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交学の分類に現われた漱石の交学観
塚
本
勝 義
夏目漱石の文学観の到達点は則天去私の文単純にあるという。併しながら,その則天去 私の内容も,そこに到達した過程乃至展開も明らかには捉えられていない。所謂一説は数 多く提出されているが万人の首肯する定説的見解にわれわれは未だ接することができな
い。
私はこの明瞭でない漱石の丈学観を究明する一作業として,彼の試みた文学の分類の跡 を辿って,彼の文単三の一側面を探ってみようと思い立つた。文学の分類という問題を考 察の対象とした理由は,論理的思索に長じた漱石は,幾度か文単の分類を試みており,そ の分類を通して,彼の頭の中に在った丈堂の領域・体系・重点・立揚等が,かなり明確に 捉えられそうに考えられるからである。
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明治二十九年十月,当時,第五高等単校教授であった漱石は,同校の「竜南会雑誌」に
「人生」と題する論丈を掲載した。短い文章であるが,彼の人生観・人間学を端的に表現 しており,而もその見解の申に,後年発展して行った彼の考え方が相当に含まれているの で,注目に価する。この一斗の中で文暦にも言及し,「小説は跨下雑なる人生の一側面を 写すものなり。」と定義したあとで,
蓋し小説に境遇を叙するものあり,晶性を写すものあり,心理上の解剖を試むるもの あり,直覚的に人生を観破するものあり,四者各其方面に向って吾人に教ふる所なき にあらず,然れども人生は心理的解剖を以て終結するものにあらず,叉直覚を以て観 破し了すべきにあらず。
と書いている。ここに小説に関する分類が出ている。即ち,
1 境遇を叙するもの。
2 品性を写すもの。
3 心理上の解剖を試みるもの。
4 直覚的に入生を概破するもの。
の四類がそれである。思い出すままに並べたようにも感じられるが,とにかく最初に見
える小説分類として軽視することはできない。漱石が無造作に用いた言葉を補って各類の 中味を考えてみると,(1)は入問の境遇や社会を主として描写する小説,(2)は人間の品性・
性格といったものを主として描写する小説,(3)は心理解剖に重点を置く小説,(4)は人生の 本態を端的に描出する小説ということになろう。ここで,かかる分類を行った頃の漱石の 動きを一一回する必要がある。漱石は,明治二十九年四月,松山中挙:校を辞して第五高等単 校に転じ,六月に鏡子を嬰って「衣更へて京より嫁を貰ひけり」と喜び,九月には新妻を 伴れて北九州を旅した。彼の生涯を通じて,最も句作に精進したのが此の時期で,正岡子 規に頼んで俳書を東京から送らせて下り読んでいた。併し,文学に関する見解は自身で満 (1 )
足できるほどに統一されていなかったと想像される。後年「私の弾入主義」の中で,この 時期を回想し,大単で「三年勉強して,遂に文学は解らずじまひだった」と言い,「私は 斯うして不安を抱いて大慌を卒業し,同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し,又同様の 不安を胸の底に畳んで遂に外国に迄渡ったのであります。」と述懐している。漱石という 入門は他人の構成した理論を暗諦して安心していられるような頭の簡単な人間ではなかつ (2)
た。自らの構築した理論に生きなければ不安でならなかった。「文学論」の序文でも語っ ている通り,東洋文学の理念と西洋文学理念との矛盾を持て余していたのが此の時期であ った。彼の此の不安動揺は前掲の分類にも其のまま現われている。(1)から③までは西洋丈 学理念を背景とし,(4)は東洋文学理念に基づく。両者が平面的に並んでいるだけで,体系 的に思索した跡が認められない。併しながら此の無造作な,そして雑然とした分類の中 に,後年漱石文学の中核をなす心理角鞘1小説が抽出されていること,及び則天去私の丈平 滑と関連すると考えられる人生を観貸する小説の挙げられていることは興味ある事実とい わなければなるまい。不安動揺の陣痛期の分類であるとはいえ,漱石文学の理念の芽は早
くもここに吹きだしていたのであった。
(1)大正三年十一月二十五El ,学習院で講演したもの。
(2) 「余が英語に於ける知識は無論深しと云ふ可からざるも,漢籍に於けるそれに劣れりとは思 はず。学力は同程度として好悪のかく迄に岐かるyは両者の性質のそれ程に異なるが為めな らずんばあらず,換言すれば漢文学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括 し得ぺからざる異種類のものたらざる可からず。」というている。
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永いこと不安動揺を続けていた漱石は,結局,自E!、自身の文学観を確立しないことには
絶対に安心は得られないことを悟り,彼自身の言葉を惜りて言えば,自己本位の態度を決
定し,mンドンの宿舎で丈学論研究に着手したのが明治三十四年九月のことであった。そ
塚 .lr・:文学の分類に現われた漱石の文学観 3
れは心理堂と社会単とに依って:交学の本質を門門しょうとする研究であった。未定稿を携 えて三十六年一月に帰朝した。更に研究を続けて完成させるつもりであったが,身辺多忙 を極めて進捗しなかった。この未定稿の一回分を整理して三十六年九月から三十八年六月 にかけて「英丈学:概説」という題隅で,東京帝国大単で講義したのが, 「:文学:論」であ る。これは心理単的立揚から文学を研究したもので,文字通り漱石に於ける自己本位の文 学論であって,部分的な考究にも全体の構造にも彼独自の見解が遺憾なく発揮されてい
る.、
先ず「凡そ丈栄的内容の形式は(F+f)なることを要す。」と文単作晶の表現内容を規 定し,:Fは認識的要素であり,fはFに附着する情緒的要素であると説明している。即 ちFは素材を,fは素材にからまる情緒を意昧しているように考えられる。而してFを 次の四類に分けた。
1 感 覚F 2 人 事F 3 超自然F 4 知 識F
(i)の代表は自然界,(2、の代表は善悪喜怒哀楽,(3)の代表は神,鮒の代表は人生問題に開 する観念であるという。この分類に具体的作品を当てはめてみると,〈1)には俳句,②には 好情詩,(3)には古典でいえば「雨月物語」,現代の作品でいえは橘外男の「死妻の結婚」
の如き作品,(4)には長与善郎の「竹沢先生といふ人」や伊藤整の「得能五郎の生活と意 見」等が該当するであろう。併しながら此の分類は,iを除去したFだけに就いて行っ ているから,作晶を統一的に考える時合には余り参考にならない。けれども, こで捉え た科単的に文単を分析する方法は,爾後の漱石の文学襯を形成する上に予て,重要なはた らきをなしている事実を見落すことができない。彼の強靱な論理的思索の基盤として,い つでも精密な分析的思索が行われていたのであるから。
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明治三十九年六月十日号の「中学世界」に漱石の談話筆記「文学談片」が掲載された。
この談話の申で,「文単は吾人のテーストの発表である。即ち好悪の表はすものである。i
と言って,この好悪如何によって文拳を二大別した。その一はPositiveの文学, の一th
はNegativeの文学である。自分の好きな方面,一言にしていえば満足をあらわす文学
が積 極的文挙である。この積極的文艶は更に二種に分れる。現在を本位とする積極的文学
と,現在に満足しないで理想を追求する理想主義文学がそれである。現在の社会,人聞,
状態に満足するところがら生れる文学が現在本位の丈学で,太平無事の時代や伸経の麻痺 した時代に此の種の文学が発生する。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」,セルバンテス の「ドン・キホーテ」等が其の好例といえる。現在の社会や人間に満足していないが,そ の作者は理想を有し,その理想実現の可能性を信じながら,作品を生み出す,そこに理想 主義の文学が発生する。消極的の文学は,厭悪の情を現わし,自己の生きる現実に対して 破壊的態度をとる。この種の文学には,自分の厭なものを真正面から攻撃するもの,御殿 浄財の悪口のように丁寧に嘲弄するもの,現在に不満だが,その不満な現在に同情するも の,厭な現在を冷酷な眼で平然と罵倒するもの等に分けられる。そうして,正面攻撃の例 としてディツケンスを,御殿女中式攻撃の例にアディソンを挙げている。冷酷罵倒の例は 示していないけれども,スウィフ1・の「ガリヴァ旅行記」を代表として考えていたであろ
うことは「文学評論」を一読すれば其の見当がつく。以上の所説を表示すると次のよう になる。
現在本位の文学
更
上品に嘲弄する文学 消極的文学
不満だが同情する文学 冷酷に罵倒する文学
「文学論」に於ける分類が作品の素材に着濁した分析的分類であるに対して,此の分類 は作家の入間や社会に対する態度に着目した体系的な分類である。この分類に接して気づ くことは,後年「彼岸過迄」や「行人」の如き懐疑的小説の傑作を書いた漱石が,この系 譜の消極的小説を此処で採り上げていないことである。後出の分類でも触れていないとこ ろがら観れば,懐疑を消極的曇霞共通の傾向と考えていたのであろうかとも推察せられ る。とにかく此処で試みた漱石の分類は,術語は現実肯定の文学(積極的年魚う現実否定 の文学:(消極的文学)と変えたけれども,実質的には此のまま現在でも用いられている。
省,漱石自身の文単の多くは消極的文学の範疇にはいるようである。
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明治三十九年九月号の「新小説」に発表した「草枕」,は漱石自らいうているが如く,
彼の芸術観,人生観の一部を,かなり三二に表現した作晶である。到る所に彼の意見が転
っている。併しながら共の数多い意見のために些かも情趣が傷つけられていない,という
稀有の作晶で,今更の如く漱石の作家的手腕の非凡であったことに驚かざるを得ない。主
塚本:文学の分類に現われた漱石の文学二
人公の画工を通して表珊されている多くの意見の中から芸術に関するものを抜き出して整 理すると,一つの芸術概論が成り立つ。勿論,芸術分類もやっている。
1世間的芸術
芸術擁間的芸術
という分類が出ている。奏聞芸術を膨隆芸術,出世間芸術を解脱芸術とも呼んでいる。
世間芸術とは,人情・理非・同情・愛・正義・自由といった世間的な問題を内容とする芸 術であって,西洋芸術は大方この範疇に入る。「若し人情なる狭き立脚地に立って,芸術 の定義を下し得るとすれば,芸術は,われ無教育ある士入の胸裏に潜んで,邪を避け正に 就き,曲を斥け直にくみし,弱を扶け強を挫かねば,どうしても堪へられぬと云ふ一念の 結晶して燦として白日を射返すものである。」と説き,正・直・侠等の理念が根本に在る芸 術であるという。約言すれば道義を中核とする芸術ということになる。この道義の中に
「侠」の理念を加えたところに漱石の特色があり,江戸ヅ子漱石の地金を認め得る。かか る世間芸術に対して,「住みにくき世から,住みにくき煩ひを引き抜いて,専有い世界を まのあたりに写す」のが出世間芸術である。「苦しんだり,怒ったり,騒いだり,泣いた りは人の世のつきものだ。余も三十年の間それを仕通して,飽々した。飽き亭々した上に 芝居や小説で同じ刺戟を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞 するやうなものではない。俗念を放棄して,しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩 である。」という。即ち,人情を鼓舞し,生きる力を与えるのが世聞芸術の本質である が,これは,人情を忘却して,塵界を離れた気持にさせるところに特質がある。前者が人 聞活動のための芸術であるに対して,後者は休養睡眠の芸術である。二十世紀の入間にだ って睡眠が必要だ。然りとすれば休養睡眠の芸術も亦必要だ,と主張する。然らば塵界を 離れた気持にさせる出世間芸術の本質は何か,それは人情を抜き去った「美」である。即 ち非人情の美である。主人公の画工と那美さんが交渉する揚面一一結婚とか別離とか,そ んなことを全然考えない恋,その恋の美が非人情の美の一例である。それなら,かかる非 人情の美はどうして実感できるかといえば,
恋はうつくしかろ,孝もうつくしかろ,忠君愛国も結構だらう。然し自身が其局に当 れば利害の旋風に捲き込まれて,うつくしき事にも,結構な事にも,目は眩んで仕舞 ふ。従ってどこに詩があるか自身にも解しかねる。
これがわかる憾めには,わかる丈の余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者 の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も,
小説を読んで面白い人も,自己の利害は柵へ上げている。見たり読んだりする間丈は 詩人である。
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と言って,対象を余裕ある態度で,客観的に眺めるとき初めて非人惰の美が実感される という。かくの如く余裕ある態度で見出す非人情の美を描いた芸術は東洋に多い,と力説 している。
ここにいう非人情に就いては「文掌論」の中でも言及し,それは道徳抜きの人情である とはっきり説明している。そうして「由来東洋の国学には此趣味深きが如く,吾が国俳文 学にありて殊に刷りとす。」という。この考えが「草枕」で作晶化されたわけである。
a)
併しながら非人情文学が東洋文学にのみ存するものでないことを指摘している点は注意し なければならない。
さて,「草枕」は異色ある作品であるが,漱石の全作品中に於ける位置は決して高くは ない。が,彼の丈学観の展開上から観れば重要な立揚を占めている。出世聞芸術を世間芸 術と対等の位置に立たせたこと,余裕ある態度で対象に接することを説いたこと,この二
が其の重要な立揚を持つ所以である。
(1)文学論の第二編第三章で非人情の定義をしたあとで,先ず東洋の非人情文学の例を挙げ)次 に「或はかの詩人cowperのJohn Gilpinの如き,たs John Gilpinなる男の失策を面 白く描出したるに過ぎず,道徳とは全く没交渉なりとす・或はBurnsのTam o Shonter の如き夜半Tamが馬にてKirkの傍を乗り過ぎむとする時,妖1怪の後より彼を追ひかける と云う滑稽趣味に外ならず,是亦道徳と何等交渉なし。」と説いている。
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明治三十九年十月二十六日,漱石は鈴木三重吉に兜てて「只一つ君に教訓したき事があ る。」という書き出しで,かなり長文の手紙を書いた。君の趣昧から云うとオイラン憂い 式で,つまり自分の美しいと思うことばかり書いて,それで文学者だとすましている様な のは怪しからんと決めつけ,単に美的な文掌は昔の牽者が冷評した如く閑文学に帰着す る。俳旬趣味者は此の閑丈挙の申に遣卜して喜んでいる。しかし大いなる世の中は俳句趣 味では動かせぬ。而も大いに動かさざるべからざる敵が前後左右にあるんだ。美を楽しん でいるだけではどうにもならん。志士の如き気魂を以て,間違ったら神経衰弱でも気違で も入牢でも何でもする了簡でなくては文学者にはなれまい,と思うが如何というのが,そ の教訓の要旨で,唯美的傾向が濃厚であった三重吉に猛省を促し,人生の為の文学に進む べきことを切望している。これは,三重吉に対する希望であると共に,漱石自身の文学観
を表明し,文学者としての自己の態度を語った言葉として注目に価する。
この教訓の結びとして,「僕は一面に於て俳階的文学に出入すると同時に一面に於て死
ぬか生きるか,命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見た
塚 本:文学の分類に現われた漱石の文学観
い。コと書いている。ここで,
…難蹴る開学
という分類が看取されよう。この分類を「草枕」の分類に当てはめると,出世間芸術の 中に御階的文学が,世間芸術の中に死ぬか生きるかの:文学が位置する。而して漱石は「草 枕」に於けると同横に両類の文:学を対等に位置せしめて共に肯定している。なるほど上掲 引用文の語調は,生死文栄の方に力を入れているように感じられるが,(教訓の主旨もや はりそうだが)さりとて,決して俳野砲文牽を否定はしていない。同年十一月六日附,森 a)
田草平宛書簡の中で「正月には何か純人情的即ちシャボテン式ならざる物をかきたいと思 ふ。」と書いているが,純人情的が生死文学に,シャボテン式が俳聖的丈学に該当する。
この森田宛書簡も亦両文学を肯定して書いていることは明瞭過ぎる。この両文学を対等に 肯定したという事実は,漱石の交物観を知る上で,二つの問題解明に有力な手がかりを与 える。その一一は「草枕」の位置を決定する手がかりであり,その一は彼の文栄勧の構造を 知る手がかりである。
いうまでもなく「草枕」は俳諮的文学の中にはいるのであるから,そこに表現されてい る芸術観(:交零下)は,当時の漱石に於ける一面の見解にしか過ぎぬ,と判断される。彼 の全部の文牽観の表現ではなかった。この判新は,同三十九年八月七日附,畔柳芥舟宛書 簡の中で,「来九月の新小説に小生が芸術国際人生観の一局部を代表したる小説あらはる べく是は是非御読みの上御批評願度候。是とても全部漱石の趣味意見と申す訳に無雑其辺 はあらかじめ御断はり三階。.1と言っている1事実に依っても妄断でないことが判ろう。 ど こまでも漱石の全部の意見ではなくして,半面の,一局部の意見にしか過ぎなかったので ある。それなら,三重吉に生死文単をやれと激しく要求しながら,自分ではなぜ俳諾的文 学を書いたのであろうか。思うに,当時の文壇は自然主義浅学の勃興期に当り,多くの作 家批評家が,所謂生死文学のみを問題としでいたので,視野の広い,体系的に物を考える (2)
漱石は,生死文学のみが文学でないことに気づき,磨文壇批判の意味で敢て之を発表した のであろうと考えられる。
かくの如く「草枕」は三十九年に於ける漱石の全部の文単観の表現ではないことが明ら かであるから,三十九年の漱石の3ζ挙:観を,「草枕」で塗りつぶすことは出来ない。だか ら,三十九年の漱石という作家を唯美的な浪漫主義作家と断ずることは一部を捉えて全部 と謳いる妄説である。又,「草枕」と「二百十日」「野分」等を同一一線上に並べて,浪漫 主義から鐸実主義への展開と解するのも完全に誤りと言わなければならぬ。「二百十日」
「野分」等は,生死丈単の系譜に属する作品であって,「草枕」とは対立して平行する位
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置を持つ。上述した通り漱石は,俳壇的文学と生死文学とを平等に視野に収めていて,先 ず「草枕」を書き,次に「二百十日」を書いたのであって,それは単なる執筆順序の前後 の差であって,文学理念の内面的展開に因する現象ではない。
ここで私は,漱石の文学作品に俳諮的文学と生死交学との二つの大きな流れのあった事 実を指摘しておきたい。即ち,「草枕!の系譜と「二百十日!の系譜とである。前者の流 れは,創作では「草枕」や,その他の初期の浪漫的作品であり,彼の愛好した俳句や漢詩 もこの系列に属する。その基盤は東洋文学に在ると考えられる。後者の流れは「吾輩は猫 である」から「明暗」に至る代表的作品であって,その基盤は西洋文学に求められてい る。此の二つの流れが,何時,何処で,どのように結合されたか,その結合にあたって,
「丈学論」に見える心理的な文挙観が如何様にはたらいたか,興味ある研究題目であろ
う。
(1) 明治四十年一一・月号の「ホ}トギス」に発表した「野分」を指す。この作品は三十九年十二月 九日起稿,同二十日脱稿。
(2) 文壇人の偏向を批判しただけで,自然主義文学を否定したのではない。だから,此の当時 「破戒」を明治文壇の代表作だと称揚している。
s
明治三十九年十一一月十五日号の「丈章世界」に,談話筆記「余が草枕!を掲載した。こ の談話の中では,
人生の真相を味はせる小説 小 説
入生の苦を慰籍する小説
という分類を行った。人生の真相を味わせる小説が,前述の世間芸術・人情芸術・生死 文学で人生の苦を慰籍する小説が,出世間芸術・解脱芸術・俳諮的文学である。ここで
「人生の真相を味はせる」と言って,「人生の真相を知らせる」とは言わなかったところ に「丈学論」に於ける分析的な文学研究が裏打ちされている慎重な表現であることが知ら れる。文学的内容は(F十f)であるとしつかと押さえている。(£)を認めるからこそ「味 はせる」といったのである。
又,漱石は前者を川柳的小説,後者を俳句的小説とも呼び,「私の草枕は,無論後者に
属すべきものである。」と言い,其の特質として,「唯一種の感レ〜美しい感じが読者の
頭に残りさへすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ,プ
ロツ1・も無ければ,事件の発展もない・」と説明している。とにかく俳句的小説の主張と
定位は漱石の独創である。而して此の独創的見解が狭際な国粋意識から出発したものでな
塚 本:文学の分類に現われた漱石の文学観 9
く・東西文学を公平に視野に収めて,精査した上で提示されているところに注目すべき価 値が存する。漱石の思索が,既有の理論に支配されず,現実の文学現象を客観的に自由に 捉えて,奔放に進められたところに,かかる独創的見解が生まれたというべきである。一 部の研究者は,西洋文学に対する東洋文挙の主張として「草枕」は執筆せられた,と解し ているが,それこそ町営の引き倒しというべきである。そうしたケチな了簡は夙に・ンド ンの宿舎で破砕し尽くしていたのであった。明治三十四年九月十二B附,寺田寅彦宛書簡 の中で,「学問をやるならコスモポリタンのものに限り候」と言っていた漱石であった事 実を見落してはならない。
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漱石は明治四十四年四月,東京美術学校の文学会発会式で「文芸の哲学的基礎」と題す る三図すべき講演を行った。この講演では,作家の理想に着目して,文学を次の如く分類
した。