はじめに
今まで人の移動について︑ 市に集まる人々︑ 逃げる人々︑ 吏の移動と宿などをテーマに︑簡牘史料を中心にして文献 史料をまとめてきた︒前論では︑尾形勇氏の論考を導言と し て︑
「宿 家
」を 取 り 上 げ︑ 吏 は な ぜ
「家
」に
「宿
」と 称 す るのか︑吏の移動を追跡して︑国家と家の関係はどのよう に繋がるのかと考えて み
﹀1
︿
た ︒ このたびは︑葬儀に関わる史料を︑葬儀の中心にある棺 を 通 し て
「家
」を 念 頭 に 入 れ て 整 理 し よ う︒ ま ず
「奏 書
」案例二十一と
「二年律令
」賜
﹀2︿
律 の規定など文献に展開 する葬喪︑棺斂︑送葬や埋葬に対する思い︑人と葬儀と家 との結びつき︑現世のしがらみから離れざるを得ない送葬 儀礼の問題などに関わる史料から整理していこう︒ 秦漢帝国と同時代の
「日
﹀3︿
書
」甲編乙編には生活諸般諸事 に関わる日読みの吉凶が体系化されまとめられている︒そ の な か で︑ 死 喪︑ 埋 葬︑ 祠 祀 の 吉 凶 を 扱 っ て い る 部 分 で は︑不可解な現象の原因として考えられた
「鬼
」について 触れている︒この鬼の患いの対処方をまとめた
「詰
」と一 群 の 記 述 が あ り︑
「幼 殤 死
」の 葬 ら れ ず に 放 棄 さ れ た も の が 人 体 や 住 居 に 患 い を も た ら す︵
「され埋葬されるのも棺である︒こうした棺を通して見えて あり︑殯礼を受けて︑送葬の途に就き︑ 肂 ︵墓穴︶に下ろ 人々に畏怖をもたらす︑と︒その死者を収斂するのが棺で 死 不 葬
」︶ と い う︑ 祭 ら れ て い な い 鬼︵ 魂 魄 ︶ が 験 現 し て
846鬼 恆 羸 入 人 宮 是 幼 殤 飯 島 和 俊 ──爲衣衾棺斂、 轉送其家── 棺在堂上から
●●●●●
論 説 │││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││││ 葬送という文化
くる同時代的な風景を見て行きたい︒
一 棺のある風景 ──堂上の棺 (奏 書案例二十一)
人生の最後を飾る葬儀において︑棺がどのような風景を 作 り 出 す か︑ ま ず︑
『張 家 山 漢 墓 竹 簡
』所 収 奏 書 案 例 二 十一から検討してい こ
﹀4︿
う ︒どのような人間関係︑物語や論 理を形成するかを観察してみたい︒この案例に描かれる葬 儀は︑公士丁という吏の在職中の病死による︒近親者は母 素と妻の女子甲の二人︒未葬時に妻の女子甲が男子丙と姦 淫したとして︑母素が妻女子甲を
「不孝
」と告訴し︑立件 された︒ この案例二十一の構成は本件審理に要した法令と規定の 列挙と︑原告母素の告訴文と奏 ︵上級裁判所への審理委 託︶の事実︑そして︑奏 を受けた廷尉での論議と論決︑ そして︑その後の廷史申の駁議と︑廷尉の最終合意の部分 からなる︒冒頭より︑本案件に関与する故律︵過去の律令 規定︶として法令規定が列挙され︑まず︑ ①
「爲後
」︵相続の順位︒
「二年律令
」置後律に詳細有り︶ の規定で︑最優先が子男︑次いで父母︑妻︑子女の順 位 が 示 さ れ︑ 死 夫 の 相 続 者 に な る︵
「故 律 曰︑ 死 夫 以 男爲後︒ 毋男以父母︑ 毋父母以妻︑ 毋妻以子女爲後
」︶︒ また︑ ②公務中の忌引きに当たる
「歸寧
」の規定︑県官事に従 事 し て い て 父 母 も し く は 妻 が 死 去 し た 時︑ 帰 寧 三 十 日︑ 大 父 母 同 産︵ 同 母 兄 弟 姉 妹 ︶ は 十 五 日 と さ れ る ︵
「律曰︑諸有縣官事︑而父母若妻死者︑歸寧卅日︒大 父母同產十五日
」︶︒ まずは
「家
」内の序列が取り上げられる︑ ③ 父 母 に 逆 ら う 罪
「敖 悍
」︵ 目 上 の 教 令 に 従 わ な い ︶ に ついての規定︒県廷が公認すれば︑敖悍と告訴された 子 男 子 女 臣 妾 は
「完 城 旦 舂
」︵ 完 は 剃 髪︑ 有 期 三 歳 刑︶として︑その足に鉄鎖して巴県の監︵塩︶造りに 輸 す こ と に な る︵
「敖 悍︑ 完 爲 城 旦 舂︑ 鐵 須 其 足︑ 輸 巴縣鹽
」『睡虎地秦墓竹簡
』「封診式
」遷子参照︶ ︒
これは共犯の男子丙の関わると思われるが︑ ④
「敎人不孝
」は︑人を唆して不孝の行状を行わせる罪 で︑
「不孝
」に次ぐ罪︒そして︑
「棄市
」の次は
「黥爲 城旦舂︵六歳刑︶
」であるという規定︵
「敎人不孝次不 孝之律︒不孝者棄市︑棄市之次︑黥爲城旦舂
」︶︒ また本件は公士丁に関わる犯罪で︑公士丁の妻が被告で あるから︑ ⑤以爵減刑の規定が続き︑本件の実刑は
「當黥︵爲城旦 舂 ︶
」で あ る が︑ 被 告 が 爵 公 士 の 妻 以 上 な の で︑
「完 ︵ 完 爲 城 旦 舂 ︶
」刑 に 軽 減 さ れ る と な る︵
「當 黥 公 士 公
士妻以上︑完之
」︶︒
本件では最重要のはずの犯罪行為となる︑ ⑥姦淫罪については
「耐爲城旦舂
」だが︑この場合
「奸 者︑耐爲隷臣妾
」となる︒ 最期に付帯事項︑ ⑦姦淫罪の立件には現行犯逮捕で現場での犯行確認が必 要 条 件 で あ る こ と が 示 さ れ て い る︵
「捕 奸 者 必 案 之 校上
」︶︒ 以上が公士丁の母素の親告によって立件された当該事件 に関わる法令とその規定ということになる︒ 告訴人の供述によると︑被告は杜瀘︵杜県瀘里か︶の女 子甲で︑夫公士丁が疾死し︑喪棺︵遺体を納めた棺︶を堂 上 に 安 置 し て︵ 太 斂 は 終 了 し て い る ︶︑ 未 葬︵ 埋 葬 以 前 ︶ の時期で︑丁の母素と夜︑棺を 環
とりまいて哭いたと犯行直前 の 状 況 が 示 さ れ る︵
「今 杜 瀘 女 子 甲 夫 公 士 丁 疾 死︑ 喪 棺 在 堂上︑未葬︑與丁母素夜喪︑環棺而哭
」︶︒しかし︑母素が 目撃したことは︑妻女子甲が男子丙とともに棺の後の
「内 中
」で 和 姦 し た こ と で あ る︵
「甲 與 男 子 丙 偕 之 棺 後 内 中 和 奸
」︶︒翌朝︑母素は甲を吏に告発し︑吏は甲を捕得したの で あ る︵
「明 旦︑ 素 告 甲 吏︑ 吏 捕 得 甲
」︶︒ 県 廷 は 立 件 し て 審議に移ったが︑
「弗案校上
」について触れていない︒ このように案件は母素の告訴で立件されたが︑被告女子 甲 の 罪 状 に つ い て 審 議 の 結 果︑ 論 決 が ま と ま ら ず︑
「疑 甲 罪
」︵ 疑 罪 ︶ と し て 奏 す る こ と に し て 上 級 審 の 判 決 に 委 ねることになった︒ こ の 奏 を 受 け て 廷 尉 で 再 審 議 す る こ と と な り︑ 審 理 は︑申告された罪状の不孝罪と姦淫罪とをめぐって︑容疑 者妻甲と夫公士丁と夫の母素との間に帰寧の序列や相続の 序列をもとに︑妻甲の罪刑を導き出そうとする︒ 廷尉での審議の部分は︑廷尉殼︑廷尉正始︑廷尉監弘︑ 廷史武等三十人が合議して︑ ①律︑この場合は
「置後律
」︵
「二年律令
」置後律
369
〜
371簡 ︶ の 規 定 が 柱 と な る︒
「歸 寧
」の 規 定 が 案 文 に 上 書 きされて︑夫をめぐって父母妻の
「次
」序列を取り上 げる︒
②帰寧では父母の場合と同法︑妻は父母と同等の扱いで ある︒ ③
「服喪
」では
「當次父母
」で父母の次であり︑
「爲後
」の序列も父母の次である︒
④ 父 母 の 葬 儀 に 当 た っ て ま だ
「未 葬
」の 段 階 で 殯 礼 中
「喪 旁
」で 姦 淫 罪 を 犯 し た 場 合︑ 不 孝 罪 が 適 用 で き る と す る︒ 子 = 夫 な ら
「黥 爲 城 旦 舂
」だ が︑ 妻 は そ の
「次
」だから罪刑は軽減律が適用される︒
⑤姦淫が敖悍に読み換えられて審議される︒ それらを斟酌して︑ ⑥本件の論決理由
「不孝︵並びに︶敖悍の律二章
」の法
令を適用して︑
「弗案校上
」ではあるが︑被告甲は
「完 爲舂
」とする︒ 審議の結果︑不孝罪と姦淫罪の二つの律法によって︑現 行犯逮捕ではないが︑甲は
「當完爲舂
」とし︑杜県の法廷 に 通 告 し︑ 甲 の 刑 を 執 行 さ せ る こ と に し た︵
「不 孝 敖 悍 之 律二章︑捕者雖弗案校上︑甲︑當完爲舂︑告杜論甲
」︶︒ この審議に遅参した廷史申は︑先の論決に疑問を感じ︑ 審議の過程を逐一駁論していく︒この妻が
「居家
」するこ の
「家
」で何が起こったのか︑殯葬された棺は
「堂
」上に あり︑堂の後の
「内
」が︑母素の言う姦淫現場とする︒し かし
「弗案校上
」である以上︑犯罪の立件すらできないは ず︑という主張である︒そして︑確定した事実は︑夫が吏 となり居官︵上番︶中に妻が家居して公士乙と姦通し︑吏 が こ れ を 捕 捉 し よ う と し て で き な か っ た と い う︵
「夫 爲 吏 居官妻居家與公士乙姦吏捕之弗得
」︶︑姦淫罪の立件として は︑捕吏側の失態に過ぎないことになる︒ 初審で県が立件し︑論決に導いた容疑事実は︑例えば︑ 夫が吏となって
「居官
」していて
「家
」は留守︑妻は
「居 家
」し て 夫 の 留 守 宅 で 姦 淫 と 解 し た の に︑
「弗 案 校 上
」で の現行犯で身柄確保できなかったということ︑母素の告訴 によって不孝罪と姦淫罪の二罪で立件審議したが︑衆議も 一致せず疑罪とされ︑廷尉に上申された︑という経過に注 目している︒ 廷 史 申 の 駁 論 の 部 分︑ ① 律 で は 不 孝 は 棄 市 で あ る︒ も し︑父の存命中に食事を三日供しない場合︑吏はその子に どのような論決を下すだろうか︒廷尉殼らは︑棄市に当た る︑と答えた︒もし︑父が死んでいて︑その家で亡父の祠 祀を三日行わなかったら︑子にはどのような論決を下すだ ろ う か︒ 廷 尉 殼 ら は︑ 論 罪 す る に 当 た ら な い と 答 え た︒ ︵
「律曰︑不孝棄市︑有生父而弗食三日︑吏且何以論子︒廷 尉殼等曰︑當棄市︒有曰︑有死父︑不祠其家三日︑子當何 論︒廷尉殼等曰︑不當論
」︶
②また︑存命中の父の教令に聴き従わないものと亡父の 教令に聴き従わないものとくらべて︑どちらが罪は重いだ ろうか︒殼らは︑亡父の教令に聴き従わないものを︑罪す ることはないと答えた︒ ︵
「有子不聽生父敎︑誰與不聽死父 敎罪重︒殼等曰︑不聽死父敎︑毋罪
」︶ ③ も し︑ 夫 の 存 命 中 に
「自 嫁
」︵ 別 の 男 に 嫁 ぐ ︶ す る こ とは︑夫死去してのち
「妻自嫁
」するものの罪とはどちら が重いだろうか︒廷尉殼らは︑夫が生きているのに自ら嫁 ぐとは︑娶るものと併せて皆
「黥爲城旦舂
」とする︒夫が 死んでいて妻が自ら嫁ぐには︑娶るものに罪することはな い と 答 え た︒ ︵
「有 曰︑ 夫 生 而 自 嫁︑ 罪 誰 與 夫 死 而 自 嫁 罪 重︒廷尉殼等曰︑夫生而自嫁︑及取者︑皆黥爲城旦舂︒夫 死而妻自嫁︑取者毋罪
」︶ ④もし生存中に夫を欺すのと︑死んでいる夫を欺すのと
どちらが罪は重いだろうか︒殼らは︑死亡している夫を欺 すことは︑論ずことはないと答えた︒ ︵
「有曰︑欺生夫︑誰 與欺死夫罪重︒殼等曰︑欺死夫︑毋論
」︶ ⑤ も し︑ 夫 が 吏 と し て 居 官 し て お り︑ 妻 が 家 居 し て い て︑ある日ほかの男と姦淫した場合︑吏がこれを逮捕しよ うとして捕獲できず︑どのように論決を下すか︒殼らは︑ 論決するに当たらずと答えた︒ ︵
「有曰︑夫爲吏居官︑妻居 家︑日與它男子奸︑吏捕之弗得︑□之︑何論︒殼等曰︑不 當論
」︶ ⑥では︑廷尉廷史諸君の衆議では皆︑死父を欺す罪は︑ 生夫を侵し欺すより軽くし︑生夫を侵す罪は死父を侵し欺 く よ り 軽 く し て い る︒ ︵ 喪 棺 が 堂 上 に 在 っ て 未 葬 な の に ︶ 与 に 男 子 と 棺 喪 旁 に 姦 通 し た と い う 告 訴 に つ い て︑
「捕 者 弗案校上
」︵現行犯逮捕していない︶のに︑ ただ
「完爲舂
」としている︑この論決は重すぎないだろうか︒殼らは︑誠 に本質を見失った論決だと答えた︒ ︵
「廷尉史議皆以欺死父 罪輕於侵欺生父︑侵生夫罪﹇輕﹈于侵欺死夫︑□□□□□ □□︵喪棺在堂上未葬︶與男子奸棺喪旁︑捕者弗案校上︑ 獨 完 爲 舂︑ 不 亦 重 虖︒ 殼 等 曰︑ 誠 失 之
」︵ ︶ 内 は 考 釈 の 補欠︶ この案例は
「殼等曰︑誠失之
」で終わっており︑場合に よっては︑殼等が審理不十分の罪を問われかねない︒ この案例から︑当時の家もしくは戸が血縁の母子関係に 婚姻によって形成した新たな夫婦関係が絡み合い︑夫の居 官による不在と居家婦の父母との同居であったものが︑夫 の病死をきっかけに︑妻が男子丙に惹かれ︑母が孤立する 状況︑家もしくは戸の崩壊が生じた︒ こうした悲劇の中心に物言わぬ棺が置かれている︒そも そもこれが喪中の事件であること︒ただでさえいろいろな 物語が語られ︑新たな物語が生じる場でもある︒ 喪は
『說 文
』巻二上 吅 部に
「兦 也从哭从 兦 會意亦聲 ﹇息郞 切 ﹈
」と 作 る︒
『說 文 通 訓 定 聲
』で は
『白 虎 通
』の
「人 死 謂 之 喪︒亡不可復見也︒不直言死稱喪者何︒爲孝子之心不忍言 也
」を 引 い て︑ 人 の 死 を 喪 と 言 い︑ 亡 去 し て ま た 相 見 る こ と の な い こ と を 言 う︒ 死 と 言 わ な い で 喪 と 言 う の は 何 故 か ︒喪 失 感 が 満 ち 溢 れ る 孝 子 の 心 を 斟 酌 し て 言 う 語 ら し い ︒
『
廣 韻
』︵ 太 中 祥 符 元 年 刊 ︶ で は
「喪︑ 喪 器 也︒ 今 謂 之 柩
」と あ り︑
『廣 韻
』の 時 代 に は
「喪
」を
「柩
」と 言 っ て いたようだ︒しかし︑案文は
「棺
」字なので︑逆に喪がな ぜ 柩 と 解 さ れ る の か と 疑 念 が 湧 く︒ 喪 は ま た︑
『左 傳
』僖 公九 ︵紀元前六五一︶ 年︑ 宋桓公の
「未葬
」を受けての
「凡 在 喪
」の 言 に 注︵ 杜 預 ︶ し て︑
「在 喪︑ 未 葬 也
」だ か ら と する︒ つまり埋葬以前の柩を正寝︵この場合の堂︶に安置して 置 く 期 間 の こ と と 解 釈 さ れ て い る︒ 遺 体 を 棺︵ 柩 ︶ に 納 め︑埋葬前に近親者と正寝︵堂︶に休まる殯礼期間という
こ と な の で あ ろ う︒ ち な み に︑
『釋 名
』釋 喪 制︵ 後 漢 劉 熙 ︶ に は
「在 牀 曰 尸︑ 在 棺 曰 柩
」と あ り︑
『小 爾 雅
』廣 名 ︵ 時 代 不 確 定 ︶ に も
「空 棺 謂 之 櫬︑ 有 屍 謂 之 柩
」と あ る︒ 遺体は納棺以前は
「尸
」と呼び︑納棺後は
「柩
」と呼ぶ︒ ま た︑ 遺 体 を 納 め て い な い 棺 は
「櫬
」と 呼 び︑
「尸
」を 納 めた棺を
「柩
」と呼んだということである︒ また︑師丹は成帝への上書の中で
「前大行尸柩在堂︑而 官爵臣等以及親屬
」と
「尸柩在堂
」という︵
『漢書
』巻八十 六何武王嘉師丹傳︶ ︒
『左傳
』僖公九年︑宋桓公の
「未葬
」と
「凡在喪
」の関係や︑後漢劉熙の
『釋名
』によって︑納 棺されて殯礼を奉じられていると︑解しておこう︒ 殯礼の期間は︑ 五行志に
「平帝元始元 ︵紀元一︶ 年二月︑ 朔方廣牧女史趙春病死︑斂棺積六日出在棺外︑自言見夫死 父
」︵
『漢書
』巻二十七五行志下之上︶云々と見えることか ら︑庶人の葬礼でも六日以上︑棺は
「堂上
」に安置されて いたようである︒案例二十一ではその最中にこの事件が起 こる︒同様の夫の葬儀中に第三者が妻と姦淫事件を起こす の は︑
『漢 書
』巻 九 十 酷 吏 傳 の 田 廣 明 の 条 に
「喪 柩 在 堂︑ 廣名召其寡妻與姦
」と見えている︒ こ の よ う に 棺︵ 柩 ︶ が 安 置 さ れ る 堂 に つ い て は︑
『書 經
』顧命
「立于西堂
」の鄭注に
「序乃内半以前曰堂
」とあ る︒ ま た
『儀 禮
』士 喪 禮︑
「皆 饌 于 西 序 下 南 上
」部 注 に
「中 以 南︑ 謂 之 堂
」と も あ る︒ 諸 橋 は こ れ ら に よ っ て
「土 を 高 く 盛 り 上 げ て︑ そ の 上 に 家 を い と な み︑ 左 右 の 壁 を 序︑中央以南の平土間で空闊なところを堂︑中央以北の小 部屋でしきった居住の所を室と呼ぶ
」という見解を示して いる︒つまり︑表の道から門戸を開いて中に入ると︑庭が あり︑さらに進んで建物の戸を開けて中に入ると︑そこが 堂なのであろう︒そして︑堂の奥にも戸があり︑その戸の 向こうが内︵寝室︶ということなのであろう︒ 家 の 間 取 り に つ い て は
『睡 虎 地 秦 墓 竹 簡
』「封 診 式
」穴 盜︑ 經 死 の 条 に 示 さ れ る︑ 調 書 風 の 記 述 が 参 考 に な る︒
『睡 虎 地 秦 墓 竹 簡
』所 収
「封 診 式
」封 守 の 条 に は 審 判 に と もなう関係者関係財物の差し押さえ対象物件として︑被疑 者 の
「家 室
」と 称 さ れ︑ 内 容 が 列 挙 さ れ る︒
「有 鞫 者 某 里 士伍甲
」立件された某里に居住する士伍︵無爵の庶人︶の 甲 の
「家 室 妻 子 臣 妾 衣 器 畜 產
」と い う 名 目 で 差 し 押 さ え
「封
」︵
『說 文
』府 容 切 ︶ す と あ り︑ 家 室 を
「甲 室 人 一 宇 二 内 各 有 戶
」と 称 す る︒
「一 宇 二 内
」と は︑
『睡 虎 地 秦 墓 竹 簡
』「封 診 式
」封 守 の 条 の 注 釈 に よ る と
「一 宇 二 内︑ 卽 一 堂二内
」のこと︑内にはそれぞれ戸が設けられて い
﹀5︿
る ︒そ して︑
『漢書
』鼂錯傳︵
『漢書
』巻四十九爰盎鼂錯傳︶から
「家有一堂二内
」を引き︑
「堂 卽 廳堂︑内爲卧室
」と解し︑
「宇
」と は
「堂
」の こ と で︑ 庁 堂 の こ と︑ 遺 体 の 安 置 さ れ た
「堂
」とは︑父子同居の集まるところと解する︒
二 発掘報告から ──棺の形態 秦漢期の同時代遺物については︑雲夢睡虎地秦墓十一号 墓が始皇帝末期と確定でき︑他の墳墓も十一号墓を基準と して秦王国時代から前漢初期にわたるものと比定されてい る︒ 出 土 棺 に つ い て は︑
『睡 虎 地 秦 墓 竹 簡
』出 版 説 明 の
「圖 一 睡 虎 地 十 一 号 墓 棺 内 竹 簡 出 土 状 況︵ 棺 上 部 ︶
」「圖 二 睡 虎 地 十 一 号 墓 棺 内 竹 簡 出 土 状 況︵ 棺 下 部 ︶
」に 発 棺 した状態が二枚の写真で紹介されて い
﹀6︿
る ︒ また︑
『雲夢睡虎地秦墓
』「第一章
葬墓形制 二︑ 墓制
」で は︑ 四 で一覧にしている︒ 棺︑葬式︑備注の八項目に分けて︑大きさをメートル単位 から十四号墓までの方向︑墓口︑墓底︑壁龕等︑木椁︑木 る︒また︑同書一一頁
「附表 墓葬形制登記表
」に三号墓 〇 頁 に わ た っ て さ ら に 詳 し く 紹 介 さ れ て い − 一
木椁の全長は最大で三 ・ 九六m︑最小が二 ・ 九六m︑横幅 が 最 大 一 ・ 八 m︑ 最 小 一 ・ 二 四 m︒ 高 さ は 最 高 一 ・ 五 四 m︑ 最 小 一 ・ 一 m︑ 計 測 不 能 二 件︒ 木 棺 に つ い て は︑ 全 長 の 最 大 が 二 ・ 二 m︑ 最 小 一 ・ 八 m︑ 横 幅 は 最 大 で 一 ・ 四 m︑ 最 小 〇 ・ 五 八 m︑ 高 さ は 最 大 で 〇 ・ 九 四 m︑ 最 小 〇 ・ 五 八 m︑ 計 測不能が二件となっている︒また︑
「第二章
隨葬器物
一︑ 簡牘槪述
」では︑一三頁に
「圖一五 M
11
棺内竹簡等出土 は︑
「一. M 状 況 平 面 圖
」が 紹 介 さ れ て い る︒ 同 書
「圖 版 八︵ Ⅷ ︶
」に
11
竹 簡 出 土 状 況
」と
「二. M
︵局部之一︶
」︑
「圖版九 ︵Ⅸ︶
」には
「二.M
11竹 簡 出 土 状 況 M が為されている︒ 墓制形制では︑七号墓と十一号墓について詳細な紹介記述 の内に長方体箱形の木棺あるいは漆棺が納められていた︒ な似かよっていて︑棺椁の形態も大体一致している︒椁室 各墓はみな一棺一椁の構成で︑棺椁の構造は基本的にみ 掲載されたものよりも鮮明な写真で三点紹介されている︒ ︵ 局 部 之 二 ︶
」が︑ 先 の
「『睡 虎 地 秦 墓 竹 簡
』出 版 説 明
」に
11竹簡出土状況
M いたようである︒ 四㎝と計算できるが︑かなり厚手の木材が用いられて 底板は一七㎝︑左右の側板が二〇㎝︑蓋板と背板が一 六m︒これから用材の厚さが算出できる︒頭上板と足 の 内 壁 は 長 さ 一 ・ 七 八 m︑ 寛 さ 〇 ・ 六 四 m︑ 高 さ 〇 ・ 六 長 さ 二 ・ 一 二 m︑ 寛 さ 一 ・ 〇 四 m︑ 高 さ 〇 ・ 九 四 m︒ 棺 六m︑内に長方体箱形の黒漆木棺が安置される︒棺の
7的椁室︒椁内の棺室は︑長さ二 ・ 三七m︑寛さ一 ・ 一
も う 一 つ︑ 尹 湾 漢 墓 は︑ 六 号 墓 か ら 出 た 竹 簡 木 牘 の 記 値はなし︒ m︑寛さ〇 ・ 七六m︒高さ〇 ・ 七二m︒棺の内側の計測 m︑内に長方体箱形の木棺が安置される︒棺の長さ二
11的 椁 室︒ 椁 内 の 棺 室 は︑ 長 さ 二 ・ 二 六 m︑ 寛 さ 一
述︑特に
「元延二年
」の名を持つ日記 ︵カレンダー︶ の存在 か ら 前 漢 末 期 王 莽 時 代 の 墳 墓 群 と 比 定 さ れ る︒
『尹 灣 漢 墓 簡牘
』所収発掘 報
﹀7︿
告 は六つの墳墓の特徴について詳述して い る が ︑ 出 土 棺 の 計 測 値 を 抽 出 す る と 以 下 の と お り で あ る ︒ 一 号 墓︵ M 二 号 墓︵ M ㎝︑高さ五〇㎝︒ で︑ 外 椁 の 長 さ 二 四 〇 ㎝︒ 残 存 す る 部 分 の 寛 さ 八 〇 ㎝︑棺板の厚さ約一五㎝︒木棺の材質は針葉樹のよう
1︶︒ 棺 の 保 存 は 良 好︒ 内 棺 の 長 さ 約 一 八 五
三 号 墓︵ M さ一二㎝︒ 五 ㎝︑ 尾 部 の 寛 さ 七 〇 ・ 五 ㎝︑ 高 さ 六 七 ㎝︒ 棺 蓋 の 厚 も の が あ っ た︒ 棺 の 長 さ 二 二 三 ㎝︑ 頭 部 の 寛 さ 七 一 ・ 棺で︑出土時は︑棺蓋の上に塗り込めた硃砂のような
2︶︒ 椁 の 内 側 に 棺 が あ る︒ 黒 漆 を 塗 し た 素 四 号 墓︵ M れた模様︒実測値報告なし︒ 焼 後 の 木 灰 が 残 っ て い た︒ 盗 掘 さ れ︑
「開 棺 焚 尸
」さ
3︶︒ 棺 蓋 と 棺 本 体 が 分 離 し た 状 態︒ 所 々 燃
五 号 墓︵ M ㎝前後と推定できる︒ ㎝︑深さ五〇㎝︒この結果から棺材の厚さはほぼ一〇 六 ㎝︑ 高 さ 六 〇 ㎝︒ 内 径 の 長 さ 二 一 〇 ㎝︑ 寛 さ 五 四
4︶︒ 合 葬 墓︒ 北 棺 の 長 さ 二 三 〇 ㎝︑ 寛 さ 七
ぼしい器物はない︒ 南角に三五
×八〇平方㎝の盗洞口がある︒棺内にはめ
5︶︒ 合 葬 墓︒ 棺 の 長 さ 二 三 四 ㎝︒ 北 棺 の 西 六 号 墓︵ M
6
︶︒ 一 椁 二 棺 で 一 足 廂 の 構
8﹀︿
成 ︒ 両 棺 相 距 る こと五〜七㎝︒北︵男︶棺の梢の長さ二二八㎝︑寛さ 七 〇 ・ 五 ㎝︑ 高 さ 不 明︒ 南︵ 女 ︶ 棺 は や や 幅 広 で︑ 長 さ二一九㎝︑寛さ七五㎝︑高さ七一 ・ 五㎝︒ 始皇時代前漢前期の棺と前漢末期の棺とで︑約二〇〇年 間︑ほぼ同じ
「一棺一椁
」の様式が続いている︒尹湾では
「二棺一椁
」という形体も出現している︒ 大体棺の長さは二m弱︑横幅七〇〜八〇㎝︑高さ六〇㎝ 前後︑棺材の厚さは一〇㎝より厚めという把握が可能であ ろ う︒ 棺 材 の 厚 さ に つ い て は︑
『史 記
』『漢 書
』な ど の 記 述 に︑
『墨 子
』の
「桐 棺 三 寸
」︵
「墨 者 亦 尚 堯 舜 道︑ 其 送 死︑ 桐棺三寸
」『史記
』巻一三〇太史公自序︑
「正義 以桐木爲 棺︑厚三寸也
」同注︶という記事が散見することから︑当 時の常識になっていたと思われる︒ 厚さ三寸 ︵約一〇㎝︶ ︑ 結構立派な木材を用立てている︒ 棺 の た め の 用 材 伐 採 に つ い て は︑
『睡 虎 地 秦 墓 竹 簡
』「田
﹀9︿
律
」に 規 定 が 見 ら れ る︒ 春 二 月 か ら 七 月 ま で は 山 林 藪 沢での活動が制限される︒⁝⁝七月になったなら︑これら 許 す︵
「到 七 月 而 縱 之
」︶︒ た だ︑ 幸 な ら ぬ 死 に あ い︑ 棺 槨 のために伐採する者だけは︑ この季節制約を受けない ︵
「唯 不 幸 死 而 伐 綰 享 者 是 不 用 時
」︶ と あ る︒ 文 言 は
『月 令
』の 文体のようで︑王莽時代の
『月令 詔
﹀10︿
條
』の報告に当たって みたが︑確認できなかった︒
さて︑
『張家山二四七號漢墓竹簡
』「二年律令
」所収
「賜 律
」は︑ 吏の葬礼の際の
「賜衣衾棺葬具
」に関わる法規定が ある︒ この
「賜律
」に示される棺の支給規定を見ていこう︒
283
⁝⁝二千石吏不起病者賜衣襦棺及官衣常
㍾四 十 四 淮 南 衡 山 濟 北 王 傳 ︶︒ こ の と き 賜 与 さ れ た 送 葬 具 衣衾葬之肥陵
」『史記
』巻一一八淮南衡山列傳︑
『漢書
』巻 として︑
「棺槨衣衾
」して肥陵に葬った︑とした︵
「爲棺槨 配された開章を隠匿した︒その発覚を恐れて開章を亡き者 このように葬礼に関わる賜与物品は︑淮南王長が指名手
「裳
」字の同音語として仮借される︒ たる賜給はない︒ちなみに︑秦簡漢簡では
「常
」字はよく けて賜与されており︑五百石以下には
「官衣
」の部類に当 棺
」「棺
」の部類と︑
「棺衣常
」「官常
」「官衣
」の部類に分 こ う し て︑ 賜 与 物 品 を 整 理 し て み る と︑
「衣 襦 棺
」「衣 る︒千石から六百石とは一万戸以上の大県県令に当たる︒ 尉 の 在 任 中 の 死 亡 者 に は 居 県 が た だ
「棺
」の み を 賜 給 す 死亡者には居県が
「棺
」および
「官衣
」を︑五百石以下丞 び
「官 常
」︑ つ い で︑ 千 石 か ら 六 百 石 に 至 る 吏 の 在 任 中 の れる︒次のランク︑冒頭から郡尉を指定して
「衣棺
」およ 対策が始まる︒まず
「衣襦棺
」および
「官衣常
」が賜給さ 病気重篤に陥った場合︑官秩二千石吏には︑臨終直前から 官衣五百石以下至丞尉死官者居縣賜棺
284郡尉賜衣棺及官常
㍾千石至六百石
㍾吏死官者居縣賜棺及 は︑
「棺槨衣衾
」として一組となっているようである︒
ま た︑ ︵ 裸 ︶葬 を 主 唱 し た 楊 王 孫 に 対 し て は︑
『孝 經
』を引いて︑送葬に棺槨衣衾を備えるのは︑聖人の遺制だと して︵
「爲之棺槨衣衾︑是亦聖人之遺制
」︶説得し︑皆が正 当と思っている葬礼に従うようにと言う︒このように︑衣 衾 は 史 書 に 葬 儀 葬 礼 に 附 随 す る 必 需 品 と し て 頻 繁 に 登 場 する︒
「賜律
」の葬儀に賜与される
「衣襦棺
」「衣棺
」や
「棺衣 常
」「官常
」「棺衣
」の賜与品目の組み合せの差は︑官秩の 差 等 官 吏 の 位 階 尊 卑 の 差 等 は︑ 為 吏 お よ び 宦 皇 帝 あ る い は︑宦および為吏であったという事実による識別の差等で あって︑二千石宦皇帝の寵臣への賜給と︑在任中の死亡者 に 対 す る 賜 給 と は 内 容 が 違 っ て 当 然 な の か も 知 れ な い︒
「官 衣
」の 賜 給 は 死 者 の 栄 光 を 表 示 す る 意 味 も あ ろ う︒ 棺 に 付 随 し た
「衣 襦
」「衣 常
」は 棺 の 覆 い に 当 た る も の か も 知れない︒棺に着せる衣衾と︑本人の遺体に更衣する衣裳 の違いのようにも考えられる︒ 官 衣 や 官 常︵ 裳 ︶は 後 世 の 号 衣 制 服 の よ う な も の な の だ ろうか︒この官衣について賜律に
「官 衣 は
「縵
11﹀帛 裏 毋 絮
㍾常 一 用 縵 二 丈
」と い う 規 格 が 指 定 さ れ て い る︒
285官衣一用縵六丈四尺
︿」
六 丈 四 尺 で 作 り︑ 帛︵ 絹 素 帛 ︶ の 裏 地︑ 絮 ︵きぬわた︶なしのもの︑常は︑縵二丈の布で 作
﹀12︿
る ︒ そ し て︑
「286
吏 各 循 行 其 部 中
」出 領 域 の 過 不 足︑ 緊 急 事
態を観察して︑対応する︒その流れで︑もし領内に同時に 複数の葬儀を出すことになったら︑その対応として︑
続序列に従って最終的には妻に︑それでも不足の場合︑隸
「後子律
」の規定に従って指定された
「後子
」︑もしくは相 家 室 の 主 人 で あ る は ず で︑ 主 人 父 夫 が 死 去 の 場 合 に は︑ 妻子臣妾の構成になっている︒棺柩の棺を受領するのは︑ 一 室 の 室 は 家 室 の 室 で も あ り︑
「封 診 式
」で は︑ 室 人 は が複数戸︵この可能性は前稿︑夫婦間の 訴
13﹀として算定するところが珍しい︒ の基礎的な想定から被害実体の様相が大きく外れる︒一家 賜給しようというもの︒ここでは︑家や戸でなく室を単位 農夫五口之家
」一夫五口︑五口一家という漢帝国の家︑戸 いる事態では︑県官が一棺を賜給し︑三 肂 であれば二棺を 一 夫 挾 五 口
」と 言 い︑
「食 貨 志
」に 引 用 さ れ た 鼂 錯 の
「今 ことではないか︒一室に二 肂 ︵遺体︶が堂上に安置されて こ れ は︑
「食 貨 志
」所 引 の 李 悝
「盡 地 力
」の 教 で は
「今 之 棺 也
」を 引 く︒ お そ ら く
「肂
」は 同 音 の
「尸︵ 屍 ︶
」の で合計二千銭︑三尸でも全二千銭ということであろう︒ また注釈は
『周禮
』小行人の鄭注
「若今時一室二尸則官與 銭︑五尸でも同じ︒二尸以上︑二尸だと一人当たり一千銭 いか︒ 遺体はまだ納棺されていないのではないだろうか︒ となる︒四尸以上だと一人当たり七百五十銭で合計が三千 流れから︑遺体の
「掘 肂 見衽
」と様相がことなるのではな めに︑一人当たり一律八百三十三銭で︑合計五千銭の賜与 主の過剰な負担分を代わりに賜給するのだから︑賜与への いることは︑棺を用意できていないからと思われ︑そのた 遺体が二体︑あるいは三体が
「在堂
」する場合︑県官は喪 り︑ 一 家 に 六 尸 以 上 の 死 者 が あ る 場 合 に︑
「尸
」で 数 え て を埋め込む縦穴ということでもある︒律文は︑埋葬すべき 尸以上三千︑二尸以上二千
」︵
『漢書
』巻十二平帝紀︶とあ 喪禮
「掘 肂 見衽
」の注では
「肂 ︑埋棺之坎者也
」であり棺 靑州尤甚︑民流亡︒⁝⁝賜死者一家六尸以上葬錢五千︑四 あ る こ と に よ っ て 解 釈 し て い る︒
「肂
」は 同 じ
『儀 禮
』士 の 青 州 水 害 時 の 臨 時 措 置 例 が 目 を 引 く︒
「郡 國 大 旱︑ 蝗︑ 禮
』士喪禮の
「掘 肂 見衽
」の疏に
「肂 ︑訓謂陳尸於坎
」と こうした複数の死亡者が出る場合の規定として︑平帝紀 という規定に続く︒
「二年律令
」の注釈では︑
「肂
」を
『儀 するに十分である︒
288一室二 肂 在堂縣官給一棺
㍾三 肂 在當給二棺 くの犠牲者が出るのは︑室に同居︵同産子︶があると想定 棺を拝受することになるのだろうか︒一室に二尸三尸と多 臣から信頼できる年長者となり︑その者が
「後子
」として
︿
訟 ︶の複合戸で な け れ ば︑ 想 定 で き な い︒
「一 肂
」「二 肂
」と い う 数 え 方 は
「二尸
」「四尸
」「六尸
」と同じと考えてよいのではなかろう か︒一室︑二 肂 三 肂 や一家の六尸という数値をどう捉える か︑今後の課題となろう︒
棺の現物支給については︑平帝紀に
「葬錢
」という現銭 賜 給 が 施 行 さ れ る が︑
「賜 律
」に も
「棺 錢
」と い う 賜 給 規 定も存していた︒
七 級 公 大 夫︑ 六 級 官 大 夫︑ 五 級 大 夫︑ 四 級 不 更︑ 三 級 簪 更︑十一級右庶長︑十級左庶長︑九級五大夫︑八級公乗︑ 造︑ 十 五 級 少 上 造︑ 十 四 級 右 更︑ 十 三 級 中 更︑ 十 二 級 左 内 侯 以 下︑ 十 八 級 大 庶 長︑ 十 七 級 駟 車 庶 長︑ 十 六 級 大 上 級 ご と 六 百 銭︒
「戸 律
」名 田 と 名 宅 の 規 定 に は︑ 十 九 級 関 そ の 場 合︑ 卿 以 上 に は︑ 棺 銭 級 ご と 千 銭︑ 享︵ 椁 銭 ︶︑ 受け取って送葬の場
「家
」へ帰りたいということであろう︒ 持 ち 帰 る︑ と い う こ と︒ 現 物 の 棺 享︵ 椁 ︶で は な く 棺 銭 を 蔡澤列傳︶とも用いられ︑持ち運びできる形態のもので︑ す︵
「此所謂借賊兵︑而齎盜糧者也
」『史記
』巻七十九范睢 世家︶とあり︑また︑これ所謂賊に兵を借りて盗に糧を齎 ︵
「長 男 旣 行︑ 亦 自 私 齎 數 百 金
」『史 記
』巻 四 十 一 越 王 句 踐 のことである︒陶朱公の話しには︑また自ら数百金を齎す る者の場合である︒
「齎
」とは
『說 文
』では
「齎︑ 持遺也
」棺 享︵ 椁 ︶の 賜 給 に 当 た っ て︑
「齎
」を 受 領 し た い と 希 望 す 夫
㍼以下棺錢級六百
㍾享級三百毋爵者棺錢三百
289賜 棺 享 而 欲 受 齎 者 卿 以 上 予 棺 錢 級 千
㍾享 級 六 百
㍾五
褭 ︑二級上造︑一級公士︑無爵公卒士伍庶人︑刑期開けの 司 寇︑ 冤 罪 被 刑 者 の 隠 官 な ど と 序 列 が あ り︑
「卿 以 上
」と
「五大夫以下
」で区切られるので︑
「卿以上
」とは九級爵五 大夫より一等上位の十級左庶長以上ということになろう︒ 棺銭千銭と椁銭六百銭が級ごとに上増しされていく︒ 計算上︑十八級大庶長は基準値を爵十級左庶長で︑齎と して受領できる級ごとの棺銭千銭と椁銭六百銭の︑九倍の 棺銭九千銭︑椁銭五千四百銭︑また関内侯であれば︑棺銭 一万銭︑椁銭六千銭という計算になる︒逆に五大夫以下は 爵一級公士が棺銭六百銭︑椁銭三百銭で級ごとに︑九級五 大夫では棺銭五千四百銭︑椁銭二千七百銭となり︑左庶長 の支給額を超えてしまう︒あるいは︑単純に級数を基準額 に乗すればよいのかも知れない︒そうすれば︑五大夫は棺 銭一万銭︑椁銭六千銭となり︑九級と十級の差がはっきり と出る︒すると十九級関内侯は棺銭二万銭︑椁銭六千銭と なる︒そして無爵の公卒士伍庶人の賜給棺銭額は︑一律三 百銭ということである︒ 蘇 武 は 始 元 六︵ 紀 元 前 八 七 ︶年 春 に︑ 昭 帝 に 謁 し 典 属 国 を 拝 し︑ 秩 中 二 千 石 と な っ た︒ さ ら に こ の 時︑
「賜 錢 二 百 萬︑公田二頃︑宅一區
」が賜与され︑同行の中のその他の 六人は年老ということで帰家が許され︑銭人ごとに十万を 賜 り︑ 終 身 復 除 と な っ た と あ る︵
『漢 書
』巻 五 十 四 李 廣 蘇 建 傳 ︶︒ こ れ で も︑ 律 の 規 定 か ら す る 関 内 侯 の 棺 銭 椁 銭 の 合計よりも大きい︒ 翟方進が自殺したとき︑帝はこれを隠し乗輿や秘器︵宮 梓︶を贈り︑礼賜は丞相送葬の通例とは違っていたという
こ と で︑ 顔 師 古 注 に は
「『漢 舊 儀
』に 丞 相 疾 有 れ ば︑ 皇 帝 法駕もて親しく至り疾を問い︑西門より入る︒ 卽 ち薨して は︑居を第中に し︑車駕もて往き弔ふ︑棺と棺斂の具を 贈り︑錢葬地を賜ふ︒葬日︑公卿已下葬に會す
」︵
『漢書
』巻八十四翟方進傳︶とある︒帝国の宰相として︑国家が送 葬する体制と言っていい︒ 棺享は棺椁もしくは棺槨と同じ︒受齎は
「賜棺槨
」に対 して現銭賜給を希望する場合の規定ということであった︒ 棺と椁とが別立てで金額が設定されていて︑卿以上と五大 夫以下︑そして無爵︵公卒士伍庶人とおそらく隠官司寇も 含む︶と規定する爵制秩序による序列になっている︒ 棺銭については︑哀帝期の河南潁川の水害における救済 措置として︑ 棺銭が人ごとに三千銭を支給されている ︵
「已 遣 光 祿 大 夫 循 行 舉 籍︑ 賜 死 者 棺 錢︑ 人 三 千
」『漢 書
』巻 十 一 哀 帝 紀 ︶︒ こ の 時︑ 被 災 地 に 光 祿 大 夫 が 派 遣 さ れ︑ 直 接 戸籍︵與籍︶による支給対象者選定と賜与実施が行われた と推測できる︒師古注はこの棺銭を
「賜錢三千以充棺
」と 解 し て い る︒
「二 年 律 令
」の 棺 銭 支 給 額 に 比 べ 公 卒 士 伍 庶 人レベルの十倍に高騰していて︑公士の棺銭六百銭︑椁銭 三百銭合計九百銭の三倍強︑爵三級簪 褭 ︵おそらく合計二 千七百銭︶より上ということになる︒棺銭賜給は︑ほかに も地震による罹災死亡者六千余人に対する救済措置として
「賜 死 者 棺 錢
」︵
『漢 書
』巻 七 十 五 眭 兩 夏 侯 京 翼 李 傳 ︶ の 語 が見える︒ そして︑さらに
「賜律
」には︑その他の葬具の需要も忘 れずに︑現物の賜与ができない場合︑金銭に振り替えた賜 与も見える︒
葬儀如何を相談され︑木ぎれを木牘に削り出して疏︵通達 また︑游俠として名を売った原涉は︑貧窮に伴う亡母の 死刑囚たちに刑死後の備えを承知させ安心させたという︒ り︒棺斂とは︑棺と衣とを以て尸を斂むなり
」とあって︑ を告げた︑という話し︒師古は
「調は︑辦じて之を具ふな あらかじめ死刑囚のために棺と葬具を調達して︑そのこと く︑ 死して恨む所なし
」とあり︑ 冬は刑執行の時期なので︑ 棺 を 調 し︑ 給 し て 葬 具 に 斂 し︑ 告 げ て 之 を 語 れ ば︑ 皆 曰 趙廣漢の事として
「冬に至り當に出でて死すに︑豫め爲に が わ か る︒ ま た︑
『漢 書
』巻 七 十 六 趙 尹 韓 張 兩 王 傳 で は︑ め︑之を葬むる
」とあり︑市場で棺衣の購買ができたこと ︵ 弾 劾 ︶ し て 大 司 馬 府 を 去 り︑ 棺 衣 を 買 ひ て 賢 の 尸 を 收 の 遺 体 を
「︵ 董 ︶ 賢 の 厚 く す る 所 吏 の 沛 の 朱 詡︑ 自 ら 劾
『漢 書
』巻 九 十 三 佞 幸 傳 に は︑ 処 罰 さ れ 陳 尸 さ れ た 董 賢 を代替賜与するという規定である︒ 資
「葬 具
」の
「平 賈
」︵ 時 価 ︶︑ つ ま り 市 場 価 格 相 当 額 の 銭 他の葬具物など︶が︑所轄県署に備蓄がない場合︑所定物 賜与することになっている所定の賜与物資︵棺槨衣衾その
290諸當賜官毋其物者以平賈予錢
文︶に作り︑葬儀に必要なものとして衣被棺木︑飯含之物 ︵ 葬 具 の 細 々 と し た も の ︶ を 書 き 付 け︑ 原 涉 に 付 き 従 っ て いる客たちに割り当てた︒諸客は市に奔走して買い求め︑ 日佚︵日昳︑昼過ぎ︶頃には獲物を持ち寄り再集合し︑原 涉が之を検め︑それで主人︵喪の主︶に
「賜
」を受けよと 謂 う︒ そ れ か ら 棺 物 を 載 せ て︑ 賓 客 に 従 っ て 喪 家 に い た り︑ 関連して労来して葬儀 ︵埋葬まで︶ を終了させた ︵
「削 牘爲疏︑具記衣被棺木︑下至飯含之物︑分付諸客︒諸客奔 走市買︑至日昳皆會︒涉親閱視已︑謂主人︑願受賜矣︒旣 共飮食︑涉獨不飽︑乃載棺物︑從賓客往至喪家︑爲棺斂勞 來 畢 葬
」『漢 書
』巻 九 十 二 游 俠 傳 ︶ と い う︒ 貧 窮 の 故 に 葬 儀を挙げられない場合︑公卒士伍司寇隠官までも︑対象者 と し た 送 葬 具 賜 与 で あ る は ず だ が︑ 現 実 は︑ 上 述 の よ う に︑県が賜給する棺槨衣衾葬具は︑市場でも入手可能とい うことであろう︒
三 骸骨は家に帰る ──病免帰家と卒於家
漢 の 高 祖 四︵ 紀 元 前 二 〇 三 ︶年 冬 十 月︵ 歳 首 ︶ の 廣 武 の 会戦で項羽から受けた矢傷が癒えた八月︑従軍して戦没し た者たちの遺体に
「衣衾棺斂
」し︑それぞれの家に帰還さ せるよう︑死喪の転送を行うよう吏に命じる︒ ︵ 四 年 八 月 ︶ 初 爲 算 賦︒ 北 貉 燕 人 來 致 梟 騎 助 漢︒ 漢 王 下令︑軍士不幸死者︑吏爲衣衾棺斂︑轉送其家︒四方 歸心焉︒ ︵
『漢書
』巻一上高帝紀︶ こ の 記 事 と 次 の 八︵ 紀 元 前 一 九 九 ︶年 十 一 月 令 は︑
『史 記
』高祖本紀には採録されていない︒四年八月令の末文
「四方 帰 心
」と は︑
『呂 氏 春 秋
』孟 冬 紀
「異 用
」に 登 場 す る 周 文 王の故事に習ったものと思われる︒ す な わ ち︑ 池 浚 い を し て い て 遺 体 を 得 た︵
「周 文 王 使 人
抇 池︑ 得 死 人 之 骸
」︶ 吏 が 文 王 に 伺 い を 立 て た と こ ろ︑ 文 王 は 之 を
「更 葬
」せ よ と 答 え る︵
「吏 以 聞 於 文 王︑ 文 王 曰︑更葬之
」︶︒吏の言い分は︑この骸は祭るべき主が無い のではないか︵
「吏曰︑此無主矣
」︶と答える︒これに対し て文王は︑天下を有つ者は︑天下の主である︒一国を有す る者は︑一国の主である︒たとえば今の私はそのような主 ではないのかと言い︑すぐに吏に命じて骸を棺に納棺し︑ 更 葬 さ せ た の で あ る︵
「文 王 曰︑ 有 天 下 者︑ 天 下 之 主 也︒ 有一國者︑一國之主也︒今我非其主也︒遂令吏以衣棺更葬 之
」︶︒ この遺体は今日の︑行旅死亡人のように扱われ︑秦漢律 で言う定名事里のない者︑あるいは失った者で︑処置方に 困る存在︒遺体を回収して更葬せよと言われても︑遺体の 帰属が明らかでないので︑祭主も立てられず︑引き取り手 のない代物︒そこで︑文王は遺体の
「主
」とは誰であるか を論じて︑国主である自分︵文王︶こそが更葬の主である
こ と を 説 き 明 か し︑ 吏 に 葬 儀 を 進 め さ せ た と い う の で あ る︒ここで言う
「更葬
」とは︑収棺斂喪した棺柩に納まっ た尸喪を取り出して︑改めて衣衾棺を着せ替えること︒普 通 で あ れ ば︑ 取 り 出 し た 遺 体 に 新 た な 葬 具 陪 葬 品 を 添 え て︑ そ の ま ま︑ 棺 斂 し 直 し 墓 肂 に 下 棺︵ 墓 穴 に 棺 を 下 ろ す︶して舗覆するのである︒ こうして無縁の骸骨を埋葬したので︑天下の人々はこれ を耳にすると︑文王は賢なるかな︑文王の恩沢は 髊 骨にま で及ぶのか︵
「文王賢矣︒澤及 髊 骨
」︶と称するようになっ た︒ 宝 を 得 た そ の こ と が そ の 国 を 危 う く す る︵
「或 得 寳 以 其 危 國
」︶ と い う の は よ く あ る こ と な の に︑ 文 王 は 汚 骨 を 得て︑望み求める民意に応えた︵
「文王得汚骨以喩其意
」︶ ということであろう︒だから聖人には物において
「不材
」︵ 適 わ ぬ ︶ と い う こ と が な い︵
「故 聖 人 於 物 也 無 不 材
」︶ と 言い納 め
﹀14︿
る ︒ 漢高祖は四年八月令で末文に
「四方歸心
」に触れている の で︑ 文 王 の こ の よ う な 故 事 を 礎 石 に し て い る の で あ ろ う︒ と に か く︑ 遺 体 に は 帰 属 す る
「主
」が あ る︑ そ れ が
「家
」で あ り︑ た め に
「衣 衾 棺 斂
」し て 転 送 し て︑ そ の 主
「家
」に帰す︒
そして︑八年十一月の条では︑ 十一月︑令士卒從軍死者爲槥︑歸其縣︑縣給衣衾棺葬 具︑祠以少牢︑長吏視葬︒ と下命している︒比較すると︑四年八月令では︑戦場で回 収した遺体を吏が
「爲衣衾棺斂
」してその家に転送すると いう規定であった︒しかし︑八年十一月令では︑遺体の回 収地で︑
「士卒從軍死者
」に槥に斂喪して︵
「爲槥
」︶︑柩に 仕立て︑その県に帰す︒葬喪が到着したら︑その家を所轄 する県官が
「衣衾棺喪具
」を支給することになっている︒ そ し て︑
「祠
」︵ お そ ら く 家 祠︑
「封 診 式
」毒 言 に 見 え る 家 祠︶に小牢を奉献し︑家葬の最終段階になる葬送引棺して 埋 葬 す る 段 に は︑ 県 長 吏 が 立 ち 会 う こ と に す る︒
「爲 衣 衾 棺斂
」は師古注では
「與作衣衾而斂尸於棺
」としている︒ 一 緒 に 遺 体 に 衾 を 作 衣 せ て︵
「與 作 衣 衾
」︶︑ 遺 体 を 棺 に 収 斂する︵
「斂尸於棺
」︶こと︒ 十一月令の方は︑臣瓚と師古が注解を示している︒臣瓚 は︑初めに槥によって尸を家に送り届け︑県官で再度棺衣 を 供 給 し︑ 遺 体 を 納 棺 し 直 す こ と︵
「初 以 槥 致 其 尸 於 家︑ 縣 官 更 給 棺 衣 更 斂 之 也
」︶︑
「金 布 令
」で は 幸 な ら ぬ 死 に 方 をした者は︑死所に櫝を作り︑伝︵傳車逓送︶によって居 家 の あ る 県 に 帰 ら せ︑ 衣 棺 を 賜 与 す る︵
「金 布 令 曰︑ 不 幸 死︑ 死 所 爲 櫝 傳 歸 所 居 縣︑ 賜 以 衣 棺 也
」︶ と い う︒ こ の
「金布令
」は失われていて︑
「雲夢秦簡
」や
「二年律令
」に も採録されない︒ この
「櫝
」は︑ 槥に用いるものとして用意される︒
「櫝
」は
『史 記
』『漢 書
』で は 確 認 で き ず︑ 三 国 以 降 に 主 流 と
なった語かもしれない︒師古は︑初め槥櫝に仕立て︑県に 着いてから改めて棺と衣とを賜給し︑必要な葬具を備える という意味︵
「初爲槥櫝︑至縣更給衣及棺︑備其葬具耳
」︶ とする︒臣瓚も︑師古も八年十一月令では︑初めに現地で 遺体を棺︑この場合は槥︵櫝︶に納め︑死者の居家のある 県に至ったら︑改めて衣と棺とを賜給し直し︑埋葬に必要 な葬具を整える︑と言っているに過ぎない︒ 臣瓚だと槥から棺の更葬︑師古だと槥櫝から棺への更葬 であり︑臣瓚の槥は︑師古だと槥の櫝とも考えられ︑槥が さ ら に 分 異 し 区 別 さ れ て い る よ う だ︒ 臣 瓚 と 師 古 は と も に︑槥や槥櫝と棺とは違うものと見ているようである︒槥 や槥櫝は伝送に適した形︑棺は 肂 ︵墓穴︶に下ろす埋葬用 の棺︒そして︑槥を小棺と解するのは︑尸を運搬に適した 大きさの槥や槥櫝に詰め込むからで︑県で賜給する埋葬用 の棺に移し替えて斂葬をやり直すのが当時の常識だったの かも知れない︒ 出 土 文 物 で は
『張 家 山 二 四 七 號 漢 墓 竹 簡
』「二 年 律 令
」津関令に︑
くは県丞の印鑑で封印する︒これは文書の逓送封緘と同じ 納棺地の県官の所管が謹視︵厳重な検問︶して︑県令もし と見えていて︑納棺した帰家送葬の櫝槥︵棺︶に対して︑ 章告關 完封出勿索櫝槥中有禁物視收斂及封
二 501縣道各屬所官謹視收斂毋禁物以令若丞印封櫝槥以印 封緘を見て︑受領報告︵通過報告︶を す
15﹀である︒以後県次︵旅程順の県ごと︶に担当の吏が櫝槥の
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る ︒だから通過す る県はただ封緘の検︵封緘の印︶だけを見て中を検めない ことにする︒ これが
「二年律令
」の時代の用例である︒この槥もしく は 櫝 槥 の 語 は
『史 記
』高 祖 本 紀 に は 見 え な い︒
『漢 書
』高 帝紀に
「槥
」字が登場するのは︑この津関令の記述を前提 に採録したということなのか︒班氏父子はこのような法文 の槥字用例を見ていたのかも知れ な
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い ︒ 建 始 四︵ 紀 元 前 二 九 ︶年 か ら 河 平 元︵ 紀 元 前 二 八 ︶年 に か けて︑黄河下流域の東郡で堤防が決壊して洪水が発生︑そ の 河 平 四︵ 紀 元 前 二 五 ︶年︑ そ の 後 の 視 察 で 確 認 さ れ た 被 災死亡者のうち自前で埋葬できない者について︑郡国が槥 櫝を賜給して埋葬させる︒すでに葬った者には︑葬銭人ご と に 二 千 銭 を 与 え る︵
「其 爲 水 所 流 壓 死︑ 不 能 自 葬︑ 令 郡 國 給 槥 櫝 葬 埋︒ 已 葬 者 與 錢 人 二 千
」『漢 書
』巻 十 成 帝 紀 ︶ 施策をとっている︒罹災から四年目になっているはずで︑ こ の 間 何 の 支 援 も さ れ な か っ た と は 思 え な い が︑ 遅 す ぎ る 対策である︒ 槥櫝は棺としては小さく︑転送用の便に傾斜した棺のは ず︒これを賜給して斂葬し埋葬するということであるらし い︒二千銭が葬銭であるならば平帝紀のものより低い︒棺 銭椁銭総計なら二級上造より多い︑という程度である︒
今 ま で 見 て き た 遺 体 を 納 め る 葬 具︑ 直 接 尸 を 納 め る 棺 は︑空だと櫬と呼ばれ︑尸を納めると柩と呼ばれ︑また遺 体を帰郷帰家の用に用いられて槥または槥櫝と呼ばれた︒ ともに小棺とされる︒そして更葬の後︑堂に安置されるの も棺︑殯礼を受けて野辺送りに棺を載せた棺車を親族が引 き︵
「『禮記
』曰︑唯祭宗廟社稷︑爲越紼而行事︵李奇曰引 棺 車 謂 之 紼 ︶
」︶︑ 墓 穴 に 下 棺 し て︑ 埋 葬 す る の も 棺 と い う ことである︒ ま た︑ 棺 の 別 称 と し て 東 園 秘 器︵
「及 至 東 園 祕 器︑ 珠 襦 玉 柙︑ 豫 以 賜 賢︑ 無 不 備 具
」︵ 師 古 曰
「東 園 署 名 也︒ 漢 舊 儀 云 東 園 祕 器 作 棺 梓︑ 素 木 長 二 丈︑ 崇 廣 四 尺
」『漢 書
』巻 九十三佞幸傳董賢︶ ︶があり︑また梓宮︵
『漢書
』巻六十八 霍光傳に霍光の国葬のような葬儀に登場する︒師古曰
「以 梓 木 爲 之︑ 親 身 之 棺 也︒ 爲 天 子 制︑ 故 亦 稱 梓 宮
」︶ と も 呼 ばれるものもあった︒主に皇室内での葬送に用いられたの であろう︒東園秘器や梓宮の名が︑前漢末平帝哀帝ころの 紀伝に︑功臣寵臣への下賜品として工官製皇室御用の金銀 彝 器 衣 衾 な ど と と も に 見 え る︵ 前 掲 董 賢 ︶︒ そ し て こ の 時 期︑ 宣 帝 以 後︑ 特 に 平 帝 期 前 後 が 多 い よ う だ が︑
『敦 煌 懸 泉 地 漢 簡
』に も 敦 煌 近 辺 で の 出 土 簡 に︑
「槥
」字 の 異 体 が 採録されて い
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