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「実践智」としての看護ケアを問 う

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■弘前大学哲学会 ( 論文)

「 実践智」としての看護ケアを問 う

‑バイオ世紀に向かって看護のアイデンテ ィテ ィの構築を目指 して一

石 崎 智 子

Ⅰ 本論の主題

近代幽洋医学あるいは生物科学を基礎 とした医療技術の急速な進歩 とその具現により, 医療現場は急激な変化を星 している. これまでのような 「 人体」の修理や代替的な医療行 為ではな く, 「 臓器」 とい う部品の交換あるいは 「 生命」の操作 とい うよ うなバイオテク ノロジーが進歩 ・発展 してきている.また,医療技術が高度に発展するにつれ,医療の現 場は多様化 ・多極化 し,様々な職種の人々が関わ りを持つ ようになってきた. これか らの 医療は,医師中心の医療ではな く,クライエン トのニーズに応 じて,それぞれに関係する 専門職者で編成 された医療チーム として機能することが求められている.更に,医療は人 間の健康に関与する職種であるが,その役割を見た場合, これまでの病院 とい う施設内に おける医療に止まらず,地域社会における疾病予防 としての保健,更には福祉 との連携が 重要視 されてきている.つま り,保健 ・医療 ・福祉の連携の整備が必須である.

一方,検査 ・治療等に関す る医療情報の開示あるいは I L l己決定権,プライバシーの保護 等,医療の受け手であるクライエン トの意識にも大きな変革が生 じてきている.それは, 急速に進歩する科学技術‑の不安感や医療に対する不信感か ら,派生 しているものもあろ う. この意識の変化は,現代社会において 日常生活を営む人々が, 自らのあるいは家族の,

「 生 」 と 「 死 」 に対する意識を高揚 し始めている兆 しであると言える.

新たなる世紀を迎え, これ までのような医療者,特に医師中心の医療のあ り方に対 して, 様々な問題が顕在化 しは じめ,クライエン ト中心のあるいは 「 いのち」を大切に した医療 の,あるべき姿が模索 されているのである. このよ うな医療界において, 「 実践智」 とし ての看護を,一つの実践科学 として体系化 し,新たなる時代に即 した本質を再構築するこ とが急がれるのである.そこで, これまで 「 看護」が担 ってきた役割を見直し, これか ら 訪れ る医療の新たな体系を見据え,その中における 「 看護」のアイデンテ ィティを確立 し ようとする試みの一つが本論文である.

Ⅱ 「 バイオ世紀」の到来

2 0世紀を振 り返 り,多田富雄 1) は, 「 2 0世紀最大の科学的発見 といえば,量 子力学,相

対性原理,DNAの二重 らせん構造 とい うことに異論はないであろ う.いずれ も科学にお

(2)

ける基本理念を覆す人事件であった とr ' ・ lI 時に,科学J l i L 憩 として も, 世界観を変革 し人「 L H存 在に対す る見解 を変 えた とい う点で共通の重 さを侍 っている. 」 と述べている.特 にDN Aについては ,1 9 5 3 年 に発表 されたDNAの 二 重 らせん構造モデルは,その後の/ f : . 命に 対 する概念を 一 変 させ, しか も,人間そのものが DNA暗 号の翻訳によって存在 しているこ とが解明 された現在,2 01 叶紀初頭に神が失墜 した後の代替え として 「 創造主DNA」が登 場 してきたのだ とい う思想的,哲学的インパ ク トの人きさを指摘 している.

現在,地球規模で行われているヒ トゲノム解析計 L 1‑ は,2 0 0 3 / L 円こは終 /す るといわれて いたが,2 0 0 0 年 6 月末には, ほぼ解明された とい う報道があった.今後は ,明 らかになっ たゲノムの構造 とその機能,病気 との関係が クロ‑ズア ップ され ることになる.ゲノム解 析後の課題は,それ をいかに清川す るかである.2 01 0 年を想定 した医療技術の現状につい て ,高 久史 麿2 )は 「 医学の 立場か ら言 うと,病気の診断,治療 に利用す る時代に入って く る.そ うい う

味では,がんをは じめ病気の診断基準が,ずいぶん変わ って くる と思いま す. しか し , 2 01 0 年にがんを克服す ることができるか とい うと,まだ まだむずか しいで しょ うね. 」 と 語 っている. また,ゲノム解析 によ り,特 に,牛沼習慣病やがん等その人が将 来起 こす ことになっている病気に対 しては, / 卜活を改善することによって,発病 前に刊妨 できることも 考 え られ る. 一 方で, 「 あなたは〇歳 に発病 します.あなたの命は〇年です」

と砂時 計 のごとくに,人/ 卜の予定が明 らかにされ る時代がや って こない とも限 らない.人々 は,その時, ど う対処するのであろ うか.医療現場における生命科学技術の実用化の代表 としては,生殖補肋医療があげ られ る.体外受精を初め として,出生前診断や着床前診断 等枚挙にい とまがない.人間の 「 ′ ト」 へ の欲望は果て しな く, 「 ′ 卜命研究」への好奇心に 相弔をかけている.

以 卜のよ うな状況は, まさに 「 バイオ世紀」の幕開けを示唆するものであ り, これ まで の,受け身の医療ではな く, クライエ ン ト臼らが, しか も I : ̲ 体的に,医療に参L 由 了 しよ うと す る行為の始ま りを意味す るものである.

これか らや って くる 「 ′ L : . 命科学の世紀」 と言える 「 バイオ世紀」は,遺イ 云7・ を通 してみ る人間の理解であ り,バイオテ クノロジーをは じめ とする医療技術はよ り専門分化 され, その技術によって,生命が操作 され る存在 となる社会がや って くることは,間違いのない 事実であろ う.それが,典に全人類に大きな恩恵を与え,入朝に幸せを もた らす ものにな るよう, 人々は,新 しい技術の実際 と正 しい事実を知る努 力を しなければな らない とい う ことである.つ ま りは,今以 l 二 に, 「 生命 とは何か」 とい う現代哲学的な問いに対峠 し,

「 人l 射 【 二 会に とって, イ H J が 善であ り,幸福であるのか」 とい う」二 命倫理学的立場か ら, バ イオテ クノロジー とそ こにF i ・ 1 わる人々の行為を見守ることが,重要である とい うことを.

経済学首であ り社会思想家 とも言われる内田義

彦 ニ1)

は,現代社会 を次の ように表現 して

いる . 「 私 は,看護人的状況 とい う言葉で,職 業の如何を 問 わず,科学 と人間の柵魁を感 じ,

克服せ ざるを得ない現代の人 刷 的状況を表現 したい」と. これは,看護のアイデンテ ィテ ィ

を求める者に とっては,実に興味深いことである.換言す るな らば, これは,21 世紀 にお

ける 「 人惜j 」 としての/ 1 : . き J J A を問 うことで もある.更に, これか らの人間社会における生

(3)

き j J ‑ E こ

,

「 右裾」 とい うあ り j 7 ‑ が,かな り窮要な意I I j i を含んでいる と

7

う ● うことでもある.

科学技術の高度化 ・ 細分化の進展は, J J l l 速J E' r I ' . J に速 ま‑ )ている. この よう な社会にあっ て,哲学や倫岬学が允 F l す る場面が急速に脚 え, 柔軟で多 j r H的な視点に立 っての判断をH 佼す る とい う 役割が求め られている.医療現場においては,石 推 Eとして 「 茄

」の , 類

.価

を問わなければならないのであ り, f J ' ・ 誰酔 、 ; I : あ るいはTT 推愉珊学 とい う学 r H l 体系を基に,

「 看護のアイデンティテ

」の再構築が追 っているのである.

Ⅲ 「 看護」が抱 える課題

木論 文がf 馴ヂている課鮎 のそ もそ もの出発点は , 「 弔推」に対す る

存/

1 ・ . 意義に危機感 を 懐 いてきた ところにある.石蕗学 / +' . に対 して, 「 f l ‑ ・ 護 とは」 を概. i f i す る際

,

単なる " ′ I : . 机 の援助"だ けでは済 ま されない現実が , r l

前 にト. 人な嘩 とな って立ちはだか っていたので ある.臨J Lにおける現尖r l / Jな右裾の役割の E 3 ‑ ) 項 ま,"診療の補助"に取って変わ り ,木 米 の 「 看讃ケア」は,他の職種の出現に よ り , スリム化の 名の 卜に代行 さ れ てきていた.例 えば,a. ・ ; ) 末においては,ベ ッ ドサイ ド における リハビ リテーションTj ・ 誰 よ りも ,王 牡1 ; I : 療法 ( ・ ,作業療法」 = ,視能訓練 十あるいは 言 語聴覚上等が,専I ' r J の療法室において, クライエ ン ト が R l ' ( . 的な 「 ]常仕法動作を回復 .拡大 しようとす る能 ) ) ‑働 きかけるよ うになった.

また,臨床心即 L ・ ,臨床薬剤帥や管甥栄 遵 1 ̲ ・ が,ベ ッ ド サ イ ド に赴 くよ うになってきた.

地域 においては,保健婦の所動 よ りも ,在宅介. i Cが上盤な イ 立 隈t を l l T ' め始めるよ うにな り ,

l l ' i i ; ; ' f ・ ‑ . 活の援助井 として,介誰袖祉 ̲ Lや ‑ルパーが人的に多 くをJ l A めるようになってきて いる.その様な現状に対 して,私 は 「 看護T. 葱消 失論」な どとい う言葉を用いて,Ti ・ . 確の 役割が, ・ つひ と つ別の職稚‑ と移諾 持され ていき,その うち 「 肴讃」が消滅 して しま うの ではないか と考 えていた.そ こで,現イ L i のr 尖 癖現坂 を通 し て , 「 看護の木n { 1 . 」を r l J jらか に

しなければな らない と 考 えたのである.

そ こで,現在定義づ けられ ている 「 看鹿」の概念 について,傑 出的視点か らの見 I I J l 二 しと 共に,その共催 となっている近代看護の創始者であるフロー レンス ・ナイチンゲールの贋 作鮎のなかか ら, 「 fi ・

」の 原 ! . L i を探 ってみ る.

1 9 5 0 年 に , t J l : 肘 呆健機関 ( w o r l d He a l t hO r g a n i z a t i on ) が , 鮎′ J tし た 「 看護の機能」に よ る肴超業務の止題は , 「 地区の看超の必要性をみ たす ところの総合的な保健組織の ・

」 1 )

であ り,その十. なる目的 は , 「 疾病 7 , 防 と 健康脚進 に必要なナー シング ・ケアであ り ,忠 者の要求す るナーシング ・ケア とは,忠‑ &・ の精神的,肉体的慰安や 患 者を苦 しめているそ の原凶に関心 を持つ こ と等である. 看護は患 宵の総合的ケアの

部にすぎない」 1 ) としてい る. つ ま り , 「 看護」の関心は , r 看誰ケア」の受け 手であるクライエン トのニーズにあ り,人々 の総合的ケアをわ便する保健組織の 一 部である と 「 右裾」を付擬づ けている.

我が国では,1 9 4 8 年に 『 保健婦助塵柑看, #婦法 ( 以 f I , 保助Tl ' ・ 法 と略す ) 』が制定 さ れ,

それぞれの看護職種が, 次のよ う に規定 された.

(4)

【 保助看法による看護職の規定】

第 2条 この法律において, 「 保健婦 」 とは,厚 生大臣の免許 を受 けて,保健婦の 名称を用いて,保健指導に従事することを業 とす る女子をい う.

第 3 条 この法律において, 「 助産婦 」 とは,厚 生大臣の免許 を受 けて,助産, ま たは妊婦, じょく婦, もしくは新生児の保健指導をなす ことを業 とする女 √ をい う.

第 5 条 この法律において , 「 看護婦」とは,厚生人臣の免許を受けて,傷病 者,も しくは じょく婦 に対す る療養上の世話,あるいは診療の補助をなす ことを業 とす る女子をい う.

第 6 条 この法律において , 「 准看護婦」とは,都道府県知事の免許を受 けて,医師, 歯科医師, または看護婦の指示を受けて,第 5 条の規定の業を行 う女 √ ・ をい

う.

男子の看護職 としては,看護十及び保健土 と名称す ることが,別条項 として規定 されて いる,看護 l 二 は 1 9 6 8 年か ら ,1 9 9 3 年には保健 士が,それぞれ従事 している.更には,男女 共同参 幽社 会の実現 に向けて, r l本看護協会を中心 とす る各種看護職能団体が共同 して, 看護職の 「 惟別による相違をな くす名称の統 ▲ 」のための運動 を続 けてきた。その結果, 平成 1 3 年 1 2 j j に 「 保健婦助産婦看護婦法の

部を改正する法律」が公布 され,平成 1 4 年 3 J 1 1 日よ り,保健婦 ( 上 ) ,助産婦,看護婦 ( 士)及び准看護婦 ( 上)の名称が,それぞ れ保健師,助J 別 巾,看護帥及び准看護師に改め られ ることにな った。ただ し, 「 助産婦の 業を行 う男性のr q家資格化 」 に関 しては,今 回 提案 されていないため、今後は専門職者や 国民の広い議論や検討が必要である。

何れ に して も, この法律規定のなかにおいては,業務規定は明示 されてはいるが, 「 看 護 とは 何 か」を本質的に呈示 してはいない.そ こで ,1 9 7 3 年に行われた看護制度の改善に 伴い,日本看護協会 ( Ja pa n e s eNur s i n gAs s oc i a t i on 「 以下, JNA と略す 」) では , 「 看護」

を,次のように定義 5 )している.

JNA による 「 看護」の定義

看護 とは,健康のあ らゆるレベルにおいて個人が健康的に正常な 日常生活ができ るよ うに援助することであ り, この場合の健康のあ らゆるレベルにおける援助 とい うのは,健康危険,健康破綻,健康

復な どの健康の どのレベルにおいて も,対象 となる人がそれ まで持ち続けていた生活の リズム ( 健康な状態)にまで整 える とい うことである.

看護 と他のチーム メンバー とは対象 とのかかわ り方に区別 され る ものがある.看

護婦 と対象 との関係はある[ 川勺をめざ して両者が協同 してい く相互作用 の過程であ

る. この過程でめざ しているものは,対象の (自助力)‑のはた らきかけであ り,

それは直接的なケアである.

(5)

lCNによる 「 看護」の定義

看護は,‑ルスケア ・システムの欠 くことのできない 一 部分 として,あ らゆる‑

ルスケアの場お よび社会 において,健康の増進,疾病の J T J 防お よび身体的精神的に 健康でない,あるいは障害のない,あ らゆる年齢の人々のためのケアを包含す る.

この広い範囲の‑ル スケアにおいて,看護婦に とって とくに関心のある現象は,個 人,家族お よび集 団 の 「 現にある,あるいはこれか ら起 こるであろ う健康 卜の問題 に対す る反応」( ANA,1 9 8 0)である. これ らの人 間 の反応は,個々人の発病に対 す る健康l L ] J 復の反作用か ら,ある地域住民の長期の健康促進のための政策開発にま での広範囲にわたる.

病気あるいは健康な人をケアす るにあたっての看護婦の独 白の機能 とは,彼 らの 健康状態に対す る彼 らの反応を査定 し,彼 らが もし必要な力,意志あるいは知識を もっていれば援助 されな くて も行えるであろ う健康あるいは回復あるいは尊厳ある 死に資す るこれ らの行為の遂行を援助す ること,そ して彼 らができるだ け早期に部 分的あるいは全面的な ∩立を得 るのを援助す る とい うや り方でそれ を行 うことであ る ( ‑ ンダー ソン,1 9 7 7) .全体的なヘル スケア環境のなかにあって ,看 護婦は他の 保健専門職者お よび他の公共サービス部門の人々 とともに,健康増進,疾病予防お よび病l j t t t お よび障害のある人々‑のケアのための保健 制 度の妥 当性 を確保するため の計画 立案,実施,評価 とい う機能を共に遂行す る.

「 看護」の概念に関 しては,世界的に種々論議 されてきた,そのなかで,現在, 「 看護」

の概念 として,世 界各国に共通す るものは,1 98 7 年に開催 された国際看護婦協会

(Int e r na t i onlCounc i lofNur s e s 「 以 ト, ICN と略す 」) の会員協会代表者会議において 採択 された定義 6 )がある.

ちなみに,「 看護」の定義 を

,

『看護学大辞典』7 )で調べてみた ところ,「 看護は,人類の 始ま りよ り, 母親のいたわ り,思いや りか ら出発 し,人 r t Hの生活 とともに存在する活動で ある.看護の定義づ けはまだ確立 していない. 」 と掲載 されてお り, L記にあるア メリカ の看護理論家であるバージニア ・ヘ ンダー ソンの定義が広 く受 け入れ られている と書き記 されていた.

以上,歴史的視点か ら, 「 看護」の定義を概観 してみたが, 「 看護」の定義に共通 して重 要な ことは, 「 看護」の関心事が,一人の/ 冒舌者 としてのクライエ ン トの反応であ り, 「 看 護」の提供者である看護者 と 「 看護」の受 け手 としてのクライエン トとの柑1 1 二 作用のプ ロ セ スである とい うことに集約 された. しか し,確かな定義づけがな されていない ことも確 認できた.

次に,近代看護を,一つの専門職 として確 立 したフロー レンス ・ナイチンゲール ( 1 8 2 0

‑1 91 0)の看護諭を とお して, 「 看護」を考察 してみ る.

彼女は, 「 看護」を, この世界 と同 じくらい l I Jく, この世界 と同 じくらい人き く,そ し

て生や死 と同様 にのっぴきな らないほどの要求,つ ま りそれは病気であ り,その病気に応

(6)

える もの として捉えている.つ ま り, 「 石護は生きた身体 と′ トきた心 と,心身 ・ 体のあ ら わす感情 とに働きかける

」 H)

のであ り , 「 病気の看護ではな くて,病人の看護であるところ に注意 してほ しい」リ)と衣記 し,ここに , 「 Ti 一 護」の ヒュ‑マニステ ィックな側面を見て取 れ る.

また,人r m観に関 しては,

およそ j i L 昔に とって,来がか り, 半信 半疑, 時r L u 待ち, I , 感,不意打ちへの不安な どによって ′ 卜じる心身の消耗は,他のどんな骨折 りよりもはるかに有書なのである.

患者は常にL ' 1 分の敵 と顔 をつき合わせていて,内的に敵 と組み打ち合い,想像以 L . の さ寸 , d ) い

つきせぬ会話を戦わせている, とい うことを肝 に銘 じておいてほ しい. これは,あな し E 土/ L t か た方には思い もよらない ことなのである. ともか くも 「 疾 くはや く敵 よ り解放て 彼 の人を」 , これは病 人についての第 ▲ 原則 である

. 川)

と捉え,病 人は f I : ̲ 命力を消耗す るネガテ ィブな/ Hi 三 であ り, ケアを必要 としている存在 と 捉えている と理解できる . 「 肴護」は 「 癒そ うとす る自然の試み」を援助す ることであ り, ここに,病 人を看護す る 「 技 ( 乙 l r t )」 としての 「 Tr 護ケア 」 を定義づ けている と言 うこと ができる.

L J i ‑ t こ, 「 看護」の責任の問題に も触れ,

患 音が冷え込んでいる とか,熱がある とか, ぐった りしている とか,食 事を した E 土 L l l f

あ と咽気がある とか,祷創ができている とかな どとい うのは,たいていの場 合,症 気のせいではな く看護のせいなのである . ll )

として, 「ナ供 とか 病 人とか, とにか く誰かの健康 r ・ . の責任 を負 う

」 L2)

ことを記 している.

ナイチ ンゲールの 「 石. 獲観」は, 「 体内で 「 」然のl りl 復過程が順調に進む よ うに′ 口舌過程 を ととのえることによって,その′ r : . 命 力に ノ J を 貸 す ことにある 」 l ュ i ) とその著 『看護覚え苫 き』に記されている.その具体的な働 きか け としては,環境 を整えることであった り , 暖 か く美味 しい食事を捉供す るこ とであ った り,快適な変化 としての会話を交わす こ とで あった り,身体を清潔にすること等である. この よ うな 「 看護ケア」は, M ・ハイデガー の 言うところの実存範晴 としての 「 配慮」であ り, まさしく 「 看護」の本質 として提示で きよ う. このような実存的な 「 肴. 獲ケア」によ‑ )て, クライエ ン トは快適な1二 活を送るこ とができ, クライエン トに と‑ ) ての 廿I 己実現」‑ と結実す ることになるのである.

看護ケアは, 人

目1

と人肌 との交わ りであ り,看護の提供 昔 とその受け 手との雨音による

交わ りの艮現である.

護 とは,人閲のライフサイクル全般 に対 して何 らかの役割を実施

す ることであ り, 人の ・ ′ トにつき合 うこと,換言すれば, 人の 「 いのちの営み」とのかか

わ りである.そ こには, 「 看. 穫す る者」 と 「 石護 され る宵」そ して 「 交わ りのあ り様」が

関わ って くる.看護され る首の牛き方によって,看護のあ り様は異なって くる.同様 に,

(7)

看護する音の生き方により, 看護ケアは異なった姿 として表現 され る. さらに,看護ケア を取 り巻 く人「 洞によって,そこに具現 され る看護ケアは,様々な姿を呈す ることになる.

看護ケア とい う交わ りを通 し,看護 宵は, クライエン トの 口 己実現を助 けるだ けではな く, 看護音自身の 口己啓発を も促すのである.つま りは,「 看護ケア」のあ り様は,その時,そ の場によって, しか も両耳によって,創造 され る生か された ものであるといえよ う.

人 用 . ] が 単独の存在ではない とい う事実が現にあ り,そのことを根拠づけたM ・‑イデ ッ ガ‑は,次の よ うに述べている.

現存在の 性 別 ま共同 世弊 ( di eM i t wel t ) である.内‑存 在 は,ほかの人び ととの , l H司存在 ( da sMi t s ei n) である.ほかの人び との内 I I ty tr l / Jな 「 l体存在は, 共同現存

( da sM i t da s ei n) である

. ll)

彼は, 「 共l

性」を,埠なる 社 会学的事実 として捉えるのではな く, 「 共に存 / i 三 する」 と い う現存在の根本的なあ り方 とみな し,近代の公 共性のなかに理役す る硯 存 在 の様態を批 判的に分析 し,その本来的なあ り方を導きだそ うとしたのである.先に述べたナイチンゲー ルの 苦作のなかには ,看 護は,クライエ ン トと 「 共 に 」 , 「 共ト . 1して」 ,あるいは 「 共にF f : ̲ きる」等々 とい う言葉が散 りばめ られていた. この ことか らも, 「 共l ■ 珊三 」 とい う言葉は,

「 看護」を定義づけるキ‑ ワ‑ ド0 } ・ つ として捉えることができる.

これ に対 して,医学は, 「 人体」の構造 と機能 をH ) 1らかに しようとす る科学であ り,デ カル ト以来の近代科学にその基礎を聞いている.つま り,デカル トの心身 二 元論をもとに した 「 人l I " . ] 機械論」であ り,人 r t i ) の臓 器 とその疾患を対象 とした 「 人体のf r J 摘勘 である.

人間の 「 見 方」 の違いが,医学 と看護 との 両 耳の 根 本的な違い として存在 している と言え よ う.私 自身,次の ような体験 を通 し,実感 した.私は, 「 良 牲発作 件 頭位 めまい症」 と い う一種の身体 としての金属疲労的な病 気 と共存 している. この病気は,特定の虚位によ り誘発 されるh J J 転性めまい とい う,内耳機能の 一 つである平行バランスを保つ ことができ な くなる とい う障宮である.本人 としては,めまい感 ,悪 心 , 咽吐等を伴 うため, ‖常′ 上 溝を営む ことができな くなって しま うのである. これ に対 し,主治医は, 「 いのちには,影 響 しない病気だか ら,心配 しな くていい よ.その内に,治るか ら」 と説r U lして くれた. し か し, 「 私の生活は, ど うなるの ?ふだんの/ 卜活ができな くて ,休l っているのに !この状 態を何 とか してほ しくて病院に来ているのに ! 」 と思 って しま う. また,受診すると 「 今 は,す こし治 まっているね.今度は,発作が起 きている時に,診せに来て くだ さいよ」 と 話 された. しか し , 首の私に してみた ら,発作の最 中は,頭を動かす ことす らできない のであ り,受診な どとい うものは,それ こそ "ノ 亡気な時"でなければできないものである と体感 した. これが,医学の関心事 と看護の関心 事の違いを示す よい例 とな りうるであろ うし, さらに, 一 つの現象を , l kJ 果連関 として捉え,論理的に実証的に説明 しようとする 自然科学のあ り様 をみ ることができる.

「 看 護」が,これか らの 2 1r t 蟻己を乍き延び,その時代に応 じた新たな茄護のあ り様 を創造

(8)

してい くためには,看護者の 一人ひ とりが,問われてい くことになるのである. これ まで の看護教育の基礎は,近代 西 洋医学をモデル とした知識 ・技術 ・態度であった. しか し, これか らの看護教育に求め られるものは, 「 看護 とは何か 」 とい う看護哲学を, 「より善い 看護 とは 」 とい う看護倫理を,そ して 「 実践智」に基づいた看護ケアを支え とした理念で あ り,看護者臼らの うちに 「 看護 」 のあるべき姿を,構築 していけるよ うな教育のあ り方 が問われていることなのである.

デカル トやハイデ ッガーが, 古代のギ リシア哲学へ遡及 し,その時代の要請に応 じて, 新たなる哲学を構築 したように,あるいは,ナイチンゲールが,看護の源泉をヒポクラテ スに見出 し,近代看護を打ち立てたよ うに,彼女の看護思想を見直 し,現代社会に即 した 解釈をすることによって,筆者が求めている 「 看護の本質」を明確にすることが可能であ るとい う感触を得ることができた.

Ⅳ 看護ケアを支える 「 実践智」

「 看護 」 は,原始社会の太 古よ り,人間の舛存要求に応えよ うとし,また,看護の独 自 の役割 として,病者を慰めるだけではな く,人々の健康を維持 しようとい う努力を連綿 と 営んできた. しか も,論理的な裏付けを しないままに豊かな経験を積み重ねてきた.その よ うな看護に対 し,「 看護ケア」のあ り様を言語化 し,それを基に, 「 看護 」 を体系化 し, 普遍性を与えようとする看護理論家達がア メリカを中心 として現れてきている.また,看 護の提供者が, どこにおいても,いつで も, また誰にで も,同じ様なケアを提供できるこ とを目的に, 「 看護過程」や 「 看護診断 」 等を開発 してきた. これまで, 「 看護 」 は 自らの 行為である 「 看護ケア」を言語化 してこなかった とい う反省に立つな らば, これ らの開発 は,一つの 「 看護ケア 」 の概念化であ り,看護の普遍性を求めての試みであるといえる.

その意味においては, これ らの試みは,意義深い試みである.

「 看護過程」 とは, 「 看護の目的を達成するための道筋」であ り, この道筋は大き く二つ に分かれ る.「 問題解決の過程を追求する過程」と , 「 そのための対象を理解 してい く過程」

であ り, 「 対象を理解 しなが ら看護のト 川勺遂行のために行われ る看護上の問題解決的アプ ローチ

」 15)

である. この過程は,次のよ うな構成要素によって成 り立っている.

看護過程の構成要素 1 アセスメン ト 情報を集め,分析する.

2 問題点の明確化 問題を決定する.

この結果を成 文化 したものが 「 看護診断」である.

3 計 画立案 問題の解決のためのケア計画を 立案する.

4 実 施 計画 された看護を実践する.

5 評 価 実践 した看護ケアを評価する.

各要素は、繰 り返 され、何度 も 回 ってい くとい うサイクルを成す。

(9)

「 看護過程」においては,問題 をプ ロブ レム ( pr obl e m) と捉 え,プ ロブ レムの意味 を

「 検討や解決可能な問題」 とし, しか も, 「目標が定め られ る問題」に限定 しているので ある. このことにまず着 目しておかなければな らない.問題解決過程においては,すべて が事実の情報か ら出発 し,それ を分析 して仮説を立て,物事を考えてい くことを重視 して いる.分析 とは,情報の構成す る要素を細分化 して,その因果関係を調べることであ り, つま りは, 「 看護過程」その ものが 「 問題解決過程」であ り,情報の分析 とい う点では科 学的思考である といえる.確かに,情報か らその原榊を考えた り,結果を探 ることは,看 護には必要不 口 †欠な ことである.看護者が等 しくこの看護過程 を辿るな らば,看護の質の 均一化は得 られ るであろ うし,効率性 をし け旨した とい う点においては評価 を得 られ よ う.

一万においては,これ らの試みは , 自然科学をモデル としたいわば看護ケアの 「 数量化」

あるいは 「 画 ‑ 化」に陥る危険性 を,不断に秘めているとも言える.その試みが看護界に もた らした ものは,看護の対象を 「 人体」 とみな した 「 人間理解」であ り,マニュアル化 した 「 看護ケア」である と言える. これは,看護ケアが, 「 対象化」 され, 一 方向性 の関 わ りとな りうる とい う看護概念の形骸化をも意味 しかねない.また, これ らの多 くは,ア メリカか らの輸入物であ り,文化の異なる日本にそのまま通用 させることには,限界があ る.例えば,医療行為に対 しての対応が,異なる事か らも明 らかである. 口律的に 自己決 定権 を行使できるア メリカ文化 と,お医者様お任せの 日本文化では,インフォーム ド・コ ンセ ン トの捉え方 自体に相違が見 られ る.この ことを詳細に指摘 しているのは,星野一正

16)

であるが.看護の受け手であるクライエ ン トは,皆それぞれに個性があ り,看護ケアのあ り方 も異な って くる.そ こに本来の看護ケア の 「 個別性」が出現 して くるのであ り,「日 常性」 とい う,言語だ けでは語 り得ない世界が表出 して くるのである. しか も, 「 看護」

とい う関係性 を構築 しよ うとしているのは , 日本文化に根 ざ した生活者なのである . 「 痔痛」

を例 として取 り上げてみて も,理解できよ う.

医療的な検査や処置に伴 う痔痛は,医療者に とって も患者に とって も, 一 時的であ り, 必然性 をもって容認されている. しか し,その蜂痛の程度や容認の限界に関 しては,誰が 決定 しているのであろ うか ?医療者は患者に対 して, 「手術 を したのだか ら, これ位の痛 みはあるものだ よ」あるいは 「これ位の痛み を我慢できないのであれば,検査は無理だね」

とい う場面がある. この痛み を感 じているのは,医師で もなければ,看護者で もな く,忠 者 白身なのである. しか も,痛みは主観的な ものであ り,看護者 としての上体が,患者の 内的世界 とい う客体を,患者が主体 として発 した言葉を通 して知ることができる とい うこ

とを示 している.

これ らの 言葉の持つ意味の理解は,看護ケアを通 した 日々のや り取 りか ら生まれ るもの であ り, 日常の看護 ケア とい う経験の積み重ねか ら得 られるものである.巾村雄二郎は, 次のよ うに述べている.

われわれ 一人ひ とりが受動‑受苦にさらされ る とい うことは,われわれの自己が決

して簡単には自立 しうるものではない, とい うことである.おのず と他者や世界との

(10)

関係性 のなかにあるのである. したが って,われわれの能動性あるいは I F ̲ 体は, J r 三 に 1 t t非や他 宵 との 例 係性 を組み込んだ もの,いや,そ うした関係性の うちに組み込 まれ た ものになる.そのことを通 して,われわれの

人ひ とりは,いっそ う深 く現実 とか かわるよ うになるのである.

この よ うなわけで,われわれに とって,経験になる とい うことは,現実 との関わ り が深 まる とい うことである.1 7 )

また, 自己と経験 との関係 性 について

,

西 川幾多郎の ( 純粋経験)の考え方に触れなが ら,

経験す る とは, 事実をそのままに知ることであ り, まった く技巧や紬上を排 して, 事実その ものに従 うことである. また,純粋 とい うのは,ふつ うの経験 小 にまざって いる爽雑物 を取 り去って, 真に経験そのままの状態であることである. まことにわれ

か われは,《臼L lの意識状態 を

トに経験 した時, 人だ i 三もな く客 もない,知識 とその 対象 とが全 く合 一して

る. これが経験の最醇なる者である. 》そ して この純粋経験 の立場に立つ とき,個人 と経験 との関係が逆転す る.《個人あって経験あるの七はな く, 経験あって個 人あるのである) ( 『善の研究』1・2) と

. 川)

看 護者は , 日常の看護ケアを通 し,身体的痔痛に苦 しむ クライエ ン トの 「 身体的c u r e 」 の限非に 白分の無力を感 じている.看護実践 においては, クライエン トと看護者閲の 「 実 存的交わ り」を通 しての 「 精神的c a r c 」の必要性 を知 りなが らも,その難 しさ故に , 両

の間に距離を とって しま うのである. この 「 身休的c u r c 」と 「 精神的c a r e 」 との問の 「 隙 問」を埋める役 目として, 「 T1 ‑ ・ 護ケア」 とい う看護の実践が 重要な役割 を担 っているので ある.それは,看護 宵 の 「 L L L 盛」を通 しての交わ りなのである.その役割遂行のためには,

「 看護ケア」における, クライエ ン トー看護 剤 J Hの交わ りの現象学的理論が必要 とな って くる. また, 「 実存的交わ り」の真の 意 味 を理解 し,乱 獲実践 において,その 「 実存的交 わ り」を具現す ることが 重要なのである.

動 こ,毎 日の右護業務 としての検温を見直 してみ よ う.休 配 は, 人間が生命を維持 して いることを′ J け 最 も重要な徴候である vai t a ls i gn の ・ つであ り,体 配 の測定は,身体的状態 を客観的に観察す ることができる看護の基礎的な技術 として桂岡づ け られている. これ は,

J T : . しい看護診断の情報 を得 るためだ けではな く,医師に対 しての疾病の診断 t l f ' ‑ ̲ びに T , 後の 決定のために, 重要な情報 となる ものである. 日 常の看護業務をみ る と, 「 休配は 37. 0 度」

と看護記録に記載す るだ けの宵がいる. 確かに ,37. 0 度は 平熱 として判断 され る.しか し,こ の時に,ち ょっ と考えては しいのである . 「普段の熱は何度 ? 」 「 劇が赤 らんでいるのは 何 敬 ? 」 「 唇が乾燥 していないか しら? 」 「 食欲は人丈人?」 と考え, 「 熱感はないのかな ?」

「 倦怠感はど うかな ?」 と相 手の内的世 則 こ思いを巡 らし, 「 体 力が落ちているのかな ?」

「 何かに感染 しているのだ ろ うか ?」等々先を見通 しなが ら,検視を しているのだ ろ うか.

このよ うな看護の技術を身につ けることが, 看 護の J T , 見性や 判断 力を磨き, 看護ケアの質

(11)

を向上させ,独 自の看護ケア‑ と結実す ることになるのである. このことを,ハイデ ッガー の以下の論をもとに考えてみ る.

ギ リシア人たちは,いわゆる 「 事物」を表すのに適切な 言葉をもっている.それは すなわち , 7 TPdy 〃αTα 一 人人が配慮的交渉 ( 7 T Pd吉 L E) においてたず さわ っている もの‑ である. ところで存在論的には,まさにこれ らの 7 TPdy 〃αTα に特有の 「 実用 的」 性 格 をギ リシア人たちは明 らかにせず, これ らを 「さしあた り」, 「 単なる事物」 ● ●

と して規 定 しただ けで あ る. われ われ は, 配慮 にお いて 出会 う存 在 者 を, 道 具

(dasZeug)

となづ ける.交渉のなかで 兄あたるものは, 苦く道員,縫 う道具, 「作 す る道具,乗 ってい く道艮,測定す る道員な どである. これ らの道 具の存在様相を取 りHJ , す ことが課題である.それ には,まず,お よそ道具を道 真としてあ らしめるもの,す なわち道具件 を輪郭づ けて, これ を手びき としな くてはな らない.

厳密な意味では,ひ とつだ けの道 具は決 して 「 存T T I 」 しない.道具が 存在す るには, いっで もすでに,ひ とまとまりの道具立て全体がなければな らない. この道具がまさ にこの道具であるのは, このよ うな道長立て全体においてなのである.遣呉 とい うも のは,本質 上,《‑‑す るためにあるもの

》 (《etwas,um zu

. ・ ・ 》)である. この 《・ ・ ‑・ す るためにある》 とい うことには, 有 川性,有効性,使用 日 、 「 能性,便利性 とい うよ うな さまざまな様態があるが, これ らがひ とまとま りの道具 立て全体性 を構成 している.

《‑‑す るためにある》とい う構造のなかには ●● , 「 なにかをあること

‑ 向

けて指示す る」

とい うことが含 まれている. この指示

(vcrweisung)

とい う名称で 律 Hノた現象は, 以 卜で分析 を重ねては じめてその存在論的成立においてみ とどけ られ るよ うになる.

ここで とりあえずたいせつな ことは,多様な指示関係を現象的に眼に入れてお くこと である.道呉 とい うものは‑その道 具 性に応 じて‑いつ もほかの道具 との柏属性に も

とづいて存在 している

.lL))

彼の 言う " 指示" とは,道具連関‑の指示を意味 しているのであ り,その指示を受け止 めて,次の道具‑ と向かわせるものは人間の実践である.その意味においては,彼の 言う" 道 具"の指

は,人閥の実践‑の指示 としての

味を も包含 しているもの と解釈す ることが できる. こ うした解釈を前堤 として,体氾計 とい う道具を使 ‑ )て, 休 配を測定する とい う 行為の 意 味をも う ・ 度 考えてみ る.

検視 をす るとい うことの

味は何であろ うか ?F l i i なる石護診断のための情報であろ うか.

検配 をす る際の道 具 としての体氾計を考えてみ る.休混計が指示 しているのは,単なる

3 7. 0 度 とい う標示に しかす ぎない ものであ り, この標示を体温計の指示す る記 号としか捉

えないのであれば,検視 とい う実践の行為 も意味を成 さな くなる.検温 とい う行為を とお

して, 主体的な熱を客体化 し,発熱 とい う対象化を行 うだ けでは,苅 三者が ( 主体に)触

れ ることができるまでの道具にはなっていない とい うことになるのである.3 7. 0 度を単な

る標示 として捉えるのではな く,意味のある道具の指

として捉 えるのであれば,実践

(12)

の指示を合意 していることを踏 まえ,次なる看護ケア‑ と行為することができるのである.

ハイデガーの言 う道具 とは,指示を合んでの次なる実践‑ と行為を導 くことなのである.

従 って,本来の検温 とは,体温計 とい う道具をとお して,身体その ものを捉える間主観的 な交わ りをもた らす行為 として,看護の基礎的な しか も重要な技術 として位置づけられ る 由縁が ここにあるのである.つま り,体温 とい う指標を とお して, どこまでコ ミュニケー シ ョンを広げることが P J 能なのか とい うことなのである.検温をす るだ けでは,単なる実 践に しかすぎず,そ こか ら得 られ る指示を受け止め,次なる行為‑ と連関させることが,

「 実践智」なのである.偶然にも,ナイチンゲールが,『看護覚え書』において,次のよ うなことを述べていた.

すなわち,知恵 ( i nt e l l i ge nt l y) をはた らかせて指示に従 うこと, これがすべて修練 とい う言葉の頁の意味なのである

. 2O)

看護者は 日常の看護業務 として検視を行 っているが,検温の結果を, 「 発熱 している」

と主治医に報1 2 iL,指示を仰ぎ,その指示を遂行す るだけであれば,看護は診療の補助的 役割にすぎない.検温の意味を問 うこと,その前提 として会話の拡大が存在 していること を認識することが重要なのである.ある看護者が,次のよ うなことを話 していたのを忘れ ることができない . 「 患者さんのベ ッ ドサイ ドに行 くとい うことは,患者さんの問題 を見 つけるためなのよ」 と. この 言葉の意味するものは,検温 とい う看護行為が,情報収集 と い う,看護が科学になろ うとして開発 したはずの 「 看護過程」の構成要素の 一 つである道 具にすぎない とい うことを忘れ,看護者を問題解決思考‑ と導いた弊害を指 し示 している のである.科学技術の発達 した今 日,検温に使用 される機器類は多種多様である.利便性 の点においも,確実性の面において も,あるいは安全性の面において も,優れた道貝が揃 っ ている.ベ ッ ドサイ ドに足を運ばな くて も,検温ができる時代である.科学技術の進歩が もた らした効用を,いかに使いこなすか,その利用する力が 「 実践智」なのである.その 道具に含まれている指示を,七休的に解釈 し,読み とることが重要であ り,その指示され ているものを受け取め,看護ケア として行為す ること,その礎を成す ものが, 「 実践智」

であると言える.

ただベ ッ ドサイ ドに仔むことや手を握ること,あるいは, クライエン トの話に耳を傾け ることは,看護の無 力を意味す るのではない.む しろ, クライエン トと看護者の 「自己実 現」としての看護ケアを支える 「 実践智」がそこには存在 し,この様なあ り方にこそ , 「 看 護の本質」が隠 されているとい うことを読み とることができる . 「 いのち」 とい う日には 見えないもの‑のかかわ りを, H に見えるもの として捉えること,つま りは,看護者の五 感を通 しての理解であ り,その感性を磨 くことの重要性 を意味 しているのである.人間 と

しての生きるノ Jに対する日々の発見は,古代ギ リシアの 「 驚き」に似ている. 日常業務 と して,朝な夕なにクライエン トと接 し , 「 顔色がす ぐれない 」 「 何時にな く,声に力がない」

「 険が腫れぼったい」等々,看護者の五感を通 しての観察は,マニュアル化 されたあるい

(13)

は機械化 された観察では,掴み得ない情報なのである.同 じ事象を見ていた として も,そ の見る者の見方 によって, 見えている ものが,それぞれ に異なるのである.専門職 として の 「 観察 力」を もとに した 「 看護の判断」ができる看護者が,求め られ る由縁が ここにあ るのである.

すべての出来事を ロゴス化 し,科学の名の下に安定 した形式を求めたい と人間は願 う.

しか し現実的には,肥大 し,権威化 した ロゴスによって,本来流動的で偶然性 を秘 めてい るはずの生の現実 との隙間が生 じて くるのである.看護 も学問 として,看護ケアの現実を ロゴス化 しよ うと努 力 してきた. しか し,現実の事態は,完全なる ロゴス化を拒み続 けて いるよ うに見える . 同 じ用具で , l 司じ方法で看護ケアを行 った として も , 同 じ効果は生 ま れて こない. また , 同 じ看護者が同 じクライエ ン トに, r i l ] 様の看護ケアを提供 した として も,再現性 とい う意味においては,科学 とはな りえない.なぜな らば,看護 に とっては, 看護ケアの個別性 とい う特質が横たわ ってお り, 看護す る側 とされ る側 の 「 間柄」が関係 しているか らであ り, 日常のなかにある ロゴス化をはみ 川 す ものを避 けて通 るわ けにはい かないか らである.

我々は, これ までの 「 人体 の修理」 とい う近代的医療 のパ ラダイムを見L 自 二 し,生活者 と してのクライエン トを全人格的存在 としての 「 人間理解」の もとに,看護者 白らの 「 実践 智」を羅針盤 として, 「 看護 のアイデ ンテ ィテ ィ」 を構築 していかな ければな らないので ある.科学や 人間の能 力には, 限界がある とい うことを認識す ることが必要であ り,いつ で も,医療にお ける倫理性 とい うことを意識 して医療に携わ るこ とが求め られているので ある. また,剥かれ た玉葱 を美味 しい料坤 として, クライエ ン トに提供できるよ うにす る ための新たなる役割 を認識す ることができた.

パ スカルが 「 人間は考 える葦であ る」 とい った事 になぞ らえて,私 は, 「 看護者 は,考 える足」 として,その実践智を豊潤な ものに育んでいけるパ ワーを身につけなければな ら ない とい うことを提 言したい.

Ⅴ 結 語

近代医療 にお ける看護のあ り様 を, 見直 してきた.なぜ, 見直 さなければな らないのか を振 り返 ってみれば, 日常の業務 としての看護ケアが抱 える様 々な問題が, 日常にお ける 業務上の問題だ けではない こ とに気づいたか らである.そ こには,背後に大きな問題の根 が広が ってお り, t l l 前 のケア 上の問題 を解決す るに も,結局は遥かに大 きな問題 との関わ りのなかで,考 えていかなければな らない とい うことが明 らかに された.つ ま りは, 日本 の近代医療は,西洋近代 にお ける人間観で支え られている以上,その人間観の 自覚な しに は看護ケアは存在 しえない とい うことであ り,その身体観は,それぞれの文化の相異の も

とに,見直さなければな らない等の ことが言 えるであろ う.

結論 として得た ことは, 「 実践智」の体現者 として, クライエ ン トの全人格 と向き合い,

「 いのち」を守 り育てることに,看護ケアの本質がある とい うことであった.それは, ク

(14)

ライエ ン トを 巾心 と して の 医療 関係 の あ り様 のなか で, 看護 ケア が 関係 性 の 巾心 的 存 在 と して の役 割 を果た さけれ ば な らな い とい うこ とで あ る. 何 故な ら, クライエ ン トか ら見て, 医療 従事 者の倫 理 的 な 員担 とい う視点 にお いて は, 医帥 も看 護 宵 も対等 で あ る とい うこ と で あ る. それ 以 卜に , 医 師 が 医学 卜の倫 理 的 負担 を 巾心 課題 と して き た これ までの あ り 方 を考 えれ ば, 現 在 の 医療 とい う状 況 の なか にお いて は, 「 い の ち」 と向 き合 う 看 護 ケア の 役割 とい うものは, クラ イエ ン トに求 め られ て い る倫 坤性 か ら言って も, よ り

護 の木 質 に適 って い る もの で あ る と思 わ ざ るを得 な いか らで あ る.

【 引用文献 】

1 多 川 富 雄 :ノ ト命の意味論 . 3 7 , 新潮社 , 1 9 9 7.

2 高久史麿編 :医の現在 . 1 91 , 岩波新 書, 1 9 9 9 . 3 内n義 彦 :学 I H ト の散策 . 31 7 ‑31 8 , 某 . ' ・ 波 書 店 , 1 97 4 .

4 永野 貞 :Tf 護 制 度のI . l l , J 題点について一看護教育研究会 夏期講習会か ら‑.看護,1 4 (9):

5,1 9 6 2 .

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1 7

rll

村雄 二 郎 :臨床の知 とは何か . 6 5 , 1 J . ' ・ 波新書, 1 9 9 2.( 以 卜 , 「 臨昧の知」 と略す) 1 8 臣 狛末の知,6 6.

1 9

在 と時 「 批 1 2 21 1 2 3.

2 0 億え書,6 6.

(弘前 大学 医学 部 保健 学 科 看護 学 専 攻 講 師)

参照

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