﹃真 詰 ﹄ と ﹃ 四 十 二 章 経 ﹄
石 井 昌 子
はじめに
『真詰』 と 『四十 二章 経』
7 (1)道教上清派の根本経典である﹃真詰﹄と中国仏教最初の経典とされる﹃四十二章経﹄の関係を指摘したのは南宋の大儒
(2)(3)朱子であるが︑はじめて問題にしたのは胡適氏である︒その後においては松本文三郎氏もまた言及している︒が両氏とも
その研究態度は︑仏教的視点から﹃四十二章経﹄の成立事情を追求しているものである︒同じように﹃四十二章経﹄と道
(4)教経典の関係を問題にしているが︑道教的見地から﹃四十二章経﹄の出現を考えようとしたのが︑吉岡義豊先生である︒
﹃四十二章経﹄成立に関して︑その信実性を問題とした研究成果のほとんどは︑仏教側の検討であり︑資料は出つくされ
ているといえる︒しかし今に至るまで一つの結論に達しているとはいえない︒こういう中で︑﹃四十二章経﹄の成立に対
する検討を︑道教的視点からの立場をとり︑道教の中に﹃四十二章経﹄の類本ともいうべきものが伝承され︑道教教理の
一部を構成する地位に組みこまれていることを︑指摘したのが吉岡先生である︒
その内容は︑﹃四十二章経﹄研究の新資料ともいえる︑道蔵洞玄部戒律類所収の﹃上清衆真教戒徳行経﹄(以下略称﹃徳
行経﹄)上下巻のうち︑上巻が﹃四十二章経﹄と一致していること︑しかも︑﹃真詰﹄の中のものと実によく合致している
ことを指摘している︒そして三本の異同を検討し︑道教の中の﹃四十二章経﹄に引きあてられる部分のみをみて︑一方的
に仏教的視点から批判することは︑かえって真相をあやまることになろう︑ともいわれている︒﹃四十二章経﹄は化俗法
師(この人々は仏教的でもあるし︑道教的でもある︒強いて区別する必要はない)たちのテキストとして成立したものであり︑こ
の経が後に中国最初の仏経として栄誉ある格付を得たことについては︑仏教を中国人の宗教思想の中に完全に受け入れた
という証拠としての意義を︑この経典がになっていたからに外あるまい︒そしてその源流は相当に古い時代に求めなくて
はなるまい︑と結論されている︒
吉岡先生の三本の検討は﹃四十二章経﹄を基としている︒道教の中にいかに引きこまれているかを明確につかむこと
は︑少し無理と思われる︒本稿は﹃真詰﹄を基とし︑﹃真詰﹄の中に︑﹃四十二章経﹄がどのように引きこまれ︑改作され
ているかを検討し︑﹃真諾﹄及び﹃四十二章経﹄の成立事情の一端を考察しようとするものである︒
﹃真詰﹄中の﹃四十二章経﹄
﹃真詰﹄は梁の道士陶弘景が︑上清教の中心経典を整理編修したものである︒その内容は南嶽魏夫人と尊称される霊能者
の神霊が︑衆真とともに霊媒である楊義に︑興寧三年(三六五)に降神したことからはじまる記録である︒陶弘景が茅山
上清派の正系を確立することを目的として編修したもので︑彼の創作したものではない︒そのもとになる記録は︑陶弘景
よりも数十年先輩にあたる顧玄平(顧歓)によって整理され﹃真 ﹄と命名されていた︒顧歓は仕官せず︑隠遁して︑刻
の天台山において学徒を教授した︒道教に加担して仏教を非難した︒﹃夷夏論﹄は彼の著作として有名である︒陶弘景の
記すところによると︑顧歓は道教経典を抄写し︑また諸処を訪ねて道教を求めたという︒彼は道教が偉大な教えであるこ
9『 真諾 』 と 『四十二 章経』
とを誇り︑仏教を排斥した︒その編纂した﹃真 ﹄は︑仙真が楊義に降授した事 を記したものである︒この﹃真 ﹄に
は別に﹃道 ﹄と称する異本も存している︒
陶弘景が﹃真 ﹄を増添︑改修したものが﹃真詰﹄である︒﹁真詰﹂とは真人の口暖した詰という意味である︒陶弘景
は﹁真詰﹂というのは仏教を仏説というのと同じ意味であるとし︑顧歓が﹁真 ﹂と命名したことは不当であることを強
調している︒
現行本﹃真詰﹄は七篇二十巻からなる︒構成は次のとおりである︒
運題象第一(四巻︒楊義と多くの﹁真霊﹂の会合の故事を記す)
弧命授第二(四巻︒多くの﹁真霊﹂の訓戒を記す)
協昌期第三(二巻︒衆真の説く修行の要領︑服御の制度を記す)
稽神枢第四(四巻︒道教の地理︑山水の説明︑洞宅を宣叙す)
閲⁝幽微第五(二巻︒鬼神の宮府︑官司の氏族︑形式の不滅︑善悪の無遺を明かす)
握真輔第六(二巻︒三君ー楊義・許誼・許劒が在世中に自ら記録したもの)
翼真検第七(二巻︒﹁真詰叙録﹂)
七篇二十巻のうち︑前の五篇十六巻は﹁真人の詰﹂で︑後の二篇四巻は三君と陶弘景の在世における記録で︑﹁真詰﹂で
はない︒
﹃真詰﹄中﹃四十二章経﹄を引き入れたと考えられるのは︑﹁瓢命授第二﹂の﹁衆真の教戒﹂の部分︑即ち巻六第六紙の最
初から第十紙四行までと︑その後に続く﹁南嶽夫人所言﹂の一部分である︒この他に︑﹁協昌期第三﹂巻九に︑﹃四十二章
経﹄の﹁経序﹂に相当する部分がある︒次にそれらの部分を︑登場する順に真人名と相当する﹃四十二章経﹄の章をあげ
ておく︒
真人名相当する﹃四十二章経﹄の章
ママ方諸青童見第35
章 ︑
第42章
方諸青童君第40
章 ︑
第41章
西城王君第36〜第39章
太虚真人南岳赤君第4
章 ︑
第5
章 ︑
第8章
太虚真人第9章
紫元夫人第10
章 ︑
第11章 ︑第17章
紫微夫人第14
章 ︑
第20章
玄清夫人第飢立早 ︑第㎝ω立
早 ︑
第茄立早
南極夫人第31
章 ︑
第33
章 ︑
第23
章 ︑
第8
章 ︑
第6章
(南嶽夫人所言)第16
章 ︑
第19章
(巻九第十九紙)﹁経序﹂
﹁南極夫人﹂までが﹁衆霊教戒所言﹂であり︑次に﹁南嶽夫人所言﹂がつづくのであるが︑その冒頭に以下のような一条
がある︒
按此三男真︑二女真︑並高真之尊貴者︑降集甚希︑恐此是諸降者叙説其事︑猶如秋分日瑞台四君吟耳︑非必親受楊君
也︒
この一文は︑前の﹁衆霊教戒所言﹂の説明ということになる︒即ち︑これら三男真︑二女真は︑みな高真で尊貴なる者で
あるから︑降り集まることは甚だ希である︒恐らくは諸降者がその事を叙説したものであろう︒それは秋分の日の謡台に
おける四君の吟のようなものである︒必ずしも楊君に親受するものではない︑ということである︒この説明文は︑本稿を
論じていく上で︑重大な鍵となると思われるので︑二つの部分に分けて解説することにする︒
『真言告』 と 『四十 二章 経』
11
まず︑﹁三男真﹂と﹁二女真﹂についてはじめよう︒この三男真とは﹁方諸青童君﹂﹁西城王君﹂﹁太虚真人﹂のことで
ある︒前に登場した真人の数とも一致する︒
(5)方諸青童君は司命の府である方諸宮を治める総統で︑﹃真霊位業図﹄によると︑﹁東宮九微真人金閾上相青童大君﹂の位
号がある︒東華真入︑東海青童君ともいわれる︒﹃真詰﹄の記述から︑方諸青童君に関するものをひろい出してみる︒茅
山の天市壇には︑昔東海青童君がやってきた麗輪の跡がある(巻+一第+一紙)︒年のうち三月十八日と十二月二日の両日
には総真王君︑太虚真人等と句曲の山で会合し︑洞室を遊看して︑好道の者が神仙を求めようとするならば︑要道を授け
た(巻十一第十三紙)︒易遷・童初の二宮に年に一度やってきて︑群輩を観見した(巻+三第二紙)とも伝えられている︒太
平金閾後聖帝君の上相で四輔の一人である︒
西城王君は東海の人︑方諸青童君の弟子で︑﹃上清後聖道君列紀﹄を伝授された︑といわれている︒金閾後聖李帝君の
四輔の一人︑後聖李君上宰西城宮総真王君である︒﹃真霊位業図﹄では第二左位の第三番目に﹁左輔後聖上宰西城西極真
人総真君(姓王詳遠字方平︑紫陽君弟子︑司命茅君師)﹂として位している︒
太虚真人南岳赤君は﹃真霊位業図﹄では西城王君の前位に﹁左聖南極南嶽真人左仙公太虚真人赤松子(黄老君弟子︑斐君
師)﹂とある︒﹃真詰﹄にも﹁黄老は太虚真人南岳赤君の師であり︑斐は既に赤君を師とする﹂(巻五第二紙)とある︒
以上の三男真が︑﹃真詰﹄の中心的位置である﹁甑命授﹂の篇で﹁教戒﹂を告げているということは︑道教上清派にお
いて重要な役割をもっている真人ということになる︒
次に二女真についてであるが︑﹃真諾﹄の前の記述からみると︑﹁南極紫元夫人﹂﹁紫微夫人﹂﹁玄清夫人﹂の三女真とな
り︑人数が一致しない︒これは現行本﹃真詰﹄が﹁紫元﹂を﹁紫微﹂と誤写したものと考えられる︒﹃無上秘要﹄巻四十
二第十二紙﹁出真話﹂として引用されているものは﹁紫元夫人﹂としてあるからである︒そうなると︑﹁南極紫元夫人﹂
﹁玄清夫人﹂の﹁二女真﹂となり︑数の上からも一致することになる︒
(6)南極紫元夫人は︑﹃歴世真仙体道通鑑﹄によると︑南極王夫人といわれ︑西王母の第四女(第三女ともいわれている)
で︑名は林︑字は容真・紫元夫人・南極元君ともいう︒大丹宮をおさめる︒書を受けて金闘聖君上保司命となる︒漢平帝
時︑陽洛山石室中に降りて︑清虚王君に﹃太上宝文﹄等三十巻を授けた︑とある︒﹃真霊位業図﹄では︑第二女真位の二
十三番目に﹁後聖上保南極元君紫元夫人﹂として位している︒金閾後聖李帝君の四輔の一人﹁後聖李君上保太丹宮南極元
君﹂はこの南極紫元夫人を指している︑と考えられる︒
玄清夫人は﹁北海六微玄清美人﹂といわれる︒﹃真詰﹄においては︑南嶽夫人が楊義に衆真の次第位号を述べている中
では︑第二位である(巻一第四紙)︒陶弘景は注記で﹁衆真の位号はさきにいうものをもって︑高いものとする﹂とあるか
ら︑高真ということになる︒
以上の三男真︑二女真のうち︑方諸青童君︑西城王君︑南極紫元夫人の三真が金閾後聖李帝君の四輔であるということ
(7)(8)は︑種民思想とのかかわりの上からも問題となることである︒﹃道君列紀﹄や﹃太平種民定法本起﹄に四輔は次のように
出ている︒
後聖李君上相方諸宮青童君
後聖李君上保太丹宮南極元君
後聖李君上傅白山宮太素真君
後聖李君上宰西城宮総真王君
種民思想については︑後述するので︑ここには略す︒
第二に解説すべき問題は︑五真人の所言は秋分の日の謡台における四君の吟のようなもので︑必ずしも楊君に親受する
ものではない︑ということについてである︒﹁秋分の日の璃台における四君の吟﹂とは︑晋の興寧三年(三六五)秋分の日
に︑青童大君︑太虚真人︑西城真人王君︑小有真人王君の四君が︑瑠台において会い︑各言を吟じ︑玄鉤広詔の絃声に和