盛 岡 市 の 都 市 構 造
石 川 育 子
1 . 序
盛岡市 は岩 手県のほほ 中央 にあ b東北本線の通 る交通上 の要地 に位置 してい る
.地 形的 には西
に奥 羽山脈、東 に北上 山地 と商流す る北上川 と雫 石川、中津川が合流す る所 にある
。盛 岡は江戸 時代 城 下町 と して栄 え明治以後 は岩手県 の県庁所在地 にな れ 岩手県の行政経済 の中心 と して発展 して い る
o昭和49 年の人 口は約 21 万人 で人 口増加 は年 々著 しい.
地方 の中都市 で川 と森 に囲まれた盛 岡市 の発展拡大 した要因 とそ の機能 分化 をみ る ことを B的 と し、歴史的l Z発展過程か ら地域分化 が どの ようになされたか を考察 したho
2 . 市衝構造 の賓化
盛岡の都市 形成は慶長 2 年 ( 15 97 在
)VCiヒ上
川、雫石川、 中津川が合流す る地
に養老 抱 南
部 家 26 代信直が築城 した E. とに始まる
.盛岡城 を中心 とす る諸士 小路や職人屋敷、町民衝 は慶長 1 0 年前後 にひ と通 b出来上 った ら しく中津川 に上 の橋 、中の橋 がか け られ東西 の交通が 良 くを つ った
。盛 岡城 は 中津川の
川北 につ くられ河南地 区戯 与 ばれ中津川 に よって二分され北上川西 岸 に 衝 はのぴてい ったO
寛文 10 年 ( 1a7 8年
)に大洪水が あ D、中津 川の橋 な どが流失 し南部藩 は北上古川の 曲流 部 分 を新築地 で しめ きb新た に川を掘 b流路 を変え る工 事 を した.流路 の変更 に よって生 じた厨 川村 の大沢 川原 や菜園が城下 に編入 され新 しい町がで きた.江戸時代 の町民衝 は 内丸 出入 口で第‑ の市 街 は京町 で後本町 と改名 した。
城下 は火災 に も悩 まされ文化 5 年 ( 1 8 06 年 )の大火後 に城下 の町名を変更 して諸士 町 と町人 町 を区分 したぐ江戸中期 の城下町 の地域 区分は 内丸 に御家門方や重臣方 の御用 屋敷が設置 され上 田 ' 」 、 路 、大清水/ 」 、 路 、仁王′ J 、 路 には武家屋敦が、肴町、穀町、材木町 な どには町人町 を、下′ 」 、 路 、 内 加 賀野 、馬場 町 には下級武士 屋敷 を、仙北鹿町、上 田組丁 には足草 を設置 して防衛上城下 の守 bを 固 めた.寺 院は外周の北 山周辺 と寺 の下 に配 した.
明治時代 にな れ 没落 した武士は帰農化 し郊外 に入植 したO 明治 2 1 年、市 制並 びに町村 制の公 布 に よb明治 22 年 に盛 岡. %中心 に 9 村が合併 し人 口 2 万 9 千人の盛岡市が誕 生 したOそ の後合併
を くb返 し現在人 口は 2 1 万人 を こえた.
明治 25年 に東北本港が盛 岡まで開通 した.鉄 道開通以前の交通路 は北上川 の舟運 で あ D、幹凄 道 路 は陸羽街道 を北 進 して上 田をへ て北方 に向か うもので仙北 町が南の玄 関であ った.鉄道開通 で 新 設の駅 を北上 川をへ だてた所 に作 つえので従来市 の背面 とな っていた所が 正面に
をb交 通体 系が 変 った.駅前通
Dに商店街が 形成 されて きた. 盛岡城跡は 明治
5 9年に岩手公園 と して開園 した0
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明治 ・大正 ・昭和前期 の商店街 は本町、肴町、材木町、呉 服町が中心であ った。
昭和期に入 ると大正期までたんほであ った菜園を埋立 て現在の大通 b商店街の基礎が作 られた.
菜園は藩軟期の北上川の河川変更に よって生 じた広大 を地域 であ b田であ ったが昭和 2 重南部土地 株 式会社が菜園埋立ての仕事 を し、昭和 5 年に完了 した.菜園埋立てで大通 b商店街ができた。 患 家地区、加賀野地区 も区画整理 され住宅街 に浸 った。
第 2次大戦中か ら現在まで市街構造に加え られた主を変化 は盛岡駅前の戦災及び復興、青 山町の 出現発展、東大通 Dの開通を どである.昭和
2口年 5月に盛岡は初めての空襲 を駅前方面
にうけ21年 に戦災都市 に指定され盛岡駅前を整備 した.駅前広場や駅前地下道がで きたO戦後、樺太か らの 引揚者が青 山町の 旧軍施 設に収容 され人 口増が著 しくこ
こに青 山町が誕 生 した.商店街が形成され 住宅地区に浸 ってい る。 又、岩手公園の亀が池が埋立て られ東大通 Dが でき、盛岡駅か ら大通 9、
中の橋肴町方 面が直結 された。
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