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昭和期の第五高等学校          調査報告㈢

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(1)

昭和期の第五高等学校          調査報告㈢

熊本大学五高記念館 熊本大学五高記念館

熊本大学五高記念館叢書   第五集 昭和期の第五高等学校   調査報告㈢        熊本大学五高記念館叢書   第五集

(2)

  一九四七(昭和二二)年二月二七日撮影

  長谷川信一氏寄贈

前列左から三人目は永松譲一教授

(3)

刊行にあたって

刊行にあたって

熊本大学五高記念館館長  伊東龍一     熊本大学の国指定重要文化財・第五高等中学校本館の修理工事は令和三年一二月をもって竣工します。構造補強をし、調査をしながらの工事ということもあって時間を要しましたが、大きな発見も相次ぎました。復原教室の黒板の下からは漆を塗った古い黒板が見つかりました。また煉瓦の壁にはこの部屋を一度は階段教室としてつくり、その後現在のように平坦な床の教室にしたことが明らかになりました。修理後は、今まで復原教室であった部屋は、以上のような建物の歴史を伝える痕跡を見ていただける部屋として保存し、かつての五高の教室を再現したこれまでのような復原教室は別の部屋に再現する予定です。

  さて、『熊本大学五高記念館叢書第五集  昭和期の第五高等学校  調査報告(三)』をお届けいたします。五高記念館としては修理工事とともに重要な任務で、それを果たせたことを大変うれしく思っています。

  第五集は、第四集に引き続き薄田千穂研究員が中心となってまとめた成果です。内容も、第三集・第四集と同じく二〇〇九年に五高記念館が実施したアンケート調査「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」の結果報告、および二〇一二〜二〇一九年の聞き取り調査の報告からなります。アンケート調査は三七三人の方から回答していただいたもの、聞き取り調査については、科学研究費補助金の助成を受けて二〇〇九年から二〇二〇年まで、延べ七〇人の方々から行ったものであることも第三集、第四集と同じです。

  アンケートでは、第三集の教師、授業、試験などの勉学について、そして第四集の習学寮の運営、食料調達、学校行事などの生活に関わるものに続いて、学校の課外活動やアルバイトなどを取り上げました。また、聞き取り調査では、第三集が、昭和六年入学から昭和一七年入学までの卒業生を対象とし、第四集では、昭和一八年入学から昭和二〇年入学までの卒業生を掲載しましたが、第五集では、昭和一六年から昭和二三年入学までの卒業生について取り上げさせていただきました。

  新型コロナウィルスの世界的感染拡大のために、昨年度は聞き取り調査を行うことができず、職員の力ともなっていた五高卒業生の方々との交流もできませんでしたが、今後も調査は継続し、順次調査結果を報告してゆきたいと考えております。引き続き調査へのご協力をお願い申し上げます。

(4)

  調査報告㈢ 目     次

  「戦中

・ 戦後の第五高等学校に関する調査」

  調査概要………

5

  調査項目………

5

  調査結果………

6

⑴   生活………

7

①   阿蘇道場………

7

②   アル バ イト………

15

⑵   龍南会役員………

20

⑶   部活動………

22

⑷   龍南会雑誌………

32

(5)

二   聞き取り     有田   哲哉(昭和一六年文科乙組入学)

… ………

34     豊福   武彦(昭和一六年理科甲類一組入学)

… ………

41     相川賢太郎(昭和二〇年理科甲類二組入学)

… ………

48     高見   正明(昭和二一年文科甲類一組入学)

… ………

59     小宮   孝喜(昭和二二年文科甲類二年一組転入)

… ………

59     郡家   德郎(昭和二一年理科乙類五組入学)

… ………

70     緒方誠一郎(昭和二三年文科二組入学)

… ………

81     菅    貞峯(昭和二三年理科一組入学)

… ………

90     徳本   正彦(昭和二三年文科一組入学)

… ………

99     中村    昭(昭和二三年文科一組入学)

… ………

99     有吉   泰徳(昭和二三年理科四組入学)

… ………

99     甲斐   昭良(昭和二三年理科四組入学)

… ………

99

  むすびにかえて………薄田千穂

(6)

はじめに

熊本大学五高記念館研究員

  薄田千穂   本書は、

二〇〇九(平成二一)年に五高記念館が実施した「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」および、二〇一二(平成二四)年〜二〇二〇(令和二)年に実施した聞き取り調査をまとめたものである。

三集「昭和期の第五高等学校 ら回答をいただいた。調査の経緯等は、熊本大学五高記念館叢書第 高卒業生二二九二人に発送し、一九〇一人に配達され、三七三人か   「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」は、二〇〇九年に五

  調査報告㈠」に掲載した。すでに、

第一集に学徒出陣関係、第二集に勤労動員関係、第三集に勉学関係、四集に寮生活関係の記録を収録している。本書には、生活、部活動に関する項を掲載する。

  聞き取り調査については、一二人を掲載した。入学年は、一九四

一(昭和一六)年、一九四五(昭和二〇)年〜一九四八(昭和二三)年、卒業・修了年は一九四三年(昭和一八)年、一九四八〜一九五〇(昭和二五)年である。一〇人が戦後の五高生活経験者となる。これまでの叢書の聞き取りを参照していただくと、昭和期の五高生活の変化、戦後の社会情勢の影響がうかがえると思う。

  なお、これまでの叢書の中に、できる限り聞き取り調査を継続し

ていく旨を書いてきたが、今年度はCOVID19のパンデミックにより、聞き取り調査が行えなかった。その中でも連絡を取ることができた卒業生の方々は、「これまでの経験を思うとたいしたことはないね。」と落ち着いておられた。「これまでの経験」を今後に生かすためにも、記録を続けていこうと思う。世情が落ち着いたら、また聞き取りを再開したい。また、お声かけいただいたらできるだけ駆け付ける所存である。

  謝辞   調査にご協力いただいたすべての方々に心から感謝を申し上げる。

聞き取り調査内容を掲載した豊福武彦氏、相川賢太郎氏、高見正明氏、小宮孝喜氏、郡家德郎氏、緒方誠一郎氏、菅貞峯氏、徳本正彦氏、有吉泰徳氏、甲斐昭良氏には、聞き取りに時間を割いていただき、原稿校閲等でやり取りをさせていただいた。有田哲哉氏、中村昭氏は、聞き取りの後、原稿作成前に逝去された。掲載をご承諾いただいたご家族に感謝したい。

し、成果をお届けできなかったことをお詫びしたい。 だいた方々の中には、逝去された方も多い。心からご冥福をお祈り   また、「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」にご協力いた   なお、本報告書は、平成三一年度日本学術振興会科学研究費補助 金奨励研究「戦後の第五高等学校に関する研究」(19H00048 )等による調査等により作成したものである。

(7)

一.「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」 ㈠調査概要

一   「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」

㈠   調査概要

  二〇〇九(平成二一)年度、第五高等学校の卒業生に「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査書」を送付し、調査を行った。

  ㈠  調査名称

  戦中・戦後の第五高等学校に関する調査

  ㈡  調査目的

  昭和初期〜昭和二五年の五高について、当時の学校・教育・生活についての情報を収集して研究資料としてまとめ、旧制高等学校の研究に資することを目的とする。

  ㈢  調査方法

の内容をデータ化する。 どをもとにして卒業生へ調査書を郵送し、返送された調査書   『五高同窓会会員名簿百周年記念号』『東京五高会名簿』な

  ㈣  調査の時期

  発   送  二〇〇九(平成二一)年一〇月一〇日付

  返送期限  二〇一〇(平成二二)年二月二八日

  ㈤  調査対象

  五高卒業生(調査書回収状況は表の通り)   ㈥  調査書配布・収集の方法  配布  クロネコメール便   回収  料金受取人払郵便

㈡   調査項目

*細項目は略した。詳細は熊本大学五高記念館叢書第三集「昭和期の第五高等学校  調査報告㈠」、書式は「第五高等学校における軍事教練・査閲

  「戦中戦後の第五高等学校に関する調査」報告」

(薄田千穂)に掲載

Ⅰ   経歴編

  Ⅰ‐1  五高入学前(中学校・軍関係の学校・兵役等)

  Ⅰ‐2  五高在学中

  Ⅰ‐3  五高卒業後

Ⅱ   アンケート編

  Ⅱ‐1  五高での生活について

   Ⅱ‐1‐1  勉学について

    ①  入学試験

    ②  授業について

    ③  学科試験について

    ④  進学について

   Ⅱ‐1‐2  寮の生活について

    ①  いつからいつまで入寮していましたか

(8)

    ②  日課

  (起床時間、食事時間、就寝時間、勉学時間等)

    ③  習学寮運営組織について

    ④  部屋割について

    ⑤  食事について

    ⑥  阿蘇道場について

    ⑦  行事について

    ⑧  アルバイトについて

   Ⅱ‐1‐3  龍南会(龍南学徒報国団)について

   Ⅱ‐1‐4  龍南会雑誌について

  Ⅱ‐2  戦時中の五高についてお答えください。

   Ⅱ‐2‐1  軍事教練について

   Ⅱ‐2‐2  査閲について

   Ⅱ‐2‐3  昭和一八年の査閲事件について

   Ⅱ‐2‐4  勤労動員について

   Ⅱ‐2‐5  五高内の学校工場について

   Ⅱ‐2‐6  学徒出陣について

   Ⅱ‐2‐7  一九四五年八月一五日の五高の様子について

   Ⅱ‐2‐8  戦争について

  Ⅱ‐3  戦争の体験について

  Ⅱ‐4  五高や五高生に関する資料について

Ⅲ   証言・手記編 ㈢   調査結果  

  凡例

1  本書では、「Ⅱ‐1‐2  寮の生活について」より、⑥阿蘇道場について、⑧アルバイトについて、「Ⅱ‐1‐3  龍南会(龍南学徒報国団)について」、「Ⅱ‐1‐4  龍南会雑誌について」を取り上げた。2

  「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査書」

の項目を、後記の8「回答内容目次」のとおりに組みなおした。3  回答内容は、入学年ごとにまとめ、各回答の後にクラス名を付した。4  クラス名については、学年により表記が変っている場合がある。

   昭和二〇年の入学については、通常の入学が七月、戦後の転入学が一一月であったため、分けて記載した。

   二学年編入については、編入の年に入れ、その旨表示した。

  クラス名表示例  文科甲類一組→文甲一

          文科甲類二学年一組に編入→二文甲一

          理科乙類六組→理乙六

          理科一組→理一5  回答内容はできるだけそのまま掲載した。項目をまとめて記述したところもある。

(9)

一.「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」 ㈢調査結果

6  学校名については、略称を使っている箇所が多い。

  例  熊本高工→熊本高等工業学校、熊本工専→熊本工業専門学校、

  熊本医大→熊本医科大学、熊本薬専→熊本薬学専門学校、福高→福岡高等学校、佐高→佐賀高等学校、七高→第七高等学校造士館、一高→第一高等学校、等7  調査書の返信状況は、熊本大学五高記念館叢書第三集「昭和期の第五高等学校  調査報告㈠」に掲載した。

8  回答内容目次

⑴  生活

  ①  阿蘇道場(Ⅱ‐1‐2⑥)

… ………

7

  ②  アルバイト(Ⅱ‐1‐2⑧)

… ………

15

⑵  龍南会役員(Ⅱ‐1‐3)

… ………

20

⑶  部活動(Ⅱ‐1‐3)

… ………

22

⑷  龍南会雑誌(Ⅱ‐1‐4)

… ………

32

回答内容 ⑴   生活

①   阿蘇道場 ○   阿蘇道場に行ったことはありますか。

   ある       ない ○   どのような活動・日程でしたか。 ○   どのようなメンバーで行きましたか。

  三項目をまとめて記述した。

昭和一一年入学(以下、入学を略する)・坐禅、教授の話があった。(文甲一)

昭和一二年・我々が建築作業に従事した。クラス毎に行った。(文乙)

昭和一三年・はじめは一般の山荘として考えられていたものが、時節の影響で修養道場になってしまったようだ。私は総務部員だったので、総務部員数名で何回か建設中に奉仕作業に行った。大した事もしなかったが。(文甲二)・秋、クラスメート数人と共に。(理甲一)

(10)

・池田教授に従い、地中温度計を持って温泉場所調査・探索(理甲二)・一日  級友で(理乙)

昭和一四年・道場建設中にはアルバイトディーンスト、完成後は坐禅。添野信校長以下生徒一〇名くらいで一泊した。(文甲)・阿蘇道場の建設に従事。同学年同クラスで行った。(文甲一)・坐禅、教授の話(文甲三)・坐禅、同級生で行く。(理甲一)・戦争突入前の思想統制、国旗掲揚、特別な国民に賜りたる文章の朗読。理甲一組で行く。(クラス毎全員)(理甲一)・総務委員として阿蘇道場の建設に従事した。クラスの中で志望者を募集した。(理甲二)・道場にて教授の訓話、坐禅、食事(これが楽しい)、宿泊。クラス単位で行ったと思う。(理甲二)・建設にかかわった。林間で石などを運び土台を作った記憶がある。夏休みに同級生と行った。(理甲三)・各部役員で行った。(理乙)

昭和一五年・昭和一五年に開設されたもの。午前六時起床、洗面、坐禅、開墾、水路作成等、夜、飯島教授の話の後は、自由時間。文甲二組全員 で行った。(文甲二)・三〜五月、飯島教授の訓話と坐禅、クラス単位(文甲二)・坐禅、討論、作業等  一日〜二日  有志(文甲二)・食事作法と坐禅  学年、クラスごと(文乙)・坐禅と周辺整備(例:開墾作業、残根の堀起し)クラス(担任教師同行が多かった)、帰途、竹内照夫教授と一緒に道場から五高まで歩いたことが忘れられない。(文乙)・開墾  級友(文乙)・クラス(理甲二)・一泊、坐禅  クラス(理甲三)・座禅を組みに行った。(理乙)・一泊して勤労作業鍬仕事。同行の飯島教授の話があった記憶がある。クラス理乙全員と理甲三が加わったかどうか。(理乙)

昭和一六年・クラス全員担任教授とともに行った事がある。一週間程度で起居寝食を共にし、精神訓活が多かったと思う。(文甲一)・一泊二日。哲学倫理講座、座禅。朝食は玄米粥で、昼夜は玄米ご飯。全て銅鑼で合図  文甲一メンバー(文甲一)・講話と坐禅  一年生と上級生(一部)(文甲一)・坐禅、添野校長の講話を聞く。文甲一のクラスのメンバー、総務部(文甲一)・その時のとりきめで、団体行動(文甲二)

(11)

一.「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」 ㈢調査結果

・座禅を組まされた。一泊二日か二泊三日か、クラス単位で(文甲二)・坐禅を組む、食事、勤労奉仕、講話。クラス全員(文甲二)・坐禅が主、掃除、街に出て清掃。クラス毎か?(文甲三)・道路づくりの作業をしたような気がする。一泊二日?同じクラスで(文甲三)・精神修養(?)(文甲三)・坐禅  クラス(文乙)・一年生のときに行った。朝・夕は坐禅、昼は農作業・掃除など。クラス単位(文乙)・入学してまもなく  担任とクラス全員(理甲一)・担任教授の訓話、座禅など  クラス別に一泊で行っていた。(理甲一)・一泊して座禅を組む。大体五〇名ほどのクラス単位(理甲二)・座禅  個人、クラス(理甲二)・三泊四日か二泊三日  飯島先生と理甲のクラスで(理甲二)・坐禅(飯島象太郎先生)学年で行く。宿泊込み、非常に楽しかった。(理甲二)・座禅、ボランティア活動  個人(理甲三)・坐禅、体操、山歩き等  クラス全員で(理甲三)・二〜三泊(?)、座禅、飯島先生の講話、杖立町の道を掃除、阿蘇五岳を見ながら食べた朝食の味噌汁の味が忘れられない。同じクラス全員、飯島先生引率(理甲三) 昭和一七年・クラス単位(文甲一)・作業、座禅、飯島先生の指導  クラス(文甲一)・初めて坐禅を体験、一・二泊に過ぎぬと思う。同級、同学年(一年)(文甲一)・寮としてではなく、クラスの行事で行った。数日間(文甲一)・起床、拭き掃除、座禅、戸外運動(一泊のみ)入学後クラス単位で一泊二日(文甲一)・開墾と修養懇話、クラス単位(文甲二)・昼、畑仕事等に体力つくり、夜、教授(一名)を交えてコンペ及び坐禅  クラス一同で(全員)(文甲二)・農作業、坐禅  クラス全員(文甲二)・これは寮生活と関係なし、クラスで行った。指導は飯島教授、作業、坐禅etc 、一泊二日  文甲二にて行く。(文甲二)・坐禅で坐ったこと、「朝めし」が美味しかったこと。クラス単位で行った。(文甲三)・一年生全員で(文甲三)・修養鍛錬  クラス、有志(文甲三)・坐禅

  (文乙)

・ディスカッション、坐禅  クラス(文乙)・学級全員(理甲一)・禅寺の日常に似た生活、日中は野外の作業  クラス単位か寮単位だったようだが良く覚えていない。(理甲一)

(12)

・坐禅をしたように思う。(理甲二)・学校の寮があった様に思う。寮単位だったと思う。(理甲二)・二泊ほどだったか?坐禅をした。松根油を取るための、松の切株の松根掘出しはきつかった。一度は黒川に全員で入り、コイ?フナの網追込漁をした。同クラス(同学年?)に一〜二名の教官(理甲二)・一年生の時は学年行事として何回か全学年で行かされた。クラス単位(理甲三)・クラス行事の場合は、座禅・先生(校長の場合も)の講話、禅寺式の食事。私的グループの場合は講話はない。学校行事の場合はクラス全員。私的の場合は五名くらいが多かった。(理甲三)・座禅  二クラスか三クラス単位だったように思う。(理乙四)・勤労奉仕(道場周囲の整地など)、講話  各クラス毎に(理乙五)・作業、修養  クラス単位(理乙六)・二回行った。一回はクラスで合宿、一泊。クラス担任も一緒だったかもしれないが、道場での指図は倫理の飯島先生がなさった。坐禅、講話などあったか?二回目のメンバーの性格は思い出せない。知りあいのいた、たぶん東光会という右よりのグループが主催だったか?九州大学の中国文学の先生方と合宿、座談会があった。(理乙六)・一泊二日、修養会  担任丸山教授、クラス全員(理乙六) 昭和一八年・倫理学の飯島教授(座禅の大家)に泊り込みで座禅の体験の指導をしてもらった阿蘇の内牧の道場がなつかしい限りです。ひとクラス単位で年に二回?、四〇名位づつ。(文甲一)・寮友と(文甲一)・ストームをやった  寮全体(文甲一)・クラス単位(文甲二)・座禅  クラス別(文甲二)・クラスメイト

  (文甲二)

・昭和一八年五月一五日午後内牧の道場に向かい、宿泊。一六日に以下が終わって汽車で帰る。粥飯・坐禅・勅語浄書・大智禅師の一二時の法話  クラスのメンバーと共に(文甲二)・農耕を本気でやった。一〜二泊(民泊) 寮の部屋同室者、二〜三室合同で(文甲二)・クラスメイト数人だったと思う。(文甲三)・四〜五日で座禅が中心だったようです。クラス全員で(文甲三)・一回行ったことがある。座禅  クラス全員(文甲三)・畑作業・坐禅・調練  クラス毎、但し部分交替(文甲三)・座禅と一寸した作務(作業)だが、昭和一九年には東光会が管理を請負った。クラスで一回行った以外は、東光会の新入生歓迎などに使った。(文乙)・座禅  クラス(文乙)・修行  クラス(理甲一)

(13)

一.「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」 ㈢調査結果

・哲学の座学  強制(理甲一)・①クラス全員で禅修養、②弓道部の合宿(理甲一)・クラス単位で一泊程度だったと思う。(理甲二)・禅修行の一部を体験、一泊二日  クラス全員(理甲二)・比較的厳しい日程、坐禅など  クラス単位(理甲四)・一泊二日、座禅  二クラス合同(理甲四)・座禅、ほか耕作?(理甲四)・座禅をするのが日課であった。文理一年生のクラス全員だったと思う。(理甲四)・一泊二日、夜坐禅  クラス毎、小生一人で行って泊まったこともある。(理甲四)・農家の手伝い、とうもろこし畑の開墾等  同じクラスから数班に分かれて(理乙五)・坐禅をした  クラス全員で(理乙五)・座禅  クラス単位、二〇人〜三〇人(理乙五)・義務的に一週間位行かされたようだ。クラス全員(理乙五)・添野校長率先しての坐禅が行われたが、私は苦手であった。クラスメート、浅井先生と共に六組一同(?)泊まった(一泊だったか)。四月か五月頃か、先生はわらびが大好物と云われる。よしそれならとあのあたり一面で生えるわらびを摘んで先生のリュックを一杯にしてあげたら、そのときの先生の喜びようは今も思い出す。(理乙六)・夏休みに精神修養のため、一週間。入浴は下の畑の中あった風呂 (地元の人と混浴)クラス単位(理乙六)・立田口から汽車に乗り、赤水駅で降りて歩いて道場へ行く。三〜四組毎に別れて行きました。(理乙六)・同クラス全員(理乙六)・坐禅と作業  クラス全員(理乙六)

昭和一九年・わらび狩り  文科の数名で(文甲一)・畑で働いた。文科甲乙(文甲一)・座禅を主とした生活  級単位(理甲一)・炭焼、一泊?  クラスで(理甲一)・一〜二泊  クラス一同、有志者グループ(理甲一)・一泊二日、座禅、小登山を含む散策  クラス全員(理甲一)・座禅  理一甲一のクラス全員(理甲一)・同級生グループ(理甲一)・一晩泊り、倫理(道義)の講義を受けた。廊下に薄氷がはっていた。理科甲類一組と二組と、二組で行ったように思う。(理甲二)・座禅、清掃、山歩き  寮の行事として(理甲二)・座禅  クラス単位(理甲二)・板木の音で起床食事座禅など。クラスで、友人と、個人で。家が外地で休みの日簡単に帰れず、道場に泊まって阿蘇を楽しみました。(理甲三)・坐禅  同学年の同クラス(理甲三)

(14)

・坐禅、麦ふみ  クラス全員や有志(理甲四)・座禅等をクラス単位で行った。特別修練をしてから行った。(理甲四)・坐禅、開墾  クラス全員?(理甲五)・ただ見に行っただけ(理甲五)・二、三日滞在。座禅と作務として畑作業だった。学年全員だったと記憶している。(理甲五)・自炊、座禅  同クラス(理甲六)・坐禅、日程その他記憶にない。クラス単位、一度に二クラス宛ぐらいだった様に思う。(理甲六)・坐禅、ワラビ刈り  同じクラス(理甲六)・土曜日から一泊の日程で、坐禅をやらされた。クラス単位で行った。(理甲六)・飯島先生指導の坐禅。食後のだべり。まわりの開墾、整地を少々したことはあるが、継続的な栽培はしていない。豊肥線の運行回数が少く、行き難かったと思う。(理乙七)・京都、一燈園の思想を道場主飯島象太郎先生より聞く。座禅に明け暮れる。クラス全員(約四〇名)(理乙七)・同学年全員(理乙八)・修養講座、作業  クラス毎(理乙八)・座禅、訓話  クラス同級生(理乙八)・植林二〜三日、級の仲間一行と共に(理乙八)・一〜二泊?で二回位?  個々に(?)(理乙八) 昭和二〇年七月・ピクニック時の宿泊に  友人二人と(文甲二)・稲苅りの勤労奉仕、銀メシが食べられた、一泊  友人と銀メシが魅力で応募した。(理甲二)・芋畑の取入れ、その他  クラスの希望者単位(理甲三)・内牧の駅から下駄をはいて徒歩、稲かり、銀めしの会食(甘かったこと!)習学寮の仲間と一緒(理甲五)・一泊二日、大観峰と阿蘇中岳登山  寮の同じ班の有志一〇名前後だったと思う。(終戦後)(理乙七)・寮の朋友と(理乙七)・夏休み、一週間行ったような記憶がある  同学年(理乙八)・一泊二日  寮の友人達(理乙九)・音楽部男性合唱団の合宿練習  コンダクター田崎篤次郎教授以下音楽部員三〇名程度(理乙九)昭和二〇年一一月・部生活(練習)、アルバイトに忙しく行けなかった。(先年、閉場されることになったとき行ってみた)(文甲二)・個人的に阿蘇登山のため  友人と数人(理甲一)

(15)

一.「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」 ㈢調査結果

昭和二一年・日程は一泊二日であったが、特段の活動目的があってのことではない。寮生有志とドイツ語の山口四郎教授が御一緒された。(文甲一)・親しい友人数人のグループで数泊(文甲二)・同級生四〜五名で夏休みに行った。(文甲二)・終戦後なので宿泊所の様でした。(文甲二)・日帰り、竹原東一教授の引率で  出身校(旧制中学)のメンバー(文乙三)・夕方着、翌日出発、阿蘇登山  クラスメート、二〇名程(教師一名)(理甲一)・登山日時  友人と三〜四人(理甲二)・山岳部員に同行して高岳(虎ヶ峯)に登った時、宿泊した。同級生三人のプライベート登山(理甲二)・夏休み一人で大自然に浸りたい。(理甲三)・道場にあった甘藷畑の手入れに、竹原教授と行ったことがある。希望者募集で二人でした。(理甲四)・遊びに行った。竹原生徒課長と惣代四名で出かけたことがある。このとき竹原さんは大分の方を示して、ご自分は「あの辺りの家老の子孫だ」と自慢しておられた。(理乙六)・一人で平日に行くことが多かった。(理乙六) 昭和二二年・戦後の我々の時代には、定まった活動はなかった。阿蘇登山などの時、宿泊できた。フライエ・クンスト(コーラス部)の部員一行で(文一乙)・二泊三日  クラスの友人と(文甲一)・芋掘り  寮生(文甲一)・山岳部のメンバーと、阿蘇高岳の鷲ヶ峰にロッククライミングに行くため(文甲一)・在学中四回、強烈な印象を受け、社会に出てからも立寄ったことがある。第一回昭和二二年六月七日(土)・八(日)芋畑の散策。第二回昭和二二年一〇月一五・一六日内牧の秋祭り、芋コンパをする。第三回昭和二二年一一月一・二・三日友人と共に行く、中岳に登る。第四回昭和二三年五月一五・一六・一七日友人と共に、山王閣の湯に入り、内牧の街を歩く、また中岳に登る。竹原教授を中心に学友一〇名、本館裏の掲示板に募集の紙が貼られ応募した者一〇名(文甲一)・阿蘇登山、噴火口見物、一泊二日、同室のメンバー乃至同クラスの仲良しの少人数で行った。(文甲一)・フライエ・クンスト、合唱仲間(文甲二)・友人二人と連立っての自由行動(宿泊しただけ)(理一)・夏休み、一週間位。単独で勉学のため、同クラスの友人二人と共に一泊(理一)・グループで個人的に利用・宿泊した。(理一)

(16)

・卒業後一回行ったことがある。(理二)・阿蘇道場が閉鎖されて、お別れ会が催された時。熊本在住の五高OB、二〇数名?(理二)・フライエ・クンスト全員で一泊、合宿というよりコンパでした。(理二)・知人三名(理三)・五髙男声コーラス部指揮者田崎教授を先頭に、コーラス部員二〇数名が、阿蘇の駅から道場まで合唱しながら阿蘇の秋を楽しんだ。(理三)・阿蘇登山  一泊二日(理四)・新入学直後の四月後半頃、道端の畠にさつまイモの苗を植えるアルバイトで行きました。(希望者、お金をいくらか下さったようでした)一泊二日  竹原学生課長(教授・心理学)ほか寮生(理四)・合唱部、一泊二日(理四)・秋の一日、一泊二日、級友二名と計三名で行楽。(理四)・阿蘇に登山するためと、道場ではカライモがかなり豊富に食べられるため  クラスメート(理六)・行ったことはある程度、それほどの記憶はない。(理六)・ぼくらが行ったのは内牧にあった五高の「寮」と記憶しています。(理六) 昭和二三年・友人四、五人と(文一)・熊本大学一年生のとき五高三年生の友人と行った。(文二)・阿蘇登山のため一泊  在寮の知人と(文乙)・山岳部の登山基地、土曜の放課後出発して一泊  山岳部のメンバー(理一)・山岳部活動の拠点として(兜岩でのロッククライミングトレーニング、阿蘇根子岳や鷲ヶ峰登攀)山岳部部員(理二)・山岳部の登山日程のうち  山岳部のメンバー(理三)・友人四人で(理四)・同級生と親睦のため  同級生四〜五人(理四)・楽な日程、二〜三人(理四)・同級生(理四)・活動ではなかったが、たまたま友人三人の郷里が外輪の外、小国であったので三泊位した。大雨か何かで小国行のバスが運行を停止した。(理四)・友人三名と一泊で阿蘇見物(理五)・自動車部コンパ  自動車部員一同(理六)

(17)

一.「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」 ㈢調査結果

②   アルバイト ○   アルバイトをしたことがありますか。

   ある(目的        )  ない ○   どんなアルバイトで、報酬はどのくらいでしたか。

  二項目をまとめて記述した。

昭和一三年・苦学の人はやっていたかもしれないが、現在のように表には出なかった。(文甲二)・家庭が裕福でなかったので、送金をなるべく少なくするため(文乙)

昭和一四年・五高入学希望者の指導。家庭教師が月五円位(理甲二)

昭和一六年・学資補助のため、家庭教師二ヶ所、二ヶ所で一〇円くらいか? その他にシャツなど下着をもらった。(教師先が商店だったため)(文甲二)・学費の補助のため、熊中の先生の紹介で。それがきっかけで二年生のときからは住み込みの家庭教師になりました。住み込みですが、報酬は無しです。(文甲三) 昭和一七年・五高時代にはない、東大時代(戦後)にはある。東大時代は都庁の表計調査の補助(家庭訪問)と家庭教師、報酬不詳(文甲二)・農作業に行く事が多く、内職などできる状況ではなかった。(文甲二)・便所掃除(文甲三)・生活費のため、住込みの家庭教師、若干の小遣い(文乙)昭和一八年・金より食べものがもらえるから、主に畑を耕すこと。昼食が出るから。(金はいらない)(文甲二)・下宿をするため、その条件として下宿の子供(中学生か?)に勉強を教えた。(文甲三)・子どもの出来がわるいから家庭教師、報酬は食事のみ(理甲四)・父母からの送金の減額のため、住込家庭教師で食事をただにしてもらう。報酬はない。(理乙六)・学費の足しにするため、家庭教師、本庄のほう受験勉強の中学生。勉強嫌いで何辺教えても覚えないので諦めた。美人の姉が居て頼まれて仕方なく一〜二ヶ月延ばしたが、交通費などを差引くと帰りに酣酒一杯して残りが少ないのでやはり諦めた。(理乙六)・学費・下宿料かせぎのため、家庭教師、戦後は行商(石けん売り)(理乙六)

(18)

昭和一九年・家庭教師、その家の息子の面倒を見て下宿代は支払いなし。(文甲一)・生活費のため、家庭教師、日雇い労働をやったが、報酬は覚えていない。(理甲一)・第一回(戦後)衆議選挙の候補応援(友人の応援)、報酬なし。(理甲一)・学費のため、下宿先の子供(中学校四年生)を教えた。報酬は下宿代を助けて貰った。(理甲二)・預金が封鎖され、新円取得のため、中学校数学学年別問題集(ガリ版刷り)出版頒布。原稿は筆者作製。用紙は八代の製紙会社より入手、ガリ版、印刷は業者に外註。(理甲二)・生活費・学費のため、戦後(アルバイトなる語が通用したのは戦後です。)翻訳などもタマにはあったが、殆ど肉体労働が多かった。同級生による好意的同好会誌の印刷(この好意は忘れられない)(理甲三)・学徒動員かアルバイトか忘れたが、自動車部員はトラックを運転して陸軍の健軍飛行場(呑龍爆撃機組立)の部品搬送をしていた。報酬は一〇〇%エタノール(ガソリン代り)のゴムチューブの横流しで、大きな握り飯を貰っていた。エタノールは花岡山の穴蔵にあった。部品は尚絅校(女学校)から運んだ。(理甲三) ・する暇がなかった、余裕もなかった。寮を出てから(二年生になってから)家庭教師らしきことをやった。報酬は覚えていない。(理甲六)昭和二〇年七月・学資生活費のため、熊本大空襲で瓦レキと化した中心部の跡片付(文甲一)・生活費のため(文甲一)・演劇活動の資金作り。大森細工という桐の小物入れの小箱を仕入れて売った。同級生と二人で一ヶ月。一万円稼いだ。記念祭に歌舞伎座でフランス喜劇を上演した。(文甲一)・金を得るため(文甲二)・家庭教師他(理甲三)・食糧入手のため(理甲三)・お金を稼ぐため、土木測量、ポン菓子作り(理甲五)・学費、謄写版紙の訪問販売(学校が主)(理甲六)・学費の為、家庭教師(理乙八)・家庭教師を少し(理乙八)・学費の足しにするため、家庭教師、報酬はまったく覚えていない。(理乙九)

(19)

一.「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」 ㈢調査結果

昭和二〇年一一月・学資を得るため(文甲一)・学費かせぎのため(文甲二)・生活費・学費・寮費のため、各種物売り、人夫作業、レストラン下働き等、家庭教師(当時週二回で五〇〇円?)(文甲二)・両親の経済的負担軽減のため、夏休み、春休み等、製本屋で働きました。昭和二一年四〜八月は新一年生の合格発表が遅れ、留年した小生は春休みから夏休みの終わりまで休講でしたので、中央気象台の臨時職員になって働きました。報酬は覚えていません。(理甲一)・お金をうるため(理甲二)・生活費を得る為、からいも掘り、家庭教師(理乙七)

昭和二一年・経済的な目的(文甲一)・下宿の家族に頼まれ、勉強を教える。報酬はなし。(文甲二)・学費稼ぎのため、勧業銀行の宝くじ(三角くじ)販売(下通りにて)、そのときの人の紹介で、アイスキャンディ作りと販売、報酬等は記憶にありません。(文甲二)・生活と学費のため、街頭での宝くじ売り(一回一〇円?)、ヤミ石ケンの訪問販売、アイスキャンデー売り(一本四円で仕入れ五円で売る)(文甲二)・学費調達などのため、家庭教師など(文乙三) ・学費の足し(理甲一)・生活費のためよくやった。日雇い、ドブ掃除からトロッコ押しなど様々。街頭での石ケン販売。家庭教師。(理甲二)・生活のため、米軍キャンプの土木工事(砂利運び、木材運び)、郵便局の行嚢整理、電力会社の送電線鉄塔地籍調査(小林〜人吉〜八代〜熊本〜三池)報酬は覚えなし。(理甲二)・生活費のため、福岡の米軍CCD (民間検閲局)で、手紙の検閲と翻訳(月に一二〇〇円)、職業安定所に登録して土方工事(日給二五円くらい、ニコヨンという)(理乙六)・学費かせぎ、詳しいことは覚えていない。(理乙六)

昭和二二年・下宿先に頼まれて家庭教師。多分月一〇〇〇円〜二〇〇〇円(文甲一)・小づかい稼ぎ、藤崎宮神社の祭の時のアルバイト(文一甲)・家庭教師(文甲一)・遊興費の足し(文甲一)・家からの仕送りが皆無であった。育英金のみではとても不足。(大連から引揚げた直後、転入学)生活費・学費補充のため、家庭教師その他(文甲一)・学費及生活費のため、土木作業が多く、一日九円〜一〇円程度(因みに育英資金月八〇〇円、寮費月二五〇円〜五〇〇円?(文甲一)

(20)

・生活費の補助のため、①保険契約の増額切換えのための契約更新のセールス、報酬は忘却。②市長リコール運動の署名集め(臨時的)、報酬は忘却。③道路のアスファルト舗装工事(半日でギブ・アップ)(文甲一)・学費稼ぎのため、家庭教師。週に三日で夕食付だったが、可成り高額(額忘却)(文甲二)・学費・生活費のため、土木工事・石鹸売り(文甲二)・親の負担軽減のため、専ら家庭教師(覚えていないが、三〇〇円〜五〇〇円位か?)一時はガリ版原稿書きをやった。(文乙)・藤崎宮の祭りの御道具かつぎ(アルバイトの口は殆ど無かった)(文乙)・授業料かせぎ(理一)・小遣補充のため、戸別訪問で石けん販売、机の引出しを首から吊して、報酬の詳細は記憶なし。煙草ケースを購入したのを憶えている。(理一)・小使いかせぎ、夏休みに炭坑で坑外作業(理一)・家庭の経済的理由、家庭教師(理二)・アルバイトしたくてもなかった。(理二)・授業料、寮費の補充(理二)・Geldが欲しかった、①熊本駅近くの下水道さらい、一日五〇円?②立田山泰勝寺北から立田山配水池下部にかけて開墾、五〇円位?(理二) ・一回だけ藤崎宮の祭、どうも五高指定席のようだった。奨学資金をもらっていた年、寮にいた年でアルバイトは常時していません。報酬は記憶していません。(理二)・小使いが欲しくて、肉体労働をしたり、一回だけ英語の翻訳をした。報酬は覚えてない。(理三)・学費、生活費のため、家庭教師、一〇〇〇円位(理三)・宝くじの販売(理三)・タバコを得るために、下宿屋のオヤジが紙巻タバコを作って売っていたので、手製の紙巻タバコ作りを手伝うと一〇本位の収入になり助かった。(理三)・したくてもなかなか見つからなかった様に思う。(理四)・学費、本代の補助(理四)・藤崎宮祭礼の随兵(理四)・春休み、夏休みに進駐軍施設での肉体的アルバイト、報酬は記憶なし。造船所や鉄道工場での肉体的アルバイト(理四)・生活費、一日四〇〇円稼いだのが最高でした。(理五)・現金収入を得るため、リコール署名、アイスキャンデー売り、立田山の杉皮むき(理六)

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一.「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」 ㈢調査結果

昭和二三年・小遣い稼ぎのため、石鹸の訪問販売。サッカリン、ズルチンの訪問販売。夏季休暇中は線路修理の肉体労働(文甲一)・金銭稼ぎのため、宝くじの街頭販売、報酬は失念。(文甲一)・家庭教師、石けん売りもした。(文甲二)・金銭を得るため、藤崎宮の祭りの随兵、石けん売り、収入金額は記憶なし。(文甲二)・生活費のため、神社の行列に賽銭箱をかついだ。(理一)・アルバイト先がない!(理二)・小遣いのため、石鹸の訪問販売?(理三)・経済面(理四)・親類の手伝い、画店の受付、金額は失念(理四)・寮食以外の食事代を得るため(理四)・経済的理由、家庭教師、月額五〇〇円、道路工事人夫、行商(ミツゲン、脱脂綿売りetc)(理四)・石鹸の訪問販売を一度、一〇〇〇円くらい。(理四)・小遣い稼ぎ、石鹸売り。その夜の酒代に消えたと思う。(理四)・藤崎宮の祭典での賽銭かつぎ、専売公社移築工事の現場作業、一日一六〇円位だった様に思います。(理四)・日本勧業銀行の支店から宝くじを仕入れて通町筋あたりで「よくあたる宝くじ」と大声を出して売ったことを記憶しています。(報酬は売上げ一枚あたりいくらの歩合制)(理四) ・旅行(七高の友人訪問)のため。石けん売り、三五円で仕入れて四〇円で四〇〜五〇個売る。約二〇〇円。二本木の姐さん方がよく買って呉れた。(理五)・目的は特に無し。石鹸売り、報酬は覚えていない。(理六)・とかく食う物を買うため、飲むための人は少数。しかし、同室の三年生はよく飲んでいた。一足先に彼が寮を出る時、私に世話になったからといって封筒にはいった物をプレゼントしてくれた。あけてみると質札である。同室の者たちと金を集め質屋に行き、質草を下ろすと、なんと私の上下布団だった。これを飲み代にしたらしい。それにしても一年近く私は誰のフトンに寝ていたのだろう。他に、洗濯石鹸売り。ほとんどお義理で買ってくれた。いくらで仕入れいくらで売ったか憶えていない。(理六)

(22)

⑵   龍南会役員

①   龍南会の役員をしていましたか。

    はい(役職       )  いいえ ②   上記の職務はどのようなことでしたか。

二項目をまとめて記述した。

昭和六年・ボート部委員(理乙)

昭和一一年・総務部幹事、寮生全般に対する世話役(文甲二)

昭和一三年・総務部員(文科徳永春男・理学部若柳和男?が総務になった。丁度私が部活動をしていなかったので、同クラスの徳永氏から頼まれて手伝った。総務部員、平松元大分県知事が歴代の総員名簿を持っていた。我々の総務の徳永氏がそれを貰いうけ、はじめて終わりの総務部会をした。於東浜屋。平松氏は欠席でしたが、元佐世保市長の桟さんなど一〇数名が集まったことがあります。戦後大分たってからの話。

  ※ぜひ付記しておきたいこと  我々が龍南会総務部であったころ五高龍南会が学徒報国団に改組されたことです。政党、労組、農 民組合なども次々と改組され、国策協力団体になっていた御時勢で仕方がないとあきらめたのか、自己形成に精力が向いてまだ社会現象について考える所まで行っていなかったのか、わかりません。多分学校側から総務に話があり我々に伝わったと思いますが、この問題について総務部では全く話し合い討論をしなかったようです。その後学徒報国団がどのように使われたのか気になります。職務としては、部の予算作成、ボートレース、兎狩などの行事をした。(文甲二)・龍南編集委員、理科応援団長(理甲一)昭和一四年・龍南会の雑誌『龍南』の編集委員(文乙)・昭和一六年クラス代表総務委員(理甲二)昭和一六年・文科総代平松、戦時色が決まり、文科理科各々の「総務部」の活動が重くなってきた。(文甲一)・龍南学徒報国団代表文科総代(理科総代は岩田)。総務部は、文理三年の各クラスに一名、月に一回、各部(剣道部、競技部など各部が体育で練習)の体育のスケジュールをつくり実行した。各部の連絡調整。八月の全国高校大会(インターハイ)では、総務として各会場を回り激励した。(文甲一)・総務部  当日の各部の連絡調整  文理各三年の各クラスにより一

(23)

一.「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」 ㈢調査結果

名  内容は各部に委せた。八月に全国高校大会(インターハイ)総務として各会場を周り激励した。(文甲一)・庭球部、総務部(文甲一)

昭和一七年・クラス代表、阿蘇道場担当のあと文科代表幹事(文甲二)・代表総務「龍南会」総務部文科惣代  号令をかけることから、北署に貰い受けまで(文甲三)・「龍南会」総務部、その前はバレー部(文甲三)

昭和一八年・会社でいえば総務部でやる仕事(文甲一)・養正班代表幹事(文乙)・弓道部・総務部(理甲一)・総務部(理甲二)

昭和一九年・総務部、バスケットボール(理甲一)・総務部があり、全員から委員が出て学校の行事(音楽会、運動会など)を計画し実行した。例えば運動会には先生を招待する型をとった。音楽会、講演会も同様に総務部が実行した。(理甲一)・昭和二〇年後半、龍南会理科代表総務  運動会の準備・実行、学内の檄文作成(理甲一) ・一、二年理科甲類二組長(理甲二)・端艇部副部長(理甲三)・理甲五組長、射撃部幹事(理甲五)昭和二〇年七月・二年生の時、総務(文甲二)・龍南会総務委員  生活部(年二〜三回、阿蘇道場に味噌醤油を届ける)(理甲六)

昭和二〇年一一月・二年、三年  級長(二文二)

昭和二二年・昭和二二年四月副級長(二文二)・クラスの役員のみ(文乙)・炊事部(理一)・クラス会(自治会)座長を経験した。(理二)

(24)

  部活動

③  所属していた部活動は何ですか。

   部の構成(人数・学年・クラス)④  活動場所・内容について⑤  対外試合・遠征について    (行先、試合相手、宿泊場所、経費)三項目をまとめて記述した。

昭和六年・ボート部(理乙)

昭和九年・水泳部、乗馬部(理甲三)

昭和一〇年・剣道部(文乙)

昭和一一年・弁論部  年一回弁論大会を文芸部と共催した。横光利一氏座談会を開催、福岡に大会部校を訪問(文甲一)・水泳部(文甲一) 昭和一二年・ラグビー部  東光原をサッカー部と共用していた。福岡高校・佐賀高校・七高と毎年四高戦、九大その他とも対抗試合をしていた。交通費、宿泊代支給(現物)(文乙)・弓道部(文乙)・テニス部(理甲三)昭和一三年・剣道部  昭和一三年京都帝大でのインターハイに出場し全国優勝した。七高と対抗試合をしていた。(文甲二)・一年一学期に剣道部に入ったが、体調不良で退部(文甲二)・柔道部、雑誌部編集委員(理甲一)・弓道部  ①毎年京大主催の大会に参加②在九州四高校の弓道大会③在熊本市大学高専(医大、五高、熊本高工、熊本薬専)の春・秋の大会(理甲一)・ボート部、剣道部(理甲一)・書道部(理甲二)・排球部(理甲二)昭和一四年・弓道、テニス等転々(文甲一)・音楽部(文甲一)

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一.「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」 ㈢調査結果

・我々のクラスは昭和一六年頃『堆土』という雑誌を編集し、四〜五人で活版。謄写版にペンで記入していくのに苦労した。(文甲二)・陸上競技部(文甲三)・剣道部(一年生)、馬術部(三年生)(文甲三)・通信部  学年で一〇名位  学内・信号伝達(文甲)・弓道部  京大で全国高校大会があった。(理甲一)・ラグビー部(理甲一)・剣道部(理甲二)・射撃部  一〇名以上で、活動は三八式歩兵銃の操作、射撃練習など。第一回四高校(五高、七高、福高、佐高)大会にて五高優勝(理甲三)・洋楽部  各学年から数名ずつで七〜八名、放課後に講堂を借りて各自練習。時々合奏練習。講堂にて学内の演奏会を三年の時に二〜三回行った。(理乙)

昭和一五年・陸上競技部  主将、マネジャー等で二〇人位(一年〜三年)、武夫原及立田山の水道局の階段昇降  昭和一五年インターハイ(神宮競技場)に出場(文甲二)・剣道部(文甲二)・馬術部(文甲二)・体力を考慮して弓道部を選んだ。各学年希望者一〇数人合計二〇人余り。白草原に弓道場があった。授業はサボっても練習は休ん ではならないとの厳しい練習の結果、昭和一五年度の京大主催インターハイ(全国高校三〇校余が参加)で優勝し紅弓を持って凱旋した。翌年の東大主催の大会は直前になって中止になった。◎紅弓を囲みて踊る武夫原の勇姿を写す加茂の川波!(文甲二)・柔道部(文乙)・(済美会)柔道部  一〜三年生迄  、練習は、済美会柔道場、専任講師のほか先輩多数が来場指導。高専柔道及九州四高戦、場所は福高が多し。高専大会に勝てば京都遠征となる。(文乙)・ホッケー  約一五名  運動場(陸上と一緒)で練習。七高・九大・京都で対外試合を行った。経費は自己負担(文乙)・庭球部  各学年五人位で  五高内テニスコートで練習。対福高定期戦、対九州四高校戦、順番に回って来た。(一年佐賀・二年鹿児島・三年五高)(理甲二)・柔道部(理甲二)・ボート部(入学時〜卒業まで)(理甲三)・弓道部  弓道場で練習。一五年鹿児島七高と対外試合、照国旅館に宿泊(理甲三)昭和一六年・テニス部(文甲一)・弓道部(文甲一)・射撃部  各学年にまたがり一五名位か  東光原の方で練習か?九州四高校対抗大会があった。(文甲一)

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・庭球部、総務部(文甲一)・グライダー部(文甲二)・弓道部  毎学年、文理を問わず五〜一〇名程度入部  弓道場にて練習。一人一日二〇射程度。市内高専大会(五高、熊本工業、熊本医大、薬専)、九州の四高校の会(五高、七高、佐高、福高)、昭和一七年八月初めての全国インターハイ(それまでは西、東日本別々にインターハイ)、東大、早稲田大、京大と三日間弓道場を借り、優勝は七高、二位一高、三位五高であった。(文甲三)・水泳部  各学年七、八名、秋までプールで泳ぐ。冬は陸上トレーニング。高校全国大会、九州四高大会あり。(文甲三)・はじめは弓道部、あとは端艇部(文甲三)・排球部(バレー部)(文乙)・剣道部  一学年一〇人位か。一年の時東京でインター・ハイ。東大の近くに宿泊。一回戦で敗退。(文乙)・正規の雑誌ではないが、有志で同人誌を出した。(一、二号)名称は「流木」。少し、自由主義的な傾向の雑誌。加藤寿三郎、西川源吾、合田成男、深見淳一など。(文乙)・ホッケー(陸上)(理甲一)・航空(グライダー)部(理甲一)・騎道部  三〇名位  毎日曜日は野砲隊の馬に乗った。五高構内、帯山練兵場で練習、たまには遠出して金峰山。インターハイに出たことはなかった。(理甲二)・書道部(理甲二) ・馬術部(理甲二)・排球部(理甲二)・通信部(理甲三)・航空部  一七人でグライダーは一機  普段は練兵場で練習、夏は草千里で一〇日間の合宿活動(理甲三)・排球部  総員三〇名ぐらい  校内のバレーコートで放課後練習。 佐高(一七年)、七高(一八年)への遠征を経験した。(四高校戦)(理甲三)・山岳部  約三〇名  主として阿蘇山岳(理甲三)・馬術部(一年生の時期のみ)(理甲三)

昭和一七年・水泳部(文甲一)・通信部(文甲一)・排球部(文甲一)・一年時、乗馬部、城主将、約二〇名、一年時春、久留米にて九州四高校の試合(実兄が佐高三年主将として出場)。夏季休暇中、東京インターハイ(応援)。二年時、新設の自動車部約一〇名、休日毎に大江町の六師団騎兵隊に行き練習。車の手入れ、あとは一般体操(文甲一)・騎道(馬術)部(文甲二)・馬術部(その後騎道部と変名) 軍隊の馬を日曜に借りるため一年で退部(文甲二)

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一.「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」 ㈢調査結果

・ボート部  一年と二年のみ、昭和一八年夏、琵琶湖のインターハイに参加、但し合宿を始めた時、文部省からの指示で中止命令(文甲二)・ボート部(端艇部)(文甲二)・水泳部→通信部→作業部(文甲二)・ボート部  三年生が二人、二年生が四人、一年生が二人で漕いでいました。そのほかにも部員はいましたが、ボートに乗るのは二年の四人と一年の二人でした。練習は江津湖。一年のときはインターハイで戸田ボートコースへ、二年のときはインターハイで滋賀県大津市まで行きましたが、大会のはじまる直前、学徒徴兵延期が廃止になり、大会は中止になりました。(文甲三)・養生班(東光会)  弓道部(文甲三)・ボート部(文乙)・テニス部(文乙)・山岳部(理甲一)・グライダー部  一〇人  グライダーがこわれたので殆どしていない。(理甲一)・射撃部  一年生・二年生、一五人位だったか。練習は、上熊本から徒歩二〜三〇分位の陸軍の射撃場。佐賀で九州四高校試合があった。(理甲一)・ラグビー部(当時は闘球部と仮称していたようだ)やっと試合が出来る程度  東光原をサッカー部と半々で使用  九州の四高戦、対八幡製鉄などの試合があった。(理甲二) ・柔道部員  二〇人位(理甲二)2・通信部、軍の通信隊同様、モールス信号の送受、有線、無線通信実習(理甲二)・通信部(理甲三)・通信部、自動車部(理甲三)・サッカー部(当時ア式蹴球部)(理乙四)・柔道部  約二〇名(各学年五〜七人)柔道場で毎日の稽古。在学中インターハイは行われず。(理乙五)・弓道部  各学部一〇名程度いたと思います。毎日放課後練習、九州四高校戦、全国インターハイ(理乙六)・バレー部(理乙六)・剣道部(理乙六)・バレー部に属していた時期あり。二年生のとき、短歌部に入っていた。上田先生の短歌講話は有益だった。『龍南』(昭和一八年)の短歌部紹介の欄に私の短歌一首が出ている。佐賀高校へ試合の応援にいきしことあり。(理乙六)・聖書研究会  一〇人くらい。花陵会二階、講師松木治三郎、坪井教会牧師のち関西学院大学神学部教授(理乙六)昭和一八年・柔道部  戦争が激化して交通手段が不便となり遠征、対外試合のチャンスが困難となり出していました。(文甲一)・剣道部(文甲一)

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・銃剣道部  一〇名  武夫原  九州四校戦(福高・佐高・七高・五高)(文甲一)・水泳部(文甲二)・体操部(文甲二)・バスケット部  戦時中で対外試合は出来なかった。(文甲二)・ラグビー部(文甲二)・柔道部  九州高等学校対抗柔道試合(文甲二)・柔道部  五〇人位いたと思う。連日放課後道場で練習した。(文甲二)・ボート部と自動車部  ①自動車部  ガソリンがないから空運転。②ボート部  一〜二年生、どのクラスもいた。江津湖で、たまに三角港で。往復徒歩で疲れだけが残った。(ハラペコ)三高との試合「琵琶湖哀歌」が楽しかった、(われは湖の子  かねてより・・・)(文甲二)・「火盞」という同人誌があった。(文甲二)・柔道部(文甲三)・銃剣道部(文甲三)・通信部(文甲三)・剣道部(文甲三)・蹴球部(文甲三)・同人誌「火盞(ほざら)」を始めた。五人位、紙がないので熊本出身の友人から調達(文甲三)・東光会(当時は養正班・興亜班となっていた。)(文乙) ・ボート部(文乙)・弓道部(理甲一)・敵性スポーツ(野球、庭球等)は禁止、弓道部・総務部(理甲一)・山岳部(理甲一)・弓道部(理甲一)・ハンドボールクラブ(理甲一)・陸上競技部(但し一年生の時のみ)約三〇名  武夫原で練習(理甲二)・騎道部(大学では京大馬術、昭和三五年(ローマ)、四三年(メキシコ)のオリンピックに出場)最初は野砲隊、後黒石原種馬場、最後には白馬を購入して頂き、東光原で練習。戦争が激しくなり、対外試合は、一年の五月(?)に久留米での高専大会を見学にいったのみ(理甲三)・徒手体操(理甲四)・音楽部  講堂のピアノを弾く。(理甲四)・送球部(理甲四)・書道部(理甲四)・山岳部(理甲四)・通信部、水泳部(理甲四)・通信部(理乙五)・ハンドボール部  新設されたもので、ものは試しのつもり。一〇数人は居たようです。(野球、テニスは消部)校内の練習のみ(理乙五)

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一.「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」 ㈢調査結果

・ラグビー部(理乙五)・水泳部  昭和一八年一学期のみ(六月退部)、本校プールで練習。一日何処かの中学に行って練習した。対校試合は中止(理乙五)・ボート部  一八年ボート部員は、三年(七人)二年(一〇人)一年(九人)。艇はフィックス(固定席)六人乗り+舵手  江津湖に艇庫があり、練習場所は江津湖及び加瀬川、一八年八月インターハイ滋賀県瀬田。一年生でチャン(選手)に随伴、オールの荷解きをしている時中止の報来る。一九年四月〜六月、対七高戦に備え出水で合宿、これも中止(理乙五)・水泳部(理乙五)・馬術(騎道)部(理乙五)・小冊子「火盞」を参考にして下さい。中野孝次氏が居ます。(理乙五)・弓道部  重病の母を見舞うなど練習も怠り勝ちであった。(理乙六)・ボート部(理乙六)・機甲部(理乙六)・山岳部  三学年二〇人  主として阿蘇高岳岩場(理乙六)・弓道部(理乙六)

昭和一九年・柔道部、総務(文甲一)・東光会、山荘に時々泊まっていた。(文甲一)・射撃部(理甲一)3 ・ラグビー部(理甲一)・ラグビー、サッカー  練習は武夫原ではない運動場、対外試合は なかった。(理甲一)・総務部、バスケットボール(理甲一)・庭球部一〇名位?昭和二一〜二二年九州四高校戦・優勝、福岡市九大コートで試合(七高が福岡秋山氏宅に宿泊)、演劇部一五名位?(理甲一)・航空部(グライダー)九人、健軍の運動場で一〜二回乗る(一日)。プライマリーで四、五ⅿ滑走した。グライダー部は遠征はない。(理甲二)・昭和一九年〜昭和二〇年銃剣道部  一〇名前後  放課後、武夫原の一隅で練習  鹿児島市伊敷兵営にて七高と合同合宿(理甲二)・興亜班  興亜班とは、大正末期に発足した社会科学研究会に由来し、皇国史観の東光会と弁論大会などでやりあっていたが、日支事変の頃、国の思想統制甚だしくなるにつれ、特高や東光会との無益のトラブルを避けるため潜行的になり名も時流受けする興亜班として韜晦したものである。国内では「八紘一宇」のような皇国日本中心の考へ方に思考を統制されているが、これと反対に、各国・各民族の主権・文化を互に尊重しつつ、経済的にも互恵・共栄の関係を樹立すべきではないかと云うのが、興亜班の立ち位置であった。(理甲二)

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・ボート部(当時端艇部)(理甲三)・滑空部(理甲三)・音楽、自動車(理甲三)・バスケット部(理甲四)・ボート部  二五名、平日は体育館横でバック台、土日は画津湖でボート漕ぐ(理甲四)・通信部、サッカー部(理甲四)・通信部(理甲五)・サッカー部(理甲五)・射撃部  二年生一〇名、一年生(文理混成)二〇名、三年生は居なかった。武夫原の一区で三八式歩兵銃を使って腕力の強化。特殊な装置を銃口につけて射撃の練習。時々、狭窄射撃と称して弾頭の短い実弾で訓練。(理甲五)・籠球部(理甲六)・ア式蹴球部(現在のサッカー部)  一〜二年生約一五人位、武夫原、偶に東光原で練習。三年(昭和二一年春)インターハイ復活(戦争で中断していた)、京大グラウンド、京都宿屋(名稱不詳)、経費については大変苦労した。先輩達に寄付をお願いしたりしてかき集めた。靴、ユニホームの調達にも苦労した。(理甲六)・送球部(ハンドボール部)(理甲六)・グライダー部(理甲六)・銃剣道部(理乙七)・陸上競技  二〇人位だったように思う。私自身が不熱心であった こともあるが、食糧不足のため一年一学期に僅かに練習があった程度。交通事情が極めて悪く、七高、佐高、福高との交流は全くなかった。(理乙七)・剣道部  三〇名位、昭和一九入学組が主、文科理科両方いた。午后三時学科授業が終わると猛稽古でへとへとになり、習学寮の二階を這って上がった。武道場には、「入神致用」の額が掛かっていた。半分は板敷で剣道部用、半分は畳敷で柔道部用。戦中のため全国インターハイは無く、九州内四校(五高・七高・福岡・佐賀)で行われた。戦地白兵戦を想定、直径一五mの円内に土嚢、米俵を置き、袴は着けず、ズボン、ゲートル、素足の武装で試合をした。場所は佐賀高校。四校総当たり。宿泊、経費は忘れた。(恐らく全て自費?)(理乙七)・サッカー部  一九年は二年生が二学期から居らず、少人数でした。二一年は三年生一〇人位、二年生七〜八人、一年生五人位  練習は武夫原、食料不足で無理は強いられず低調でした。再開したインターハイで九州山口ブロックの代表となり、京都へ行きました。一高と対戦して負け。(出場は北大予科、六高の四校)(理乙八)・騎道部(理乙八)・弓道部(理乙八)・剣道部(理乙八)・(ハンドボール)送球部  戦中一五〜二〇名?(一〜二年生)運動場(武夫原?)で練習(理乙八)

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一.「戦中・戦後の第五高等学校に関する調査」 ㈢調査結果

昭和二〇年七月・弁論部(文甲一)・五高演劇サークル、五高フライエクンスト(コーラス部)(文甲一)・終戦後、龍南会雑誌ではないが、「火盞」という文芸同人誌が発行されていて、長与善郎氏を招いての合評会など校内集会場で催されていた。小説、短歌、俳句が載せられていた。「この命短くもよし燃えに燃えよ  ゴッホの向日葵胸に抱けば」という短歌を覚えている。(文甲一)・文芸部(文甲二)・文学同好会(理甲一)・自動車部、映画部(理甲三)・ラグビー部(理甲三)・ラグビー部  二一年暮、インターハイで京都へ  一七〜一八人 武夫原(野球部と共同使用)  福岡高校、佐賀高校、七高(理甲三)・自動車部(木炭自動車)(理甲三)・野球部(理甲五)・野球部  一二人位  鹿児島七高戦(定期戦と、七高新校舎落成記念)(理甲六)・二年間バスケット部(理乙七)・ボート部(理乙七)・陸上競技部、中学時代は剣道部だったが武道はGHQの指令で禁止された。(理乙八)・バスケット(籠球)部  一五人位  インターハイ九州大会  イン ターハイ、佐高、九州四高、山口高(理乙九)・剣道部(二段)すぐ中止した。空腹のため食事が乏しく、元気がでませんでした。一年一〇名、でも長くは続かなかった。空腹のため(理乙九)・山岳部(理乙九)・音楽部、男性合唱団フライエ・クンスト  四〇名前後  講堂で練習、発表は五高講堂、九州学院講堂など  全日本合唱コンクール、九州予選(八幡市)出場、九州四高校合同合唱音楽会(九大医学部講堂)など(理乙九)昭和二〇年一一月・文芸部(二文二)・ラグビー部(二文二)・陸上競技部(短距離)  昭和二三年主将  ○全国インターハイ(東大・京大が交互に主催)…旅館、○四高校戦(五高・福高・七高・佐高)・・・当番校の寮、○九州インターカレッジ、○その他各種試合に出場、○経費は自宅通学の余裕ある者が負担した(龍南会の交付金は僅少。)、○アルバイトで資金調達(文甲二)・野球部(短期間)(理甲一)

昭和二一年・文芸部(文甲一)・硬式庭球部(文甲二)

参照

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