農村の子供と女性の戦争体験と技能修得(2)
一神風特攻隊用燃料一
永 島 利 明*
(1994年10月12日受理)
Women s and Children s War Experiences or Acquisition of Skills in Rural Communities(Part2)
−Fuel Oil for Kamikaze Fighter 一
Toshiaki NAGAsHIMA
(Received October12,1994)
はじめに
日本人は第2次世界大戦後も石油不足を何回も経験し,省エネという言葉が定着した。しかし,原 油生産国の結束が乱れると,石油が出回り,石油不足が忘れられる。その繰り返しであった。第1次 世界大戦後は先進国は植民地の拡大を反省し,国際協調の時代に入り始めていた。ドイツや日本は 恐慌の時代になると,国内の経済問題を解決できず,植民地を拡大して,それを市場として支配し,
植民地の民衆の財産や時には生命さえ,収奪した。その結果,先進資本主義国は日本に貿易品の禁 輸政策をとり経済的な打撃を与えた。その典型的なものは,石油製品であるガソリンや潤滑油であ った。労働力の不足により子供や女性が代替品の生産の負担をせざるを得ないのは,食料,肥料等 と同じであった。
ここで取り上げるのは,ガソリンの代替品の松根油と潤滑油用のヒマの栽培である。このことは地 方史や学校史で扱われているが,両方とも太平洋戦争後期のことを取り上げているが,前史の研究 が不十分であり,部分的にしか見ていなかった。この研究はそれを僅かながら埋めることができた
と思う。
太平洋戦争末期,爆弾を抱えて敵艦に体当りする「神風特別攻撃隊」が生まれて,予科連出身者が その中核となった。予科連出身者らが作る「海原会」の調査によると,予科連の戦死者は全体で1万 8,564人であった。戦死率は入隊ごとに異なっているが,終戦直前に入隊した0%から,実に85%の同 期生が戦死した期もある。戦死者のうちの1557人は神風特効隊員であった。しかも,それは分かっ た数だけで,遺骨の中に何にも入っていないケースが多く,どんな死に方をした分からない人が多
*茨城大学技術科教育研究室(〒310;Laboratory of Technology Education, Faculty of Education, Ibaraki
University, Mito, Ibaraki,310Japan)いD。村の農民,子供,女性が主力であった松根油やヒマの栽培からこのような尊い命を落とした犠 牲者が出たことを次の世代に継承して語っていくべきであろう。
予科連とは旧海軍飛行予科練習生のことである。航空隊の中堅幹部育成を目的に14才以上20才未満 の若者を対象にした。1930年,横須賀で産声を上げたが,39年に茨城県稲敷郡阿見町の霞ケ浦湖畔に 移った。その後,戦争の拡大とともに三重,奈良,松山,鹿児島など全国10数カ所にできた。各地 の予科連教育機関とも地名で呼ばれた。神風特攻隊に選ばれると,250キロ爆弾を想定した砂袋を積 んで連日飛行訓練を重ねた。一方,選に漏れたものは,飛行機に乗れず,土木工事や松根油堀りを
した。敗戦が近付き,航空戦に敗れて,飛行機が少なくなりそれに乗って死ぬのが「最大の幸福」と 美化された2)。
それから半世紀が過ぎたが,日本の若者は侵略戦争で戦死することは,考えられない時代になった。
「今の若者はテレビゲームで簡単に人や動物を殺す」ようになった。もっと命を尊重するゲームはな いのであろうか。
荒川ハッと松脂
松根油や松脂と言われる物は松,ヒノキ,ヒバなどの根を掘り出して熱をかけて乾留して得られる 無色の油で,松根油を蒸留精製してテレビン油やマインオイルが得られる。太平洋戦争前は固体で 使われたので松脂と言われ,太平洋戦争突入後,特に,1944年以後は液体で使用されたから松根油と 多く言われれたようである。民間ではペンキの用材や殺虫剤の原料として使われた。従来の研究で はこうした民間の化学原料としてしか注目されてしかいなかった。しかし,軍事的にも重要な役割 を果たしていた。その前に一人の女性の活躍を紹介しなければならない3)。女が家業を継ぐのは,夫の 死か息子のいない家に生まれた場合が多いようだ。荒川ハツ(1862〜1949)もその例外ではなかった。
夫政七の死により1894年(明治27)家業の松脂の販売に従事するようになった。
1898年(明31)に露仏独のいわゆる三国千渉によって,清国に遼東半島を返還させられたが,松脂 は中国から輸入されていた。ロシアが日本に干渉したことから,両国の対立を深めた。松脂からと れるロジンは榴散弾の弾体にこめられる多くの小弾子を,固定するため流し込められた。
なお,榴散弾の榴(りゅう)とは果物のザクロを意味する。砲弾の中に,それより小さい弾子をい れ,発射し,人や馬に命中すると,小弾子が破裂して飛びちり,命中した部分がザクロのようにな り,殺傷するものが榴散弾である。中国産の松脂は国内情勢が不安定であったから,供給に不安が あった。そこで国産のものが,大切にされたのであろう。国産品は大阪陸軍工廠に納入されていた。
国産のものは和歌山,岡山,広島,鳥取,島根で採集されていたが,固形松脂のまま取引されてい
た。
松根油のもっとも詳しい研究は筑波大学の岩崎宏之のものであるが,岩崎はその「生産は1930〜36 年の不況時代に農村の副業として始まったとされ,生産者も中国地方を中心に全国でわずかに1000 人ほどに過ぎず,従ってその生産は知れたものであった」と書いている4)。しかし,荒川家の家業と
して成立していたとされているから,すくなくとも1890年代には行われていたと推測される。だが,
岩崎が指摘するように,その産地は中国地方を中心としていたのは間違いないであろう。
荒川ハツは現在の荒川林産化学工業を発展させた人であった。ハツの扱っていた広島産の松脂は油 分が多く粘着性で取扱に不便で不評であった。そこで彼女は産地で加熱して,ロジンにして送るよ う指導した。これは輸入品よりも油分が多く,粘着性があり,好評であった。このハツの着眼は当 って納入業者の上位を占めるようになった。
満州事変後の松脂
その生産額の統計が古い時代には,筆者が発見出来ていないことから生産額がわずかであったこと も事実であろう。しかし,日本が満州に進出するきっかけとなった満州事変の1933年から松脂の生 産金額の統計はあった。それは次の通りであった。1933年3164円,34年2578円,35年3905円,36年6635 円,37年55,982円,38年184,289円,39年289,144円であった。生産量は不明であるが,金額では39年 は33年の約29倍となっている。当時はインフレが進行したとしても,価格の暴騰が推測される5)。そ れ以後の生産金額は書かれていない。その暴騰は日中戦争により,中国やその他の国から松脂が入
ってこなくなったことによる事情によるものであった。
1930年代になると,ロジンやデレビン油の用途が広がっていた。民生用として製紙,塗料,印刷イ ンク,リノリュム,石鹸にはなくてはならないものであった。その上,飛行機艦船,戦車,防空 用の迷彩塗料などの軍事用としての用途が広がった。さらに,漆などの伝統的な塗装がロジン・テ レビンを含む塗料に代わりはじめ家具什器,工場塗料,ベルトワックス,マッチ,ビール樽などの 使用部門が広がっていた。1940年にSJII,徳島,岡山,高知をはじめ生産は全国に広がっていたが,
その生産量は960トンであった。
日中戦争により中国から入らなくなり,その大部分は米国,インドシナから輸入していたが,国際 情勢が悪化して,米国からの輸入ができなくなり,1941年4月,農林省はその自給方法の検討に入っ
た。その結果,全国200万ヘクタールの松林から樹齢30年以上の松は2700万石あり,松脂が1石から 1キロ以上取れるとすると,1万7000トン採れると推算された。農林省はそれを農家の副業,青年団や 中等学校の勤労動員で実施する計画であった6)。その実地指導員として日本一の松脂採集家というふ れこみで香川県小豆郡大部村農業山本政雄(当時37才)を山林局全国山林会の技手として採用し,全 国各地に派遣,採集の実地指導に当ることになった。
山本は1938年頃から松やにの大切さを知り,採集法を研究し,従来の専門家が1日150本の松から6 キロの松脂を採っていたのに対して,山本は1日最高450本から35キロを採り,日当26円になり日本一 の採取家と言われたのであった。山本は次のように述べていた。
小豆島は小さな島で松林ばかりで何もできないので,松脂を採ることを始めたのです。小学校を卒 へたばかりで教育もありませんが,職域奉公の精神で十分働く考えです。今後は全国各地を回り採 集家を指導し松脂が自給できるまで努力します。
この発言には当時の農民の「職域奉公」という軍国主義の国に尽くすという精神が手短に語られて
いる。
松の根本から松やにを取る仕事は戦争が終わり,戦争が終わりに近付いた1944年から新聞や地方史 の本にみられるが,すでに太平洋戦争が始まる前にみられたことは,明らかであろう。農林省はこ のように松指採集事業に1941年に乗り出していた。山形新聞1941年6月14日には「農林省山林試験場 では13日飽海郡西遊佐村・・の国有林で松脂採集講習会を開いた。講師は同所中馬技手,県山林会星 野技手が来村し,受講者は北越パルプ,東北興業,三島パルプ等の各会社並びに地方民,酒田市営 林署員等30名が参加して,熱心に受講し,国策事業の認識を高めるとともに,これが事業を行うこ とになった」7>とある。すでに石油の不足を予想していたのであろう。それに関係した企業の人が参 加していた。
しかし,それが全国的なものになるのは,1944年からであった。それ以前にも松脂の生産を農林省 が重要な生産物として取り上げていたことは,明らかであった。そのことは昭和18〜19年度の「重 要農産物生産計画」8 曲に,次のように加えていたことから見ても明らかであった。
生松脂ヨリ精製シテ得ルロジン及テレビン油ハ塗料,製紙,電気絶縁体等ノ原料トシテ重要ナルニ モ拘ラズ,従来我ガ国ニハ殆ド生産ナカリシニ依リ之ガ増産ヲ奨励スル為,昭和十四年以来毎年松 脂ノ採取費採取熱ノ普及及採取技術ノ指導費二対シ補助金ノ交付ヲナシ居リ,ソノ結果,年々飛躍 的二生産量ヲ増加シ我国内需要量ノ数割ヲ占ムルニ至レリ。昭和十八年度二於テハ右ノ補助金額ハ 生松脂ノ採取費補助金七万五千円(事業分量生松脂一,二五〇聴)実地伝習費補助金三千円及指導 監督旅費合計六千九百円合計八万四千九百円ナリ。尚,生松脂ノ生産量ハ右ノ補助事業分量ノ外○
(ママ)千聴アル見込ナリ。
1939年度(昭和14)から松根油の生産に補助金を与えるようになったのは,日本に対するアメリカ の石油政策に日本政府が危機感をもったからであった。その危機感にはアメリカの道義的石油輸出 禁止令があったことは次に,述べるが,しかし,事業の進行には農林省は必ずしも熱心ではなかっ た。松根油については国土保全や水源酒養問題があって農林省は積極的にはなれかっだ゜)。
道義的石油輸出禁止令と日本の石油対策
1809年にフィンランドはロシア帝国に加えられたが,1917年のロシア革命により独立した。ソ連は フィンランドが外敵の進入路となることを懸念していた。第2次世界大戦の開始と共に,ソ連はレー ニングラード(現在のサンクトペテルブルク)防衛のため,領土交換を申し入れたが,フィンラン
ドはこれを拒否した。このため両者の間でソ・ヒィン戦争(冬戦争とも言われる)が1939年11月か ら40年3月まで行われた。この結果,フィンランドはドイツ側に移行し,41年6月からのヒットラー.
ドイツの対ソ戦争に参加した。この戦争は「継続戦争」ともいわれているが,44年9月にソ連と休戦 協定を結び,47年9月の連合国との講和条約で,フィンランドは1害1」以上の国土をソ連に割譲させられ
た11)。
1939年12月20日,アメリカ政府は「ソ連のフィンランドの一般市民への空襲に対する合衆国世論の
憤激」を理由として,「正当な理由なくして空中より市民を爆撃し,あるいは機関銃をもって攻撃す る国家に対し,高級揮発油の製造に必要な装置,製造権および技術的知識の輸出を道義的に禁止す る」,すなわち,「道義的石油輸出禁止令」を正式に公布した。この狙いは,ソ連よりも中国大陸侵 略を拡大していた日本にあっだ2)。当時日本では,この禁輸は「対日石油圧迫」の公然たる発動と受 け止められていた。当時日本は10%しか石油は自給していなかったので,窮地に追い詰められること は予想できた。第2次世界大戦中,日本で製造されていた航空ガソリンの最高は92オクタン価であり,
ついに100オクタン価を越える航空ガソリンは製造することはできなかった。一方,アメリカでは1938 年には100オクタン価の生産過剰傾向があると指摘されていた。同年アメリカでは100オクタン価の ガソリンの製造能力は2億7000ガロンと予想されていた。オクタン価が高いほど航空機の戦闘能力は 向上するから,日本にとっては大問題であった。
日本政府は38年4月1日「揮発油及びアルコール混用法」を公布し,ガソリンのアルコール混入を強 制する一方,44年度までの年度別アルコール増産計画を策定した。同時に「ガス発生炉(木炭ガス)
設置交付規則」を公布した。アルコール混入率は当初の2,5%から次第に引き上げられ,41年には10%
に,45年には20%に強制された。
ついに,1941年8月1日,ルーズベルト大統領は「発動機用燃料及び航空機用潤滑油の西半球,英帝 国及び侵略に抵抗している国々の非占領地区以外に対する輸出を禁止する」命令を出した。ホワイ トハウスの正式発表中には日本名はなかったが,この措置は日本を対象にしていることは明らかで あった。しかし,石油は同年の初め頃から輸入できなくなり,その1カ月前から潤滑油の対日輸出は ほとんどなくなっていた。東京では石油については相当影響があるが,潤滑油は楽観視していたが,
それはやがて誤りであることは,ヒマを栽培せざるをえなくなることで証明された。
戦争が始まり,一時の南方の占領地から石油が送られてきたが,軍は「南から食料や肥料,民間の 石油も特配」できると,公言していた。すなわち,岡田菊三郎陸軍省戦備課長は1942年4月7日に談 話を発表して,「武力戦による不敗の態勢(が)確立」して「食糧22万トン,砂糖10万トン等が輸送 され,今後は石油等を含めて年300万トンの物資を輸送し,今年度は従前の3分の1の民需用石油特配 を確約した」13)。製油問題が解決出来るとしたのは,スマトラのバレンバン油田がよい条件で確保で きたたあであった。しかし,実業家の藤原銀次郎は「勝った取ったは,まだ早い。今から目がくら んでは駄目だ」14)と述べて戒めていた。資源があっても,それを加工しなければならず,輸送するに は船がいるなど問題は山積みしていたからであった。その後の経過を見ると藤原の見通しが正しか ったことが分かる。軍は日本軍を不敗と考え,国民に夢を与えただけであった。一方,日本軍が敗 退するようになって,南方還送原油が減少し始めた43年6月,戦時立法として「石油専売法」を制定
し,従来の官庁による指揮系統と民間の配給系統を一本化した。これによって民間に混入を強制し ていた「揮発油及びアルコール混用法」は廃止された。
1941年前の日本は自動車ガソリンの80%が民間消費に割り当てられていた。しかし,戦争体制が濃
厚になると,民間向けは突如削減された。消費量は,1940年の6,323,000バレルから1941年には
1,583,000バレルに削減された。タクシーやバスを含めた多くの民間交通機関が廃止された。重要な
乗り物の運転手は木炭燃焼バーナーの取り付けを義務づけられた。ディーゼルを利用していた民間
の業界は,石炭あるいはその他の動力源を使用するよう命じられた。純粋な民間消費は1941年にス
トップし事実上の「民需」と特定された戦時中のすべての石油は,必要不可欠の基幹産業,港湾運
送,鉄道に振り向けられた。ガソリン在庫を伸ばす方法として1941年には政府は全ての自動車ガソ リンに20%のアルコール混入を命じる法律を交付した。
石油不足の交通への影響
このことは交通に現在では想像できないほど大きい影響を与えた。その例を東京市の場合でみよう。
(なお,現在のように東京市が東京都と改名したのは1943年6月のことであった)15)。市バスは1943年 には学徒勤労動員令が公布され,人手の不足が進んだ。また,燃料不足や木炭車の能率低下を補う ため,系統を改正したり,休止区間を増やした。バス停留所が廃止され,43年9月には110のバス停が 廃止され,さらに44年4月には117カ所が追加廃止された。このため,バス停数は42年度末には728カ所 が43年度末には473カ所が,44年度末には路線の縮小があり,121カ所に減少した。43年ころから男子車 掌に代わって女子車掌が誕生した。そのようにして輸送力の維持に努めた。また,物資の輸送の増 加にともない43年から物資の輸送も担当した。
自動車の動力源である石油は重要な軍事物資であり,その上,国内消費を6割も輸入していた米国 が対日輸出を禁止したので,ガソリン使用には強い規制が加えられた。ガソリン車は木炭車に変え
られた。41年には保有車1981台中1516台が木炭車となった。その後木炭も不足するようになり,薪木 車が登場したり,木炭に石炭やコーライトを混入して使うことになった。だが,まだ,バスがある
うちはよかった。43年には政府の要請で200両が貨物車に改造され,バスは減少し,43年度末には1616 台,44年度末には1358台,敗戦時には利用できる車両は196台となり事業として成立しなくなった。敗 戦時にバスが減少したのは,空襲が集中したことにも原因があった。人口過密地帯の東京が,この
ような状態であったから,地方はもっとひどかった。バスの廃止は庶民の足がなくなり困るだけで はなかった。
地方では1941年のガソリンの消費規制に伴い,バスの廃止は東京よりも早かった。そのために,バ スで通学していた女子学生が殺されるという事件が起きた。例えば,茨城県ではそのような事件が 3件も起きた16)。勝田町勝倉の水戸大成高女1年生(14)が2名の男性によって同町の山林で絞殺された。
鹿島郡徳宿国民校長校長の長女(10)が放火犯に殺された。また,友部町の女子師範生が殺害される など,登下校時に忌まわしい事件が起きた。県で通学は地域で班を作り,集団登下校を行い近道で も単独通行をしないように,特に工業地帯などでは「精神的に武装」するように,校長を通じて注 意を促した。この事件が示すように,児童・生徒は交通の手段を奪われたばかりではなく,生命さ え,奪われてしまったのであった。交通機関を維持することは,最優先しなければならなかったの に,燃料を軍事用に無駄使いをし,国民生活を軽視したことがこのような結果を招いたのであった。
現在も乗用車が普及して,交通弱者が守られていないことを忘れがちである。戦争中のこととして
片付けられない問題をもつように思われる。
「松根油等緊急増産方針」
戦争に入って一時は石油が南方から入ってきたが,それも束の間であった。戦争が1943年から負け 始めると,備蓄が少なかったから,極度に不足するようになった。軍部,特に海軍の要求があって,
農商務省は消極的な態度を変更せざるを得なかった。それに対する方針が農民の生産活動に全面的 に影響を与えるようになったのは,1944年10月23日,次官会議で「松根油等緊急増産方針」を決定し て,それを受けて農商務省は「松根油緊急増産対策措置要項」を定めて,その増産を打ち出したこ とであった。農商務省の方針は,新しく地方農業会(現在の農協,JA)を動員して直営の松根油製造 所を作らせ,年度内に必要な設備を完成させ,来春早々から,飛躍的な大増産をすることであった。
府県山林会に採取費の助成が行われた。集荷配給の中央機関は39−40年は大日本山林会,41年度全 山連,42年以後は全森連になった。タンニン(しぶ)を除けば,食料にも飼料にもなるドングリは1940 年から小学校児童の報国運動として採取が開始された。松根油については国土保全や水源酒養上問 題があって農林省は必ずしも積極的ではなかった。しかし,ガソリン不足に悩む軍部,とくに海軍 の強い要請に対処して44年10月には2600万円の松根油生産緊急施設費を予備費から支出することに し,45年3月には松根油などの拡充増産対策措置要綱を閣議決定し山林局に松根油課を設けて国,民 有林をあげて大規模な組織的な増産対策をあおった17)。
そのために,鍬,シャベル,鋸等の資材を特別に配給し,また製造用のかまの調達から輸送,据え 付けまで一切の面倒を見ようとするものであった。この方針を受けて,茨城県でも松根油増産の計 画が実施された。
その生産目標は,1944年には7000石以上(それに要する松根は3000貫以上)とされていた。生産の 責任者は茨城県農業会,「生産に必要な労務については農産漁村民の労力を充てるほか,必要に応じ て学徒および非農家の動員を行う」となっていた。しかし,人手の足りない農家ではこれに参加せ ず,国民学校の上級生が松の根本をv字形に両側を斜めにきり,流れやすいように中心にも線を切
って,中心線から流れてきた松根油をじょうご形をした入れ物に集めていたところもあった。条件 によって異なるが,農民の労賃は1日一人当り5円であった。採掘した松根は車で運ぶことができる ところまで運び,その作業は学童,女子青年団,婦人会などを適宜動員すること」となっていた。茨 城県村松村では,村の割り当ては1万6000貫のうち,1万4000貫を各常会(部落)に割り当てて,2000 貫を国民学校(現在の小学校)の生徒の動員によって行うことになっていた。村民1戸当りの割り当 ては20貫であった。
政府は再び1945年3月16日「松根油等拡充増産対策措置要項」を閣議決定し,1945年度には前年度 の数倍の増加を生産目標として緊急に実施することにしていた。その目的は輸送の確保に石油を自 給すること,戦闘機の燃料としてオクタン価の高い燃料が必要でそれを確保することであった。1945 年3月から5月にかけて,日本国内の松根油工場の建設は,陸軍地区,海軍地区,支援地区に分けて 行われた。海軍地区の東北,中国,四国では各県ごとに1〜2カ所ずつ海軍燃料廠分工場の形式で海 軍の資材と技術者で松根油の蒸留装置,簡易接触分解装置,酸性白土を使った小型の接触分解装置 が計画され,それに民間の石油工場が協力した。関東,近畿,九州,北陸は陸軍区であったが,民 間石油工場の分工場という形で小型分溜装置を建設し,これを陸軍が支援した 8)。
松根油確保のための労力不足が心配されていたが,農商務省山林局松根油課長は,その対策につき,
45年3月17日には 9)
一一,工場,事業所等の労務者中,農業要員の資格を有する者を帰村させること 二,農村地方における中等学校の学徒を通年動員すること
三,国民学校の本年度卒業者中農家の子弟を動員する 四,疎開者,工場労務者の一定期間動員
五,また必要に応じ徴用解除または免除および応徴者の配置換えなどによって賄って行く
と述べていた。当時は学徒の工場への動員が普通になっていたが,その人達を帰村させても,松根 油の生産をするという強行方針を取ろうとしていた。茨城県村松村には結核療養所の晴嵐荘があっ たが,役場はこれに対しても500貫の採掘割り当てを通告した。病人に対しても採掘を動員するとい う過酷なものであった。5月になると,国民学校の生徒や疎開のものを動員して生の松脂の回収が進 められた。農繁期に入って農山漁民の労力には頼れなくなり,学童や疎開者を充てることになった。
しかし,軍の増産要求は厳しく,7月31日付の通達で「市町村長は国民学校にのみの採取に満足放置 することなく積極的に誠意をもって挙村的協力体制を整備すること」「国民学校は日々の採取者数を 計画的に決定し,連日作業を行うこと」という厳しい催促をしていた。しかし,まもなく終戦を迎 えて生松脂の生産は中止された。
新潟県ではこの年豪雪に襲われたが,主力の農民を中心に軍や婦人会が松根油生産に参加して割り 当てを果たしたが,薪50万石,木炭1750万貫の目標であったが,薪は70%,木炭は1月末で53%しか達 成できなかった。冬季製炭地であった佐渡,岩船では製炭夫は山を降りざるをえなかったほどの豪 雪であった。このため目標の60%くらいしか生産できないと推定されていた2°)。
ヨーロッパではすでに1943年9月にはイタリヤが降伏し,45年5月8日にはドイツが降伏していた。
44年11月からB29による東京空襲が始まり,45年4月には沖縄に米軍が上陸し,日本の敗戦は目前に迫 っていた。それにもかかわらず,実用に耐えない松根油の生産を強行したのは,日清戦争,日露戦 争,第1次世界大戦などによる戦争による国の膨張,つまり戦争肥りを国民が望んでいたからではな いだろうか。ノモンハンの敗戦などの都合の悪いことは国民には知らされていなかった。
日本の官僚がどのように考えていたかということは,岡山県の県紙である「合同新聞」の45年5月 20日の「松根油を採って敵機を激滅せよ」で明らかであろう。
ドイツの無条件降伏により,欧州戦の一段落を告ぐるとともに,世界の戦局は太平洋に集中される
に至った。殊に,沖縄の戦闘は正に熾烈凄惨を極め,敵は之が奪取作戦を遂行せんと狂奔し,その
余勢を駆って,余剰兵員と航空機を挙げて太平洋戦に転用せんとしている。実に大東亜の前途は遼
遠である。今や敵は沖縄本島を中心に,その周辺の離島に上陸を企て,これを逆襲する皇軍との間
に日夜死闘を展開す。而も海上には有史以来の敵大艦隊が遊kし,わが特攻隊は日夜の別なくこれ
に殺到,大魚を呑んでは莞爾として山桜美しく散っている。南西の海を碧血に染めて忠勇壮烈,鬼
神を契かしむ,沖縄の決戦こそは実に皇国の攻防岐るるところである。前線将兵は悉く特攻隊であ
るとともに銃後一億国民また特攻隊精神を以て戦力増強の生産隊に挺身することによりこの決戦に
勝利を把握することができる。松根油は航空機用燃料に必要なもので,この敵の大群を壊滅する最
大の武器である。既に松根油によりわが特攻隊は憎むべき米英のB29を,艦載機を,どしどし叩き
つけている。
神州永遠に栄ゆるか,滅ぶるかの重大なる鍵は松根油生産者にも預けられている。
揮へ!最後的渾身の勇を!松根油増産に適進して前線勇士の忠誠武烈の闘魂に応へよう。
この中で「わが特攻隊は日夜の別なく」敵の艦隊を攻撃したとしているが,実際は台湾の基地では 戦闘機が不足で,性能の悪い速度の遅い「赤とんぼ」という練習機で体当りするため,夜間しか出 撃できず,命中率が低かったという21)。それはともかくとして,このようにして松根油の採集は始め られたが,その精製にも困難があった。例えば,秋田県では県翼賛会,翼賛会壮年部,青少年団,日 本婦人会では,生産資材の回収と供出を宣伝していた。なお,翼賛会というのは1940年に戦前にあ
ったあらゆる政党を解散して,一党独裁の軍部の御用機関となった唯一の政党の大政翼賛会の略称 であった。緊急に必要な資材として,「古釘でも結構役立つ」として次のものを挙げている新聞もあ
った22)。
▽鉄管又は竹管=松根より得た油を冷却するに使ふ物で外形2寸以上2寸5分程度長さ10尺より13尺 程度の物▽古煉瓦=(不明,炉か?)を築くのに使用する▽釘1寸以上の物▽古釘=2寸以上の物。
提供資材のの品名,数量を翼賛会市町村支部を通じ翼賛会県支部に通知する。なお鉄管,竹管,古 煉瓦,古釘の提供に関しては応分の代金を送る事になつており,釘の提供に関しては現物を返戻す る事になっている。
廃品回収について言えば,すでに日中戦争の頃から鍋,かま,銅,釘,鋸などありとあらゆる物が 回収されていた。だからこそ,資材が不足していたのであった。r釘の提供に関しては現物を返戻す る事になっている」という文章は,単に「供出させるための餌」のような感じがする。県民が出し やすいようなからくりを作らなければ,モノ不足のときに喜んで出すはずがない。木材を結合する のに使った釘をいちいち抜き取る手間暇から考えると,到底出来ないことを言っていると言わざる を得ない。それを抜き取る人がどこにいたのであろうか。
その結果はどのようなものであったのか。アメリカ軍の文書には次のように書かれていた23)。
1945年3月には政府の奨励の下に,松根油産業が大幅に拡張された。1日当り3〜4ガロンの粗油を生 産できる37,000個強の小さな蒸留釜が九州や本州の全域に設置され,日本の人口のかなりの部分が 松の根を堀起こす作業に取り掛かった。松脂は乾留され,粗油が集められた。「200本の松の根で航 空機が1時間飛ぶことができる」というスローガンが日本中に響き渡った。この松根油計画がどの 程度のものであったかを知るには,37000個の蒸留釜の稼動を維持するのに,1カ月約38万トンの松 根を必要としたことを知るならば,最も良く理解できるであろう。
・・必要とする労働力は莫大であり,松根油1ガロンを生産するには,2.5人の1日間の労働を必要 とした。日本は・・1日当り約12,000バレルの粗油を生産できると推定していた。これを基準とす れば,松根油計画の労働力需要は男女合わせて約125万名に上ったことであろう。
このような労力は山村では山林をもっているものから,出すことは困難であった。木炭を供出する
このような労力は山村では山林をもっているものから,出すことは困難であった。木炭を供出する ことが厳しく要求されていたからであった。松林は山村に多かったから,提供された労働力のかな りの部分は,国民学校の生徒ではなかったろうか。「市長村長は国民学校のみの採取に満足放置する ことなく・・」という通達の内容は,裏返して見れば,学童しか出来なかったということを示してい る。そのようにして生成されたガソリンはどんな物であったか。アメリカ軍の報告は次のとおりで あった2%
松根油の現実の成果はさしたる重要性を持たなかった。6月末には松根油の生産量は月間7万バレル に達した。しかし,精製法が確立していなかったため,航空用として生産されたガソリンはわずか 3000バレル程度に過ぎず,松根油からの航空ガソリンはオクタン価は高かったが,急速に酸化する という欠点があった。このガソリンがかって航空燃料として使用されたという記録はなくこれを ジープに利用しようと試みたアメリカ陸軍は,数日以上利用すると,エンジンに支障を来すことに 気ずいた。
海を封鎖されて燃料不足になり,それでもなお最後の勝利を期して,あがきにあがいた窮余の策は 成果を見ることなく終わった。しかし,この労力の活用は,木炭の生産に向けられる県があった。1945 年8月20日に開かれた秋田県「緊急県部課長並びに地方事務所長会議」において鈴木林務課長は次の
ように語っていた25)。
大東亜戦争の終結により現に在庫中の松根油は軍の管理を離れて,そのまま農業会の手に移り,食 糧増産用,輸送用,漁業用に使用されているほか,今後の松根油事業は従来の航空機用燃料という 狙いから,食糧増産用,輸送用,漁業用,燃料の増産という点に切り換えられるようになった。従 って,その生産も前述の目標に向ける程度において生産されるわけであるが,残った労務は全て食 糧生産と薪炭増産に向ける方針である。ことに木炭については4月以降7月までの生産がちょうど生 産目標量の半分程度という低調さであり,このまま推移したならば,今年の冬は大変なことになる ので,秋の農繁期前,即ち,9,10の両月に於て従来の減産分を取り返すよう松根油に使った労務を 十分活用する考えである。今まではただ勝つために,県民は大変な労務を松根油増産に注いできた が,今後はその熱意をそのまま木炭増産に注ぎこみ越冬対策に万全の態勢を構えていただきたい。
県では秋田のように松根油を食糧増産用,輸送用,漁業用等に使用したいといっているところもあ ったが,変質しやすかったから,利用は困難であったと推測される。この油を使ってよかったとい う報道は,筆者の狭い調査では見ることはできなかった。
ヒマの生産と潤滑油の不足
アメリカが対日石油禁輸政策を始めたとき,潤滑油は南方の産油国から輸送されてくるから,大丈
夫と安心し切っていた。しかし,太平洋戦争が始まるとそれが幻想であることが,分かった。
なお,ヒマは熱帯,亜熱帯地方に成育している3年生の作物である。その種子をヒマシという。年 間を通じて,収穫できるので,利用が高まった。主産地はインド,中国,ブラジルである。1本の木 から約1〜1.5kgの種子が採取出来る。しかも年間を通じて収穫ができるので利用が高まった。熱帯・
亜熱帯では多年生であるが,日本のように温帯では1年生である。種子には45〜60%の油脂を含む。4 月上旬に苗床に播種し,5月頃定植する。8月頃から収穫する。ヒマシから圧縮して取ったヒマシ油は 古くから下剤として使われていたが,石鹸原料,毛髪油,リノリューム油,潤滑油,灯火料等に使 われ,現在では生け花用としても栽培されている。
1942年5月,翼賛会酒田支部では市農会を初め関係団体の協力を得て,航空機の潤滑油として必要 なヒマの栽培献納運動を起こした。町内会を通じて1500粒の種子を配布し,種まきをした。1本につ き,最低2合(1合は0.18e),全体で3石(1石・約lsoe)と見積っていた。希望者は市役所に申し込 めば種子を無料配布することになっていた。山形の例を見ると,農村でヒマ栽培の音頭をとったの は,大政翼賛会と推測されるが,その資料の発掘は今後の課題である26)。文部省は1943年5月12日付 けで「ひま栽培献納実施協力」の通達を出していたから,軍の要求により,大政翼賛会による上か らのヒマの栽培が始まり,それを軌道に乗せるため,文部省に協力を要求したと思われる。大政翼 賛会が生産について会議を行うとき,関係官庁の役人と,陸軍か,海軍の佐官が出席していたので,
そのように推測しても誤りではなかろデ〉。
しかし,そのような善意に頼っていても,潤滑油の不足は解消できなかった。飛行機用だけではな く,自動車用も不足していた。山形県自動車運送業者は事業組合と連絡して,1942年度に38ヘクター ルのヒマ栽培を行い,製油会社と現品交換により潤滑油の自給体制を確立しようとしていた。種子 は事業組合から配給された。運転手はハンドルを鍬にもちかえ,「米英のお世話にはなりません」と
ヒマの栽培をせざるを得なくなった。
1943年5月,山形県自動車事務組合でも,北郡若木郷付近に5ヘクタールの開墾地を求めて,毎年1ヘ クタールの輪作で栽培することになった。開墾はトラクターの応援を得て行い,種まきは山形市女 子職業学校生徒等の協力を得て行った28)。
茨城県で最も早くヒマの栽培に取り組んだのは,新聞に掲載されているかぎりでは,久慈郡賀美村 国民学校で1.4ヘクタールの土地を開墾して,それを「一切の管理を児童の手で行うが,学童の手で 1町4反のヒマ栽培は全国国民校の圧巻であろう」29)と言われていた。この学校はヒマの栽培のために 同村翼壮団,商報会その他各団体の協力を得」3°)たという。翼壮団は翼賛会壮年団の略称であるから,
大政翼賛会がヒマの栽培の主導権をもっていたのであろう。43年中の東京日々新聞茨城版には潮来国 民学校(5月2日),猿島郡八俣国民学校(5月15日)等のヒマの栽培記事がみられるから,全県的に 実施されていたのであろう。
ヒマは潤滑油だけではなく,繊維がとれ麻の代用になることが分かったことも,その栽培に拍車を かけることになった。このような発想はいくつかあったようであるが,例をあげると,当時,米沢 市西部第9町内会の会長であった沢恭助は,織物製造業を営み,代用繊維の研究をしていたが,多く
まとめれば,洋服地でも布地にもなることを発表した。家庭でわずかしか作らないところでも下駄 の鼻緒などが自給自足できると発表した。繊維の作り方は麻の皮を剥ぐと同じ方法で水に浸しても よく,乾燥して叩いてもよい,ということであった3 )。
この種のアイディアを発展させて工業化をすすめる研究が行われて,1945年4月4日東北振興繊維株
式会社の船越東一技師はその方法を発表した。ヒマをはじめとして麻類の繊維の精練には苛性ソー ダを使って処理していたが,苛性ソーダはインド,ソマリランド等の海外からの輸入をしていたが,
戦争のために,輸入ができなくなった。国内でも少しは生産されていたが,軍需化学用品に使われ,
繊維の苛性ソーダによる処理は行き詰まってしまった32)。
一方,綿花,絹,パルプ等の繊維は一切軍の生産に振り向けられてしまったため,民生用の服地の 製織には,いままで繊維としては使われてこなかったいわゆる「雑繊維」と言われるものを使わざ
るを得ず,苛性ソーダに変わる処理法が必要であった。方法としては発酵製練,温泉製練,嬢液製 練,または機械製織による方法が試験されていたが,事業として成立するものでなければならなか
った。
船越技師はある細菌によって繊維の間にあるペクチンを腐食させて,繊維を抽出させることに成功 した。これは発酵製練の一つであった。これを同技師が得た特許「くず絹からラシャを製造する方 法」(1942年)による独自の製織機にかけて紡織するものであった。これによると,ヒマ皮繊維500 匁(1匁=3. 75 g,1875 g)から1着分の大人の服地ができると推定されていた。同工場には1万貫(1貫
・3.75kg)のヒマ皮が集められていたが,歩留まりが35%とすると,約700人分の服地ができると予想 されていた。
さらに,特記すべきことは1944年3月31日閣議で繊維活用の対策により一般の雑繊維利用を拘束し ていた商工省令繊維製品製造制限令が緩和され,農家の自家用繊維の使用が許可されるようになり,
農家が工場に紡織を委託することによって,マダ皮,桑皮等の自家用服地が作られるようになり,作 業服のないのに苦労している農家や製炭者を救うのが目的であった。ただ,ヒマだけを作れと農民 に催促しても,もう,農民も簡単には動かなくなっていた。自分の生活を守ることが出来ないから である。そのことがこうした処置をとらざるを得ない理由であった。
道のべにヒマの花咲たりしことなにか罪深き感じのごとく 斎藤茂吉33)
飛行機用エンジンの潤滑油として植えられたヒマによって作られた潤滑油によって動いたその機体 によって,多くの青年の命が奪われたことを忘れ去ってはならない。茂吉のこの作品には,このこ とに対する自責の心がみられる。
航空機燃料の不足から何を学び,どう利用するか
第2次世界大戦中における燃料の不足により,主に農山村の住民や子供が動員された。そのことは
日本が植民地を拡大していく政策を取った当然の結果であった。国際協調の重要性の大切さを示し
ている。また,技術科の授業でオクタン価の問題では機械で取り上げることができる。また,ヒマ
は美しい花が咲くので,栽培で取り上げることもできる。その中で平和の大切さを教えることがで
きる。来年は第2次世界大戦が終わって,50年になる。戦争を風化させない教材として利用してもら
えれば,幸いである。なお,ヒマについては都会でも栽培されていたような話があるが,そのよう
な資料は見つけることができなかった。また,農林行政の中でこれらがどのように扱われていたか
注
1)「予科連とその時代3」r朝日新聞』1994年8月18日茨城南版。
2)「予科連とその時代1」r朝日新聞』1994年8月16日茨城南版。
3)荒川林産化学工業KK r荒川林産百年史』(1977),pp.34〜57.
4)(茨城県)『東海村史通史編』(東海村,1992),p.633.
5)帝国農会r農業年鑑昭和18年版』(同会,1943),p.567.
6)「全国に採集動員令ロジン,テレピン油自給へ」r東京日々新聞』1941年4月26日 7)「松脂採集講習会(西遊佐)」r山形新聞』1941年6月14日。
8)農林省r昭和十八年度重要農産物生産計画概要』,p.30.(所収)r戦時農業政策資料集第1巻』(柏書房,
1988),p.74。