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「リドレス」と「リメンムブランス」―日系米人社 会の「歴史の記憶」

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「リドレス」と「リメンムブランス」―日系米人社 会の「歴史の記憶」

著者 石井 修

雑誌名 明治学院大学法学研究 = Meiji Gakuin law journal

巻 85

ページ 25‑47

発行年 2008‑08‑31

その他のタイトル Redress and Remembrance ― Historical Memory of the Japanese‑American Community URL http://hdl.handle.net/10723/1993

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「リドレス」と「リメンムブランス」

――日系米人社会の「歴史の記憶」

石 井   修

I 問題関心

 ところは米国の首都ワシントンD.C.。白堊の連邦議事堂を後にして,広い ルイジアナ・アヴェニューをユニオン駅へ向かって歩く。ちょうど中間地点に 達したところに左手のニュージャージー・アヴェニューと交差するあたりであ る。よく見るとそこに三角形の小さな公園がある。公園には桜の木が植えられ,

周りには,日系米人が強制収容された 10 か所の地名や,著名な日系人の碑文,

それに第二次大戦で戦死した 800 人の日系人の名前の刻まれた碑もある。ほぼ 中央にはブロンズの彫像が聳えている。見上げると,2 羽の鶴が鉄条から身を 解き放って,自由の空へ舞おうともがいている。

 この一角は「日系アメリカ人国立愛国記念碑」(the National Japanese-American

Memorial to Patriotism)と名付けられている。入口付近に「1988 年市民的自由法」

(the Civil Liberties Act of 1988 =CLA)の文字が目を惹く。以下にみるように,

1942 年初めに強制収容を強いられた日系人たちの運動の結果,連邦議会が動 き,1988 年に謝罪や補償を盛り込んだ法律が成立した。この米国内務省(the Department of Interior)の国立公園局(the National Park Service)の管轄下に置か れた小さな公園には,第二次大戦で戦った日本人兵士を讚えると同時に,日系 (および市民権を持っていなかった 1 世たち)に対してなされた国家の過ちに対

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して償う意味が込められている。そして,過去に米国政府が行った過ちと日系 人の受難を後世に伝えようとするものである。本稿のタイトル中にある「リド レス」(redress)は「過去に行った過ち(不正)を正す」ことを意味し,「リメ ンムブランス」(remembrance)は「記憶にとどめ,想い起こし,後世に伝える」

意味合いを持つ。

 本稿の主たる問題関心は,太平洋戦争中の強制収容そのものにあるのではな い。何故,そして 1988 年という年に,「リドレス」がなされたかということ,

日系人の「リメンムブランス」の行動が,どのように「リドレス」の結果につ ながり,また,このあと「歴史の記憶」を後世の人びとに伝えていくことがど の程度可能か,ということである。公園は後々まで残るが,そこに込められた 意味が忘れ去られる可能性もあるからである。

 第二次大戦後,日本は米国の同盟国となり,その庇護のもとに置かれた。日 本は軍備を最小限に抑え,防衛で在日米軍の抑止力に頼る構造が生まれた。

1950 年代後半から日本は徐々に経済成長の波に乗り,1970 年代には(西ドイ ツとともに),貿易面で米国を脅かす存在になりつつあった。いわゆる 2 つの「ニ クソン・ショック」が 71 年夏に日本を揺るがしたが,この年,『タイム』誌に 匿名の政府高官(これはモーリス・スタンズ商務長官に擬されている)の「日本は 形を変えた戦争を続けている。日本の目標は世界の制覇だ」といった趣旨の言 葉が踊った。日米繊維摩擦のさなかのことであるが,日米「経済戦争」の用語 がすでに安易に使われる雰囲気に変わっていた。やがて日本の「タダ乗り」論 も登場する。1972 年にはニューヨーク市の労働組合が怒りを込めて米国の星 条旗に “MADE IN JAPAN” と刷り込んだポスターを作った。1980 年代には両 国間の経済摩擦はさらに激しさの度を加える。摩擦の波も繊維から鉄鋼,家電 製品,自動車,半導体へと広がっていく。

 1982 年 6 月 19 日, ヴィンセント・チン事件 (Vincent Chin)が自動車の街 デトロイトで発生した。日本人に間違えられた中国系の若い男性が白人(の失

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業者)2 人から「俺たちの仕事を奪ったのはおまえたちだ」との意味のことを 口走って,言いがかりをつけ口論となった。白人はチンをバーの外まで追いか け,バットで殴り殺した。裁判での 2 人への判決は軽いものだった。一人につ き 3,000 ドルの罰金のみで懲役刑はなかった。アジア系米人たちは「3,000 ド ル払えば,白人はアジア系を殺せるということか」と,やり場のない憤りを表 した。翌年には,全米自動車労組の失業者がマスコミの目前で日本車を叩き 壊した。 1985 年の夏には,権威ある『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』

誌にピューリッツァー賞受賞の経歴をもつベテランのジャーナリストが「日 本からの危険」(Danger from Japan)と題する記事を発表した。著者のホワイト

(Theodore H. White)は「多分,われわれは戦争に勝ったのではない。勝った のは日本だったのではないか」とセンセーショナルに訴えた。1987 年 4 月の『タ イム』誌は「経済戦争」の特集を行った。この 87 年には米国はとくにトゲト ゲしい雰囲気につつまれていた。議会では対日報復法案が提出された。半導体,

FSXをめぐっても日米間は揉めた。7 月には東芝子会社のココム違反事件に 憤激した連邦議員が議会の裏庭でマスコミを呼んで,テレビカメラの放列の前 で東芝製のラジカセなどをハンマーで叩き壊すパフォーマンスを行った。保護 主義的な「スーパー301 条」は翌 88 年に成立した。89 年 9 月,ソニーがコロ ンビア映画を買収したが,『ニューズウイーク』誌は「日本がハリウッドへ侵略」

の見出しを付け,「日本がアメリカの魂を買った」と嘆いた。同じころ,三菱 地所がニューヨーク市のマンハッタンの一等地・ロックフェラーセンターの一 角を買いとった。これはロックフェラー側にとっては好ましい取り引だったが,

一般市民はあの ラジオ・シティ・ミュージックホール やスケートリンク,

そして巨大なクリスマスツリーはどうなるのか,とひどい寂しさと不安を覚え た。「アメリカは日本の植民地になる」というのがメリーランド州選出のある 女性連邦下院議員の口癖となった。

 日本はバブル景気に沸き,日本人は驕り高ぶっていた。政府高官の米国を見

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下すような発言―失言,暴言,舌禍――が相次いだのはこの頃である。中曽根康 弘総理(1986 年),竹下登自民党幹事長(87 年),渡辺美智雄自民党政調会長(88 年),梶山静六法相(90 年)櫻内義雄衆院議長(92 年),そして宮澤喜一総理(同 じく 92 年)だった。それぞれ米国のマスコミ,とくにタブロイド紙で大きく 取り上げられ,議会でも問題にされた。とくに中曽根,渡辺,梶山らの発言の ように米国内のマイノリティを誹謗するようなものは,議会の「黒人議員連盟」

(the Congressional Black Caucus)やヒスパニックスの議員連盟を怒らせた。

 冒頭に戻って,本稿の問題関心である。こうした険悪なワシントンの雰囲気 のなかで,「1988 年市民的自由法」は成立したのである。何故,どのようにして,

一見,相容れないような二つの出来事がみられたのかを考えるのが本稿の課題 である。

Ⅱ 背景

 パールハーバーへの日本軍の奇襲攻撃は 2,000 人余りの兵士と数 10 名の民 間人の命を奪った。そしてそれは何よりも,孤立主義のなかにとじ籠りがちで あった米国人を一瞬にして,一致団結させ,英国側に立って参戦させる働きを した。パールハーバーが 不意討ち 騙し討ち であっただけに,在米日本 人や日系人のなかにスパイが潜んでいるとの猜疑心が強く抱かれた。パニック もあった。日本への憎しみは「敵性」である日系人に向けられた。

 強制立ち退きは,1942 年 2 月 19 日の行政(大統領)命令第 9066 号によって 執行された。直接その執行にあたったのは西部防衛司令官だったドゥイット中 (John L.Dewitt)だったが,かれは「ジャップはジャップだ」 Japs are Japs と,

善良な日本人(一世)や日系市民と疑わしい者とを区別することを拒否した。「山 羊から羊を厳密に分離することは困難」というのが,米国政府の言い分だった。

 「軍事上の必要性」(military necessity),「戦時の必要性」(wartime necessity)

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理由で,米国西海岸の 12 万人が強制立ち退きを命じられ,内陸部の 10 か所の 収容所に閉じ込められた。うち 3 分の 2 は米国市民だった。残りの 3 分の 1 は 当時,市民権を取ることが認められなかった 1 世(「帰化不能外国人」)たち であった。政府はこれらの人たちに対して「外国人および非外国人(aliens and

non-aliens)という奇妙な用語を使った。「市民」(citizens)の言葉を使うには後

ろめたさがあったからである。米国連邦憲法修正第 5 条と第 14 条の明白な違 反であった。第 5 条は「いかなる者も適正な手続きなくして身体,自由,財産 を奪われることはない」と規定,第 14 条は「いかなる者も法のもとにおける 平等な保護を拒否されない」と規定している。

 西海岸 3 州以東には日系人および日本人が少なかったことで,収容所送りは なかった。逆にハワイでは日系人人口の割合が大きすぎて強制収容は不可能 だったし,また仮にそうした場合,ハワイ経済が壊滅する恐れがあった(因み に,カナダのヴァンクーヴァーおよび中南米の日系人も強制収容された)。ドイツ系,

イタリア系が強制収容されることはなかった。

 強制収容のために「民間戦時移住局」(War Relocation AuthorityWRA)が設 置され,初代局長には教育者のミルトン・アイゼンハワー(Milton Eisenhower のちの大統領ドワイト・アイゼンハワーの弟)が就任したが,苦悩の末,早くも 42 年 6 月には辞任し,戦時情報局(OWI)の次官へと転出した。戦後間もない 45 年 9 月の『ハーパーズ』誌で,いち早く強制収容批判の論文が発表されている。

題名は「我々の戦時中の最悪の過ち」というもので,筆者はのちの歴代政権で 上級ポストを占めたユージン・ロストウ(Eugene Rostow)だった。

 行政命令 9066 に署名したローズヴェルト大統領(Franklin D.Roosevelt)は 43 年 2 月 1 日に行ったスピーチのなかで,「アメリカニズムは心の中の問題であ る。アメリカニズムは人種や先祖がだれであったかとは何ら関係ないし,これ までも関係なかった」と述べた。しかし,ローズヴェルトは 1920 年代に雑誌 に発表した小論ですでに 日本嫌い を露わにしていたし,とくに 1930 年代

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に日本が中国へ侵略行為を働いたことに対して,「あのような攻撃的な行動を とる日本人の脳味噌は西洋人の脳と構造が異なっている」といった偏見に満ち た発言もしている。中国での日本軍の暴挙に憤るかれにとっては,強制収容は 良心の呵責を感じる問題ではなかったであろう。

Ⅲ 2 世兵士の活躍

 収容所に入れられた 2 世やハワイの 2 世などの大多数は,自分が米国人であ ると信じており,国家への忠誠心を示す最善の方法は,兵士となって戦場へ行 くことであると考えた。結局 3 万人を越える数の日系の若者が志願兵となっ た。かれらの武勇は伝説的となった。かれらは最初第 100 大隊に編成され,

1944 年初め,イタリアのアンジオに上陸し,カッシーノの戦闘で活躍した。

このあとかれらは新しく組織された,かの有名な第 442 連隊戦闘チーム(442 Regimental Combat Team= 442RCT)に編入された。このときまでに 1,300 人のう ち 900 人の死傷者を出していた。

  442 部隊はイタリア戦線から,フランスの国境を越えて,敵軍の後方のヴォ シジ山中に取り残されたテキサス州の大隊を救い出した。このとき,211 人を 救い出すのに 800 人の死傷者を出している。442 部隊は大戦中 1,222 人の死傷 者(うち 700 人以上の戦死者)を出した。同じく日系の第 522 野砲大隊はダッ ハウ収容所のユダヤ人を救出した。日系人兵士は米軍中最多の勲章を受けた。

トルーマン大統領(Harry S. Truman)は 1946 年 7 月 15 日にホワイトハウスの 庭に 442 部隊の元兵士を招き顕彰式を行った。「君たちは敵と戦っただけでな く,偏見とも戦った――そして君たちは勝ったのだ」とトルーマンは述べた。

 日系人部隊の足跡は,通りの名前や,像として,ヨーロッパの戦場跡に残っ ている。1944 年 10 月に解放されたフランスのブルイエールの町には「442 通 り」がある。イタリアの小都市ピエトラサンタでは,この町を解放した戦功を

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記念して,サダオ・ムネモリ上等兵の銅像が地元市民の資金で建立された(2000 年)

 しかし,米国内の現実は日系人にとってそう甘いものではなかった。まだパー ルハーバーの記憶は生々しかった。床屋に「ジャップの散髪お断り」の張り紙 が貼られるのは普通だった。ハワイ出身のイノウエ大尉(Daniel Inouye―のちの 上院議員)は,戦闘で右腕を失って帰還した。サンフランシスコで床屋に入ろ うとしたら,「ジャップの散髪はしない」と追い出された。

Ⅳ 冷戦と環境の変化

 しかし,時間の経過は,米国市民の反日感情を少しずつ和らげていった。冷 戦が始まり,日本の戦略的重要性が高まった。1951 年 9 月にはサンフランシ スコで対日講和会議が開かれた。また日米安保条約が結ばれ,日本は正式に米 国の同盟国となった。朝鮮戦争(1950 53 年)で,日本の地政学的重要性がより 強く印象づけらた。この戦争の最中の 52 年移民・国籍法(マッカラン=ウオル ター法)(the Immigration and Naturalization Act of 1952)で日系 1 世にもやっと市民 権が与えられた。

 すでに,「1948 年日系アメリカ人避難請求法」(the Japanese-American Evacuation

Claims Act of 1948)が議会で成立していた。しかし,これは領収書などの証明に

もとづいてのみ,失った財産に対して弁償するというものであった。法律は財 産の喪失に対してのみであり,自由や尊厳の喪失に対するものではなかった。

 朝鮮戦争,そしてマッカーシズムのさなかの 1952 年 9 月にもうひとつのマッ カラン法が成立した。「1952 年国内治安法」(the Internal Security Act of 1952 = McCarran-Walter Act)だった。その第一項は「転覆活動防止法」(the Subversive

Activities Control Act)で,国内の共産党員に登録を義務づけるものであった。

問題はその第 2 項だった。 「緊急時における勾留法」(the Emergency Detention

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Act)と呼ばれ,「外からの侵略,戦争,内乱の際,スパイ行為や妨害行為を行 うおそれがあると認められた者について,連邦政府に逮捕,勾留できる権限を 与える」ものであった。この法律は 1942 年の日系人拘束と,コレマツ裁判,

ヤスイ裁判,ヒラバヤシ裁判での連邦最高裁の合憲判決を根拠としていた。ト ルーマン大統領は第 2 項の署名を拒否したが,連邦議会は再度採択し大統領の 拒否権を乗り越えて成立した。この法律の中では,収容所が 6 か所指定された が,皮肉にも,そのうちの 1 か所は日系人の収容されたカリフォルニア州の テゥーレ・レイクだった。

Ⅴ 日系人の心境の変化

 収 容 所 体 験 者 は 口 を 閉 ざ し て い た。 体 験 は「イ エ の 秘 密 事」(a family

secret だったのである。カリフォルニア大学ロスアンジェルス校(UCLA)の「ア

ジア系アメリカ人研究センター」(the Asian-American Studies CenterAASC) を務めるナカニシ教授(Don Nakanishi)は論文のなかで,かれらの心理状態を 次のように説明している。収容所体験は深いトラウマをかれらに残した。かれ らはそれを一家の恥(stigma)と感じた。かれらの心のなかでは,屈辱感から さらには罪悪感にまで変化していった,と言うのだ。イエのなかで体験を語る ことはタブーとなったいた。したがって,その子供たち(3 世)は両親たちの 辛い体験を知らずに成長した。ナカニシはこれをユダヤ人のホロコースト体験 やレイプの被害者と似た体験として捉えている。レイプの被害者は自分が「レ イプされた」と触れ回ったりはしない。戦後のあるユダヤ人家庭で,子供が親 に戦争中何をしていたか,聞いたとき,親は「ヴァケーション」に行っていた と子供に語ったという。収容所に入れられ殺されかけたことは,子供に伝えた くなかったのである。1960 年代初め,UCLAの教壇に立っていたダニエルズ

(Roger Daniels)が日系人の学生にどこで生まれたか聞いたところ,学生は「1943

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年にロスアンジェルスで生まれた」と答えた。これは強制収容のために,あり えないことだが,子供はそのように親に聞かされていたのである。

 1965 年頃から日系人は「模範的少数派」(model minority)とか「静かな(お となしい)少数派」(silent minority)と呼ばれるようになった。この時期には,

アフリカ系米人による公民権運動が高まっており,また「黒人」暴動も発生し ていた。

 日系人もやっとささやかな運動の第一歩を踏み出していた。1969 年 12 月 28 日と 29 日に戦後初めて,日系人がマンザナー(Manzanar)収容施設跡を訪れた。

カリフォルニア州南東部のシエラネヴァダ山脈の麓にあるマンザナーは 10 か 所の収容所の第 1 号だった。この跡地への「巡礼」(pilgrimage)はその後も続 けられることになる。1976 年には日系人の手になる最初の手記が出版された。

ミチ・ウェグリン( Michi Weglyn)による『屈辱の年――知られざるアメリカ の強制収容所』(Years of Infamy: The Untold Story of Americaʼs Concentration Camps)

だった。彼女はアリゾナ州のヒラ川収容所に入れられた。タイトルは言うまで もなく,ローズヴェルト大統領の使った「汚辱の日」(the day of infamy)をもじっ たものである。

 米国一般市民の強制収容に対する認識は,まだ厳しいものがあった。日系ア メリカ市民連盟(the Japanese-American Citizens LeagueJACL)のプロジェクト チームによる 1967 年に行われた世論調査では,48 パーセントのカリフォルニ ア州市民が強制収容を支持した。1948 年の時点ではその数字は 80 パーセント だった。1967 年は強制収容のあった 1942 年から数えてちょうど 4 半世紀を経 ていたわけである。

 そうしたなかでも,1970 年代にはJACLが年次大会を開き始めた。マッカ ラン法の第 2 項は 1971 年に無効となった。世界はすでにデタントの時期に入っ ていた。このマッカラン法の撤廃のための日系人を含む米国市民の運動はこう した雰囲気のなかで実を結んだ。

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 ナカニシは,「日系米人は黒人公民権運動の受動的な受益者」であった,

と 60 年代,70 年代の米国内の変化を評価する。1976 年にはフォード大統領

(Gerald R. Ford)により,行政命令 9066 が正式に撤回された。「その当時われ われが心得ておくべきであったことを,いまわれわれは分かっている。それは 強制立ち退きが間違いであっただけでなく,このような誤りを二度と繰り返し てはならない決意を持つべきであったことである」とフォードは述べた。1977 年 1 月 19 日(フォード大統領の在職最後の日)の恩赦で,戦争中に利敵行為をし たとして禁固刑に処せられていた「トーキョー・ローズ」がフォードにより 自由の身となった。彼女の名はアイヴァ・イクコ・トグリ・ダキノ(Iva Ikuko

Toguri dʼAquino)で,戦争に翻弄された日系人のひとりであった。

 前出のイノウエ大尉はハワイ準州の議員になった。ハワイが米連邦に 50 番 目の州として加入した 1959 年に初代の連邦下院議員になり,63 年から上院議 員を務めていた。しかし,米本土での日系人の政界での活躍は,これからまだ 10 年待たねばならなかった。日系人はまだ「模範的なマイノリティ」だった かもしれないが,もはや「静かなマイノリティ」であることは止めようとして いた。

 ミネタ(Norman Y. Mineta 1931 年生れ)は,カリフォルニア州サンノゼの市長 だったが,1974 年に下院に当選し(民主党),米本土での日系議員第 1 号となっ た。パールハーバー攻撃の少し前に 10 歳の誕生日を祝ったばかりだったが,

ワイオミング州のハートマウンテンの収容所に入れられた。(かれは 2000 年に商 務長官に就任し,アジア系の閣僚第 1 号となった)

 1976 年には日系上院議員が 2 人も誕生した。ひとりは,ハヤカワ(S.I.Hayakawa)

である。1906 年にカナダのヴァンクーヴァーで 1 世の両親から生まれ,米国 のウイスコンシン大学でPh.D,をとり,第二次大戦中はシカゴで過した著名 な言語学者である。1968 年頃の大学紛争の際,サンフランシスコ州立大学の 学長としてとった強硬姿勢が保守派に大いに受けた。1973 年には民主党員か

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ら共和党員へと鞍替えした。1979 年,80 年のイラン人質事件の最中,カーター 大統領に「第二次大戦中にわれわれが日本人に対して行ったように」米国在住 のイラン人全員を強制収容せよ,と主張して,日系米人の怒りを買った。「リ ドレス」運動に対しては,「日系人(日本人)の恥である」と徹底して批判的な 立場をとった。

 もう一人は,民主党員のマツナガ Spark Matsunaga)である。このことで,

ハワイからはイノウエとともに上院議員の 2 名ともが日系(しかも民主党) なった。1916 年にハワイのカウアイ島で生まれた。ハワイ大学を出ると戦争 が勃発。第 100 大隊で戦闘に加わり,二度まで負傷した。復員後,ハーヴァード・

ロースクールでJDを取得(1951 年)。63 年に連邦下院議員となり,先述の「非 常時強制収容所法」(マッカラン法の第 2 項)の廃止を求めた,1971 年法案(撤 廃のため)の起案者になった。また戦争中に没収された銀行預金を日系人に返 還するよう強く要求した。

 1978 年にマツイ(Robert T. Matsui)がカリフォルニア州サクラメントから連 邦下院に当選した。1941 年 9 月生まれで,両親とテューレレイクの収容所に 入ったのは生後 6 か月の乳飲み子のときだった。

 1978 年で特筆すべきことは,第 1 回目の「リメンムブランスの日」(Day of

RemembranceDOR)が催されたことである。この年の感謝祭の週末にワシン

トン州の キャンプ・ハーモニー として知られているプュイアラップ・フェ アグラウンズで行われた。劇作家のチン(Frank Chin)の発案であった。このあと,

毎年,行政命令 9066 が署名された 2 月 19 日の前後に行われることとなった。

JACLは「保守的だ」とみられていたなかで,ワシントン州の支部だけは大変 活動的だった。

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Ⅵ 「リドレス」への始動

 これまでみてきた時代的背景のなかで,「リドレス」を求める動きが徐々に 活発化してきた。しかし,イノウエ議員をはじめ,日系議員は立法化には消極 的だった。余りにも大きな障害があったし,なによりも,日系人は全米人口の 0.3 パーセントにすぎず,日系議員達は 「自分達は日系人だけの代表ではない」

ことに努めてきたし,そうみられたかったのである。イノウエは「困ったネ」

と,日本語で呟き困惑を示した。結局,立法化に踏み切るのではなく,調査委 員会を立ち上げるという妥協案で逃げようとした。

 「戦時民間人転住勾留委員会」(the Commission on Wartime Relocation and Internment of CiviliansCWRIC)設置法案は議会を通過し,カーター大統領(Jimmy R. Carter))は 1980 年 7 月 31 日にこれに署名した。

 「リドレス」には心強い味方がいた。ひとつは,前出の「黒人議員連盟」で あり,その会長のバーク下院議員(Yvonne Braithwaite Burk 民―カリフォルニア州)

やダイマリー下院議員(Mervyn M. Dymally 民―カリフォルニア州)らであった。

もうひとつは,「下院行政法・政府関係司法小委員会」(the House Subcommittee on Administrative Law and Government Relations)であり,その委員長にフランク

(Barney Frank 民―マサチューセッツ州)が就任したことは大変幸運なことだった。

フランクは「民主的行動のためのアメリカ人」(Americans for Democratic Action

―ADA)に属するユダヤ系のリベラル派であった。ハーヴァード大学で学士号 JDとを取得している。ロースクール時代に授業で戦時の日系人をめぐる裁 判である,コレマツ裁判などについて知り,有罪判決を支持した最高裁に憤り を感じた人物でもあった。「リドレス」運動にとっては,まさに天の恵みであっ た。CWRIC 法が成立するうえで小委員会は大きな役割を果たしたのである。

 CWRIC は 9 人の委員で構成されていたが,日系人は一人だけだった。ただ

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し,最高裁判事や国連大使の要職に就くユダヤ系のゴールドバーグ(Arthur J.

Goldberg)もメンバーだったのはやはり幸運だった。調査委員会は全米各地で

積極的に聴聞会を催した。日系人にとって,収容所体験は出来れば忘れてしま いたいことであった。しかし,聴聞会では,「子供たちのために」との気持ち で 1 世や 2 世たちは沈黙を破り始めた。説得されて,聴聞会で初めて体験を口 にした人は多かった。英語をしゃべれない 1 世も一生懸命に語った。聴聞会で は,人前でしゃべり慣れている人ですら,絶句することがあった。自分の夫が 泣いたのを初めて見た妻もいた。

 半面,「リドレス」に反対する意見も出た。著名人としては,戦時中,陸軍 次官だったマックロイ(John J. McCloy)である。かれは 442 部隊の名誉会員だっ た。かれはフィリピン・バターンでの「死の行進」などをあげて,日本軍の残 虐性を訴えた。強制収容は「パールハーバーへの報復」だとも言った。パールハー バー以降の日系人の忠誠心に対して深い猜疑心を抱いており,「もしミッドウェ イ海戦でわれわれが負けていたならば,かれらのうちのある者はヒロヒト側に 寝返ったに違いない」と述べた。

 CWRIC は 1983 年 に 報 告 書『拒 否 さ れ た 個 人 の 正 義』(Personal Justice

Denied)を発表した。その内容から報告書の持った意義の大きさは測り知れな

いものだった。本文中には「行政命令 9066 施行は軍事上の必要性によっては 正当化されない。これらの決定を形づくった大きな歴史的原因は,人種偏見,

戦争ヒステリア,そして政治的リーダーシップの失敗だった」との文章が挿入 された。問題はもはや政府の「過ち」(a wrong)があったかどうか,ではなく,

どのようにこの過ちを正すか,となった。

 1987 年 9 月 17 日は,米国の連邦憲法署名から 200 年目の記念すべき日だっ た。ワシントンのスミソニアン博物館はこれを記念した催し物を行なったが,

テーマは「より完全な統合――日系アメリカ人と憲法」で,10 月にアメリカ 国立歴史博物館に展示が行われた。しかし,『タイム』誌が「経済戦争」を特

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集した年でもあった。

Ⅶ 「不可能な夢」

 連邦の第 100 議会(1987 88 年)は「リドレス」の立法化に取り組むことになっ た。戦時とは言え,市民を多く含む人びとを強制立ち退き,強制収容した事実を,

連邦憲法の条文に照らして見直されることとなった。保守,リベラルの区別な く,その不当性を認めた。87 年 1 月 6 日に下院に提出された法案は 442 部隊 の マジックナンバー をそのままを使った H.R.442 となった。同年 4 月 10 日に上院に提出された法案は S.R.1009 となった。88 年 4 月 20 日,上院 は下院のH.R. 442 に近い形の法案を 69 対 27 で成立させた。「市民的自由法」

(the Civil Liberties Act of 1988 =CLA, Public Law 100 383)の成立である。

 この法律は意図的に 日系人色 を消していた。あくまでも本来の憲法の 精神に訴えたのである。ここにも成功の秘訣があった。8 月 10 日にレーガン 大統領(Ronald W. Reagan)が署名した。88 年は大統領選挙の最中だったが,共 和,民主,両党の候補であるブッシュ副大統領(George H.W. Bush)もデュカー キス・マサチューセッツ州知事(Michael Dukakis)ともに法案への支持を表明 した。また大統領選に出馬したもうひとりの「黒人」候補ジャクソン牧師(Jesse

Jackson)もこれを支持した。

 レーガン大統領は若い頃,意外なところで日系人問題と関係していた。日 系 2 世のカズオ・マスダは 442 部隊の軍曹だったが,44 年にイタリア戦線で 戦死した。45 年マスダ一家はロスアンジェルスの南にあるサンタアナに強制 収容から戻って再出発をしようとしたが,地域住民から脅迫を受けた。カズオ の遺体を埋葬することも出来なかった。ここで米陸軍は動いた。スティルウェ ル将軍(Joseph Stilwell)の計らいで,将校のグループが派遣され,マスダの遺 族に対して正式に勲章を手渡した。このとき,ステートメントを読んだのは,

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レーガン大尉だった。「アメリカは世界の中でもユニークな存在です。人種か ら成り立っているのではなく,生活様式(a way)――理念(an ideal)から成り 立っている唯一の国です…」とステートメントは住民に訴えかけたのである。

レーガン大統領がCLAの署名に際して,読み上げたステートメントには,こ の 1945 年の場面や言葉が盛り込まれていた。

 収容体験者への補償は生存者のみになされ,最年長者から年下の者へ順 次手渡された。最初の式典には 107 歳から 73 歳までの 9 名の日系人が出席 した。ブッシュ大統領の署名した謝罪文をソーンバーギー司法長官(Richard

Thornburgy)が読み上げた。「一定の金銭と言葉だけでは,失われた歳月を取

り戻すことも,苦痛に満ちた経験を消し去ることも出来ません。…過去の過ち を完全に正すことはわれわれは出来ないのです」と,謝罪文は述べた。

 これは, 国家と市民(個人)との和解 という稀に見るケースであった。

しかし,米国内が和解ムードでまとまっていたわけではない。デウイット元司 令官やマクロイ元陸軍次官は納得しないままであった。この二人に共通してい たことは「日本人」と「日系市民」との区別の出来ないことであった。米国市 民の間からは,「パールハーバーの犠牲者にも補償しろ」との声もあがった。

また,ヘイトクライムや嫌がらせが終わったわけでもなかった。

 連邦政府は,深刻な財政赤字のなかで,131 億ドルの支出をすることになっ た。各会計年度ごとに支出額を決め支払われた。82,219 人の生存者が対象に なった。その内,28 人は受け取りを拒否,1,500 人は消息不明だった。生存 者の一人につき 2 万ドル,と言うのは 形ばかり とも言えなくは無かった が,国内世論,財政赤字を考慮すれば政府の誠意は示されたと言えるであろ う。また「歴史の記憶」を伝えていくための教育基金(the Civil Liberties Public Education Fund)も設けられた。

 国家と個人との和解が完全に実現したとは言い切れない側面もあった。ひと つは,フレッド・コレマツ,ゴードン・ヒラバヤシらは,裁判のやり直しを求

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め,裁判は進行中であった。もうひとつは,別の日系人グループから 240 億ド ルを越える額を求めて集団訴訟も起されていた。

Ⅷ 何故,成功したのか?

 冒頭の設問に戻りたい。日系人自身ですらCLAは「不可能な夢」と悲観的 に考えていた。ましてや議会やマスコミで反日感情が高まっていたまさにこの 時期にCLAはどうして成立可能だったのか?日米経済摩擦が激化し,米国人 の反日感情が高まっていたとき, ジャパン・バッシング とヘイトクライム の時期は,CLAの成立および,謝罪や補償支払いの時期に符合する。何故,

こんなことが起こりえたのか? 以下は暫定的ながらも設問に対する筆者なり の解答である。

 (1)CLAは戦時中の問題と結び付けるよりも,むしろ米国憲法上の基本的 人権(修正第 1 条,第 14 条)の問題として取り扱われたため,たんに日系人の 問題では無く,米国市民一般の問題に拡大されて考えられた。CLA(「市民的自 由法」)の名はそれを体現した。日系人という用語は法律名にはひとかけらも 出て来ない。

 (2)冒頭で,あえて言及しなかったが,太平洋戦争で強制立ち退きを強いら れた人のなかに,アラスカのアリュート人とプリビロフ島の人たちもいて,か れらと日系人との連合が成立していた。たんに日系人への補償より枠の広いも のになったのである。

 (3) 日系人色 を薄める努力が終始なされたが,そうは言っても,442 部 隊などの華々しい軍功は,議会やホワイトハウスに多くの支持者を作り出す働 きをした。またそれほど知られてはいないが,日系人による戦争中の情報収集,

諜報活動(military Intelligence ServiceMIS)の貢献も認められた。

 (4)そして何よりも「タイミングと幸運のミックス」と呼んでもよい。とり

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わけCWRICの設置,報告書,その報告書の刊行。またフランク下院議員の下 院小委員会議長就任など,ラッキーな要因が幾重にも重なった。

 (5)日系議員の活躍――イノウエ,マツナガ,ミネタ,マツイ議員らは大変 有能で,活動的な議員であった。またウジフサ(Grant Ujifusa)の存在を見逃す わけにはいかない。かれはワシントンのロビイストであり,レーガンに影響を 与えたと見られる。

 (6)これに加えて,前述のように,アフリカ系やユダヤ系のリベラル派議員 からの支援は不可欠であった。とくにユダヤ系は「ホロコースト」と米国の強 制収容を二重写しに見たに違いない。アフリカ系やラティーノを見下した中曽 根発言などを考えたとき,「黒人議員連盟」やヒスパニクスの議員連盟による 支援は大変貴重なものであった。

 (7)JACL,とくにシアトル支部の「リドレス」運動や「リメンブランス」

への積極的な取り組みも,CLAの成立のきっかけを作ったと言えよう。

 (8)ヒラバヤシやコレマツの再審請求も状況に有利に作用したと思われる。

Ⅸ 将来の課題

歴史の風化?

 冒頭に記したワシントンの日系人記念公園は 2001 年 6 月に完成した。日系 人を主体とした 2 万人の寄付によって造られた。さまざまな記念碑の集まるナ ショナル・モールからさほど離れていない場所に,小さいながら政府から土地 を与えられ,国立公園局の管理下に入ったのは,甚だ幸運であった。第二次大 戦での日系人兵士の活躍とCLAの成立(「リドレス」運動の成果)とを人びとに 思い起こさせるものである。

 ロスアンジェルスのダウンタウン,日本人街のある「リトル・トーキョー」

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には日系米人の博物館と 2 つの日系兵士を讚える記念碑とがある。博物館は「全 米日系人博物館」(the Japanese American National Museum)と呼ばれ,近年,古い 建物から近代的施設へと変身した。この博物館の出自には,韓国系米人のキム 大佐(Young Oak Kim)が大きくかかわった。またマンザナーには記念碑が造ら れ,歴史的な場所として国から指定され,国立公園局の管理下に置かれた。

 しかし,リトル・トーキョーのひとつの戦士記念碑は奥まったところにひっ そりとしており,訪れる人もなく,打ち捨てられた感じになっている。442 部 隊の記念碑の方は表通りに面しているが,ペンキで汚されたとの報道もなされ ている。

 1992 年は,行政命令 9066 の 50 周年の年であった。収容体験者の数はこの 年までに 10 分の 1 以下に減少していた。

 「歴史の記憶」ないしは「リメンムブランス」の問題を考える際に,無視で きないのは,単なる時間の流れだけではなく,「日系人」のアイデンティティ が希薄になっている事実である。ある意味では,これは良いことかもしれない が,強制収容の記憶を風化させないという立場から言えば,大きな懸念材料で ある。日系人社会はもう 4 世,5 世の時代に入ろうとしており,父祖の地,日 本のことに関心が薄れ,日本を一度も訪れたこともない,ないしは行く気もな い者が大量に増えている(しかし,学生たちを年 1 回日本に連れた行く地道な活動を 続けている人もいる)。また inter-ethnic あるいは inter-racial な結婚が日系 人の間で進んでいる。そもそも,全米人口中の日系米人の人口は僅少なもので あるが,とくに 1960 年代後半からはアジア系(中国系,韓国系,ヴェトナム系など)

のなかでの相対的比率も低下している。

アジア系の連帯?アジア系としてのアイデンティティ?

 それならば,逆に「アジア系アメリカ人」のアイデンティティが形成され,

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アジア系の間で連帯感は強まっているかと言えば,必ずしもそうとは言えない。

確かに, マンザナー巡礼 の発案者はフランク・チンであった。また,リトル・

トーキョーの博物館の発案者のひとりはキム大佐であった。このように,日本 だ,韓国だ,中国だ,と拘らない側面が見られる。また ヴィンセント・チン 事件 を題材にしたドキュメンタリー映画「誰がヴィンセント・チンを殺した か?」(Who Killed Vincent Chin?)は,韓国系のチョイ(Christian Choy――ニューヨー ク大学)と日系のタジマ(Renee Tajima)の共同製作で,アカデミー賞にノミネート されたほどである。チン事件の追悼行事もアジア系が多数集まって行なわれた。

 しかし他方で,「日系博物館や記念碑があるならば,中国系米人の博物館や 韓国系のものがあって何故悪い」の論理に沿って,実際に記念碑建立の動きが 出ている。また中国系米人の博物館が造られれば,日中間の「歴史問題」が米 国に持ち込まれることになりかねない。2004 年 11 月に自殺した中国系女性人 権運動家アイリス・チャン(Iris Chang)の『レイプ・オブ・南京――第二次大 戦の忘れられたホロコースト』(The Rape of Nankin: The Forgotten Holocaust of WW

II)(1997)は,史実の不正確さをとくに日本で指摘されたにもかかわらず,米

国でミリオンセラーとなった。「歴史の記憶」の微妙な問題である。これに例 えば日系はどう反応したのであうか。恐らく,反応は多様だったであろう。米 連邦議会に飽くことなく,「慰安婦」問題への日本政府への謝罪を求める議会 決議案を出し続けているホンダ下院議員(Mike Honda,民主党,カリフォルニア州)

は 1941 年 6 月にカリフォルニア州ストックトン生まれとあるから,乳幼児な がら収容所体験がある筈である。筆者の推測の域をで出ないが,ホンダ自身に は “ 日系人 ” としての意識よりも アジア系議員の代表 としての意識が強く,

またアジア系の多い選挙区の有権者向けのパフォーマンスの側面があるのでは ないだろうか。

 アジア系はまとまれるのか?最近the Asian Pacific Islander Americans いう言葉が生まれている。しかし,30 以上のエスニックグループから構成され,

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どれほどのまとまりがあるのかは現在のところ疑問である。政治的影響力もま だとるに足りない。

X リドレスはどこまで可能か?

 近年,オーストラリアのアボリジニーが奪われた土地を政府から取り戻した と言うニュースが報じられた・しかし,米国の場合,例えば,奴隷の子孫が主 体である「アフリカ系アメリカ人」が物質的賠償を受けることは不可能である。

ただし,いくつかの州では「謝罪」がなされてはいる。ハワイ人の主権喪失に 関しては独立運動の動き,土地奪回の運動も無くはないが無理だろう。原住ア メリカ人(the Native Americans,いわゆる「インディアン」)や 1846 年―48 年の米 墨戦争の結果,米領に編入された原住メキシコ人(Chicanos)たちが「リドレス」

を米国政府から獲得することはほとんど考えられない(ただし,合法移民,不法 入国者がメキシコをはじめ中南米諸国より,カリフォルニア,ニューメキシコ,アリゾナ,

テキサスなどに流入し続け,「ラティーノ」人口が増加の一途を辿っている。これは実 質的に失った領土の奪回だ,と冗談まじりに囁かれている。)。日系人の場合はたまた ま,生存者や戦功者がいたこと,また人数の少なさが,「リドレス」を可能に したのだと言えよう。

参考資料

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Amerasia Journal(UCLAthe Asian Americans Studies Centerが刊行する学術誌)

Japanese American National Museum

  http://www.janm.org/general/history.html Manzanar Visitors Center  National Park Service    http://www.nps.gov/manz/

National Japanese American Memorial Foundation   [email protected]

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入江昭,大芝亮編『記憶としてのパールハーバー』ミネルヴァ書房,2004 年

Acknowledgments

 Even for this little piece of work I am indebted to so many people. First and foremost, I must thank my dear friend, Dr. David Yamada, at Monterey, CA. for his friendship, encouragements and valuable advice. My wife and I are praying for his speedy recovery from the cancer. I would like to express my special thanks to Professor Don Nakanishi, director of the Asian-Americans Studies Center at UCLA for granting me an interview and answering many of my questions, and Dr. Barbara S. Gaerlan, Asistant Diretor of Center for Southeast Asian Studies at UCLA for kind assistance. I am grateful to assis- tance provided by the staff at the AASC-UCLA, the head office of the Japanese American Citizens League (San Francisco), and the Japanese-American National Museum (Los

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Angeles). 日本国内では,大津留(北川)智恵子教授(関西大学)と東京大学アジア太平 洋研究センター(駒場)にお世話になった。最後になったが,科研のメンバー各位に 多くの刺激をいただいた。厚く御礼を申し上げたい。

 本稿は平成 14 年度―16 年度科学研究補助金(基盤研究(B)(2))(14320028)「戦争の 記憶とアジア太平洋地域の国際関係」(代表者:大芝亮)の研究助成による成果の一部 である。

参照

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