163
封建社会における仏教諸教団の内︑本願寺教団の占める地位は︑それが庶民に受け入れられたものであり又最大の
勢力を持つものとしてきわめて重要なものである︒本願寺教団の成立から中世における展開過程の研究は︑比較的早
くから注目され多くの成果が発表されて来たが︑近世幕藩体制の成立以後の本願寺教団については︑我々はまだ充分
な成果を持っていない︒最近ようやくこの方面に研究の目が向けられ︑雑誌﹁近世仏教﹂を中心に種々の方面よりの
追求が開始されて来た︒そこにおいて中心の課題となるのは︑中世本願寺教団がいかにして近世幕藩体制に則応した
体制を作りあげ近世教団として封建社会に生きて行くかを追求することにあると思うのである︒この小論は︑本末関
係の面から本願寺教団の近世化を考えようとするものであるが︑近世本末関係の実相がいかなるものであったかが充
分明らかにされていない現状に鑑み︑まずその復元を試象︑合せて本願寺教団における本末関係が中世から近世へ︑
そして近世全般を通じて如何に変化したかを考えようとするものである︒こうした問題は全国的な考察が必要である
が︑それは私の能力の許す所ではなく︑又史料的制約も少なくないので︑こ上では北陸︑就中加賀・能登の二国に焦 近世真宗教団の形成
■ ■ ■ ■ ■ ■
l北陸にあける本末関係を中心としてI
大桑
齊
マ ー
164
点を合せて考えてゑたいのである︒
︵訂且︺近世本願寺教団は︑千葉乗隆氏が指摘された如く︑﹁制度化教団﹂の色彩が濃厚である︒本末関係においてもそれ
︵ワ﹄︶は同様であり︑中世の﹁教化者教団において形成された本末組織を江戸幕府の要求に応じて制度化した﹂ものである
と云われる︒従ってその近世における展開はあくまで中世教団の発展の線上に把握されねばならないものであること
は云うまでもない︒それでは﹁制度的﹂と云われ﹁近世的﹂と云われて︑中世的な本末関係と区別される所の差はど
︵へ⑪︶こにあるのであろうか︒千葉氏の規定に従えば︑中世教団は﹁教化者教団﹂と云われ︑教化者Ⅱ僧侶と一般信徒Ⅱ門
徒の間における宗教的差別の生じたことに特色があるのであり︑近世教団は教化者間に制度的な階層性が確立された
ことにある︒従って近世教団の成立は︑本末関係の上から云えば︑中世的な教化者と門徒中の教化者的なもの︵道場
坊主︶との間の本末関係が︑教化者間相互の︑つまり寺と寺との間の本末関係として成立したことにある︒云いかえ
れば︑下道場が下寺に変化したときに近世的本末関係の成立があったのである︒
されば我々は近世的本末関係の成立を考えるとぎ︑中世の本末関係がいかなるものであったかを知る必要がある︒
︵4︶中世北陸の本末関係については︑前に小論を発表したことがあるので︑まずその概要を述べよう︒
北陸真宗教団の本末関係の最も早い時期の状態を示す史料は天文日記である︒天文日記に見られる本末関係は︑他
︵P⑪︶の諸地域の初期の場合と同様︑在地有力寺院が道場坊主を従えた形のものである︒
第1表は天文日記によって加賀の主要寺院の下坊主数を示したものであるが︑このような下坊主の下寺への発展が
本末関係発展の典型となるのである︒所が北陸の場合︑典型的な本末関係の発展は一時中断される︒第1表に知られ
る如く︑享緑の錯乱においてこれら下道場を従えていた有力寺院の多くは︑越前から亡命していた超勝寺・本覚寺等
■ ■ ■ ■ ■
■■■l■■
165
(第1表)
それでは以上の如き中世の本末関係がいついかにして近世的本末関係に移行したのであろうか︒まず近世本末関係
成立の時期について述べよう︒
前述した如く︑近世本末関係の成立は下道場の寺院化による寺院と寺院の階層的関係の成立を意味するのである
が︑道場の寺院化の最大の指標は寺号の免許にあることは云うまでもない︒寺号を免許された道場は更にその体裁を
寺院化する必要がある︒道場の本尊は法便法身の阿弥陀仏の絵像であるのに対して寺院は木仏を本尊とするものであ
り︑それに関連して脇侍たる親鶯︵開山︶︑七高祖︑聖徳太子等の絵像も必要であった︒これらの寺号︑諸尊は本願
寺の免許によって始めて安置出来るのであり︑免許出願は直参寺院・道場以外はその本坊を通じて行なわれるのが普
通であったから︑諸尊の裏にはその寺院の本末関係︑所在地︑下附年月日︑願主等が記されている︒我々が道場の 直参化した後において第二次下道場の発生が
あったのであり︑この第二次下道場を基礎として近世本末関係が成立するのである︒ゞ
誘雫耀塁1篭幣震
直 参
光 徳 寺 下 5
願 成 寺 下 3 〃
專 称 寺 下 1 ノノ
一一一
新郷
専 光 寺 下 3 〃
直 参 6 専 光 寺 下 1 吉 藤
專 光 寺 下 7 直 参 2 本覚寺下1 松任
本 誓 寺 下 3
−
聖 安 寺 下 2 超勝寺下
勝 光 寺 下 2 〃
本 泉 寺 下 4 直 参
慶 覚 寺 下 1 〃
本 光 寺 下 1 本光寺下
直 参 勝 万 寺 下 2
善 照 坊 下 2 〃
專 乗 坊 下 2 〃
に敗れ︑その下道場は直参化し又超勝寺・本
覚寺の下に吸収されたのである︒しかし一時
的に中断されても在地有力寺院にとっては下
道場を通じての門徒支配は欠かせないもので
あり︑十六世紀後半において再び下道場の発
︵︽︑︶生が見られるのである︒享緑の錯乱以前のも
のを第一次の下道場とすれば︑それが大部分
166
寺院化の時期を知ろうとするとき︑各寺院の寺号免許状︑諸尊の裏書等を集めて検当することが重要な仕事となるの
︵可I︶↑であるが︑幸な事に東本願寺の当事者が寺号以下の免許の手控とした﹁申物帳﹂︵﹁御免日記﹂とも云う︶を見るこ︵1615︶︵1681︶とが出来るのである︒この﹁申物帳﹂は十九冊現存し︑慶長二十年︵元和元年︶より延宝九年︵天和元年︶に至る記︵1625.6︶録であるが︑寛永二・三両年の分を欠いている︒あたかも近世幕藩体制の成立期であり︑本願寺教団も又種々の面で
近世的体制を整えつつあった時期の記録であり︑又東本願寺の当事者の手控と云う第一等史料である点︑きわめて高
い史料価値を持つものと云わねばならない︒そこで以下において︑この﹁申物帳﹂によってまず加賀・能登における
本末関係の復元を試み︑次で近世初期における下道場の下寺化の問題について述べて行こう︒第2表は加賀・能登に
所在する寺院で五以上の下道場・下寺を有するものの本末関係を示したものである︒又第3表は寺号免許を受けた下
寺を年代別に数字で示したものである︒
○徳願寺
○遍立寺正順等願寺
極応寺明玄
逢浄寺正願寺
円立寺 弘願寺︵加賀河北津幡︶下 第2表
越 〃 〃 〃 能 〃 〃 〃 加 中 登 賀 婦 鹿 〃 〃 羽 金 〃 〃 河 負 島 咋 沢 北
︵○卿加肪蝿も即脳塒坤雌村咋卿噸献時恢務嶋串は寺号免許年代を示す︒
津幡〃
小熊森下
火打谷
神代
石島
野崎乃然
明 明
暦 暦331
寛文喝
万治2 寛文6
−
光専寺︵加賀金沢荒町︶
西照寺
正明寺珀林寺
玄徳寺
真教寺 深妙寺本覚寺楽入寺西達寺
〃 越 〃 〃 能 中 登
〃 〃 〃 〃
砺 射 鹿 〃 羽 波 水 島 咋
〃
″
″射水
竹 余 金 八 宿 内 川 丸 野
門 上 〃 富 田 吉 崎
i
河ゞ
明暦4
寛文4 明暦2 明暦2
○常念寺
西慶寺西立寺
長龍寺長福寺
伝流寺安成寺
乗蓮寺
念乗寺 光琳寺︵能登鳳至剣地︶下 ︶
能登鳳至″〃″〃″〃″〃
鹿島〃
羽咋〃″〃″〃
子 吉 中 井 谷 烏 丸 四 剣 浦 田 新 田 尾 越 山 位 地
保 慶安5 寛文過 實文6 延宝6 lllI
167
m 喜 焉
○光誓寺
○正伝寺
真照寺
長栄寺養覚寺 仰西寺︵加賀金沢小立野︶下浄明寺︵能登鳳至輪島︶下善福寺︵加賀金沢材木町︶ 長光寺林敬寺善行寺︵真覚寺︶︵願隆寺︶|︵寂静寺︶︵善通寺︶ 浄行寺一加賀金沢田丁一松栄寺養楽寺明正寺因念寺行念寺光明寺光円寺正順心覚
〃 〃 〃 〃 〃 〃 能 〃 加 登 賀
能登〃
″″
″
″
″〃 〃 能 〃 加
登 賀
〃 〃 〃 〃 〃 鳳 羽 河 石 至 咋 北 川
〃 〃 〃 〃 鳳 鹿 羽 至 島 咋
〃 〃 鳳 〃 金 室 沢
宮腰
谷内百浦
宇出津
当目
河内
石新町赤崎一
大槻皆月
鹿磯
五十洲一高根尾
田村
" 、 東 黒 宅 〃 材 山 村 田 木
寛文過
寛文週 明暦2 寛永岨寛文3元和7 元和5元和3明暦4
│ 譽 譽
元和3 11長福寺︵能登○勝安寺能登覚養寺〃正光寺〃正願寺〃真照寺〃願慶寺〃等覚寺〃福正寺〃国称寺〃西光寺〃○囎馴詩雌登鳴至大剛帷町一延宝6正光寺〃〃入山善正寺〃〃蕨野元和4得蔵寺〃〃安大原明暦3本照寺〃〃蔵立西光寺〃羽咋鳥越常徳寺〃〃鹿頭本泉寺︵加賀河北二俣︶下○恩善寺加賀河北二俣安楽寺能登羽咋二所宮 本書寺︵能登鳳至阿岸︶下 西源寺越中教專寺越後
鹿島 砺波
〃 〃 〃 珠 〃 〃 〃 〃 鳳 鹿 洲 至 島
迦波八塚延宝2高田延宝5
島七尾︶下
七尾宇出津
諸橋
金蔵宅田
甲
川浦
杉山
高屋正院
一
寛文5 即往寺〃明達寺〃明円寺〃本念寺︵能︾○往還寺○専行寺○即生寺金相寺正珍
︵なお︑専光寺下の分は別の機会にのべたいのでこれを略した︶ 妙厳寺︵能登珠洲鵜飼︶下勧帰寺︵加賀能美小松︶下 西念寺浄恩寺本光寺明教寺善行寺玄知坊常福寺本敬寺本福寺慶願寺了覚寺永臨寺善勝寺専了寺 ︵能登
能登羽咋安部屋″〃草木
越後西尾 加賀金沢木新保 ″鹿島l ″鳳至鹿美 ″″〃 ″〃富来
美作能登珠洲鵜飼
″〃〃
″″〃
宗玄″〃″〃
加賀河北竹橋能登珠洲鹿野越前坂北金津
″〃番田
″〃玉江 羽咋羽咋︶下
〃 〃 〃
大津
長沢
敷波
1 1111
一
| 元 明和 暦 三 明暦3
8 3
寛永4 寛永皿寛永7
延宝6延宝6
延宝6
寛文6
万治2寛文6
168
に東西に分裂した二つの本願寺が︑共に自派勢力の拡
大をめぐって末寺獲得に全力を傾けた時期が慶長年間であった︵もちろんこうした動きは江戸時代を通じて見られる
のであるが︶︒その時において東本願寺は寺院・道場が自派に参加する場合には寺号以下の免許の礼金を半額又は全
︵の⑤︶額免除すると云う特典をもって末寺獲得に努力している︒このような寺号免許の安売は︑当然そこに大量の新寺院
の成立をもたらしたものと思われ︑慶長年間における寺号免許の集中が予想されるのである︒かくて︑慶長年間を一
つのピークとして新寺院の成立があったと思われるのであるが︑この時期に成立した寺院は客観的状勢が寺号免許に
有利であったと云うことだけでなく︑それに応ずることの出来る︑云いかえれば寺院として成立するだけの経済的な
(豊葉雲需藤吏寺の内)
(第3表)
ぷ 数加 賀年平均 数能 登年平均 数計 年平均
訓:芸
0 0 . 0 0 0.78
10.35
0.00
'0.00
元和(9)
1211100 15005631000263
●●●●●●●0000000 760045
寛永(17)
.輔 正保(4)
0502●●01
慶安(4) 05
承応(4) 1.00
1.66
|皿哩舩79
2.33
3.00
1.16
1.50
0.98
明暦(3)
万治(3)
寛文(12)
89544
2.66
0.75
0.62
0.69
ユ'2坐
7 0 . 8 9
18iO.28
J7−肥1口
l
l l延宝(8)
計
寺号免許は第3表に知られる如く︑正保・慶安年間
の八年間を境として二つの時期に集中している︒第一
の元和・寛永年間の場合︑能登・加賀の両地域共に一兀
和年間の寺号免許数が寛永年間のそれを上まわってい
る︒一見︑元和年間に寺号免許の集中期がある如くで
あるが︑年平均免許数は加賀・能登両国を合せても一力
寺に達せずそれほど多いものとは云えない︒しかし寛
永年間はそれよりさらに少いのである︒元和・寛永と
下降線をたどっている寺号免許のピークは一応史料の
上では元和期と云えるのであるが︑さらにさかのぼっ
て慶長年間のことを考えると︑むしろこの時期にピー
クを求めるべきではないかと云う気がする︒慶長七年
をなしている︒こうした時に真宗教団における新寺院の成立があったことは偶然ではなかった︒︵1597︶加賀藩領における真宗寺院・道場は︑慶長年間から租税についての特権を有していた︒慶長二年には越中の諸寺
院・道場は屋敷地の地子を免除されてお婚︑蔚鄙加蝿︑刈功荊一︵制郡嶋幟は能登の田地を有する諸坊主が﹁田地にか
7︵皿︶1上らざる役儀﹂を免除されているのである︒現存するものは越中︑羽咋郡・鳳至郡に対するものだけであるが︑こう
( 第 5 表 )
所で︑この明暦・万治年間を中心とした時期は︑加賀藩においては改作法の施行された時期であり一つのエポック
箙房雲「零霊所│蓋碧│下人│謹言
1
|三郎差術語 1 1 18
鹿島路 111111■0lllll1I1Il11Il1l1llIllllll︲︲11︲︲内門門弥門門門郎正明lLlll 5311321111
宮 右 衛 十 右 衛 本 阿 大 作 右 衛 太郎右衛 曽禰甚七 円 不 29 金 3
1111
丸
401 野屋郎寺衛郎郎郎泉衛 1011 733122111 7432221111
二念圭一舳次に兵
上永兵乗与太与左和又
能登部下
1
格を持つのに対して︑六つの道場はむしろ標準的な
小農民の性格を持ったものと云えよう︒参考までに
落における地位や性格と共に︑他の六つの道場の地
位も又良く知られると思う︒
このように︑近世的道場は村落の中核をなす如き
標準的農民の性格を持つものであり︑かかる道場が
明暦・万治年間を中心に寺院化するのである︒第4 鹿島路・金丸・能登部下の三部落の有力農民の地之︵第5表︶者・下人所有数を次に掲げる︒乗念寺・西光寺の村
表にも知られる如く︑鹿島郡では金丸の教正道場が︵1658︶︵1553︶明暦四年︑能登部下の美濃道場が承応二年に寺号を
免許され各々珀林寺・還来寺となったのである︒
四
172
した屋敷地の地子米︑田租以外の雑税の免除は加賀藩領全体に行なわれたものとしてよいであろう︒
十七世紀の中葉において加賀藩は改作法を施行し︑農政の大改革を行なったのであるが︑この時も︑こうした寺
︵巧︶院・道場の特権はそのまま残されたものと思われる︒改作法の実施は農民にとっては相当な苦痛をあたえるものであ︵お︶︵Ⅳ︶った︒一つには検地の精密化による隠田の摘発であり︑一つには手上免手上高の強制であった︒こうした時︑農民が
︵咽︶その持高を藩によって把握されるのを防ぐ手段として︑寺院・道場への名目的な寄進が行なわれるのである︒かかる
動向は今だ寺号を有しない道場にも︑寺院化への経済的な裏つけをあたえることになり︑かくて改作法の施行と前後
して在村道場の寺院化が開始されるのである︒
しかし藩当局にとっては︑かかる動きは決して好ましいものではなかったので︑藩はここに新寺院の開創を禁止す
︵四︶る法令を次々と発布するに至る︒が︑それが再々出されていることや︑﹁申物帳﹂にこの時期に新寺院の成立の見ら
れることから知られるように︑充分な効果があったわけではなかった︒新寺院の成立はその後も続いたものと思われ︵1803︶罰︶るが︑それは享和三年︑藩が寺名による持高を禁止したことによって終止をうたれたのである︒寺名の持高を禁止
し︑所持の高は村方へ譲るか︑相対請地として地子米を納めるか︑又は俗名に改めて高を持つか三者の内の一つを選
択させたのである︒珠洲郡若山の正福寺の場合は相対請地として地子米を納める道を取っている︒かくて寄進地等に
よる新寺院の成立はあとをたち︑しかも今まで高を持っていた寺院もその所持を禁止され︑ここに近世真宗寺院は土
地を経済的基盤とすることが出来なくなったのである︒
近世的道場のある者はこのような過程をたどって寺院化したのであるが︑中には寺院化することが出来ず︑そのま
ま道場として残ったものもあった︒それらは寺号を有せず︑俗名をもって道場主となっていたのであり︑こうした道︵1839︶場に関する史料は多くないのであるが︑天保十年に作成された金沢専光寺蔵の﹁寺中下道場三季留帳﹂は︑下道場の
分布を知るに貴重な史料である︒﹁三季留帳﹂とは︑専光寺触下寺院の寺中・下道場の年頭︑中一兀︑報恩講の三季の
176
明暦・万治を中心とした時期の新寺院の成立には︑先にのべた近世的道場の下寺化と共に︑寺中の成立が見られる
のは注目すべきである︒寺中とは大寺院において﹁寺役の遂行を補佐せしめ﹂たものであり︑﹁本坊の境内に居住
︵詔︶し︑本坊の世帯とは一応別の消費単位を構成する譜代の従属的僧侶とその家族である︒﹂﹁申物帳﹂には単に下と記す
だけで︑寺中と云う語を用いていないが︑本寺と同一町内又は村内にある下寺を寺中と考えるとぎ︑第2表では︑加賀
では五ヵ寺︑能登では六ヵ寺︵寺名に○印︶が数えられる︒それらの寺中を有する寺院はい︑つれも加賀・能登の大坊
と云われるものであり︑中には触頭として近世幕藩権力機構の一翼を任うものであることは注目すべきであろう︒触 行寺の間の本末関係の成立はややことなるものがあるのではないかと思われる︒同じ浄明寺門徒中よりの成立なら願隆寺が善行寺下となるはずがなく︑善行寺下であることは願隆寺が善行寺門徒よりの成立であることを思わせるのである︒その場合善行寺は浄明寺より預けられた門徒以外に独自の門徒を持っていることが必要となる︒善行寺が自己の独自の門徒を持っていたかどうかを明らかにする史料はないが︑善行寺はもとは同じ皆月湾岸の吉浦にあり︑吉浦
︵狸︶村志津良総道場であったと云うことは注目すべきである︒総道場として皆月湾岸一帯の真宗門徒をその寺檀関係の如
何を問わず信徒としていたのである︒こうした関係において皆月湾岸の五十洲に成立した願隆寺は善行寺下となり︑
それによって浄明寺I善行寺I願隆寺と云う関係の成立があったのであろう︒又願隆寺下となっている善通寺・寂静
寺の場合はどうであろうか︒この場合注目されるのは両寺の所在地が︑曹洞宗の本山総持寺の所在地たる門前町の近
郊にあたることである︒総持寺のお膝下たるこの地域は当然真宗の進出はおくれていたものと思われ︑願隆寺はこの
地方に教線を伸ばし自己の門徒を開拓していったのではなかろうか︒すなわち︑この四段階にわたる本末関係は︑浄
明寺と善行寺︑願隆寺と善通寺・寂静寺と云う二つの本末関係の結合したものと推定されるのである︒
︷ハ
I亙マ
頭は藩の法令等をその触下に伝達し︑又触下寺院の上申の媒介者となる有力寺院であるが︑一兀来真宗東派の加賀藩領
における触頭は金沢専光寺であったらしいが︑慶安頃に南部加賀の触頭として小松本蓮寺︑能登では羽咋郡に本念
︵型︺寺︑鹿島郡に七尾長福寺︑鳳至郡に阿岸本誓寺︑珠洲郡に鵜飼妙厳寺が立つことになったのである︒又︑専光寺は︑
百三十余力寺の触下をもつためその補佐役として金沢の瑞泉寺・善福寺があったものの如くである︒寺中の成立がこ
れら触頭寺院にまず始まったことは︑中世の土豪的な有力寺院に代って︑官僚的な有力寺院の出現を物語るものであ
掲げる︒ ろシ﹃ノ︒
寺中の成立はこのように明暦ごろより見られるのであるが︑全国的に見てもこのごろからの如くであり︑出羽国酒︵1827︶田の浄福寺の寺中も承応・延宝︑貞享年間に成立してい奄その後寺中はしだいに増加したものと思われ︑文政十年
には専光寺触下で三十七力寺を数えるに至っている︒次にその状態を示す史料である﹁持家寺号帳﹂を第7表として
第7表︵卿洲年榊蝿礼た痔艸か加抑の紳軸梛臓硯城妬繩の︶
上隅畑野判劃一錘㈱蝿△ 中名礪藍免許一中絶瑚帥聞成坊一一先代病葬理正坊一元緑加一文政3病扉這阻寺一一先代丙罪 芒一〒功な﹂乳名一描韮缶
筧政加病扉
旱和3病葬
先代一内応
178
﹁持家寺号帳﹂は金沢善福寺蔵で︑瑞泉寺が専光寺触下の諸寺から組合ごとに持家Ⅱ寺中を書上げさせたものであ
蓋│雲│鬘│蕊
仰西寺具教 袖白水 金沢小立野金洞穴テ但砺 u木町一迄声口髭前一浄両公儀町一×浄栄小析呆一三碇
旦一言
○
壼 猶 宮願寺一貞享市 口 芙言.寺一 周光坊 乗円寺
垂見方 IIIlllIIllIIllI永照寺一河北郡太田一西岸寺一光現寺 光專寺一〃高松一専行寺一 専長寺一石川郡宮腰一正林寺
i
剛凹時F剛佛剛I吟臘陛﹁I嗅府四照寺一〃宿一満徳
四念寺一〃安部屋一連徳
冊佛時トMII階隔脈Iトー朔胱
階照寺一鹿島郡河崎一永福
牛泉寺一羽咋郡敷波一男円 ″越中坂願船寺○善巧寺 C妙簿
西会
ニニコエル侭
︵寛文6︶
1 月 和 禾 「
− −
− ■ ■ ■ Ⅱ ■ ■
179
多くの寺中はこのようにして成立したのであると思われるが︑この時代には早くも中絶するものがあった︒第7表︵1788︶に見られる如く︑年代の判明するものでは天明三年が最も早いのであるが︑ほとんどが十九世紀初頭に中絶してお えるものがある︒ る︒その記載の例を示せば次の如くである︒
金沢石坂瑞泉寺持家
一︑安閑寺
但金沢北石坂二居住仕候︒
金沢石坂徳龍寺持家
一︑光明寺
但先々代致病死当時中絶仕候︒
このような記載方法を取るのであるが︑それは瑞泉寺が各組合より提出されたものにもとづいて編集したものであ
り︑内容は単純であるがへもとになった書上も又善福寺に所蔵されているので︑第7表はそれによったものである︒
各組合からの書上は︑その内容に統一されたものがなく種々の記載があるが︑その中に次の如く寺中の成立事情を伝
羽咋郡宿村西照寺持家
一︑壱人満徳寺
法名大住
弐拾弐年
右︑先祖出生尾張国︒高村民部与申者︑万治二己亥剃髪仕︑法名覚勇C拙寺伴僧二召抱候所︑孫覚伝︑宝永三
年五月廿五日︑寺号御免御頂載仕候︒
180
北陸真宗教団の近世における本末関係について︑以上において若干の考察を加えたのであるが︑次にこうした本末
関係が近世社会においていかなる役目を持ったかを述べこの稿の結語としたい︒
中世真宗教団は中世封建社会が近世封建社会に移行する時点において︑戦国諸侯の一つとしての性格を持っていた
ことは石山合戦︑一向一榛によく知られる所である︒近世封建社会は徳川氏によって戦国諸侯が統一され︑その権力
に服属することにおいて成立したのであるが︑真宗教団も又戦国諸侯と同様徳川氏の権力下に入りその統制を受けた
のである︒その場合本末関係は︑真宗教団を全国的に統制するには有効な方法であった︒しかし近世大名領において
は︑本末関係は寺院統制にはあまり有効な方法ではなかった︒第2表に知られる如く︑地方的な本末関係は一国の寺
院を網羅するような大規模なものではなく︑しかも時には領国の範囲を越えるものもあるのである︒従って大名領に
おける寺院統制としては︑その地方の一宗派を全体的に支配出来る触頭制度が主要な役割をはたしていたのである︒
︵沈︶芸州の仏護寺の場合は︑領主権力によって芸州の寺院の大部分を仏護寺下に組み入れ本末関係と触頭制度を統一して
いるが︑かかる例はむしろ稀である︒一向一榛において領主に反抗した歴史を持つ加賀においては︑かかる領主権力 り︑不明のものでも﹁先代﹂又は﹁先々代﹂の中絶であるから︑ほぼ同じ年代を示すものと思われる︒中絶の理由としてあげられるものは大部分が住職の病死である︒住職が病死したと云うことは︑単に住職がいなくなったと云うことであり︑その寺中が必要なものなら住職の新任は必ずしも困難ではなかったと思われるから︑この場合は住職の病死を理由に寺中が廃止されたのであろう︒寺中は元来自己の門徒を持たず︑本坊に依存しているのであるが︑江戸後期における農民の窮乏は寺院経済にも大きく影響し︑十九世紀初頭ごろから寺院経済も悪化し︑それが寺中の廃止となってあらわれたものと考えられる︒有力寺院より中規模の寺院に寺中廃止が多いのもそのためであろう︒
七
181
による制度的な本末関係の強制は好ましいものではなかったことは云うまでもない︒加賀藩における本末関係は寺院
統治の制度としてはこのようにそれほど重要なものではなかったのであり︑従って江戸時代を通じて本末関係に関す
る法令は管見では見あたらず︑又貞享年間の藩の命じた寺院の由緒書上にも本末関係についてふれているものはほと
んど見あたらないのである︒近世真宗教団は﹁制度化教団﹂と云われるが︑本末関係においては中世のそれの形骸と
云う意味において制度的であったと云えよう︒本願寺I地方大寺I下寺と云う階層関係が制度化され︑固定化される
ことによって︑戦国諸侯の一つから単なる封建教団に転化した本願寺は︑その存立を保つことが出来たのである︒す
なわち︑生きた姿の中世教団に発生した本末関係は形骸化せる近世教団の支柱として制度化されたのであった︒この
ように近世における本末関係は︑寺院統制と云う面においてよりも︑本願寺存続の為の制度としての意義を持つもの
であろう︒
註
︵1︶︵2︶︵3︶千葉乗隆氏﹁真宗﹂︵﹁日本の宗教﹂第二巻所収︶
︵4︶拙稿﹁中世末北陸における真宗寺院の本末関係について﹂︵﹁近世仏教﹂4号所収︶
︵5︶千葉乗隆氏﹁近世真宗教団の本末構造﹂︵﹁近世仏教﹂2号所収︶
三河の上宮寺の文明十六年の﹁門徒次第之事﹂と云う末寺帳について述べられた中で︑﹁寺号を持った寺院はほとんど見ら
れず︑道場が多くを占めており︑云々﹂と述べていられる︒
︵6︶十六世紀後半における北陸の真宗寺院の下道場については次の如き史料がある︒
﹁砂子坂末寺之覚﹂︵﹁蓮如上人と一向一撲井富樫氏に関する展観目録﹂所収︶﹁超勝寺︑本覚寺下坊主﹂︵﹁本願寺文書拾遺﹂
所収︶これについては前掲拙稿にくわしくのべたので参照されたい︒所収︶これについて
︵7︶大谷大学図書館所蔵
︵8︶例えば﹁申物帳一の
十月三日︵慶長廿年︶ の次の如き記載がそれである︒
182
慶長式十月十八日前田対馬守長種判
越中本願寺門下中石崎右近衛門殿
宣︶﹁加賀藩史料第一編﹂︵能登古文書︶
尚以三ヶ国道場坊主衆︑何も右之通旨候︒自然又申分別有之者︑罷出可相理候︒聞届可申付候︒並国役之事も︑田地之高下
に相随可申付候条︑何も可成其意候︑以上︒
一︑田地相抱候坊主︑田地之役儀仕間敷と申坊主於有之者︑堅可申付事︒
一︑鈷主分者別に役儀有之付而︑尤跡帳には付候へ共︑役を何も御除申候間︑田地にか茂らざる役儀申付候事有間敷候︒ ︵︑︶井上鋭夫氏前掲論文︒以下井上氏とあるのはこの論文を指す︒︵u︶美濃晃順氏校定並解説﹁寛永五年正月上野組調製鹿島半郡人別帳附解説﹂危︶︹鹿島半郡人別帳﹂によれば百姓作右衛門睦馬一疋を所有し金丸村に住して下人宗次郎を従えている︒︵過︶﹁加賀藩史料第一編﹂︵越中古文書︶ 一︑・顕如様關鈍御礼なし加州石川郡針道村
︲真教寺と寺号被下候
︵9︶道場の性格究明の重要性は︑最近井上鋭夫氏か.向一摸の本質﹂︵﹁国民生活史の研究第四巻﹂所収︶において指摘されて
いる○一︑肥前殿へ︑毎年従国中諸道場︑年頭に為御礼︑綿五拾把百廿目にして挙可申事︒
︵中略︶
一︑惣国中道場屋敷地子御免候事︒
慶長九年九月十二日︵羽昨郡︶七十五村︒二口新兵衛 ︵中略︶ 已上
覚
︵前田︶播磨守利好︵判︶
183
これと同文のものが慶長十五年羽昨郡に︑同十六年鳳至郡に出されている︒
命︶﹁退転之寺井高持僧名改一件﹂金沢市立図書館所蔵文書
書付を以塞願上候
一︑拙寺居屋敷之儀︑是迄持高之内一一居住仕来候処︑寺号名高俗名一一相改可申旨村方が申聞候処︑其儀於寺法二指立之趣有
之候二付︑此迄居住来候地面地子地二被仰付候様一一書付を以奉願上候処:⁝.︵後略︶
享和三年三月鹿島郡金丸村浄顕寺︵印︶
同郡同村
円正寺留主居看司乗念寺︵印︶
定︶﹁御改作集﹂︵小田吉之丈編﹁加賀藩農政史考﹂所収︶
︵Ⅳ︶﹁改作留﹂︵﹁加賀藩農政史考﹂所収︶
慶安元年より一歩刈をなし︑封内の免相を調し︑地元よき所は手上免左願はしむ︵後略︶ われる︒︵前略︶ 光徳寺殿
この文書は註罰︶と同一の内容をもつものであるが︑享和三年に地子地に仰付られる様願出ているのであるから︑それま
では地子地でなかったものと思われ︑慶長以来︑地子免除の特権は改作法においても何ら変更を加えられなかったものと思
|毎慶安年中より承応明暦万治之間隠田検地︑能州加州之内︑所々ゑりぬきに検地仰付︑重而又打直しなど仰付あるも︑一
郡総検地は石川郡之外無之故年号月日検地衆名不及記候︒
︵後略︶ 菅原行長中川太郎右衛門
184
︵延宝八年︶申七月十日林十左衛門殿木梨助三郎殿
罰︶﹁退転之寺#高持僧名改一件﹂金沢市立図書館所蔵文書
乍恐口上書を以申上候 ⑮︶﹁加賀構澗捷書﹂︵﹁加賀藩史料第三編﹂︶
新地之地庵︑従跡々錐為御停止︑重而承応三年に弥可相守之旨被仰出候上者︑地子地に有之候寺庵御用地に被召上候蕊
又は居屋敷等に被下候共︑向後承応三年以来之寺庵は︑地子屋鋪にも差置申間敷旨就被出︑御普請奉行に申渡候条可被得其
意候︑以上︒ ︵肥︶︵幻︶参照
﹁改作所旧記﹂︵加賀藩史料第四巻︶
新寺相建候儀御停止︑且又百姓地相対を以寺方に下し申儀有之間敷旨︑最前申触候処︑近年寄進地と号新寺相建︑不縮成様
に寺社御奉行中被申候︒先規より寺号有之候へ共︑子細に而中絶︑只今寺を取立申度旨断有之分は︑寺社御奉行吟味之上︑
御寄合所腫被相達︑御普請会所陀御申渡︑此場へ右之梯子及断︑請地申渡候︒︵中略︶下し地は不及申︑致寄進地新寺相建候
儀仕問敷旨︑村々肝煎︑与合頭より十村陀御請取候様に︑急度可有之候︒
︵中略︶ 澪以上︒︵寛文十年︶戌七月十九日
永原左京殿篠原織部殿
御算用場 前田対馬奥村因幡横山左衛門長九郎左衛門本多安房
185
妙厳
︵趾︶﹁故実公儀書上﹂
︵躯︶﹁石川県之研究雪
︵銅︶森岡浩美氏﹁近叫
︵型︶﹁吉藤專光寺史﹂
︵妬︶森岡浩美氏︑前掲論文
弱︶山中寿夫氏﹁藩の寺院統制と安葵門徒﹂︵﹁葵備地方史研究師・胡合併号﹂所収︶ 拙寺居屋敷之儀先年渉寺号二而持来候処︑今般御高御仕法替二付︑右屋敷住仕候地面俗称二相改候哉︑又若村方へ致讓渡相対請地号仕候哉︑両様之内可致承知旨被仰渡候二付︑何卒是迄え通被成置被下度毎度御願申上候処︑御間届無御座無是非仕
︵力︶合被奉存候︒就夫相対請地之儀村方へ達承談候処︑相談之儀も無御座候一一而︑村方納得仕候間已後相対請地二被仰付可被下
候︒勿論地子年貢米弐石弐斗五升三合年々無遅滞村方へ相渡可申候間︑此旨乍御難題寺社御奉行所へ被仰上可被下候以上︒
享和三年二月珠洲郡若山大妨村正福寺︵印︶
﹁石川県之研究第三宗教編﹂
森岡浩美氏﹁近世真宗教団の基礎講造﹂︵﹁日本仏教﹂第4号所収︶
寺