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λ分と云ふのは六足論に蛍るものであるが︑龍樹は疋に

合利明阿枇器或はこれを附子阿枇曇として紹介して守る︒﹁枇初﹂とはE

煙一 川迦 耕延 の作 であ り︑ 常時 十間 夫慨 に流 行 し︑ 有無 双亦 門の 分別 に階 一し

その論議は無窮過に陥ると云うてぞる︒

龍樹 はこ の枇 勅門 と宗 門と 有門 とを 仰款 の一 一一 門と して

︑こ の三 門に よれ ば︑ 悌読 のう ちに 有無

・常 無常

・苫 脚本

・我 無我

@勤 行有 作無 作山 中と

︑種 々に 希錯 せゐ 異説 そ皆 な間 活す ゐ一 やそ 得︑ 諸法 宜相 中道

・戒 に了 蓮す と潟 して ぞる の

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一解 脱門 の本 義︑ 大衆 部一 糸の 窄偲 義. 方成 道人 の思 取本

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含ましめ得ゐものであ

るが︑龍樹の大衆般若の定義としては︑見本得道の一両のみではなくして︑常見・空執・空怖や7も消融せしめ得る

立場が示されてそるのである︒天台の言葉を恨れば︑但本一ではなく不但率︑か︑但中ではなく不但中が﹁岡﹂の境地

に於て既に設かれであるのである︒またその﹁有門﹂とは︑種々に法相分別し一切決定有なりと執し︑見有得道を

旨とする説一切有部の阿枇曇稗婆沙の論議が指名してあるのである︒

龍樹 の大 乗確 立と

﹁此 曇闘 有部

﹂﹁ 有部 即小 乗﹂

かく龍樹はや田時の悌教を綿括的に見てをり︑諸部の長在採り短ぞ補ふ︑高く庚き立場に立ってをるのであるが.

そのうちに於ても特に有部の阿枇曇を聾聞と稽し小一来と庇してその棄拾に依って大乗教義を確立せしめてそる

のである︒龍樹のこの仰敬の取扱方に依って︑有部宗の小莱の代表者たる位置が公然と承認せられたのである︒

換言すれば二十部の随一に過ぎない有部が︑もともと期成色迦王朝保護の下に於て確聞大ゐ賢勢をはて常時の教

界に君臨してをったには蓮ひないのであるが︑時樹のこの大乗的立場による判定によって︑﹁枇曇印有部︑有部

3壬

小采殺の各締の形態

85 

印小

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阿此曇の本義と上座聾聞の枇曇

抑も 阿枇 曇﹀ 三回 目住 民旨 山と 一五 へば 分別 法相 の意 義で あり

︑﹁ 封法 封観

﹂と も﹁ 無比 法﹂

﹁勝 法﹂ の義 なり とも 稿せ

らるるものであるから︑必品少しも上座部の一支汲たる有部のみが捜にすべき名稿ではなく韓関偽救一般の研究

方法なのである︒韓間仰款のみでなくも在世仰款に於て己にか

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分別法相の研究的皐風の護生がその歩合に差

こそあれ存してそったと見るべきものである︒吉蔵が六種の阿枇曇の第一に﹁仰自説法相批曇﹂ぞ置くもこの事情

に依るものと忠以れる︒故にこの阿耽曇の皐風はたyに上座部の皐風なるのみでなく︑大衆系の椴若朗︑般若大

乗や中間他殺の無分別智の観察更に大乗阿見法ぃ鮮の謬胤にも通じ︑大小共通のものたるべき事は︑予の特に﹁阿

毘法廃の本義﹂と内題して護表せる﹁根本中の研究﹂のうちに詳説せるが如くである︒

然る に︑ 有部 に韓 日刊 六足 の七 論が めれ ば︑ 南方 上庫 分別 一前 部に も一 出来 論切

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E哲 三仙 寺の 七論 の護 連あ り

更に晴子合利指枇告や法勝耽爪iや法救の雑心中?をも数へららるに服せばを今や﹁阿枇

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どの 諾は 入士 く﹁ 上座 韓間 偶

数﹂の墜風を特色づけゐ言葉として使用品巴られてぞら十字が分らのであるoかく阿耽曇に就て種々の角度から考査

を摺け︑こ

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話が 棺樹 の大 乗向

︑旭 川市 時に 於て

︑如 何に して 有部 に取 け切 られ て︑ その 代へ 名と して 一一 慌の 刑ぃ 一を 作

り上けゐ事になったか︑そ

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池和守幾分なりと分明ならしめたのであ

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︒か くし て耐 後︑ 天台 刊顕 や二 古 川古 戒の 如会 支那 仰款 の大 立物

︑か

﹁枇 公印 有部

﹂﹁ 上版 印有 印﹂

﹁有

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小梁﹂の公式によって救刊ぞ一連川せし事宜への子懸部

たらしめたのである︒

根本諸部と印度備教

有部所惇の根本四部説

異部分裂を説くに上広大衆の川松本一一部設と根本一九郎説との行すゐ事以上述の如くであるが︑この外に凶減俸の

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山第二設にしてタ|ラナlタ門 司 J

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の大衆部め悼法に依れば︑上底部・大衆部・分別一説部を

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!タ の一 汁岳 部の 侍承 には 大衆 有 部・ 昭一 子部

・雪 山部 冶以 て共

に有 部の 俸求 で

は大衆智有部智上座・正置を夫々﹁根本間部﹂

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呼ん

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0.この最後の有部所傍ぞ最も信用すべき設と錦してゆゼ

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この両親の有部俸の棋本阿部設なるものは︑義汗が南指骨一川邸内法俸に記す﹁諸部流汲生起不岡︑西側相承大綱 C

唯四﹂と一五ふ四部恨本設と同一のものであり︑翻課名義集にも四分作十八部之名日としてこの四部や以て分一恨の

根本四部と見倣す如くである︒義浮に依れば常時支那に行以れてそる五部律の俸承十倍以て西固には聞かざる所と

西域経由の偉承と印度南海中心

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俸承とに相仲間の開きのあるを物語ってぞるものであ非難ぞ錯して冶ゐ事は︑

義浄の五天南海の諸部分布記録

義浄に依れば﹁五一えの地及び南海の諸洲は皆な四種の尼制耶呂町吉と一五へり︒然れいとも其の欽む所は成によ

り多少有り︑陣掲陀の中印度にては則ち四部ぞ通習すれいこも有部最も盛なり︒羅茶・信度の阿印度に於ては少し

︿ご 一部 そ粂 ぬる も乃 至正 量﹄ んも 多し

︒北 方は 皆な 入土 く有 部な れ

hとも時に大衆に逢ふことあり︒市而は則ち成く上

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二五

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37 

度に遵うて儲の部は少しく存せり︒東商の諸国は雑へて四部を行ぜり︒師子洲は並に品目な上座にして大衆は斥け

らら︒然も南海の諸洲に十館岡あり純ら唯花根本有部のみなるも︑正量を時に欽み︑近日より己来は少しく品開の

二冶も粂ねたり︒斯れ乃ち成く仰法に湛ふも多くは是れ﹁小一来﹂なり︒唯記末羅遁のみに少しく大乗有るのみL

云ひ︑向ほその他の諸国に就いて諸部分布の事情を記せるも︑結局四部を根本と錯す︒

大小 倶行

・一 ニ乗 共行 の印 度伸 教

乍然︑この四部の芯なるものも決して部別の義に著はるべきものでなく︑詐遮の理は分るること芙きものであ

る︒律儀に異あり︑一戦草する所懸隔あり︐開制は法然たれば各各部執なぎに非ぎるも︑もと一鮮の裂けて十八片

となり︑一の金枝の斬れて十八段となりしものなれば︑解脱に趣くの門は其致一つなることぞ忘れてはならない

のである︒また﹁其の阿部の中に大乗と小乗とは匝分定まら歩︑北Aえと南海の郡は純らH疋れ小乗なり︒神州赤牒

の郷は立は大救に花り︒白儲の諸活は大と小と雑へ行ぜり︒其の致そ考ふるに︑則ち律検殊なら守して脅しく五

篇を制し︑遁じて問誠一必修せりの若し苦闘伝蹴し大乗経を読むも

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あれば︑之ぞ名づけて﹁大﹂と矯し︑斯の事を

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一に は別 ち中 期︑ 一一 には 乃ち 瑞 伽な りに と︒ 義明 げの 渡天 はい ぷ勢 泣後 八年 であ り︑ 大乗 仰教 も己 に護 法正 誌の 唯誠 法相 山市 が支 那に 弘体 した ら後 であ るか ら︑

地んど悌救の全系統ぞ大開し符ゐ時期であり︑支那に於て賢汁大師法械が﹁円相融合﹂守哨導し︑一乗仰教もその

極致 に濯 して ゆ乍 るの であ る

ο義汗はそ

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作天

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験に より て記 す慮

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︑同 じく 中間 球伽 の一 一宗 は﹁ 阿天 にて は嬰 べ行 へど も理 は北 品川

︑競 ふ事 無く ト 品れ か是

︑判 れか 非な らん と︑ その 仰采 もと 一な る事 守一 小し てを る︒

印度に於ては上述せるが如く事火薬興起して小乗消減せる事官治んh

と無 く︑ った 小供 行! 一で ある

︒躍 に護 法史 的に

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聞係に於ける小乗大乗

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交渉を見る丈けでは︑現事を離れた一つの偏れる見解に泊ぎぬのである︒常じ大小

供行 の現 事そ のま 込が

﹁横 仙北 九三 一来

﹂を 示し てを るの であ ゐ︒

一 一 仰 乗

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揃闘 が躍 に二 二分 別の 排謹 法的 関係 に於 て

息地内せられるよりも︑寧ろ事例的に行はれて守つにと見るべきである︒こ

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駐支那仰教は不共猫菩薩法の開展せ

る小 乗な き一 乗大 一楽 教で ある が︑ 印度 にて は常 に﹁ 大小 倶行

﹂﹁ 共三 乗﹂ を現 事と する 一仰 乗の 悌救 であ る︒

4

小乗 の陣 鐘と して の大 衆︒ 有部

・上 座正 量・ 経部 の五 部

かく印度に於ては︑悌救の最後期に近き頃に於ても上述の大衆二行部・上肢・正量の四部が同松本として重んぜ

られてをるが︑こりヲち大衆最も微弱にして︑盛なりし後三者は何れも上座部に属するが︑結局印度悌救の始終

丸信 通じ て︑

﹁小 乗﹂ と云 へば

﹁上 座部

﹂を 以て その 代表 と鋳 ると 見て よい

︒更 に︑ サラ スグ ァチ

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印ち悌款問

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の四汲と一五ふものが︑中観瑞伽と経量及び毘婆沙

師である貼及びその他守合せ考ふるに︑上蓮の恨本阿部に経量を加へて︑この五部を以て︑小乗悌款の各種の形

態合研究する一つの手懸りと錯してよい︒こ

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根本諸部に就いては︑更に予の﹁大乗救と小乗数ー吾参照せられ度

大乗諸師の殺剣と小乗

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支那に於ける小乗枇曇の不振

前節の如く印度に於ては小乗の根本分汲に就いて二部五部四部の具設があるが︑現事は十八の部執ありとなし︑

小采敬の各種の形態

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