8
H
ISTORICALC
HART OFK
ANAZAWAU
NIVERSITY金 沢 医 科 大 学 附属結核研究所 金 沢
工 業 専 門 学 校 金 沢
高 等 工 業 学 校 石川県実業補習
学校 教 員 養 成 所 石 川 県 農 業 教 員 養 成 所
青 年 学 校 教 員 養 成 所
石 川 青 年 師 範 学 校
金 沢 高 等 師 範 学 校
石 川 師 範 学 校
昭 和
(『金沢大学概要』1998年から)
大 正 明 治 慶 応 文 久
石 川 県 女 子 師 範 学 校
金 沢 医 科 大 学 附属医学専門部 附属薬学専門部 金 沢 医 学 専 門 学 校 第四高等中学校
医 学 部 薬 学 科 石 川 県 乙 種 薬 学 校
第四高等中学校
医 学 部
石 川 県 甲 種 医 学 校 金 沢 医 学 校
石 川 県 師 範 学 校
石 川 県 第 一 師 範 学 校
石 川 県 金 沢 師 範 学 校
石 川 県
師 範 学 校 第四高等中学校
第 四 高 等 学 校 養 生 所
種 痘 所
金 沢 大 学
Kanazawa University (May,1949 )
( 昭和24年5月 )
沿 革
(昭和19)
(1944)
(昭和19)
(1944)
(昭和12)
(1937)
(大正10)
(1921)
(大正7)
(1918)
(大正12)
(1923)
(明治34)
(1901)
第 四 高 等 学 校
医 学 部
(明治27)
(1894)
(明治20)
(1887)
(明治17)
(1884)
(明治12)
(1879)
医 学 館
(明治3)
(1870)
(慶応3)
(1867)
(文久2)
(1862)
(昭和19)
(1944)
(大正3)
(1914)
(昭和18)
(1943)
(明治16)
(1883) (明治20)
(1887)
(明治27)
(1894)
(明治14)
(1881)
(明治10)
(1877)
(明治7)
(1874)
(大正9)
(1920)
(昭和16)
(1941)
(明治22)
(1889)
(明治17)
(1884)
この本館の建物は開校の5年後に完成された。その直後の写真なので明治25年後頃のものと推定。赤レンガ建てで、明治を感じさせる荘重なこの建物は当時のまま 保存されている。
第四高等中学校本館の全景
(1-1)9
第一章 Ⅰ. 四高の伝統
第一章 Ⅰ. 四高の伝統
1-1
旧金沢城側から現中央公園方向を望んだものと思われる。左奥に四高の本館、右側に時習寮が並んでいる。明治41年に撮影と記録されている。
明治期四高の校舎群
(1-2)1-2
写真裏面には明治28年11月9日、秋季陸上大運動会において「剣舞」の剣舞者・詩吟者を記念撮影したとの説明が記されている。各自の視線方向が個性的だ。
四高生、 最古の記念写真
(1-3)1-3
これも明治末期撮影の1枚。教官控え室のような雰囲気で、教授連は授業の合 間の休憩中か。柱時計左下に外人教師ウォール・ファールト、その左隣に西田 幾多郎の顔も見える。
四高教官室の教授たち
(1-5)明治末期の理科実験室。懸命に顕微鏡を覗き込む姿があるが、ひとりに1台が 行きわたっている様子ではない。貴重品だったのだろう。
ただいま動植物実験中
(1-4)1-5 1-4
10
11
Ⅰ. 四高の伝統
時習寮内、明治末期の寮生目下猛勉強中。門限などの規則も厳しかった そうで、この学生服姿は当時の生活態度を示している。
寮内での試験勉強中の四高生
(1-6)1-6
1886 1887
1889 1892 1893 1894 1895 1901 1906 1907 1915 1923 1940 1941
明治
明治
大正
昭和
中学校令により, 第四高等中学校成立。
第四高等中学校, 金沢に設置。
第四高等中学校開校。
第1回卒業。
本校舎落成。
時習寮開設。
第四高等学校と改称。
北辰会結成。
西田幾多郎ら, 三々塾開設。
南寮火災, 超然主義発生。
南下軍遠征, 柔道優勝。
寮歌「北の都」誕生。
社会思想研究会発足。
北辰報国団結成。
漕艇部, 琵琶湖遭難。
■四高のあゆみ
おもなできごと 月
年 号 西 暦
4 4 10 7 4 10 6 2 4 3 3 10 秋 11 4 19
34
4
15
明治後期のテニスのクラス対抗戦の一場面。周囲の応援合戦の歓声も聞こえそ うだ。
庭球場での熱戦風景
(1-7)こちらは弓道部の部活中のワンショット。これも明治末年撮影だが、大正期に 入ると急速に活動は活発化し、強豪チームに成長した。
弓道場での試射
(1-8)1-7
1-8
12
明治から大正にかけて、西田幾多郎をはじめ有名教授に事欠かなかった。普段気難しい教授連も、運動会ではリラックスした表情を垣間見せた。
運動会における教授と四高生
(1-9)講義中の教室内
(1-10)1-9
1-10
植物学の熊沢正夫先生の整 然とした講義はテキストなしで、
見台にひろげたノートを読みあげ、
ドイツ語の用語と図などを板書す るというものであった。講 義 の 序論( Einleitung)の冒頭は、
「吾人は善美を愛するがごとく真 実(Wahrheit) を愛し、 これを探 究する性質がある」という荘重な ものであった。
(昭和17年秋・理甲卒)
『第4文集・人間の詩』
13
Ⅰ. 四高の伝統
明治26年に落成した講堂は至誠堂と称し、昭和4年に大改築、建物は一新された。
雪の中の至誠堂(講堂)
(1-11)物理教室での3年生の実験風景で、昭和17年に撮影された。左側学生の頭 部は写真の傷ではない。
四高の理科甲類生
(1-12)講義に集中し、目を輝かせる青春の思い出の一頁。インク瓶とペンが机上に見える。
昭和の四高講義教室内
(1-13)1-11
1-12
1-13
14
第1回の高専柔道大会(大正3年)、柔道部は大将を残して決勝で優勝。栄えある7連覇の第1年目を飾った。その時の記念すべき一葉。
伝統・強豪の四高柔道部
(1-14)1-14
1-15 1-16
「北辰会雑誌」は四高の校友会文 芸誌で後に「北辰」と改称。この 第96号(大正12年3月号)は当 初マイヨール「女性裸像」で表紙 が印刷されたが、学校当局から検 閲を受け差し替えられた。マイ ヨール版は貴重誌で石川県立歴 史博物館所蔵。やがて原稿内容 の検閲時代が到来する。
検閲された表紙
(1-15/1-16)15
Ⅰ. 四高の伝統
明治28年に四高の漕艇部が部活を開始した。大正11年以降、毎年六高との定期戦が琵琶湖で開催され、四高生の興奮を誘った。
ボートレース
(1-17)1-17
昭和16年4月6日、前年のインターハイで5回目の優勝を飾り連覇にむけて猛練習中に事故が起こ った。大津市瀬田川でクルー11名は行方不明、5月10日四高講堂で合同慰霊が行われた。翌年の
「北辰」追悼号には文部大臣の弔辞をはじめ、友人たちの追悼文が並んでいる。
琵琶湖遭難の漕艇部員合同葬儀と 「北辰」 (昭17) 追悼号
(1-18/1-19)1-18
1-19
16
昭和10年名古屋での応援団衝突事件までは毎年7月、金沢・名古屋を交互に訪れ て競技した。両市の市民も一部巻き込んで名物行事となった。
八高を迎えての金沢市中行進
(1-21/1-22)名古屋の八高には、ことさら青春の血をたぎらせて対抗した。陸上競技・野球に 始まって、庭球・講演部などもこうした「挑戦状」を突きつけ合った。もちろん、四 高の挑戦状は名古屋に残っている。
八高の 「挑戦状」
(1-20)四高記念祭大運動会の後は、きまって全寮ストームを繰り広げ た。南下軍「啻に血を盛る瓶ならば 五尺の男児要なきも」の 歌声が画面からも聞こえてくるようだ。
記念祭の全寮ストーム
(1-23)1-20
1-21
1-22
1-23
17
Ⅰ. 四高の伝統
昭和14(1939)年の第47回記念祭寮歌の歌詞が拙作「砂丘の仮寝」である。世は滔々と軍国色一色に 染まり, 戦争そのものにも, 私は懐疑的であった。そんな私の心境が, 歌詞に投影されていたことはいなめない。
真偽のほどはさだかではないが, 教授会で, ある教授が「これは反戦思想的ではないか」と発言したとも。作 曲は, 森健二と土田矩仁男の両名。ありがたいことに, この歌は, 四高, 金大関係者だけではなく, 他の寮歌愛 好家の中にも知っている方がいる。
■四高寮歌
「砂丘の仮寝」 について
市川定三 (昭和17年春・文甲卒)
昭和に入って『北辰会雑誌』に対する監視が 強まる一方、前衛的文芸誌『広場』が発刊さ れ、四高社会主義研究会「最強時代」という 学生運動も活発化した。それを観察した評 論家石堂清倫の貴重なメモ。
四高社会思想研究会の活動
(1-25/1-26)1-24
1-25 1-26
18
第一章 Ⅱ. 医科大学の知と技
第一章 Ⅱ. 医科大学の知と技
明治45年3月、現キャンパス(宝町ー旧土取場永町)が市内広坂から移転。新築完成した建物は落ちついた歴史を感じさせるたたずまい。
金沢医科大学の前景
(1-28)明治38年8月、医科大学より一足早く落成した病院は、東大病院に次いで「輪奐の美を尽く」した立派な施設だった。
附属金沢病院の正面
(1-27)1-28 1-27
19
Ⅱ. 医科大学の知と技
1862 1867 1870 1871 1876 1879 1887 1894 1895 1901 1903 1912 1923 1939
文久 慶応 明治
明治
大正 昭和
加賀藩が種痘所(反求舎)を建設。
養生所完成。
金沢医学館と病院が開設。
オランダ人スロイスが, 医学館に着任。
医学館, 金沢医学所と金沢病院に分離。
金沢医学所を金沢医学校と改称。
第四高等中学校医学部設置。
高等学校令により, 第四高等学校医学部と改称。
医学部卒業生に, 「医学得業士」の称号を授与。
医学部を分離し, 金沢医学専門学校と改称。
専門学校令による, 官立の医学専門学校となる。
金沢医学専門学校が小立野新校舎に移転。
金沢医科大学に昇格。
軍医養成の目的で, 臨時附属医学専門部設置。
■医科大学のあゆみ
おもなできごと 月
年 号 西 暦
2 3 3
34
12 14
3 10 2 3 8 11 8 7 5 4 3 7 3 5
明治期の解剖実習室はキャンパス北側奥の独立棟だっ た。白衣の医学生達の実習の様子もうかがえる。
解剖実習室
(1-29)第5回(明治44年)、雨の中の運動会。運動場はキャンパス 北東の金沢監獄側にあり、いつも大盛会だった。
明治の大運動会
(1-30)当時、第一内科山碕幹教授が外来小児患者も診察していたが、その珍しいワンショ ット。
明治末期の小児科外来の診察
(1-31)1-29
1-30
1-31
20
大正期の内科は2部に分かれていたが、腹部内臓は第2部の専門。当時の検査方法とその 水準がわかる。
内科の胃腸検査
(1-33)広い個室に付き添いさんもゆったりとしている。ベットが置かれて おり、これは当時の一等病室。
大正中期の病室と看護
(1-34)1-33
1-34
大正11年、九州大学から赴任した泉吾朗教授は胃腸など内臓外科を担当した。学生たちの真剣な表情がよく撮れている。
泉外科の手術実習
(1-32)1-32
21 大正期、慈善事業家小野太三郎の築いた小野慈善院は金沢市常盤町にあった。
それを援助して若い医師たちが交代で診察活動に携わっていた。
小野慈善院での診察活動
(1-39)献体は医学・解剖実習には不可欠なもので、戦前からこの献体の法要会は大切 な行事だった。医学生たちも数多く参列している。
解剖献体の法要会
(1-40)1-39 1-40
左から十全会の剣道大会(大正2年)、柔道部の練習風景と洋楽部の音合わせ(いずれも大正11年撮影)。
大正期・医学生のクラブ活動3態
(1-36/1-37/1-38)1-36 1-37 1-38
Ⅱ. 医科大学の知と技
大正期の講義で、黒板には「人乳、牛乳」と板書されている。後ろからだが、この時期の看護婦さんたちの白衣が清々しい。
受講中の看護婦
(1-35)1-35
22
昭和9年から待望の新病院建設が開始されたが、6階建て1棟が建設された後、昭和13年 以降国の財政難で後続の計画は頓挫してしまった。
6階建ての新病院棟
(1-41/1-42)1-41
1-42
昭和初期の石川昇教授時代に、第一外科は近代的な外科教室としての体裁 と内容を備えたといわれている。
第一外科の手術実習
(1-43)1-43
戦前から戦後にかけて、法医学教授だった井上先生の名物講義。
撮影は教授就任直後の昭和16年と記されている。
井上剛教授の講義
(1-44)1-44
23
Ⅱ. 医科大学の知と技
19世紀にX線が発見され、大正中期には日本でも医療用にX線写真が利用されるようになった。この頃はまだ大がかりな装置。
昭和10年代前半のレントゲン診断
(1-45)1-47
これも昭和10年代の医学部アルバムから。1学生1台と顕微鏡の普及ぶりがうかがえる。アルバム 中でも対物レンズ部分が拡大されていた。
最新顕微鏡と拡大写真
(1-46/1-47)1-46
1-45
24
25
昭和10年代・医学生の一日
(1-48)1-48
Ⅱ. 医科大学の知と技
明治期、広坂通りにあった師範学校。正面奥に本部、右側に附属小学校の建物が 見える。
石川師範の正門
(1-50)1-49
26
第一章 Ⅲ. 地域の教育を培う師範各校
第一章 Ⅲ. 地域の教育を培う師範各校
1874 1874 1875 1883
1889 1914 1918 1937 1943
1944
1945 明治
大正
昭和
石川県集成学校設置。
石川県師範学校と改称。
石川県女子師範学校設置。
男・女師範学校を合併し, 石川県師範学校と 改称。
師範学校, 広坂通り88番地に移転。
女子部が独立し, 石川県女子師範学校設置。
石川県立農業教員養成所設置。
石川県立青年学校教員養成所改設。
師範学校, 師範教育令により文部省直轄の専 門学校に昇格。
女子師範学校を合併し, 石川師範学校男子・
女子部となる。
金沢高等師範学校設置。
石川青年師範学校設置。
金沢高等師範学校に, 特別科学学級設置。
■師範各校のあゆみ
おもなできごと 月
年 号 西 暦
7
3
12 8 11 5 11
11 4 4 4 3
4
3 4 1
1-50
広坂の学校(旧附属小・中学校キャンパス)を石浦神社側から望んだ全景写真。
明治の師範学校の全景
(1-49)27
Ⅲ. 地域の教育を培う師範各校
左は明治の女子学生、右は大正の女子学生の代表的ファッション・髪型をアップ で御覧願いたい。
師範女子生卒業ファッション
(1-53/1-54)明治24年の卒業写真
(1-51/1-52)上は前身校中最も古くて鮮明な卒 業写真で明治24年撮影。前列に並 ぶ女学生の服装は鹿鳴館の影響か。
前から2列目に加藤 二校長(左か ら4人目)の姿が映っている。左は大 正8年撮影、戦前の代表的な卒業写 真だろう。
1-52
1-51
同様に左は明治の男子学生、右は大正期。戦前・戦後を通じて共通した懐かしい 学生服姿だ。
師範男子生の卒業写真
(1-55/1-56)1-53 1-54 1-55 1-56
28
学帽・詰め襟・高下駄姿、若者らしい笑顔。当時移転して男子師範学校も金沢市野村にあった。
校門と昭和の師範生
(1-58)1-58
昭和15年は50年ぶりの豪雪で、金沢市だけでなく全県に大被害をもたらした。
雪害に各用水の氾濫も加わったという。
豪雪の中の校舎屋根雪下ろし
(1-59)1-59
大正デモクラシーのもとに教育革新がすすみ、一時期ではあったが附属 小学校も自由な雰囲気に包まれた。金沢市野村(現金沢市弥生)の新校舎 から下校する生徒たち。
附属小学生の下校風景
(1-57)1-57
29
Ⅲ. 地域の教育を培う師範各校
厳格な規律の全寮制生活はつらかった。日々の清掃のほか、毎土曜日の室外清掃も。一方、図書閲覧室でくつろぐ時間は楽しかった。
石川師範生の学校生活
(1-62/1-63)黒板にはいかめしい文字で「合理創造精神」等とあ る。静寂の中で、シャッター音だけが響いたか。
教職科目の講義
(1-60)附属小学校での国語の授業実習。教科書を読むかわ いらしい声が聞こえるような一場面。
教育実習中の師範生
(1-61)1-60
1-61
1-62 1-63
30
青年師範の前身の青年学校時代。昼は厳しい農場実習、夜はこうした読書会にと若いエネルギーを発散させた。
輪読会に励む青年学校生
(1-64)1-64
昭和19年5月8日の入学式。戦時下、理数科中等教員養成を目的として金沢高師は急設され、当初市内中村町の学校校舎を転用した。
金沢高師 第1回の入学式
(1-65)1-65
31
Ⅲ. 地域の教育を培う師範各校
大根の間引き作業を終えた女子学生。教師の玉子たちのブルマ姿がまぶしい。戦前としては珍しい光景だ。
農場での実習
(1-66)毎年5月、満開となった校庭の藤棚の下で開かれた。明治期からの伝統の学校行 事で、創作童話や昔話、紙芝居などを聞いた楽しいひととき。
ふじだなおとぎ会(附属小学校)
(1-67)小学校教員用の教材研究をかねての懸命な演技。それを見守る大勢の保護者 たち。前身校に女性の姿が少ないので、あえて3連写した。
女子師範の運動会
(1-68)1-66
1-67
1-68
32
第一章 Ⅳ. 若き薬学徒と学園
第一章 Ⅳ. 若き薬学徒と学園
大正12年4月、金沢医学専門学校薬学科から金沢医科大学薬学専門部となり、昭和4年小立野に校舎が新築された。
昭和初期の薬学科校舎
(1-69)1-69
黒板にはていねいな文字で化学式などが書かれ ている。大正末期の撮影と思われる。
植物成分研究法の講義
(1-70)1-70
33
Ⅳ. 若き薬学徒と学園
これも昭和初期の卒業アルバムから。分析学は当時浅野三千三教授。浅野先生は昭和11年学士院賞を受賞された。
定性分析の実習
(1-72)1-73
1867 1870
1871 1876 1879 1884 1889 1901 1923
慶応 明治
明治 大正
卯辰山養生所内に, 製薬所舎密局附設。
大手町津田玄蕃邸に設置の医学館に, 製薬所 附設。
兼六園内に, 理化学校開設。
金沢医学所薬局学科となる。
金沢医学校製薬学科となる。
石川県甲種医学校に, 乙種薬学校附設。
第四高等中学校医学部薬学科附設。
金沢医学専門学校薬学科となる。
金沢医科大学附属薬学専門部となる。
■薬専のあゆみ
おもなできごと 月
年 号 西 暦
3 3
34 12
10 2
7 8 11 1 4 4
開学祭、相撲大会、弁論大会、送別会にコンパ。行事には事欠かなかったが、こ3
れは園遊会のスナップ。ほお張っているのはおでんか焼き鳥か。
園遊会のスナップ
(1-73)昭和初年の生薬学は林常雄教授の担当。教授の指導のもとに実習が 静かに行われている。
生薬学の実習
(1-71)1-72 1-71
34
四高本館の廊下は訪れる人に人気があり、その写真も目にする機会が多い。この薬学 の廊下は貴重な青春の道。
校舎内の廊下の面影
(1-75)植物採集のための山行。学帽をかぶり詰め襟制服の堅苦しいスタイルで、よい標本はないかと盛んに 物色中。
植物採集の実習
(1-77)1-77
昭和前期の実験時間中、白衣はまだ着用できたが、少々汚 れている感じだ。
坊主頭たちの実習
(1-76)1-76
1-75
薬化学瀬戸文雄教授を囲んで教授先生方の顔が並ぶ。昭和10年代の教官会議の一 端がうかがえる。
教授、ただいま会議中
(1-74)1-74
35
昭和10年代・薬学生の一日
(1-78)1-78
Ⅳ. 若き薬学徒と学園
36
大正9年11月、金沢高等工業学校が設置された。「新しい建築様式」に加えて「模範的な科学設備」を備えていた。
高等工業校舎の全景
(1-79)大正12年6月、諸設備の完成を待って開校式を挙行。盛大 な祝宴のほか、校内の一般開放が行われ、市民に人気を博し た。
開校式典の記念ゲート
(1-80)1-79
1-80
第一章 Ⅴ. 高工・工専の青春譜
第一章 Ⅴ. 高工・工専の青春譜
記念祭には以降度々このスタ式飛行機が登場する。工業学校 にはふさわしいデモンストレーション。
開校記念のフライト(大正14年)
(1-81)1-81
37
Ⅴ. 高工・工専の青春譜
大正13年の卒業アルバムのなかの一枚。有機化学の実習中とだ け説明が付されている。
有機化学の実習室
(1-84)1-84 1-83
さっそうとした測量技師の見習いの活躍。大正末年、背景には 兼六園内成巽閣の門が見え、市内一等地で実習している。
市街での測量実習
(1-83)アルバムには「教官室」とタイトルがあるが、
教官専用の実験室という雰囲気だ。
大正後半期の教官室
(1-82)1-82
38
実習中にもかかわらず学帽をかぶっての作業。腰に下げた日本手ぬぐいが、いかにも昭和前期の学生らしい。
機械に立ち向かう高工生
(1-85)本館前が整備され、そこに続く道や両側 の植林の樹木も形を整え始めている。機 械工学科の火災数年後の写真。
昭和前期の校舎
(1-86)1-86 1-85
39
Ⅴ. 高工・工専の青春譜
通いなれた喫茶店で、ウエートレスに囲まれて憩いのひととき を過ごす。カップの中ははたしてコーヒーだろうか。
馴染みの市内喫茶店で
(1-87)1920 1921
1924
1935 1937 1940 1943 1944
大正
昭和
金沢高等工業学校開校。
第1回入学宣誓式挙行。
校歌誕生。
第1回卒業式。
教授会規則制定。
機械工学科より出火。
臨時別科として, 工業技術員養成科設置。
金沢高等工業学校報国団結成。
工業教員養成所附設。
金沢工業専門学校と改称。
■高工・工専のあゆみ
おもなできごと 月
年 号 西 暦
9
10 11
4 9 3 12 4 8 11 3 4
少し誇らしげに最新のオートバイにまたがる高工生。自動車部の部活中のワン ショット。
オートバイに乗る学生たち
(1-88)昭和10年4月12日早朝、鋳物工場より出火。消防のほか教職員・学生・卒業生 も駆けつけたが学科建物・機械の大半が失われた。
機械工学科の火災現場
(1-89)1-87
1-88
1-89
40
第一章 Ⅵ. 戦争・敗戦そして閉校
第一章 Ⅵ. 戦争・敗戦そして閉校
「整列!」 配属将校の大声の号令が大学グランドにこだまし、学生の表情に緊張感が漂う。
医科大生の軍事訓練
(1-90)1-90
軍事教育が次第に幅を利かせ、体育の授業にこうした手投げ弾 の投擲訓練が行われるようになった。
四高生の軍事訓練
(1-91)1-91
昭和19年末から3カ月間、飛行場建設のた めの勤労動員中の記念スナップ。期間中に 何度か空襲に遭遇したという。
師範生の琵琶湖干拓作業
(1-92)1-92
41
Ⅵ. 戦争・敗戦そして閉校
昭和18年からは理系・教員養成学校以外の在学生を全員入隊させ、学徒出陣の 措置がとられた。そして昭和20年の敗戦を迎える。
本・実験用具よりも銃を
(1-95/1-96)1-96
1-95 1-93
軍事教練は中学校以上の学校で正課として行われたが、昭和に入ると配属 将校が指導を担当するようになった。
深まる戦争の影
(1-93/1-94)1-94
42
金沢高師は昭和25年12月仙石町の理学部校舎に移転、昭和27年8 年間の短い歴史。卒業生は5回まで合計415名を数えた。
高師の門標を撤去して
(1-98)■
「消えた学校」
(1-99/1-100)死んだ父の残したメモに、 四高各学年の成績が書き残されていた。一年終了時 四十人中三十五番、二年が四十一人中三十六番、潔癖に尻から五番目に拘ったら しい。卒業は三十七人中二十五番で、 これには理由がある。
受験指導の教授が、お宅の息子は夢でも見ているのか、東大を受けると寝言を 口にしていると、父に手紙を書いたのだ。元来好きになれない教授だったので、
私なりに猛反撥して卒業成績では七人抜きをやったらしい。
卒業式に先立つ予餞<よせん>会で、嫌味たっぷりに合格したと報告に行く と、 「なにごとにも間違いと奇蹟はある」 とのたまった。間違いと奇蹟は卒業生総 代をも襲っていた。
ポケットに墨書した答辞を差した優等生が、卒業式寸前だというのに、酒に酔 って揺れていた。どうしたんだと聞くと、 答辞を読み上げる相手が伊藤校長では なくなったという。妙な話だと思ったら、 卒業免状を見て謎がとけた。金澤大学 附属第四高等学校と書いてある。学校の肩書などどうでも良いが、 金沢に高等学 校が四つもあったような気分にさせられた。
昭和四年生まれの宿命で、 卒業と同時にその学校が消えた。小学校から大学ま で、例外なしに消えた。あの 赤レンガ は、そんな切ない夢を大事に保存してく れている。
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昭和21年11月、高工創立25 周年の市内橋場町交差点。戦 直後の解放感と自由を、まず 最初に学生たちが満喫した。
戦直後の大ストーム
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