• 検索結果がありません。

九州大学学術情報リポジトリ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "九州大学学術情報リポジトリ"

Copied!
11
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

エチオピア料理をめぐる移民の葛藤と共存 : ワシン トンD.C.におけるエチオピアンレストランを中心に

山野, 香織

京都大学人間·環境学研究科

https://doi.org/10.15017/2344593

出版情報:九州人類学会報. 39, pp.101-110, 2012-07-28. 九州人類学研究会 バージョン:

権利関係:

(2)

エチオピア料理をめぐる移民の葛藤と共存

ーワシントンD.Cにおけるエチオピアンレストランを中心に一(凶野)

エチオピア料理をめぐる移民の葛藤と共存

一ワシントン

D . C .

におけるエチオピアンレストランを中心に―

山野香織ほ瀦〖大学人間・環境学研究科)

キーワード:移民、政冶的亡命者、エスニックフード、エチオピア人、ワシントンD.C.

I . はじめに

従来の移民の食文化研究において、移民 のエスニックフードはしばしば個人的、集 団的なエスニシティやナショナリティを 表象する対象としてみなされてきた。たと

えば、ワシントンDCにおけるエチオヒ°ア ンレストランのホームページや店のメニ ューに表記されたエチオピア料理に関す る紹介欄を見ても、エチオピア特有の香辛 料や食材、食べ方などの記述でもって、料 理の「エチオピアらしさ」をアピールして いるものが多い。それは、「個人的な行為

とは異なる完全に開かれた公的な共有物」

[HOLTZM 2006: 373]として、エチオ ピア人だけでなく地元のアメリカ人に対 しても、一般的なエチオピア料理の説明を する必要があるからである。そのような公 共向けのエチオピア料理を「商品」として 見た場合、「均質性/代替可能性」をもっ

「もの」として考えられる[内堀 1997]。 しかし、すべてのエチオピア移民が「エ チオピア人」としてのアイデンティティを もっているわけではない。エチオピアは多 様な民族から成り立っており、移民のなか にも、政治的、文化的に支配的な地位をも つアムハラをはじめ、テイグレ、オロモ、

また元々はエチオピアの一部であったエ リトリア出身者など、その民族構成もまた 多様である。なかでも政治的な意味で「オ ロモ」と自認するオロモ・ナショナリスト

たちは、アムハラやテイグレに搾取されて きた歴史により、自分たちはエチオピア人 ではないと主張する傾向にある。そのよう なオロモ移民にとって、「エチオピアらし さ」を表象する料理は嫌悪の対象ともなり うる。しかし一方で、個人のレベルでは、

慣れ親しんだ料理への欲求は薄れること はない。

本項では、ワシントンD.C.におけるエチ オピアンレストランで提供される「もの」

としてのエチオピア料理を手がかりに、グ ローバル化された移民の食文化の変容と、

エチオピアの民族間題について事例を挙 げながら考察していきたい。ここではエチ オピア料理を、たんにエチオピア人のエス ニシティやナショナリティを表象する静 的な「もの」としてではなく、主体として の「もの」の流動的、多義的な側面を描き 出すことを試みる。ここではレストランの 料理それ自体の具体性を描くと同時に、料 理を提供する人/される人の意識や実践 をもとに、均質性を帯びたエチオピア料理

(=もの)が個別性へと変化していく様子 を分析し、「もの」を媒介する人と人との 関係性、人と「もの」との関係性を探って しヽ<。

本項は次のようにすすめていく。次の第 II章でエチオピア移民の歴史的背景と民 族関係を概略し、第

m

章で表象としての

「エチオピア料理」とその公共性について 描き、つづく第

w

章では在外エチオピア人

(3)

エチオピア粒理をめぐる移民の葛藤と兵存

ーワシントンD.C.におけるエチオピアンレストランを中心に一(凶野)

の「エチオピア料理」への違和感やずれを 分析しながら、料理のもつ個別性について みていく。

II.  調査地の概要とエチオピア移民

調査は米国の首都ワシントンD.C.と、そ の郊外を中心におこなった。ワシントン D.C. は人口約58万人 (2007年)からなる 特別行政区である1)。ワシントン首都圏は 1980年代以降、産業と商業の発展にともな い数多くの移民が流入しはじめ、人種・民 族の多様化が進んだ。近年はアフリカ系ア メリカ人の増加がすすむと同時に、移民多 様化プログラムなどにより新たなアフリ カ諸国からの移民も集中し始めている見 なかでも本項で対象となるエチオピア移 民はワシントン首都圏のアフリカ移民の うち最大のエスニック集団である。後に述 べるように、エチオピア移民は政治的な闘 争によって米国に逃れた者が多いため、受 け入れ社会であるワシントンにおいても 彼らの政治闘争は継続されている。さらに、

民族間の葛藤もまた、エチオピア移民の多 様な社会関係をより浮き彫りにさせてい る。本章ではエチオピアの歴史的背景と民 族間関係を概略し、エチオピア移民の背景 を描いていく。

ー エチオピアの民族関係と歴史的背景 エチオピアは人口約8,295万人3)、九つ の小卜1と二つの自治区からなる連邦制国家4)

である。約 80の民族・言語集団が居住し ているが、主な民族はオロモ、アムハラ、

テイグレであり、多くの少数民族は南部)、卜1

に属している。オロモは人口の約40%を占 め、エチオピア最大の民族集団を形成して いる。しかし、アムハラ語がエチオピアの 公用語となっているように、歴史的にはア ムハラ人が支配階層を独占してきた]

元来、高地に住むアムハラ人は「アビシ ニア人」と呼ばれ、敬虔なキリスト教徒(エ チオピア正教徒)であった。 19世紀末から 20世紀初頭にかけて、アムハラ人の他民族 居住地への侵略と征服がおこなわれた。さ らに 1930年以降、ハイレ=セラシエ皇帝 が推進した近代化政策という名の「アムハ ラ化」政策により、アムハラ文化は徐々に エチオピアの代表的な文化となっていっ た。こうして半ば強制的に、アムハラ語や エチオピア正教をはじめとするアムハラ 文化がエチオピア全士に拡がっていき、ア ムハラ文化が「エチオピア人のアイデンテ イテイ」として形成されていった。このよ うに、19世紀末のアムハラ人によるエチオ ピア統一以降、ハイレ=セラシエ帝政時代 (1930,‑‑...,1974年)と軍事社会主義政権時代 (1974,‑‑...,1991年)を通じて、アムハラ・ヘ ゲモニーが定着していった[石原 1996]。

このようなアムハラの支配階層に対し て、オロモやティグレのエリートたちはそ れぞれの態度を示してきた。エチオピア最 北部の高地に居住するティグレ人はティ グレを国語とし、地理的には北はエリトリ ア、南はアムハラ州、東はアファール小卜1と 隣接している6)。アムハラ人とは近縁の関 係にあり、「エチオピア人」としてのアイ デンテイティをもつ。1991年にデルグ軍事 独裁政権が崩壊し、テイグレを中心にした 解放組織、エチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF)がエチオピア政府の主力を握っ ている。

オロモはアムハラ人による征服以降、帝 政時代までは「ガッラ」という奴隷を意味 する蔑称で呼ばれていた。母語であるオロ モ語教育も 1991年まで禁止され、公の場 ではアムハラ語使用が強いられていた。し かし 1960年代頃から、都市のエリートで あったオロモ民族主義者によって、「オロ モ」としての意識を覚醒させるオロモ・ナ

(4)

エチオピア群理をめぐる移民の葛藤と共存

ーワシントンD.C.におけるエチオピアンレストランを中心に一 (/1!野)

ショナリズム運動が徐々に高まっていっ た。それはアムハラ人・ティグレ人を総称 する「エチオピア人」による文化的剥奪ヘ の抵抗運動として生じ、「オロモ人の文化、

教育、経済分野において組織力を持つため に政権を再創造する」ための運動であると 定義できる [JALATA1998]。

ここでエリトリアについても言及して おく必要がある。エリトリアはエチオピア の文化とほぼ類似している。エリトリアは 元々エチオヒ゜アの一部で、エチオピアのテ イグレ人と同じ、テイグレ語を話す人びと が住んでいた。イタリア占領、イギリス占 領を経た後、1952年には再びエチオピアと 連邦国家を形成するに至ったが、1960年代 に住民の不満が高まりエリトリア独立戦 争が勃発した。 1991年、デルグ政権を打倒 するために、エチオピアのエリトリア最大 の独立勢力であるエリトリア人民解放戦 線(EPLF)は、ティグレ人民解放戦線(TPLF)

とオロモ解放戦線 (OLF)と連携し、 1993 年にようやくエチオピアからの独立を果 たした。

以上みてきたように、概して、ティグレ 人はアムハラ人と同様、「エチオピア人」

としてのアイデンテイティをもつのに対 して、オロモ人やエリトリア人はアムハラ 人、あるいは「エチオピア人」に対立する 立場をとる傾向にある]

ニ エ チ オ ピ ア 移 民 の 概 要

2007年の国勢調査では、米国に住む一世 代エチオピア人は約 13万人と報告されて いる。移住の背景は様々であるが、大きく 三つの時代背景に分けることができる。第 ーの集団は、 1920年代から 1974年までの 間、主にアムハラとテイグレ出身のエリー 卜階級の学生たちが米国の奨学金を得て 渡米した。いわゆる頭脳流出である。第二 の集団は、 1974年から 1991年におよぶ政

治的亡命者である。 1974年、デルグとよば れる軍事政府によりそれまでの帝政が崩 壊した。社会主義を標榜するデルグ独裁政 権は人びとへの暴力的な残虐行為を繰り 返し、何千人ものエチオピア人、とくにア ムハラやティグレ出身者の人びとがこの 期間に米国へ逃れた。そして、1991年以降、

移民多様化プログラムの抽選によって選 ばれた者、家族や親族を頼って移住した者、

また 1991年以降のテイグレ中心の政権に よる抑圧から逃れた政治的亡命者たちが、

第三の集団にあたる。この集団は、民族、

宗教、社会階級において多様であり、政治 的亡命者を除いては、政治に関与する者が 少 な い の が 特 徴 と い え る [HABECKER 2009]。

移民の主な民族構成は、アムハラ、ティ グレ、オロモ、エリトリア人である8)。と くに政治的な要因で移住してきた人たち は、母国の政治状況および民族間関係を引 き続き意識してしまう傾向にある。

一方で、多様で複雑な民族構成であるに もかかわらず、アメリカの移民集団の多く は「国家集団」にもとづいているため、「エ チオピア人」もしくは「エチオピア系アメ

リカ人」としてひとつのエスニック集団を 構成しているかのようにみえる。そして、

多くのエチオピア料理店をはじめとする 商売人は、出身民族を問わず、地元のアメ リカ人や観光客などの「外部」に対しては、

エチオピアの代表的なシンボル、つまりア ムハラ文化のシンボルを提示する傾向に ある。表象としてのエチオピア文化・アム ハラ文化の例としては、アムハラ文字、エ チオピア正教のイコン、ハイレ=セラシェ 皇帝の絵や写真、国旗色(赤・黄・緑)、

インジェラとワットなどの主食、食事のテ ーブルとしての道具メソブ、肩を動かして 踊るウスクスッタという民族舞踊などが 挙げられる。

(5)

エチオピア料理をめぐる移民の葛藤と北存

ーワシントンD.Cにおけるエチオピアンレストランを中心に一 (/11

三 ワシントンにおけるエチオヒ°ア 料理店

現在米国におけるエチオピアンレスト ランは約 70店存在すると報告されている [KIFLEYESUS 2006]。エチオピア移民の増 加により、欧米における「擬似的な」エチ オピアンレストランが激増した。そこで出 される料理は、欧米人向けに味を和らげて いることが多い。レストランの増加の原因 は、長期にわたるエチオピアからの移民の 増加、普段は非エチオピア料理店で食べて いる独身男性のエチオピア系移民の増加、

ビジネスの成功を求める上昇可能な移民 の 出 現 な ど が 挙 げ ら れ て い る

[KIFLEYESUS2006 : 40]。ワシントン D.C.

を中心としたエチオピア系アメリカ人の ためのイエローページ、 Ethiopian Yellow  Pagesでは、 2008"‑'2009年で42店、 2009

"‑'2010年で37店のエチオピアンレストラ ンが記載されている。レストランは主に、

ヒスパニック系やアジア系を中心とした エスニック料理店がならぶアダムスモル ガン地区、アフリカ系アメリカ人の文化的 歴史的な地区とされている Uストリート

/ショー地区に集中している。

m .  

均質的な「もの」としての エチオピア料理

ここではまず、ある種の均質性をもっ

「もの」としてのエチオピア料理に関する 具体的な説明と、その「もの」が表象とし てどのような意味をもつのかをみていく。

エチオピア料理の基本的なセットは、主食 であるインジェラと副食であるワットで ある。インジェラはテフというエチオピア 特有の雑穀の一種が原料である。粉に挽い たテフを水で練りあわせ、醗酵させてから クレープ状(直径50cm"‑'60cmほど)に焼

いたものである。酸味がある。原料のテフ は主に高地で栽培されており、アメリカで はアイダホ小卜1で栽培されているといわれ る。インジェラとともに食べるワットは、

赤唐辛子をベースにした香辛料であるバ レバレを用いた煮込み料理の総称である。

鶏肉、牛肉、羊肉、豆や野菜をそれぞれ煮 込んだワットが各レストランで出されて いる。

しかし、エチオピアの少数民族をはじめ、

オロモ人などは、インジェラやワットが日 常食であるとはいえ、テフ栽培やインジェ ラの調理加工技術が彼らの間に浸透して いった経緯が、アムハラ人に支配されてい く過程と重ねて否定的なニュアンスで語 られることもある[重田・金子 2007]。ワ シントンD.C.に住むオロモ・ナショナリス トである Dさんは、「インジェラ」とさえ も口にはほとんど出さない。オロモ語でイ ンジェラを意味する「ビデンナ Biddeena」 と呼んでいる。「ビデンナはアムハラ人の 食べ物だから食べない。出されても別のパ ンを頼んで食べるようにしているし、エチ オピアンレストランにも自ら好んでは行 かない」と話していた。

「エチオヒ°アらしさ」の紹介

それでは具体的に、主にアメリカ人や観 光客に人気のあるM店を例に挙げてみる。

エスニック料理の激戦区でもあるアダム ス モ ル ガ ン 地 区 に あ る M 店 は 、 雑 誌

『WASHINTONIAN』で人気レストラン ベスト 100にも取り上げられた有名店であ る。そのため、 M店の顧客は非エチオピア 人が多く、ホームページにおけるエチオヒ°

ア料理の紹介では次のように説明されて いる。

インジェラはどの料理にもついてく る伝統的なエチオピアのパンである。そ

(6)

エチオピア料理をめぐる移民の葛藤と兵存

ーワシントンD.C.におけるエチオピアンレストランを中心に一(凶野)

れは大きなクレープ/パンケーキでそ の上に様々な煮込み料理が盛られてく る。エチオピア料理は多様な種類のスパ イスが特徴であり、それらはエキゾチッ クな味を提供してくれる。インジェラの 上に盛られるシチューのようなワット は、牛肉、羊肉、鶏肉、野菜など様々な 食材を煮込んだ料理である。これらは辛 いスパイス(エチオピアの典型的な赤唐 辛子バレバレ)で味付けしたものから、

バレバレを使わないマイルドな味のワ ット(アリチャ)まである。指でインジ ェラをーロサイズにちぎって煮込み料 理を包んで口に運ぶ。また、同じひとつ のお皿を皆で囲んで食べるのは、信頼や 友情の結びつきを表す。指で包んだイン ジェラを互いの口に食べさせ合う グル シャ,,も特徴的である。

M 店で提供されるメイン料理は、牛肉、

鶏肉、羊肉に分かれており、それぞれの具 でワット、アリチャ、炒めものを意味する トゥプス、などと選ぶことができる。たと えば、エチオピアでは最高のもてなし料理 だとされる鶏肉の煮込み料理はドロ・ワッ

ト、牛肉ならカイ・ワット、羊肉ならバグ・

ワット、というアムハラ語名のメニューと それぞれに対する説明がひとつずつの料 理に書かれている。

それら様々な料理を少しずつインジェ ラの上にのせられているスペシャル・コン ボは、エチオピア料理を初めて口にする人 たちにとっては注文がしやすいメニュー でもある。その他、ベジタリアン用の野菜 メインの料理や、シーフード(エビ)の項 目がある。エビは故郷エチオピアではほと んど出されることはなく、地元のアメリカ 人向けに考案されたメニューであると考 えられる。

さらに、レストランに行くと、エチオピ

ア料理に付随する「エチオピアらしさ」を 目の当たりにすることがある。エチオピア 国旗を掲げた建物、エチオピア歴代の皇帝 の絵が飾られている店内、定期的におこな われるエチオピア人ダンサーやミュージ シャンによる民族舞踊のライブなどがそ れにあたる。

このように、「エチオピアらしさ」をア ピールすることは、「非エチオピア人」,)

に対して一種のエキゾチシズムを生じさ せ、惹きつける効果がある。またそのよう なエチオピア料理の紹介の仕方のなかに、

アムハラ文化が突出していることをうか がうことができる。

「非エチオピア人」と料理の変化 前節にて、レストランで提供されている エチオピア料理の一例を挙げたが、実際に 提供されている料理の原材料は故郷とま ったく同じものではない。その意味で「真 の」エチオピア料理とは言い難い。にもか かわらず、「エチオピアらしさ」を強調す ることで、顧客の関心を惹きつけているの も事実である。つまり、地元のアメリカ人 や観光客などの顧客に合わせてエチオピ ア料理が新たな社会に順応しながら変化

している。

近年のエチオピア移民の増加により、イ ンジェラの原料であるテフがアメリカ国 内でも栽培されるようになった。しかし、

多くのレストランで出されるインジェラ は、テフ 100%ではない。コストを下げる ために、またはアメリカ人の味覚に合わせ て酸味を薄めるために、 30%ほどの小麦粉 を混ぜて使用しているものが多いという。

また、地元のアメリカ人に一番の人気メ ニューであるドロ・ワット(鶏肉の煮込み 料理)は、ゆで卵と骨付きの鶏肉をひとつ ずつ盛るのが基本的な故郷のスタイルだ が、アメリカ人でも親しみやすいように、

(7)

エチオピア群理をめぐる移民の葛藤と其存

ーワシントンD.C.におけるエチオピアンレストランを中心に一(囚野)

ゆで卵と鶏肉の身をほぐして煮込んだ料 理を提供するレストランも出てきた (A店、 オロモ出身の女性経営者による)。前章で もみたように、エチオピアでは見られない エビやその他のシーフードを用いたワッ トがメニューにあるのも特徴的である。味 付けもまた顧客に合わせて調節してくれ る。たとえば、 M店とともに、アメリカ人 顧客が多い人気店D店では、ワットを注文 すると、辛い方がいいかマイルドがいいか

とウェイトレスが尋ねてくれる。

以上のように、エチオピア文化を表象す るエチオピア料理は、公共にひらかれた均 質的な「もの」であることがわかる。とい うよりはむしろ、それが「商品」である以 上は誰にでも好まれるような公共性をお びる必要があるといえる。

IV. エチオピア料理をめぐる人びとの 実践

公共にひらかれた「エチオピアらしい」

料理が、地元のアメリカ人や観光客に好ま れるのに対し、エチオピア人はどのような 料理を選び、何を食べ、そして何を思うの だろうか。ここでは個人の事例をもとに、

それぞれの「もの」とのつながり方、かか わり方をみていく。

ー 料 理 の 選 択 ・ 評 価

地元のアメリカ人や観光客が典型的な ワットを好むのに対し、エチオピア人がレ ストランで注文する人気料理は、トゥプス

(肉の炒めもの)、キトゥフォ(半生肉の たたき)、テレスガ(生肉)などである。

注文をするときはほとんどメニューを眺 めることなく、アムハラ語で接客をするエ チオピア人ウェイトレスとの会話を楽し みながら注文をするのが普通である。

また、料理を選択する際の特殊性は、宗

教による食物禁忌によって規制されてい ることである。エチオピア料理店では、必 ずといっていいほど豆料理と野菜料理の メニューがそろえられている。シュロ・ワ ット(ヒョコ豆の粉の煮込み料理)、ミス ル・ワット(レンズ豆の煮込み料理)など である。これらはもちろん、ベジタリアン 志向の客向けとも捉えることができるが、

エチオピア正教を信仰するエチオピア人 の客を想定したものと考えるのが普通で ある。エチオピア正教の断食期間は動物性 たんぱく質を摂取してはいけない。しかし、

最近ではアメリカに長く住む者ほどこの 習慣を気にしない人びとが増えてきてい

る。

では、エチオピアから移住したエチオピ ア移民一世とは違い、アメリカで生まれ育 った二世はエチオピア料理に対してどの ようなかかわり方をしているのだろうか。

栂がアムハラ出身、父がエリトリア出身で ある移民二世の A さんと筆者がレストラ ンに行ったときのことである。エチオピア を訪れたこともない A さんにエチオピア 料理は好きかと尋ねてみると、「多分あな た(筆者)と同じような味覚をしている。

基本的 なものは好き。 ドロ・ワットや、

トゥプスが好き。私は生肉のキトゥフォや テレスガなどは嫌い」と答えた。彼女のエ チオピア料理への態度は非エチオピア人 のそれに近く、 基本的なII料理のスタイル に関する認識も共有しているようだ。

エチオピア人一世の人びとは、料理をロ にするとたいていの場合、味を評価する。

たとえば、開店して間もないF店へ、アム ハラ出身である Bさんと C さん(どちらも 50代女性)と食べに行ったときのことであ る。 Bさんは注文したトゥプスを一口食べ た後、渋い顔をした。聞くと、塩がまった く効いていないという。塩がどれだけ効い ていないのか、故郷の味とどれだけ似てい

(8)

エチオピア粒理をめぐる移民の葛藤と共存

ーワシントンD.C.におけるエチオピアンレストランを中心に一(凶野)

るのかという評価は、当然、彼ら個人の生 まれ育った地や家族の記憶と結びついて いる。

「もの」をとりまく空間

「本物の」エチオピア料理の味を評価で きる人たちにとって、レストラン選びにも 偏りが出てくる。たとえば、アムハラ出身 の 20代男性にお勧めのエチオヒ゜ア料理店 を尋ねたときのことである。彼によると、

親族が集まるときなどは、アメリカ人など 一般客にも人気があるD店に入るという。

「リトルエチオピア」にある人気店、 D店 は週に二回エチオピア音楽と民族舞踊の ライブがあり、料理以外にもエチオピアの 雰囲気を味わうことができる。反対に、彼 が一人のときは、もう少し値段の安い小さ な店に行くのだという。客層のほとんどが エチオピア人である W 店へは、来店する 前から電話で料理を注文しておくという ほどの常連ぶりであった。「あの店は新鮮 な肉を使っていて、何よりも味が美味しい。

D店はここらじゃ有名だけど、味を重視す るなら小さな店の方がいい」と、彼は言っ た。彼のように、味へのこだわり以外に、

誰と食べにいくか、店に知り合いがいるか、

という人そのものとのかかわりから店を 選ぶ傾向がある。

人とのかかわりを重視するにあたり、そ こには複雑な民族関係も絡まってくる。た とえば、ワシントン郊外で小さなエチオピ ア料理店を経営するオロモ出身の女性に よると、レストランの名前のなかに「オロ モ」と関連する言葉を使っていた時はアム ハラ人が警戒して近寄らなかったという。

彼女の店は開店したての頃、「オロミヤ」

という言葉を店名に用いていた。しかし、

エチオピア人の間で噂が広まり、「エチオ ピアン」という言葉を用いた店名に替えた のだそうだ。

反対に、オロモ人としてのアイデンティ ティを強くもつオロモ・ナショナリストは、

アムハラ人やテイグレ人しか集まらない 店には近寄りたがらないし、「エチオピア らしさ」をあちこちに散りばめたような店 も嫌う傾向にある。

U ストリート/ショー地区にあるレ ストランは D店だけ昔一度行ったこと があるが、それ以外は行ったことがない。

あのアメリカ黒人たちの歴史が刻み込 まれた地区が「リトルエチオピア」と呼 ぶなんて、いかれてるよ。あそこの経営 者たちはテイグレやアムハラの田舎者 の集まり。自分たちの仲間や友人だけが 集まって満足しているだけ。自分の民族 の舞踊しか見せないし。よそ者が来たら

じろじろみるだろう?全然オープンな 場所じゃない。 (60代男性・オロモ)

彼と同じように、アムハラ人やテイグレ 人の集団を嫌うオロモ・ナショナリストは 他にもたくさんいた。エチオピア料理その ものへのこだわりは彼らの中にもある。し かし、民族間の葛藤により、自由に店を選 べないという事実もある。彼がいうような

「オープンな」場所、あるいは公にひらか れた料理は、地元のアメリカ人や観光客な どの「非エチオピア人」とのかかわりでの み存在するのかもしれない。

「もの」への違和感とずれ

元々、エチオヒ゜ア料理がアムハラ人によ って伝えられた「もの」であるがゆえに、

アムハラ文化を嫌うオロモ・ナショナリス トにとって、故郷の味であると同時に違和 感をおぼえる対象となる。インジェラとワ ットはエチオピア料理の基本スタイルで ありながらも、アムハラ文化の象徴である。

そのような公的な共有物としてのエチオ

(9)

エチオピア粒理をめぐる移民の葛藤と北存

ーワシントンD.C.におけるエチオピアンレストランを中心に一(凶野)

ピア料理に対し、たとえばアムハラ文化に 否定的なオロモ人はどのような意識をも

ちえるのだろうか。

オロモ・ナショナリストのひとりでもあ るオロモ人男性 Y さんは、典型的なエチオ ピア料理店がならぶ「リトルエチオピア」

から三ブロックほど奥まった住宅街に、小 さなレストラン・バーを経営している。彼 が自分の店で提供する料理は、インジェラ

とワット、 トゥプス、キトゥフォなど典型 的なエチオピア料理であるが、建物の概観 には「エチオピアらしさ」を表すものはな い。ここに来るオロモ人の常連客たちは、

メニューを見ずに席に着くなりトゥプス やキトゥフォを注文する。時には、インジ ェラではなくコチョという、彼らの生まれ 育った故郷で主に食べられていた主食の パンを出してもらえることもある。

顧客の多くは近所に住む非エチオピア 人か、彼の知り合いのオロモ人である。彼 らの個人的な付き合いのあるアムハラ人 やテイグレ人の客も時々来店していたが、

新たな一見さんは来店しない。それはオロ モ人にも言える。アメリカの他州からワシ ントンに引っ越してきたオロモ人の男性G さんも、最初はこの店に入るのを躊躇って いた。というのも、「たいてい 僕らの レ ストランには一種のグループができてい る」からだという。

経営者の Y さんは、客層に関して次のよ うに語った。

アメリカ人はハンバーガーやホット ドッグだけじゃなく、アジア料理店から メキシコ料理店までどこにでも気軽に 入る。エチオピア人はそうじゃない、よ その国の料理を食べることに慣れてい ない。慣れ親しんだものしか食べない。

うちにもアメリカ人の客は入るがイン ジェラを注文する人は少ない。メニュー

を見せても頼むのはコーヒーやカプチ ーノとサンドイッチくらいだよ。 (50代 男性、オロモ)

ここで重要なのは、「慣れ親しんだもの しか食べない」という言及である。アムハ ラ文化の表象としてのエチオピア料理に 対する違和感を抱きながらも、 慣れ親し んだ エチオピア料理への欲求から、人を 通じてそこに集まるのである。

V. おわりに

以上、「もの」としてのエチオピア料理 を二つの視点から考察してきた。ひとつは、

「エチオピアらしさ」を表象する「もの」

の捉え方である。それは多様な民族の個々 の文化表象ではなく、エチオピアのかつて の支配民族であったアムハラ文化の表象 である。それは主に「非エチオピア人」を 惹きつける、公的にひらかれた「商品」と してのエチオピア料理であった。しかし、

オロモ人などの他民族にとって、そのよう な表象としてのエチオピア料理は、エスニ シティやナショナリティのずれと鶉藤が 生じることになる。

もうひとつは、人びとの行為、実践、意 識を通じた「もの」の捉え方である。そこ

には民族の壁を越えた、エチオピア料理と 人の親密な関係性があり、「もの」の均質 性というよりは個別性をとらえることが できる。そのような、表象ではない個人の 味覚、触覚、嗅覚のレベルにおいて、個別 性を帯びたエチオピア料理が生まれ、そこ に「もの」=「エチオピア料理」を媒介し た異民族のつながりを垣間見ることがで きるだろう。

(10)

エチオピア料理をめぐる移民の葛藤と其存

ー ワ シ ン ト ンD.C.におけるエチオピアンレストランを中心に一(凶野)

1)ワシントンD.C.、メリーランド州、ヴァージ ニア小卜1北部、ウェストヴァージニア州極東部 2郡を合わせたワシントン首都圏の人口は約 540万人 (2007年センサス)。

2)移民多様化プログラムは1990年の移民国籍 法の改正により設けられた抽選方式の移民シ ステム。通称「DV (Diversity Visa)」。移民 国籍法203(c)項は、米国への移民率の低い 国から毎年55,000人のDVによる移民を可能 にしており、その約3分の1がアフリカ諸国 からの移民である。このプログラムでは規定 の条件を満たす人が米国への永住ビザを発給 される。 2000年センサスによると、米国のア フリカ移民1,035,253人のうちワシントン首 都圏が80,281人で米国の都市圏では最も多い。

3) 2010年現在。外務省ホームページ

(http:/ /www.mofa.go.jp/mofaj/ area/ ethio  pia/ data.html)より。

4)連邦制は1995年に導入された。アディスア ベバ自治区、ディレ・ダワ自治区、テイグレ

1、アファール州、アムハラ小卜1、ベニシャン グル・グムズ小卜1、ガンベラ小卜1、ハラル小卜1、オ ロミア小卜1、ソマリ小凡南部諸民族)小Iからなる。

5)ェチオピアにおいて、アムハラ人というアイ デンテイティをもつ者は固定された単一の集 団ではなく、居住地域によって分散されてお り、他民族の出身者でもアムハラ名をもつ者、

アムハラ語を話す者、エチオヒ゜ア正教に改宗 した者のなかには、アムハラという民族アイ デンテイティに同化していった[MATSUOKA and SORENSON 2001]。

5) 1991年の政変以降、「民族自決」の名の下に 民族分布を基準にしだ州区分制度が導入され た。たとえば「アムハラ小卜1」はアムハラ人が 比較的自立的な政体をもつ。

7)もちろん一枚岩ではなく、「民族」という括 りに対して疑問もあるが、その点に関しては別 項に委ねたい。

8)エチオヒ°ア北部の国境に隣接するエリトリア には、エチオピア北部と同じティグレという

民族が居住しており、1993年の独立を達成す るまでは元々エチオピアに併合されていた。

したがって、エチオピア系移民という場合、

1993年以前のアメリカの国勢調査ではエリ トリア人も含まれている。ただし、ワシント D.C.に関していうと、エチオピア移民とは 政治的には確執があるものの、アムハラ語や アムハラ文化を共有する者として、日常的な かかわりにおいては民族的な差異をそれほど 意識されていない。

9)ここでいう「非エチオピア人」とは、主とし て地元のアメリカ人住民や観光客などを指し ており、「エチオピア人」としてのアイデンテ イティをもたないオロモ人を指しているので はない。

引用文献 石 原 美 奈 子

1996  「オロモのクランの歴史研究の可能性 について」『アフリカ研究』 49:27‑52.  内 堀 基 光

1997  「ものと人から成る世界」『「もの」の 人間世界』青木保ほか編、岩波書店、

1‑22 重田慎義・金子守恵

2007  「食文化:テフとエンセーテ」『エチ オヒ゜アを知るための 50章』岡倉登志

(編)、明石書店。

宮 脇 幸 生 ・ 石 原 美 奈 子

2005  「『地方』の誕生と近代国家エチオピ アの形成」『社会化される生態資源:

エチオピア 絶え間なき再生』福井勝 義(編)、京都大学学術出版会、 1‑33

HABECKER, Michele L. 

2009  African  Immigrants  in  Washington  ,  D.C.: seeking alterna廿veidenti廿esin  a  racially  divided  city.  Thesis  for  the  Degree  of  Doctor  of  Philosophy.  Oxford University. 

HOLTZMAN, Jon D. 

(11)

エチオピア粒理をめぐる移民の葛藤と共存

ーワシントンD.C.におけるエチオピアンレストランを中心に一(凶野)

2006  Food and Memory.  In  The  Annual  Review  of  Anthropology.  35.  pp.361‑378. 

JALATA,Asafa 

1998  Oromo Nationalism and the 

Ethiopian Discourse: The Search for  Freedom and Democracy. Red Sea  Press. 

KIFLEYESUS, Abbebe 

2006  The Construction of Ethiopian  National  Cuisine.  InEthnorema:  Lingue, Popoli e Culture. Anno 11‑N.2.  pp.27‑47. 

MATSUOKA, Atsuko and John Sorenson  2001  Ghosts  and Shadows: Construction of 

Identity and Community in an African  Diaspora.  Toronto:  University  of  Toronto Press. 

SELASSIE, Bereket 

1996  Washington1s New African 

Immigrants.  In  Frances  Carey  ed. 

参 考 資 料

Urban  Odyssey:  Migra廿on to  Washington,  D.C.  Washington  D.C.:Smithsonian  Institution  Press.  pp. 264‑275. 

American Community Survey  (U.S.  Census  Bureau) 

Ethiopian Yellow Pages (15th  Edition 2008‑2009,  16th Edition 2009‑2010). Feker Inc. 

(2012520日 掲載決定)

参照

関連したドキュメント

第二に、心理学・教育学・社会学分野の学会は、 調査対象者の権利保護への指向が強 いようである。プライバシー /

ところで、教護の現場では、年毎に、英語以外の外圏語についても、コミュエケーション

 「こうありたい」自分への囚われは,「でも,そうで はない」現実の自分を攻撃し,戒め,悩ませる。「こう

口腔内装置(MAD)は閉塞性睡眠時無呼吸

最後に,この長い論文を読んでくださった読者に感謝したい。諸所の情報に新たな研究

町並みにおける観光に関する研究として、大森ら 文 2) は、

第3 章では ,本 研究 で使 用す る BESソ フト ウェア であ る TRNSYS , CFDソ フトウ ェア

これらのうち、単一流管翼素理論、CFD