過去時制記号素との共起における
複合過去記号素と単純過去記号素の対立の中和
ディスクールとイストワールの弁別と大過去形
川 島 浩 一 郎*
0 はじめに
複合過去の動詞形と単純過去の動詞形の弁別は,ディスクールとイストワー ルの弁別の指標とされる1.複合過去の動詞形の使用は,ディスクールを特徴 づけると言われる.単純過去の動詞形の使用は,イストワールを特徴づけると 言われる.
(1)On m’a dit
qu’il avait eu des ennuis dans sa jeunesse.(Brigitte Aubert, Funérarium, Collection Points,2
002, p.
389)(2)Son mari m’a dit
qu’elle avait eu un léger malaise.(Brigitte Aubert, Funérarium, Collection Points,2
002, p.
207)(3)Je m’étais retournée
vers Bertrand. Il me regardait et, quand il vit mon sourire, se leva.(Françoise Sagan, Un certain sourire, Collec- tion Le Livre de Poche,
1956, p.
11)(4)Quand Bertrand eut payé les consommations, je me
rendis compte qu’il avait dû pas mal boire.(Françoise Sagan, Un certain sourire,
* 福岡大学人文学部教授
1 デ ィ ス ク ー ル(
discours
)と イ ス ト ワ ー ル(histoire
)に つ い て は,B
ENVENISTE(1966)を参照.
Collection Le Livre de Poche,1
956, p.
54)いわゆる大過去の動詞形は,ディスクールとイストワールの弁別に対応しな い.たとえば(1)や(2)の
avait eu
は,複合過去の動詞形(a dit)と共起 している.(3)のétais retournée
や(4)のavait dû
は,単純過去の動詞形(vit, leva, rendis)と共起している.つまり大過去の動詞形は,ディスクール にもイストワールにも現れることができる.
本稿では,過去時制記号素との共起において,複合過去記号素と単純過去記 号素の完了アスペクト記号素としての対立が中和することを示す.大過去の動 詞形に含まれる完了アスペクト記号素の実現形は,複合過去記号素の実現形で もなければ単純過去記号素の実現形でもなく,原完了アスペクト記号素(複合 過去記号素と単純過去記号素の機能的共通部分)の実現形なのである.大過去 の動詞形がディスクールにもイストワールにも現れうるのは,そのためである.
原完了アスペクト記号素は複合過去記号素と単純過去記号素の対立の外側,言 い換えればディスクールとイストワールの弁別の外側にあると言ってよい.
1 表意単位の対立とその中和 1. 1 表意単位と実現形の対応関係
表意単位とその実現形のあいだに,一対一の対応関係はない.音声面でのあ らゆる違い(声の大きさ,話す速さ,男女差,年齢差,地域差,個人差など)
に着目すれば,同一の表意単位の実現形は無数に存在する.異音同義や同音異 義の事例も少なくない.たとえば(tu)assiedsと(tu)assoisのように,同一 の表意単位が異なる実現形をもつことがある.また
le tour
のtour
とla tour
のtour
のように,異なる表意単位が(音声的な微細な違いを除けば)同じ形で 実現することも珍しいことではない.したがって表意単位の実現形が複数,任意に与えられたとき,それらが同一 の表意単位の実現形であるのか異なる表意単位の実現形であるのかを判定する
2
基準が必要である(1.4を参照).その基準がないままでは,(tu)assiedsと
(tu)assoisを異なる表意単位の実現形だとすることも,le tourの
tour
とla tour
のtour
を同じ表意単位の実現形とすることも,恣意的にできてしまうこ とになる.1. 2 表意単位の実現形としての認定基準(必要条件)
発話のある切片が表意単位の実現形であるためには,少なくとも次の2条件 がみたされることが必要である.条件(a)発話の一部分で,その切片を他の 切片(ゼロ切片でもよい)と入れ換えることができる.条件(b)この入れ換 えによって、発話の知的意味に弁別が生じる.知的意味という用語は,大略,
言語共同体において共有される客観的,離散的な区別にもとづく意味のことを 指す.ゼロ切片は,切片が不在の状態のことである.たとえば(5)と(6)
では,bonと
soleil
を入れ換えることができる.つまり,bonとsoleil
が条件(a)をみたす.また
bon
とsoleil
の入れ換えによって,(5)や(6)の意味 に客観的,離散的な弁別が生じる.つまり,bonとsoleil
が条件(b)をみた す.したがってbon
とsoleil
はそれぞれ,il fait ...という文脈において,表意 単位の実現形だと考えてよい.(5)Il fait
bon.(Éric Faye, Nagasaki, Collection J’ai lu,2
010, p.
48)(6)[...]
, il fait soleil.
(Françoise Sagan,Aimez−vous Brahms..., Collec- tion Le Livre de Poche,
1959, p.
33)最小の表意単位は,記号素(あるいは形態素)と呼ばれる.記号素は,それ 以上小さな表意単位に分節ができない表意単位である.つまり記号素の実現形 の内部において上記の基準をみたす切片は,その記号素の実現形の全体だけで ある.たとえば(5)の
bon
の内部において上記の条件(a)と条件(b)を みたす切片は,bon全体だけである.(5)のbon
が,記号素の実現形だから である.1. 3 表意単位の「対立」を認定するための基準(必要条件)
表意単位の複数の実現形(X,Yと記号化する)が対立すると言われるため には,Xと
Y
が,少なくとも次の2条件をみたすことが必要である.条件(a)X,Y
を,発話の一部分で入れ換えることができる.条件(b)この入れ換え によって,発話の知的意味に弁別が生じる.たとえば(7)のfermés
と(8)の
cernés
は,互いに入れ換えることができる.つまり,fermésとcernés
が条件(a)をみたす.そして
fermés
とcernés
を入れ換えることによって,(7)と(8)の知的意味に弁別が生じる.つまり,
fermés
とcernés
が条件(b)を みたす.したがって(7)のfermés
と(8)のcernés
は,この文脈(j’ai lesyeux ...)において対立すると言ってよい.
(7)J’ai les yeux
fermés.(Sylvie Testud, Il n’y a pas beaucoup d’étoiles ce soir, Collection Le Livre de Poche,2
003, p.
50)(8)J’ai les yeux
cernés.
(Brigitte Aubert,Transfixions, Collection Points,
1998, p.
73)X,Y
が対立するのか対立しないのかについては,文脈ごとの個別の検証が 必要である.ある文脈で対立するX,Y
が,別の文脈でも対立するとはかぎら ない(1.4.1と1.5.1を参照).たとえば,ある文脈において不定冠詞記号素 の実現形である[yn]は,別の文脈では不定代名詞記号素の実現形かもしれ ないし,何らかの固有名詞記号素の実現形かもしれない.あるいは[ynik]の 冒頭部分かもしれない.表意単位とその実現形は,一対一に対応しないのであ る(1.1を参照).不定冠詞記号素の実現形である[yn]は,定冠詞記号素の 実現形である[la]と対立する文脈がある.しかし[ynik]の内部にある[yn]が,定冠詞記号素の実現形の[la]と対立する文脈は存在しない.
4
1. 4 異なる表意単位の実現形であることを検証する基準 1. 4. 1 実現形のあいだに対立がある文脈
表意単位の複数の実現形(X,
Y
と記号化する)が対立する文脈において,そ れらは異なる表意単位の実現形である.つまりX,Y
が次の2条件をみたす文 脈があれば,XとY
を当該文脈において異なる表意単位の実現形であるとみな してよい.条件(a)X,Yを,発話の一部分で入れ換えることができる.条件(b)この入れ換えによって,発話の知的意味に弁別が生じる.たとえば(9)
の
moi
と(10)のsoif
は,当該脈において対立する(1.3を参照).したがっ てmoi
とsoif
は,少なくとも当該文脈(il a ...)において,異なる表意単位の 実現形と考えてよい.(9)Il a
moi.(Fred Vargas, Sans feu ni lieu, Collection J’ai lu,
1997, p.
49)
(10)Il a
soif.
(Sébastien Japrisot,Adieu l’ami, Collection Folio,
1968, p.
80)
(11)Il a
moins froid,[...] .(Jean Echenoz, Je m’en vais, Minuit,
1999/
2001, p.
47)ある文脈で対立する
X
とY
が,他の文脈でも対立するとはかぎらない.たと えば(9)のmoi
と(10)のsoif
は,il a ...において対立する.しかし(1
1)のmoins
に含まれるmoi
は,soifと対立しない.X, Y
が対立するのか対立しないのかについては, 文脈ごとの個別の検証が必要である(1.3と1.5.1を参照).
1. 4. 2 実現形のあいだに対立がない文脈
X,Y
が条件(a)をみたすが条件(b)はみたさない文脈において,XとY
は同一の表意単位の実現形である.これらは,自由変異体の関係にあると言わ れる.たとえばtu t’assieds
とtu t’assois
のように,assiedsとassois
を入れ換 えても発話の知的意味に弁別が生じない文脈にあっては,assiedsとassois
を同じ表意単位の実現形であると考えざるをえない(1.1を参照).
X,Y
が条件(a)をみたさない文脈においては,XとY
が異なる表意単位の 実現形であると言うことができない.ある文脈でX
とY
を入れ換えることが できるためには,その文脈にX,Y
の両方が現れうることが必要である.X,Y のどちらも現れえない文脈では,XとY
の同一性や非同一性ははじめから問題 とならない.存在しないX
を存在しないY
と比較しても意味がないからであ る.またX,Y
のうちの一方だけしか現れえない文脈においても,XとY
の同 一性や非同一性は問題となりえない.このような文脈には,比較対象となるX
(あるいは
Y)が存在しないからである.文脈の一部分で互いに入れ換えるこ
とのできない実現形,たとえばle fils
のle
とune fille
のune
について,それ らを異なる表意単位の実現形であると言うためには,特定の文脈を離れてメタ 言語的な視点にたつ必要がある.1. 5 表意単位の対立の中和
1. 5. 1 機能的共通部分を備えた実現形が現れる対立の解消
ある文脈で存在する対立が別の文脈で消失する現象を「対立の解消」と呼 ぶ.一方に
X,Y(表意単位の実現形)が対立する文脈があり,他方に X,Y
が対立しない文脈があるとしよう(1.3を参照).このとき前者の文脈で存在 したX,Y
の対立は,後者の文脈で「解消」していると考えることができる.後者の文脈で存在しない
X,Y
の対立が,前者の文脈で「出現」すると考えて もよい.いずれにせよ,X,Yが対立する文脈と対立しない文脈があるという 事実にかわりはない(1.3と1.4.1を参照).他の文脈で対立する
X, Y
の機能的な共通部分を備えた実現形が現れうるが,それらの実現形の間に対立が成立しない文脈が存在するとき,後者の文脈にお いて
X,Y
の対立は中和すると言われる2.中和は,対立の解消の下位概念であ2 中和の定義についての詳細は,たとえばMARTINET(1968)やAKAMATSU(1988)を参照.
6
る.X,Yの機能的な共通部分を備えた複数の実現形が互いに対立しうる文脈
(つまり
X,Y
が対立する文脈)にあっては,これらの対立する実現形が異な る表意単位の実現形とみなされる(1.4.1を参照).一方,XとY
の機能的な 共通部分を備えたすべての実現形が互いに対立しない文脈(つまりX,Y
の対 立に中和が生じる文脈)では,それらの実現形を異なる表意単位の実現形と言 うことができない(1.4.2を参照).なおX,Y
の機能的な共通部分を備えた実 現形の間の相違は,単なる音声面での微細な違いであってもかまわない(1.1 を参照).1. 5. 2 対立の中和が成立するための前提条件:排他的連関
X,Y(表意単位の実現形)の対立に中和が成立するには,その前提として,
X
とY
が次の3条件をみたす必要がある.条件(I)X,Yが対立する文脈が存 在する.条件(II)X,Yに機能的な共通部分がある.条件(III)その機能的 な共通部分をもつのが,XとY
だけである.条件(I),(II),(III)ないしは 条件(II),(III)をみたす言語単位の複数の実現形は,排他的連関にあると言 われる.X,Y
が対立する事例がなければ,その対立が中和することもない.中和す べき対立が,存在しないことになるからである.X,Yに対立の中和が成立す るためには,X,Yが対立する文脈と,X,Yが対立しない文脈の両方が必要 である(1.5.1を参照).つまり条件(I)がみたされなければならない.X,Y
に機能的な共通部分がなければ「XとY
の機能的な共通部分を備えた 実現形が現れる」という中和が成立するための一要件がみたされないことにな る.X,Yに機能的共通部分があることは,中和の定義の一部分と考えてよい(1.5.1を参照).つまり条件(II)がみたされなければならない.
X,Y
の他に条件(I)と条件(II)をみたす別のZ
がある場合,X,Yの対 立だけが中和するような文脈は存在しえない.対立が中和する文脈があるとすれば,その中和は
X,Y
の対立の中和ではなく,X,Y,Zの対立の中和である.中和の定義から,この文脈にあっては
Z
もまたX,Y
と対立しないからである(1.5.1を参照).X,Y,Zの対立の中和ではなく
X,Y
の対立の中和だと言う 場合,当該文脈にZ
が現れることが想定されているはずである.しかし,こ の想定は,それがX,Y,Z
の対立の中和であることと矛盾する.このような 矛盾を生じさせないためには,条件(III)がみたされなければならない.1. 5. 3 機能的共通部分の実現形
表意単位の複数の実現形(X,Yと記号化する)のあいだに対立のない文脈 にあっては,これらの実現形を異なる表意単位の実現形だと言うことができな い.ある文脈において
X,Y
が異なる表意単位の実現形であるためには,当該 文脈においてX,Y
が対立することが必要である(1.4.1を参照).X,Yの対 立が中和する文脈にあっては,X,Yを異なる表意単位の実現形とみなすこと ができない(1.4.2を参照).したがって,X,Yに機能的共通部分が存在する場合,X,Yの対立が中和 した文脈に現れる(その機能的共通部分を備えた)実現形は,X,Yの機能的 共通部分の実現形であると考えざるをえない.機能的共通部分がある
X,Y
を 異なる表意単位の実現形であると「言えない」ためには,X, Y
がどちらも,こ の機能的共通部分の実現形でなければならない.X,Yの少なくともどちらか 一方に(X,Yが共有していない)機能的な非共通部分が含まれていれば,こ れらのX,Y
を異なる表意単位の実現形とみなすことが可能だからである.2 複合過去記号素,半過去記号素,単純過去記号素について 2. 1 複合過去記号素,半過去記号素,単純過去記号素の存在
複合過去の動詞形には,複合過去記号素の実現形が含まれる.たとえば(12)
の
ai cherchée
と(13)のcherche
を比べれば,chercheにはない表意単位の8
実現形が
ai cherchée
に含まれていることは明らかである.複合過去の動詞形 を特徴づけるこの切片は,表意単位の実現形としての必要条件をみたしている(1.2を参照).つまり複合過去の動詞形を特徴づける切片は,(13)の
cherche
にみられるように,他の切片(ゼロ切片でもよい)と入れ換えることができる.また,その入れ換えによって発話の知的意味に弁別が生じる.この切片は,記 号素の実現形と考えられる.複合過去の動詞形を特徴づける最小の切片だから である.
(12)Je t’ai cherchée
partout.
(Guillaume Musso,Seras−tu là ?, Collection Pocket,
2006, p.
284)(13)Je te
cherche partout !(Jean−Jacques Sempé & René Goscinny, Le petit Nicolas, Collection Folio,1
960, p.
54)(14)Le patron
était un ami,[...] .(Thierry Jonquet, Du passé faisons ta- ble rase, Collection Folio,
2006, p.
214)(15)Le patron
est un ami.
(Brigitte Aubert,Funérarium, Collection Points,2
002, p.
20)半過去の動詞形には,半過去記号素の実現形が含まれる.(14)の
était
と(15)の
est
を比べれば,estにはない表意単位の実現形がétait
に含まれてい ることは明らかである.半過去の動詞形を特徴づけるこの切片は,表意単位の 実現形としての必要条件をみたす(1.2を参照).つまり,半過去形を特徴づ ける切片は,(15)のest
にみられるように,他の切片(ゼロ切片でもよい)と 入れ換えることができる.また,その入れ換えによって発話の知的意味に弁別 が生じる.この切片は,記号素の実現形と考えられる.半過去の動詞形を特徴 づける最小の切片だからである.(16)Elle
raccrocha.(Françoise Sagan, Aimez−vous Brahms..., Collection Le Livre de Poche,1
959, p.
42)(17)Elle
raccroche.(Tonino Benacquista, Saga, Collection Folio,1
997, p.
143)
単純過去の動詞形には,単純過去記号素の実現形が含まれる.(16)の
raccro-
cha
と(17)のraccroche
を比べれば,raccrocheにはない表意単位の実現形が
raccrocha
に含まれていることは明らかである.単純過去の動詞形を特徴づけるこの切片は, 表意単位の実現形としての必要条件をみたす(1.2を参照). つまり,単純過去形を特徴づける切片は,(17)の
raccroche
にみられるよう に,他の切片(ゼロ切片でもよい)と入れ換えることができる.また,その入 れ換えによって発話の知的意味に弁別が生じる.この切片は,記号素の実現形 と考えられる.単純過去の動詞形を特徴づける最小の切片だからである.2. 2 複合過去記号素:時間的な位置づけをもたない完了アスペクト記号素
複合過去記号素は,完了アスペクト記号素のひとつである.複合過去記号素 とは,複合過去の動詞形を特徴づける最小の切片を実現形とする表意単位のこ とである(2.1を参照).たとえば(18)のPadwell est mort,
(19)のil a repris la route,
(20)のje suis mort
そして(21)のun être qui a compté
における 複合過去記号素の実現形はいずれも,事態が完了していることを明示する.実 際,これらを未完了の事態として解釈することはできない.(18)Padwell
est mort il y a un an et demi.
(Fred Vargas,L’homme à l’en- vers, Collection J’ai lu,1
999, p.
293)(19)Il
a repris la route, maintenant,[...] .(Jean Echenoz, Je m’en vais, Minuit,
1999/
2001, pp.
187−188)(20)Dans un an je
suis mort.
(Fred Vargas,Un lieu incertain, Collection J’ai lu,2
008, p.
182)(21)Un être qui
a compté compte toujours.(Amélie Nothomb, Ni d’Ève ni d’Adam, Collection Le Livre de Poche,2
007, p.
179)複合過去記号素は,時制記号素ではなくアスペクト記号素であるため,それ
10
が表現する事態の時間的な位置づけを特定する表意機能をもっていない.(18)
の
Padwell est mort
で表された事態の成立は,過去時間に位置づけられている.一方(19)の
il a repris la route
は,現在時間に位置づけられている.(20)のje suis mort
によって表される事態は,未来時間に位置づけられている.そして(21)の
un être qui a compté
で表された事態の成立は,過去時間,現在時間,未来時間のいずれにも特定されない.完了アスペクト記号素である複合過 去記号素の使用は,時間による制約を受けないのである.
2. 3 半過去記号素:無標の過去時制記号素
半過去記号素は,過去時制記号素のひとつである.半過去記号素とは,半過 去の動詞形を特徴づける最小の切片を実現形とする表意単位のことである
(2.1を参照).この記号素の本質的な表意機能は,事態に過去性を与えること である.たとえば,半過去記号素の実現形を含む(22)の
était
という動詞形 は,この発話が表す事態が過去時間に属することに対応している.(22)Il
était une heure du matin.
(Maxime Chattam,Maléfices, Collection Pocket,
2004, p.
295)(23)Il
est une heure du matin !(Katherine Pancol, Les yeux jaunes des crocodiles, Collection Le Livre de Poche,2
006, p.
407)半過去記号素は,無標の過去時制記号素である.たとえば,半過去記号素の 実現形を用いた(22)の
il était ...は「過去時間の時刻」を表している.一方
(23)の
il est ...は「現在時間の時刻」を表現したものである.
(22)のil était ...
と(23)の
il est ...の表意的な相違は,事態の時間的な位置づけが過去時間に
あるか現在時間にあるかだけである.(22)における半過去記号素の実現形の 存在意義は,動詞記号素を含む発話が表す事態に過去性を加えることであって,
それ以上でも以下でもない.
2. 4 単純過去記号素:過去時間にのみ適用される完了アスペクト記号素
単純過去記号素は,それが表現する事態を常に過去時間に位置づける.単純 過去記号素とは,単純過去の動詞形を特徴づける最小の切片を実現形とする表 意単位のことである(2.1を参照).単純過去記号素の実現形を用いて表現し た事態は,現実世界においても物語世界においても,過去時間に属するものと して位置づけられることになる.たとえば(24)のelle soupira
は,それが現 実世界の出来事であるか物語世界の出来事であるかにかかわらず,少なくとも 現在時間や未来時間の事態ではありえない.単純過去記号素の使用は,事態の 過去性と常に結び付いている.(24)Elle
soupira.(Françoise Sagan, Aimez−vous Brahms..., Collection Le Livre de Poche,
1959, p.
14)単純過去記号素は,事態の完了を標示する.実際,たとえば(24)の
elle
soupira
を未完了の事態として解釈することは不可能である.(24)から単純過去記号素の実現形を除去した
elle soupire
には,未完了の事態としての解釈が ありうる(これからため息をつくところだ,ため息をついている最中だ,など の解釈).一方,elle soupiraにはその可能性がない.単純過去記号素は,事態 の完了と常に結び付いているのである.以上より,単純過去記号素は,過去時間にしか適用されない完了アスペクト 記号素とみなしてよいことになる.単純過去記号素においては,過去時制であ ることと完了アスペクトであることのあいだに弁別がない.単純過去記号素は
「過去時間にしか適用されない完了アスペクト記号素」であることと「事態の 完了を含意した過去時制記号素」であることが両立する記号素である3.
2. 5 複合過去記号素と単純過去記号素の対立と排他的連関
複合過去記号素の実現形と単純過去記号素の実現形には,それらが対立する
3 単純過去記号素の表意機能的なステイタスについては,川島(2014
b)を参照.
12
文脈が存在する.たとえば(25)の
j’ai compris
に含まれる複合過去記号素の 実現形と(26)のje compris
に含まれる単純過去記号素の実現形は,互いに 入れ換えることができ,この入れ換えによって,それぞれの発話の知的意味に 弁別が生じる(1.3を参照).したがって(25)や(26)は,複合過去記号素 の実現形と単純過去記号素の実現形が対立する文脈であると言ってよい.また,たとえば(27)の
j’ai réussi ...と ce qui ne fut pas ...にみられるように,複合
過去記号素の実現形と単純過去記号素の実現形には使い分けの可能性もある.(25)J’ai compris.(Fred Vargas,
Les jeux de l’amour et de la mort, Édition du Masque,
1986, p.
75)(26)[...]
, je compris :
[...].(Amélie Nothomb, Journal d’hirondelle, Col- lection Le Livre de Poche,2
006, p.
11)(27)J’ai réussi
à obtenir le numéro de son domicile, ce qui ne fut pas une mince affaire.(Marc Levy, La première nuit, Collection Pocket,
2009, pp.
400−401)複合過去記号素と単純過去記号素には,機能的な共通部分がある.複合過去 記号素は,事態が完了していることを標示する完了アスペクト記号素である
(2.2を参照).単純過去記号素は,過去時間にしか適用されない完了アスペク ト記号素である(2.4を参照).つまり複合過去記号素と単純過去記号素は,完 了アスペクト記号素であることを機能的に共有する.
完了アスペクト記号素であるという機能的共通部分をもち,互いに対立する 記号素は,複合過去記号素と単純過去記号素だけである.大過去の動詞形や前 過去の動詞形は,過去時制記号素の実現形と完了アスペクト記号素の実現形を 含む連辞である.前未来の動詞形は,単純未来記号素の実現形と完了アスペク ト記号素の実現形を含む連辞である.接続法過去の動詞形は,接続法記号素の 実現形と完了アスペクト記号素の実現形を含む連辞である.重複合過去の動詞 形は,ふたつの完了アスペクト記号素の実現形を含む連辞である.条件法過去
の動詞形は,過去時制記号素の実現形,単純未来記号素の実現形,完了アスペ クト記号素の実現形を含む連辞である.完了アスペクト記号素として認定でき る(連辞ではなく)記号素は,複合過去記号素と単純過去記号素しかない.
以上より,複合過去記号素と単純過去記号素は,それらの対立に中和が成立 するための前提条件をみたしていると考えてよい.複合過去記号素と単純過去 記号素には,それらが対立する文脈がある.そして複合過去記号素と単純過去 記号素は,排他的連関の関係にある(1.5.2を参照).
3 過去時制記号素との共起における複合過去記号素と単純過去記 号素の対立の中和
3. 1 大過去の動詞形における完了アスペクト記号素と過去時制記号素の実現形
いわゆる大過去の動詞形には,半過去の動詞形にはない記号素の実現形が含 まれる.たとえば(28)のavait fini
という動詞形には,(29)のfinissait
には ない切片が含まれる.この切片は,記号素の実現形としての必要条件をみたす(1.2を参照).つまり他の切片(ゼロ切片でもよい)と入れ換えることができ,
その入れ換えによって発話の知的意味に弁別が生じる.この切片の内部には,
それ以上小さな表意単位の実現形は含まれない.それが記号素の実現形だから である.
(28)À quinze heures, il
avait fini.
(Brigitte Aubert,Funérarium, Collec- tion Points,
2002, p.
51)(29)[...]
; il finissait sa garde dans un quart d’heure.(Marc Levy, Et si c’était vrai..., Collection Pocket,2
000, p.
17)(30)On
a fini par s’arrêter.(Philippe Djian,
37°2le matin, Collection J’ai lu,1
985, p.
148)この実現形は,完了アスペクト記号素の実現形だと考えられる.半過去の動 詞形とは異なり,大過去の動詞形には事態の完了を標示する表意機能が備わっ
14
ているからである.よって(28)の
avait fini
には,完了アスペクト記号素の 実現形が含まれていると言ってよい(2.1と2.2を参照).いわゆる大過去の動詞形には,複合過去の動詞形にはない記号素の実現形が 含まれる.たとえば(28)の
avait fini
という動詞形には,(30)のa fini
には 含まれていない切片が含まれる.この切片は,記号素の実現形としての必要条 件をみたす(1.2を参照).すなわち,他の切片と入れ換えることができ,そ の入れ換えによって発話の知的意味に弁別が生じる.この切片の内部には,そ れ以上小さな表意単位の実現形は含まれない.それが記号素の実現形だからで ある.この実現形は,過去時制記号素の実現形だと考えられる.複合過去の動詞形 と異なり,大過去の動詞形には事態に過去性を与える表意機能が備わっている からである.よって(28)の
avait fini
には,過去時制記号素の実現形が含ま れていると言ってよい(2.1と2.3を参照).以上の分析により,いわゆる大過去の動詞形には完了アスペクト記号素の実 現形と過去時制記号素の実現形が含まれると考えられる.この分析は,大過去 形の用法とよく合致してもいる.大過去形の本質的な表意機能は「完了した事 態」を「過去時間に位置づける」ことにほかならない.
3. 2 大過去の動詞形における複合過去記号素と単純過去記号素の対立の中和
同一の動詞形において,過去時制記号素と共起することのできる完了アスペ クト記号素は,ひとつしかない.たとえば(31)のavait dormi ...や(3
2)のavais promis
のような大過去の動詞形において,過去時制記号素と共起する完了アスペクト記号素は存在する.いわゆる大過去の動詞形には,完了アスペク ト記号素の実現形と過去時制記号素の実現形が含まれると考えてよい(3.1を 参照).しかし,大過去の動詞形に含まれる完了アスペクト記号素の実現形を,
ほかの完了アスペクト記号素の実現形と入れ換えることは不可能である.そこ
に現れうる完了アスペクト記号素は,ひとつしかないからである.
(31)Le petit réveil indiquait15
h
10. Il avait dormi une demi−heure.
(Brigitte Aubert,
Funérarium, Collection Points,2
002, p.
372)(32)Mais tu m’avais promis
!(Martine Dugowson, Mina Tannenbaum, Collection Le Livre de Poche,1
994, p.
105)したがって,過去時制記号素との共起において,複合過去記号素と単純過去 記号素の完了アスペクト記号素としての対立は中和する(1.5.1を参照).過 去時制記号素と共起することのできる完了アスペクト記号素は,ひとつしかな い.よって,当該の文脈において複合過去記号素の実現形と単純過去記号素の 実現形を入れ換えることは不可能である(1.3を参照).当該文脈にあっては,
複合過去記号素と単純過去記号素の対立は成立しえないということになる
(1.4.2を参照).なお複合過去記号素と単純過去記号素は,それらの対立に中 和が成立するための前提条件をみたしている(2.5を参照).
以上の考察から,大過去の動詞形において過去時制記号素と共起する完了ア スペクト記号素の実現形は,複合過去記号素の実現形でもなければ単純過去記 号素の実現形でもないと考えざるをえない(3.3を参照).複合過去記号素と 単純過去記号素の対立が中和する文脈にあっては,このふたつの記号素のあい だに弁別がないからである.複合過去記号素と単純過去記号素のあいだに弁別 のない文脈に,単純過去記号素との弁別を含意した複合過去記号素や,複合過 去記号素との弁別を含意した単純過去記号素が現れるはずがない(3.3を参 照).
3. 3 原完了アスペクト記号素:複合過去記号素と単純過去記号素の機能的共 通部分
複合過去記号素と単純過去記号素の対立が中和した文脈に現れることのでき る完了アスペクト記号素の実現形は,複合過去記号素と単純過去記号素の機能
16
的共通部分の実現形にほかならない.複合過去記号素と単純過去記号素には,
完了アスペクト記号素であるという機能的な共通部分がある(2.5を参照). 複合過去記号素は,時間的な位置づけをもたない完了アスペクト記号素である
(2.2を参照).単純過去記号素は,過去時間にのみ適用される完了アスペクト 記号素である(2.4を参照).したがって,両者には完了アスペクト記号素で あるという機能的な共通部分がある.機能的共通部分をもつ複数の表意単位の 対立が中和する文脈に,この機能的共通部分を備えた実現形が現れる場合,そ の実現形は当該の機能的共通部分の実現形である(1.5.3を参照).
音韻対立の中和における「原音素」をまねて,複合過去記号素と単純過去記 号素の機能的共通部分を「原完了アスペクト記号素」と呼ぶことにしよう4. 複合過去記号素と単純過去記号素はそれぞれ,複合過去記号素と単純過去記号 素が対立することを前提とする完了アスペクト記号素である(2.5を参照). それに対して原完了アスペクト記号素(複合過去記号素と単純過去記号素の機 能的共通部分)は,複合過去記号素と単純過去記号素の対立を前提としない.
いわば,複合過去記号素と単純過去記号素の対立の外側にある完了アスペクト 記号素である.
原完了アスペクト記号素は,複合過去記号素でもなければ単純過去記号素で もない.原完了アスペクト記号素の実現形は,複合過去記号素の実現形と異な るとは言えない表意単位の実現形であるだけでなく,単純過去記号素の実現形 と異なるとは言えない表意単位の実現形でもある.原完了アスペクト記号素の 実現形を複合過去記号素の実現形あるいは単純過去記号素の実現形と入れ換え ることができたとしても,そこに知的意味の弁別は生じないからである(1.4.2 を参照).このような実現形をもつ表意単位が,複合過去記号素でもなければ 単純過去記号素でもないことは明白である(3.2を参照).
4 原音素についての詳細は,たとえば
M
ARTINET(1968)やA
KAMATSU(1988)を参照.3. 4 ディスクールとイストワールの弁別と原完了アスペクト記号素
複合過去の動詞形は,BENVENISTE(1966)において,ディスクール(話,談 話)を特徴づけるとされる.つまり複合過去記号素の実現形の使用は,当該の 発話がディスクールであることの指標であると考えられている.単純過去記号 素については,逆に,その不使用がディスクールの指標となる.
単純過去の動詞形の使用は,BENVENISTE(1966)において,イストワール
(歴史,物語)を特徴づけるとされる.つまり単純過去記号素の実現形の使用 は,当該の発話がイストワールであることの指標であると考えられている.複 合過去記号素については,逆に,その不使用がイストワールの指標となる.
いわゆる大過去の動詞形に含まれる完了アスペクト記号素の実現形は,複合 過去記号素の実現形でもなければ,単純過去記号素の実現形でもない.いわゆ る大過去の動詞形には,完了アスペクト記号素の実現形が含まれると考えてよ い(3.1を参照).この完了アスペクト記号素は,原完了アスペクト記号素に ほかならない(3.3を参照).大過去の動詞形にあっては,複合過去記号素と 単純過去記号素の完了アスペクト記号素としての対立が中和するからである
(3.2を参照).
(33)Il m’a dit
que vous étiez passés chez lui.(Brigitte Aubert, Funérar- ium, Collection Points,2
002, p.
180)(34)L’inspecteur Meats m’a dit
ce que vous aviez fait.
(Maxime Chat-tam, Maléfices, Collection Pocket,2
004, p.
106)(35)Ce qu’il
fit le lendemain : il était allé chercher Françoise à la cam- pagne et n’avait pu m’appeler plus tôt.
(Françoise Sagan,Un certain sourire, Collection Le Livre de Poche,1
956, p.
90)(36)Elle n’ajouta
pas qu’elle avait déjeuné avec lui la veille
[...].
(Françoise Sagan,
Aimez−vous Brahms..., Collection Le Livre de Po- che,
1959, p.
43)18
実際,大過去の動詞形はディスクールにもイストワールにも現れることがで きる.たとえば(33)の
étiez passés
は,ディスクールを特徴づける複合過去 の動詞形(a dit)と共起している.(34)のaviez fait
も同様である.他方(35)の
était allé
およびavait pu
は,イストワールを特徴づける単純過去の動詞形(fit)と共起している.同様に(36)の
avait déjeuné
も,単純過去 の 動 詞 形(ajouta)と共起している.大過去の動詞形に含まれる完了アスペクト記号素 の実現形は,原完了アスペクト記号素の実現形なのである.原完了アスペクト 記号素は,いわば複合過去記号素と単純過去記号素の対立の外側にある.
4 まとめ
複合過去記号素と単純過去記号素の完了アスペクト記号素としての対立は,
過去時制記号素との共起において中和する.したがって,いわゆる大過去の動 詞形に含まれる完了アスペクト記号素の実現形は,原完了アスペクト記号素
(複合過去記号素と単純過去記号素の機能的共通部分)の実現形である.原完 了アスペクト記号素は,複合過去記号素でもなければ単純過去記号素でもない.
(37)J’avais travaillé
comme une bête et j’ai eu les félicitations du jury...
(Anna Gavalda,
Ensemble, c’est tout, Collection J’ai lu,2
004, p.
461)(38)Il
avait tout misé et il a tout perdu.(Guillaume Musso, Que serais−
je sans toi ?, Collection Pocket,2
009, p.
34)(39)Deux heures plus tard, il
fallut réveiller Tom qui s’était endormi pour passer le temps.(Fred Vargas, Les jeux de l’amour et de la mort, Édition du Masque,1
986, p.
55)(40)Brendan
raconta ce qu’il avait découvert.(Thierry Breton & Denis Beneich, Softwar, Collection Le Livre de Poche,1
984, p.
308)実際,大過去の動詞形に含まれる原完了アスペクト記号素の実現形は,ディ スクールにもイストワールにも現れることができる.たとえば(37)において
大過去の動詞形(avais travaillé)は,ディスクールを特徴づける複合過去の動 詞形(ai eu)と共起している.(38)の
avait ... misé
も同様に,a ... perduと 共起する.一方(39)における大過去の動詞形(était endormi)は,イストワー ル を 特 徴 づ け る 単 純 過 去 の 動 詞 形(fallut)と 共 起 し て い る.(40)のavait
découvert
も同じく,racontaと共起する.原完了アスペクト記号素は,いわば複合過去記号素と単純過去記号素の対立の外側(ディスクールとイストワール の弁別の外側)にあると考えてよい.
参考文献
A
KAMATSU, Tsutomu
(1988), The Theory of Neutralization and the Archiphoneme in Func- tional Phonology, John Benjamins.
B
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(1966), Problèmes de linguistique générale, Gallimard.
川島浩一郎(2004)「日本語の促音音素/q/と中和について」『武蔵野美術大学研究紀要』
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)「単純未来,近接未来,近接過去との共起における半過去と単純過 去の対立の中和」『福岡大学人文論叢』45−4,521−541.川島浩一郎(2014
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M
ARTINET, André
(1968), « Neutralisation et syncrétisme », La Linguistique
4−1,
1−20. M
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(1979), Grammaire fonctionnelle du français, Didier.
渡瀬嘉朗(2012)『統辞理論の周辺』三修社.