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日本佛教學協會年報 第9号 008宮本正尊「小乘敎の各種の形態」

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(1)

l 日 本 悌 致 感 協 合 年 ・ 報 ︿ 第 九 年 ︶

究 「 、 ノ 問 題 の 所 在 1 小乗なる白者なさ所以 3 ﹁ 影 の 敬 ﹂ と L ℃の大采家所計の小乗款 小采の誌議・用例及び師趨 1 ﹁ 小 ﹂ の 諸 義 3 ﹁ 采 ﹂ 左 解 股 ・ 況 奨 へ の 叩 泌 総 5 無 采 ・ 非 采 ・ 一 采 @ 根 本 来 発 問 上 山 内 仰 教 の 一 小 采 性 −待問仰教よリ上山町一併殺への池税 日在世及び滅後の確聞と向橋大采の漁師法 上山川大衆の根本二部左大小采 −在世仰款と滅後仰教との関係と大小采の封蹴 3 大来仰殺の品絡 ι ﹂ 大 小 采 の 研 究 必 大衆と大采 ヘ \ーノ /『\

一・ \)ノ ﹁ 附 ︶ へ 五 ﹀ ご一同

日 小采は段稽に L ℃糾名 大小雨采も時代性りあろ探訪 生 ヨ ﹁ 采 ﹂ と 加 及 び 車 大 来 ・ 中 采 ・ 小 采 及 び 孤 ・ 法 a 小 ,! . ,】 上山川作間仰教の二郎性左大小采への分化 ヨ 大 来 大 衆 叩 時 受 注 説 の 吟 味

(2)

・) “ ︵ 六 ︶ 大 衆 は 凡 多 望 小 / ・ 年 少 極 多 大衆の王都占肘 L ﹂ k 山 内 の 北 方 流 行 5 大衆 3 市 一 ぜ ら ろ 理 巾 放 徐 方学問阿 L ︺ 此 咋 附 法 小 采 ー大店前の待問仰教批判刈と有部 3 有 部 の ﹁ 但 加 賀 智 ﹂ と 大 采 の ﹁ 遍 如 貨 智 ﹂ 蹴曇小采と有部小泉 −穏樹・古川机の枇公即有印説 3 龍樹の大采擁立と﹁枇公印有部﹂﹁有侃郎小采﹂ 根本諸部と印度仰救 −有部所俸の根本阿部試 3 大小倶行・=一采共行の印皮仰設 大乗諸師の数列と小乗 −支那に於げろ小乗枇曇の不振 3 大小関係の二型、狩蹴葉拾 L ﹂ 共 三 采 放 論 小 平 米 −数論小采と伶怯数論 3 数論小采の項目施設の珂巾 小 采 六 宗 苅 −玄爽怒恩の新摩風と共三乗仰教の移植 小采六宗列 L 一 筆 陣 限 一 楽 教 の 大 系 合 小 乗 I 3 ︵ 七 ︶ ︵ 入 ︶ ︵ 九 ︶ ︵ 一 口 ︶ "

、ーノ fヘ ー '-../ 倶 3 小 暗 市 教 の 各 稀 の 形 態 2 大 衆 の 衆 多 朋 一 築 と 大 采 議 ﹁誇多﹂郎大衆部説の討検 大 決 大 昨 市 議 し ﹂ 大 来 と の 呉 川 ・1

“ 智度論に於げろ咋同法 大 t r 仰殺の棄拾小采の偏向 4 ヨ 4 1 4 B U G L L h H M

、 ノ

2 ・ H J ィ 1 . υ J . 凶 革 j u − 一 μ ー 阿 枇 品 誌 の 本 義 と 上 山 町 一 保 問 の 枇 目 安 4 2 一議浄の五天南海の諸部分布記録 小采の陣鋒と L ℃ の 大 衆 ・ 有 部 @ 上 院 ・ 正 量 ・ 絞 部 の 一 石 一 部 ・ 1 2 浬撲の研究と数列の薩立 数列に於げる小乗の類別 4 •) “ 枇 川 容 時 四 賓 と 数 論 小 采 2 慈 旧 N M の 小 莱 ム ハ 宗 州 内 の 侭 値 及 び 性 質 二 一 五

(3)

日 本 側 数 凪 平 協 荷 百 年 報 ︵ 第 九 年 ︶ 一 一 一 六 3 I ‘〉 “ 政陛・世親に及ぜる章受の影響 ( ) 阿 昆 達 磨 悌 教 に 於 げ ろ 臨 世 間 喰 者 の 位 置 3 倶合小乗と性相皐 南俸上座分別説部は原始仰教か小乗か 1 西欧皐者開拓の原始悌教の領域 大小共詐の地帯に就いて −大小雨乗の研究と根本側教の施設 附 記 、 参 考 論 文 ‘ ) “ 最近にが、げろ大小詩論の定義 ︵ 一 回 ︶ 2 大小共詐の諸項目に就い℃

小乗なる自著なき所以 今回小乗教の各種の形態そ論述するに際し、先づその出震動に於て立論の資料ぞ考査するに、古来小乗救或は 小乗仰教として論述せられたる経論の一つも存せぬ事賢を明確にしたい。 現存せる各種の大蔵経或は一切経と稀するも

ω

は、後代の編纂欄刻或は印刷に係るも

ω

であって、そ

ω

中には 経律論の三戒に疋りて大乗小乗の類別が施されてをるけれども、これは後代の撃者の分類編纂法を一示すも

ω

で は あるが、十日き常初に於てはか:。分類は全く無かつにも

ω

である。隠って各積の大瀧斜、か夫々時代に依 h 川 島 に 依 って、その編纂方法を異にし分類をも異にしてをるめである。 こ

ω

う ち 先 づ 大 乗 に 就 て 見 る に 、 山 口 問 初 よ り し て 大 乗

ω

名栴

ω

下に述作ゼられ仁るも

ω

は、大乗の論特には多い

ω

であるが、十日い粧律になると主って少いのである。椛伴

ω

うちには夫々大乗

ω

諾守合み、大乗精神山霊甥にカ

(4)

め,大乗教理

ω

組織が試みられてをるのであるが、や山初ょのその経越そ大乗何々一蹴として大乗を冠栴するものは 甚に少いのである。換言すれば最初より大乗何々艇と大乗を呼栴してをるものは己に相常後期に属し.或は後代 の 俸 持 者 或 は 大 蔵 純 一

ω

編纂者によりて整理編纂の矯めに附加せられたものもあると見てよいのである。 こ

ω

事責に就ては、予は己に﹁大乗款と小乗教しなる論文

ω

うちに指摘しておいたのであるが、大韓大乗精神の 護坊にカめた大乗興起時代の所謂初期大乗経典なるものは、多く龍樹時代迄には出揃ってをる。しかし龍樹時代 及ひそれ以後にも相常数多き新しき大乗経典、が績々成立してそる

ω

である。若し夫れ大乗論となっては龍樹以前 には始んど無く、龍樹自身の論著を以て初期草創のものと見倣すべく、龍樹ニそ大乗論師

ω

最初第一人者と錯す べきであるから、こ

ω

時期ぞ以て悌教の劃期的時代と栴してよいのである。我朝に於てよく八宗

ω

組師と哨へる 所以も蕊に存するのである。大乗の経論に就いては以上

ω

如くであるが、悌教徒の貫践生活規定にる律となって は、新大乗精神に基く新しき大乗倖なるものは、常時未百察明期にあり、未完成の域冶発れない時代に属するの である。随ってかの阿見建勝大乗経の如き、或は大乗車問厳経論・大乗阿毘法廃集論・韓大乗論の如き、或は大乗 起信論・入大乗論・大乗集菩隣皐論晴子の加き、何れも明確に↑大乗

ω

論著 1 一と冠栴してをるものは、凡て皆な龍樹 以後必ものであり、後代のものに属する。況や大乗大義章・大乗義孝・大乗玄論・大乗中宗見解等の如きに至つ ては、常初より大乗の論著にる事を自国して製作せられてをるに相蓮はないが、これ皐克西域支那等の後代の人 師 の 論 調 押 に 過 ぎ な い の で あ る 。 か く 大 乗 の 三 蔵 に 就 い て も 興 起 草 創 時 代 に は 、 ・ 末 、 た 何 等 今 日 見 る 如 品 川 、 整 頓 せ る 三 蔵 は 存 し て は そ ら な い の で あ 4 る。醗って小乗経律論に至つては‘その結集健持

ω

初期時代には‘勿論これを小乗粧・小乗論或は小乗倖と轄し 小采教の各種の形態 七

(5)

日 本 仰 設 準 協 舎 年 報 ︵ 第 九 年 ︶ A

-"

て流行してをった事買などは皆目ないのである。これが小乗と銘打たれたのは、大一来三蔵、が整頓してからの事で あり、而てそ

ω

悉くが小乗三戒として分類されたのは、遥か後代に於て大蔵経として整理された時に開局するので あ る 。

2

小乗は庭梅にして絹名 抑 も ﹁ 小 乗 ﹂ な る 名 栴 は 、 ﹁ 大 乗 一 に 相 侍 す る も の で あ り 、 大 乗 家 よ り し て の 庇 栴 で あ り 、 一種の梓名に過ぎない 論 な る も の は 、 のである。他より投けられたる紳名や庇稽な以て自ら名乗る筈もない事であるが、事官十日・来小乗と白稽する経律 一部も存してならないのである。小莱殺の研究に先立ってもこの事賓は先づ銘記しておかねばな ら な い と 忠 ふ 。 随って今謹に小一楽教と稽するものは、凡でこれ大乗家の所討に外ならないものそ指すことになるのである。も ともと大乗家が自己の箕面口伝穴鵠せんが矯めに、砂田時の既成仰款の一流守自らと比較し、既知し、棄拾し、撰 取撰捨せんとせる清めに,これを利用せるものである。郎ちこれぞ批判の所封となし、仰数本来の要期印ち一成 悌﹂の矯めには、狭方附少なる采載に過ぎないと庇し側め付けて、これをつ小乗﹂ム一識つにのである。 か く て ﹁ 小 乗 f一なる名栴はじ八乗の自費護生と共に生じたのであって、此聞で従来よく考へてそる様に、小乗から ト ヘ 乗 が 生 じ た と 一 五 ふ 如 き は 、 僅 に も の を 護 生 的 に 考 察 す る 一 一 問 削 閉 そ 示 す に 過 ぎ な い の で あ っ て 、 全 而 的 に は 却 つ て大乗の自慢心依って小乗が瑳生したのであると見るのが、偽札弘本来の精神 e q m 梶するものであるの印ち大乗精 神の光被のもとに小乗の限定が生じて来たのであるのざれば古来ょの、一方に大采非悌説諭があると北九に、他に 文 妹 間 経 に は 、 一 i 卜 八 及 本 一 一 、 出 向 従 大 乗 出 。 し と 一 五 ひ , 土 日 山 崎 か こ れ そ っ 大 震 小 本 ﹂ と 説 き 、 一 史 に 勝 叉 −

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般 若 の 如 く 一 一 極

(6)

々 犠 飛 地 円 悌 乗 出 ー 一 と 云 ふ 大 乗 滞 本 説 も 生 か る の で あ る の も 主 よ り 1 小光大後↓の見解は一而の民珂を語るものであ っ て 、 一 大 先 小 後 一 の 見 方 ム 一 共 に 、 合 せ て 事 宜 の 呉 相 を 究 明 し 得 る も の た る 事 は 諭 を 侠 た な い の で あ る 。 兎 に 角 、 小乗教なるものは大乗興起の踏楽とはなってはケるが、そのつ小乗﹂の名栴には、一向にその﹁受取り入﹂一引請け 人﹂がないわけである。況んやそれを以て自家の標語として、その教義ぞ盛って一部の論著そ製作する筋合ひの あ る 筈 も な い の で あ る 。 自栴大乗家は古往今来之しきに非らざるのみなら今、支那日本の人師の如きは、凡でこれ大乗家に属するもの であるが、特に日本の如きは大乗相踏の地として、人師事生一人として大乗家を以て白稿せぬものなぎ程である。 而して現今に於てはその大乗悌教ち徒らに宗汲仰款と化し終って、落に﹁大乗宗汲﹂ゆ佐藤出し、その形態を維持し て を る が 、 大 一 来 精 神 は 却 っ て 盆 E 稀薄となり、これ﹁小乗教﹂化せるものなりとの聾も近来院しい位である。これ 白栴大乗家必かしも大乗家なら今、自任必北少しも世間の信任ぞ作ふものに非?、かくして中正国賓の正法大乗の 併殺は、果して如何なるものであるかを反省するより起る躍なのである。 ﹁ 影 の 教 ﹂ と し て の 大 乗 家 所 計 の 小 乗 教 抑も大小は相待せるものであり、小乗は大乗の反面に属するものであるから、﹁小乗教しの費生は大乗救興越と 同時と錯すべきであり、大乗殺の護遼整理と共に、小乗教の両日も整って来てをるのである。印ち﹁大乗家所計 の小乗教﹂なるものは、大乗救出羽一鵠の積極的主張の封比に引用し利用せるに過ぎないのであるから、か

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小 一 栄

3

教は暴寛﹁患の救﹂とも栴せらるべきものである。さればか h e Q 小乗款の種々の場面を蒐集して見ても、もと/\ h 6 ﹁大乗款の地﹂の上に織り矯された縞模様の嵐々の浮き出しぞ眺めるにも比せらるべきものであり、それ白身では 小乗教の各種の形態 二 一 九

(7)

日 本 傍 数 民 中 協 合 住 ・ 報 ︵ 第 九 年 ︶ 二 二 O 7 組織的な構成や持ち難いものである。古来小乗教なる論著の無き理由も主としてこの事情に基くのである。 乍然、かと石影の教もその表なる大乗教の地模様そのものが時慮人の境運による爽雑性に随順する積極的艶化 ぞ港けて行く矯めに、影の教も砂田然その護濯につれて艶化移動を一不す事になるのである。印ち大乗の主張に捷濯 があるのであり、その按遁がまた時慮人に密着する宜質的な積耐性ぞ有する所に、大乗の大乗たる所以も存する のであるが、この基調の境化は自然にその批判の目標にも品質化ぞ起さしめ、悲に小采め型のとり方にも夫々鰭動 を 生 ぜ し め る わ け で あ る 。 随 っ て 大 一 楽 家 の 小 乗 観 を 針 検 し て 行 く し ’ 1 1 夫々時代により、また印度支那日本と成が 量るにつれて、可なり目の者け慮も異 hり、気合ひの入れ嵐も異ってそる事が見出されるのである。そこに小乗数 の様態にも色とりどりの風景も展開するのである。換言すれば、印度で用ひてをる小乗と支那で別ふる場合とで は、その想定さる当初予が必すしも同一のものではないのみなら?、その小乗と庇しめらゐミ理由にも相官の聞 きが己に生じてそるのである。特に支那に於てはその土地に新しく護法せる新皐設が劉象となってをる場合もあ り、そこには新しき小采救なるものも己に費生してをることになるのである。か λ る影の教としての小乗教なる ものは元来組織なきものであるが、夫々に封臆せる各種の影の教としての小乗教を幾分蒐集して比較する事は可 能である。特に相官の歴史と時代とそ通観し、印度西域支那日本等と夫々の護法事情を比較研究し得る今日に於 ては、この企ては必守しも墜なぎわけではないのである。これ予が特に今同の講演に﹁小乗教の各種の形態﹂主題 して、かミる企ての緒口を示さうと致す所円である。 この企てに就いては、か:

ω

影の教としての小乗教の模様の細部の研究に入らねばならないの更にか込ゐ大乗 家所計の小乗教としての影の教が、果してその小乗なる特徴を附けられたと見倣さるべ品品闘の相手は、話なるか

(8)

を見極めねばならない。 その上賞の相手の身分身上とつぎつけ合はして、紳名と本物、一北河’士宮際と合致するか 否 か と 一 五 ふ 事 の 究 明 ぞ 施 さ ね ば な ら な い 。 換 ÷ 一 川 す れ ば 、 料 久 を そ の 想 定 さ る 込 ﹁ 料 名 の 主 ﹂ に つ き 合 は し て 、 び つ た り 合 、 フ て ぞ る か 否 か 在 検 出 せ ね ば な ら な い の で あ る つ こ れ に は や 川 の 相 手 の 一 一 一 同 ひ 分 や 以 駁 も 出 か ね ば な ら か 、 ま た爾者の言ひ分の蹴僻する鈷、 一致する貼を出来る丈け明かにせねばならないのである。小采側の抗議に耳を傾 けるべきものも存すべく、また大乗側の任意の構想に濁りよがりの拙もあるべく、また相手の認誠不足の貼や暴 露する事にもなり得るのである。兎に角、そこに時代の要求や宮利が川映されてをる事ぞ壌者は者泊しではなら な い の で あ る 。

4

大小南乗も時代性のある標語 もと/

1 1

﹁ 大 乗 数 ー 一 ﹁ 小 乗 敬 一 な る 語 も 或 る 時 期 に 費 生 せ る も の で あ り ‘ そ れ 以 前 に は 見 出 さ れ ぬ の で あ る か ら 、 要 之.悌救の護蓮の或る場面を示すものに外ならないのである巴成る時期に誕生せるも

ω

は或る時閉じ鍵濯し消失 する事もあり、更に護法する事もあるのである c 偽札拭も成る時間に大乗小乗を日てその殺一連の重安なる尺度と潟 したわけであるが、時機相臆すれば更に他の標語が生

ι

てこれに代はるべきが本来の事情である。一五来悌教最初 の蒋章時代には、大小の諾が偽救批判の尺度であったとは考へられない。その原始常初は三賓融一を母躍とし、 三皐相責 h q 旨とし、三法印を標織とし、中道株起を線本精神とせる正法悌救を本来の両日と矯せるものである。 か;。根本悌救精神が決して消失せられてはをら今、大小雨乗の交渉時代に於ても、常にその批判の棋店ぞ晴義 し来れる事置が者取されるのである。かくてん 1 大小柄数の研究に際しでも、かミる棋本側救精神との闘係が究明 さる為事によりて、大小一期乗の闘係交捗が、躍なる一時代の偽救の一場面ゆ伝説明する・一丙葉大るに終らかして、そ 8 小 骨 市 教 の 各 織 の 形 態

(9)

日 本 併 殺 皐 協 合 年 報 ︵ 第 九 年 ︶

¥J の特定の場面に連絡照膳せる前後の場面の研究にも有力なる手懸りとなるのである。 大乗相膳の地と呼帯する日本に於ては、’ t c 一口に小乗款と一五うて片附けて終ふ傾向があるけれども、小莱救 と栴せられるものにも、夫々表となってぞる大乗教の壁濯護法と共に、各種の形態を示してをるのであり、この 影の濃淡泊長を攻究する事は、やがてまた貰利積柑に就いてそる大乗教の面白を聞編する事にもなるのである σ 今回この論文に於て試みらる?ものは、上述せる如きこの問題に就いての通論ぞ試みて、この種の研究の緒口と 錯 す の で あ る 。

小乗の語義・用例及び蹄趣

﹁ 小 ﹂ の 諸 義 小乗の諾は出

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ぞ 課 せ る も の で あ り 、

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は 高 貴 ・ 上 口 ? 優 勝 等 を 意 味 す る 円 ︶

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3

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に 針 し て 狭 劣 ・ 附 少 ・ 卑 賎 ・ 貧 素 ・ 映 乏 ・ 下 素 ・ 下 賎 ・ 下 等 ・ 峡 陥 ・ 晴 一 帯 ” 低 下 等 に 瓦 h り 、 各 種 の 意 義 ぞ 有 し て ゆ ぜ る の で あ る 勺 聾 間 縁 組 覧 の 心 勝 解 の 狭 劣

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’ 包

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な る を 小 乗 と 一 五 ふ の で あ る が 、 更 に 戒 行 徳 行 円 ︶ 右 足 守 包

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に 針 して、卑嗣悪行の人

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S などを云ふにも用ひられてをる。 その他用例も数多いのであるが、就中、

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と合せる小乗の語のみが、特に仰教護法史上の特別な術認と錦ったのである。 ﹁乗﹂と脂及び車

2

乗 と 課 さ れ て ゆ ぜ る 術 部

35

な る 語 は 、 ﹁ 蓮 栽 ー 一 会 義 と な す と 十 日 来 定 め ら れ て を る の で あ る が ‘ 汽 船 ・ 汽 車 : 白 動 車・飛行機のあゐ今日としては,いにく問題が強大されて、その意義も超スピード的な、或は超一来的な解鰐をも

(10)

施すべき時代になってをるのであるが、印度古来に於ては蓮栽そ誌とするものは、宜例的には↑舶﹂と﹁車﹂と で あ る 。 水道の乗船は柴しきが加しとして、浄土教に難行い勿行の批判に川ゐられてそる如き弘、前者のよき例の一つで ある。更に生死の苦海を渡る加と説品川\或は生死輪廻の此岸より安一穏況襲の彼伊に渡る法船竿として‘幾多の秘 稗が施されておるのである。他方、車乗の耽’として最も布名なものは、法華経の羊鹿午の一二車の時であらう。三 車 は 夫 三 キ 車 白 ︸ 白 ’

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鹿 車

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吋 哲 , H D 山 午 車 問 。 , 円 山 岳 山 と し て 、 同 山 門 戸 戸 山 . か 用 ゐ ら れ て を る 。

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は 、 動 詞 の ﹁ 進 む ! 一 へ 刊 に 由 来 せ る 諾 と し て ‘ 特 に 戦 車 の 如 き に 用 ゐ ら れ て そ る が 、

35

は ﹁ 行 く し 輔 、 、 引 に 基 く 語 と し て 、 ︵ 運 載 1 の 外 に 古 来 ﹁ 蓮 出 し ﹁ 蓮 韓 ﹂ 一 運 用 ﹂ の 諜 諮 も 典 へ ら れ 、 目 的 地 へ の 準 趣 出 到 冶 意 味 し て を る の で あ る 。 蓮 載 一 一 般 ぞ 意 味 す る の で あ る か ら 、

35

は 種 々 の 乗 車 ・ 蓮 搬 車 ・ 戦 車 の み で な く 、 船 舶 一 一 般 冶 も 指 し て ぞ る の で あ る 。 随 っ て ﹁ 乗 物 ﹂

35

は成く、車

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は そ の 一 来 物 の 一 一 概 と し て 使 用 せ ら れ て を る 。 南 俸 律 蔵 の 経 分別

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山 岳 向 山 第 八 十 五 波 遜 提 目 前 門 目 立 一 吉 の 傑 下 に き 歩 行 の 出 来 ぬ を 情 人 と 鍔 す と し て 、 JN 白 ︸ A H 白 同 沙 門 臼 任 。

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古 島 窓 口 合 目 凶

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岳 山 r m w 宮 古 J W 刊なりと言はれてをる。このうちに

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も教へられてをる 0

3

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と広三富は人の乗る車であり、病人不具の人をも運搬するに用ゐられる床の附いてをる車をも含むらし く 、 回 目 宮 一 白 は 荷 車 で あ り 、

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と 白 山 口 色 白 白 山 口 町 民 は 一 哉 容 な 車 ・ や 戦 車 等 を 指 す も の ら し い 。 一 来 物

3E

と は は乗物の締稀と見てもよいのであるが、具睦的には車を指すと見てよい。これは比丘の十四施物

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白或は供施 U N品目白のうちに.衣食飲物薬物等と共に

35

が敷へられてをゐ事によりても明かで ある。而して象車

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牛車問

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・ 山 羊 車 内 F一 白

4

・ 羊 車

52

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・ 賂 舵 車 c 一

3

5

U N・ 艦 馬 車 F E S S 同 ・ 等 が 要 之 、

35

10 小 乗 教 の 各 時 仰 の 形 態

(11)

日本悌年準協舎年報﹁第九年 J F司 11 教へられてをる貼よりして‘法華・の平鹿牛の三車の

2 7

2

も . こ れ を ︸ 司 山 口 同 一 と 置 換 へ て 用 ゐ て も 注 文 へ な い も の で あ ら 、 フ 。 ﹁ 乗 ﹂ と 解 脱 ・ 浬 鍵 へ の 運 載 法華経に於ては三車

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に掛して三乗可宮山が使ひ分けられ、のかは更に大乗富山﹁判

35

何 −

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ゲ ロ ︵

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35

の 如 く 、 ﹁ 乗 f工﹂して凡て修道的準趣運載の意義に用ゐられておる。莱としては更に阿合等には

3

可 問 ロ ロ 一 悌 乗 党 乗 甲 山 ゲ 白 血 ,

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法 乗 巴

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3

5

の 用 例 も あ り 、 梼 伽 経 等 に は 天 来 究 乗 れ 匂 加 へ 、 ト 住 毘 婆 沙 論 大 一 来 口 聞 に は 人 天 一 来 そ 加 へ て 、 夫 々 五 乗 と 矯 し て を る 。 ま た 後 代 に は 八 仙 寺 宇 一 一 来 丘 一

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8

8

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弓 喜 一 , ユ

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八 聖 遁 乗 包 括 尺 山 口 Y 与

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35

な ど も 用 ゐ ら れ て そ る 。 もと宮口同の用例は数多いのであるが、人 1 こ の 乗 物 と し て の ユ ロ 白 井 一 結 合 し て 用 ゐ ら れ て ぞ ら 均 一 に 、 小 乗 の 研 究として可なり限定的な方面、か見出されて来てそると思ふ。上の用例に徴しても明かであるが、采物は泊中の用 具であり、歩行或は蓮載に闘するものである。而して歩行は一定の目的地じ向って矯さる込のである。八聖遁 が

3E

と稽せられるのも誠に所はある事であり、大乗小一来共に、この賓践的な﹁解脱への遁﹂に於て語らる?も の で あ る D こ の 解 脱 へ の 遁 と は ﹁ 担 繋 へ の 道 ﹂ で あ り 、 一 ← 生 死 輪 廻 の 此 岸 よ り 解 脱 問 般 市 の 彼 岸 へ 1 の こ と で あ る 。 蕊 には人天凡夫より賢聖喜包

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山々白の諸乗、相ひ連絡して悌采へ究覚する事がな味せられてをるのである。若し 端的にこれを悌教的に表現するならば、﹁成悌への道﹂と鍔すのが長も本筋である。解脱却問饗削成仰の一致契合 が 見 出 さ る 当 時 、 落 に 一 一 仰 乗 己 中 ゲ ロ ︵

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35

が作するのであり、この一悌采こそ、 貼に於て莱

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大 乗 宮 山 ︸ 戸 山 ,

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の火薬たる彪と稽してよいのである。この一悌采の犬山牛車必見出し得令して、時間縁貸の一一一楽地に

(12)

堕在し定者する時、そこに小乗出

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35

の庇稽が護明せらるよ塊山が克分にあるのである。 随って大乗経典の 7 ち最も多く使用さるトも

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は 、 聾 間 平 山 ぺ 件 以 ム 一 縁 組 克 甲 山 々 岳 山

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白 色 ︸ 戸 山 の 名 稿 で あ り 、 こ れ を合して二乗と稽するのである。こ

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用語の方が遥かに小乗

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語よりは多いのである。依って小乗の研究には、 軍に小乗の語のある場所ぞ蒐集して研究する丈けでは不足であって、二乗一一一一来一来的研究によって、これぞ補鰭 せねばならぬものである。印度に於て己に斯め如き事情であるが、支那悌救に於ては、法華の三乗一乗の闘係が 強調せられ‘四一来の語も生じ、三車家四車家的論議もある位であり、特に一一来仰教が問題的中心となって来てを る。換言すれば、印度に於ては、大乗小乗の関係交渉が問題

ω

中心であったものが、支部日本に来つては、更に 準出比して一莱としての大莱義の究明に中心が移動して来たのである。近世初脱より南方上座分別部が原始悌救或 は般本悌款として研究せられ、近代日本もこの欧米

ω

風潮に埠随せる矯めに、現代日本に於ては、小乗と恨本側 款の闘係が新しき風景を悌救研究ゆ上に展開してをるのである。 大 乗 ・ 中 乗 ・ 小 業 及 ひ 弧 ・ 逼 ・ 小 更に小乗は大乗に封するのみでなく、中

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回日目を加へて、大中小として掛照せられる場合もある

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で あ る ‘ 寂 調 音 所 間 経 ・ 十 住 毘 婆 沙 論 ・ 震 性 論 等 に は ﹁ 中 莱 ﹂

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語すら用ゐられ‘これを聾株菩に常て\大中小の三采 が語られてをる。占んもこの中乗の認は、縁畳莱

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不流行と共に、後世には忘失された観がある

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で あ 一 る 。 ま た 小 一来は狭劣嗣少の意義であるからして、弧・別慮・一分などの局限せられた意義の官邑弘一宮とか、中国に封する 宮 内

22

白 昼 門

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宮 内 円 山 口 広 目 立 山 口 告 白 去 と し て 用 ゐ ら る 込 ﹁ 建 ー 一 な ど

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意義をも参照して、研究

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建国官民百ロ

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12 す べ 品 川 、 貼 も 存 す る の で あ る 。 小采款の各種の形怒 五

(13)

日 本 係 数 単 協 令 年 報 ︵ 第 九 年 ︶ 一 一 一 一 六 13 無 策 ・ 非 乗 ・ 一 乗 ・ 根 本 乗 最後に、偽教に初中終あるが、倒立に初中終の隔慌あるわけではなく、無初無中無終の中道宰義が徹底せられ、 後 に は ﹁ 通 論 大 小 乗 粧 . 同 明 一 道 ﹂ ル 一 言 は れ る の で あ る 。 仰 意

ω

, 方 便 益 口 巧 よ り し て 人 法 開 舎 す る 立 場 に 於 て も 、 仰 の大悲本願の掻取不捨そ語る位に於ても、仰教としては、曾三師一し踊末蹄本する一乗悌教が高調せらるべきも のである。法に就てこれを根本法輪となし、或は乗物としてこれを﹁根本莱﹂と名付けるのである。一一来・根本乗 の位に於ては、大小の匝別も遣蕩せられるのであるが、この過程そのものそ端的に表現すれば、宰義に依る﹁無 乗 ﹂ 或 は ﹁ 非 莱 ﹂ 白

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の用語も費生するのである。かく一方に於て大小ぞ峻別し、他方に無乗非乗の弾みに於 て 一 一 来 を 見 、 根 本 莱 ぞ 把 握 す る 事 は 、 ﹁ 小 乗 教 の 各 種 の 形 態 ﹂ の 究 寛 す る 底 で あ る と 忠 ふ 。

5

韓 間 上 座 偶 数 の 小 一 束 性 聾聞僻教より上座僻教への過程 小乗の語は、大乗家がその相手に輿へたる庇稀なる事は明かであるが、然らば何人がそ

ω

相 手 で あ る か 。 諸種の大乗経典が己にその成立事情を異にしてをる錦めに、その批判の立場必示しも一致すとは鍔し難いので あるが、之等が等しく相手と目指してをるものは﹁務開﹂である。時には﹁替問地﹂年皆保守

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− 云 ひ 、 時 に は ﹁ 聾 聞 乗 ﹂ と 一 五 う て や る が . こ れ を 持 費 と 共 に 呼 ん で 二 乗 と 栴 す る

ω

である。然らはその韓関とは果して何人で あ る か 。 聾聞の話は‘もと稗一章一の聾を親しく聞いてその救冶信承奉行せる弟子に名け仁言葉であるから・如来の弟子符

(14)

なこれ替問であれ J ・出家作俗に過するものである。然るに減後

ω

仰我々閣に於てはや既成救闘としての維持存続 の 必 要 は 諸 般 に 彩 式 化 専 門 化 事 務 化 へ の 一 路 ル 品 〆 ア ら ゴ ゐ ル 一 得 な い ト

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であゐ。更に和合

ω

中心たりし仰なき時に於 ては、台って

ω

時 間 法 も 八 ー や 名 古 共 に r i 上座長老﹂となった舟めに、理問

ω

名もその上康法に牧めらゐ込に a A 士 つ に と 号 へ ら れ る か で あ 日 ω 。而してこ

ω

替って

ω

野 間 ・ 八 1 必 上 座 長 在 述 、 か 直 面 せ る 枇 舎 は , 移 h り礎り行く新情勢に随 則 し て み ヨ ゐ も か で あ る か ら 、 勢 ひ 一 方 に は 泣 一 法

ω

結集係持とか数回

ω

律 一 法 的 統 制 と か 、 に、他方には新しき地随者ぞ如何に獲得

L

、 そ

ω

救線の抗刷版ぞ如何じ可能ならしむるかに就て、相前の苦慮そ抑 守勢に傾かざる冶得ぎる へ る も

ω L

一 息 は る る ο 兎に角、大師入減そ機として、教閣は悲に甚しく守勢的とならざゐな得今、殊に上座長老

ω

白功有作

ω

努力を 中心として維持せぎるぞ得なかつにのである。遣法結集

ω

企てとか、数回の周躍的統制の矯めの作法的強制とか、 付法相承の黛汲的工作とか、蕊に滅後仰教はいたく在世正法怖款の任蓮無作的な一悌乗の大乗的風光の地模様と 異つにも

ω L

一鍔って来たのである。この大師約布世ム一入減と云ふ恨本事宜は、入力の如何なる更改をも許さぬ厳 粛な人生の宜相であるのである。その匝別を蓮闘し如賢一山賀相に徹することは、悌の教一不にカめられにことでは あるが、中々・容易なる事ではないのである。この如貫相に蓬せる大士は、滅後に於て必かしも無かったとは一五へ ぬであしらう。乍然、その事買を認識酷験し‘この如貫相ぞ思緋に訴へ、理論に組み、言教に表現する事は、決して 容易な業ではないのである。況んやこれぞも教義に組織して,貫枇命日に宜俸せんし’てするに至つては、相官の成熟 の時間必要するのである。これ滅後向ほ早ぎ時期には、米だ大乗興起

ω

容易なら一ざりし事を推測せしむるもので ある。かく貰相在了々分別せんには.買に相官の時間の経過に斡七ねばなら応のみならか,精神こめにる観智力 14 小乗数の各種の形態 七

(15)

日 本 側 品 抗 感 協 品 目 年 報 ︵ 第 九 年 ゾ 一 一 二 入 15 の 凝 集 こ そ 最 も 必 要 と さ る る も の で あ る 。 キ 柄 、 に 一 ふ じ は 、 聾 聞 の 夫 々 機 旧 般 的 な る 潟 瓶 相 承 の 保 守 的 勢 力 を 績 け つ つも、他方在世正法例教の全瞳的立場ケ内詮達観し得る新しき人物の出現品ぺ最も要望されて守ったのである c 在世悌教は大師を現貫に中心とする正法悌教なるに比して、滅後の油開設は上座長老な中心とする﹁弟子悌教 1 一 で ある。この大師働陀なき弟子仰殺は、名賓共に 1 上座長老の悌敬 L である。もと大師側陀に封してこそ、其の弟子 信者を聾聞と呼んにのであるが、滅後の上座長老に卦しては‘その迫隠者守聾聞と呼ぶ事が相膳しくなかったと 考へられる。勿論これは世間と云ふものであって、軍なる理の係る事ではないのである。勿論上座長老の弟子蓮 も、夫々上座長老の聾聞には蓮ひないのであるが、聾聞の諾は己に大師悌陀にのみ詐された一種の凶有名詞とな ってをるのであり、標章に取り切られてをるのである。これ恰も大師は弘法に、一克組は法然じ、開山は親鷲じ、 組 師 は 日 蓮 に と 一 石 ふ 如 く で あ る 。 蕊 に ﹁ 護 出 仰 救 ﹂ と 一 五 ふ 名 が 、 白 か ら ﹁ 長 老 上 座 偽 教 1 と 同 一 の 呼 び 名 じ な っ て し まふ過程が潜んでそるのである。この長老上座の草間悌我は克につ付法相承の仰救﹂とも﹁遣法結集悌教﹂﹁法律或 は経倖悌敬﹂とも.更に適切にはっ阿合及び律の悌救﹂と稽してよいのである。更に法律ケ研究する一 l 分別法相の阿 枇曇の偽教﹂への護法そ含んでをるのである。 上座盤聞僻教の二部性と大小乗への分化 この上座弟子悌款を解剖するに、光、っこれな二部に大別し得るのである。印ち夫々が了解し傍持せる違法とそ の解様、郎ち経伴の治法と分別法相の阿見曇の仰が一ぞ早川一部しとし、入減せる仰な憶念して大師成仰の閃巣ぞ考 察 し 、 岬 川 本 生 ] 凶

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等をも創作し、仰惇セ中心とするケ﹁第二部 L と す る c 而しでこの第一却を友とし、第二郎 の仰身闘は挙ろ附属的な形になってをるのが、上肢磐間働教の一一部作の特色であって‘この第一部小心の特色こそ

2

(16)

第 . 一 部 の 仰 采 奇 心 求 ’ と す る 立 場 か ら 見 れ ば 、 理 問 小 乗 の 仰 殺 に 過 ぎ ぬ と 庇 少 ざ る る 前 一 品 川 、 理 由 に も な る の で あ る つ 心 仕 批 正 法 例 教 と 滅 後 ・ 卜 L 度務問仰教との関係は上述の如くであるが、上広大衆の根本一一部分裂以後の異部仰教と 前一一脊とは、如何なる閥係にあるのであらうか。在世正法仰我と滅後弟子仰救との闘係には、大師入滅ム一一五ふ根 本 的 禿 別 、 か あ る の で あ る か ら 、 そ の 小 中 川 岳 断 府 的 L J 兄 る べ く 、 或 は 之 必 異 質 的 ム 一 見 る 事 も 出 来 る 。 随 っ て 十 代 世 正 法 悌教との異質的関係は﹁滅後兵部側救﹂ム一の闘係になれば、克に加捷度的にその皮守山府し隔りそ深むるに至るので ある。この第一部的な器開悌款が、校末的に分裂を束ねれば前一ねる棋.第二部の仰本地の仰教との隔照在深めて 行くのであり、葱に何等かの﹁渡り﹂守つける工作守必要とするに至るのである。唯古ニの渡りなるものが、一時 的の補緒的機頓守以て全うせらる斗や γ 川口やは問題である。而してその渡りが舗経工作守破燥して、濯に大乗興起 の決裂となったものである。 備本生の如 4 d 成悌因果観も、上座偽教の子ゆ信者けにものでありるそれが傍承苧られて来てそるに相違ないので あるかもそ

ω

上 座 仰 救 の ﹁ 一 一 部 性 し の 組 織 に 拘 束 さ れ て ぞ る 限 り は 、 ふ 代 柑 、 止 法 併 殺 と の 関 係 は 、 大 師 入 減 の 根 本 事 宜の介在によって本質的な隔りぞ如何ともなし得ぬのである。要はこの第一部が従になり、第二部が却て主とな り去となって活躍々地の護動を甥すに至つてのみ、十代前正法仰敬一との直接的な交渉に入り得るのである。換言す れば、十代陀正法悌救を模型とする滅後正法偶数の﹁大来﹂としての費動とならねばならぬのである。この関係が弟 子整聞の﹁小﹂なる偽敢に針して、大師一止法仰教の﹁大﹂なる立場の再認識となりも古来これぞ鹿野苑の﹁初碍法 輪 。 一 に 封 し て ﹁ 第 二 轄 法 輪 ﹂ と 名 付 け て を る の で あ る 。 而 し こ れ は 一 種 の ﹁ 小 先 大 後 ﹂ の 見 か で あ る l(j 弟子替聞は如何なる長老上座なめとも h これそ大師側陀に比しては↑小﹂に過ぎないのであるから、設問上座倣 小 采 教 の 各 時 仰 の 形 態 九

(17)

日 本 側 救 間 学 協 合 年 報 ﹁ 府 県 九 年 ・ J

ニ コ 一

O 17 我が恨機相膝の違法悌教とをの分別法相とを第一部としてセる限り、−小乗悌我一たるの域を脆する事が出来子宮 これ守一大乗﹂とは揺し得ぬのであるの反之‘在位正法偽救−ド一法蓮せんとし‘その本来面目在理想とし、悌の本願 ぞ憶念するを根本的立場とする滅後正法悌殺は,これを弟子の小に叫刻して大師の大遁守行く﹁大莱﹂と稽せざるを 得ないのである。備の本願を自らの害ひとする菩薩問。

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7

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の款は、これを﹁悌菩薩莱﹂と稽し、その成仰の 因果を一貫する弘誓ぞ見抜いて、これぞ﹁一偽薬﹂と云ふのである。

3

在世及び滅後の聾聞と自構大乗の論師蓮 上席一聾間働款が、大乗より或は生死人なり、敗種なり、宵人なり、如聾知昭なり等と口を極めて篤られて、殆 ん h と取る債値もなき迄に一五はるるのは、勿論上述の如く恨本的に立場冶異にし、款の組識ぞ異にせるに基くから である。た Y 然らば上座働款の陣管にありし上座法が、果して蛍時の大乗の論師法に比して事院左様に大小懸隔 あ り し も の で あ ら 、 フ か 。 舎 利 弟 日 連 大 迦 葉 の 如 き 大 護 問 か , 凡 て 大 乗 か ら は 小 器 ・ 小 人 ・ 小 一 来 と 媛 小 州 仇 さ れ て を る が 、 こ れ は 倒 陀 世 骨 子 に 封比せらる λ からなのであって、滅後の大乗論師法に封比せられて爾く極め付けらるる筈はないのである。悌に は大慈大悲ある矯に、鷹に地はれた一ねの鵠が仰彩じ移入して泰然として怖れ歩、大海移す可品川、もこの仰露にあ る 備 は 不 動 で あ る 。 乍 然 、 合 利 砲 の 影 に 於 て は 戦 州 市 不 支 な の は 、 合 利 弟 に 大 慈 大 悲 な く 、 ま た 捌 向 日 一 刻 も 未 百 議 し て をらぬ潟めであると式ふ如品川、物語は、数多く体求されてぞるが、これは仰と弟子との封比であって、悌殺なる限 り常然なる語草でなければならぬのである。然るにかの大乗に於ては、この仰に封しての韓聞の方位号、直ちに 大乗家自身の優位に換算して得々たる嫌ひがあるのではなから、フか。これ自任の大乗家に大乗家なしと一石はるる

(18)

恨操にもなるのであるが、この貼

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於て接聞小乗悌殺は今日救護せらるべき地域を何慮にか残してをるのである。 磐間上座が大師に卦して弟子分布円に過ぎないことは事宜であるが、大−楽家自身も備に鈍しては弟子の建域ぞ脱す るものではないのである。ニ

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貼同椛なのであるが、一方は上府県長老の資格そ衣ム一するに封して、他は備本地の 憶念ぞ去とし、本仰の加被カそ品に者てをる鋳めに、 一 方 は 庇 せ ら れ 、 一方が点く止ってをる結果となってをる の で あ る 。 四 上座大衆の根本二部と大小乗 在世僻教と滅後伸敬との関係と大小乗の封蹄 上 座 聾 間 仰 救 と 在 世 一 止 法 仰 殺 と の 隔 陪 は 前 述 の 如 く で あ り 、 そ こ に 後 代 の ﹁ 大 一 来 小 乗 の 針 立 ﹂ が 己 に 萌 し て を る と観察出来ぬ事はない。乍然、滅後百儲年にしてこの上座韓関悌教に浪本二部の分裂が起り、一を﹁上座部﹂、他 を ﹁ 大 衆 部 1 一と稽するに至ったのである。爾後、先づ上座部が更に分裂を重ね、大衆部も分裂して、悲に上座の十 大衆の八と合して十八部の兵部となり、本末合せて仕部と稽するのが一一説である o 然 ら ば こ の ﹁ 根 本 二 部 ﹂ は 、 滅 後百年間の L L 座韓間仰款と如何なる閥係ぞ有し、在世一止法悌殺と如何なる連格を有するのであらうか。根本二部 と在位仰教との関係には、根本的尭奥の存する事は考へ得らるるが、然らば恨本二部聞の針蹄なるものは果して如 何なる性質のものであらうか。大韓に於て根本二部の封蹴も、結局は爾後十八に分裂する漸居的走異の初を錯す に過ぎないのであり、各部執聞の漸共有量の相卦的差異と同却にあるものと見るべきであらう o かく在世正法悌 敬、滅後聾間悌教、根本二部及び奥部諸汲なる、この三者の関係そ考察するに、もとより躍に一方的の閥係なり 18 小采教の各稀の形態

(19)

日 本 側 数 皐 協 合 年 報 ︵ 第 九 年 ︶

19 と極め付ける事は至難事であるに蓮ひなく、三者間にも夫々移行的折衷の観察冶施さねば、蓋し問題の且相在明 かには錯し得ない事であらう c

2

大乗大衆部設建設の吟味 乍然,古来より行はれてぞる一一説によれば、大乗は恰も大衆部の護蓮なるかの如く見られてそるわか込る見か は果して安蛍なるものであらうか。これに封しては、先づ異部分裂ぞ記せる各種の資料を参照するに,此の見方 も決して究克的なものとは J 一 一 一 円 ひ 得 な い の で あ る 。 勿 山 一 剛 、 こ の 設 が 怨 さ る る 諸 種 的 理 由 に は 、 甚 古 参 考 す べ 含 有 力 な も

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もあるけれども、今日よりして見れば、この設も結局は更に成汎にして綜合的な恨本的立場に止鵠せらる る 時 始 め て 意 義 を 生 守 る 見 解 と 一 五 ふ べ ぎ で あ る 。 ﹁大乗﹂は、種々の詮左によって、必令しも上座部に制一蹴する大衆部

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護法と

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み械め付ける事は出来ないので あ る 。 大 一 来 は 、 上 座 大 衆

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恨 本 一 一 部 守 生 み 出 せ る 十 代 町 一 止 法 悌 教 守 模 型 ど し 珂 想 と す る も

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で あ っ て 、 こ の 貼 一 仰 教 と し て は 恨 底 的 な 全 館 的 立 場 に 立 脚 し て そ ら の で あ る 。 ﹁ 上 座 一 と か ﹁ 磐 田 ﹂ と か ﹁ 兵 部 ﹂ と か 一 五 ふ 弟 子 的 立 場 或 は 枝 ・ 米 的 部 執 に 娘 ぞ 下 ろ し て 在 日

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で は な く 、 ﹁ 仰 地 仰 来 、

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仰 救 し を そ

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本 U けとして唱導してをゐもいである。新興大 乗の諸経典もこ

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立場に立ってぞらのであるが、大乗

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時論的某礎付けに成功せる龍樹に於て見るに、そこには 軍なる大衆部が説かれては居らないのであら。龍樹の活躍せゐ市印度キストナ川沿作一併の史的記事や‘最近に 於ける南印度のナグラジュニ l コンデイの山氏蹟桂樹等の報汗等身綜合するに、大衆部系の諸一慌の足跡そ示す貼よ hりして、市山々大乗仰我と大衆部との密接なる聞係を指示してぞゐのであゐが、大衆部が如何なる過刑判ぞ純て大乗 に護法せるかに閲しては、何等瑳明する虚はないのである。勿論.龍樹は去面には有部”世子仰上市服部系側教そ代

(20)

去的な論敵 L ﹂舟してはそるけ.れども、その教説は仰地仰乗を本門とする本無作の中抗議ぞ以てその地模様と鍔し てやるのであベそこには躍なる大衆部があるのではなくて b 有 門 −

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門 ・ 枇 勅 門 の 一 二 門 の 悌 救 に 通 守 ゐ 泊 、 か 開 か れてぞるのであろ ο 加と.そのうちには特に上店側款の体統精神が,多分に換什脱関されて生かされてそゐ事を 見逃してはならないのであら。 元来、かの大乗か大衆部

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費 一 迂 で あ る と 云 ふ 説 拡 ‘ 一 史 に 収 底 的 な 見 方

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うちに容受され補総されねば不完全な 主張な酌であゐ。大乗が非仰一説の攻撃守生き残ってその救線を確立せる後に於て、果して大衆部が無くなったで あらうか。或は更に龍樹以後に無者などが﹁ M M 大乗論﹂の如 4 7必製作し,有の同級ケ論説すら矯めに阿頼耶誠説 巻構成せん L 一努力してぞるが、その際に﹁大衆部の般本誠﹂な化地部の窮生死説、有部唯一阿合

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問 阿 刺 耶 説 主 北 九 に 参 照 し て ・ そ ら 事 責 山 信 如 何 に 解 珊 押 す べ き か 。 ま た 法 制 ・ 玄 拡 令 義 洋 等

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印 度 紀 行 守 恥 付 設 す る に , 活 か 大 乗

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後 期 に 品 目 回 っ て 、 向 ほ 大 乗 と 共 に 倶 行 し 却 て 大 一 来 よ り も 降 一 盛 な る か ぞ 忠 は し む る 小 乗 諸 部 の う ち に 、 大 衆 部

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流行そ見出 すのは何故であらうか。 大 衆 部 の 救 説 に 大 乗 的 な い 一 渦 服 丸 信 有 す る と 一 瓦 ふ 事 は 、 決 し て そ

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まミ大衆部が大乗であると云ふ事ではなく、大 衆部が大乗に化したと一五ふ設問には未記程遠いのである。この再度

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論設ならば、上座部の救説

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うちにも大莱 的なるも

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が 多 々 あ る の で あ る 。 予 が 己 に ﹁ 大 乗 救 と 小 一 楽 教 ﹂ の う ち に 論 説 せ る 如 く 、 か の 大 日 間 般 若 山 ﹁ 蕗 大 乗 口 問 ﹂ の 如 品 川 、 、 そ

ω

協大乗と一五ふことそ山まへか、有部上座の法相そのも

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掻集な

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である。更に大乗が力説する六 20 波 羅 蜜 説 一

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如きも、決して大乗の濁創ではなく、上座仰救

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うちに熟せる私的に大来的者色ぞ施して強調せるも のである。随って資料的に考読するならば、韓間悌救と菩隣大乗仰救と m w つ な が り 弘 、 謀 、 に し く 漸 屠 的 禿 異 に 於 小 乗 教 の 一 各 稀 の 形 燈

(21)

日 本 悌 致 事 協 品 目 年 報 へ 第 九 年 J 二 三 四 21 て見出し得るものである・手は,予の己に上述の論文のうちに説き及べる事である。

3

大乗の品格と大小乗の研究法 一住、上康郎の仰教が大衆部に比してより韓関弟子的であり、大衆部は﹁讃悌乗﹂にその中心を置くと見る事は 出来る。時樹が智度論に器開人がただ韓同法の悌法に若して、各々分別して諸法の決定相を求め、その法を執し て 濯 に 仰 を 知 ら す と 一 五 へ る 如 き は 、 上 官 民 有 部 が 特 に 悌 采 に 返 品 d 事与指摘してをるのであり、このよき一例である。 乍然、これも上座部

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仰救は二部性であって、上座部が第一部ぞ去としてゆぜるから、より一居聾間弟子的である L f 百 ふ に 過 ぎ 示 、 大 衆 部

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議仰乗必かしも未花大衆の立場に於である

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で は な い 。 そ の 議 悌 一 来 も 、 上 座 部 と 等 し く聾間弟子的基調ケ脆し切ってぞゐも

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でない事は、そ

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敬訪冶封検すれば明白なのである。そこには未古﹁大 乗﹂たるに足る精神

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充 足 も な く 、 白 畳 せ る 品 格 ム 一 式 ふ も

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が現はれては居らないのである。 資料的に考察して,大乗が上座及び大衆ム一類似せるも

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が あ り 、 幾 多 の つ な が り ぞ 有 し て や ョ る L 一 一 五 ふ 事 は ‘ も ともと上座大衆が化位仰秋山弟子時出化せる滅後器開悌救より生れてな向、十代附一止法悌我か韓間的帆角より犬々 俸求され来ったも

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で あ る と − X ふ棋本事宜守反読する事に過ぎないのである。印ち十代世悌救への港掠そ木目とす る大乗悌救が、こ

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耐 ι れ を 求 け 生 か し て を る と 一 一 ム ふ 事 は や m 然 の 一 挙 で あ る が 、 大 乗 ’ p l 山 附 品 作 と の 聞 に は 、 . 陶 者 と 荘 批 一 止 法 仰 教 と の 間 に あ る 本 質 的 な 忠 則 夫 と 同 様 な る わ ぷ 兵 が 厳 存 し て を る 事 を 兄 兆 一 し て は な ら な い 。 随 っ て 卜 ぃ 座 大 衆 が もと花惟怖政

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本 地 よ り 分 け 川 し て 流 出 し た も の で あ る が 如 く 、 八 ー は 大 采 に よ り て 解 四 押 し 直 さ れ て 、 再 び そ の 本 地 に還訴された相に於て生かされて楽に

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である。勿論、大采が如何に花批仰教への還訴復活であり、再認識であ ると云うても.決して化此悌敦そのものではないのである。かくて十代町悌殺と滅後訪問仰敦及び上座大衆仰教と

(22)

た 帝 京 仰 放 と の 一 三 者 の 闘 係 は 、 山 男 い 旧 制 法 の 一 一 間 制 定 け で 片 付 け 川 は る も の で む な く 、 ま た 躍 な る 同 一 持 続 の 開 展 な り と の み 押 し 切 る 十 字 も 出 来 な い

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で あ る の 我 々 は ‘ 二 背 の 特 異 れ な 見 出 す と 共 じ 、 その相互聯闘を看取するに努めね ばならないのである。資料的護生的にも考察し、還源的な活倒的相に於ても見て、 一 ー け じ め L ム 一 ﹁ つ な が り ﹂ の 一 期 面 ぞ相印せしめて研究在進めねば、到応大小雨一来の関係は把握し得られ今、小乗教の各種の形態をより明かに錯すこ とも出来ないのである。更に大小乗款の研究に就いては、軍に上越の如き三者の閥係ぞ内部的に考察する丈けで 充分のものではなく、官時の一枇合事情の艶濯に基く時代的要請を特に考察してこれぞ補って行かねばならないの で あ る 。

大 衆 と 大 乗 大衆は凡多聖少・年少極多 抑も大衆部と課せらるよ煙 M 山 崎 旧 紙 部 ] 戸 内 乱 日

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或は阿離耶英珂俗祇尼迦耶∼

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白 山 間

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の ﹁ 大 衆 ﹂ と 名 付 け ら る る 意 義 に 就 て は 、 古 来 よ り 上 座 長 丘 町 三 戸 田 ユ 3 れてそる D に 封 抗 せ る 多 数 の 年 少 比 丘 の 集 り と 解 四 押 せ ・ り 先づ兵部宗輪論には、滅後百蝕年に詑象衆 Z 判官或は大図衆、建都衆

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可 山 口

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或 は 外 蓮 衆 、 多 聞 衆 聞 と 己 け だ号吉、大徳衆

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の四衆が大えの五事与議するに、不同なるに因って上座大衆の雨部となり、﹁是時仰法 大 衆 初 破 ー 一 日 山 由 民

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白と云ふも、そ

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大衆部の﹁大衆一の意義に就いては何等詳かにしてゐない。これを窺基 の 宗 輪 論 謹 記 に 依 る に 、 龍 象 衆 は 大 夫 の 流 ひ に し て 、 園 玉 大 臣 の カ を 時 ん で 龍 象

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如く威勢官。匡 宮2 富 山 ﹃ 匙 雪 印 小乗教の各種の形態 五

(23)

日 本 悌 品 抗 感 協 令 年 報 ︵ 第 九 年 ︶ 一 一 一 一 一 六 23 きゅ信一五ひ、建都衆は大天の門徒にしてこれに随順し黛援せるものなり。多聞衆とは持戒庚阜の凡夫の串者にして、 上座聖衆を黛援すゐ朋黛なり。また大徳衆とは四向問果的聖衆にして上座なりと。 これに依れば大衆部以常時い政治的構カと結合し肘間一般大衆の俗信を挫てをゐ枇聞大衆︶恨め如くである。上 座 は 付 法 相 承 せ る 阿 枇 達 磨 の 大 論 師 、 連 ’ Y 一 見 ゆ る 。 こ れ ぞ 沈 一 起 に は 大 衆 部 中 に は つ 凡 多 聖 少 ﹂ と も 云 う て を る か ら 、 太衆とは凡夫有阜の少恥汲と栴しでもよい。 根本二部は明瞭に破俄印ち人の和合が破れて教聞が卦立分裂した

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であるが、こ

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僻年か無憂主主

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同 時

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分裂に先立って、備減直後

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七 葉 山 股

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結集の時に、己に人に異詩なく法に異説本に無かりしも.界内界外二 部

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結集が行はれたと云ふ c 而して界内は訓葉波ぞ上座とせるに、界外は一角数

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無 風

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集りであり、別的標首無 く 、 但 冗 綿 じ て ﹁ 大 衆 ﹂ と 稀 し た の で あ る 。 界 内 は ﹁ 者 年 至 多 ﹂ な る に 界 外 は つ 年 少 極 多 ﹂ と ・ 一 は ふ に 依 れ ば 、 大 衆 部 の 大衆たる所以は、人数と少壮と

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二 貼

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存 す る 一 挙 ぞ 知 る の で あ る 。 こ の 週 一 一 民

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記 事 は 、 同 氏 一 尚 三 戒 所 俸 ぞ 承 く る 吉 戒 の 三 論 玄 義

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説に等しいものである。五義に依れば.界外の大 衆は婆師波羅漢 J宝 子 と 怨 す ム 一 一 五 ふ c

2

大衆の衆多朋葉と大乗義 更に大天五事による脱本分汲に就いては、 主 義

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説と宗輪論及び大見婆沙論の説とに多少

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不 同 が あ ゐ 。 h v A 義 に 依 れ ば 、 摩 一 訓 提 婆 白 山 ﹁ 山 色 合 ・ ? 即 ち 大 だ が 消 火 采 粧 を 山 っ て 一 一 一 般 中 に 門 れ て 之 ぞ 揮 す ξ 比 三 い 、 依 人 染 一 山 火 等

ω

五 心 不 い 似 を 抗 い に い で あ る コ 住 ゐ に 大 ピ

ω

大采義 L 一 五 市 ? を 探 川 せ り ω も 叫 去 、 か 大 衆 郎 で あ り 、 こ れ ぞ 非 ム 一 錦 せ ら も い い い か 上 版 部 一 ’ P 錆 つ に か で あ ふ っ こ い り 衆 多 郎 抜 一 と 大 采 義 ’ Y

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二 本 や 以 て ﹁ 大 衆

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結成を説明せゐも引に‘ 更に西域記第

(24)

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摩 川 削 陀 困 結 集 唱

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記事がある η 印 ち 無 憂 −

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建 つ る は 川 の あ る お i これた衆怖の結集慮であり、上座迦撲の結 集 心 預 ら な か っ た 諸 々 の 無 事 有 事 数 百 千 人 命 日 し て 、 中 京 例 措 ・ 城 山 お だ 小 耶 減 b 阿 山 地 曇 峨 ・ 雑 集 山 城 ・ 禁 呪 ・ 城 山 花 械 を 結 集 せ り . こ の 知 日 品 川 凡 ・ 望 同 曾 せ る に 依 っ て こ れ を た 衆 郎 と 栴 し た と 云 ふ

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で あ る 。 大衆の王部占居と上座の北方涜行 宗輪論謹記及び大昆婆沙論に依れば、大一大の大一来義に就いては何字詰る慮はないのであるが、五事に闘する朋 黛に就いては﹁賢聖朋内者年雄多而俄数少。大夫朋内 A A H 年 雄 少 而 衆 数 多 → 一 と 云 ひ 、 時 に 王 は 謹 に 多 に 従 ひ 、 大 叉 が

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衆に依りて儲衆を討伐したと記してをる。而しでこの時一品伏せられたる上座は迦漁浦羅闘に移住せりと云ふ。さ ればこれは阿育王の首都たる摩珂陀園の供蘇摩域開

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円 ロ 印 ち 新 し き 華 氏 城 可 制 豆 一 宮

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には、大衆部が 時勢に乗

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て王都を占居し、上座部は逃れて北印度に救線そ張 h りし事情ぞ物語るものであらう。而してこの記事 が大毘婆沙論第九十九巻に挿入されてあるを見ればちこの上座部なるも

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は.写山部と云はるる本上座部ではな くて、迦園有部の阿毘曇昆婆沙師を上座の代表者として取扱ってをるも

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で あ ら う 。 ﹁ 聾 多 ﹂ 即 ち 大 衆 部 説 の 討 検 然るに合利弟閉経には、孔雀輪柑モの孫弟沙蜜多羅 H J H 叫 苫

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破仰後に一長老比丘ありて律蔵ぞ改酬し、 迦 葉 結 集 に 係 は る 蓄 本 を ﹁ 大 衆 律 一 と 名 づ け 、 新 体 を 風 ナ ぷ 者 ぞ ・ 卜 L 度部、善本に依ると大衆部と稽せりと一五ふ。これ は二部

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分 裂 冶 大 天 五 事 に 巾 る と 一 五 は 歩 、 律

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改酬に基くと錆す貼、五部律或は南俸十事非法の俸示 p f 相 通 A V る もりかあるが、準歩汲を上底部と名け保守波を却って大衆部と稀すゐ拙は異例そ矯すものである。 更に鹿本二部の分裂を云は今して、恨本五部の分裂を説くも

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には、原珂俗祇伴第四十の後記がある。これに

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吉4 小 薬 品 抗 の 各 種 の 形 態 七

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日 本 側 数 凱 平 協 合 年 報 ︵ 第 九 年 ︶ 入 25 依れば阿育王迄百一十蝕年、迦葉阿難末団地等の異世の五師一一脈に潟瓶せしも、この時曇摩雌多・捕沙寒一・迦葉 維 e 隣婆多の五部並立紛能競超せる矯め、王は仰事を断するには膳に多に従ふべしと一五ふ衆の意見に依 h v て 行 箸 せ し に 、 本 衆 の 審 ぞ 取 る 者 甚 、 に 多 か り し 故 ﹁ 大 衆 部 ﹂ と 名 付 け ら れ た と 一 五 ふ 。 同 様 の 記 ・ 挙 が 出 三 減 記 集 第 一 一 一

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新築律 分嬬五部記録にも存するが二取本衆著者甚多﹂と一五はすして、−爾時衆の婆織富羅部の箸丸信取るもの多く、建に 此 の 一 部 を 改 め て ・ 摩 詞 借 祇 部 と 錯 す 。 若 し ん 1 時 此 土 に 就 い て 行 著 せ は 便 ち 此 十 諦 律 を 摩 詞 借 祇 と 名 づ く べ し ! 一 E と ある。出三蔵記集同巻に牧むる婆縄富羅律の記に依るも、その衆の害甚古多きぞ以て、改めて摩剖僻紙と名づく とある。借祇律後記は五部並立すと一五ひっ?も四部を列名するに過ぎざる錆め、その一本衆審しと云ふのは婆銭富 羅部を指すものと考へられる。 此等に依るに摩詞借祇印ち﹁大衆部﹂なる名は、﹁書多﹂きに依りて命名せられにものと錦される。随つでもと上 座部の一波なるべき婆縄富羅部も、その時世ぞ得て盛行する際には、強ひてこれを大衆部と稀し,上座、部の代表 者なる迦固有部の十諦律も、その流行せる時代及び岡土に随うて、これも亦大衆部と名づけられる事となるので あ る 。 而 し て 古 誠 が 三 論 玄 義 に ﹁ 同 世 五 師 し と し て 曇 無 徳 ・ 摩 一 副 借 紙 ・ 噸 沙 塞 ・ 迦 葉 維 ・ 晴 子 部 の 五 h q 数 へ て を る が 、 このうち摩剖借紙と云ふは借紙伴後記の如く有部の十諦伴ぞ指してをるのである。 加之.更に同じく五部律そ俸示するものに大方等大集経第二十二の詑がある。そこには H 殿 也 多 ・ 隣 婆 若 帝 婆 ・ 迦 葉 耽 部 ・ 噸 沙 塞 部 ・ 婆 時 富 維 の 五 部 の 宗 を 列 泉 ・ し た る 後 に 、 ﹁ 成 博 く 五 郎 経 常 一 臼 冶 遍 賢 せ ん に 、 日 記 故 に 摩 詞 俗 紙 と 鍔 す 。 日 記 の 如 品 川 、 五 部 は 各 各 別 異 な り と 蹴 も 、 而 も 出 向 な 諸 部 の 法 界 及 ひ 大 作 繋 十 倍 妨 け す し と 附 加 し て そ る つ 以上五部枠の所凪部祇そ検するに、何れも上昨服部の分汲であ hv 、 就 中 、 ↑ 上 市 服 部 L の二大代表部祇仁ゐ相子部と

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有部 a y 一に、何れも﹁大衆部﹂の名を冠らしめてをる奇創在室してそるのである。勿論、現俸の摩一訓併紙律をはて上 座 部 の 一 一 棋 に る 慎 子 部 所 俸 と 錯 す 詑 ぞ 訣 傍 と 見 る 墜 品 れ も 己 に あ る の で あ る が も 八 ー は 特 に ﹁ 大 衆 部 ﹂ な る 名 輔 の 如 何 に移動的であり韓用的なるかを知らんとするのである。特に大集粧の五部各各別異なりと蹴も法界及ひ大根般市在 妨け今と、各部の究克や詐し、この五部の科書ぞ博く一過賞するを﹁大衆部﹂なりと説く如きは、舎三蹄一する大乗 的立場に於て﹁大衆しの語を韓用せろものであり、この勤興味深きものがある。 最後に根本分裂に就いては、市俸の律支小 H

問 主

ω 史・大史及び北俸の四分 W411 分・俗抵の所懐かある。今市俸に依 れば、滅後百年の践者族︿出口同比丘の十事非法に起因すと一五ふ。印ち十事非法を排撃せる正統七百比丘の結集の 上 座 部 な る に 封 し て 、 十 一 事 ぞ 肯 定 す る 徒 黛 の ﹁ 大 結 集 一 口 三 ] 判 明 白 身 互 に 依 る を 大 衆 部 冨 包 括 目 立 ち 一

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︺ 高 山 げ 阿 国 即 日 間 正 宮 と見るのである c

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大衆と稿せらるる理由敷慌 上座大衆に闘する根本資料は大略以上に来くるのであるが、﹁大衆﹂と稿せらるる理由冶藷に要略し幾分の解轄 ぞ 加 へ る な ら ば 、 1 人 数 の 衆 多 一 な る こ と 。 2 長老上座に針して少舵汲なりしこと。 3 上座長老無撃の聖衆に針し て 、 有 事 無 風 一 向 舎 な る こ と 。 隠 っ て 凡 聖 ・ 智 愚 ・ 老 少 雑 集 同 舎 の 大 衆 な り し こ と 。 4 皐徳高き保守波に封して幾分 なりとも自由進取の傾向強きこと 0 5 支配的特権的専門的階級の位置にある人々に卦して、一一般大衆と目されて よ い 群 れ な る こ と 。 6 国王官権の機勢の保護冶得て勢力強大なること。 7 時代の人心民衆の師向を得て俗信的潮 流に乗じてぞること。 8 新興大莱の深義守雑探せること 0 9 諸部逼寛の大乗通教的立場の存せること等である。 26

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大衆大乗義と大乗との異同 小采教の各種の形態 二三九

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日 本 励 叩 叫 抗 準 協 合 年 報 八 第 九 年 ︶ 二問。 27 かく要約するに、その﹁大衆部﹂的動向には、甚百しく大乗興起の事情と合致せるものの存する事は否まれな い。加之,大衆部の救護と稽せらるるもの

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う ち 悌 身 無 漏 ・ 一 昔 説 一 切 法 ・ 渇 未 無 韓 ・ 無 儒 有 作 用 ・ 心 性 本 浮 ・ 根 本 識・幻化空偲親等ぞ対象するならば、これまた大乗悌救の所設に近似せるものの作する事は、夙に事者の指摘す る 慮 で あ る 。 随って古来より﹁大衆﹂と﹁大乗﹂との聞に一服相通する親近性の存する事は,夙に唱へられてをるのである。殊 に自ら西域出身でありその聞の事情にも通暁し.且つ且諦三械の所俸をも多く承けてをった嘉鮮大師古戒の如き はそのうち最も有力なる皐者である。 古戒に依れば大乗義に依る破借・手は‘間早に減後百一十六年の摩一訓提婆の大衆部分立のみではなく、二百年中に 大 衆 部 が 央 幅 多 羅 固 に 住 せ る 時 に 華 巌 ・ 般 若 そ の 他 浬 撰 − 勝 髭 ・ 維 摩 @ 金 光 明 等 の 大 乗 粧 を 勝 っ て 一 一 − 戒 中 に 雑 へ て 説 くに、之そ信ホノるものと信ぜざるものとに分裂して一一部と鍔つにと一五ひ、検幽集第五に呉諸疏を引用してこれそ 詳説してをる。更に二百年中に大衆部の雌花浅義のみを弘めて深法を知ら−ざるに、深一一斑大乗義を合せ諦して多聞 部分立し、後の成貰論はこの部よ

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づとさへ俸へてをる。 以上‘﹁大衆﹂と﹁大乗﹂との親活性に就いて種々の資料を考査したのであるが、究覚する成大衆は大乗的である が決して大乗ではないのである。大衆が大乗に樽化する矯めにはその根本的立場に於て向ほ飛陛ぞ要するのであ る。大乗は﹁悌菩障の所莱なるが故、印ち大人の所飛なる−か故 1 に 大 乗 な り と 一 五 ふ の が 眼 日 で あ る 。 勿 論 大 乗 は 怖 心大慈大悲の利他行に立つのであるから、牟二位十方の一切衆生の矯めにと云ひ,その﹁松 H 鍔 . 切 一 が 川 立 論 さ れ て を るが、そこには上座長毛に到す﹁大衆徒黛﹂の立味の多数が先吹ってをるのではないのである。ト L W 胤 ト へ 衆 の 封 蹴 的

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行き方では港に末梢的行きづまりとなるに過ぎ歩、これが打開は上座大衆の卦立の棋を絶やす抜本塞源的な庚大 なる立場の遊見に侠たねばならないのである。側款の部汲的野立を或に行き来して一上座大衆しの標語ではも、ヲ問 題が動かなくなってしまったのである。そこには部執札蝶の札りが立つのみであって、仰救精紳の淵渇は如何と も錯し得ないのである。部執は部執として夫々これ冶附織の契機に止鵠せしめ符ゐものは、もと上座大衆の県本 母躍なりし仰乗の喚起より外にないのである。﹁仰来ー一は術教の根本説初の型態であるから、その創始の事の威力 は 蕊 に 新 し く つ 大 乗 L と し て 併 殺 振 興 の ﹁ 新 し き 標 語 ﹂ 守 誕 生 せ し め た の で あ る 。 上 座 大 衆 の 封 蹴 的 な る ﹁ 大 衆 ﹂ は 、 己 に そ の 使 命 を 果 し て 、 漸 中 川 一 一 仰 采 義

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﹁ 大 乗 ﹂ の 誕 生 を 促 進 し て を っ た 事 情 はあるのであるが、これは上座のうちにも同様なば省を起さしめて悌莱的な護法そ夫々撃備せしめ来ったのであ F る。随って大乗は墜に大衆よりの移行ではないのであり、上座大衆なる封立を棄拾せしむるものこそが﹁大乗﹂な のである。印ち封蹴的なる大衆精神に止る限り、それは﹁小乗﹂なのであって、決して大一来ではないのである c 大 乗は恰も﹁上座﹂を小乗の頭目と見て破邪顕正せるが如くであるが、それ丈﹁大衆﹂なる部名には移動時用的なもの があり、教義に移行的なものがあって、新興大乗の所封としては迫る内貰

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に 不 足 が あ る 事 を ぱ 澄 し て や − る の で ある。換言すれば俸統の威力は矢張旦 i 上座一に具ってやり、新興働殺がぶつかって行く稗古棄として具はれるも のは上座の悌款であったのである。 大乗にも興起時代の諸大一来経典、龍樹提婆の大乗悌敬、噸勅無著世親官時及びそれ以後の大乗仰教等として、 勿論夫々の動向及び形態が錯雑して存するのである。護生的資料的に見れば、上座土へ衆−大乗の聞には夫々封蹴 交流せる夫々の夷雑性が存するのであって、甚立しく相互移入の形跡を示してをゐのである。この匙←大衆ー一も流 28 小来設の各種の形滋 四

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日 本 偽 一 致 準 協 舎 年 報 ︵ 第 九 年 ﹂ 二回二 29 れ る 詰 で あ っ た . か 、 ﹁ 大 乗 L にも幾分この貼が承け織がれてをるのである。随って大乗にも護蓮慶遷が可能でもあ り、時代精神の如何によりてその標語としての威力そ失ふ事も起り得るのである。 ...

大乗の聾聞僻教批判と有部 大乗は聾間悌教を批判克服する事によりて、その新興の気蓮そ盛ならしめたのである。破邪郎頴正と云ふ事は、 後には中観汲旨注目 v吉区

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や三論宗の宗風を語る標語とされてをるが、もとこれ新興大乗の旗臓でもあるので ある。葱には聾間悌教に封する大乗の厭くなき破斥が眼につくのである。 かの維摩経の如き小乗智慧の微浅なる事満し宵人の如しと一五ひ、まに成仰不可能なる事敗種の如しと稽してを る。法華経は小乗を増上慢白

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日 一 一

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’ f一民り、龍樹は智度論に白法愛染の故に他人の法ぞ段悼す、戒行ぞ持す る人なりと雌も地獄の苦を発れ?と云ひ、迦蹄延尼子の弟子輩は生死人のみと篤 h り、十住昆婆沙論にては聾間昨 支悌地に堕するは菩障の死なりと錯してをる。更に智度論には二積の破戒あ旬、一は十不平書道にして、二は向聾 間昨支倒地と云ふのであるが、大賞積粧の佐山利舎の如きは、器開乗の持戒はこれ菩薩乗の﹁大破戒﹂なりと錯し てをる。その他に依れば聾聞は忠知識冨吉

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であり.韓関と交るは根本堕罪

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なりとし、また二乗 地 に 心 を 起 す は 死 罪 に 等 し と 一 一 一 日 う て を る の で あ る の ま た 提 婆 や 拐 伽 経 に 依 れ ば 、 小 乗 は 外 遁 ’ F 一 同 列 に 取 扱 は れ て を る 位 で あ る 。 議に所破となってをる撃聞或は小乗なるものは、必すしも品目上座部と限定するには資料不充分であるけれども、

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