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漢詩に現われた漱石の自然観

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漢詩に現われた漱石の自然観

人文科学第一研究室 塚   本   勝   義

は し が き

漱石は,明治二十二年九月九日に脱稿した〔木屑録〕の序文に,〔余見時講唐宋敷千言 喜作爲文章或極意彫琢経句而始成或咄嵯衝口而獲自畳澹然有僕氣霧謂古作者量難藤哉途有 意干以文立身〕の如く少年期の思い出を記している。これは二松学舎に学んでいた頃のこ

とではないかと思う。二松学舎に学んだ十五六歳頃には,頻りに漢詩を作り,学友と詩の 贈酬をしていたと伝えられている。漢文の文章家として世に立とうと本気に考えていた時 期である。ところが長兄大一に〔文学は職業にはならんぞ〕と叱られ,そんなものか,と 方針を変更して,明治十六年秋,駿河台にあった成立学舎に入って英語を学び始めた。し かし,〔元来僕は漢学が好きで随分興味を有って漢籍を沢山読んだものである。今は英文 学などをやつて居るが,其頃は英語と来たら大嫌ひで,手に取るのも厭な様な気がした〕

と述懐している通りで,漢文が好きで,英語の方には力がはいらなかったらしい。かくの 如く,少年期に味を覚えた漢文学は,後に彼が英文学者となり,作家となっても,心の奥 底に脈々と流れ,晩年にまで及んでいる。そして,勘からざる漢詩を残した。

漱石の思想を確かめる資料は小説・評論・随筆・或は俳句・書簡・日記等,多量に存在 しているが,終生心から愛好した漢詩も亦重要な資料と考えられる。思うことを思うがま まに率直に表現したという点から観れば,殆んど読者を予想することなしにものした漢詩 は他の資料にもまして貴重な価値を認めなければならない。依って本稿に於て,則天去私 の思想の一原流をなす自然観を漢詩を材料として考察してみたい。

      1

石の漢詩は四期に分けて考えられる。明治二十二年から三十三年までが第一期,四十 三年七月から十月までが第ご期,四十五年五月から大正五年春までが第三期,五年八月か

ら十一月までが第四期となる。各期の作品数は下の通りである。

第一期(67首)  第二期(17首)

第三期(39首)  第四期(75首)

各期を通して自然美を詠じた作が数多く認められる。

石苔沐雨滑難蓼  渡水穿林往又還

(2)

54      茨城大学教育学部紀要 第十号

庭々鹿聲尋不得  白雲紅葉満千山

〔山路観楓〕と題する明治二十二年十一月の作。深味のある華かな自然美を現わしてい る。この頃の歌に〔杣人もにしき着るらし今朝の雨に紅葉の色の袖に透れば〕がある。

雨晴天一碧  水暖柳西東 愛見衡門下  明々白地風 芳菲看漸饒  詔景蕩詩情 却偲丹青技  春風描不成

共に春景の美を詠じた明治四十五年の作。

詩思杳在野橋東  景物多横淡霧中 湘水映邊帆露白  翠雲流庭塔鯨紅 桃花嚇灼皆依日  柳色模糊不厭風 標瀞孤愁春欲墨i 還令一鳥入虚空

もやはり四十五年の作。何れも自然美に対する強い愛が発想の基調となっている。周知 の如く漱石は人間を本格的に愛した作家である。勿論青年期に於て人間嫌悪に陥った時期 もあるが,それは人間成長の過程に於ける一波動であって,自覚的に生きる人間のすぺて が味わう苦汁である。嫌悪期を克服してからの漱石は異常な執着を以て人間を愛し人間を 探求した。ところがその反面には自然美に憧れる心が脈々と流れている。人間を愛しつつ

自然をも愛しつづける。ここに漱石の幅の広さと複雑さとを指摘することができる。

それなら漱石が最も愛好したのは如何なる自然美であったか。四期を一貫して愛してい る自然美は,躍動する自然美ではなくして静諸清閑の自然美であった。俗塵俗臭みなぎる 自然美ではなくして,南画の世界に見られるような超俗的自然美であった。動的な自然美 も詠じたが,それも〔動〕に焦点を求めたのではなく,〔静〕を的確に表現せんがための

〔動〕にしか過ぎない。

風流人未死  病裡領清閑 日日山中事  朝々見碧山

これは明治四十三年九月二十五日の作。

仰臥人如唖  獣然見大空 大空雲不動  終日杏相同 は同年九月二十九日の作。

日似三春永  心随野水空 林頭花一片  閑落小眠中

同年十月一日の作。この三首は何れも〔思ひ出す事など〕に出ている。共に修善寺大患

(3)

療養中の詠である。ここで漱石が詠じているのは,碧山の美であり,動かざる雲の美であ り,抹頭の花の美である。正に静諦清閑の美の極致といえる。尚,雲を詠じた作が勘くな いが,これは寒山の影響ではないかと思われる。寒山は漱石の愛した大陸詩人の一人であ

った。

しかし,第一期の作の中には華かな自然を愛する詩も見出せる。たとえば〔菜花黄〕と 題する次の作の如きがそれである。

菜花黄朝轍  菜花黄夕陽 菜花黄裏人  農昏喜欲狂 畷懐随雲雀  沖融入彼蒼 漂瀞近天都  遁遽凌塵郷 斯心不可道  厭樂自横洋 恨未化爲鳥  囁誰菜花黄

(1)

明治三十一年三月の作。松岡譲氏は〔漢詩には珍らしい大胆不敵な表現,恐らく英詩の

影響がある事と思はれるが,何にしても独歩の詩の世界といふべきだ。〕と評しておられ      (2)るが,正に清新な詩である。又,和田利男氏は,〔面白い詩である。雲雀に化して菜花黄

を喘き尽くしたいといふやうな,童心にも似た朗かな空想,自由な詩魂を表白したもの は,漢詩には古来絶無と言つてよい。これは恐らく西洋の詩から得た趣向を,漢詩の体に 取入れたものであろうと思はれる。従来の漢詩は,一般に概念化された大人の世界であつ た。時として突飛な希望や空想を抱く童心といふものの到底寄りつけぬ世界であつた。

(中略)さういふ習慣の中に固められた彼等の心には,よしんば稀に宿すことがあつて も,そんな子供じみた考へを発表することは,堂々たる男子として寧ろ恥づべきことだ,

とでも思つてゐたのであらう。さういふ風潮の中にあつて,独り芸術的な見地から,自由 に,大胆に,新鮮な詩境を開拓して行った漱石の見識は高いと思ふ。〕と論じておられる。

とにかく漢詩という枠の厳しい文学の世界においても自己の独自性を発揮している事実を も此の際想起しておきたい。

この詩は〔草枕〕の第一章と密接に関連している。三十年の句に〔菜の花の中へ真赤な 入日かな〕がある。かかる自然美の捉え方を伝統詩人に求めれば蕪村がこれにあたる。

そして,清閑美思慕は芭薫系の自然観といえよう。しかしながら華かな自然美をよろこん

だ作は第一期に於てのみ認められ,あとは清閑美の自然をひたすらに求める。ここで注意

すべきことは,小説の方でも,華かな自然描写は〔虞美人草〕あたりでとどまる事実であ

る。要するに漱石の自然美の捉え方は。第一期に於ては清閑美と華麗美を第二期以後は清

閑美のみを,ということになろう。

(4)

56       茨城大学教育学部紀要第十号

(1)漱石の漢詩・97ページ

(2)漱石漢詩研究。224−5ページ

      2

石の自然愛の対象は自然美だけに限定されない。伝統詩人の多くは自然美の世界に生 きたが,漱石はそれらより一歩進んで,自然の性格に対しても強い愛と執著を持ってい た。もし,自然美への愛を芸術的白然愛と呼ぶなら,自然の性格への愛は思想的自然愛と いえよう.而して漱石の自然観の独自憾ま騰的自然愛の方に賭であって・芸 燻ゥ然

愛の方は,伝統詩人のそれより殆んど前進していない。清閑美にせよ華麗美にせよ,遡れ ば万葉歌人の作品の中に多くの典型を見出し得る。

次に,自然の性格に就いての漱石の解釈を探ってみたい。

睨却塵懐百事閑  儘遊碧水白雲間 仙郷自古無文字  不見青編只見山

明治二+二年作〔木購〕中の一篇正岡子規が〔灘房海醇蝋・鍼水舗若藥湯・

黄締縮讃罷.甑嘲伴漁郎〕と書・・てよこしたのに応えた詠である・碧水白雲の間 こそは仙郷である。この仙郷には古から文字がない。自分は書物などは読まず,ただ山を 見ているだけだ,という。〔仙郷自古無文字〕が注目される。人間世界には文字などとい

うものがあるので,とかく理窟が多いけれども,仙郷には文字が存在しないから,ややこ しい理窟も亦存在しない。あるのは,ありのままで美しい碧水白雲がありのままに在るだ けである,という。ここに,自然界には理窟がない,という自然界の解釈が認められる。

@      (2)

鮪桙フ漱石は第一高等中学校生徒であったが学校内に〔道徳会〕と称する結社が生まれ,

入会勧誘を受けた。しかし,子規と共に参加を拒絶した。こんな事1青で,彼の環境に理窟 が多過ぎた。かかる環境に反擁する気持が・仙郷自古無文字の解釈を生んだのではないか

と考えられる。

樹暗幽賠鳥  天明灰見花 春風無遠近  吹到野人家

第三期の作で,明治四十五年五月二十四日にまとめた。〔春風無遠近。吹到野人家〕は 注意を要する句である.韻はわけ一だてがな・・から一介の野人にしか過ぎぬ自分の家に

までやってきてくれる,という意だが,〔無遠近〕は春風の解釈である。即ち春風は公平

無私だ,という解釈である,勿論,自然の運行に意志のあろうはずはないが,動もすれば

秘、まどわされて不公平に癬いカ・ちな燗か獺れば,一切無差別に吹き巡る春風は

徹底的に公平と解釈されよう。春風の流れに〔公平〕という倫理的意義を附与したわけで

(5)

ある。〔草枕〕の中にも,

(3)

空しき家を,空しく抜ける春風の,抜けて行くは迎へる人への義理でもない。拒むも のへの面當でもない。自ら来りて,自ら去る,公平なる宇宙の意である。

とある。春風を公平と解する考え方は〔草枕〕の成立時,明治三十九年まで遡り得る。

漱石は公平を愛した人間である。その原因は性格にもよろうが,幼時,父親に不公平に扱 われた不快な思い出が,いっそう公平愛の気持を育てているかも知れない。大正五年二月 頃,津田青楓に〔我師自然〕の四字を揮毫して与えた。自然の中に見出した〔師〕たる要 素の中に,この〔公平〕の解釈も当然含有されていたと推定せられる。公平は私情私利を 克服したところに発生する。〔私〕がうごめいては公平は期待されぬ。然りとすれば,〔則 天去私〕の〔去私〕のすべてが公平でないとしても,重要な要素をなしていたであろうこ

とは確実である。

ここで附記しておきたいことは〔野人〕という自己規定である。漱石は在野の人によう

(4)

こびと生甲斐を感じていた。だから東京帝国大学講師を辞したとき〔休めた翌日から急に 背中が軽くなって,肺臓に未曾有の多量な空気が這入って来た。一鶯は身を逆まにして 初音を張る。余は心を空にして四年来の塵を肺の奥から吐き出した。是も新聞屋になった 御蔭である〕と喜んだ。かくの如く庶民意識に徹していたからこそ時の首相西園寺侯から 招待された際,〔時鳥厨なかばに出かねたり〕の一句を葉書に認めてきっぱり拒絶し得た のである。

野水僻花鳩  春風入草堂 狙徐何澹淡  無我是仙郷

大正三年春,笹川臨風に贈った作。野水が花鳩を辞し,春風が草堂に入る一そうした 自然界の動きを無執著の無我と解している。この作も第三期に属する。〔無我〕は〔無自 我〕の意ではなく〔無私〕の義に取るぺきである.転句の中の〔澹淡〕という語がその義

であることを示す。この語はここでは〔澹如〕と同意に使用されていると観るべきである からだ。するとこの詩の思想は〔春風無遠近〕の作の思想と共通していることが判る。尚 無我公平な自然界を〔仙郷〕と呼んでいる事実も忘れたくない。

大地從來日月長  普天何虞不文章 雲黍占閑葉雪前静  風逐飛花雨後忙 三伏窯愁惟泣露  四時關意是重陽 詩人自有公亭眼  春夏秋冬講故郷

第四期の大正五年九月二日の作。由来天地は悠久で,到る所に大文章が存在する。真の

詩人は公平な眼の所有者であるから,春夏秋冬,常に此の大文章を知ることができるので

(6)

58       茨城大学教育学部紀要 第十号

安心の境地ならざるはない,という。ここでいう〔文章〕は,すぐれた詩の義であって,

二十二年作中に見える〔文字〕とは異る。なぜ天地は何れの時節に於ても大文章を持ち得 るか,それは〔無我〕の運行をしているからである。そうして,真の詩人は己の心を空し うして自然に接するから,その大文章を感得し得る。即ち,無我と無我との接触なるが故 に無我のもたらす美を実感し得る,という思想である。この詩によって,自然美は自然界 の無我の性格の発現にほかならぬという漱石の自然観が窺知されよう。尚,詩人の公平な 眼で眺めるときにおいてのみ,その無我の生み出す美が発見されるというのであるから,

即ち,我に執した偏った眺め方をするなら,その美を捉えることは不可能だという意味と なる。ここで漱石は〔公平眼〕という倫理的色調の濃い語を使用しているが,あるものを あるがままに見るのが公平な眼であるから,〔客観に従う眼〕といってもよろしい。する

と,自然美は客観的な眼で眺めるときにのみ本質を捉え得る,という思想となる。

(5)

ここで想起されるのがセザンヌの芸術思想である。彼は一切の観点を棄て去り,自己の

〔守り〕を否定し,純粋感覚を通して自然の存在に迫る,と主張する。セザンヌのいう〔自 己の守りを否定する〕ことを漱石の言葉を以てすれば〔無我〕にほかならぬ。セザンヌは

〔自己の守り〕という人間的な言葉を使用し,漱石は公平無私という倫理的意義を対立さ せた〔我〕或は〔私〕という言葉を使用しているだけの差で,自己否定の本質は共通して いる。といって,漱石のこの思想の系譜をセザンヌに求めることはできない。何となれば 上掲の詩は〔無門関〕に見える〔春有百花秋有月。夏有涼風冬有雪。若無閑事掛心頭。便 是人間好時節〕という詩に因することが明らかで,東洋の禅にその源を発しているからで ある。〔三伏鮎愁惟泣露〕も,杜筍鶴の〔滅却心頭火自涼〕と通ずることは和田利男氏の 指摘する通りである。しかし,とにかく漱石の思想とセザンヌの思想とが根本に於て一致

しているのは興味ある事実である。

絶好文章天地大  四時寒暑不曾違 天々正書桃將獲  歴々晴空鶴始飛 日月高懸何扁落  陰陽黙照是霊威 勿令碧眼知消息  欲弄言僻堕俗機

同年九月五日の作で,前掲作と同一思想を持つ。〔無我〕であれば天地の大そのものが 絶好の文章だという。而して,〔我〕を本作では〔弄言僻〕と具体化して表現している。

ただ,こうした天地の大文章を悟得し得るものは東洋人だけだとしている点が異るだけで

ある。しかし,これが漱石の東洋的自覚の行き過ぎであったことは,セザンヌの芸術観が

側面から証明しているといえよう。又,早くから礁私〕〔無我〕を主張しながら,大正

五年の九月に於ても未だ東洋に執する心を不用意に露出させているところに,漱石が晩年

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まで思想対立の矛盾に苦悩していた実相も明らかに認め得る。いわゆる〔去私〕は最後ま で理想であって,自ら全生活に実践される生活意識とはなっていなかったのだ。芥川竜之 介黍1)〔僕はいつか夏跣生が風流漱石山人になってゐるのに鱒した。僕の知ってゐた 先生は才気換発する老人である。〕と言い,〔僕が知ってゐる晩年さへ,決して文人などと 云ふものではなかった。〕と記し,〕僕は先生のことを考へる度に老辣無双の感を新たにし てゐる。〕と断じた見解は正しい。天才は見事に天才の深奥を洞見している。

猫往孤來俗不齊  山居悠久渡東西 巖頭書静桂花落  櫨外月明澗鳥哺 道到無心天自合  時如有意節將迷 空山寂々人閑庭  幽草芋々満古踵

同年九月三日作。 〔道到無心天自合〕は,道が無心に徹するとき天と合するというので あるから,道の本体を無心と考えていたのであり,更に天の本体をも無心と考えていたと いうことになる。ここでいう〔無心〕は〔無我〕であり〔公平無私〕である。前述した通 り,自然の本体を公平無私と考えており,ここで天の本体を公平無私としているのである から,漱石のいう天は自然と同義であったと推定される。然りとすれば〔則天〕は〔則自 然〕であったという解釈が自然に成立する。

漫行棒喝喜縦横  胡爾L納倫不値生 長舌談騨無所得  禿頭費道欲何求 春花養虞正邪絶  秋月照邊善悪明 王者有令争赦罪  如雲斬賊血還清

同年九月二十三日作。〔春花襲庭〕〔秋月照邊〕の二句に大自然の自然な運行が象徴され ている。この無心の大自然の運行を直視した上で人間界を顧みるとき,正邪善悪の相が明 々白々となるという。 〔漫行棒嘱喜縦横〕ことや〔長舌談騨〕といったことは,人間の私 意に基づく〔不値生〕〔無所得〕愚挙であって,正邪善悪の実相は,こんな愚挙によって

却って惑わされる。だから棒喝の僧,長舌の徒は無用の存在だ,という。禅の形骸を否定 して禅の本質に肉迫する漱石の意気が物凄く感じられる。とにかく・自然の相に道義の真 相を認めた漱石の思想は明らかである。

孚生意氣撫刀鏡  骨肉錆磨立大蜜 死力何人防奮郭  清風一日破牢關 入泥駿馬地中去  折角塞犀天外還 漢水今朝流北向  依然面目見盧山

      一

ッ年十月二十日作。第六句までは人間の諸々の営みは凡て空であり愚であることを切言

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60      茨城大学教育学部紀要 第十号

し,それに比して大自然のみが不変不動であると解したのが〔漢水今朝流北向。依然面目 見盧山〕の二句である。自然の実在を永遠とする思想で,これは杜甫の〔春望〕の中の名 句〔國破山河在〕の思想を踏まえている。大自然は永遠的存在であるというのであるか

ら,そこに示される道の相も亦永遠的存在であると解される。

ここに引用した大正五年作の律詩は,すべて〔明暗〕執筆中に成ったものである。午前 中は〔明暗〕執筆に打ち込み,午後から夜にかけて悠々とかかる律詩制作にしたがった。

即ち午前には果ない人間の究明に力を注ぎ,午後と夜は永遠的な自然に思いを馳せつつ人 間を静思したともいえるだろう。八月二十一日附久米正雄・芥川竜之介宛書簡の中に〔僕 は不相変「明暗」を午前中書いてゐます。心持は苦痛,快楽,器械的,此三つをかねてゐ ます。存外涼しいのが何より仕合せです。夫でも毎日百回近くもあんな事を書いてゐると 大いに俗了された心持になりますので三四日前から午後の日課として漢詩を作ります。日 に一つ位です。さうして七言律です。〕 と書いている。文調からは,俗了された頭の清潔 法としての作詩だというように聞える。そんな気持も含まれてはいたろうが,十一月六日 附小宮豊隆宛書簡の中にある〔却説あの小説にはちっとも私はありません。僕の無私とい ふ意味は六つかしいのでも何でもありません。たゴ態度に無理がないのです。だから好い 小説はみんな無私です。〕という述懐に出遭うと,〔無心〕〔無私〕を確認するためにも作 詩したのであったろうとも考えられる。頭の解放と頭の姿勢の乱れを正すために自然を直 視し深思したのであったろう。

以上は詩制作年次にしたがって自然に関する解釈のあとを辿ってきたのであるが,これ らの解釈を要約すれば,

1 自然界に理窟はない。

2 自然界は公平無私である。

3 自然界は無我だから大文章が孕まれている。

4 自然界には道の真相が示されている。

5 自然界の存在は永遠的である。

となる。1は2の説明ととれるし,3は2の結果と考えられるから,結局,2,4.5に自

然解釈の要点があるといえる。大正五年五月頃の断片の中に〔倫理的にして始めて芸術的

なり。真に芸術的なるものは必ず倫理的なり。〕という問題の言葉があるが,これは上述

の自然解釈の基磐の上に発せられた断案と考えられる。自然界は,そのままで大文章(芸

術)であり,また,そのままの中に道(倫理)が示されている。故に人間の〔私〕〔我〕を

はたらかせない自然界そのままの芸術こそ真の芸術であり(小宮宛書簡参照)同時にその

芸術は倫理ともぴったり合致しているという意味となる。まとめていえば,自然に即した

(9)

作品は芸術的で倫理的だ,ということになる。

(1)山部赤人の〔三吉野乃象山際乃木末爾波幾許毛散和口鳥之聲可聞〕(巻六)には静寂美の把握 が認められ,天智天皇の〔渡津海乃豊旗雲爾伊理比沙之今夜乃月夜清明己曾〕(巻一)には華 麗美が歌われている。

(2)正岡子規〔筆まかせ〕参照。

(3)第六章に見える。

(4)明治40年5月3日,東京朝日新聞に掲載した〔入社の辞〕の一節。

(5)岩波講座・現代思想・第十巻・現代芸術の思想・62ページ参照。

(6)〔文芸的な,あまりに文芸的な〕十七・夏目先生。

       3

氓ノ考えてみたいのは,自然に対して漱石が如何なる態度をとったかという問題であ る。既に前二章に於て,鑑賞的態度と解釈的態度をとったことは自ら明らかにしたので,

その他の態度に就いて,推移展開の跡を検することとする。

〔木屑録〕の中に,

二十飴年住帝京  侃黄遺墨暗傷情 如今閑却壁問書  百里丹青入眼明

という作がある。悦雲林・黄大療等の画聖の傑作よりも百里の丹青(自然界の美)の方 が遥にすぐれていると詠じた。即ち芸術美よりも自然美の方を愛するという述懐である。

これは二十三歳の時の詠だが漱石の自然愛好は,もっと前に遡れる。〔思ひ出す事など〕

の第二十四に次のような少年時代の思い出を記している。

或時,青ぐて丸い山を向ふに控へた,又的礫と春に照る梅を庭に植へた。又柴門の真 前を流れる小河を,垣に沿ふて緩く綾らした家を見て  無論書絹の上に一何うか 生涯に一遍でも好いから斯んな所に住んで見たいと,傍にゐる友人に語った。友人は 余の真面目な顔をしけじけ眺めて,君こんな所に住むと,どの位不便なものだか知っ てゐるかと左も気の毒さうに云った。此友人は岩手のものであった。余は成程と始め て自分の迂澗を憶つると共に,余の風流心に泥を塗った友人の実際的なのを悪んだ。

〔それは二十四五年も前の事であった。〕とも記しているから,十六七歳頃のこととな る。南画の捉えた自然にたまらぬ魅力を感じたわけである。又,〔草枕〕の第十二章には,

小供のうち花の咲いた,葉のついた木瓜を切って,面白く技振を作って,筆架をこし

らへた事がある。それへ二銭五厘の水筆を立てかけて,白い穂が花と葉の間から,隠

見するのを机へ載せて楽んだ。其日は木瓜の筆架ばかり気にして寝た。あくる日,眼

が覚めるや否や,飛び起きて,机の前へ行って見ると,花は萎へ葉は枯れて,白い穂

丈が元の如く光って居る。あんなに奇麗なものが,どうして,かう一晩のうちに,,枯

(10)

62      茨城大学教育学部紀要 第十号

れるだらうと,その時は不審の念に堪へなかった。

とある。この方は作中人物の述懐として書いてあるのだから,漱石自身の体験として認 めるのは些か不安であるが,相似た体験があって,それを素材として書いたのではないか と思う。すると漱石の自然愛の発芽は,幼い時代にあったといえる。

南出家山百里程  海涯月黒暗愁生 濤聲一夜欺郷夢  漫作故園松籟聲

早くから自然愛に目覚めていたけれども,そうして,愛する自然美の中にはいりなが ら,なお家郷を忘れ得ぬ漱石の心が此の作に現われている。やはり〔木屑録〕中の作であ る。次に示すのは〔函山雑詠〕 (明治二十三年九月作)中の一首だが,

昨夜着征衣  今朝入翠微 雲深山欲滅  天澗鳥頻飛 騨馬鈴聲遠  行人笑語稀 薫々三十里  孤客已思]婦

この作に於ても〔孤客已思婦〕の如き人間思慕の詞を入れないではおられなかった。

得間廿日去塵簑  嚢裡無鏡自識還 自稽仙人多俗累  黄金用蓋出青山

塵簑を去り,自ら仙人と称しながら俗累を絶ち切ることができない。やはり自然愛と人 間執着とが,しつこく対立している。これも〔函山雑詠〕中の一首である。明治二十七年 三月九日,菊池謙二郎に与えた書簡の中に,

閑却花紅柳線春  江櫨何暇醇芳醇 猶憐病子多情意  猫椅面糊木夢美人

という作が見える。禅林に俺りながら,而も美人を夢みる。矛盾だが,この矛盾をどう することもできなかったのが当時の漱石であった。〔イ翫醐木〕は自然愛に通じ,〔夢美人〕

は勿論人間執着である。而して,自然を愛する心は安心を得たい心であり,人間への執着 は,安心を妨げる心である。

併しながら,翌二十八年になると,自然に対する態度に明らかに前進が認められる。自・

然か人間かに悩んでいた彼の心は,ようやく自然の方に傾き始める。次の詩がその傾向を

示す。

快刀切断雨頭蛇  不顧人間笑語謹

黄土千秋埋得失  蒼天萬古照賢邪

微風易確水中月  片雨難留枝上花

大醇醒來寒徹骨  鯨生養得在山家

(11)

この年四月,漱石は松山市の愛媛県立尋常中学校に赴任した。決心するまで,両頭蛇の 如く右せんか左せんか悩んだらしい。が,終に意を決して西下し,四国の山家に住むこと

となった.この詩は赴髄後の瑚,正岡子規亭・送った舗の中に書いてある12鮎シま赴

繧よ∴驚毒欝灘謬多箏夏差慰覆瓢附黙

淵明の心境をしみじみ味わって,彼の心境をわが心境として実感したところから生まれた 詩であろう。この年の句に,

思ふ事只一筋に燕かな

(4)

がある。松根東洋城は,燕がただ一直線に飛ぶ様を言い現わしただけだと解している が,単なる写生句とは受けとれぬ,小宮豊隆氏の解するように,燕そのものと漱石の人間 との交渉の色が濃いと思われる。即ち前掲の詩心が裏打ちされていると解したい。

享負東風出郷關  鳥喘花謝幾時還 離愁似夢週々淡  幽思與雲澹々間 才子群中只守拙  小人國裡猫持頑 寸心空託一杯酒  劒氣如霜照醇顔

やはり子規宛書簡中の作で,〔只守拙〕は陶淵明の〔守拙婦園田〕に基づく句である。

漱甜学生時代から配を〔拙娚〕と自覚していたから,陶淵明の〔守拙〕と、・う謝・

気に入ったらしい。

木瓜咲くや漱石拙を守るぺく(三十年)

正月の男といはれ拙に処す(三十一年)

の如き句も作っている。

上述の詩には世俗に対する強い怒りの気醜が感じられる。山家の自然に生きるのだと決 意しながら,憤らざるを得ないところに,自然に傾き切れぬ漱石の姿勢が読みとれる。世 俗を問題としているからこそ,それに対して憤りを感ずる。

二頃桑田何日耕  青砲傲誰出京城

(5)

稜々逸氣輕天道  漠々擬心負世情 弄筆傭求才子轡  作詩空博冶郎名 人生五十今過半  擁爲讃書誤一一生

〔二頃桑田何日耕〕に陶淵明の影響が認められ, 〔塊爲讃書誤一生〕の背景には寒山の

〔蓋是書誤己〕という句があろう。くだらぬ逸気擬〔〉のために読書に溺し,天道を軽んじ

世時に負いた過去を否定したところに,これからは天道に則り世情に生きようとする心構

えが認められ,その心構えは陶淵明や寒山の心構えに通ずる。俗世に於ける窮屈な生き方

(12)

64       茨城大学教育学部紀要 第十号

を棄却して自然人情の自らなる動きにしたがわんとする態度が察知される。書物の中にあ る人間の作り上げた理窟などよりも,天の道自然の情を主とする生き方を旨とするように なったことが明らかである。

(1)松岡譲「漱石先生」留ページ参照。

(2) 「帰園田居五首」中の句。

(3) 同上。

(4)岩波書店刊「漱石俳句研究」63−65ページ参照。

(5)「背世情」は「軽天道」と対をなす。それを悔いているのであるから,俗情の意ではなく,自 然の人情の意に解すべきだろう。

進んで三十一年作〔春興〕に到ると,自然に同化し得る心境が見出せる。

(1)

出門多所思  春風吹吾衣 芳草生車轍  磯道入霞微 停節而嘱目  萬象帯晴暉 i聴黄鳥宛嬉  観落英紛罪 行壷 卜蕪遠  題詩古寺扉 孤愁高雲際  大空漸鴻麟 寸心何窃雍  繧継忘是非 三十我欲老  詔光猶依々 遣遙随物化  悠然封芥菲

〔標総忘是非〕と言い,〔沮遙随物化〕というのであるから,一切の俗晴を消却して自 然そのものの中に漱石は息づいている。少くとも此の詩の世界に於ける漱石は完全に自然 界の運行,情趣の裏に全我を任せ切っている。これまで彼を悩まし続けた人対自然の相剋 は認められぬ。だからこそ〔悠然封芥菲〕ことを得た。自然界に同化することに依って安 心を得たといえる。この詩が〔草枕〕に引用されていることは周知の通りであり,〔草枕〕

一篇の基調が本作の詩境の敷術と解せられることも論議の余地はあるまい。尚,此の自然 り 観は王維のそれと全く同じであることが注意せられる。やはり三十一年三月作〔春日静

坐〕と題する次の詩も〔草枕〕に引用されているが,自然界に魂を遊ばせている心境を詠

じ.たものである。

青春二三月  愁随芳草長

閑花落空庭  素琴横虚堂

蠕蛸掛不動  蒙煙緯竹梁

猫坐無隻語  方寸認微光

人間徒多事  此境敦可忘

(13)

會得一日静  正知百年忙 遽懐寄何虞  緬遡白雲郷

本作の詩境は,〔余は明かに何事をも考へて居らぬ。又は燵かに何物をも見て居らぬ。

わが意識の舞台に著しき色彩を以て動くものがないから,われは如何なる事物に同化した とも言へぬ。去れども吾は動いて居る。世の中に動いても居らぬ。世の外に動いても居ら ぬ。只何となく動いて居る。花に動くにもあらず,鳥に動くにもあらず,人間に対して動 くにもあらず,只悦惚と動いて居る。強ひて説明せよと言はるるならば,余が心は只春と 共に動いて居ると言ひたい。あらゆる春の色,春の風 春の物,春の声を打って,固め て,仙丹に練り上げて,それを蓬莱の霊域に溶いて桃源の日で蒸発せしめた精気が,知ら ぬ間に毛孔から染み込んで,心が知覚せぬうちに飽和されて仕舞ったと言ひたい。〕 とい う〔草枕〕の一節が,能く之を説明している。漱石は何等の抵抗なしに春と共に動き得る 心境に到達した。西行の〔吉野山梢の花を見し日より心は身にもそはずなりにき〕の歌境 より,もっと自由な世界にはいり得たようである。

〔草枕〕の中で,人間をも自然の一点景として眺めるのだ,と主人公の画工をして言わ しめているが,他の人間を一点景として観じ得るにとどまらず,漱石自身をもそうするこ とが可能な境地に進んだ。自然を愛する態度から,自然と同化し一体化できる態度に歩を 進めたわけである。このように考えてくると,〔草枕〕は小説というジャンルに依って構 成されているが,その発想は,漱石自身でいう通り,俳句的でもあろうが,漢詩的でもあ

(2)

るといえる。これを西欧系の作品だなどと評する人もあるが,一二の引用句を誇大視した 軽率きわまる判断といわなければならぬ。

〔蟷蛸掛不動。象煙続竹梁〕の二句は〔一夜〕にも引用されている。漱石の愛好する句 だったのであろう。即ち,当時の漱石の心境とぴったり合った句であったに相違ない。翌 三十二年には,

眼識東西字  心抱古今憂 廿年塊昏濁  而立縄回頭 静坐観復剥  虚懐役剛柔

(3)

鳥入雲無   魚行水自流 人間固善事  白雲自悠悠

という注目に価する作がある。漱石の生きる態度に大きな転機の訪れたことを告げてい る。〔眼識東西字,心抱古今憂〕の二句に,これまでの知識本位の生き方のもたらした憂

悶の人間が詠じてあり,それを昏濁の生として自ら憶じている。今三十歳に達し,、知識に       み

のみすがる生き方を否定し,静坐していると,陰陽の禍福自ら判然とし,己を空しうして

(14)

66      茨城大学教育学部紀要 第十号

対象に接すれば,剛も柔も意のままとなる。鳥が大空を翔って雲に入り,魚が流れる水の 中を泳ぐような,自然そのままの生き方が自得されてきた。ここで人間社会の相を眺めれ ば固より一一切が善事として,白雲が悠々と流れるような大らかな心で,そのままが肯定さ れる,というのである。此の詩に現われた漱石の態度は,自然に同化した態度から更に先 へ出ている。即ち,自然に同化した上で,淡々と人間界を凝視できる態度に展開したので ある。ここで捉えられる人問界の動きは,人間か自然かで苦悩しているとき,執着を感じ た世界とは異る。ひとたび人間界から脱却した立場から,純客観的に認識し得る対象とし ての人間界である。春風が貧富貴賎を問わず公平無私に吹き巡ると同様に,無我,無私,

無心で眺め得る人間界である。この態度の確立は,自然に対する態度の前進であると同時 に,人間の観方の前進であった。なんとなれば,自然に即して人間を眺め得る。即ち,人 間に執しないで人間を眺め得る態度の確立をも示しているからである。本作に就いて和田 利男氏は,

(4)

@漱石の人生観が,齢而立にして漸く転機に立つことを,此の詩はよく物語ってゐる。

これまでの一途に世間の汚濁を罵った激越な調子は殆ど消えて,余裕のある高朗なひ びきが之に代らうとしてゐる。これは作者の心の中に,世人に対する寛大な雅量がひ うがり初めた証拠である。唯全体として,内容と表現との渾然たる融合を見ることが 出来ず,何となくまだ消化し切れぬ感じが詩面にまつはってゐるのは,年齢から言っ ても,心境から言っても巳むを得ぬ所であろう。所詮「若」から「老」への過渡期に ある作品といへる。けれども晩年に於ける「則天去私」への歩みが,既に此の頃から 踏み出されてゐることを示すものとして,注意すべき作であらう。

と評しているが,精到な見解である。確かに則天去私へのスタートは認められるが,事 実,理念的にはスタートしたわけであるが,漱石の五官五体は,理念のままには動いてく れなかった。むしろ漱石の人間苦闘はこれから始まるといっても過言であるまい。而も漱 石の場合,異常な生理的事情をも抱え込んでの上の戦いであったのであるから,正に生死 を賭しての前進であった。人間に於ける理念の発見と,その体得との間には無数の深淵瞼 岨の横たわっている事実は,漱石の場合と錐も変わりはなかった。

莫道風塵老  當軒野趣新 竹深鶯齪麟  清書臥嘉春

明治四十五年五月二十四日の作だが,今は風塵の中に在っても,能く心の動揺を覚え ず,ゆったりと自然の動きの中に生き得る心境を詠じている。いわゆる苛烈な人間苦と格 闘を続けながら,かかる心境を次第に拡張し深化させて行くところに漱石の成長があった

      ψ

墲ッである。

(15)

尋仙未向碧山行  住在人間足道情 明暗襲々三萬字  撫摩石印自由成

大正五年八月二十一日,芥川竜之介・久米正雄宛書簡の中に書き加えた作である。 〔明 暗讐々三萬字〕が〔明暗〕執筆を指す。 〔自由成〕に就いては,〔結句に自由成とあるは 少々手前味噛めきますが,是も自然の成行上已を得ないと思って下さい〕と手紙の中で謙 遜したり申訳したりしている。

もう碧山の中に逃げ込む必要もない。うるさい娑婆の埃に塗れていても道の修行は十分 できる。そうした自由の気持となっている,という。此の自由な気持で人間社会の明暗を 写しているのだ,という。

不入青山亦故郷  春秋幾作好文章 託心雲水道機墨  結夢風塵世味長 坐到初更亡所思  起終三味望夫蒼 鳥聲閑庭人鷹静  寂室薫來一妊香

同年九月一日の作で,上掲作と全く同心境を詠じている。といって,大正五年の漱石が 完全に所期の理念に徹したとはいえない。眼識云々の詠で和田氏の指摘した〔みだれ〕は 晩年に到っても完全に消滅してはいない。それは〔明暗〕に於ける〔小林〕の描写だけを 見ても判る。〔岡本〕の描写と比較すると,明らかに小林は冷遇されている。或は〔清子〕

と〔お秀〕の描写にも違いがある。お秀も小林同様,やや冷たく扱われている。決して無 私の態度で描いた人物ではない。好悪が,かなりはっきり出ている。だから漱石は更に成 長を続けなければならなかった。

不愛紅塵不愛林  薫然浮室是知音 猫摩拳石模雲意  時封盆梅見蘇心 塵尾鋭毫朱几側  蝿頭細字紫研陰 閑中有事喫茶後  復賃清喧照苦吟

大正五年十月二日作。自然を愛しようと考えて自然を愛する心には自ら無理が伴う。不 自然な努力も加えなければならない。俗にいう〔力む〕ことさらな態度をとらざるを得な い。ところが此の作に到ると〔不愛林〕という句が出ている。この句には〔愛しよう〕と いう無理な意欲が克服されている。即ち漱石の態度は,愛しようと思わないでも,水の流 れるように愛する姿勢となり得る。正に求めずして自然と共に動き,その理法に叶うとこ うに進んで来ている。彼の行住坐臥,力めずして行雲流水の理法と合致し,大自然の運行 さながらの生活が実現される。だから薫然たる浄室に悠然と文を案じ得る。

非耶非佛又非儒  窮巷費文柳自娯

(16)

68       茨城大学教育学部紀要第十号 探纈何香過藝苑  俳徊幾碧在詩蕪

焚書灰裏書知活  無法界中法解蘇 打殺神人亡影庭  虚空歴々現賢愚

同年十月六日作。此の詩で漱石は既成文化の何物にも制約されず,依存もせぬ自己を明 言し,制約依存していないから賢愚の真相が自ら明らかになるというている。それなら,

既成文化を否定する漱石の立場は何処に在るか,いうまでもなく大自然の理法である。大 自然の理法に順って,人間界を純客観的に眺め得るから賢愚が判然とする。人間に拘泥し ないから人間が判る,という考え方である。

奮識誰言別路遙  新知郡在客中趣 花紅柳緑前縁墨i 鷺暗鴉明今意饒 石上長垂統繍帳  巖頭忽見木蘭擁

       1 瘰ー百榑無奇特  鶏去鳳來我弄篇

同年十月十八日作。自然に順って人間界の事相を眺めれば,新も珍も,たいして変わっ ていない,という詩意。逆に云えば立場が狭く而も偏しているから,己と異るものに出遭 うと,くだらぬ物に新や珍を感じるのだ,といえよう。だから漱石は,同年十月十五日作 の詩の中でも〔総是虚無総是非〕と詠じている。かくの如く自然に順って人間を観る態度 をとり得るようになった漱石は,あらゆる場合に些かも動揺を感じなかったかといえば,

同年十月二十一日には,

吾失天時併失愚  吾今會道道離吾 人間忽蓋聰明死  魔界猶存正義躍 榔地鋸樫金錯劒  砕空燦瀾夜光珠 猫呑涙涕長躊躇  枯侍爾亡立廣衙

とも詠じている。自然に順う態度確立への苦悶動揺の様相が歴々と認められる。天も愚 も道も容易に自己のものとなりきれぬ。得たと思えば失われ,会ったと思えば離れてしま う。ひとり町の中に立ちつくすばかりであるという。松岡譲氏は,

(5)

この詩は甚だ悲調を帯びて,当時漱石の求道の内生活に,かくの如き葛籐があった事 を思はせるに充分だ。彼が「則天去私」の語句を示したのは,この後半月を出でざる 事を思ひ合はせると,この詩は甚だ重要な意味と地位とをもって来るものであって彼 がこの銘を得る迄の苦闘をさへ物語ってゐる。

と解釈している。併し,同日作の五言絶句の中に,

(6)

元是東家子  西隣乞食錦

帰來何所見  奮宅雨罪々

(17)

の如き作もある。自然に即した生命の流れのままに,それこそ雲の流れるように生きる 心が現わされている。詩心は些かも動揺していない。全く同日に,動揺の詩と安定の詩と が生まれている。これは矛盾ではない。安定への波動である。右に傾き左に傾きながら歩 みを続ける漱石の姿である。

自笑壷中大夢人  雲簑標働忽忘神 三竿旭日紅桃峡  一丈珊瑚碧海春 鶴上碧空仙藤静  風吹鰻草藥根新 長生未向蓬莱去  不老只當養一眞

は同年十一月十三日の作。〔自笑壷中大夢人〕は,小天地に果ない夢を見続けていた過 去の漱石を,現在の漱石が欄笑するの意である。過去の漱石を笑う現在の漱石は〔雲衰標 紗忽忘神〕という人間となっている。即ち正に自然に乗って生きる人間である。而して漱 石は,秦の始皇帝の如く徒らに長生は求めず,只,一真を養うのみであるという。〔不老 只當養一眞〕は,陶淵明の〔辛丑歳七月赴假還江陵夜行塗口〕の末尾にある〔養眞衡茅下〕

に本つく。陶淵明は〔真〕を愛した詩人であった。その意は,古代人が持っていたような 物に拘泥しない真実素僕の精神ということにある。仏語としての〔一真〕は,絶対の真理 の義であるが,ここで漱石は陶淵明の用法に遵ったと解するのが妥当であろう。漱石が淵 明の〔真〕に憧れたのは若い頃からで,

江東避俗養天眞(明治二十二年作)

索居負我眞(同三十二年作)

総是虚無総是眞(大正五年作)

の如き句を成している。とにかく,私を去って天に則る心が,真実素僕の心であり,そ の心に生きることに何等の動揺をも感じていないのが此の詩である。

眞躍寂莫杳難尋  欲抱虚懐歩古今 碧水碧山何有我  蓋天蓋地是無心 依稀暮色月離草  錯落秋聲風在林 眼耳襲忘身亦失  空中猫唱白雲吟

〔虚懐〕は,わだかまりのない清い心である。それは碧水碧山の心であり,蓋天蓋地の 心である。即ち虚懐は〔無我〕であり〔無心〕であって,まとめれば大自然の心である。

されば虚懐を抱くことは大自然の無我無心を体得することにほかならぬ。然りとすれば,

〔則天〕の〔天〕が〔大自然〕を指していることは論議の余地もなさそうである。而して

〔則天〕を体得した境地が〔眼耳讐忘身亦失。空中猫唱白雲吟〕という尾聯の内容である。

尚,〔蓋天蓋地〕や〔無心〕等の語は碧巌集に見える語であり,〔空中猫唱白雲吟〕とい

(18)

70      茨城大学教育学部紀要 第十号

う句は,寒山の〔誰能超世累。共坐白雲中〕にヒントを得て成した句であるかも知れな い。漱石が雲を愛する詩人であったことは前に記したが,寒山詩にも雲が多い。両詩人の 共通性が自然に発生させた相似た句であるかとも考えられる。

漱石が此の詩を成したのは大正五年十一月二十一日で,この日,門下の山田繁子の妹江 川久子と辰野隆の結婚披露に招かれ,南京豆を食ぺたのが原因となり,その夜から不快と なり,翌二十二日の午後二時頃臥床,十二月九日,永眠したのであった。だから白雲吟は 正に辞世となった。

以上の如く検討して来た漱石の自然に対する態度を要約すると,第一期に於ては,先ず 芸術美よりも自然美に関心を持つ。併し人間界にも強い執著を感じ,自然か人間かの対立 に心を労する。そのうちに自然の方に次第に傾き,自然への同化を体験するに到る。更に 進んで,自然の理法に順った上で人間界が眺められるゆとりも持てるようになる。第二期 第三期は此の態度で静かに歩み,第四期にはいると,求めずして自然の理法にかなうよ うになる。第一期の終り頃の態度が徹底してきたわけである。そうして少しの無理もなく 自然の理法に順った立場から人間や文化を精細に眺め得る態度が確立されて行く。だいた い,以上の如き態度の進展が認められる。

(1)漱石が第五高等学校教授時代に,彼に詩作を指導した長尾雨山は,此の作に「高古超廻。悠 然而紳遠。風格簑平。入晋宋」という評を与えて〜・る

(2)板垣直子氏は「漱石文学の背景」の中で,「草枕」を検討し,「漱石は日本の俳句をもじって いたり,白楽天,その他漢詩についての造詣も役立てている。が,それらはここにあげた多 くの洋文献ほどに,本質的な技術上の影響を与えなかった。」と論断しているが,引用事項に 拘泥して,作品の本質を見誤った批判にしか過ぎない。

(3)此の二句は「虞美人草」の中にも使用されている。但し・「魚行水自流」を,「魚行水有紋」

と改作している。

(4) 「漱石漢詩研究」230−231ページ

(5) 「漱石の漢詩」329ページ

(6) 此の詩は,良寛の「城中乞食了。得得携嚢露。蹄來知何庭。家在白雪睡」を頭において成し たのであろう。漱石は晩年,良寛にも強く魅力を感じていた。

む  す  び

西行や宗砥は自然に生きた放浪詩人であった。芭蕉も此の系譜にはいる。ひとしく自然 を愛し,「人よりも空,語よりも黙。・・…肩に来て人懐かしや赤蜻蛉」と書いている漱石 は,これらの自然詩人とは異る。漱石も旅を愛し,学生時代には旅宿の灯に親しんだ。併

し彼は放浪はしなかった。人間を捨てて山野に隠れもしなかった。最後まで巷に在って・

自然を憧憬し,進んでその本質を体得し,飽くまで人間として生き抜いた詩人であった・

仰臥人如唖  黙然見大空

(19)

大空雲不動  終日杳相同

初めに引用したこの詩に自然を愛した詩人漱石の基本態度が明示されている。歩き廻る 自然詩人ではなくて,黙然として大空を凝視して深く思索する詩人であった。皮肉な言い 方をすれば〔硝子戸の中〕の自然詩人だった。

たとえば西行は,自然に放浪しながら〔花も枯れ紅葉も散りぬ山里は淋しきをまた訪ふ 人もがな〕と,たまらなく人間を懐しんだ。硝子戸の中に在って自然の運行に順ひ得た漱 石も亦,人間を温い眼で眺めた。が,彼は懐しんでいただけではない。自然に順った立場 から,懐しい人間の本質を厳しく探求し続けた。ここに漱石の積極性が認められ,自然詩 人西行との相違がある。だから漱石は自然の理法を踏まえた人間詩人というぺきであろ

う。踏まえた自然の理法は科学的なものではなくして倫理的なものであった。だからくわ しくいえば,倫理的な人間詩人となる。而して,漱石が自然の理法を踏まえるに到った原 因として,禅と共に中国文学の影響が考えられる。特に陶淵明,王維,それから寒山等の 感化である。これらの大陸詩人と漱石との関連に就いて更に精細に検討する必要がある。

〔了〕

〔附記〕 引用文の文字及び仮名つかいはすぺて原文のまま。

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