﹃山海経﹄に見る帝俊説話 ―黄帝説話との比較を中心に― T he N arr ativ es of Di jun
︵
帝 俊 ︶
in “Sh an H ai J in g
︵山 海
Co m pa red w ith t he N arr ativ es of H ua ng di
︵”:
経 ︶ 黄 帝 ︶尹
青 青
要 旨﹃山海経﹄に見る帝俊説話について︑先行研究ではこの人物を舜或いは帝嚳として解釈するが︑客観性が十分であるとは考え難い︒本稿では︑従来の先行研究と相反する視点を仮説に立て︑﹃山海経﹄に見る帝俊説話を検討する︒黄帝とあまり関係性を持たないとされた帝俊だが︑﹃山海経﹄に見る帝俊説話と黄帝説話に関して︑一言で無関係だとは判断できない︒﹃山海経﹄に見る帝俊説話は如何なるものか︑そして黄帝説話とはどのような関係性を持つのか︑これらの疑問を明らかにするのが本稿の目的である︒帝俊の独自性を仮定した上︑﹃山海経﹄に見る帝俊説話では︑帝俊の神格がかなり強調されていることを確認する︒その上で﹃山海経﹄に於いては帝俊説話が黄帝説話より優位に立つと考える︒一方︑黄帝説話が帝俊説話と関係性を持たないとは言えず︑寧ろ帝俊説話を吸収する傾向が見えると推測できる︒その傾向は既に﹃山海経﹄に見えると思われる︒
はじめに
﹃山海経﹄には数多くの説話が収録されている︒従来この書は中国最古の地理誌に位置づけられると同時に怪力
乱神を語る荒唐なもの︑いわゆる妖怪談とされてきた︒一方︑数多くの神々・妖怪を記録する空想的な説話は︑古
代中国各地の神話を反映しているとも認識され︑断片的に伝わってきた中国神話を解読する重要な基礎資料ともさ
れた︒著者は伯益に仮託されるが︑実際は多数の著者の手によるものだと思われ︑現行本は前漢の劉歆︵後に名を
秀に改めた︶が︑当時伝わっていた三十二編の﹃山海経﹄を校訂して十八編として︑晋の郭璞が注を加えたもので
ある
︶1
︵︒
﹃山海経﹄十八編のうち︑山経と呼ばれる五蔵山経︵南山経・西山経・北山経・東山経・中山経︶の五編は︑海経と
呼ばれる残り十三編とはその記述の内容にも形にもかなりの差が存在する︒この点について松田稔氏は以下のよう
に述べている︒
この山経と海経とは︑その記載内容も文体も大きく異なり︑山経の内容は︑山岳間の距離︑山名︑動植物鉱 キーワード﹃山海経﹄︑説話︑帝俊︑黄帝
物︑河川を記す地理的要素に︑その動植物の医薬・呪術的効能︑災厄や豊穣安寧の予兆等の精神生活を示す記
述が︑山系︵山脈︶毎に順序立てて記されていく︒そして各山脈の末尾に山岳祭祀の法を記して次の山系の記
述へと続く︒特に西山経に神格が山岳記述の段階から特記される以外は一定の形に則って記載がなされてい
る
︶2
︵︒
一方海経は︑山経とは文体も内容も異なり︑﹃山海経﹄の伝承者・記録者達の住む中国の中央部よりは︑よ
り外側の地域の国や民︵部族︶の記載及びその地の珍奇な動植物や各種の伝承事項を記し留めている
︶3
︵︒
このように様々な説話が記載された﹃山海経﹄だが︑山経と海経によって説話対象のカテゴリーが異なることは
確認できる︒海経の中でも︑第十四編から第十七編の大荒経及び第十八編の海内経を含む最後の五編の説話は︑他
の編の説話が﹁南西北東﹂という順に従ったのとは違い︑﹁東南西北﹂の順となっているのも︑清の郝懿行が判断
しているように︑﹃山海経﹄を手掛けた人が複数であることを示している
︶4
︵︒一方︑最後の五編は海外︑海内各経の
補足説明であるという考え方に袁珂氏は疑問を示した上︑各編の成書時期に差は無いと判断した
︶5
︵︒また松田氏は
﹃山海経﹄の各編について︑その成立時期のズレが存在するとしても︑﹁その内容は殷王朝︵B.C.一七〇〇頃―一一
〇〇頃︶の影響を強く残存しており︑その伝承内容の多くが中国古代の素朴な民間の思考を示すものである
︶6
︵﹂と述
べている︒
﹃山海経﹄には数多くの帝王が出現する︒黄帝系統の帝王︹黄帝・顓頊・堯・舜・鯀・禹等︺以外にも︑炎帝︑
『山海経』に見る帝俊説話
蚩尤などの帝王はよく知られている︒そうした中で︑別系統とされた帝王の一人︑帝俊の説話について︑袁珂氏は
以下のように述べている︒
帝俊の神話は神話の中では別の系統に属し︑黄帝を中心とする多くの神話とは大きな関係を持たない︒帝俊
は古代中国の東方の殷民族が祭る神であり︑ト辞によく見る高祖夋がこの帝俊である︒帝俊に関する神話は︑
他の古書には見えず︑﹃山海経﹄のみに見える
︶7
︵︒
この黄帝とあまり関係性が無いとされた帝俊だが︑﹃山海経﹄に見る帝俊説話と黄帝説話を見てみると︑聊か違
和感を覚える︒一言で帝俊説話と黄帝説話に関係性が無いとは言い難い︒﹃山海経﹄に於ける帝俊説話は如何なる
ものか︑そして黄帝説話とはどのように関わるのか︑こうした疑問を抱いたのが本稿執筆の発端である︒
本稿は︑﹃山海経﹄に見る帝俊説話に注目する︒帝俊説話と黄帝説話を確認した上で︑帝俊説話の持つ意義を考
える︒諸資料のテクストは主に﹃続修四庫全書﹄︵上海古籍出版社︶所収のものを参照する︒標点は引用者により︑
書名・引用文などの字体は適宜改める︒中国語言説の引用は拙訳にて示し︑必要に応じて原文を注に挙げる︒︹︺
内は引用者による補足を示す︒
一 帝俊について
最初は帝俊について確認する︒帝俊という人物については︑これまで様々な指摘がされている︒﹁俊﹂は﹁舜﹂
の音を借りたものであるため︑帝俊は舜であると郭璞は判断した
︶8
︵︒皇甫謐は﹁帝嚳高辛氏の苗字は姫であり︑その
母親は居なくなった︒生まれた時から神異で︑自分の名は﹃夋﹄であると語った
︶9
︵﹂と述べている︒王国維はこの説
に同意し︑﹁郭璞は帝俊を舜としたが︑皇甫謐が夋を帝嚳の名にした方が適切である
︶10
︵﹂と述べている︒また袁珂氏
は﹃山海経﹄の説話を根拠に挙げ︑郭璞が示した帝俊と舜は同一人物である考えを検証し︑以下のように述べてい
る︒
﹁大荒南経に﹂は﹁帝俊は娥皇を娶った﹂とあり︑舜が娥皇を娶ったのと同じである︒その︹帝俊が舜であ
ることの︺一つ目の根拠になる︒﹁海內経﹂には﹁帝俊は三身を生み︑三身は義均を生んだ﹂とあり︑義均は
即ち舜の子の商均である︒これが二つ目の根拠になる︒﹁大荒北経﹂に曰く﹁丘の周囲は三百里あり︑南には
帝俊の竹林があり︑大いに舟を作ることが出来る﹂︒舜の二人の妃にもまた竹と関係する神話伝説がある︒こ
れが三つ目の根拠になる︒他にも幾つか帝俊が舜であることを証明できる細部はあるが︑ここでは触れないこ
とにする
︶11
︵︒
『山海経』に見る帝俊説話
一見妥当に見える指摘ではある︒しかし︑帝俊と舜が同一人物であると指摘した部分の直後に︑以下のような指
摘が存在する︒
帝俊神話の中で︑顓頊神話と同じものがあることについては︑偶々部分的な神話が同じだっただけで︑帝俊
が即ち顓頊であるとは言えない
︶12
︵︒
この自らの論証を覆すほど正反対な意見には流石に絶句する︒同じ条件を満たすとしても︑ある場合は同一人物
だと判断し︑ある場合は同一人物ではないと判断するのは︑恣意的であると言わざるを得ない︒先行研究による帝
俊の身分解明はかくの如くであるが︑本稿では敢えて帝俊の独自性を仮定する︒少なくとも﹃山海経﹄に見る帝俊
は舜でも帝嚳でもなく︑ほかならぬ帝俊であることを前提に据え︑帝俊説話の考察を試みる︒
二 ﹃山海経﹄に見る帝俊説話
まずは﹃山海経﹄に見る帝俊説話を確認する︒
大荒の中に山がある︒名は合虚といい︑月日の出る所である︒中容の国があり︑帝俊は中容を生んだ︒中容
の人は獣と木の実を食べ︑四鳥︑豹︑虎︑熊︑羆を使う
︶13
︵︒
司幽の国がある︒帝俊は晏龍を生み︑晏龍は司幽を生んだ︒司幽は思士を生んだが︑思士は娶らず︑思女は
嫁がなかった︒黍と獣を食べ︑四鳥を使う
︶14
︵︒
白民の国がある︒帝俊は帝鴻を生み︑帝鴻は白民を生んだ︒白民は銷姓であり︑黍を食べ︑四鳥︑豹︑虎︑熊︑
羆を使う
︶15
︵︒
黒歯の国がある︒帝俊は黒歯を生み︑︹黒歯は︺姜姓であり︑黍を食べ︑四鳥を使う
︶16
︵︒
五彩の鳥がいて︑弃沙に向かい
︶17
︵︑帝俊は下界に降りて︹その鳥と︺友になる︒帝俊の下に二つ壇があり︑五
彩の鳥がそれを司る
︶18
︵︒
大荒の中に不庭の山がある︒滎水はここで尽きる︒三身の人がいる︒帝俊は娥皇を娶りこの三身の国を生ん
だ︒︹三身は︺姚姓であり︑黍を食べ︑四鳥を使う︒四方の淵があり︑四方は遠くまで達し︑北は黒水に繋がり︑
南は大荒に繋がる︒北側は少和の淵といい︑南側は從淵といい︑舜が水浴した所である
︶19
︵︒
襄山がある︒また重陰の山がある︒獣を食べる人がいて︑名は季釐という︒帝俊は季釐を生んだので︑季釐
の国という︒緡淵があり︑少昊は倍伐を生み︑倍伐は緡淵に落とされた︒四方の湖があり︑名は俊壇という
︶20
︵︒
『山海経』に見る帝俊説話
東南海の外︑甘水の間に羲和の国がある︒女性がいて︑名は羲和といい︑甘淵で太陽に水浴びさせた︒羲和
は帝俊の妻であり︑十の太陽を生んだ
︶21
︵︒
西周の国がある︒姬姓であり︑穀物を食べる︒耕作をする人がいて︑名は叔均という︒帝俊は后稷を生み︑
后稷は百穀を降した︒后稷の弟は名を台璽といい︑叔均を生んだ︒叔均は父と伯父の代わりに百穀を播き︑耕
作を始めた︒赤国妻という人がいて︑双山がある
︶22
︵︒
女子が月に水を浴びさせた︒帝俊は常羲を娶り十二の月を生み︑ここで初めて月を水浴びさせた
︶23
︵︒
東北海の外︑大荒の中︑河水の間︑附禺の山には︑帝顓頊と九人の妃が埋葬されている⁝⁝丘の周囲は三百
里あり︑南には帝俊の竹林があり︑大いに舟を作ることが出来る︒竹林の南には赤い湖があり︑名は封淵とい
う︒枝の無い桑が三本ある︒丘の西には沉淵があり︑顓頊が水浴した所である
︶24
︵︒
帝俊は禺号を生み︑禺号は淫梁を生み︑淫梁は番禺を生んだ︒︹番禺は︺初めて舟を作った︒番禺は奚仲を
生み︑奚仲は吉光を生んだ︒吉光は初めて木を使って車を作った
︶25
︵︒
帝俊は羿に朱色の弓と白色の矢を賜い︑下国を助けるようにした︒そこで初めて羿は下界の様々な艱難を憂
えた
︶26
︵︒
帝俊は晏龍を生んだ︒晏龍は琴と瑟を作った
︶27
︵︒
帝俊には子が八人いて︑︹その子達は︺初めて歌謡と舞踊を為した
︶28
︵︒
帝俊は三身を生み︑三身は義均を生み︑義均は初めて巧の匠・倕と ︶29︵なり︑初めて民に様々な農具を広めた︒
后稷は百穀を撒いた︒后稷の孫は叔均といい︑牛耕を創めた︒大比赤陰
︶30
︵は初めて国を作った︒禹と鯀は土工を
施し︑九州を定めた
︶31
︵︒
引用が長くなったが︑考えを進める根拠になるので︑﹃山海経﹄に見る帝俊説話を全て挙げて示した︒見落とし
の残る可能性はあるが︑さしあたりこれらの説話を対象に議論を進めて行く︒まず﹃山海経﹄に見る帝俊説話から︑
次の関係図が成り立つ︒
『山海経』に見る帝俊説話
帝俊妻
娥皇 羲和 常羲
中容 晏龍 帝鴻︵黄帝︶ 黒歯 三身 季釐 十日 后稷 台璽 十二月 禺号 八子 ︵琴瑟︶
︵百穀︶
︵歌舞︶
司幽 白民 義均 叔均 淫梁 ︵農具︶
︵耕作︶
番禺
思士
思女
︵舟︶
奚仲
吉光
︵車︶
以上の関係以外にも以下のことが確認できる︒
・帝俊の後裔は黍や獣を食べて︑四鳥︑豹︑虎︑熊︑羆を使う︒
・帝俊は天界から降りて来て五彩の鳥と戯れる︒下界には帝俊を奉る壇があり︑五彩の鳥がそれを司っている︒
・帝俊は羿に下界を救うように命じた︒
複数の帝俊説話に現れる四鳥︑虎︑豹︑熊︑羆︑については︑帝俊が古代中国の東方殷民族の神であることと関
連すると袁珂氏は解説している
︶32
︵︒また天界から降りて五彩鳥と戯れ︑羿を下界に派遣するなど︑帝俊は上帝として
語られている︒これには商の時代︑殷民族が帝俊を上帝として持ち上げようとした背景が影響した可能性がある︒
これは松田氏が指摘する﹁﹃山海経﹄には︑古代王朝殷の思考が強く残存している
︶33
︵﹂のと一致する︒晁福林氏もこ
の傾向について︑﹁これは商の時代の殷人の考え方であると推測することができる︒殷人が帝俊を天下を治める天
帝にしようとしたのは︑情理にかなっている
︶34
︵﹂と述べている︒
これらの帝俊説話の中で︑﹃山海経﹄に見る帝俊の独自性を反映する説話を二つ確認することができる︒一つは
﹁大荒南経﹂に見る﹁大荒の中に不庭の山がある︒滎水はここで尽きる︒三身の人がいる︒帝俊は娥皇を娶りこの
三身の国を生んだ︒︹三身は︺姚姓であり︑黍を食べ︑四鳥を使う︒四方の淵があり︑四方は遠くまで達し︑北は
黒水に繋がり︑南は大荒に繋がる︒北側は少和の淵といい︑南側は從淵といい︑舜が水浴した所である﹂の説話で
ある︒ここでは帝俊が三身の国を生んだと述べ︑最後に舜が從淵という場所で水浴したと語る︒この説話について︑
『山海経』に見る帝俊説話
袁珂氏は舜の苗字が姚であり︑帝俊が三身を生み出した後にここで舜が水浴したと述べているので︑帝俊は舜であ
るとしているが
︶35
︵︑それは如何にも無理があると思われる︒まず舜の苗字と帝俊の後裔の苗字が同じだからと言って
も︑それだけでは帝俊と舜が同一人物であるという判断は成立しない︒﹁大荒東経﹂では﹁帝俊は帝鴻を生み︑帝
鴻は白民を生んだ﹂と述べている︒郝懿行によると︑この帝鴻は黄帝のことである
︶36
︵︒そうすると︑舜の祖先である
黄帝が帝俊の後裔ということになる︒従って舜の苗字が帝俊の後裔の苗字と同じだからと言っても︑それだけで帝
俊を舜と同一人物であると判断するのは極めて難しいと思われる︒
実際この問題に関して︑郭璞注には﹁姚は舜の苗字である
︶37
︵﹂と﹁舜が嘗てここで水浴した
︶38
︵﹂とあるが︑それ以外
のことは一切語っていない︒そもそもこの説話が既に帝俊と舜を区別して表している時点で︑この二人が同一人物
であると判断するのは客観性が欠けると思われる︒
もう一つの﹁大荒北経﹂に見る﹁東北海の外︑大荒の中︑河水の間︑附禺の山には︑帝顓頊と九人の妃が埋葬さ
れている⁝⁝丘の周囲は三百里あり︑南には帝俊竹林があり︑その広さは船を泳がせることができる︒竹林の南に
は赤い水海があり︑名は封淵という︒枝の無い桑が三本ある︒丘の西には沉淵があり︑顓頊が水浴した所である﹂
という説話からも︑同じ理屈で帝俊と顓頊は別々の存在であることが分かる︒この説話に関しての袁珂氏の説明は
先ほどの﹁大荒南経﹂に見る﹁大荒の中に不庭の山がある⁝⁝﹂の説話の場合とまた大きく姿勢が変わる
︶39
︵︒帝俊が
舜または顓頊と何らかの関係性を持つ可能性は否定できないが︑本稿はあくまでも帝俊の独自性について仮説を立
てるので︑ここでは深く掘り下げない︒
ちなみに﹁大荒西経﹂では帝俊の後裔である后稷の弟台璽の子として現れる叔均だが︑﹁海内経﹂では叔均は后
稷の孫となっている︒この点について袁珂氏は﹁叔均が后稷の弟台璽の子或いは后稷の孫として現れることから︑
とりわけ神話伝説が複雑に錯綜して一致しないことが分かる︒この書を手掛けたのは一人ではなく︑それぞれの伝
聞を記載したものなので︑不思議ではない
︶40
︵﹂と述べている︒いずれにせよ︑帝俊系統の人物として現れる叔均だが︑
後には黄帝説話の一環として現れるように見える︒この点については後程また詳述する︒
このように︑﹃山海経﹄に見る帝俊説話では︑四鳥等を使役し︑下界の五彩鳥と戯れ︑また羿に下界を救うよう
に命じるなど︑上帝としての展開が見られる︒他にも日月を生み出し︑琴瑟・耕作・農具・舟・車・歌舞など︑文
化の発明者の始祖として︑かなり帝俊の神的性質が強調されているように見える︒﹃山海経﹄に見る帝俊説話はか
くの如くであるが︑後世に絶対的な存在感を示す黄帝の場合︑その説話が﹃山海経﹄ではどのように展開している
のか︒次は黄帝説話について検討する︒
三 ﹃山海経﹄に見る黄帝説話
再び引用が長くなってしまうが︑﹃山海経﹄に見る黄帝説話を順次確認して行く︒
また西北に四百二十里行くと︑峚山があり︑その上には丹木が多く︑葉は丸くて茎は赤く︑花は黄色で実は
赤く︑味は飴のようで︑それを食べると飢えなくなる︒丹水が︹峚山から︺出て︑西に流れて稷澤まで注ぎ︑
その中には白玉が多い︒ここに玉膏があり︑勢いよく湧き出ていて︑黄帝は︹玉膏を︺食べた︒そこでは黒玉
『山海経』に見る帝俊説話
が生じる︒玉膏から出たもので︑丹木に注ぎ込む︒丹木は五年経つと鮮やかな五色になり︑五香が香る︒黄帝
は峚山の玉華を取り︑鍾山の陽に投げた︒︹すると鍾山にも︺素晴らしい玉が生まれ︑その玉は堅くて精密で
あり︑艶やか輝かしい︒五色の色を発し︑和を以て剛を和らげる︒天地の鬼神は︹この玉を︺食べた︒君子は
︹この玉を︺飾りとして︑不祥を防いだ
︶41
︵︒
東海の島に神がいて︑人の顔と鳥の体をして︑両耳に黄蛇を着け︑両足には黄蛇を踏まえ︑名は禺虢という︒
黄帝は禺虢を生み︑禺虢は禺京を生んだ︒禺京は北海にいて︑禺虢は東海にいて︑二人は海神である
︶42
︵︒
東海の中に流波山があり︑深さは七千里である︒山の上には獣がいて︑牛の様な形をして︑体が青くて角は
なく︑足は一本で︑水に出入りすると必ず風雨が起こり︑その眼差しは日月の様で︑声は雷のようであり︑名
は夔という︒黄帝はこの獣を得て︑その皮で太鼓を作り︑雷獣の骨で叩いた︒太鼓の音は五百里も響き︑天下
を威圧した
︶43
︵︒
北狄の国がある︒黄帝の孫は始均といい︑始均は北狄を生んだ
︶44
︵︒
係昆の山なるものがあり︑共工の台がある︑射るものは北に向けることを恐れた︒青衣をきている人がいて︑
名は黄帝女魃という︒蚩尤は兵乱を起こして黄帝を討った︒そこで黄帝は応竜に命じて冀州の野で蚩尤を攻め
させた︒応竜は水を貯え︑蚩尤は風伯と雨師をまねいて︑暴風雨をほしいままにした︒黄帝が天女魃を召喚す
ると︑雨が止んでついに蚩尤を殺した︒魃は二度と天に帰ることができず︑居るところには雨が降らない︒叔
均がこのことを黄帝に申し上げたので︑後に︹黄帝は︺魃を赤水の北に住ませた︒叔均はそこで田祖となった︒
だが魃は時々逃げ出すので︑魃を追い払おうとする人は告げた︑﹁神よ︑北にかえりたまえ︑まず水道をきれ
いにし︑大溝小溝をよく浚えよ﹂と
︶45
︵︒
大荒の中に山があり︑名は融父山といい︑順水が流れ込む︒名を犬戎という人がいる︒黄帝は苗龍を生み︑
苗龍は融吾を生み︑融吾は弄明を生み︑弄明は白犬を生んだ︒白犬は両性具有で︑これが犬戎であり︑肉を食
べる︒赤色の獸がいて︑馬の形をしていて首は無く︑名は戎宣王尸という
︶46
︵︒
黄帝は雷祖を娶り︑昌意を生んだ︒昌意は若水に降りて︑韓流を生んだ
︶47
︵︒
九丘があり︑水によって囲まれている︒その名は陶唐の丘⁝⁝木があり︑葉は緑で茎は紫︑花は黒で実は黄
色で︑名は建木という︒百仞の高さまでは枝が無く︑その上には枝が九に曲がり︑下には根が九に曲がり︑入
り組んでいる︒その実は麻のようで︑葉は芒のようである︒伏羲がこの木で天に上った︒︹この木は︺黄帝が
作ったのだ
︶48
︵︒
『山海経』に見る帝俊説話
黄帝は駱明を生み︑駱明は白馬を生んだ︒白馬は鯀となった
︶49
︵︒
これらの説話の中︑対蚩尤闘争に勝利する説話を除けば
︶50
︵︑﹁⁝⁝を生んだ﹂という帝俊説話にもよく見られる展
開が多い︒﹁大荒東経﹂に見る夔の皮で太鼓を作り︑天下を威圧した説話も︑対蚩尤闘争の一環として位置づけら
れる︒海神の禺虢を生み出し︑対蚩尤闘争では天女魃を召喚・応竜を使役する他︑または伏羲が天に上がる時通っ
た建木という大木も︑黄帝が作ったものであると語る︒黄帝説話の神格化は著しいことが確認できる︒最初の﹁西
山経﹂の説話では︑黄帝は食べた玉を使い︑鍾山でまた玉を生み出した︒その玉はあまりにも素晴らしく︑天地の
鬼神が食べるだけでなく︑君子も不祥を防ぐ飾りとして身に着けた︒これはある種の玉の起源譚として捉えられる
が︑黄帝説話の中での機能としては︑やはり黄帝の偉大さをアピールしているのであろう︒この説話は﹃山海経﹄
に見る帝俊説話と黄帝説話の中︑山経に於いてのみ見られるものである︒これには何らかの意味があるかも知れな
いが︑本稿では問題点として取り上げないことにする︒
四 帝俊説話から黄帝説話への移行
ここまでは﹃山海経﹄に見る帝俊説話と黄帝説話について︑それぞれの確認を行った︒続いては説話の移行と考
えられる点について検討する︒
まずは帝俊説話に帝俊の後裔として登場する叔均だが︑﹁大荒南経﹂にはこのような説話がある︒