昭和期の第五高等学校 調査報告㈡
熊本大学五高記念館 熊本大学五高記念館
第四集 調査報告㈡ 熊本大学五高記念館叢書 第四集
文科甲類二組(昭和一八年卒業)記念写真
緒方秀逸氏寄贈
本館正面屋根の避雷針が取り外され、(防空)監視台が設置されている。
刊行にあたって
熊本大学五高記念館館長
伊東龍一
五高記念館は、かつての五高がどのような学校であったのか、を記録してゆくことを最も大事な任務の一つと考えています。
熊本大学五高記念館叢書第四集『昭和期の第五高等学校
わる仕事で、刊行を大変うれしく思っております。 調査報告(二)』は、決して派手な成果ではありませんが、その任務に関 第四集は薄田千穂五高記念館研究員が中心となってまとめたもので、二〇〇九年に五高記念館が実施したアンケート調査「戦中・戦
後の第五高等学校に関する調査」の結果、および、二〇〇九~二〇一九年の聞き取り調査からなります。
卒業生のアンケート調査「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」の報告は、第三集に続くものです。アンケートは一三三六人の
卒業生に配布し、三七三人の方から回答をいただきました。第三集では、教師、授業、試験など勉学についての報告でしたが、今回は、習学寮の運営、食糧調達、行事など生活に関わる報告をしています。
聞き取り調査は、二〇〇九~二〇一九年までの間に、のべ七〇人の聞き取りをしてきました。科学研究費補助金(奨励研究)を受け
て行われたものです。第三集では昭和六年から昭和一七年入学までの卒業生が対象でしたが、今回は昭和一八年から昭和二〇年入学までの卒業生を対象としています。
いずれの調査も、戦中・戦後の資料の少なさを補う成果で、かつ文字では記され難い情報が伝わってきます。
記念館を運営していく職員の力ともなっています。篤く御礼を申し上げます。今後も調査と報告を継続してまいります。 調査には多くの方々にご協力いただきました。「五高のためなら」と、皆さま快くお引き受けいただきました。そのお言葉は、五高 なお、五高記念館は、重要文化財である建物の修理工事で休館中ですが、工事は令和三年末で終わります。現在は、一刻も早い開館
を目指して展示計画を検討しています。どうか、もうしばらくお待ちください。
調査報告㈡
目 次
・ 戦後の第五高等学校に関する調査」
調査概要………
5 調査項目………
5 調査結果………
7
寮の生活について ①
入寮期間………
8
②
日課(起床時間、食事時間、就寝時間、勉学時間等)
… ………
16
③
習学寮運営組織について………
21
④
部屋割について………
24
⑤
食事について………
31
⑦
行事について………
48
聞き取り
工藤
晃 (昭和一八年理科甲類四組入学)
… ………
66
秋山
英一(昭和一九年理科甲類一組入学)
… ………
75
青木
正二(昭和一九年理科甲類三組入学)
… ………
85
中山
惟良(昭和一九年理科甲類五組入学)
… ………
94 井上惣左衛門(昭和一九年理科乙類七組入学) … ………
103
立花
芳郎(昭和二〇年理科甲類三組入学)
… ………
114
福井
孝一(昭和二〇年文科乙組入学)
… ………
123
はじめに
熊本大学五高記念館研究員
薄田千穂
本書は、
二〇〇九(平成二一)年に五高記念館が実施した「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」および、二〇一〇年〜二〇一九年に実施した聞き取り調査をまとめたものである。
「戦中
・ 戦後の第五高等学校に関する調査」は、二〇〇九年に第五高等学校(以下、五高と記述)卒業生二二九二人に発送し、一九〇一人に配達され、三七三人から回答をいただいた。調査の経緯等は、熊本大学五高記念館叢書第三集『昭和期の第五高等学校
調査報告
㈠』に記述している。ここには、生活に関する項を掲載した。
聞き取り調査については、一九四三(昭和一八)年から一九四五
(昭和二〇)年の入学生を掲載した。卒業年は一九四五年〜一九四九(昭和二四)年である。この時期の五高について、概略を述べる。
一九四三年一月二〇日高等学校令が改訂され、同年四月の入学生
は二年課程となった。四月文部省の「高等学校修練要綱」により生活全般の統制が強化され、五高では一年生の全員入寮が実施された。一〇月一日「在学徴収延期臨時特例」が施行され、一二月一、一〇日文科生が入隊した。一二月二三日には「徴兵適齢臨時特例」公布により、徴兵年齢が一九才に引き下げられた。この間勤労動員の体制が整備されていき、断続的に農村、工場へ勤労動員が行われてい る。一九四五年「決戦教育措置要綱」が閣議決定され、四月一日より一年間授業停止となった。四月一一日には理科甲類二年生一〇〇名が長崎へ動員された。同月五高に三菱重工業熊本航空機製作所の疎開工場が置かれた。七月一日熊本市大空襲、八月六・九日広島・長崎に原爆投下、八月一五日終戦、九月二〇日に授業が再開された。一〇月二日に軍系学徒転入試験が行われ、一九四六年五月四日文部省令第一八号により、高等学校は三年課程に復した。
聞き取り調査では、このような時期に五高生はどのような教育を
受け、どのような生活を送ったのか、何を考えていたか、その後にどのような影響があったか、明らかにすることを心掛けた。
謝辞 調査にご協力いただいたすべての方々に心から感謝を申し上げる。
聞き取り調査内容を掲載した工藤晃氏、秋山英一氏、青木正二氏、中山惟良氏、井上惣左衛門氏、立花芳郎氏、福井孝一氏には、聞き取りに時間を割いていただき、原稿校閲等で何度もやり取りをさせていただいた。
また、
「戦中・ 戦後の第五高等学校に関する調査」にご協力いただいた方々の中には、逝去された方も多い。心からご冥福をお祈りし、成果をお届けできなかったことをお詫びしたい。
なお、本書は、平成三一年度日本学術振興会科学研究費補助金奨 励研究「戦後の第五高等学校に関する研究」(19H00048)等により作成したものである。
一 「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」
㈠ 調査概要
二〇〇九(平成二一)年度、五高の卒業生に「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査書」を送付し、調査を行った。
㈠ 調査名称
戦中・戦後の第五高等学校に関する調査
㈡ 調査目的
昭和初期~昭和二五年の五高について、当時の学校・教育・生活についての情報を収集して研究資料としてまとめ、旧制高等学校の研究に資することを目的とする。
㈢ 調査方法
の内容をデータ化する。 どをもとにして卒業生へ調査書を郵送し、返送された調査書 『五高同窓会会員名簿百周年記念号』『東京五高会名簿』な
㈣ 調査の時期
発 送 二〇〇九(平成二一)年一〇月一〇日付
返送期限 二〇一〇(平成二二)年二月二八日
㈤ 調査対象
五高卒業生(調査書回収状況は表の通り)
㈥ 調査書配布・収集の方法 配布 クロネコメール便 回収 料金受取人払郵便
㈡ 調査項目
Ⅰ 経歴編
Ⅰ‐1 五高入学前(中学校・軍関係の学校・兵役等)
Ⅰ‐2 五高在学中
Ⅰ‐3 五高卒業後
Ⅱ アンケート編
Ⅱ‐1 五高での生活について
Ⅱ‐1‐1 勉学について
① 入学試験
② 授業について
③ 学科試験について
④ 進学について
Ⅱ‐1‐2 寮の生活について
① いつからいつまで入寮していましたか
② 日課
(起床時間、食事時間、就寝時間、勉学時間等)
③ 習学寮運営組織について
○ 役員をしていましたか(惣代、炊事委員、組長等)
していた( )
していない
○ 上記の職務はどんなことでしたか
○ ほかにどんな役職がありましたか。
④ 部屋割について
○ 寮の部屋は一棟に何室ありましたか。
○ どのような基準で部屋割がされていましたか。
(同部屋の人数・学年・クラス)
⑤ 食事について
○ 献立
・通常の献立
・祭事の献立
○ 食糧調達のエピソード(買出し、畑開墾等)
⑥ 阿蘇道場について
⑦ 行事について
○ 阿蘇山登山、川下り等の行事はありましたか。
あった(内容 )
なかった
・どの季節でしたか。
・どんな日程でしたか
(現地までの移動手段、持参したもの、かかった時間等)
○ ストームをしましたか。
あった なかった
・月にどのくらいしましたか
・どのようなきっかけで始り、どのようなきっかけで終り ましたか。
⑧ アルバイトについて
Ⅱ‐1‐3 龍南会(龍南学徒報国団)について
Ⅱ‐1‐4 龍南会雑誌について
Ⅱ‐2 戦時中の五高についてお答えください。
Ⅱ‐2‐1 軍事教練について
Ⅱ‐2‐2 査閲について
Ⅱ‐2‐3 昭和一八年の査閲事件について
Ⅱ‐2‐4 勤労動員について
Ⅱ‐2‐5 五高内の学校工場について
Ⅱ‐2‐6 学徒出陣について
Ⅱ‐2‐7 一九四五年八月一五日の五高の様子について
Ⅱ‐2‐8 戦争について
Ⅱ‐3 戦争の体験について
Ⅱ‐4 五高や五高生に関する資料について
Ⅲ 証言・手記編
*本書に関連のある項目以外は略載した。全項目は熊本大学五高記念館叢書第三集『昭和期の第五高等学校 調査報告㈠』、書式は『第五高等学校における軍事教練・査閲
に関する調査」報告』(薄田千穂)に掲載 「戦中戦後の第五高等学校
㈢ 調査結果
凡例
1 本書では、五高の寄宿寮「習学寮」についての記述を掲載した。項目は、「Ⅱ‐1‐2 寮の生活について」より、①入寮期間、②日課、③習学寮運営組織について、④部屋割について、⑤食事について、⑦行事について、である。⑥阿蘇道場については、学校施設であり、習学寮の項にあてはまらないので、次号に送った。2 回答内容は、入学年ごとにまとめ、クラスを末尾に付した。同じ回答はまとめ、まとめた件数をクラス表示のあとに算用数字で表した。3 クラスについては、学年により表示形式がかわっている場合がある。
昭和二〇年入学については、一〇月に編入試験が行われているため、七月と一一月に分けた。尚、入学前の状況により、五月の入学生もいるが、七月にまとめた。
二学年編入については、入学の年に入れ、その旨表示した。
クラス表示例 文科甲類一組→文甲一
文科甲類一組の二学年に編入→二文甲一
理科一組→理一4 回答内容はできるだけそのまま掲載した。特に入寮期間や寮役 員の表記の仕方がまちまちであるが、統一は行なわなかった。5 調査書の返信状況は、熊本大学五高記念館叢書第三集『昭和期の第五高等学校 調査報告㈠』に掲載した。
6 調査結果目次Ⅱ‐1‐2 寮の生活について
① いつからいつまで入寮していましたか………
8
② 日課(起床時間、食事時間、就寝時間、勉学時間等)
… ……
16
③ 習学寮運営組織について………
21
〇 役員経験とその職務
〇 他にどんな役職・制度があったか
④ 部屋割について(寮内の部屋、部屋割の基準)
… ………
24
⑤ 食事について………
31
〇 通常の献立
〇 祭事の献立
○ 食糧調達のエピソード
(買出し、畑開墾、食料に関すること)
⑦ 行事について………
48
〇 どんな行事があったか、季節、日程、現地までの
移動手段、持参したもの、かかった時間等
○ ストームをしましたか。(回数、内容等)
※ その他 生活に関すること
Ⅱ ‐ 1 ‐ 2 寮の生活について
① いつからいつまで入寮していましたか
昭和六年入学(以下、入学を略する)・昭和六年四月から一カ月。入学一カ月居て、すぐにボート部の合宿に移る。(理乙)
昭和七年・昭和七年四月~一一年三月(理甲二)
昭和八年・自宅通学(熊本市春日町)(理甲三)
昭和九年・昭和九年四月~一〇年三月(理甲三)
昭和一〇年・一年間(文甲二)・昭和一〇年一年間(文乙) 昭和一一年・昭和一一年四月~一二年三月の一年間(文甲一)・自宅から通学につき寮生活経験ない(文甲一)・昭和一一年四月~一二月三月(文甲二)・通学で寮経験なし(文甲三)昭和一二年・昭和一二年四月~一三年三月(文甲一)・昭和一二年四月~一三年三月 一年間(文甲二)・入学より一年間(文乙)・二年(理甲三)昭和一三年・昭和一三年~一四年(文甲二)・自宅通学のみ(文甲二)・昭和一三年四月~一四年三月 一年間(文甲二)・昭和一三年~一四年 一年間(文乙)・一年 入学した年だけ(文乙)・徒歩通学(自宅から)だったので寮には入らなかった。(理甲一)・昭和一三年四月~一四年三月(理甲一)・昭和一三年四月一日~一五年三月一五日(理甲一)・自宅通学(理甲二)・昭和一三年四月~一四年三月(理甲二)
・昭和一三年四月~一四年三月(理乙)
昭和一四年・昭和一四年四月~一五年三月(文甲一)・入学后一年 昭和一四年四月~一五年三月(文甲一)・昭和一四年~一五年 入学してから一年間(文甲三)・昭和一四年四月~一五年三月(文甲三)・自宅通学(文甲)・入寮の経験なし(文乙)・一年間 昭和一四年四月~一五年三月(理甲一)・昭和一四年~一五年(理甲一)・入寮の経験なし、自宅通学のため(理甲二)・入寮せず(理甲二)・全然入寮せず 自宅・下宿より通学(理甲三)・入寮の経験なし(理乙)
昭和一五年・昭和一五年四月~一六年三月まで一年間(文甲二)3・昭和一五年四月~一六年三月 一年間(文乙)2・入寮の経験なし(文乙)・昭和一五年四月~一六年三月 一年間(理甲二)2・入寮の経験なし(理甲二)・入寮の経験なし(理甲三) ・一五年四月から一六年三月まで(理甲三)・一年 昭和一五年四月~一六年三月(理乙)2
昭和一六年・一年間(文甲一)・入寮の経験なし(文甲一)・昭和一六年四月~一七年三月(文甲一)3・昭和一六年四月~一八年八月 在学中(文甲二)・昭和一六年四月~一七年三月(文甲二)2・昭和一六年四月~一七年三月(文甲三)2・入寮の経験なし(文甲三)・一年間、五高は一年生は全員入寮ということでした。(文甲三)・昭和一六年四月~一八年三月 二年間(文乙)・昭和一六年四月~一七年三月 一年生は自宅通学以外は強制的に寮に入った。二年生以降は班長、寮長のみ(理甲一)・第一学年の間 昭和一六年四月~一七年三月(理甲一)・熊本市に住居のあるものは入寮できず、小生は大江から通学(理甲二)・二年間 昭和一六年四月~一八年四月(理甲二)・入寮の経験なし(理甲二)・昭和一六年四月一日~一七年三月三〇日一ヶ年(理甲二)・昭和一六年四月~一七年三月(理甲三)3・自宅通学(理甲三)
・家から通学(理甲三)・一年の一年間だけ(文乙)
昭和一七年・昭和一七年四月~一八年三月(文甲一)・昭和一七年四月~一八年三月 一年間。以降卒業まで下宿より登校(文甲一)・入寮の経験なし(文甲一)・昭和一七年四~一八年三月 一年間(文甲一)・寮に入らなかった。(文甲二)・昭和一七年四月~一八年三月(文甲二)2・一年生の間(文甲二)・昭和一七年四月~一八年三月(一年間)(文甲二)・昭和一七年四月より仝年一一月まで。入学時の一年は全部寮に入った。(文甲三)・昭和一七年四月から一八年三月まで入学から一年間。全寮制でした。(文甲三)・昭和一七年四月~一八年三月(文甲三)・一年 昭和一七年四月~一八年四月(文乙)・昭和一七年四月一日~一八年三月(文乙)・入寮の経験なし(理甲一)・一年間(理甲一)・昭和一七年四月~一八年三月(理甲一) ・入寮希望したが入寮出来ず。親戚、知人もいなかったので寮にも入れず、二度程下宿を転々としたが、ラグビー部の合宿があったので入れてもらった。(理甲二)・昭和一七年四月~一七年一一月頃迄…後休学した。←体調不良(肺侵潤、肺結核の前兆か?)(理甲二)・昭和一七年四月より一年間(理甲二)・昭和一七年四月~一八年三月迄一年間 第一学年の入学当初から終わりまで(理甲三)・昭和一七年三月下旬より一八年三月下旬(理甲三)・昭和一七年四月~一八年三月(理乙四)・入寮せず柔道部合宿に入る。(理乙五)・熊本市出水町の自宅より通学、寮には入っておりません。(理乙六)・昭和一六年四月~一七年三月(理乙六)・入寮人数に制限があり抽選の結果入寮出来ず。(理乙六)・入寮の経験なし(昭一七理乙六)・熊本市内在住のため辞退(理乙六)昭和一八年・入学時一年~一年半卒業まで(戦時中一年半)(文甲一)・昭和一八年四月~一九年三月 入学より一年間(文甲一)2・昭和一八年四月~一九年三月(文甲二)6・昭和一八年三月三一日入寮から昭和二〇年九月頃勤労動員に出るまで(文甲二)
・昭和一八年四月~一九年三月(文甲三)5・昭和一八年四月より一九年三月までの一年間(文乙)2・昭和一八年四月~一九年三月(理甲一)5・昭和一八年四月~一九年三月、但し学徒動員中は在寮せず。(理甲一)・入学当日より一ヶ年間、一年生は全寮制だった。二年になれば追い出された。(理甲二)・一年生間、二年生は下宿(理甲二)・昭和一八年三月から一年間(理甲二)・昭和一八年四月~一九年三月 一年間(理甲三)・一ヶ年 入学時から(理甲四)・昭和一八年四月~一九年三月一年間(理甲四)5・昭和一八年四月~一九年三月 二寮三班(理甲四)・昭和一八年四月~二一年三月(理甲四)・昭和一八年三月末から一九年三月まで(理乙五)・昭和一八年四月~一九年三月 一年間(理乙五)4・入学時から一年間(一年生全寮制でした)(理乙五)・昭和一八年四月~一九年三月(理乙六)3・昭和二〇年四月より二一年八月末(?)頃まで、四寮別館(理乙六)・一年間(理乙六)・昭和一八年四月~七月(理乙六)・昭和一八年四月から一八年九月迄、入学時四月から六月迄、病気 になったから(理乙八)昭和一九年・昭和一九年四月~二〇年三月(文イ)・昭和一九年四月~一二月以後軍隊入隊(文イ)・昭和一九年四月~二〇年三月(文ロ)・昭和一九年四月~二〇年四月(理甲一)・一年間 昭和一九年四月~二〇年二月?(理甲一)・一年間 昭和一九年四月から二〇年三月まで(理甲一)2・昭和一九年春~(長崎)~二〇年秋(理甲一)・昭和一九年四月~二〇年六月(理甲一)・昭和一九年四月~二〇年五月 一九年入学時から学徒動員される二〇年春まで(理甲一)・昭和一九年四月~二〇年三月(理甲二)・昭和一九年四月~二〇年二月(理甲二)・昭和一九年三月三一日~二〇年五月(理甲二)・一年 昭和一九年四月~二〇年三月(理甲三)3・昭和一九年四月~二〇年三月(理甲四)2・昭和一九年四月~二〇年六月(二〇年入学が遅れ六月二八日退寮)(理甲五)・昭和一九年三月~二〇年三月(理甲五)・昭和一九年四月~二〇年四月 昭和二〇年~昭和二二年三月(理甲五)
・昭和一九年四月~二〇年三月(理甲五)・昭和一九年四月~二〇年三月(理甲六)3・昭和一九年四月~二〇年六月(理甲六)・昭和一九年四月一日~一年間(理乙七)・昭和一九年四月~二〇年六月末(二〇年入学生の入学が遅れたので三ヶ月退寮が延期)(理乙七)2・昭和一九年四~二〇年六月(理乙八)・昭和一九年四月~二〇年三月 一年間(理乙八)4
昭和二〇年七月・昭和二〇年七月より二一年三月(文甲一)・昭和二〇年四月~八月(終戦迄)(文甲一)・約二ヶ月(食料不足のため自宅が市内にある者は退寮を求められた)昭和二〇年七月一日より九月末頃まで。(文甲一)・昭和二〇年五月~二一年三月(文甲一)・昭和二〇年七月~二一年三月(文甲二)・昭和二〇年四月~一一月(文甲二)・一ヶ月半、昭和二〇年七月から八月一五日まで(文乙)・昭和二〇年七月~二一年三月、昭和二三年九月~二四年三月(文乙)・三ヶ月程度、あと自宅通学。昭和二〇年七月一日より食糧難の為三ヶ月位だったと思う。(理甲一)・昭和二〇年四月~二一年三月 途中で一時退寮(理甲二) ・昭和二〇年七月~二一年三月(理甲二)・昭和二〇年六月三〇日~二一年三月(理甲二)・四年間(理甲三)・昭和二〇年九月から二一年三月まで(理甲三)・昭和二〇年七月~二一年三月。二〇年八月五日~一五日は五高からの学徒動員でした。(理甲三)・昭和二〇年七月一日~八月二〇日(理甲三)・約七ヵ月 二〇年七月三一日入寮、二一年三月出寮(八月~一九日動員)(理甲三)・入学時より二年間(理甲四)・昭和二〇年七月一八日~二一年三月末(終戦のため八月一八日に無期休校となり寮を出る。九月一九日寮に戻る。九月二四日より授業再開。)(理甲五)・昭和二〇年九月~二一年三月(一年生の時のみ)(理甲五)・昭和二〇年七月一日から七月下旬の動員まで(理甲五)・昭和二〇年四月一日~八月一五日(理甲六)・昭和二〇年一〇月(?)~二一年三月(理甲六)・昭和二〇年四月から二一年三月(理甲六)・昭和二〇年七月~二一年三月、二三年四月~二四年二月(理甲六)・昭和二〇年六月三〇日~二一年三月まで約九ヵ月(理乙七)・昭和二〇年五月?~二一年三月 一年間(理乙七)・昭和年二〇年七月一年入寮、食糧事情悪く終戦二〇年八月一五日市内自宅へ(理乙八)
・昭和二〇年七月~二一年三月(理乙八)・昭和二〇年四月~八月(理乙八)・昭和二〇年七月~二一年三月。昭和二〇年七月一日入学、その夜に熊本空襲、五高にも爆弾焼夷弾何発が落下(理乙八)・昭和二〇年七月一日から一年間(理乙八)・昭和二〇年七月より二一年三月まで(理乙九)・昭和二〇年四月~二一年三月 一年間(理乙九)・昭和二〇年七月より二一年三月まで(理乙九)・①二〇年七月一日~八月二〇日、同九月一五日~二一年三月末 ②二二年九月一日~二三年三月三一日(理乙九)
昭和二〇年一一月・昭和二一年一月から三月まで京城大予科生多数、同宿。極めて特殊な短期間入寮だったと思っています。(二理甲五)・自宅通学により、入寮せず(二理甲六)・自宅より通学(文甲一)・入寮の経験なし(文甲二)・昭和二一年四月~昭和二二年三月(文甲二)・入寮の経験なし(理甲一)・約半年 昭和二一年一〇月から二二年五月ごろまで。(理甲一)・昭和二〇年一一月一五日~一二月習学寮一寮、二一年一~三月四寮に入寮(理甲一)・入寮せず(理甲二) ・昭和二一年九月三〇日~二四年二月(理甲六)・昭和二一年~二三年(うち半年ほど知人宅に住む)(理乙七)・経験なし(理乙八)昭和二一年・入寮せず(二文甲一)・入寮の経験なし(二文甲二)・昭和二一年六月~二三年一〇月(文甲一)・自宅から通学者は入寮できなかった。(極度の食糧難のため)(文甲一)・入寮なし(文甲一)・自宅通学(文甲二)・昭和二一年一〇月~二二年三月まで(文甲二)・昭和二一年四月~一〇月迄、以後肺病を患い自宅より通学(文甲二)・昭和二一年一一月~二三年三月(文甲二)・七ヶ月位、昭和二一年一〇月の入学時から休学する二二年の春ごろまで(文甲二)・昭和二一年九月~二四年二月(文乙三)・昭和二一年六月から二二年三月まで(理甲一)・昭和二一年九月~二二年三月(理甲一)・昭和二一年一〇月~二二年八月(理甲一)・昭和二一年一〇~二二年三月(理甲二)
・昭和二一年一〇月から二二年四月まで(理甲二)・入寮せず、はじめ数ヶ月は菊池より菊池電車で通ったが下宿(理甲二)・昭和二一年(寮長は北村龍一氏)一年以内だった。(理甲二)・戦後は全寮制がなくなり通学した。(理甲二)・一年間(理甲三)・自宅通学(理甲三)・昭和二一年九月より七ヶ月間(理甲三)・昭和二一年九月から一年半(理甲三)・戦後の自宅通学により入寮経験なし(理甲三)・昭和二一年一〇月~二二年三月、一年生は全員入寮する事と強要されたが、寮の部屋の関係で二年生になると下宿する者が多かった。(理甲四)・昭和二一年一〇月~二三年六月(理甲四)・入寮の経験なし(理甲一)・昭和二一年秋(五高入学時)から、二三年三月(五高二年修了迄)、五高三年が始まると同時に寮を出て、停電のない地域の下宿に移った。(理甲四)・昭和二一年九月三〇日~二二年三月の六ヶ月間(理甲四)・昭和二一年九月から約半年(昭二二年三月頃?まで)(理乙五)・食料不足で入寮は制限されて入らず。(理乙五)・入寮はしていない ※戦後の五高では、入寮するか否か自由にえらべた。(理乙五) ・第一学年入学より卒業まで(理乙六)・入学時から一年三学期中ばまで(理乙六)・昭和二一年九月~二二年三月(理乙六)昭和二二年・昭和二二年九月(転入学時)より二四年三月(卒業時)まで(二文甲一)・昭和二二年四月~二三年三月(文甲一)3・三年 昭和二二年四月~二五年二月(文甲一)・入寮の経験なし(自宅から通学)食糧難時代で自宅通学が認められたので、寮には入っていない。(文甲一)・昭和二二年四月~二四年八月(文甲一)・昭和二二年四月~二五年一月(文甲一)・昭和二二年四月~二四年秋(五髙終了による寮閉鎖のため)(文甲一)・昭和二二年四月~二三年三月(文甲二)2・昭和二二年四月~二五年三月 自治会執行委員長(文甲二)・昭和二三年四月~二八年(文甲二)・昭和二二年四月~二三年三月(文乙)・昭和二二年四月~同二三年四月(文乙)・昭和二二年一〇月~二三年三月(文乙)・昭和二二年四月~一一月および二四年四月~二五年(文乙)・昭和二二年四月~二四年三月(理一)
・昭和二二年四月~二三年三月、二四年四月~二五年三月(理一)・昭和二二年から二五年までの三年間(理一)・昭和二四年四月~二五年三月(理一)・自宅通学(理一)・昭和二二年~二三年(理一)・二年間 昭和二三年と二四年度(理二)・昭和二二年四月~二三年三月(理二)・入寮の経験はない。(理二)・食糧難のための通学でも良いとのことであった。入寮せず(理二)・昭和二二年四月から一年間、二四年~二五年三月再入寮(理二)・入らず(理三)・昭和二二年四月~二五年一月 入学直後から卒業迄(理三)・入寮経験なし(熊本市内自宅より通学)(理三)・昭和二二年四月~昭和二三年三月(理三)・入寮の経験なし(理三)・昭和二二年四月~二四年三月(理三)・昭和二二年四月~二三年三月 二四年四月~二五年三月(理四)・昭和二二年四月~二三年三月(理四)・昭和二二年四月より二三年秋頃(理四)・約一年 昭和二三年末~二四年中期(理四)・三年間 昭和二二年四月から二五年三月迄(理四)・昭和二二年四月~二三年一二月(理四)・昭和二二年四月~二五年三月 全在学期間(理四) ・三年 昭和二二年~二五年(理五)・一四ヶ月、(一回目)昭和二二年一年の九月~翌年の三月まで、(二回目)昭和二四年三年の九月から翌年の三月まで(理五)・三年間(理六)・一年の時は一年間全部、三年の時半分位は寮にいた様な気がする。昭和二二年四月入学から二三年三月まで 二年生の時は下宿。三年の時は寮(理六)・一年生入学から一年間(理六)・昭和二四年四月から二五年三月(理六)昭和二三年・昭和二三年四月~二四年三月(文一)2・昭和二三年四月から約半年間(文一)・寮には入っていません。(文二)・昭和二三年四月一一日から二四年二月七日まで(文二)・昭和二三年四月~二四年三月(文二)・一年間 昭和二三年四月~二四年三月(文三)・寮生活はしたことがなかった。(文三)・自宅通学(理一)・昭和二三年四月~二四年二月(理一)・自宅通学(理一)・入学時から夏休み迄(理一)・昭和二三年四月(理二)
・自宅より通学 寮生活なし(理二)・昭和二三年四月~二四年三月(理二)・五高では入寮せず通学生でした。(理二)・昭和二三年四月~二四年三月(+半年ごろごろ)(理二)・入寮せず、自宅より通学(理三)・一年間 昭和二三年四月~二四年三月(理三)3・昭和二三年四月~二四年三月(理四)・昭和二三年四月~一二月(理四)・一年 昭和二三年四月~二四年三月(理四)・入寮せず(理四)・昭和二三年四月~二四年三月(理四)5・入寮の経験なし(理四)・昭和二三年四月~二四年三月(理五)2・六ヶ月 昭和二三年四月~九月(理五)・入寮せず(理五)・昭和二三年四月~二四年一月(理五)・自宅通学(理六)・一年間 昭和二三年四月~二四年三月(理六)3
② 日課(起床時間、食事時間、就寝時間、勉学時間等)
昭和九年入学(以下、入学を略する)・三食の時間は決まって居ましたが、他は放任でした。(理甲三) 昭和一〇年・食事時間七時・一二時・一七時、就寝時間二二時、勉強時間一七時~二二時(文乙)昭和一三年・食事は大体時間があったようだが他は一切自由(文甲二)・七時前後起床、食事時間三食合計六〇分、就寝時間不定、勉強時間平均二時間(理甲一)・食事時間は決まっていたが、他は自主性に基いて行った。(理乙)・朝七時に起床、朝七時から八時朝食。就寝や勉学は各自(理乙)昭和一四年・寮制にのっとる。(文甲一)
昭和一五年・起床午前六時、掃除六時三〇分、朝食七時、診療七時~八時、午食一二時、入浴一五時~一七時、夕食一七時、点検二二時、就寝二二時二〇分、消燈(文甲二)・学生自治のもと自由であった。(文甲二)・六時起床~夜一〇時就寝の記憶がある。(文甲二)・一応あったがそれに規制されることはなく自由だった。(文乙)
昭和一六年・食事時間、午後九時までの帰寮時間以外自由(文甲一)・六時起床、奉安殿礼拝、七時朝食、就寝時間二三時、勉強時間平均三時間(授業のある日)(文甲一)・朝定時に奉安殿参拝があった。起床就寝は不規則(昭一六文甲一)・決まった通り。(文甲二)・六時起床、七時食事、一〇時就寝、三時間ぐらいは勉強していた。(文甲二)・起床時間、食事時間は決まっていた。(文乙)・寮の帰寮点呼午后一〇時、それから寮歌練習、それから再度外出(理甲二)・七時三〇分頃起床、顔を洗って食堂へ、八時授業開始、一二時~一三時昼食、夜は一一時頃就寝、それまで部屋でダベルか読書、飲みに行くか、試験の時以外殆ど勉強の記憶なし(理甲三)・すべて無視したと記憶。食堂の時間は決まっていたが、残してくれていた。(文乙)
昭和一七年・朝食午前七~八時、授業八時三〇分~、昼休み一時間(帰寮食堂にて)、放課后、部活動、入浴、夕食(寮)、自習時間、午後一〇時点呼、外出簿に記入し、街に繰り出していた。(文甲一)・朝六時~消燈一〇時だったと思う。(文甲二)・全て寮生の自由であった。食事だけは時間が決まっていた。(文 甲二)・常識的ではあるが特記することはない。(文甲三)・夜は遅くまで騒いでいました。(文甲三)・起床時間六時、食事時間七時、就寝時間一〇時(文甲三)・起床六時、就寝一〇時(理甲一)・起床、夏五時、冬六時、放課後、部活、その後は自由(理甲一)・起床時間、食事時間は決まっていなかったと思う。就寝時間は一〇時頃か。勉学時間等は夜二~三時間(理甲二)・就寝前二二時に点検。門限があったが、遅れた場合は玄関に置かれた帳簿に氏名などを記入するだけ。朝・昼食は終了時刻あり、夕食は終了時刻なし、入浴も終了時刻なし(理甲三)・特に決められていなかった。食事時間は決められていたように思う。(理乙四)
昭和一八年・起床七時、食事七時三〇分、就寝時間二二時~二四時、勉学時間二〇時~二四時(文甲一)・規則正しい。(文甲一)・明確な記憶はありませんが、別につらい思いはなかった。(文甲二)・起床時間午前六時、食事時間朝・昼・夕、就寝時間約七時間、勉学時間等五時間(文甲二)・起床時間六時、食事時間適宜、就寝時間なし、但し戦中の為、一〇時頃消燈だったと思う、便所の一〇ワット位で読書(文甲三)
・六時起床、七時朝食、午後一〇時就寝(文甲三)・自由であったように思います。(文乙)・起床八時、食事八時半~九時 就寝一〇時(理甲一)・起床七時、食事八時(朝)、就寝十一時、勉学三時間(理甲一)・午前七時起床、午後九時就寝、廊勉の言葉あり(ローカのみ点灯につき)(理甲四)・消灯一〇時?(理甲四)・記憶なし、就寝前に寮長の点呼があった。(理甲四)・起床時間六時頃、食事時間七時半、就寝時間一〇時、勉学時間等六~一〇時(理甲四)・食事時間以外は割と制約はなかった。(理乙五)・食事(朝七時頃?・夕七時頃)、入浴八~一〇時頃、就寝一〇時~一一時(消燈)(理乙五)・起床時間七時、食事時間七時三〇分、就寝時間一〇時、勉学時間等三~五時間(理乙五)・六時半起床、武夫原で体操、七時食事、八時~一二時授業、一二時~一三時昼休み、一三時~一五時授業、一九時夕食、風呂等、二一時半点呼、二二時消燈(理乙六)・七~八時起床、食事時間―食堂で時間内に。一〇時過ぎ就寝、当時は戦時中で一〇時消燈(理乙六)・六時起床、朝食八時、昼食ははっきりしません、四時から授業なく六時の間に坪井まで出て外食し、六時夕食、九時就寝でした。(理乙六) ・起床時間午前七時、食事時間七時一〇分、就寝時間午后一〇時、勉学時間等午后七時~午后一〇時(理乙六)昭和一九年・起床七時、食事八時、就寝・勉学?(文イ)・起床六時?就寝一〇時?(文イ)・起床七時、食事七時半~、就寝一〇時、勉学二~三時間?(理甲一)・不定だった。(理甲一)・起床六時、朝食七時、夕食一七時、就寝二三時、自習三・五時間(理甲一)・食堂の時間は定められていた、消燈時間以外は特に定めはなかった。(理甲一)・朝七時頃、昼一二時頃、夜一八時頃か(理甲二)・六時起床、七時~八時朝食、一八時~二〇時夕食、二二時~六時就寝、(何れも不確実)(理甲二)・六時起床、七時朝食、一二時昼食、一八時夕食、二〇時消燈、二時間勉強時間(理甲三)・朝六時三〇分、午後九時、二時間程度学習(理甲四)・自由に(理甲五)・起床時間六時、食事時間七時三〇分、就寝時間二二時、勉学時間等自由だった、食事の前に班毎に体操(決まっていたかどうか忘れた)(理甲五)
・起床時間午前七時三〇分か八時、食事時間、朝午前八時頃・昼正午・夜午後五時、就寝時間午後一〇時、勉学時間等特になし(消灯后天井裏からこっそり引いた配線による電灯で読書していた)(理甲六)・起床午前七時、食事七時三〇分、就寝午後一一時、勉学午後七~一〇時(理甲六)・六時起床・掃除、朝食七時、昼食一二時、夕食五時~七時、一〇時消燈、試験の時は廊下の電燈を明るくして廊勉、燈火官制が厳しくなった頃には学業は停止になっていたのか?(理乙七)・起床七時、朝食七時三〇分、昼食一二時、夕食六時、就寝一〇時(理乙七)・起床時間六時半?食事時間七時・一七時、就寝時間二二時?勉強時間等一九~二二時?(理乙八)・起床時間午前八時、食事時間適宜、就寝時間午后九時、勉学時間等適宜(理乙八)
昭和二〇年七月・起床・就寝自由、食事朝・昼・夕なれど時間記憶なし、勉学は停電多し、又はローソク送電熱心な者はローベン(ローソク勉)(文甲一)・起床七~八時、食事八時、就寝時間一二時、勉学時間等五~六時(文甲一)・食事時間→朝、午、夕(文甲二) ・全く不規則(文乙)・毎朝(夕?)先輩入寮者の音頭で寮歌演習あり。(理甲一)・他の寮生と殆ど同じ、あまり勉強はしていない。起床朝七時頃、夜一〇時~一二時、食事は不規則、朝七時迄、夕五時(理甲二)・午前七時起床、八時から授業、消燈午後一〇時(試験中一二時)(理甲二)・普通並(理甲六)・習学寮の規則で惣代の号令に従って。(理甲六)・起床時間の定めはなかったと思うが、夜は消燈時間があったと思う。しかし終戦前後は停電がよくあり、ローソクの灯の利用が盛んだった。(理乙七)・特に定めはなかった(理乙八)・午前六時起床、午前七時朝食、勉学時間午后七時~一二時、午后一〇~一二時就寝(理乙八)・不定(理乙八)・起床・就寝・勉学時間自由、食事時間?(理乙九)・食事時間は決まっていたが、その他はなかったように思う。(理乙九)・昭和二〇年八月一五日後九月一五日再開されて暫くは朝の体操、掃除など課せられた(理乙九)昭和二〇年一一月・時間はあってないようなもの(文甲二)
・食事時間以外は自由(理甲一)・午前六時起床、七時頃朝食、正午昼食、午後五時夕食、七時点検、九時半点呼、午後一一時消燈(『続習学寮史』昭和二三年による)、実際は可成乱れていました。(理甲一)・すべてゆるやか。食時だけは空腹なので時間が来ると急いでかけつけた。(理甲六)
昭和二一年・総て、規則や習慣による時間の束縛は無かったが、食事だけは用意が出来ると手鈴を振って寮内に知らされた。(文甲一)・起床は八時前、食事は八時・一二時・六時、就寝は一一時、勉学は三時間位(文甲二)・七時起床、八時朝食、一二時昼食、一七時夕食、七時~八時勉学、午前一時就寝(文甲二)・起床時間午前七時頃、食事時間午前七時半、就寝時間午後一二時、勉学時間等午後四時~午後一一時(理甲一)・食事時間以外は自由(理甲二)・起床は六時半頃、夜は停電でローソクで勉強(理甲三)・別に規定はなかった。(理甲四)・七時半頃起床(理甲四)・起床時間五時頃、食事時間七~八時、就寝時間一一時頃、勉学時間等授業は八~一五時、二一時全員点呼、そのあと寮長訓示と寮歌練習(理甲四) ・起床時間七時頃、食事時間八時頃(朝)・六時頃(夕)、就寝時間一一時頃、勉学時間等五~八時間?(理乙五)・いいかげんで規則性はなかった。(理乙六)・起床時間七時頃、食事時間七時三〇分頃、就寝時間一一~一二時、勉学時間等二~三時間(理乙六)昭和二二年・起床時間七時、食事時間八時・一二時・六時、就寝時間一〇時、勉強時間三~四時間(文甲一)・全て自由(文甲一)・三食の食事、週何回かの風呂の時間以外はすべて自由(文甲一)・食事時間は決められていたが、他は勝手(文甲二)・まちまち(文甲二)・自由でした。(文甲二)・起床六時三〇分 朝食七時三〇分 就寝午前一時頃(平均)勉強時間二~三時間 ダベリング討論は平均三時間(文乙)・起床六~七時、就寝時間一二時午後、放課後は殆ど学習していた。停電が多くローソク(ロー勉)をつけてやっていた。(文乙)・起床時間七時、食事時間一〇分、就寝時間一〇時間、勉学時間等一時間(理一)・比較的自由(理一)・随意(理一)・とくに定めてなかったと記憶している。(理二)
・食事時間以外全く自由、夕食后友とダベリ、晩強は九時ごろから一時~二時まで(理二)・七時起床、二三時就寝(理三)・食堂での食事時間以外は随時(理四)・自由(理四)・自由だったと思う。(理四)・食事時間が一定であったので起床時間は割にきちんとしていたが、就寝時間は不定。勉強時間は夜電気が早く消えるので余り遅く迄出来なかった。(理五)・自由(理五)・この様な事は基本的に自由で自分が決めて行う。(昭二二理六)・日課の記憶なし、勉強の時間は不規則乍ら大学受験まで半年は猛然に勉強した。(理六)
昭和二三年・七~八時起床、夕食時間は不定、就寝時間も不定、勉学時間は少なくかつ不定(文一)・決まりはなかった?(文一)・七時三〇起床、八時朝食、一〇時就寝、三時間(文二)・食事時間以外定めはなかった。(理一)・起床時間いろいろ、食事時間通常方式(理二)・午前七時起床、午前八時朝食、午前九時~午前の授業、正午昼食、午後一時~午後の授業、午後六時~夕食、空腹感が強かった。(理 三)・起床時間七時半、食事時間八時、就寝時間二二時、勉学時間等一八時~二一時(理三)・起床七時頃、食事、朝七時三〇分・昼一二時一〇分?・夕一七時頃・夜(自炊)九時頃、就寝一一時頃、勉学(主として予習)二~三時間(理三)・アルバイトしていたので可成り不規則でした。(昭二三理四)・朝昼晩の寮食を食べそこなうと大変ですから、私の日課は寮の食事時間に規制されていました。(理四)・不定(理四)・起床時間~就寝時間、七時~一一時、勉学時間等二時間位(理五)・起床時間七時、朝食八時?夕食一七~一八時、就寝時間二三時、勉学時間等三~四時間(理五)・起床時間九時半頃、食事時間一二時半、六時?就寝時間午前二時、勉学時間二時間くらい(理六)
③ 習学寮運営組織について
〇 役員経験とその職務
昭和一三年入学(以下、入学を略する)・昭和一四年度寮ホール委員長 規律維持、運営責任(理甲一)・寮惣代、寮生に対し家族の長としての全ての配慮(理甲一)昭和一六年・炊事委員 隣の熊本第一高校見学が楽しみだった。(文甲一)・班長 二年のとき 班員と時々部屋に集まり人生、哲学などについてだべった。(文甲一)・寮惣代 寮代表、行事の担当(文甲三)・炊事委員 カロリー計算、寮生希望調査、第一高女・尚絅高女炊事見学(理甲二)
昭和一七年・寮惣代(理甲二)
昭和一八年・寮炊事部員 寮の行事にあたり、計画したり、所要の物品を集めたりした。(文甲二)・班長 班長の仕事は、惣代の話を伝えるぐらい。(文乙)・寮班長、昭和一九年九月~二一年三月まで寮惣代(理甲四)
昭和一九年・研修部(図書館管理) 図書館の貸出・整理(理甲一)・炊事委員(一時)二度飯(にどめし)(当時は極端な食料不足のため、食事を終えても、もう一度食堂に入って食事をする者あり)これを監視した。(理乙七) ・炊事委員、二年生のみ 食事時間での管理、食料の買い出し(理乙八)昭和二〇年七月・炊事委員、寮史編纂委員、食料殆ど無い、米の配給のみでおかゆ状、炊事婦の監督、買出等について寮担当の高森教授との折衝(文甲一)・炊事委員 食糧の買出しが多かったが、寮生の食事に関するすべての世話(理甲二)・四寮衛生委員、寮生が病気になったとき、学校と連携して医師を招いた。当時外地出身の(中国朝鮮など出身)生徒が多く、彼らが一番辛い生活をしており、身よりのない人が多く病気になり、寮の病室で臥していた。その日常生活の世話をした。(理乙九)
昭和二一年・農耕委員、当時食糧不足、寮の庭、東光原を畑にしていた。日曜、祭日に畑を耕し芋植えをした。(理甲一)・寮史編纂(理甲二)
〇 他にどんな役職・制度があったか
昭和一三年入学(以下、入学を略する)・総代、図書、運動、弁論等(理甲一)
昭和一七年・第一寮から第四寮まであった。寮には三年生の寮長、各寮はいくつかの班に分かれ、二年生が班長であった。原則として一年間のみの在寮。(文甲二)・寮生は大部分一年生で、少数の二、三年生が役員。就寝前自室前で点検があり、班長が巡回。生徒主事の先生が交替で一人宿直されていたが、一般生徒との接触は殆どなかった。(理甲三)
昭和一八年・惣代は松本正信(のち入江)佐川敏明等(文甲二)・惣代と班長 寮生の監督(文甲三)・近くの五~六の部屋を一グループとして、その班長を選び、班長を中心に時々集まり議論する制度があった。(理甲四)・一寮に惣代(上級生)一~二人、他には特に役員なし?基本的には自治(理乙五)・習学寮は四棟だったと思う。その棟毎に寮長・班長が居て時間的管理と寮歌・ストームのやり方を指導した。(理乙五)
昭和一九年・惣代は一つの寮生の統率者(絶対服従)、すばらしい自治組織であった。組長=班長と称したように記憶しています。(理甲二)・部屋毎(数人~一〇人?)の精神訓話、沖縄出身の城間祥行さんの話は、感銘深くよく覚えている。(理甲三) ・寮には五室位を単位に班があり、班長があった。班長が寮の運営の種々の役員をしていたと思う。(理乙七)・惣代 責任者、規律の統率、寮生の士気、矜持の鼓舞と云ったことだったか。一年の二学期には二年生も学徒動員でいなくなり、規律の統制は急速にゆるんで行った。(理乙七)
昭和二〇年七月・惣代は今考えると、立派としかいいようがない。(理甲六)・全て自治組織でした。自由でした。(理乙九)
昭和二一年・寮の規律を主とし、五高精神なるものをリーダーが朝会等でしていた。二度メシを注意された事を覚えている。食事は不足。(理甲三)
昭和二二年・惣代が中心となり寮生の世話をしてくれていました。寮歌の指導などを(理四)・炊事部・寮史編纂部、などの委員以外記憶なし(理四)
昭和二三年・炊事部は憶えているが…。(理六)
④ 部屋割について(寮内の部屋、部屋割の基準)
昭和九年入学(以下、入学を略する)・一学期は学校又は寮の割当で二名、二・三学期は希望により移動(理甲三)
昭和一〇年・最初は? 二学期より中学の同級生(文乙)
昭和一一年・同学年別クラス(文甲一)・一学期は同クラスのアイウエオ順、二学期は希望、一室二名(文甲一)
昭和一二年・一部屋二人(文乙)
昭和一三年・多くは二人部屋、大きな部屋は三人部屋もあったかも(文甲二)・一年の時二年の先輩と同室、二人一部屋(文乙)・入寮時決まっていた。基準不明、聞いたこともなし。一室二人、同学年の別クラス(理甲一)・一部屋に二人、同学年、異クラス(理乙) ・二人部屋 第一学期は中学の同窓と二人、以降同級友と(理乙)
昭和一四年・同部屋二人、同学年同クラスの者(文甲一)・二人部屋 最初は先輩と同室で二学期からは同級生と同室になった。(文甲三)・一学期は同クラスのアイウエオ順、二学期は希望、一室二名(文甲三)
昭和一五年・入学当初は総代等が決定していた。二学期からは自己の好きな者と同室(希望受入れ)(文甲二)・一年前半は一年先輩の人と同室、後年はクラスの同輩と同室、部屋割り基準不詳(文甲二)・一~三寮は一室二人、四寮だけは一室四人、二学期と三学期は希望した相手と同室にできた。(文甲二)・二人部屋と三人部屋、同学年が主体(文乙)・第一学期は既に決められていた。第二学期~三学期は好きな者同志で入った、なお上級生が同室することもあった。(文乙)・一~三寮は二人、四寮は不明(理甲二)・一~三寮六畳二名、四寮大部屋、同室は第一学期は学校指定、第二学期は希望者(理甲三)・一學期は先方で決めていた同じクラスの者と二人、二學期からは
希望で文科の同じ中学出身者と二人になった。(理乙)
昭和一六年・概ね同クラス二名 各寮二年生一名の部屋は三人制(文甲一)・学期毎に部屋替え。二人の時と四人の時(上級生一人+一年生三人)(文甲一)・各寮の総代が決めていたのではないか。(文甲一)・同部屋は四名で、同じクラスの者の場合、他のクラスの者の混合の場合とあった。(文甲二)・入室時は原則同クラス、文甲三と文乙の場合もあった。(文甲三)・入学時は名前順、後は希望者同士(文甲三)・二学期は希望を入れたと記憶しています。(文甲三)・二人部屋。クラスの五十音席順。第四寮は定員四人(理甲一)・入学時に割り当てられ、二学期から小学校の級友など同室の希望を入れてくれた。一~三寮は二人部屋(理甲一)・一学期は同クラス二名、二学期は文科・理科同室(理甲二)・一学期は決められていたようで、二、三学期は希望により相棒を決められた。(理甲三)・小生は一室に二人でした。同学年で別クラスの人(理甲三)・一~三棟目二人部屋、多くの部屋が同学年の文科・理科の組合せ、四棟目三人部屋(理甲三)・最初の一学期は四寮の一六号室で四人部屋、文乙のクラスメート四人。二、三学期は相手を自由にきめていた。結婚申込と称した。 (文乙)昭和一七年・二人部屋、同室者は同じクラスだった。(文甲一)・一年入寮時には四寮別館七人部屋に決定していた。〇(文甲一)、北川(理乙)、河島(文甲二)、合田(文乙)、篠原(理乙)、山本(理乙)、班長は二年朝日益充、二学期、北川君と同室希望、三寮に転室。(文甲一)・一年生の時のみ在寮につき不詳。別館のみ一室八人ぐらい、普通は一室二人(文甲二)・各学期部屋が変わった。同室希望者を同室にしてくれていた。寮長が各寮に上級生一名(文甲二)・一学期は既にきめられていた。同室だったのは、同じクラスの人、二学期は希望の相手をきめて提出していた。(文甲二)・同級生同士でした。(文甲三)・二人部屋、一学期クラス、二学期自由(文甲三)・最初は七名、後二名(文乙)・入学時にはすでに割り当であり,同クラスの二人組、二、三学期は自分たちで希望どおりの組合せ(文乙)・二人(理甲一)・一部屋四人、一人は上級生、他は同年生(理甲二)・四人部屋、同学年、他クラスの人と混同(理甲三)・一~三寮は二名、四寮は四名。入学時私は一寮であったが、学生
数急増のため三名の部屋が数室追加され、隅々そこを割り当てられていた。(同学年・同クラスの二名)。夏休暇後の部屋換えは生徒の希望によった。二寮の二名の部屋に移った(同クラス)。(理甲三)・入学当初は理乙五組の天藤君という人、惣代と役員達で決めたと思う。二学期からは好きな人と同室でいいので同じ理乙四組の三浦正章君とで二人(理乙四)・二人(理乙六)
昭和一八年・基準は不明(文甲一)・同クラス、名簿順一室三名(文甲一)・一学期二寮六室、一室三人同クラス、二、三学期好きな仲間と三人(文甲二)・友人でグループを作り申込んだらその通りになった。一部屋三人(文甲二)・イロハ順、一部屋に二~三名(文甲二)・一年の時は全寮制、二年から入退自由、同クラスのもの三人一組、但し学期毎に好きな者同志で入れた。(文甲二)・五〇音の順で二、三人。同学年同クラスの人と同室(文甲二)・理科生増加のせいで一室三人(文甲二)・クラスの五十音順、三人(文甲三)・学年クラス別で一部屋二人(文甲三) ・一学期はクラス順、名簿順に二学期には希望によって(文甲三)・最初の同室者は四人(文甲三)・一学期は指定三名、二学期以降は各人自由に決める三名(文甲三)・一学期は、入学時文乙の半数が二寮に割当ててあったが、二学期、三学期は、希望を惣代が調整(文乙)・同学年(文乙)・三人 一年生、理甲一組(理甲一)・一部屋三名(名簿順)(理甲一)・アイウエオ順で各部屋を三名(八帖)、入学同期、同クラス(理甲一)・一室三名、同学年、同クラス(理甲一)・一年生の一学期(入学当初)出席簿の番号順に三名宛一部屋、二学期からは割り当て制、部屋は小部屋(三名)、中部屋(六~一〇名)大部屋(二〇名程)の三種類あった。(理甲二)・一学期はアイウエオ順で一部屋三人、同学年、同クラス。二、三学期は希望者同志で一部屋三人、同学年、同クラス(理甲二)・一室三名(全員入寮の為、以前の二人部屋に三人入居)(理甲三)・出席簿順 二、三名同じ学年クラス(理甲四)・四帖半に三人(前半までは二人)、アルファベット順に三人ずつ(理甲四)・クラス別、アイウエオ順(理甲四)・同じクラスの人の名前の「あいうえお順」に一部屋三名が同室となった。(理甲四)
・入学時はクラス部、アイウエオ順に四名~三名位(理甲四)・入学時より決められていたようです。六人だったと思います。同じクラス(一年生のみ)(理乙五)・昭和一八年入学生は全寮制度になった。(熊本の人も入寮)、部屋の人数六?七?同年同クラス(理乙五)・同学年大部屋に八人(理乙五)・四寮は一部屋五人、一・二・三寮は一部屋三人(理乙五)・五人、東・理乙、西・文乙(理乙五)・各クラスの名簿順で、部屋の大小によって三名~五名(理乙五)・部屋の広さにより、三~五名同学年同級が原則(理乙六)・ほかの室に文科三組の数人が入ったようである(城野・渋谷等)。まだ当時の四寮別館住人の写真に兵藤・針尾等の顔もある。(理乙六)・一寮から文甲、文乙、理甲、理乙の順。殆んどクラス毎で、一室六~七名、広さにより四名のところも。私は理乙六組で、四寮の二階東端、六組の残りは一五名位四寮別館。ここで結核の大流行あり。(理乙六)・入寮は一年のみであとは役職(総代、一~四寮代表)は二年、三年の先輩だったと思います。(理乙六)・一〇人、同学年、同クラス(理乙六)・五人、一年、同クラス(理乙六)・理乙の六組と云えば昔から名簿の最後尾だ。従って四寮の端に武夫原に向けて突き出た元病院に畳を敷いて応用したらしい。文三 の一部も入ったのは混在の利点を考慮したのであろうか。実際に話が多彩となってよかった。(理乙六)
昭和一九年・文科甲類の三名が一部屋(文イ)・三人、同学年同クラス(文イ)・四人、一人が一年上級の人、三人は同級生(文ロ)・級別、アイウエオ順で一室四名、一年生のみ(除・惣代他役員)(理甲一)・同クラス二人(理甲一)・同部屋の人数は二名で、学年クラスは同じでした。(理甲一)・同学年二人同部屋(理甲一)・入学年一学期を除いては、個人同士の話し合い(理甲一)・最初入寮時には定められていたが、二学期以降は自由に友をえらんだ。(理甲一)・始めは同じクラスの人間で三人同室、二学期になってお互いに気心がわかって(理甲二)・最初はアイウエオ順、一室三人、次回部屋替へより年令順、動員の班別等(理甲二)・一部屋三人、同期同クラス(理甲三)・六人位?同クラス(理甲三)・希望(理甲四)・同部屋三人(一年生、理甲四組)(理甲四)
・同室者計四名(第一~三寮より部屋が広かった)、同期入学者、同クラス(理甲五)・旧寮では六人、新寮では四人?(理甲五)・入学したら決められていた。一部屋約五人、うち二人新入生(理甲五)・同クラスで年令の近い者三名が同室だった。(二寮二階の一室)(理甲五)・一~三寮は、同室は普通三名、同クラスが殆ど(理甲六)・入寮した時は同室者、部屋割等既に決まっていた。同室者は二~三人、小生は理乙の人と一緒でした。(理甲六)・二人と二年生一人(理甲六)・同クラスのもの三名が一室、二学期は二人だった。(理甲六)・入学時は学校が指定。二学期からは希望した友人と同室。本来六畳二人の所に三人。戦争がひどくなってから建った新寮は一室七~八人だったように思う。(理乙七)・一室三名、同学年、同クラス(理乙七)・同クラス三人、私達は皆浪人でした。(理乙八)・入寮時は指定、学期末に希望で同室者を!(理乙八)・年令の近い者、三人、同学年、同級(理乙八)・習学寮四寮、同室四人(理乙八)・入学の時に、すでに部屋割はされていました。(決められていた)私は理科八組であったが理科一組の方と同室でした。(理乙八) 昭和二〇年七月・私の部屋は四人同室(文甲一)・四寮に入って右側、一二畳に四人(同年)、アイウエオ順(文甲一)・二名 同学年 同クラス(文甲二)・惣代と班長で決めていた。二〇年七月入寮時は矢ノ下、山下、山下、吉野と、四寮一六室アイウエオ。次学期九月にはまるきり別。ぼくは三寮八室にひとり(文乙)・四寮新館二階の部屋で、確か新入生のみ三人同室だったと思う。(理甲一)・同クラスの友人と二人であった。入寮当時は新寮の大部屋(六~七人)であった。(理甲二)・入学時は理甲二組のアイウエオ順で新寮に六人ずつ、終戦後は理甲の他の組とアイウエオ順で旧寮に二人ずつ(理甲二)・前半は新寮に七~八名(同学年)、後半は旧寮に二名(同学年同クラス)(理甲二)・一年生だけでした。一部屋三人(理甲三)・各クラスで三名(六畳一部屋)(理甲三)・一室に三人、同じクラスの者(アイウエオ順?)(理甲五)・二寮二人(理甲五)・二人(理甲六)・同部屋の人数四名(理甲六)・一年次生五名位、一年生のみ(理甲六)・五〇音順二~三人宛(理甲六)
・基準はわからない。一部屋二人(理乙八)・新入生、アイウエオ順に(理乙八)・学年、クラス、同部屋の人数三人(理乙八)・一年生大部屋、二年生二人部屋(三人は一寮の二階)(理乙九)・一部屋二人、同級生(理乙九)・同部屋には二人、同学年・同クラスの者(理乙九)・入学時は、一寮には理乙八・九組が入った、私の三〇号室は三人(理乙九)
昭和二〇年一一月・二年生一名(室長?)一年生数名 詳細忘れた。(文甲二)・同学年以外なにもなかったと思います。同室者には理乙、文科もいた。(理甲一)・一部屋二人が基準、同一学年ではあるが文科、理科、クラス等は全く考慮されず、それがよかったと思っています。(異分野のよき友人が得られた)(理甲一)・一部屋に二名が基準、多いときは三名(一~三寮)、同学年もしくは下級生と、四寮は大部屋で一部屋に五~六名、同学年(理甲六)
昭和二一年・基準は覚えていないが、一室四人を限度として寮長が決めていたのではないか。(文甲一) ・入学時の同クラスの生徒と二人。おそらく寮の役員が割当て(文甲二)・文科生と理科生の一名づつ、二名が一室に入っていた。(文甲二)・最初は同クラスの二名、次は希望を出して同クラスと二名、二年目は下級生と三名で。基準は特に記憶にありません。(文甲二)・同部屋の人数二名、同室の人は同じ理甲で一年上(理甲一)・一部屋二人、原則一年生のみ(管理者として少数の上級生が残留)(理甲一)・一室に同学年二名(理甲一)・二人一部屋(理甲二)・同級生全部で四名、今もつきあっている。(理甲三)・部屋には二人でした、同学年の他クラス(理甲三)・標準的な部屋は六畳に二~三名で入室前に決められていた。同学年の同クラスの人同志の場合が多かった様に思う。(理甲四)・一部屋二人(理甲四 )・最初の三ヶ月は割り当て、次の三ヶ月は希望相手をきめて私の場合は何れも同じクラスで二人一室(理甲四)・二名同室(理乙五)・一年は同じクラスが同室だった。(理乙六)・一室二名で入学時部屋割りは決まっていた、仝学年のみ(理乙六)・二人同学年(理乙六)
昭和二二年・私の場合(二年生)四寮二階、二年生二人・一年生三人 計五人、(三年生)一寮一階、三年生二人、私は引揚者のため特別に残留が認められた。(文甲一)・六畳間に三人、同学年(文甲一)・四人位?(文甲一)・同室三人(文甲一)・一~三寮は一部屋二人、四寮のみ三人以上(文甲一)・部屋割基準は不明。私の最初入寮の年は、私、理科の人が二名の三人で、皆新入生であったが、クラスはバラバラであった。(文甲一)・同学年二名と上級生一名との三名だったが、基準は不明(文甲二)・基準は不明。一室二人宛(文甲二)・一年上級の個性ある先輩との組み合わせが配慮されていた。(文乙)・三人、一年(文乙)・一年生、六畳に三人、二年生、六畳に二人(四寮は一室に四人位だったように思うが、確かではない)(文乙)・一、二、三寮総代は一人、二年は二人、一年は三人、四寮は六人(理一)・二人、同クラス(理一)・二人、同クラス、二寮一二室住人(理一)・三人同級生(理一)・基準はとくになし、私の部屋は同じクラスで二名(理二) ・二人一部屋、三年生になった時に一人一部屋(理三)・一年生二人(理三)・二人部屋(理四)・一部屋に三名、一名上級生だった三年生か?もう一名は他のクラス(理四)・新入生は寮の惣代が割ふっていました。その後学期の変り目に気の合った者同志が部屋に入っていました。(任意に)一部屋に二~三人(理四)・二名一部屋(理四)・一年生のときは第一寮で一部屋三名(同じ学年・違うクラス)、二年生のときは第二寮で小生は一部屋二名(一年生一名と同室)(理四)・三人一室、入寮時は新入生のみ(理四)・一年生次、三年生一人に同室(理六)・一、二、三寮は一室二~三人 四寮は一室四人~あったと思う。(理六)昭和二三年・一部屋に三人、同学年の文科生(文一)・三人?一年生ばかり(文一)・六畳位の一間に上級生(二、三年)と二人(文一)・四月の入寮時は事前に部屋割が決められていた。一部屋に一年生は三人、二年生の委員の部屋は、その委員と一年生一人の計二名、