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交学の分類に現われた漱石の交学観

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1

交学の分類に現われた漱石の交学観

勝 義

 夏目漱石の文学観の到達点は則天去私の文単純にあるという。併しながら,その則天去 私の内容も,そこに到達した過程乃至展開も明らかには捉えられていない。所謂一説は数 多く提出されているが万人の首肯する定説的見解にわれわれは未だ接することができな

い。

 私はこの明瞭でない漱石の丈学観を究明する一作業として,彼の試みた文学の分類の跡 を辿って,彼の文単三の一側面を探ってみようと思い立つた。文学の分類という問題を考 察の対象とした理由は,論理的思索に長じた漱石は,幾度か文単の分類を試みており,そ の分類を通して,彼の頭の中に在った丈堂の領域・体系・重点・立揚等が,かなり明確に 捉えられそうに考えられるからである。

1

 明治二十九年十月,当時,第五高等単校教授であった漱石は,同校の「竜南会雑誌」に

「人生」と題する論丈を掲載した。短い文章であるが,彼の人生観・人間学を端的に表現 しており,而もその見解の申に,後年発展して行った彼の考え方が相当に含まれているの で,注目に価する。この一斗の中で文暦にも言及し,「小説は跨下雑なる人生の一側面を 写すものなり。」と定義したあとで,

  蓋し小説に境遇を叙するものあり,晶性を写すものあり,心理上の解剖を試むるもの   あり,直覚的に人生を観破するものあり,四者各其方面に向って吾人に教ふる所なき   にあらず,然れども人生は心理的解剖を以て終結するものにあらず,叉直覚を以て観   破し了すべきにあらず。

 と書いている。ここに小説に関する分類が出ている。即ち,

  1 境遇を叙するもの。

  2 品性を写すもの。

  3 心理上の解剖を試みるもの。

  4 直覚的に入生を概破するもの。

 の四類がそれである。思い出すままに並べたようにも感じられるが,とにかく最初に見

(2)

える小説分類として軽視することはできない。漱石が無造作に用いた言葉を補って各類の 中味を考えてみると,(1)は入問の境遇や社会を主として描写する小説,(2)は人間の品性・

性格といったものを主として描写する小説,(3)は心理解剖に重点を置く小説,(4)は人生の 本態を端的に描出する小説ということになろう。ここで,かかる分類を行った頃の漱石の 動きを一一回する必要がある。漱石は,明治二十九年四月,松山中挙:校を辞して第五高等単 校に転じ,六月に鏡子を嬰って「衣更へて京より嫁を貰ひけり」と喜び,九月には新妻を 伴れて北九州を旅した。彼の生涯を通じて,最も句作に精進したのが此の時期で,正岡子 規に頼んで俳書を東京から送らせて下り読んでいた。併し,文学に関する見解は自身で満       (1 )

足できるほどに統一されていなかったと想像される。後年「私の弾入主義」の中で,この 時期を回想し,大単で「三年勉強して,遂に文学は解らずじまひだった」と言い,「私は 斯うして不安を抱いて大慌を卒業し,同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し,又同様の 不安を胸の底に畳んで遂に外国に迄渡ったのであります。」と述懐している。漱石という 入門は他人の構成した理論を暗諦して安心していられるような頭の簡単な人間ではなかつ        (2)

た。自らの構築した理論に生きなければ不安でならなかった。「文学論」の序文でも語っ ている通り,東洋文学の理念と西洋文学理念との矛盾を持て余していたのが此の時期であ った。彼の此の不安動揺は前掲の分類にも其のまま現われている。(1)から③までは西洋丈 学理念を背景とし,(4)は東洋文学理念に基づく。両者が平面的に並んでいるだけで,体系 的に思索した跡が認められない。併しながら此の無造作な,そして雑然とした分類の中 に,後年漱石文学の中核をなす心理角鞘1小説が抽出されていること,及び則天去私の丈平 滑と関連すると考えられる人生を観貸する小説の挙げられていることは興味ある事実とい わなければなるまい。不安動揺の陣痛期の分類であるとはいえ,漱石文学の理念の芽は早

くもここに吹きだしていたのであった。

(1)大正三年十一月二十五El ,学習院で講演したもの。

(2) 「余が英語に於ける知識は無論深しと云ふ可からざるも,漢籍に於けるそれに劣れりとは思    はず。学力は同程度として好悪のかく迄に岐かるyは両者の性質のそれ程に異なるが為めな    らずんばあらず,換言すれば漢文学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括    し得ぺからざる異種類のものたらざる可からず。」というている。

2

 永いこと不安動揺を続けていた漱石は,結局,自E!、自身の文学観を確立しないことには

絶対に安心は得られないことを悟り,彼自身の言葉を惜りて言えば,自己本位の態度を決

定し,mンドンの宿舎で丈学論研究に着手したのが明治三十四年九月のことであった。そ

(3)

塚 .lr・:文学の分類に現われた漱石の文学観 3

れは心理堂と社会単とに依って:交学の本質を門門しょうとする研究であった。未定稿を携 えて三十六年一月に帰朝した。更に研究を続けて完成させるつもりであったが,身辺多忙 を極めて進捗しなかった。この未定稿の一回分を整理して三十六年九月から三十八年六月 にかけて「英丈学:概説」という題隅で,東京帝国大単で講義したのが, 「:文学:論」であ る。これは心理単的立揚から文学を研究したもので,文字通り漱石に於ける自己本位の文 学論であって,部分的な考究にも全体の構造にも彼独自の見解が遺憾なく発揮されてい

る.、

 先ず「凡そ丈栄的内容の形式は(F+f)なることを要す。」と文単作晶の表現内容を規 定し,:Fは認識的要素であり,fはFに附着する情緒的要素であると説明している。即 ちFは素材を,fは素材にからまる情緒を意昧しているように考えられる。而してFを 次の四類に分けた。

  1 感 覚F   2 人 事F   3 超自然F   4 知 識F

 (i)の代表は自然界,(2、の代表は善悪喜怒哀楽,(3)の代表は神,鮒の代表は人生問題に開 する観念であるという。この分類に具体的作品を当てはめてみると,〈1)には俳句,②には 好情詩,(3)には古典でいえば「雨月物語」,現代の作品でいえは橘外男の「死妻の結婚」

の如き作品,(4)には長与善郎の「竹沢先生といふ人」や伊藤整の「得能五郎の生活と意 見」等が該当するであろう。併しながら此の分類は,iを除去したFだけに就いて行っ ているから,作晶を統一的に考える時合には余り参考にならない。けれども, こで捉え た科単的に文単を分析する方法は,爾後の漱石の文学襯を形成する上に予て,重要なはた らきをなしている事実を見落すことができない。彼の強靱な論理的思索の基盤として,い つでも精密な分析的思索が行われていたのであるから。

7︾

 明治三十九年六月十日号の「中学世界」に漱石の談話筆記「文学談片」が掲載された。

この談話の申で,「文単は吾人のテーストの発表である。即ち好悪の表はすものである。i

と言って,この好悪如何によって文拳を二大別した。その一はPositiveの文学, の一th

はNegativeの文学である。自分の好きな方面,一言にしていえば満足をあらわす文学

が積 極的文挙である。この積極的文艶は更に二種に分れる。現在を本位とする積極的文学

と,現在に満足しないで理想を追求する理想主義文学がそれである。現在の社会,人聞,

(4)

状態に満足するところがら生れる文学が現在本位の丈学で,太平無事の時代や伸経の麻痺 した時代に此の種の文学が発生する。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」,セルバンテス の「ドン・キホーテ」等が其の好例といえる。現在の社会や人間に満足していないが,そ の作者は理想を有し,その理想実現の可能性を信じながら,作品を生み出す,そこに理想 主義の文学が発生する。消極的の文学は,厭悪の情を現わし,自己の生きる現実に対して 破壊的態度をとる。この種の文学には,自分の厭なものを真正面から攻撃するもの,御殿 浄財の悪口のように丁寧に嘲弄するもの,現在に不満だが,その不満な現在に同情するも の,厭な現在を冷酷な眼で平然と罵倒するもの等に分けられる。そうして,正面攻撃の例 としてディツケンスを,御殿女中式攻撃の例にアディソンを挙げている。冷酷罵倒の例は 示していないけれども,スウィフ1・の「ガリヴァ旅行記」を代表として考えていたであろ

うことは「文学評論」を一読すれば其の見当がつく。以上の所説を表示すると次のよう になる。

       現在本位の文学

      更

       上品に嘲弄する文学        消極的文学

       不満だが同情する文学        冷酷に罵倒する文学

 「文学論」に於ける分類が作品の素材に着濁した分析的分類であるに対して,此の分類 は作家の入間や社会に対する態度に着目した体系的な分類である。この分類に接して気づ くことは,後年「彼岸過迄」や「行人」の如き懐疑的小説の傑作を書いた漱石が,この系 譜の消極的小説を此処で採り上げていないことである。後出の分類でも触れていないとこ ろがら観れば,懐疑を消極的曇霞共通の傾向と考えていたのであろうかとも推察せられ る。とにかく此処で試みた漱石の分類は,術語は現実肯定の文学(積極的年魚う現実否定 の文学:(消極的文学)と変えたけれども,実質的には此のまま現在でも用いられている。

省,漱石自身の文単の多くは消極的文学の範疇にはいるようである。

4

 明治三十九年九月号の「新小説」に発表した「草枕」,は漱石自らいうているが如く,

彼の芸術観,人生観の一部を,かなり三二に表現した作晶である。到る所に彼の意見が転

っている。併しながら共の数多い意見のために些かも情趣が傷つけられていない,という

稀有の作晶で,今更の如く漱石の作家的手腕の非凡であったことに驚かざるを得ない。主

(5)

塚本:文学の分類に現われた漱石の文学二

人公の画工を通して表珊されている多くの意見の中から芸術に関するものを抜き出して整 理すると,一つの芸術概論が成り立つ。勿論,芸術分類もやっている。

     1世間的芸術

  芸術擁間的芸術

 という分類が出ている。奏聞芸術を膨隆芸術,出世間芸術を解脱芸術とも呼んでいる。

世間芸術とは,人情・理非・同情・愛・正義・自由といった世間的な問題を内容とする芸 術であって,西洋芸術は大方この範疇に入る。「若し人情なる狭き立脚地に立って,芸術 の定義を下し得るとすれば,芸術は,われ無教育ある士入の胸裏に潜んで,邪を避け正に 就き,曲を斥け直にくみし,弱を扶け強を挫かねば,どうしても堪へられぬと云ふ一念の 結晶して燦として白日を射返すものである。」と説き,正・直・侠等の理念が根本に在る芸 術であるという。約言すれば道義を中核とする芸術ということになる。この道義の中に

「侠」の理念を加えたところに漱石の特色があり,江戸ヅ子漱石の地金を認め得る。かか る世間芸術に対して,「住みにくき世から,住みにくき煩ひを引き抜いて,専有い世界を まのあたりに写す」のが出世間芸術である。「苦しんだり,怒ったり,騒いだり,泣いた りは人の世のつきものだ。余も三十年の間それを仕通して,飽々した。飽き亭々した上に 芝居や小説で同じ刺戟を繰り返しては大変だ。余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞 するやうなものではない。俗念を放棄して,しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩 である。」という。即ち,人情を鼓舞し,生きる力を与えるのが世聞芸術の本質である が,これは,人情を忘却して,塵界を離れた気持にさせるところに特質がある。前者が人 聞活動のための芸術であるに対して,後者は休養睡眠の芸術である。二十世紀の入間にだ って睡眠が必要だ。然りとすれば休養睡眠の芸術も亦必要だ,と主張する。然らば塵界を 離れた気持にさせる出世間芸術の本質は何か,それは人情を抜き去った「美」である。即 ち非人情の美である。主人公の画工と那美さんが交渉する揚面一一結婚とか別離とか,そ んなことを全然考えない恋,その恋の美が非人情の美の一例である。それなら,かかる非 人情の美はどうして実感できるかといえば,

  恋はうつくしかろ,孝もうつくしかろ,忠君愛国も結構だらう。然し自身が其局に当   れば利害の旋風に捲き込まれて,うつくしき事にも,結構な事にも,目は眩んで仕舞   ふ。従ってどこに詩があるか自身にも解しかねる。

  これがわかる憾めには,わかる丈の余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者   の地位に立てばこそ芝居は観て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も,

  小説を読んで面白い人も,自己の利害は柵へ上げている。見たり読んだりする間丈は   詩人である。

5

(6)

 と言って,対象を余裕ある態度で,客観的に眺めるとき初めて非人惰の美が実感される という。かくの如く余裕ある態度で見出す非人情の美を描いた芸術は東洋に多い,と力説 している。

 ここにいう非人情に就いては「文掌論」の中でも言及し,それは道徳抜きの人情である とはっきり説明している。そうして「由来東洋の国学には此趣味深きが如く,吾が国俳文 学にありて殊に刷りとす。」という。この考えが「草枕」で作晶化されたわけである。

a)

併しながら非人情文学が東洋文学にのみ存するものでないことを指摘している点は注意し なければならない。

 さて,「草枕」は異色ある作品であるが,漱石の全作品中に於ける位置は決して高くは ない。が,彼の丈学観の展開上から観れば重要な立揚を占めている。出世聞芸術を世間芸 術と対等の位置に立たせたこと,余裕ある態度で対象に接することを説いたこと,この二

が其の重要な立揚を持つ所以である。

(1)文学論の第二編第三章で非人情の定義をしたあとで,先ず東洋の非人情文学の例を挙げ)次    に「或はかの詩人cowperのJohn Gilpinの如き,たs John Gilpinなる男の失策を面    白く描出したるに過ぎず,道徳とは全く没交渉なりとす・或はBurnsのTam o Shonter    の如き夜半Tamが馬にてKirkの傍を乗り過ぎむとする時,妖1怪の後より彼を追ひかける    と云う滑稽趣味に外ならず,是亦道徳と何等交渉なし。」と説いている。

5

 明治三十九年十月二十六日,漱石は鈴木三重吉に兜てて「只一つ君に教訓したき事があ る。」という書き出しで,かなり長文の手紙を書いた。君の趣昧から云うとオイラン憂い 式で,つまり自分の美しいと思うことばかり書いて,それで文学者だとすましている様な のは怪しからんと決めつけ,単に美的な文掌は昔の牽者が冷評した如く閑文学に帰着す る。俳旬趣味者は此の閑丈挙の申に遣卜して喜んでいる。しかし大いなる世の中は俳句趣 味では動かせぬ。而も大いに動かさざるべからざる敵が前後左右にあるんだ。美を楽しん でいるだけではどうにもならん。志士の如き気魂を以て,間違ったら神経衰弱でも気違で も入牢でも何でもする了簡でなくては文学者にはなれまい,と思うが如何というのが,そ の教訓の要旨で,唯美的傾向が濃厚であった三重吉に猛省を促し,人生の為の文学に進む べきことを切望している。これは,三重吉に対する希望であると共に,漱石自身の文学観

を表明し,文学者としての自己の態度を語った言葉として注目に価する。

 この教訓の結びとして,「僕は一面に於て俳階的文学に出入すると同時に一面に於て死

ぬか生きるか,命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見た

(7)

塚 本:文学の分類に現われた漱石の文学観

い。コと書いている。ここで,

…難蹴る開学

 という分類が看取されよう。この分類を「草枕」の分類に当てはめると,出世間芸術の 中に御階的文学が,世間芸術の中に死ぬか生きるかの:文学が位置する。而して漱石は「草 枕」に於けると同横に両類の文:学を対等に位置せしめて共に肯定している。なるほど上掲 引用文の語調は,生死文栄の方に力を入れているように感じられるが,(教訓の主旨もや はりそうだが)さりとて,決して俳野砲文牽を否定はしていない。同年十一月六日附,森         a)

田草平宛書簡の中で「正月には何か純人情的即ちシャボテン式ならざる物をかきたいと思 ふ。」と書いているが,純人情的が生死文学に,シャボテン式が俳聖的丈学に該当する。

この森田宛書簡も亦両文学を肯定して書いていることは明瞭過ぎる。この両文学を対等に 肯定したという事実は,漱石の交物観を知る上で,二つの問題解明に有力な手がかりを与 える。その一一は「草枕」の位置を決定する手がかりであり,その一は彼の文栄勧の構造を 知る手がかりである。

 いうまでもなく「草枕」は俳諮的文学の中にはいるのであるから,そこに表現されてい る芸術観(:交零下)は,当時の漱石に於ける一面の見解にしか過ぎぬ,と判断される。彼 の全部の文牽観の表現ではなかった。この判新は,同三十九年八月七日附,畔柳芥舟宛書 簡の中で,「来九月の新小説に小生が芸術国際人生観の一局部を代表したる小説あらはる べく是は是非御読みの上御批評願度候。是とても全部漱石の趣味意見と申す訳に無雑其辺 はあらかじめ御断はり三階。.1と言っている1事実に依っても妄断でないことが判ろう。 ど こまでも漱石の全部の意見ではなくして,半面の,一局部の意見にしか過ぎなかったので ある。それなら,三重吉に生死文単をやれと激しく要求しながら,自分ではなぜ俳諾的文 学を書いたのであろうか。思うに,当時の文壇は自然主義浅学の勃興期に当り,多くの作 家批評家が,所謂生死文学のみを問題としでいたので,視野の広い,体系的に物を考える       (2)

漱石は,生死文学のみが文学でないことに気づき,磨文壇批判の意味で敢て之を発表した のであろうと考えられる。

 かくの如く「草枕」は三十九年に於ける漱石の全部の文単観の表現ではないことが明ら かであるから,三十九年の漱石の3ζ挙:観を,「草枕」で塗りつぶすことは出来ない。だか ら,三十九年の漱石という作家を唯美的な浪漫主義作家と断ずることは一部を捉えて全部 と謳いる妄説である。又,「草枕」と「二百十日」「野分」等を同一一線上に並べて,浪漫 主義から鐸実主義への展開と解するのも完全に誤りと言わなければならぬ。「二百十日」

「野分」等は,生死丈単の系譜に属する作品であって,「草枕」とは対立して平行する位

7

(8)

置を持つ。上述した通り漱石は,俳壇的文学と生死文学とを平等に視野に収めていて,先 ず「草枕」を書き,次に「二百十日」を書いたのであって,それは単なる執筆順序の前後 の差であって,文学理念の内面的展開に因する現象ではない。

 ここで私は,漱石の文学作品に俳諮的文学と生死交学との二つの大きな流れのあった事 実を指摘しておきたい。即ち,「草枕!の系譜と「二百十日!の系譜とである。前者の流 れは,創作では「草枕」や,その他の初期の浪漫的作品であり,彼の愛好した俳句や漢詩 もこの系列に属する。その基盤は東洋文学に在ると考えられる。後者の流れは「吾輩は猫 である」から「明暗」に至る代表的作品であって,その基盤は西洋文学に求められてい る。此の二つの流れが,何時,何処で,どのように結合されたか,その結合にあたって,

「丈学論」に見える心理的な文挙観が如何様にはたらいたか,興味ある研究題目であろ

う。

(1) 明治四十年一一・月号の「ホ}トギス」に発表した「野分」を指す。この作品は三十九年十二月    九日起稿,同二十日脱稿。

(2) 文壇人の偏向を批判しただけで,自然主義文学を否定したのではない。だから,此の当時    「破戒」を明治文壇の代表作だと称揚している。

s

 明治三十九年十一一月十五日号の「丈章世界」に,談話筆記「余が草枕!を掲載した。こ の談話の中では,

      人生の真相を味はせる小説   小 説

      入生の苦を慰籍する小説

 という分類を行った。人生の真相を味わせる小説が,前述の世間芸術・人情芸術・生死 文学で人生の苦を慰籍する小説が,出世間芸術・解脱芸術・俳諮的文学である。ここで

「人生の真相を味はせる」と言って,「人生の真相を知らせる」とは言わなかったところ に「丈学論」に於ける分析的な文学研究が裏打ちされている慎重な表現であることが知ら れる。文学的内容は(F十f)であるとしつかと押さえている。(£)を認めるからこそ「味 はせる」といったのである。

 又,漱石は前者を川柳的小説,後者を俳句的小説とも呼び,「私の草枕は,無論後者に

属すべきものである。」と言い,其の特質として,「唯一種の感レ〜美しい感じが読者の

頭に残りさへすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ,プ

ロツ1・も無ければ,事件の発展もない・」と説明している。とにかく俳句的小説の主張と

定位は漱石の独創である。而して此の独創的見解が狭際な国粋意識から出発したものでな

(9)

塚 本:文学の分類に現われた漱石の文学観 9

く・東西文学を公平に視野に収めて,精査した上で提示されているところに注目すべき価 値が存する。漱石の思索が,既有の理論に支配されず,現実の文学現象を客観的に自由に 捉えて,奔放に進められたところに,かかる独創的見解が生まれたというべきである。一 部の研究者は,西洋文学に対する東洋文挙の主張として「草枕」は執筆せられた,と解し ているが,それこそ町営の引き倒しというべきである。そうしたケチな了簡は夙に・ンド ンの宿舎で破砕し尽くしていたのであった。明治三十四年九月十二B附,寺田寅彦宛書簡 の中で,「学問をやるならコスモポリタンのものに限り候」と言っていた漱石であった事 実を見落してはならない。

7

 漱石は明治四十四年四月,東京美術学校の文学会発会式で「文芸の哲学的基礎」と題す る三図すべき講演を行った。この講演では,作家の理想に着目して,文学を次の如く分類

した。

  〈X)感覚物その物に対する理想

  12)感覚物を通じて知・情・意の働く揚合の理想  (2)を更に次の三種に分けた。

  a 知の働く揚合の理想   b 情の働く槍合の理想   C 意志の働く炊合の理想

 く1)の代表として美的理想,(2)のaの代表は真に対する理想,bの代表は愛や道義に関 する理想,cの代表が荘厳に対する理想である。(1)は俳諾文掌を内容とすることは説明す るまでもあるまい。生死文学の内容に体系を与えたのがabcの分類である。だから此 の分類は「草枕」の分類の発展であることが明らかである。abcを感覚物を通じて,と 限定したのは,やはり(F+f)を踏まえて考えているからで,情緒的内容を持っていなけ れは下学作品でないという厳しい拙劣に徹底していたことが窺える。

 以上の二類三種の分類を行ってから,漱石は,各この立引,相互の関連,傾向等に関 し、精しく説明を与えた。先ず四種の文学は凡て平等で,同等の権利を有する。だから,

美の文単・真の文学e愛の文学・荘の文学は同格で,その闇に価値の上下はない。而して 作晶価値の上下は各この中で決定されるべきである。即ち,美の飛雪の揚合であるなら・

他の美の丈学と比較して優劣を批判すべきで,美の文学と真の文:学を比較してかれこれい

うのは根本的に誤謬を侵している。俳句文学の優劣は俳句文学の中で決めるべきで,之を

短歌や小説と比較して論ずるのはナンセンスだという考え方である。

(10)

が耳にしたら,耳かきは十能にならんから価値なし,

あろう。

 次に漱石は,此の四理想は各ミ独自的存在ではあるが,現実の作品に於ては,純粋に美 のみ真のみ愛のみ荘のみの揚合は稀有であって,多くの揚合,四理想が混在しているとい う。而して混在する四要素は,作家により時代に依って,その何れかが強調されるのが常 であって,常代文学に隔ては,[真」が齢しく強調されて,「美」「荘」が軽視されてい るという。此の批判は四十年頃の日本の文壇の実態にぴったり当てはまる。当時は自然主 義文学の高潮期であったから。

 四理想の独自性を説いた漱石は・次に四理想の相互関連に言及し,真の丈学が,「真」

を強調するあまり,「美」や「愛」や「荘」を忘れることは何等差支えないが,全等を傷 つけることは許されない,と主張する。具体的にいえば,人聞性を描くとき,それが人聞 性の真であるなら,何を描いても構わない。が,その作晶が若し読者に悪い感じを与える としたら,それは「美」を傷つけているのであるからまずいという考え方である。され ば,ここに於ける主張は安易な調和論ではなくして,純乎たる芸術作晶を求めるところが ら出発した見解なのである。

 吏に進んで漱石は,何を書いても悪い感じを与えないために,即ち純乎たる芸術作晶を 創作するためには,作家が人間として優れていなければならず,その「優れた作家の人 聞」を完全に表現できる技術の所有者でなければならないという。「入格のない作家の作 物は,卑近なる理想,もしくは,理想なき内容を与ふるのみだからして,感化力を及ぼす 力も極めて薄弱であります。偉大なる人格を発揮する為めにある技術を使って之を他の頭 上に浴せかけた時,始めて文芸の功果は晒焉として末代迄も輝き渡るのであります・」と いう言葉がそれである。偉大なる人格のみが偉大なる作品を生む,ということは,あまり に平凡な立言だが.併し永久の真理である。人は動もすれば平凡なるが故に此の真理を忘 れ易い。漱石は常に此の忘れ易い平凡な真理を反駕していたらしい。晩年,芥川竜之介,

         (1)

久米正雄両人にあてて「人間を押すのです。文士を押すのではありません。」と忠告した のもやはり一つの反鋼と解される。彼の…貫して求めた文学は「入間の文学」であって,

決して「文牽の為の丈学」や「政治の為の文学」ではなかった。

此故に此等四種の理想は,互に平等な権利を有して,相愛すぺからざる標準でありま す。だから美の標準のみを固執して真の理想を評博するのは痂気筋の飛車取り王手の 様なものであります。朝起を標準として人の食慾を批判する様なものでせう。御前は 朝寝坊だ,朝寝坊だから無暗に食ふのだと判断されては誰も心服するものはない。

と皮肉っている。終戦後の混乱期にジャーナリズムが弄んだ俳句第二芸術論などを漱石

       といった愚論として一蹴し去ったで

(11)

塚 本:文学の分類に現われた漱石の文学観

li

 上述の通り,漱石は人格発揮のための表現技術を積極的に肯定していた。併しそれが,

どこまでも内容のための技術であったことを注意しなければならぬ。大正四年の断片に,

  技巧ハ己ヲ偽ル者ニアラズ,己ヲ飾ルモノニアラズ7入ヲ欺クモノニアラズ,己レヲ   遺憾ナ〃人=示ス道呉ナリ,人格即チ技巧ナリ。

 とある。この断片と,明治三十六年,東京帝国官等で講義した「英丈単形式論」を結び       (2)

つけて考えれば,文学に於ける技巧肯定は彼の一貫した思想であったといえる。だから,

      (3)

安易な平面的写実に陶醇していた田山花袋に対して,「持へものを苦にせらるるよりも,

活きて居るとしか思へぬ人間や,自然としか思へぬ脚色を持へる方を苦心したら,どうだ らう。椿へた人闇が活きてみるとしか思へなくって,持へた脚色が自然としか思へぬなら ば,捲へた作者は一種のクリエーターである。持へた事を誇りと心得る方が当然である・」

と言ったのであった。この言葉の内容を,われわれの言葉を以て塗筆すれば、要するに文 学とは虚構を以て真実を表現するものであるということになろう。文学作晶の本質を的確 に道破した至言というべきである。

(り 大正五年八月二十四千僧書簡の一節。

(2)明治四十四年八月,堺市で講演した「中味と形式」も,形式を無視せぬ議論であった。

(3) 明治四十一年十一月七日,国民新聞に掲載した「田山花袋君に答ふ」の一節。

8

 明治四十一年一月,漱石は高浜虚子の「鶏頭」にかなり長い序文を執筆した。それは

「鶏頭」の文学的性格を規定するための立言であった。漱石は先ず「天下の小説」を,

  余裕ある小説   余裕のない小説

 の二類に大別した。余裕ある小説とは,逼らない小説,非常と云う宇を避けた小説,不 断着の小説,触れない小説であり,余裕のない小説とは,セツパ詰った小説,息の塞る様i な小説,一毫も道草を食ったり寄道をして油を売ってはならぬ小説,呑気な分子,気楽な 要素のない小説,たとえばイプセンの脚本を小説に直した様なものだ,と説明している。

そうして余裕ある小説には「抵桐趣味」が附き物だと言って,その「低桐趣味」とは一事 一物に即して右から眺めたり左から眺めたりして容易に去り難い趣味で,依々趣味,恋々 趣味と言ってもよく,「出来る丈長く一つ所に仔立する趣味であるから一方から云へば容 易に進行せぬ趣味である。換言すれば余裕がある入でなければ出来ない趣味である。」と いう。そうして虚子の「鶏頭}は余裕ある小説に属すると解した。

 上の如き両種の小説の特質を説明したあとで,人生には余裕のある揚面と余裕のない揚

(12)

面とがあるのであるから,余裕ある小説も余裕のない小説も共に必要であって,その立揚 は全く同格であると断言する。その断言が案外強く読み取られて,余裕ある小説だけを主 張した檬に解されたきらいがあるが,それは誤解で,漱石は決して余裕のない小説を否定

していない。

  余は小説を区別して余裕派と非余裕派としてイプセンを後者の例に引いた。で前云つ   た通り燃種の小説の特色としては人生の死活問題を拉し来って,切実なる運命の極致   を写すのを特色とする。読者は唱道を挙げて断種の作物を謳欧し,余も亦此点に於て   此種の作物に敬服する。

 という言葉が非余裕小説肯定を明証するであろう。次に本質的に両類は同格であるべき 筈にもかかわらず,世人が非余裕小説を第一義小説だと強調する事実に対して「首を傾け

ざるを得ない弓として,第一義説に疑問をさしはさみ,

  成程是等の作物は第一義の道念に触れて居るかも知れぬ。然し其第一義といふのは生   営営中に在っての第一義である。どうしても生死を脱離し得ぬ煩悩底の第一義であ   る。人生観が是より以上に上れぬとすると是が絶対的に第一義かも知れぬが,もし生   死の関門を打破して二者を眼中に措かぬ人生観が成立し得るとすると今の所謂第一義   は却って第二義に堕在するかも知れぬ。

 という。ここで従来の分類に見出し得なかった小説の存在が想定されるに到った。生死 超越小説がそれである。而して此の生死超越小説の理念は榔の悟りと共通し,俳味とも通 ずるというのであるから,それが東洋精神の系譜に属することが明らかである。以上の説 明を表示すれば,

生磁高説{灘説

 というようになり,余裕小説と非余裕小説の上位に生死超越小説が位することになる。

即ち東洋的余裕小説と西洋的非余裕小説の上に東洋的生死超越小説が位置するのであるか ら,東洋的な相対文学と西洋的な相対文牽とを統括するものが東洋的絶対文学だ,という 解釈が可能となる。

 漱石は青年期に参灘した。その体験は「門」の主入隅宗助に用いられている。晩年にも         (b

郡への関心が蘇り,若い輝僧を友とするにいたった。青年期の郡には教養的色彩が強かっ たが,晩年のそれには宗教的な感じが強い。俳句は青年期から引きつづいて作って来た。

此の郡と俳句が東洋的絶対丈学観を形成する大きな動力となったであろうことは疑う余地

があるまい。かくして漱石は東洋的なものと西洋的なものとを単びながら,最後に,東洋

的なものに安心を得ようとした,ということになろう。さりとて,西洋的なものを捨て去

(13)

塚 本:文学の分類に現われた漱石の文学観 13

つたわけではない。死に到るまで西洋的なものを持ちつづけたが,そこに安心を求めない で,東洋的なものに第一義を発見したのである。

 ここで想起しなければならぬことは,明治二十九年の「人生」の小説分類の中に含まれ ていた「直覚的に人生を観齢するもの」である。この小説と生死超越小説とは同一内容と いえないとしても関連あることは認めなければならない。二十九年に芽生えた人生照破小 説が,長いこと地下にひそんでいて,晩年に到って本格的に成長を始めた,といって過言 であろうか。とにかく此の関連は精密に検討を要する問題である。又,生死超越文単理念 と則天去私の人生観並に芸術観が関連する事も先ず確実だろう。如何に関連しているか,

これも亦今後精査を要する問題である。

 倫,余裕小説に於ける抵徊趣味の内容であるが,ド草枕」に於ける抵梱趣味は美の獲得 に限定されていた。然るにここでは其の領域が拡大されて,人間の真実を捉えるためにも 抵徊趣味の必要なことが説かれてある。これも亦見落し得ない新展開である。これは,主 張としては此処に初めて現われたのであるが,実践の面では,既に前年十二月に執筆を始

 (2)

めた「坑夫」で試みていた。

(1) 鬼村元成と富沢敬道。

(2) 「坑夫の作意と自然派伝奇派の交渉」参照。

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 明治四十一年二月,東京青年会館で講演した「創作家の態度」の中では,文学を主観的 文学と客観的文学とに二大別し,前者を情操国学,後者を揮真文学と呼んでいる。両者の 特質に関して具体的説明を試みているが,それによると,浪漫主義系の文学が惰操文単,

現雲主義系の丈堂が揮真文単ということになるようである。この立揚から日本文学を反省 して,N本には情操文学にほ勝れた作晶が多いけれども,揮真丈単は甚だ不振であるとな し,その原因に就いて「日本人には芸術的精神はありあまる程あった様ですが,科学的精 神は之と反比例して大いに欠乏して居りました。文学に於ても非我の事相を無我無心に鶴 察する能力は全く発達して居らなかったらしいと思ひます。」と言っている。この批判の 正しいことは説明を要しないであろう。科学的精神を基盤とするフランス自然主義を輸入 して作り上げた日本自然主義文学が,忽ち科挙的精神を喪失して,心境本位の私小説に流 れ去った:事実を想起しただけでもそれが首肯されよう。

 ところで漱石は,文学を情操文学と揮真丈学の二に大別して,両文学を共に肯定してい

る。ここで漱石のイズムに対する態度をたしかめておかねばならぬ必要を感ずる。それ

は,輝真丈学の代表として自然主義文学を挙げているからであり,彼を反自然主義作家と

(14)

判断する研究者も存するからである。

 この講演の中で,両文学を細説した結語として,

  両種の文学の特性は以上の如くであります。以上の如くでありますから,墜方共大切   なものであります.決して一方はかりあれば他方は丈壇から駆逐してもよい杯と云は   れる様な根抵の浅いものではありません。叉名前こそ叢誌でありますから自然派と浪   漫派と対立させて,塁を堅ふし濠を深かうして睨み合ってる様に考へられますが,其   実敵対させる事の出来るのは名前丈で,内容はtt方共に往つたり来たり大分入り乱れ   て居ります。のみならず,あるものは見方読方ではどっちへでも編入の出来るものも   生ずる筈であります。だから詳しい区別を云ふと,純客観態度と純主観態度の間に無   数の変化を生ずるのみならず,此変化の各のものと他と結び付けて雑種を作れば叉無   数の第二変化が成立する訳でありますから,誰の作は自然派だとか,誰の作は浪漫派   だとか,さう一概に云へたものではないでせう。

 と述べている。即ち,自然主義と浪漫主義とは同一線上の両端に位するイズムであるこ と,其の中間に両イズムの混合したイズムが無数に存在していること,だから具体的作晶 を判断する揚合,簡単にこれは自然主義の作晶だとか,これは浪漫主義の作品だとか言い 切れるものでない,ということを明言している。この考え方は,嘗て「丈学論」で試みた 科学的考察方法と全く同一であって,動かすべからざる見解である。自然主義:交学の典型 の如く扱われている島崎藤村の「破戒」なども,最後に主人公の丑松を海外渡航に導いた 点に視線をあてれば浪漫主義文学とも解し得る。

 更に1坑夫の作意と自然派伝奇派の交渉」に於ては,両イズムの交渉を一層平明に説い ている。イズムは時代に依って,ある時には浪漫主義に,ある時には自然主義にかたよ る。現代日本文学は自然主義にかたよっているが。極点に達すれば必ず逆戻りして浪漫主          (1)

義にかたよって行く。そうして来るべき時代の中心に浪漫主義文学が坐りこむことは必至

である。併し,この浪漫主義は,以前の浪漫主義とは,少し性格を異にする。なんとなれ

ば,一度自然主義の領域を通過して,多かれ少かれ其の特質を附着させて来ているからで

ある,という。かかる見解に基づいて,「私は自然派が嫌ひぢやない。その派の小説も面

白いと思ふ。私の作物は自然派の小説と或意味ぢや違ふかも知らんが,さればとて自然派

攻撃をやる必要は少しも認めん。」と率直にいう。之等の言葉に依って,自然主義も浪漫

主義も公平に(科学的に)観て,共に肯定していたこと,決して彼が反自然主義作家でな

かった事実も明らかであろう。「誰が書いても出来損ひは悪く,善い物は善いに極ってい

る」というところにこそ漱石の立揚があったのである。要するに彼は文学上の一イズム

の信奉者ではなくして,文牽そのものの信奉者であったのである。だから彼は,イズムの

(15)

       塚 本:文学の分類に現われた漱石の文学観      15        (2)

限界点をしっかと捉えていた。「イズムの功過」の中で,「イズムは会社の決算報告に比 較すべきものである。」と言い,「従ってイズムは既に経過せる事実を土台として成立す るものである。過去を総束するものである。経験の歴史を簡略にするものである。与へら れた事実の輪廓である。型である。」という。そうして,過去の総束である型を以て,日

に日に新なる人間を,人間活動を拘束するのは根本的に誤っていると主張する。かくの如 く徹底したイズム観を抱懐していた漱石が,一イズムの信奉者になり得る筈がない。前述 した様に彼はすべてのイズムを人聞の生み出した事実として認めばしたが,それに拘束さ れ制約されることを激しく拒否したのである。彼は何物よりも先ず「現在の人間が生み出

した文学」を信じたのである。

 (1) 此の推論通り,自然主義文学の次にはラ永井荷風・谷碕潤一郎等の新浪漫主義文学と白樺派    の理想主義文学が勃興した。

 (2) 明治四十三年七月二十三「:1,東京朝日新聞に掲載。

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 以上が明治二十九年から同四十t一一一一]年に至る聞に行った漱石の:文学分類の概観である。此 の概観を試みて先ず気づかせられたことは,分類の基準が多角的であるということであ

る。ヂ文学論」に於ける心理単的立揚,「文学談片1「鶏頭序」等に於ける入間・入生に 対す態度に依る分類,「草枕」「三璽吉宛書簡」「余が草枕」「創作家の態度」等に於け

る作家の態度と丈学内容に依る分類,「丈芸の哲学的基礎」に於ける作家の理想による分 類等,文学という対i象を種々の角度から検討して,本質を誤りなく捉えようとしている。

一の立揚に固執して,半面のみを捉えて安んずるという軽率さがない。これは丈掌の科学 的研究から出発した漱石の特色であり強味であると考えられる。彼は常に視野を広うし て,対象を体系的に分析的に考究する用意を忘れなかった。だから,一にも現実,二にも 現羨:と叫んだ自然主義文学者がr現実暴露の悲哀」を云々したのを捕えて,「理想を持た

ざる者が如何にして現実に悲哀を感じ得るか。」と厳しく詰め寄ることもできたのである。

次に,分類を行う根本理念に,作品に観られたと同様に二つの流れのあったことが指摘せ られる。その一は西洋の科学,丈学に系譜を有する理念であり,その一は東洋文学の理念 である。「丈学論」と「文芸の哲学的基礎」に於ける分類には前者が顕著であり,出世間 芸術・俳謙的文学,余裕ある小説といった術語に後者の系譜が認められる。ここで漱石 が,広く世界の文学を視野に入れていたことがわかる。即ち漱石は,たとえ祖国の文学が 貧弱であろうと,それが文挙:である以上は認めなければならんと考えていたと思われる。

西洋交学に自己の立揚を求めて,冷笑的に東洋文学を祖国の文学を扱うことを絶対にしな

(16)

かつた。而して永い間漱石の胸裏に平行して流れていた東西の理念が,「鶏頭序」の分類 に到って,より高次の理念を捉えることに依って立体的に構成されたところに文学観の新 展開が認められる。

 かくの如く漱石の行った文学の分類は,たとえ小説を主とした分類であったとしても7 作晶内容及び創作活動の本質に着目した分類であったために,彼の丈掌観を究明する上に 於て,かなり貴重な資料を提供しているように感じられる。

〔附記〕 (1) 引用文は,すべて岩波書店版決定版「灘石全集」(昭和十年刊)に拠った・

    (2)引用文の文字・仮名つかいは,すべて原文のままとした。

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