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【学位論文審査の要旨】

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【学位論文審査の要旨】

一 論文の目的

本論文は、風土記における「中央」と「地方」をめぐって新たな解釈を提示し、それに よって風土記を読み直すことを目的とする。

現存の風土記は、太政官の命令によって地方の国々から提出された国状の報告書であっ た。『続日本紀』和銅六年(七一三)五月二日の条には、ヤマト政権が各国に対して地誌 の撰上を命じた記事があり、そこには次のように記されている。「畿内七道諸国郡郷の名 に好字を著けよ。その郡内に生ずる、銀・銅・彩色・草木・禽獣・魚虫等の物は、具に色 目を録し、及び土地の沃塉、山川原野の名号の所由、又古老の相伝ふる旧聞異事、史籍に 載せて言上せよ(原文は漢文)」。この官命に応じて提出された、各国からの報告書が、

現存風土記であると考えられている。

ただし、この時の官命により提出された文書が、すぐさま現存の風土記であると断定で きないのは、官命の文書中に「風土記」という語が見られず、また各国から提出された文 書にも「風土記」という語が見られないからである。たとえば、報告書は、官命に応じた

「解文、解状」(『常陸国風土記』)であり、「風土記」という名称を有してはいなかっ た。つまり、提出された地方の報告書は、最初から「風土記」という名称を持っていたわ けではなかったのである。

しかし、にもかかわらず、この時の報告書が現存風土記と考えてよい理由は、現在伝わ っている風土記がこの詔に近い時期に記述・提出されていること、また各国の風土記が太 政官の命令に沿った内容で記述・作成されていること、あるいは歴史書や注釈書などに、

和銅の官命により成立した風土記として引用されていること、などである。このような理 由によって、和銅六年の官命によって提出された地方の報告書が、現存風土記であると認 められるのである。

現在伝わっている風土記は、五ヶ国(『播磨国風土記』、『常陸国風土記』、『出雲国 風土記』、『豊後国風土記』、『肥前国風土記』)のみであって、しかも完全な形で伝え られているのは『出雲国風土記』だけである。他の四ヶ国の風土記は、前後が欠けている ものや省略本である。したがって、この五ヶ国の現存の風土記(中世以降の風土記と区別 して、古風土記ともいう)、それと「風土記逸文」が、論文の提出者である佐竹美穂の主 たる研究対象ということになる。

風土記は、水戸藩が大日本史の編纂作業の過程で早くからその伝本の収集を行なってい たが、独立した古典として研究されるようになったのはそう古いことではない。初期には

『古事記』『日本書紀』『万葉集』の研究のための資料として注目された。風土記には、

記紀、万葉などに見られない「地方」の実態が書かれているというわけである。風土記は

「地方」の視点で編述された文献であり、そこには「中央」とは異なった、「地方」の社 会や文化、あるいは民衆生活の実態が書かれていると考えられた。

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ところが風土記における「地方」に関して、研究者は以上のような考えに疑問を持ち始 める。風土記の執筆・編集は、『常陸国風土記』などから見ると、国司が編纂の責任者で あったと考えられるが、彼らが報告している風土記の「地方」は、「地方」そのもの、

「在地」そのものであると考えてよいのか、という疑問である。風土記を編纂した人物が 明らかなのは『出雲国風土記』だけであるが、風土記の編纂作業を考えれば執筆・編纂者 は相当の知識人であることは疑いなく、風土記における「地方」とは、少なからず「中 央」の目を通した「地方」なのではないかというのである。風土記における「地方」をど のように考えるかというのが、研究史上重要な問題となった。

この問題に関して佐竹は、風土記の「地方」は「中央」との関係によって考えるべきだ と主張する。佐竹によれば、風土記における「地方」は「中央」との関係性として存在し ている。風土記の「地方」は、実態としての「地方」ではなく、「中央」との関係によっ て選ばれ描かれる世界だというのである。たとえば、風土記の説話に登場する「国造」

は、「地方」に対する「中央」の役割を担う存在として登場しており、それは歴史学的な 研究において指摘されている「国造」とは異なっていると指摘している。そして佐竹は、

風土記における「国造」という存在を、説話における「中央」の役割という観点から具体 的に読み解いている。こうしたことは「国造」だけの問題でなく、風土記における「地 方」は、「中央」との関係によって記述されると、佐竹はいう。このように、本論文にお いて佐竹は、「中央」と「地方」の関係性という新たな解釈を提示し、それによって風土 記の読み直しを行なっている。

二 論文の構成

論文の構成については、以下にその目次を示す。

序章

第一部 風土記における「中央」と「地方」の関係性①ー「地方」を治める者たちー

第一章 『常陸国風土記』の「国造」ー「遣」わされる国造の祖の説話からー 1.はじめに

2.先行研究

3.那賀の国造の初祖・建借間命

4.新治の国造の祖・比奈良珠命

5.おわりに

第二章 『常陸国風土記』の「池」ーその記述をめぐってー

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1.はじめに

2.沼・泉・井との比較から見る「池」の特徴

3.夜刀の神の説話と「池」

4.「遣」わされた者たちと「池」

5.おわりに

第三章 『豊後国風土記』総記ー「豊国直等が祖菟名手」の書かれ方からー 1.はじめに

2.『豊後国風土記』に関する先行研究

3.『豊後国風土記』総記の「菟名手」①

ー『日本書紀』景行天皇十二年条との比較ー

4.『豊後国風土記』総記の「菟名手」②

ー『肥前国風土記』総記との比較ー 5.おわりに

第四章 『肥前国風土記』における「遣」わされる官人

ー「神代直」と土蜘蛛の関わりの記述からー

1.はじめに

2.彼杵郡「神代直」の説話

3.土蜘蛛と「玉」

4.天皇の土蜘蛛への対し方との違い

5.おわりに

第五章 『肥前国風土記』値嘉の郷の土蜘蛛の記述ー阿曇連百足との関係からー 1.はじめに

2.阿曇氏について

3.値嘉の郷の条における「土蜘蛛」の役割

4.土蜘蛛・白水郎と阿曇氏

5.おわりに

第六章 『播磨国風土記』賀古郡「丸部臣等が始祖比古汝茅」の説話分析 1.はじめに

2.先行研究

3.「丸部」の「臣」

4.「吉備比古・吉備比売」と「丸部臣等の始祖比古汝茅」

5.おわりに

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第二部 風土記における「中央」と「地方」の関係性②ー「地方」の神を祭る者たちー

第一章 『肥前国風土記』佐嘉郡「県主等の祖大荒田」の伝承ー土蜘蛛との関わり からー

1.はじめに

2.佐嘉郡条の説話内容

3.先行研究

4.「県主等の祖大荒田」と「土蜘蛛、大山田女・狭山田女」と荒ぶる神の祭祀

5.「世田姫」と「海の神」

6.おわりに

第二章 『常陸国風土記』久慈郡賀毗礼の高峰の説話を読むー「片岡の大連」と「立 速男命」の関係性からー

1.はじめに 2.先行研究

3.「天つ神」を祭る祭祀者としての「片岡の大連」

4.官人としての「片岡の大連」 と「片岡の大連」の二面性

5.賀毗礼の高峰 6.おわりに

第三章 『播磨国風土記』揖保郡意此川条を読むー「出雲の御蔭の大神」と「額田 部連久等々」の関係性からー

1.はじめに 2.荒ぶる神の祭祀

3.「出雲の御蔭の大神」の子孫としての「額田部連久等々」

4.「遣」わされた者としての「額田部連久等々」

5.神の祭祀 6.おわりに

第四章 『出雲国風土記』意宇郡母理郷条を読むー大穴持命の位置からー 1.はじめに

2.先行研究

3.「命」さす・「依」さす神としての大穴持命 4.「世」と「皇御孫命」

5.「出雲国造神賀詞」奏上の儀礼と「玉」

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6.おわりに

終章

三 論文の内容

序章

風土記を研究史的に眺め、これまでの風土記研究を詳細に概観する。そして特に風土記 の「地方」をめぐる研究に言及し、これを研究史的に批判し問題点を指摘する。すなわ ち、風土記は官命によって編纂された地誌であることも大きく影響して、初期には「地 方」における貴重な実態を記録している書物であると考えられていた。風土記が独立した 古典として評価されるようになるのはかなり新しいことであるが、風土記の価値は、初期 においては「地方」の実態を伝える資料性におかれていたのである。たとえば、記紀や万 葉などとは異なった地方の実態が記録されている点で、記紀や万葉を資料的に補うという 観点から風土記は注目されていたのである。

しかしやがて、編集者や記述者などの視点から、こうした素朴な「地方」観に疑問がも たれるようになる。風土記における「地方」は、「地方」の実態ではなく、あくまで「中 央」の目を通した「地方」なのではないか、という疑問である。

風土記における「地方」という問題について、佐竹美穂は、風土記の「中央」と「地 方」は関係性において存在していると主張する。風土記の「地方」は、「中央」との関係 によって考えるべきことを提起しているのである。これは風土記における「説話」だけで なく、「中央」が明確に書かれていない場合でも、風土記の「地方」は「中央」との関係 性において考えるべきことを、佐竹は序文で提起している。

第一部 風土記における「中央」と「地方」の関係性①ー「地方」を治める者たちー

第一章 『常陸国風土記』の「国造」ー「遣」わされる国造の祖の説話からー 歴史学の研究によれば「国造」は、地方の族長がヤマト政権によって官位を与えられ、土 地の支配権を保障されたものだとされる。しかし、『常陸国風土記』の記述における「国造」

は、「祖」の時代に「遣」わされた者として書かれている。ということは、もとからその地 を治めていたのではなく、中央からやって来た者として書かれているのである。歴史学の研 究では「国造」は地方の族長だが、風土記の記述ではそれとは異なっており、あくまでも

「祖」の時代に地方に「遣」わされた者として描かれ、もとは「中央」側の者であることが 強調されているのである。

『常陸国風土記』の「国造」の説話を見ていくと、賊を討伐し、井戸を掘るといった記述 とともに書かれている。先行研究においては、このような「国造」は「英雄的」・「始祖神 話」的だと指摘されている。しかし、賊を討伐したり井戸を掘るということは、同じく『常

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陸国風土記』の「倭武天皇」の記事にも見られ、ひとり「国造」のみが「英雄的」・「始祖 神話」的に書かれているのではない。倭武天皇の記事と「国造」の記事を比較すると、語ら れ方に違いが見られるのである。「国造」の記事には倭武天皇の記事には書かれない、賊(国 巣)側の抵抗が書かれ、井戸を掘る記事では、倭武天皇は他者をして井戸を掘らしめるのに 対し、「国造」の場合は自ら掘ることが記述される。このことは、「国造」が「天皇」より も土地との交渉が深い書かれ方になっていることを示している。「国造」と「天皇」の記事 の書かれ方には違いがある。「国造」の記事内容を検討すると、「天皇」の記事よりも土地 との距離が近いことが指摘できる。

第二章 『常陸国風土記』の「池」ーその記述をめぐってー

古代の文献では「池」はそこに自然にあるものではなく、人工的に「築造」されるもので ある。『古事記』『日本書紀』において「池」は、聖帝とされる天皇の事業として行われ、

すべて滞りなく築造が成ったというように書かれている。『常陸国風土記』の「池」の記述 は、「中央」から「遣」わされた者が「地方」において「造る」ものだという型に貫かれて いる。そして「池」の築造は、築造の際に土地の神の抵抗に遭うことが書かれており、これ は記紀には見られない記述のあり方である。

『常陸国風土記』の「池」は、「高向の大夫」「壬生連麿」「当麻の大夫」、「軽直里麻 呂」といった人々によって築かれているが、彼らはすべて「中央」から「遣」わされた者と して登場する。このうち「高向の大夫」と「当麻の大夫」は「国宰」で、「軽直里麻呂」は

「藤原の内大臣」の「封戸」を見に遣わされたと書かれる。この三名によって築造された

「池」の周りには「佐伯」などの「中央」に反逆する者の記述が見られる。同じく水に関す る施設である「井」には、そこに集い、憩う人々の姿が書かれるが、「池」にはそういった 記述はなく、「池」が必ずしも土地と親和的なものとしては書かれていない。このことが最 も良く表れているのが「国造」である「壬生連麿」の記事であり、そこでは「池」の築造に あたって「夜刀の神」の抵抗があったことが記されている。同じく「中央」から「遣」わさ れた者が「地方」に作るものとして書かれていても、「池」の「築造」記事は、「地方」と の関係性によって記述に違いがある。

第三章 『豊後国風土記』総記ー「豊国直等が祖菟名手」の書かれ方からー

『豊後国風土記』は『日本書紀』と文辞を共通することなどから、『日本書紀』との密接 な関係が指摘されてきた。本章で見る総記に登場する「菟名手」の名も『日本書紀』に見え ており、『日本書紀』との関連を示す存在として指摘されている。『豊後国風土記』は総記 という、その書物を代表する箇所で、「中央」の書物にも見える人物を国の領主として位置 付けている。これもまた、「中央」との関係で「地方」を記述する一例であるといえよう。

『豊後国風土記』の「菟名手」は、天皇の詔によって豊国の統治を任される存在として書 かれている。『日本書紀』の「菟名手」は「国前臣の祖」として登場し、天皇の命によって

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筑紫地方の視察をし、土地の「賊」を捕え誅する者と書かれている。『豊後国風土記』の「菟 名手」も『日本書紀』の「菟名手」も天皇の命によって土地と関わる者として書かれている が、『豊後国風土記』に記された「菟名手」の書かれ方を見ると、『日本書紀』の「菟名手」

の在り方とは異なる点がある。『豊後国風土記』の「菟名手」は農耕に関わる瑞祥を目撃す る人物として書かれ、また、菟名手(うなで)は「溝(ウナテ)」とも同定できる名である ことから、農耕に関連する豊穣を司る土地の支配者として描こうとしていると考えられる。

『豊後国風土記』の中で「菟名手」は、天皇に土地の支配を委任された存在であり、その点 では「中央」側の存在として土地を支配する者として書かれている。ただし一方で、農耕に 関係する瑞祥を見たり、また農耕施設を名に持つなど土地の領主としての人物造形もなさ れており、土蜘蛛を誅するだけの『日本書紀』の「菟名手」と比べて「地方」との距離が近 いものとして語られている。

第四章 『肥前国風土記』における「遣」わされる官人ー土蜘蛛との関わりの記述か らー

『肥前国風土記』彼杵郡には、天皇の「陪従」である「神代直」が土蜘蛛を捕えるために 遣わされた記事が見える。天皇の「陪従」であり「遣」わされたと書かれている点で、「神 代直」は「中央」側の人物として位置付けられている。一方、「神代」は肥前国内の地名に も同名があり、また「直」が地方豪族に与えられた姓であることから考えると、「神代直」

は土地の豪族としての名を持つ者として書かれている。そのような人物を『肥前国風土記』

は、「遣」わされた者として、「中央」との関わりの中で書いていく。この話も、これまで 述べてきた、「中央」との関わりで「地方」の領主を書く書き方の型によって記述している 例である。

また、「神代直」は土蜘蛛を「捕」えるために遣わされたと書かれているが、実際行うの は土蜘蛛から玉を奪うという行為である。『肥前国風土記』において天皇や皇子の記事で土 蜘蛛はすべて「誅滅」の対象となっているのに対して、「神代直」が行ったのは土蜘蛛の所 有する「玉」の収奪であり、土蜘蛛への対し方が異なっている。土蜘蛛が持つ玉は、「石上 の神の木蓮子玉」と書かれ、神祭祀との関連が指摘されている。同じく『肥前国風土記』の 佐嘉の郡の条では、土蜘蛛から荒ぶる神の祭祀方法を伝授されるという説話が語られてい るが、これに照らすと、当該説話も、「玉」を奪うと書くことで土蜘蛛から祭祀を奪うこと を記した記事だと考えられる。土蜘蛛に対して、「誅滅」するのではなく、その土地の祭祀 ごと奪うという対し方になっている。このことは、「神代直」が土地の豪族としての名を持 っていることとも関わるだろう。一見「中央」側の者として「地方」の土蜘蛛に対している ように書かれる「神代直」だが、「地方」の首長としての物語をも負っていると考えたい。

土地の首長として「神代直」を見るとき、土地の者たちを祭祀ごと取り込むという形で土地 の支配を確立していく、そういった「神代直」像をこの説話では形成している。「天皇」の、

土蜘蛛=「地方」への対し方と、「神代直」の、土蜘蛛=「地方」への対し方は、同じ「地

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方」を相手取っていても位相を異にしたものとなっている。風土記の説話における「中央」

と「地方」の関係性は一様ではないことが、この説話からも見て取れる。

第五章 『肥前国風土記』値嘉の郷の土蜘蛛の記述ー阿曇連百足との関係からー

『肥前国風土記』値嘉の郷には、命を助けられる代わりに天皇に鰒の加工品を奉ることを 約束する土蜘蛛の説話が見える。この土蜘蛛を捕える役割を負っているのが「阿曇連百足」

である。「阿曇連百足」は天皇の「陪従」として視察に「遣」わされた者として登場する。

本説話もまた、「中央」から「遣」わされた者を通して「地方」を書く説話の一つの例であ る。阿曇氏は、中央の儀式書によると内膳司として天皇に海産物を奉る氏族であることが記 されている。値嘉の郷条で土蜘蛛の役割として書かれている事柄はそのまま土蜘蛛を捕え たと書かれる阿曇氏の役割でもあったということである。中央において天皇と阿曇氏との 関係で捉えられている事柄を『肥前国風土記』では天皇と土蜘蛛との関係として書き、そこ に阿曇氏を関わらせるという形を取る。阿曇氏を「中央」の使者として、土蜘蛛を「地方」

の収奪の対象として、両者を関わらせるという方法で「地方」像を作り上げていると言える。

当条には「白水郎」の記述もあり、先行研究では土蜘蛛のことを指すとされてきた。白水 郎は海の産物を採る者たちであり、鮑の加工品を献上することを語る当条の土蜘蛛との類 似が認められるためだ。しかし、「白水郎」から産物の献上が書かれることはなく、「土蜘 蛛」の役割として書かれる。ここからも、「土蜘蛛」は土地の幸を貢上する存在として記述 されていることが分かる。「土蜘蛛」は当条において、阿曇氏と「白水郎」の役割であると ころの貢上をするという役割を一身に負う者たちとして記述されていると言える。『肥前国 風土記』で「天皇」に海産物を献上する者たちは「土蜘蛛」と記述されたのである。そして 重要なことは、土地の産物を献上する存在として書かれる場合には「阿曇連百足」のような、

天皇との間を介在する者の存在が登場することである。「阿曇連百足」が介在するとき、「土 蜘蛛」は「誅滅」の対象ではなく土地の幸を献上する者たちとして書かれることになる。こ れは、「阿曇連百足」と土地との距離が天皇よりも近く記されているためと考えられる。「中 央」から「遣」わされた者であり、海産物を奉る役割を負うという「地方」性を帯びた「阿 曇連百足」が「土蜘蛛」と「天皇」の間に介入する記述を作ることで、「土蜘蛛」は「天皇」

と交渉可能な者となる。値嘉の郷の「土蜘蛛」の記述からも、「中央」との関わりで複雑に 変化する「地方」の記述の様態が確認できる。

第六章 『播磨国風土記』賀古郡「丸部臣等が始祖比古汝茅」の説話分析

『播磨国風土記』の賀古郡に、「国の堺を定め」るために「遣」わされた「丸部臣等が始 祖比古汝茅」という人物のことが記述されている。この人物は「吉備比売・吉備比古」に「参 迎」えられ、「吉備比売」と婚し、その間に産まれたのが「印南の別嬢」であるとされる。

「印南の別嬢」は『播磨国風土記』において「大帯日古の天皇(景行天皇)」に求婚され、

「イナビ(隠び)」ながらも最終的には娶られる存在として物語られているが、『古事記』

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においては「針間之伊那毘能大郎女」が景行天皇の妻であり倭健命らの母親として登場して いる。『古事記』の「針間之伊那毘能大郎女」は「吉備臣等の祖、若建吉備津日子の女」と され、吉備氏の娘であるとされる。それが『播磨国風土記』においては「吉備比売」と「丸 部臣等が始祖比古汝茅」の子であるとされることの背景にはどのような論理が働いている のか。また、「比古汝茅」が「吉備比売・吉備比古」に「参迎」られると書かれるのはどう いうことなのかを考えた。

注目したのは比古汝茅が「臣」姓を持つことで、「臣」姓は「国造」や「直」などと同様 に「地域の豪族」が持った姓とされている。先行研究において「吉備比古・吉備比売」が比 古汝茅を「参迎」したと書かれているのは、彼らが「大和朝廷に」帰服したことを表わすと 捉えられているが、比古汝茅が「臣」姓を持つことに注意すると、直接的に「大和朝廷」に 帰服するのとは異なる文脈が見えてくる。「吉備比古..

・吉備比売..

」のような「ヒコ・ヒメ」

のいる土地に外から何者かが訪れるという話型から考えると、そこで生まれる子どもが誰 の子どもであるかということが重要になると考えられる。当該条の場合、「印南の別嬢」が 誰の子であるかということがこの説話の語る肝要な部分だと言えよう。このように考える と、「印南の別嬢」の父を「丸部臣等」という「臣」姓を持った者であると規定して行くの がこの説話だったと考えられる。そして「臣」を「遣」わされた者として把握して行くのが 風土記の記述のあり方である。

『播磨国風土記』は、大国に囲まれた文化や交通の結節点としての播磨国像を色濃く表し ている。「印南の別嬢」もまた大和と吉備との結節点として「臣」の子として書かれている。

そしてその「臣」を「遣」わされた者として、「中央」との関わりで把握して行く、風土記 の「地方」の書き方が、この説話からも確認される。

第二部 風土記における「中央」と「地方」の関係性②ー「地方」の神を祭る者たちー

第一章 『肥前国風土記』佐嘉郡「県主等の祖大荒田」の伝承ー土蜘蛛との関わりか らー

『肥前国風土記』佐嘉郡条には「土蜘蛛」の「大山田女・狭山田女」が「県主等の祖大荒 田」に荒ぶる神の祭祀方法を教えるという説話が見える。説話では、その功績から「大山田 女・狭山田女」は土蜘蛛ながら「賢女」と呼ばれたとし、『肥前国風土記』の他の説話では 誅滅対象である「土蜘蛛」が親和的に書かれる特異な説話として、在地性の高さが表れた説 話とされてきた。

しかし、第一部で見て来たように土蜘蛛の位置づけは相対する人物によって決まるので はないかと考えられる。当条では土蜘蛛に対する「県主等の祖」という地方の首長の始祖で ある人物としての位置づけが土蜘蛛の記述のされ方に影響していると考えられる。当条の 土蜘蛛の記述のされ方が特異だという議論の場合、「土蜘蛛が本来は地方の首長であった」、

「本来土蜘蛛は宗教的・農耕的な存在であった」という実在の土蜘蛛像の議論となるが、県

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主とのセットで考えた場合、叙述の問題として考えていくことができる。では「県主等の祖」

とはどのような者なのか。「県主」は実態的には地方の首長であったことが辞書等で指摘さ れている。また、「県主等の祖大荒田」は「遣」わされたとは書かれないのも特徴である。

地方の族長としての性格が強く見られるのが「県主等の祖大荒田」だと言え、彼との関わり で登場する「土蜘蛛」は「天皇」や「遣」わされた者たちとの関わりで登場する「土蜘蛛」

よりも親和性が高く書かれると考えられる。

ただし、「県主」はあくまでもヤマト政権によって設定された姓である。当条で「県主等 の祖」は「中央」との関わりが示されていると考えられる。「土蜘蛛」の記述は「中央」と の関わりで語られることがここからも読み取れよう。次に後段を読んで行くと、「世田姫」

の記述があり、前段の「荒ぶる神」と同じく「川上」に居ると書かれていることから同神を 指すのではないかと考えられる。「世田姫」の元には毎年「海の神」が通ってくるが、「海 の神」と共に遡上してくる魚を食べると人に「殃」があるという。この記述から、「世田姫」

=「荒ぶる神」は未だに威力を持つ神であると書かれていると考えられる。「荒ぶる神」と しては大荒田によって「応和」したと書かれる神だが、依然人々に畏敬され、継続した祭祀 が必要な神として記述されている。天皇が祟り神に対する際は一度祭れば鎮まったように 書かれるが、「県主等の祖」の場合には神の継続的な祭祀が必要であるように書かれている。

これもまた、「県主」の土地との距離の近さを示す記述と考えられよう。「地方」の「荒ぶ る神」に姓を持つ者が対したとき、その神は継続して祀りが行われているように書かれる。

このことについては、次章以降でも考察していく。

第二章 『常陸国風土記』久慈郡賀毗礼の高峰の説話を読む

ー「片岡の大連」と「立速男命」の関係性からー

『常陸国風土記』久慈郡にある賀毗礼の高峰の説話には「立速男命」という神が登場する。

この神は「天つ神」と書かれながら「祟る」神とされる。従来このことに違和が提示され、

「立速男命」が祟っている段階と、鎮まり祭られた段階とがあったことがその背景にあるの ではないかといわれてきた。「立速男命」は祟り神でありながら「天つ神」であると書かれ ることが問題視されてきたが、「片岡の大連」が中臣氏と関係が示唆される人物であるとい う点から考えると、これは自然なことと考えられる。『常陸国風土記』で「天」は主に「香 島の国に坐す天津大御神」に関連して書かれ、この神と深い関係を持つように記述されるの が中臣氏だからである。中臣氏に関係する者が「立速男命」を祭るとき、その神は「天つ神」

とされなければならなかったと考えられる。

一方、「片岡の大連」は周辺の人々の陳情を受けて「朝庭」から遣わされており、「地方」

の神の問題を解決するために「中央」から来た者として書かれる。「地方」の祟り神の問題 を「中央」との関わりの中で解決しようとする記述となっていると言える。「遣」わされた 者として「地方」と関わる者と相対するとき、神は「祟」る神とされ、また「香島の天の大 神」と関わる中臣氏の者と対するとき、神は「天つ神」ともされるのであろうと考えられる。

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「地方」の神の問題を「中央」との関わりで語ることと、神に相対する人物によって神に付 与される性質が決定するということがこの説話からも読みとれる。さらに、後段において立 速男命の「種属」が「石」となって存在しており、その上を鳥が避けて飛んでいくという記 述にも注目される。祭った後もなお神が威力を発しているように書かれることは『肥前国風 土記』の「県主等の祖」に祭られた「荒ぶる神」とも共通しており、姓を持つ者が「地方」

の荒ぶる神を祭るとき、神の祭祀が継続しているように書かれているのではないかと考え られる。

第三章 『播磨国風土記』揖保郡意此川条を読む

ー「出雲の御蔭の大神」と「額田部連久等々」の関係性からー

『播磨国風土記』意此川条には往来の人々の半分を殺し、半分を生かすという交通妨害神 の説話が記されている。その地を通過する人々の陳情によって「中央」から「遣」わされた のが「額田部連久等々」である。当該説話においても「地方」の神の問題を「中央」の者が 解決する記述が見られる。先行研究において、風土記の荒ぶる神の祭祀には「平定型」と「祭 祀型」の二種類があることが指摘されている。「平定型」は王権の威力を示すために荒ぶる 神を平定したと語るもので、「祭祀型」は神の子孫が祭祀を行って神を鎮めるものであると される。

さて意此川の条で、遣わされた「額田部連久等々」は荒ぶる神である「出雲の御蔭の大神」

の子孫であるように記されている。しかしその祀り方は「相厭」というもので、「厭」には

「抑える、鎮圧する」という意味があることから、「社を立てて」祭るといった語られ方を する他の「祭祀型」の神祭りの方法とは趣を異にする。神を「抑える、鎮圧する」というと

「平定型」の説話のようにも見えるが、「相」という字に着目すると一方的に神を抑え、鎮 圧する説話とも言えない。さらに、神を祭った後に祭りの所作のような記述があることか ら、前章までに述べてきた『肥前国風土記』の世田姫や『常陸国風土記』の「立速男命」と 同様に、書かれた現在にも続く祀りを語る説話である可能性が高いのではないかと考えた。

前二章と同様、土地の勢いある神を祀り続けて行く、姓を持つ者―「額田部連」の姿が見え るのではないか。荒ぶる神である「出雲の御蔭の大神」との間に示唆される血縁関係も、祭 祀の継続を表すものと考えられるだろう。

「中央」から遣わされた「額田部連久等々」が「地方」の神の問題に対するという形で説 話が形成されているが、祭祀者としてその地に留まっていくかのような記述が見て取れた。

第四章 『出雲国風土記』意宇郡母理郷条を読むー大穴持命の位置からー

『出雲国風土記』の説話は、出雲の地と神との関係を語ったもので、出雲の外から来る「天 皇」や「遣」わされた者の説話はほとんど見られない。その中で唯一、『出雲国風土記』意 宇郡の母理の郷条には「皇御孫」の語が見える。母理の郷条は、「大穴持命」が「皇御孫命」

(12)

に国を依さし、その後に出雲国一国のみは自ら守るという内容に読めることから、「国譲り」

神話を出雲の側から書いたものとされてきた。これは、母理の郷条の読みに「国譲り」とい う概念を持ちこむことで、対大和の出雲の立場を体現したものとして「大穴持命」の言動を 解釈したものであった。中央・地方の枠組みで言えば、実態としての“出雲”が“大和王権”

に対抗する神話として読まれて来たといえる。

しかし「大穴持命」は『出雲国風土記』を勘造した出雲氏の祖先神ではなく、「大穴持命」

=出雲という構図を『出雲国風土記』の記事に当てはめるのには無理がある。さらに「玉」

や「世」の語を手掛かりに本文を検討すると、「玉」を「直」す姿には「出雲国造神賀詞」

や『延喜式』『続日本紀』の儀礼との関係がうかがわれ、「世」は一世代を表すことから、

代替わりごとの祭祀を背景に読み込むことができる。当条で「大穴持命」は朝廷側の言説で ある『延喜式』や『続日本紀』の世界観と共通して、出雲国造と朝廷の両者から祭られる神 であると位置づけられていると言える。

『出雲国風土記』は、「出雲側」の主張やヤマト政権への対抗意識が表れたものとする読 みがこれまで広く行われてきた。しかし母理郷条から見えて来るものは、大和朝廷への対抗 意識といったものではなく、大穴持命を朝廷と共に祀り続ける出雲国造(臣)の姿である。

このように考えると、「地方」の祟り神に対する「中央」の者という風土記説話の型は母理 郷条にも共通しているのではないだろうか。「大穴持命」の祭祀を天皇に代わって行う者と しての出雲国造の立場を表明したものとして捉え直したい。

終章

改めて論文全体を振り返り、風土記の「地方」を実態的に考えるのではなく、「中央」と の関係性として読み解くことの必要性と有効性、今後の課題を述べる。

四 審査結果

研究史の初期には、風土記は「地方」のことを記した地誌とされ、記紀などによっては 知り難い、地方の情報が書かれている書物と考えられた。しかし、そうした見方に疑問が 出され、その成立事情などから、今日では風土記は「中央」の視点から書かれた「地方」

の地誌というように考えられている。近年では、編集にあたったと推測される国司層や郡 司層を想定し、風土記には「中央」と「地方」の視点が混在している、という指摘もなさ れている。そして説話を分析する際に、「在地性が強い」あるいは「中央色が濃い」など といった認識が示されるのであるが、こうした指摘にそれほど説得力があるとは思えな い。

佐竹によれば、風土記における「地方」は、「在地」そのもの、実態としての「地方」

ではなく、「中央」との関係によって記述されているのである。たとえば、風土記の「国 造」は、その「祖」が「地方」に「遣」わされたとして記述されている。佐竹によれば、

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「中央」から派遣された者として記述することで、風土記における「国造」は、「中央」

側の存在として位置づけられている。一方、歴史学などの研究によれば、「国造」は、地 方豪族がヤマト政権下において地方の支配者として位置づけられた存在である。つまり

「国造」は、もともと地方の支配者であった豪族が、ヤマト政権下に組み入れられ、地方 官となったと考えられている。「国造」だけでなく「連」「臣」「君」「直」などの姓を 持つ官人たちも、風土記では「中央」から「遣」わされた者として記述され、「中央」性 を担って登場している。これまでの研究では、ある説話の「国造」について「英雄的」

「始祖神話的」などの解釈がなされてきたが、佐竹の研究によって、個別の説話における

「国造」をそのように指摘するだけでは十分でないことが明らかになった。

また佐竹によれば、「国造」のような登場人物は、同じく「中央」的な役割を与えられ ている「天皇」と比較すると、説話の展開上顕著な違いが見られるという。「天皇」が登 場する場合は、たとえば「地方」の「土蜘蛛」は簡単に「誅滅」されるのであるが、「国 造」などの官人の場合は、単純に「誅滅」されるのではない。結局は「中央」に服属する のであるが、「国造」などの場合は宗教権や宝物の譲渡などが語られ、「土蜘蛛」の服属 は多様な説話として展開しているという。

さらに、風土記を「中央」と「地方」の関係性として捉える視点は、これまでの「土蜘 蛛」研究を無効にする。従来、「土蜘蛛」とは何かが論議され、それをめぐって風土記の 記事が注目されてきたが、佐竹によれば、風土記における「土蜘蛛」は、「地方」性を担 う存在なのである。すなわち、「土蜘蛛」は、「中央」に対して「誅滅・服属」される

「地方」側の代表なのである。佐竹によれば「土蜘蛛」は「中央」との関係によって存在 しているのであり、その枠組みを外したところで実態的に「土蜘蛛」を考えることは、そ もそも方法的に誤りなのである。

佐竹による「国造」や「国司」などの官人、また「土蜘蛛」などの研究は非常に興味深 く、これまでの風土記研究に大きな見直しを迫るものである。「中央」と「地方」の関係 性という視座により、風土記という書物の全体を根本的に捉え直すことも可能であろう。

ただし、説話の細部における解釈や説明などについて疑問がないわけではない。今後さら に精緻で緻密な論にしていくことが求められ、残された課題も少なくない。とはいえ、独 自の視点から風土記研究に一石を投じており、博士論文として十分評価できる内容であ る。

公開審査は令和元年七月四日(木)、五号館一四三室において開催された。審査の場では 活発な議論がなされ、佐竹が高い研究能力の持ち主であることが確認された。以上に述べた 理由によって、審査委員一同は、佐竹美穂に博士(文学)の学位を授与することが適当であ ると判断した。

参照

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