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第1次世界大戦の英国の女性と子供の技術の習得(2)一社会的条件一

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第1次世界大戦の英国の女性と子供の技術の習得(2)

一社会的条件一

永 島利 明*

(1996年11月1日受理)

Women s and Children s Acquisition of Skill in UK during the World War(Part 2):

the Social Condition

Toshiaki NAGAsHIMA*

(Received November 1,1996)

第1次世界大戦と労働組合

周知のように,日本の労働組合団体は1912年8月の友愛会の設立に始まる。1930年代まで労働組 合を支援するいわゆる当時の無産政党は,1930年,1932年の総選挙でともに5議席を得たに過ぎな かった。1932年には国家社会主義を掲げる無産政党が組織され,政党のファシズム化が進んだ。労 働組合員数は1930年代は31−41万に過ぎなかった1)。組織率は5−8%にとどまり,しかも,いくつ

もの無産政党に系列化され,対立抗争を続けた。最も組織率が高かったのは,1931年で7.9%,組合員 数が最も高かったのは,1936年で41万人であった2)。1934年11月に結成された日本労働組合評議 会(全評)は1937年結社禁止となり,1932年4月結成の日本労働同盟は1940年6月解消し,1936年 1月結成の全日本労働総同盟(全総)は,1940年7月に解消して労働組合団体はなくなってしまった。

最後に同月残った海員組合も組合を解散した。そして戦争に協力する産業報国運動だけになり,11 月30日大日本産業報国会の創立大会が開かれた3)。一方,イギリスでは,女性が働くことを制限し ていたとはいえ,労働組合は存在した。1912年イギリスの全労働組合員数は327万7000人であった 4)。 日本の組合の最盛期の約8倍の組合員がいた。このことが働く英国の女にとって好都合であっ たのではなかろうか。

1次世界大戦前,イギリスでは女が働くことのできる仕事は労働組合により制限されていた。この 制限は戦争により,撤廃された。不熟練労働者の使用が認められたことを「労働力の希薄化」とい

った。その対象になったのは,女性と工業の労働経験のなかった学校卒業直前直後の子供であっ

た5)。

「労働力の希薄化」は軍需法規によりひろく行われるようになり,重要産業では労使で協定が結ば れた。すべての協定に標準賃金率を保証すること,戦後希薄化により雇われた労働者は,戦地に行 った男が復員すると交替すること,労働組合の規則も回復する条項が含まれていた。未熟練労働者

*茨城大学技術科教育研究室(〒310−8512水戸市文京2丁目1番地;Laboratory of for the Technology

Education,Faculty of Education,Ibaraki,Mito,lbaraki,310−8512 Japan)

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には不利な条文であったが,当時は問題にならなかったようである。軍事法規は政府が希釈化をす ることを認め,会議や協定を通じて,それを推進した。

軍需省の高官は女が男に変わること,または,生産を向上する目的の重要な変化は,労働者の同意 が協力が確保されているならば,平和的に行われ推進できると主張した。高官は労働条件の保障を することは,このような協力を得ることが必要であり,どんなことでも強制するならば,「労働者の 独裁」でも,望ましい生産目標を達成することに失敗するであろうと信じていた。

軍需法による労働管理

軍需法による管理が行われるようになり,工場の経営者,男女にも相当の苛立ちが生じた。ストラ イキは禁止され,調停の強制が行われた。特別の裁定機関により,工場の規律を破った者には,罰 金が科された。必要がないのに転職することをやめさせるために,「離職許可証制度」が作られた。

許可書がないのに,以前の仕事をやめた労働者は,6週間どこでも雇ってもらうことはできなかった。

退職許可が乱用された。特にそれが発効された最小の2−3カ月がそうであった。その後,1916年1月 最初に軍需法が修正された。労働者の間に不安が生じたので,1917年10月廃止された。労働者を徴 兵するのに都合がよい軍需法の特徴についてイギリス政府の経験は,中断することなく,最大限の 生産をあげることを伴う困難を実例で示していた。

戦争がイギリスの女性や子供の労働時間に影響を与えたのは,戦争の始まりにより,法律で制限さ れて変化したものであった。この法律は夜間や日曜日の労働を禁止していた。非繊維工場では1日10 時間30分・週60時間労働繊維工場では1日10時間・週55時間労働であった。戦争の始まりから1915 年の終わり頃まで時間は延長され,労働監督官の特別命令や法律を無視して,日曜日や夜間の労働 はひんぱんに行われた。二つの政府委員会がこの不満足な状態を扱うことを考案した。そのひとつ で長時間労働が生産に与える好ましくない結果を研究して,1日の労働時間を戦前に戻すことがよい 結果を生む決定的要因であり,戦後8時間労働を積極的に進める運動を強める科学的な議論を提供し

た。

安全,保健,娯楽

工場や事務で女が働くようになり,最初に安全,保健,娯楽の特別の規定が作られた。軍需省は生 産に関係したものにこの省が管理できる施設をつくることを拡大し,女性,少女,少年のため,「福 祉監督官」を雇い入れることを奨励した。同省は工場の所有者に洗濯室や休憩室を作った場合に特 別福祉費用として税金から控除することを許可した。

そうしなければ,過剰利潤税が徴収された。6万人の労働者に大規模な住宅や宿泊施設が提供され た。1915年7月から翌年7月まで市や団体が同じプロジェクトをした場合には,補助金が与えられた。

安全,保健,娯楽が戦争を進める手段として重要なものであるということが認められ,1916年8月 に法律が作られたことからも明らかであり,工場に「福祉施設」を作る追加の特別な規則を作るこ とが永続的な方針になり,内務省はその権限を与えられた。

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軍需産業で働いた影響

高い賃金はよい衣服,恵まれた住宅,良質の食事を与えられるから,健康を悪化させない条件にな った。低賃金の職業についていた女性は,健康が改善された。一方,少年の軍需工場の従業員は過 労と健康の悪化が著しくなった。特に,人の多い職場で働いていたものは戦争の被害を受けた。長 時間労働と過密な人のいる工場で過ごすこと,幼い家族のいる母親が働くこと,軍務で夫や父親が いないこと,若い少年少女が家から遠くはなれた場所で働くこと,これらのすべては家庭を知らな い間に蝕んだ。

男がいないことから女が責任を持つようになり,平均的な工場で働く女は3年間で人格が変わった。

女は自信をもち,自立し,個人に関係しない問題に関心を抱くようになった。女に解放されいろい うな責任のある地位,勤務を国民が理解したこと,戦時立法に関係して政府と接触したことはこの 変化に役立ち,このことにより女は戦争が最も重要なことであることを知り,関係者に希望を持た せた。一方,日本では婦人団体の責任者を除けば,普通の女は責任のある立場にいた例は,あまり 見られなかった。

イギリスでは女は認められたものの,逆に,若い労働者は規律が緩み,不安定な賃金,長時間労働,

学校や少年クラブがひんぱんに閉鎖されることを恐れていた。戦争に刺激されて,人格が悪化して いた。工場で働いていた少年の非行が注目されるようになった。特に,11−13才の少年がそうであっ た。この年代は学校出席法が緩められ,卒業よりも早い時期の雇用が認められていた。

平和と失業

第1次世界大戦が1918年11月11日休戦すると,それに続いて起きたのが工場で人の整理,つまり 戦争で膨らんだ従業員を解雇することで,女性の労働者は新しい問題に直面した。男の熟練工に交 替して雇われた「希釈化」に関係した課題であり,両性の間に「同一賃金,同一労働」の要求が燃 え上がった。まだ,戦争が進行している間イギリスで注目されたのは,戦争体験により明らかにな った弊害を改善するだけではなく,平和にどのように適応するかということであった。非公式に議 論されることにくわえて,公的に再建省が設立されて,多くの小委員会が作られた。政府のプラン より戦争が早く終わり,戦争から平和への転換の計画が大急ぎでインスタントに作られた。

予想されたように,1919年3月の第1週に49万4,000人の女性が失業したしたのが,高い数字であ った。しかし,だんだん人数は減り,同年11月には2万9,000人になった。再建省の委員会の総合計 画の概要では,政府が信頼されるために失業ですることは,失業手当または「寄付金」にたよる制 度であった。失業女性には最初の13週間に1週当り6ポンド,次の同期間に1週当り3.6ポンド支払

うというものであった。寄付金の執行について多くの不満がよせられた。女性の場合が特にそうで あった。一つには提案されたことを断り,「納税者を犠牲にして,休暇を取ることはできない」とい う申し出があった。他方,失業した女からは,低賃金の長時間労働,特に,クリーニング業や家事 労働をしていたものに替わって,寄付を断ることを強制されるという抗議行われた。失業寄付金の 計画は1919年5月に6カ月更新され,11月民間人は完全に終わった。

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労働法規の進歩

希釈化と「同一賃金,同一労働」と密接に関係したことでは,3つの明らかな見解があった。女は 男が稀にしかしていなかった戦前の仕事に戻るべきであるという人が少なからずいた。大部分の穏 健な意見では,戦前の条件に完全に戻ることは,不可能であるというもので,女は労働法や与えら れた最低賃金で保護されるとともに,すべて適切な雇用が確保される。女も男も同一の賃金が支払 われるべきである,というものであった。最も急進的な意見では総ての仕事に両性ともに同じ水準 の賃金が開かれるべきである。この方針の当然の結果,母性に対する贈与が与えられるという提案 であった。

1919年の終わりまで戦後の女の職業や賃金をどのようにすべきかということを述べるのは,困難 であった。しかし,女はいくつかの新しい仕事を続けることができ,改善された賃金は保証される ことが望ましいと考えた。戦後贅沢な仕事が復活し,軍需産業が削減されて,女自身は戦前の雇用 に戻ることを激励された。羊毛業ののように一定のケースでは労使協定で女性は締め出された。技 師のような別の重要な場合には,妥協が成立し,少なくとも反熟練の仕事に留まることが認められ た。戦時の賃金レートが相当保証された。最低賃金法が広く普及した。二つの分離した法律の制定 により,ほかの協定が結ばれたり,公式的な裁定が行われることがなければ戦時の賃金は1920年9 月30日まで続いた。両性のための8時間労働最低賃金,母性保護の拡大に関する政府の提案は,両 性の職業の平等を擁護するフェミニズムの立場を反映していた。

少年少女の保護

戦争は疑いもなく,多くの少年少女に不幸な結果を与えたが,同時に国は彼等が未来の大切な市民 であることを理解していた。再建時代にはその必要を満たす共通の同意があった。戦後の失業の結 果を修正する措置が行われ,永続的な政策として初年度の労働生活が注目された。失業寄付金,訓 練センターに出席することを条件とした給料の支払,失業の危機に対して採られた方法であった。フ イシャー教育法は永久に若い労働者の条件を改善するため,政府の努力を示していた。この法律は 14才以下のあらゆる子供が学校に出席することを要求していた。授業時間以外に賃金を得る雇用を 絶対に禁止していた。働く少年少女は法律が完全実施されるときまで,18才まで1週間8時間の継 続学校に通学することを要求し,出席時間は労働時間外であることを要求していた。法律の援助を 必要とする子供,すなわち,戦争中に働いていた者は,この規定の例外とされたのは不幸であった。

それにもかかわらず,イギリスの子供の労働水準は以前よりも高い水準に引き上げられたのは明ら かであった。日本でも1935年青年学校が設立され,旧制中学に進学しない男子は,義務制になった が,これは女子には適用されなかった。それは社会の発展段階の違いを示している。

教科書は女性や子供をどう書いたか

教育の場で第1次世界大戦や第2次世界大戦中の子供や女性がどのような生活をしていたかという ことを伝えていくことは,戦争の実態を伝承していくために,欠かせないことである。もし,その ことが正確に教えられなければ,戦争は男だけが戦場で戦ったという印象を与えかねない。第1次世

(5)

界大戦以後の戦いは,あらゆる国民を巻きこんでおこなわれる総力戦でありながら,子供や女性の ことが書かれていないものが多い。

ヨーロッパ統合教科書「歴史」は「これらの女性は本分をつくした」というさし絵を掲載し,「あ る女たちは砲弾を作るようになり,工場,事務所,輸送の領域で女に雇用の門戸が開かれた」と書 いている点は評価できる。しかし,学齢末期の子供が工場で働いたことは何も書かれていない)。こ の点は批判すべきであろう。また,この教科書には戦闘的な女性参政権論者であったパンクハース 卜親子が戦争に協力したことも掲載していない。ヨーロッパ共通で使用することをを目的としてい るから,イギリスー国だけのことを書くことは無理かもしれない。しかし,戦争を記録したものと

しては印象が薄くなっている。

一方,この教科書には「政府に対して不満がたかまり,抵抗が起り,(国民が)戦争に疲れたこと を示している。多くの国で飢えた国民が(食料の)供給不足に抗議している。ドイツでは1916年厳し い大規模なストライキが起こり,2年後反乱となった。1917年大衆の抵抗が起こり,フランスの防衛 の団結をおびやかした。翌年ストライキでパリ政府は衰退した」と書いている。今までの教科書で は書かれていなかったようである。戦争に大きな責任のあったドイツでこのようなストが起きたこ とを書くことができるのは,ヨーロッパ連合で使うことを目的としているからかもしれない。

この教科書は続けて「戦争は支配されていた人々が民族独立の意思を宣言する機会となった。1916 年復活祭にアイルランドのタブリンで峰起を鎮圧した。長い暴動と内戦後の1921年に初めてアイル

ランドは独立した」と述べている。この国とイギリスとの関係は,両国とも英語を話すが,韓国は ハングル語を話している点を除けば,日本と韓国の関係に似ている。アイルランドはイギリスの植 民地であった。このようなことを日本が正確に知っていたならば,日韓関係はもっと違った道を歩 んでいたかもしれないのに,残念である。

おわりに

この研究ではおもに第1次世界大戦中のイギリスの女性と子供の増加,その結果による労働条件 の変化,募集などを見てきたが,女性が男と同じ職業ができると自信を持つようになったのが,大 きな変化であった。第2次世界大戦中のアメリカでも世論調査の結果,「男と同じ方法で職業訓練す べである」という意見が多かったという。日本の特に若い女性はこのことを学ぶべきであると思う。

本年は女子学生のかってない就職難と言われている。ある女子学生が石油会社の面接を受験したと き,ドラム缶を担げなければ,合格できないといわれ,怒ったという話を聞いた。現在のこの会社 は女子学生を採用するつもりはなかったと推測するのは,当然であるが,ドラム缶がもっと小さい ものを作ればよいという発想はないのであろうか。石油のような液体を現在ドラム缶を担がせると いうことはそれ程ないとも思われる。また,この話を英米の戦争時代の女性ならば,どう考えるの であろうか。

イギリスの女性が第1次世界大戦において,第2次世界大戦の日本よりも労働条件がよかったのは,

この時代の労組によるところが大きかった。労組に組織されていて人数の分かっていた女性は次の 表のとおりであった。

(6)

第屡表 女性労働組合員の推移

業種      年 1918 1933 1939

流通業

62,000 58,800 54,119

織物

163,000 43,417 45,897

衣服

88,500 48,202

78,604

綿織物業

260,000 149,264 109,000

食品・飲料・煙草 7,000 2,371 5,284 印刷・製本

54,000 29,296

39,191

製靴

28,000 24,917

34,095

小計

662,500 356,267 366,191

一般労働者・地方公務員

216,000

不明 43,321

合計

878,500

不明

409,511

この表は第1次世界大戦の第2次世界大戦の間の戦間期と言われる時代の女性労働組合員の増減を 示したものである。最も組合員が多いのは第1次世界大戦の終わった1918年である。合計人数では 1939年は1918年の半分以下になった。1933年は小計の示すように1939年と僅かな差しかなかった と推測される。1930年代は大恐慌の影響が大きく女性の雇用が減少したから,組織労働者も激減し たのであろう。しかし,どうして第2次世界大戦までに女性の組織労働者がその戦後よりも多かった のであろうか。

19世紀にエマ・パーターソン(1848−86)は製本工をしていたが,ロンドン統合製本協会に女の会員 はみとめられないという理由で入会を拒否された8)。1873年トーマス・パーターソンと結婚し,短期 間参政権協会の書記長をした9)。二人はアメリカを訪問し,パラソルコウモリ製造組合や女性活版印 刷組合のように全員が女の労働組合を見つけた。彼女は労組に女が加入しても女を平等に扱う展望 がないと確信して,イギリスにも同じ組合を作る運動をする決心をした。それは女性保護倹約同盟

(Women s Protection and Provident League, WPPL)の傘下で全員が女性の労組を設立することを促進 することを目的としていた。彼女は同じ意見を持ち,多年の間,女の労組運動で優勢であった中産 階級の女性を援助を得ることができた。WPPLは製本,室内装飾業,ワイシャツ・カラー業,ドレス メーカー婦人帽子業の組合結成に成功し,組合員は1886年約2500人で約半分がロンドンの周辺に 住んでいた。

エマ・パーターソンの死後,指導者になったのは,エミリア・ディルケでロンドン周辺だけの運動 を広げ,政府の労働条件の改善の立法を支援した。名前を女性労働組合・倹約同盟(Women s Trade Union&Provident League,WTUL)と改名した。新しい名前はディルクが女だけの協会を通じてだけで はなく,男女ともに加盟している労組にも関心をもっていることを示していた。

(7)

1903年ディルケの後を継いだのはメアリー・マッカーサであった。彼女は女の労組だけではなく,

男のいる労組にも女を参加できるように試みた。1906年(労組ではなかった)WTULは労働組合に組 織されていないあらゆる女性に門戸を開き,女性労働全国連合(National Federation ofWomen s Worker)となった。こうして女性の労働組合員は1886年36,980人,1892年142,000人,1913年 433,000人になった。1911年全雇用女性労働者の約10%弱が労組に加入していたと推定されている第 1次世界大戦中の女たちが第2次世界大戦の日本の勤労動員された女子青年よりも悲惨にならなかっ たのは,こうした背景があったからであるということを忘れてはならない。

1.岩波講座r日本通史第18巻』(岩波書店1994),p.51.

2.平凡社r世界大百科辞典30巻』(同社,1992),p.278.

3.小山弘健編r日本労働運動史社会運動史年表』(青木書店,1956),p.182.

4.EJ.ボブズボーン著(鈴木幹久,永井義雄訳)rイギリス労働史研究』,(ミネルヴァ書房,

1968),P.164.

5Jrene Osgood and Margaret A.Hobbs, Economic Effects of the World War upon Women and Children in

Great Britain (Oxford Universty Press,1921),pp.6−13.

6.Fr6d6ric Delouche ed., mustrated History EUROPE ,(Weidenfeld and Nicolson,1992), p.326.

7.Elizabeth Robefts, Women s Works,1840−1940 ,(Cambridge University Press,1995), p.62.

8.oP.cit.,PP.52つ3.

9.Jennife Uglow, The Macmillan Dictionary of Women s Biography:Second Edition (Macmillan Press,

1991),PP.423−424.

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