蓄えているのかは分 かります。」
アメリカの貨幣に刻まれた 『私たちは神を信じ
る』 というスローガンは、 お金に関して神を信
頼するということを意味しているのでしょうか。
それとも、 私たちのお金を神にゆだねるという
意味でしょうか。
神に「愚か者」と呼ばれたい人などいないでしょう。どうすれば、 そう呼ばれずにすむのでしょう。 まず、 贅沢を良しとせず節度を 守ることを選択しましょう。 そうすれば、 宝を天に積むことができま す。 また、 自分のために貪欲というのではなく、 困っている人に 対する思いやりを実践しましょう。 このようにして、 お金ではなく神を信頼する心を育てましょう。 アメリカの貨幣には、 「私たちは神を信じる」 というスローガン が刻まれています。 すばらしい文句です。 しかしこれは、 お金に ついて神を信じるということを意味しているのでしょうか。 それとも、 自分のお金を神に委ねるという意味でしょうか。 経済的に豊かで はないのに生活の必要がどんどん増えていくという状況に陥った 友人が、 次のように言いました。 「経済的な苦境に追い込まれて きたとき、 『おじさん!』 と叫んで助けを求める人はいません。 む しろ 『おとうさん!』 と叫びます。 そして、 このお方は、 私たちの すべての必要を知っておられ、同時に、万物の所有者なのです。」 このように語る人は、 神の知恵を自分のものにした人です。
不正な管理人のたとえ話
イエスのたとえ話には共通した特徴がいくつかありますが、 そ のひとつは、 大きな驚きを与えるということです。 たとえ話のヒー ローは、 予想外の人たちです。 ルカの福音書 16 章 1 ~ 13 節に 登場する 「不正な管理人」 は特にそうだと言えるでしょう。 この話 は物議を醸してきましたし、 その解釈に関しては、 学者の間でも 論争が交わされてきました。 数多くの疑問が存在するにもかかわ らず、 この話は、 私たちがイエスの弟子として生きるときに直面す る本質的な真理を示しています。 まず、 1 ~ 8 節でたとえ話が語 られます。 それに続いて、 この話で教えようとしておられることをイ エスが説明されるという構造になっています。イエスは弟子たちに次のような不正な管理人のたと
え話をされました。
「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人 の財産を乱費している、という訴えが出された。主人は、 彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いた が、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せてお くことはできないから、会計の報告を出しなさい。』管理 人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げ られるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、物 ごいをするのは恥ずかしいし。ああ、わかった。こうしよ う。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、 人がその家に私を迎えてくれるだろう。』そこで彼は、主 人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、 『私の主人に、いくら借りがありますか』と言うと、その 人は、『油百バテ』と言った。すると彼は、『さあ、あなた の証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい』と言った。 それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがあ りますか』と言うと、『小麦百コル』と言った。彼は、『さ あ、あなたの証文だ。八十と書きなさい』と言った。この 世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよ りも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこ うも抜けめなくやったのをほめた。」(ルカ 16:1-8) このたとえ話を読んでいると、 お金を管理することと責任を取 るということがどういうことなのかを考えさせられます。 その管理人 は、 しもべでした。 彼は、 雇われ人で、 主人に代わって土地や財産を管理するのが仕事でした。 その管理人がしなければならな かったことは、 主人の信頼を裏切らないように、 自分の財産では なく、 主人の財産を増やすことでした。 ところが彼にとって、 好き 勝手なことをし、 自分の快楽のために金を使うという誘惑は抵抗 しがたいものでした。 彼は、 金を無駄に使い、 信頼を裏切り、 財 産の管理を誤りました。 このことが主人の耳に入りました。 そして、 行いを問い正されると、 弁解の余地はありませんでした。 このたとえ話と、 マタイの福音書 18 章に書かれている人を赦 さないしもべのたとえ話はよく似ています。 このような話が聖書の 中に繰り返し出てくるところを見ると、 イエスの時代でも、 信頼を 裏切られることはよくあったのでしょう。 今と少しも変わりません。 確かに、 その男は解雇されてしかるべきでした。 一方で、 「もう管 理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。」 (2 節) と主人に言われた後、この男が何をしたかを詳しく見ることは、 私たちにとって有益です。 今なら、 このような人は即刻解雇です。 朝、 出勤したら自分 の机が無くなっていたり、 机の中を空にして即出て行くように命じ られたりするでしょう。 しかし、 このたとえ話の管理人には、 少し だけ時間がありました。 クビになるのは避けられませんが、 まだそ うなってはいません。 そのことが、 世間に知れたわけでもありませ んでした。 会計報告が主人の手に渡るまでに何かをすることがで きます。 しかし、 時間はわずかですから、 すべきことは今すぐ実 行しなければなりません。 躊躇している暇はありませんでした。 彼は将来に関して選択の余地が乏しいことをよく知っていまし た。 肉体労働ができるほど強くなく、 物ごいをするにはプライドが 高すぎました。 すばやく行動を起こさないかぎり、 このどちらかの
運命です。 そこで彼は、 「魚心あれば水心あり」 ということわざを 実行に移しました。 何人かの人に手心を加えれば、 その人たち が恩に着てくれると思ったのでしょう。 この男の狡猾さがここにはっきりと現れています。 彼は、 主人 の債務者たちを呼びつけて、証文を書き換えました。結局のところ、 彼はまだ主人の財産管理人です。 主人の代理人として行動する 法的な権威を持っているのです。 • 「いくら借りがありますか。」 「油 100 バテです。」 「ここに あなたが書いた証文があります。 ここを書き換えて、 50 バテ借りていることにしてください。 そうすれば、 その証 文にサインしてあげましょう。」 • 「いくら借りがありますか。」 「小麦 100 コルです。」 「ここ に 80 コルと書いてください。 そうすれば、 それにサイン してあげましょう。」 私たちは紀元 1 世紀のパレスチナの商取引に関して十分に 知らないので、 こんなことがなぜ起きたのか、 本当のところはわか りません。 ある註解書は、 この管理人が債務者たちを詐欺行為 に加担させたと確信を持って解説しています。 そう考えることも可 能でしょう。 しかし、 債務者たちは、 この主人と今後も取引を続け たかったでしょうから、 明らかな詐欺とは考えにくいのではないで しょうか。 たぶん、 この行為は律法に触れるか触れないかのぎり ぎりのところだったのでしょう。 モーセの律法によれば、 ユダヤ人はユダヤ人から利子を取る ことができませんでした。 この規定は商取引を困難にします。 そ
れで、 ある種の方便を使うのが常でした。 借金の証文に元金と利 息を併記することは違法ですから、 証文に書かれる金額はひとつ だけです。 これは、 貸した額と利息、 そして管理人の手数料を合 計した額でした。 そして、 その額は油や小麦などの商品に換算さ れていました。 人々はこのようにして、 モーセの律法を守っている ように振舞ったのです。 ということならば、 この管理人はたぶん、 元々証文に書かれて いた金額から利息や手数料の額を差し引いた証文を作ったので しょう。 利息は、 ユダヤ人にとって合法的ではないので、 主人は この件について管理人を罰することはできません。 借りのある人た ちは、 管理人の申し出を不可解に思ったとしても、 喜んで指示に 従ったでしょう。 彼は、 主人が何もできない合法的な形で債務者 の利益をはかりました。 そして、 彼らに恩を売ったのです。
主人は、 このしもべがしたことに満足していると
は言いませんでしたが、 『こいつはとてもうまく
やった。』 と言いました。
このたとえ話は、 「主人は、 不正な管理人がこうも抜けめなく やったのをほめた。」 (ルカ 16:8) という言葉で締めくくられていま す。 ここで大切なことは、 何が書かれていて、 何が書かれていな いかをよく理解することです。 主人は、 不正な管理人の行為に満 足しているとは言いませんでした。 ただ 「こいつはとてもうまくやっ た。」 と言ったのです。 その管理人は、 主人が手出しできないよ うな形で、自分のしたいことをしました。 主人は、解雇の原因となった管理人の不誠実さを褒めてはいません。 しかし、 スポーツで負 けた人が勝った人の技量をしぶしぶ認めるように、 このしもべに一 本取られたことを認めました。 「抜けめない」 という言葉が、 このたとえ話の鍵になります。 その意味を慎重に見てみましょう。 「抜けめない」 と訳されている ギリシャ語は、 「先を見越して行動する」 という意味です。 嵐がき ても大丈夫なように岩の上に家を建てた人 (マタイ 7:24)、 また 必要を予測して油を用意していた 5 人の娘たち (マタイ 25:1-13) の先見性に対しても同じ単語が使われています。 これが不正な管 理人の才覚でした。 彼は、 将来の益を見据えて決然と行動しました。 彼は、 自分 が置かれていた状況に則して行動しました。 危機的な状況の中 にいてもチャンスを逃さず、 それを有効に活用しました。 それは、 彼が現在だけでなく未来にも目を向けていたからです。 彼には現 実的で利口な判断をするずる賢さが備わっていました。 このたとえ話には複雑な気持ちにさせられます。 この不正な 管理人は英雄ではありません。 彼はうさん臭い人です。 しかし、 その行動は、 イエスの弟子たちがこの世に生きて何かを成すため に必要なものを教えています。 これについて、 詳しく見ていくこと にしましょう。
イエスは賢いクリスチャンの特性について語られまし
た。
「ここの世の子らは、自分たちの世のことについては、光 の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管 理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために 友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、 彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。小さ い事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に 不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。ですから、あな たがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがた に、まことの富を任せるでしょう。また、あなたがたが他 人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あな たがたのものを持たせるでしょう。しもべは、ふたりの主 人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛した り、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからで す。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるという ことはできません。」(ルカ 16:8-13) 賢いクリスチャンは、 永遠のゴールを獲得するためにお金 を使います。 ルカの福音書 16 章 8 ~ 13 節は、 お金に対して の 「抜けめない」 態度が、 永遠のゴールの獲得を可能にすると 語っています。 イエスは 9 節で、こう言われました。 「不正の富で、 自分のために友をつくりなさい。」 ここで 「富」 と訳された単語は、 お金だけではなく、 あらゆる財産や持ち物を意味しています。 主 は神にも仕え、 富にも仕えるということはできないとはっきり言われ たのですから、 拝金主義はいけません。 「富」 をキリストの権威の 下に置かれなければなりません。 さもなければ、 神に対抗し、 そ こから悪が生じます。 「不正の富」 とは、 単にこの世の富という軽 い意味ではなく、 不義に導くこともある富という意味です。 主は、 富には限界があることを認めるようにと言われています。 「そうしておけば、 富がなくなったとき」 (9 節) というのは、 「そう
しておけば、 富が用をなさなくなったとき」 という意味で、 お金が 無くなったことではなく、 死のことを指しています。 パウロは、 次 のように言いました。 「私たちは何一つこの世に持って来なかった し、 また何一つ持って出ることもできません。」 (Ⅰテモテ 6:7) 抜 けめないクリスチャンなら、 お金は強い力を持っているけれど、 そ の力は一時的で限界があることを認めなければなりません。 経済 力の特徴のひとつは、 それが用をなさなくなるときが必ず来るとい うことです。 昔、 聖ベルナールは 「食物が必要な身体に空気が いくらあっても無益なように、 飢えた心にとって、 お金はまったく 役に立たない」 と書きましたが、 まったくそのとおりです。 臨終の ときには、 特にそうです。 お金を持って死ねる人などひとりもいま せん。
抜けめないクリスチャンなら、 お金は強い力を
持っているけれど、 その力は一時的で限界があ
ることを認めなければなりません。
抜けめなくお金を使うとは、 神が示してくださった永遠のゴー ルを獲得するためにお金を使うことです。 イエスは、 こうおっしゃ いました。 「…不正の富で、 自分のために友をつくりなさい。 そう しておけば、 富がなくなったとき、 彼らはあなたがたを、 永遠の 住まいに迎えるのです。」 (9 節) イエスを信じる人は誰でも天国 に迎え入れられますが、 すべての人に同じ人数の歓迎してくれる 人がいるわけではありません。 生活に困っているクリスチャンを助けるため、 また、 救いのメッセージを広く届けるために、 自分のお金を使うなら、 永遠の報い が必ずあるでしょう。 恵み深い父なる神は、 私たちが捧げたもの によって助けられた人や救いに導かれた人に、 その事実を語って くださるでしょう。 以前住んでいた所を訪れたとき、 もし、 人々があなたの周りに 寄ってきて一列に並び、 あなたが自分の人生をどのように祝福し てくれたか口々に語ってくれたとしたら、 これほど嬉しいことがある でしょうか。 このようにして、 自分が天国で迎えられることを想像し てみてください。 何と幸いなことでしょう。 イエスは、 永遠のためにお金を抜けめなく使うように命じてお られます。 しかし、 1988 年 7 月 31 日付のシカゴ ・ トリビューン紙 は、 次のような統計を掲載しています。 アメリカの 31 の教団に属 する教会員のインフレを考慮に入れた平均手取年収は、 1968 年 から 1985 年までの 17 年間で 31 パーセント増えましたが、 教会 や伝道団体、 またキリスト教系の援助団体に献金として捧げられ た献金の増加率は 2 パーセントに留まりました。 言い換えれば、 増えた収入の 98 パーセントが、 自分の生活をグレードアップする ために用いられたということです。 世界中で格差が広がり困窮した 人々が増える一方で、 その人々に手を差し伸べる様々な機会が 提供されています。 しかしながら、 上記の統計は、 このような状 況の中にあるクリスチャンが、 抜けめなくお金を使っているとは言 えないことを示しています。 アメリカ以外の国ではどうでしょう。 クリスチャンも、 頭を使って生きなければなりません。 戦略や 計画を立て、 未来に夢を描いて、 新しいものを創造したり発明し たりしなければなりません。 あの不正な管理人のように、 事態が ひっ迫しているときには思い切った行動が必要です。 私たちは安
易で惰性的な生活に召されたわけではありません。 賢いクリスチャ ンは、 「このお金を永遠の価値のために最大限に使うには、 どう すればよいのだろう。」 と問わなければなりません。 お金を使ったり、献金や寄付をしたり、人にあげたりするときは、 衝動的や感情的にそうするのではなく、 よく考えて決断しましょう。 主の御心は、 私たちが前向きな姿勢でしっかり物を見分けること のできる、 抜けめのない人になることです。 賢いクリスチャンは、 永遠の報いを考慮してお金を使います。 ルカの福音書 16 章 8 ~ 13 節には、 3 つの主要なメッセージが 記されています。 第 1 のメッセージは、 お金を抜けめなく使うこと によって、 永遠のゴールが獲得できるということです。 第 2 のメッ セージは、 財産管理を賢くすることによって、 永遠の報いが得ら れるということです (10-12 節)。 良い管理者の必須条件は単純 です。 それは 「管理者には、忠実であることが要求されます。」 (Ⅰ コリント 4:2) ということです。 また、 管理者とは報酬を受ける人で、 次のように 10 節で説明されています。 「小さい事に忠実な人は、 大きい事にも忠実であり、 小さい事に不忠実な人は、 大きい事に も不忠実です。」 人の品格は、 その人の生活の小さな部分に現れます。 偉大 な宣教師だったハドソン ・ テーラーは、 こう言っています。 「小さ なことは、 所詮、 小さなことでしかありません。 しかし、 小さなこと に忠実であるのは、 非常に大きなことです。」 主の御心に沿ってお金を使うか否かは、 結局のところ、 その 人の品性に左右されます。 英国の首相を務めたウェリントン公爵 の伝記は、 いくつも出版されていますが、 ある伝記作家が、 新た なものを出版しようとしていました。 彼は、 その理由をこう力説しま した。 「私は、 以前に彼の伝記を書いた人たちよりも有利な立場
にいます。 というのは、 彼の経理簿を見つけたのです。 それを見 れば、 彼のお金の使い方が一目瞭然です。 この帳簿は、 彼が 本当に大切だと考えていたことは何だったのかを、 演説の原稿や 数々の手紙以上に雄弁に教えてくれるに違いありません。」 この 言葉は、 クリスチャンの評価についても当てはまる指摘です。 主が 「抜けめない」 と言われた観点から 「富」 を見るなら、 興味深いことがわかります。 ルカの福音書 16 章 10 ~ 12 節には、 対になる言葉が記されています。 一方は、「小さい事」(10 節)、「不 正の富」 (11 節)、 そして、 「他人のもの」 (12 節) であり、 もう ひとつは、「大きい事」 (10 節)、「まことの富」 (11 節)、そして、「あ なたがたのもの」 (12 節) です。 今あるお金は、 「小さい事」 だ と主はおっしゃいます。 それは自分のものだと思っていても、 実 は、 私たちのものではないのです。 持ち主は主であり、 私たちは 管理者です。 もし、 自分が持ち主だと考えているなら、 たとえ話 の不正な管理人とまったく同じです。 私たちは何も持っていませ ん。 主の御心によって管理者に定められているだけです。 私たち の手にある物は、 主の御心と御旨を実現させるために用いられる べきなのです。 地上の富が存在する意義は、 主に、 私たちを訓 練する道具だという点です。 私たちは、神の国にある 「まことの富」 を取り扱えるようになるために、 訓練されなければならないのです。 というわけで、 「抜けめない」 人たちは、 永遠の報いを考慮し てお金を使います。つまり、神の御心がこの地上で行われるように、 機会を捉えて仕えるために使います。 そして、 天の御国でも神に 仕える特権を享受するのです。 賢いクリスチャンは、 お金を良く管理することによって、 お金 に振り回されなくなることを知っています。 ルカの福音書 16 章
8 ~ 13 節からの 3 つ目のメッセージは、 13 節に書かれています。 「あなたがたは、 神にも仕え、 また富にも仕えるということはできま せん。」 つまり、 「抜けめない」 人ならば、 お金を良く管理するこ とによって、お金に振り回されないことを知っています。 私たちは、 お金を使って神に仕えることができます。 しかし、 神とお金の両 方に同時に仕えることはできません。 どちらかを選ばなくてはなり ません。 主人は、 ひとりだからです。 イエスは、 人が富の主人になることはない、 と私たちが納得 するように願っておられます。 私たちは、 富の管理者になるか、 その召使いになるかです。 このふたつだけが、 私たちの選択肢 です。 富は、 神の座を虎視たんたんと狙っているのです。 主は、 「あなたがたは、 神にも仕え、 また富にも仕えるという ことはできません」 というみことばで、 神と富を擬人的表現で対峙 させ、白や黒ではなく灰色、などという立場は存在しないことをはっ きりさせようとなさいます。 私たちの富のオーナーは、神でしょうか。 それとも、 その富が私たちのオーナーでしょうか。 現実は、 その どちらかです。 「自分は 50%だけイエスの弟子だ」 ということはあ りえませんし、「パートで富に仕えている」 ということもありえません。
「抜けめない」 人ならば、 お金を良く管理するこ
とによって、 お金に振り回されないことを知って
います。 私たちは、 お金を使って神に仕えるこ
とができます。 しかし、 神とお金の両方に同時
に仕えることはできません。
私たちは、 主人をひとり選ばなければなりません。 ヘンリー ・ フィールディングは、 「お金を自分の神とするなら、 その神は君を 悪魔のように苦しめる」 と書きましたが、 それは事実です。 一方、 イエスを主人だと決めたところで、 お金が完全に取り去られるわけ ではありません。 主は、 お金を私たちの役にたつものとしてくださ います。 お金は、 パチンコをしたり、 酔っぱらったり、 無用の贅沢品を 買うために使うことができます。 一方で、 聖書を買ったり、 清潔な 飲水のない地域で井戸を掘ったり、 宣教の働きを支援することも できます。 不正な管理人は、 解雇されても豊かな生活を維持す るために自分の立場を使いましたが、 賢いクリスチャンは、 永遠 の友を得るために、自分のお金を投資します。 そしてこの違いは、 誰を主人に選んだかということから生まれます。 私たちは、 お金をどのように稼ぐでしょう。 また、 そのお金で 何を買うでしょう。 いつ、 どのようにして、 寄付や献金をするでしょ う。 自分のお金や時間、 技術などを、 どこでどのように使うでしょ う。 賢いクリスチャンは、 今あるものを将来のために最大限に活用 しようと思い切って行動した不正な管理人のたとえ話から学びなが らも、 上記のような質問をするでしょう。 こんな話があります。 船が難破して誰も知らない孤島に泳ぎ 着いた男がいました。 驚いたことに、 その島には、 たくさんの人 がいました。 そして、 彼にとてもよくしてくれました。 それどころか、 彼を王座に座らせ、 何でも言うことを聞いてくれました。 彼は嬉し く思うと同時に困惑しました。 どうして、 このようなすばらしいもて なしをしてくれるのでしょう。 しかし、 言葉が通じるようになると理 由がわかりました。 彼らは毎年、 誰かひとりを選んで 1 年間だけ
王として生活させます。 そして、 その 1 年が過ぎると、 別の島に 連れて行って置き去りにするのです。 彼の喜びは大きな悩みに変 わりました。 そこで、 この男は一計をめぐらしました。 人々をその島に送っ て土地を開墾して耕させ、 作物を植えさせるのです。 また、 すば らしい家を建てさせて家具を入れさせました。 何人かの友人をそ こに送って住まわせ、 自分がそこに行くのを待つようにさせました。 ついに、 彼が島流しに遭うときがきました。 彼は十分に準備され、 たくさんの友だちが喜んで迎えてくれるところに行ったのです。 クリスチャンの未来は、 離れ小島ではありません。 私たちの人 生の終点は、 父なる神の家です。 そして、 この世で準備したもの は一緒についてきます。 もし、 私たちが頭を賢く使うなら、 永遠 の友人と永遠の報いが私たちを迎え入れてくれます。 愚かな人は お金に仕え、 何もかも地上に残して死んでいきます。 他方、 賢 いクリスチャンは、 神に仕え、 永遠のために投資します。
不平を言う労働者のたとえ話
ビル ・ ボーデンは、 イギリスの貴族の血を引く由緒正しい家 に生まれ、 何不自由なく育ちました。 父親は、 シカゴでの不動産 取引とコロラドでの銀の採掘で財産を築きました。 ビルは弱冠 21 歳で資産百万ドルを持っていました。 1908 年当時の百万ドルとい うのは、 今日の 40 億円以上に相当します。 その上、 彼は顔立ち が良く、 教養もあり、 人気者でした。 しかし、 ビル ・ ボーデンは 1912 年、 25 歳でふたつのことをしました。 ひとつめは、 全財産の半分を、 アメリカの国内宣教の ために、 残りの半分を海外宣教のために献金しました。 ふたつめ は、 自ら宣教師としてイスラム圏に働くことを決意し、 まずエジプト でアラビア語を学び、 最終的には中国の奥地で仕えようと旅立ち ました。 このふたつの決意は、 新聞の大見出しを飾りました。 マスコミも一般大衆も、 そしてクリスチャンの友人さえも、 ボー デンの行動は途方もなく無益だと思いました。 ボーデンは、 エジ プトのカイロに着くや否や脳脊髄膜炎に冒されて死んでしまった のですから、 無理もありません。 人々は、 彼が、 財産や仕事、 そして生命までも無駄にしたと思いました。 いったい何のために、 こんなことをしたのでしょう。 何がビルにこんなことをさせたのでしょ う。 彼は、 神のみこころだと自ら信じることに沿った生き方をする ために、 他の人たちが価値あると思う大半のものに背を向けまし た。 これは、 彼にとってどのような意味があったのでしょう。 こんな ことをして、 どんな見返りがあるのでしょう。 そもそも、 私たちはなぜ主イエスに仕えているのでしょう。 この ことについては、 主イエスと弟子たちの間で交わされた会話を考 えてみましょう。 この会話は、 マタイの福音書によれば、 金持ち の青年がイエスのところに来た直後に交わされています。 ペテロ は、 報いについて尋ね、 イエスが答えられました (マタイ 19:16-26)。 そして、 たとえ話を用いて、 私たちが自分の動機をより深く 考える機会をくださっています。
報いの約束 : 弟子であることの祝福
1981 年 5 月号の 『サイコロジー ・ トゥディ』 誌には、 お金が人にどのような影響をおよぼすかを調査した記事が載っています。 そこでの結論のひとつは、 お金に神経を使っている人は、 満足 できる対人関係を結ぶことが難しく、 心配や恐怖、 そして孤独に さいなまれる傾向があるというものでした。 イエスを訪ねてきた金 持ちの青年の話は、 富が人の生き方を支配する力を持っている 悲しい現実を雄弁に物語っています。 彼にとっての悲劇は、 富 を持っていたことではなく、 富に支配されていたことです。 彼は、 自分の富を捨てても神の御子から永遠のいのちをいただきたい、 とは思いませんでした。 彼が信じていたのは、 神ではなく富だっ たのです。 当時の社会は、 富んでいることが神に受け入れられ、 祝福さ れていることのしるしであると考えていました。 そのような中で、 イ エスは 「金持ちが神の国にはいるよりは、 らくだが針の穴を通る ほうがもっとやさしい。」 と言われ、 弟子たちを驚かせました (マタ イ 19:24)。 神の救いは成功者や金持ちに与えられる勲章ではあ りません。 それは、 慈しみ深い神がご自身の思いのままに与えて くださる賜物で、 人はそれを謙って受け取るだけです。 ペテロは、 神の救いのドラマにはそれほど心動かされることは ありませんでしたが、 この金持ちの男に語られた主の約束には敏 感に反応しました。 「もし、 あなたが完全になりたいなら、 帰って、 あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。 そうす れば、 あなたは天に宝を積むことになります。 そのうえで、 わた しについて来なさい。」 (マタイ 19:21) 「天に宝を積む…わたしに ついて来…」 ペテロはこの御言葉を聞いて考えました。 「もしこれ が本当なら、 私たちはどうなのか。 私は、 漁師の網を置いてイエ スに従った。 私の宝は、 どこにあるのだろう。」 彼は、 その気持ち
を口にしました。 「私たちは、 何もかも捨てて、 あなたに従ってま いりました。 私たちは何がいただけるでしょうか。」 (マタイ 19:27) 正直な人なら、 このように言ったペテロを非難できないはずで す。 何がもらえるのかと考えるのは、 あまり自慢できることではあり ません。 しかし、強く思うか、そうでないかが時によって違うだけで、 誰もが同じような思いを持っています。 確かに、 頭ではイエスに 仕えれば日々の報いがあり、 御国にいたる人生の歩みが祝福さ れるとわかっています。 しかし、 その報いが押し留められたまま長 い期間が経過したように感じられることがあります。祝福、やりがい、 達成感の代わりに、 失敗、 疲れ、 イライラ、 病気にさえ見舞われ ることがあります。 そんなとき考えます。 「何がもらえるのか。 いつ、 どんな形で。 あの宝のうちのいくらかでも、 手にすることはあるの だろうか」 と。 主イエスは、 ペテロをお叱りにはならず、 むしろ従った彼を肯 定する言葉をかけられました。 神の報いや永遠の祝福を求めるこ とは、 あつかましいことではありません。 天の宝を欲しがることは 強欲ではありません。 主は、 報いについて各所で約束しておられ ま す ( マ タ イ 5:10-12、 6:19-21、 10:41-42、 24:45-47、 25:20-23)。 これは、客寄せの餌でも下心まるだしの賄賂でもありません。 「神を求める者には報いてくださる」 と聖書は約束しています (ヘ ブル 11:6)。 報いは、 神を喜ばそうとする人に与えられる当然の ものなのです。 主は 「世が改まって人の子がその栄光の座に着く時」 (マタ イ 19:28)と、ペテロの注意を来るべき世に向けられました。 これは、 旧約聖書全体を通して預言されていた時代を指しており、 主の主 権と栄光のうちにメシヤの国がこの地上に建てられるときのことで
す (ダニエル 7:13-22)。 そして、 主が創造された世界が、 「新し い天と新しい地」になります(イザヤ 65:17、66:22)。 弟子たちは皆、 この時が来ることを望んでいました。 ペテロも例外ではありません でした。 「まことに、 あなたがたに告げます。 世が改まって人の子が その栄光の座に着く時、 わたしに従って来たあなたがたも十二の 座に着いて、 イスラエルの十二の部族をさばくのです。」 (マタイ 19:28) 主イエスが栄光の王座に座られるだけではなく、 弟子た ちもその栄光にあずかるのです。 この知らせを聞いた弟子たちの 気持ちは言葉では表せないものがあるでしょう。 彼らはユダヤ人 でしたから、 救い主を持ち望んでおり、 イエスが約束のお方であ ると信じてすべてをゆだねて従ってきました。 その報いは、 想像 を絶する大きなものでした。 イスラエルが全地を治める最強の国 になったとき、彼らは王イエスの臣下としてその国を治めるのです。 マタイの福音書 19 章 28 節に記されている約束は、 十二弟 子に宛てて書かれた約束です。 しかし、 この約束は、 イエスを信 じるすべての人たちに当てはまるものです。 救い主イエスがもう一 度この地上においでになるとき、 「キリストとの共同相続人」 (ロー マ 8:17) である私たちも主の栄光にあずかり、 主とともにこの地 上を治めます (黙示録 5:10)。 この世をさばくばかりでなく、 御使 いをもさばきます (Ⅰコリント 6:1-3)。 このみことばの意味をすべ て知っているなどと言う気はありません。 しかし、 約束されている ことは誰の目にも明らかです。 キリストを信じる人々は、 救い主の 国の王族です。 そして、 天の宝のひとつは、 王である主イエスの 栄光と権威を分け与えられることです。 では、 どのようにしてこの特権を手にするのでしょう。 主は、
マタイの福音書 19 章 29 節で、 報いを受けるための原則を明らか にしておられます。 それは、 今、 犠牲を惜しまなければ、 将来、 特権を得られるというものです。 「また、 わたしの名のために、 家、 兄弟、 姉妹、 父、 母、 子、 あるいは畑を捨てた者はすべて、 そ の幾倍もを受け、 また永遠のいのちを受け継ぎます。」 マルコの 福音書は、 こう言っています。 「まことに、 あなたがたに告げます。 わたしのために、 また福音のために、 家、 兄弟、 姉妹、 母、 父、 子、 畑を捨てた者で、 その百倍を受けない者はありません。 今の この時代には、 家、 兄弟、 姉妹、 母、 子、 畑を迫害の中で受け、 後の世では永遠のいのちを受けます。」 (マルコ 10:29-30) 「幾倍」 あるいは 「百倍」 と書かれていますが、 文字通りで ないのは明らかです。 100 人の妻や 200 人の兄弟を欲しがる人 はいないでしょう。 また、 一万円あげて百万円もらおうというよう に、 小さな犠牲で大きな利益を得ようと教えていると曲がった解釈 をする人がいるかもしれません。 しかし、 これがまかり通るならば、 金持ちの青年の悲劇は、 神よりも金を愛したことではなく、 よい投 資のチャンスに出会ったのに気づかなかったことになってしまいま す。 主がおっしゃりたいことは、 そんなことではありません。 むしろ、 イエスの弟子となることに犠牲が伴ったとしても、 その 犠牲とは比較にならないほどの大きな祝福が、 今からとこしえまで も与えられるということを教えられたのです。 仮にキリストに従うこ とによって何かを失ったとしても (何かを後にして従うのですから、 失ったものはあるでしょう)、 救い主ご自身が、 豊かに払い戻して くださいます。 そのときには、そんな気配すらないかもしれません。 しかし、 神の時に神の方法で、 確かに報いは与えられます。 主は、 もうひとことおっしゃいました。 「ただ、 先の者があとに
なり、 あとの者が先になることが多いのです。」 (マタイ 19:30) 金 持ちの若者は、 この世の価値観から言えば、 「先の者」 だったと 言えるでしょう。 人は彼を勝ち組だと思っていたでしょうし、 彼も勝 者のように暮らしていました。 しかし、 キリストに従うかどうかという 厳しい選択を迫られたとき、 彼は真の富から自分を遠ざける決断 をしてしまったのです。 世間で成功者といわれている人が、 人生 には失敗しているというケースがよくあります。 「あとの者が先にな る」 のです。 イエスの弟子たちは、 「あとの者」 でした。 家族や 仕事を後にして、 権力者から嫌われている 「先生」 に従って放 浪する道を選びました。 ビル ・ ボーデンのように大きな危険を犯 しても、 得るものが何もなかった人たちのようです。 しかし、 見か けにだまされてはいけません。 彼らは、 王なるイエスの傍らに設 けられた席に座るのです。 そして、 神の初穂となるのです。 何がもらえるのかというペテロの問いは、 答えられました。 要 約するならば、「思いもつかないものが用意されている。 あなたは、 いつかは必ず失うものを自ら手放した。 今度は、 決して失わない ものをいただくのだ。」 と主はおっしゃったのです。 ペテロに対す る答えは、 私たちにとっても十分な答えです。 今、 そのすべてを 見ることはできませんが、 確かに神の祝福と報いはあるのです。 ペテロの問いに関して、 もう一点考えてみるべきことがありま す。 少し厄介な問題ですが、 取り扱う必要があるでしょう。 神の 報いを期待することは間違っていませんが、 「何がもらえるのか」 とペテロが質問したとき、 その背後には損得勘定が潜んでいたの ではないでしょうか。 私たちとて同じですが、実はこれが、クリスチャ ン生活を台無しにしてしまうものなのです。 主イエスは、 このよう な態度について、ぶどう園の労働者のたとえ話(マタイ 20:1-16 節)
を通して教えておられます。 このたとえ話の最後にも 「あとの者が 先になる」 という前述の話と同じみことばが述べられています。
弟子になった動機を探る
イエスのたとえ話の多くは、 私たちに当時の世の中を垣間見 せてくれますが、 マタイの福音書 20 章 1 ~ 16 節に記されている 話も例外ではありません。 それは、 1 世紀のイスラエルのありふれ た風景の一場面でした。 イエスが人生に対する鋭い観察目をもっ ておられたと気づくのは、 私たちにとって意味のあることです。 イ エスのたとえ話は、 人が実際に生きていく中で経験してきたことが 描写されているので真実味があります。 さて、 このたとえ話を理解する上で注意すべきことは、 主イエ スが教えようとされていたことは、 好ましい労使関係についてでは ないということです。 救いや報いについてでもありません。 むしろ、 キリストの弟子はどのような態度で主に仕えるべきか、 ということを 教えるために、 この話をなさったのです。 主イエスが暮らしておられた紀元 1 世紀のイスラエルでは、 日 雇い労働は普通のことでした。ここでは農業が社会生活の中心で、 労働組合もありませんでしたし、 長期の雇用契約がある人もほと んどいませんでした。 仕事を探している男たちは、 市場の適当な 場所に集まっていました。 そして労働者を探している人は、 その 場所に行って必要な数の働き人を見つけました。 そして、 報酬の 額を決め、 一日の仕事をさせます。 そして、 仕事が終わった時 点で、 旧約聖書の律法に従ってその日の報酬を支払うのでした (レビ記 19:13、 申命記 24:14-15)。 この話は単純です。ぶどう園の主人は、朝の 6 時に市場に行って労働者に声をかけました。 彼らは賃金について合意したので、 ぶどう園に行って働くことになりました。 聖書はこの人たちが、 他 の人に勝る技能や能力を持っていたので雇われた、 とは言ってい ません。 彼らは、 ただ働く意思があり、 主人の提示した条件に同 意し、 そして仕事を始めたのです。 しかし、 ぶどう園の主人は、 どういうわけかもっと多くの働き人 を求めました。 天候が悪くなりそうなので早く収穫してしまおうとし たのかもしれませんし、 思いがけず大口契約が成立して、 急い で大量に収穫しなければならなかったのかもしれません。 または、 働きたいのに働き口の見つからない人たちがいることに気づいて、 その人たちを助けたいと思ったのかもしれません。理由はどうあれ、 その主人は 9 時になると、 もう一度市場に行って、 仕事にありつ けなかった男たちを見つけて言いました。 「あなたがたも、 ぶどう 園にいきなさい。 相当のものを上げるから。」 (4 節) 彼らはぶどう 園で働くことにしました。 賃金に関して具体的な約束がありません でしたが、 ぶどう園の主人の言葉を信頼してそうしました。 このよ うなことが、 その後も 3 回ありました。 つまり、 その主人は、 正午 と午後 3 時、 そして午後 5 時に市場に行って、 同じことをしたの です。 主人はその日の仕事が終わったとき、 現場監督に向かって、 1 時間だけ働いた者たちから始めて、 朝から働いた者まで、 順番 に賃金を払うように言いました。 1 時間だけ働いた者たちが賃金を 手にしたとき、 それが日当に相当する 1 デナリであったので、 彼 らは大いに驚きました。 彼らがこの賃金に見合うだけの働きをした かと言うと、 そうではないのは誰の目にも明らかです。 しかし主人 は、彼らの家族が 1 日暮らすためには 1 デナリが必要であると知っ