翻訳 : 『学習者の誤文が意味するもの』
著者 矢田 裕士
雑誌名 英語英文学研究
巻 5
ページ 111‑123
発行年 1999‑09
出版者 東京家政大学文学部英語英文学科
URL http://id.nii.ac.jp/1653/00009621/
翻訳:『学習者の誤文が意味するもの』
矢 田 裕 士
はじめに
本稿は「英語英文学研究第4号」(1998)に掲載したJack C. Richardsの 編著Error.Ana lys is:Perspectives on Second Language AcquiSition,
Longman(1974)所収の「序章」と「第1章」の翻訳に続く、S. P. Corderの 論文「第2章」 The Significance of Learners Errors の翻訳である。
第2章 学習者の誤文が意味するもの
(The Significanoe of Learners, Errors)S.P.Corder Julius Groos Verlag, Heidelberg IRAL, VoLV/4,
1967所収再録
現代外国語にっいての標準的な教授法に関する本を読むと、その著者たち が、いかに奇妙な具合いに、学習者たちが生み出す誤文と、その訂正の問題 を取り扱っているかという事実を知り、驚くことがある。誤文は言語を学習 する過程で生ずる避けがたき副産物であり、教師はそのことにっいてはとり たてて意を注ぐ必要のないものであり、誤文はあたかも煩わしく、当惑する だけで、一偏の価値もないもののように片づけられている。もちろん、言語 学理論や心理学理論の成果などを言語学習に応用した結果、誤文の取り扱い に関する議論に新たな局面が開かれてきたことも事実である。人々は誤文が 生ずる理由を読明できる首尾一貫した方法があると信じていた。すなわち誤
文は第二言語を学習する際に、母語の慣習が原因となって生ずる母語干渉の 結果であると考えていた。言語学が言語学習に対して果たした主要な貢献は、
学習者の母語と第二言語体系の徹底した対照研究と考えられてきた。このこ とから学習者が遭遇するであろう困難点のリストが作成され、このリストが 指導する教師たちの注目を集め、予測される困難点を回避したり、その困難 点を克服するために必要な特別の配慮を払い、その指導に重点が置かれるよ うになってきた。教師は、言語学習上の困難点が、どこに存在するかについ ては、日常的な経験から推測できるという理由から、言語学者たちからの語 学教育に対する学問的成果の貢献を必ずしも歓迎しているとは限らない。語 学教師たちは、言語学者たちの貢献が、彼らに十分に意義のある新しい情報を 提供しているとは感じていないのである。たとえば、語学教師たちにとって
はなじみのある誤文の多くは、言語学者が予測したものではないと述べてい る。したがって、大半の語学教師たちは、単に誤文を特定するのではなく、
困難なこの分野にどう対処したらよいかにっいてより大きな関心を寄せてい るのである。したがって、言語学者が語学教師に伝えられることはほとんど 無いと考えている。
教授法の分野では、学習者の誤文に関しては、ふたっの異なった見解を示 す派がある。第一派は、もし我々が完壁な教授法を作りだすことができると すれば、語学学習上で誤りが生ずることはありえないと考えている。したがっ て、もし誤りが生ずるとしたら、それは単に教授上の技術が不適切であるか
らであるという見解をとる。またもう一派の主張は、我々は不完全な世界に 身を置いているのであり、それ故に、我々が最善をっくしても誤りは必ず生 ずるものであるという見解をとっている。この派は、誤りが生じた時点で、
それらにどう対処すべきかという方法論にもっと創意工夫を施すべきである と考えている。
これらふたっの見解は、言語と言語学習にっいての理論的立場と矛盾する ものではない。すなわち心理学的には行動主義理論であり、言語学的には分 類学的理論である。それらを言語教育に応用したものが、聴覚口頭教授法も
しくは基礎技能教授法(the audiolingual or fundamental skills methods)
である。
現在は、言語学も心理学もチョムスキーが言うところの「絶え間ない変化
(flux and agitation)」の過程にあると言ってよいだろう(Chomsky,1966)。
数年前にしっかりと確立されたかに見えた言語理論は、今では広く議論の対 象となっている。この分野の研究成果が言語教育に影響を及ぼすまでには、
まだ相当長い時間がかかるであろうし、現在はまだ、この影響がほんの少し でてきたにすぎない。その影響の一例としては、教授優先の授業形態から学 習者中心の授業形態へと比重が移行してきたことが挙げられる。その結果、
母語習得に関する問題に対して新たなる議論がなされるようになり、母語習 得過程と第二言語習得過程に共通するものがあるかどうかという問題が考察 されるようになってきた。言語獲得と言語学習をはっきりと区別して考える ことが有効であるというLambert(1966)の説が強調され、母語習得過程に 関する研究は第二言語習得に稗益する可能性が大きいということがCarroll
(1966)によって示された。
母語学習と第二言語学習の違いは明かであるが、その違いを説明するのは たいへん難しい。すなわち母語の学習には必然性がある一方、第二言語学習 にっいては、その必然性がないことは周知のことである。母語の学習は子供 の健全な発達過程の一部として位置づけられるのに対して、第二言語学習は たいていの場合、子供の発達過程がほぼ終了した時点から始まるのがふっう である。母語学習過程では子供はなんら明白な言語学習動機がなくても言語 獲得を始めるのに対し、第二言語学習者の場合には必ず言語学習動機がある ことは言うまでもない。すなわち第一言語学習と第二言語学習の動機は、そ れぞれまったく異なったものなのである。
調べてみればすぐに明らかになることであるが、第一言語学習と第二言語 学習にっいての明らかな動機の相違があるにもかかわらず、そのこと自体は、
第一言語学習と第二言語学習で起こるプロセス(言語習得過程)にっいては なんら示唆するところはない。どのように言語が学習されていくのかという
ことにっいて最も広く流布している仮説では(私はそのような学説を信奉し ている人々を行動主義者と呼んでいる)、言語習得過程は第一一言語学習にも 第二言語学習にもあてはまるものだと主張している。この仮説にっいては詳 述する必要がないほどに周知のことであるが、その説に対しての反論も多く あることもまたよく知られている。もし言語学習にっいてのこれらの仮説が さらに検討され続け、子供の第一言語獲得の過程を説明できるような新たな 仮説が現れれば、それがどの程度まで第二言語学習に応用できるかを検証す
ることは当然、必要となってくる。
私は、この新しい学問的状況の中で、「誤り」についての研究は、新たな意 義を持ち、新しい説の妥当性の可否を判断することを可能にしてくれるもの
と信じている。
この新しい仮説は人間の幼児は生まれながらにして、言語を獲得する生得 的能力を持っていると説明している。幼児が言語獲得過程を進んでいくため には、まず言語そのものに徹底的に触れる機会が与えられなければならない。
幼児は有限のデータから特定言語の文法を構築できるような未知の内的メカ ニズムとでもいうべきものを生まれっき所有していると想像されているが、
幼児がどのようにしてこれを作動させているかにっいてはほとんど解明され ていない。これは目下のところ、言語学者と心理学者が懸命に研究している 学問分野である。Miller(1964)は、もし子供の言語運用の様子を再生する
ことができるような再生装置を製作することができたとすると、人間の子供 が言語を獲得する連続した段階を丹念に分析して、その装置で文法の諸相が 検証でき、言語獲得順序が決定されうると指摘している。そのような研究の 第一歩は、子供の言語発達の過程を通じて、長期にわたる子供の言語の記述 をすることである。そのような記述から、究極的には子供が言語を獲得する 全過程の全体像が明らかにされることが望まれる(McNeill,1966)。
この仮説を第二言語学習に応用することは目新しいことではなく、すでに 50年前にH.E. Palmer(1922)によって提案されている。 Palmerは我々人 間は生まれながらにして言語を理解・吸収する能力を与えられており、この
能力は第一言語を獲得した後も潜在能力として我々には残されていると主張 していた。成人にも子供が外国語を獲得するような能力があると考えられて いた。最近の研究(Lenneburg, 1967)によると、聴覚障害などの理由で第一 言語を獲得できない子供は12歳を過ぎた後は急速に言語行為を獲得する能 力を失うことがあると述べられている。もちろん、この研究結果は第一言語 をうまく獲得しえた人々の学習能力も、同じように12歳以降は言語獲得能 力が急速に退化・萎縮するということを暗示しているわけではない。この研 究成果には第二言語学習のプロセスは、基本的に第一言語習得のプロセスと
は異なる場合があるという余地が残されている。
同様な内的メカニズムを仮説として立てるとすると、第二言語学習者が用 いる学習手順や方略も基本的には同じであると想定することができる。ふた っの操作を異ならしめる主要な特徴は動機の有無である。第一言語学習習得 が言語行為を発達させるような素因を成就することだとすると、第二言語学 習の場合には幼児が言語習得する際に用いるこの素因に相当するものが何か 存在すると言うことになる。この素因がどのようなものであるかは本論文の 内容とは直接的には関係のないことであるので詳細にっいては触れないこと にする。
したがって、人間は「動機」があって、言語資料にさらされさえすれば、
必然的に第二言語を学習するものであると言ってよいであろう。言語学習の 適応性の研究では、動機と知能のふたっの主要素が第二言語の習得には深く 関わつているという理由から、そのような見解はある程度支持されている。
したがって私は、実用的な仮説として、第二言語の学習者によって採用さ れている学習方略のうち少なくとも、ある部分は実質的には第一言語を習得 する際の方略と同じであるということを主張したい。しかし、この主張は言 語の習得過程や配列順序(sequence)が両者において同じであると言ってい
るのではない。
さてここでまた、学習者が犯す「誤り」にっいての考察に話を戻そう。2歳 の子供は「この、ママ、椅子(This mummy chair)」といったようなこと
ばを発することがあるが、通常、我々はこのような発話を文法逸脱文とか誤 文であるとは言わない。我々はそれらを誤用法であると認めないばかりか、
むしろその時点における言語発達の状態をきちんと示す正常な赤ちゃんこと ばとして受け入れている。我々はそのような言語行為に対しては、通常の学 習状況の中では「修正」と一般的に特徴づけている類のものに近い考える。
一般に、大人は子供の発話を大人の言い方に変えて「ああそう、それはママ の椅子ね(Yes, dear, that s Mummy s chair)」などと子供の発話を正し い形に言い替えて、繰り返してあげるものである。
母語を習得中の幼児が初めから、大人ことばで、正用法から逸脱しない文 を話すとは誰も期待していない。我々は子供の「不正確な」発話を言語習得 の途上にあるプロセスの証として理解するのである。言語知識を記述しよう とする者にとっては、それはまさに貴重な証拠を提供する「誤り」なのであ る。Brown and Frazer(1964)が、どんな子供も文構成規則を所有してい ることを示す最も良い証拠は、彼らが体系的な誤りを犯すということである と指摘しているように、子供が正しく話している時、それは子供が以前に聞 いたことのある文をただ繰り返えしているだけであるという可能性がおおい にありうる。いったいどの程度の分量のインプットが入っているのか我々に は知りえないのだから、この可能性を否定することはできない。子供は実際 の言語を自分なりに、より単純な言語体系に縮めることによって、ある規則 を帰納的に導きだす傾向がある。
第二言語学習者の場合には、我々はインプットは概ね教授者の管理下で行 われるものであるから、それが一体どのようなものであるかにっいては多少 は知っていると考えられている。ここでインプットの統制(我々が教授細目
[syUabus]と呼んでいるもの)にっいての質的内容を紹介することが賢明で あろう。単に教室で学習者にある言語素材を提供するという行為は、必ずし もインプットに見合ったものを提供しているとは言えない。インプットとは
「何が入力可能なのか」ではなく、「何を入力するのか」を言うのであって、
インプットを統制、もっと適切な用語としては「吸収」するのは学習者自身
である。インプットは教授細目の性格によって決定されるのではなく、学習 者の言語獲得メカニズムの性格によって決定されるものであるといってよい だろう。換言すると、母語を習得する状況下では、インプットとして利用可 能なデータは相対的に莫大な量になるが、どれをインプットするかを選択す るのは子供たち自身である。
Ferguson(1966)は最近、いままでの教授細目は、せいぜい印象的判断と 漠然とした理論的根拠に基づいたものであったと指摘している。教授細目を 作成する際に、もっと学習者のニーズを考慮すべきであるという提案はなん ら目新しいものではないが、それに関する研究・調査はこれまでのところな されていない。その理由は恐らく、実際には何が学習者のニーズであるかを 決定することが方法論的に困難であるからであろう。Carroll(1955)は、学 習者が教師に尋ねたり、辞書を調べたりしながら、問題を解決するために適 切な表現を見っけだしていけるような問題解決学習状況を作ってあげること がよいという提案をしている。この仮説には子供が言語を獲得するプロセス に生ずると信じられているある特性が含まれていると述べている。Carroll
(1955)が述べている内容と類似の実験をしたのはMagerである(Mager 1961)。Magerはこの実験を言語教育との関連で行ったわけではないが、彼 のことばを引用しておく価値があると思われるので以下に紹介する。
どのような学習(または指導)順序の基準が用いられようと、それは利用 者が「論理的順序」と称するものでしかない。しかし、その順序づけが成し 遂げられるためにはいくっかの計画が必要であり、効果的な順序づけとは学 習者にとって意味を持っものでなければならないという点では見解が一致し ているにもかかわらず、学習者によって同化吸収されるべき情報の順序づけ は、伝統的に教授者によってすべて決定されている。我々は、普通、既に決 定してしまっている順序づけについて学習者に、その効果を最大限に利用す
るように求めること以外は、彼らの相談にあずかることはできない。
Magerは小規模な実験の結論として、次に考えなければならないことは、
学習者自身による順序づけ(あるいは学習者の「先天的に内在化された教授
細目(built−in syllabus)」と我々が称しているもの)の方が,ある点では 教授者主導の順序づけよりも効果的であるかどうかを判定することであると 指摘している。そのような可能性はかなり高いといえよう。しかし問題は、
果たして、そのような「先天的に内在化された教授細目」が存在するかどう か、またそれが存在した場合、それをどのように記述するかである。学習者 の「誤り」の研究は子供の言語習得の研究で果たしたのと同じ役割をするだ ろうという調査であり、従来から指摘されているように両方のケースにとっ て重要な概念は、学習者が発達段階に応じて特有のシステムを使用している ということである。もちろんこれは成人の例ではなく、また第二言語のシス テムについて扱っているわけでもないのだが、学習者の「誤り」はこのシス テムが存在することの証明となるものであり、それ自身体系的なものである。
もちろん、ここで言う「体系的」という術語の意味は、偶発的な「誤り」
や、さらに適切な表現で言うと、それはすぐには識別のっけがたい体系的な 性質を帯びた「誤り」を指すのである。体系的「誤り」と非体系的「誤り」
を比較対比することは重要である。我々は、通常の大人は誰でも母語で話し をする時でさえ、絶えず、ひとっやふたっの「誤り」を犯していることに気 づいている。これらは、記憶が飛んでしまったり、疲労や強度の感情を伴う 心理状態のために身体的状態がよくなかったりすることによって起こるもの である。これらは言語を使用する際に付随して起こりうることであり、必ず しも我々自身の言語知識の欠陥を反映しているものではない。我々は通常、
これらの「誤り」が起こればすぐに気づくものであり、多かれ少なかれ、そ れを確信を持って修正することができる性質のものである。人間は第一言語 でも第二言語でも言語運用する時には、同様の身体的、精神的状態に置かれ ているのであるから、第二言語学習者がそのような言い(書き)「誤り」を 表出しないと期待するのはまったく理にかなっていない。したがって、「誤 り」が偶然の状況下で起こったものであるのか、また学習者の基底構造にあ る言語知識(それを彼の移行期の言語能力[trαnsitionα1 competence]と言っ てもよいかもしれない)によるものであるのかを明確に区別する必要がある。
言語運用の際の「誤り」は基本的に体系的なものではなく、言語能力の「誤 り」は体系的なものである。
Miller(1966)はこれに関して「誤りを犯す規則にっいて論ずるのは無意 味なことである」と述べている。したがって今後は、言語を運用するときに 生ずる「誤り」にはmistakesいう用語を使い、我々が学習者のそれまでの 言語知識を再構築することができるような体系的誤り、すなわち移行言語能 力を表す「誤り」についてはerrorsという用語を用いることが有益である
と思われる。
mistakesは言語学習の過程においてはとりたてて意味のあるものではな い。しかしながら、どれが学習者のmistakesであり、どれがerrorsである かを識別することは、なかなか難しい。従来のように、mistakesとerrors を同一のものとして見なすのではなく、この区別にっいては、さらに精緻な 研究と誤文分析が必要となる。
学習者の「誤り」は学習過程のある時点で、学習者が使っている(すなわ ち学んだ)言語の体系の証拠を提供してくれるし、(そして学習者が正しい システムではないが、あるシステムを使っていることが繰り返し出現するに 違いない)。このことは次に示す3っの点で有意義である。まず第一に教師 にとっては、もし体系的な分析をすれば、学習者がどの程度まで到達目標か らかけ離れているか、そしてその結果、学習者が学ぶべきものとしては何が 残されているかが分かる。第二に言語がどのように学ばれ、獲得されていく のか、また学習者が言語の発見において、どんな方略と手続きを駆使してい るかなどの証拠を研究者に提供してくれる。第三番目には(そしてある意味 ではこれが最も重要な点であるが)、「誤り」は学習者自身にとって不可避な
ものである、なぜならば「誤り」は学習者が学ぶために用いる手段であると 考えられるからである。「誤り」は学んでいる言語の性質について自分が立 てている仮説の正否を確かめる良い方法なのである。「誤り」をするという
ことは母語を習得している子供や第二言語を学習している人々にとって用い られる方略なのである。
次に示す対話は子供が言語を習得している最中に録音されたものである。
その対話には、我々が第二言語学習の教室で日常的に経験するようなまぎれ もない類似性が観察される。
Mother:Did Billy have his egg cut up for him at breakfast?
Child: Yes, I showeds him.
Mother:Yes what?
Child: Ishowed him.
Mother:You showed him?
Child: Iseed him。
Mother:Ah, you saw him.
Child: Yes, I saw him.
(下線部訳者)
子供はこの短い対話の中で、三っの仮説を体験したことになる、すなわち 過去時制の主語と述語の一致に関すること、またふたっ目にはshowとsee
の意味に関すること、さらにseeの不規則動詞の形に関してである。もし子 供が即座に1 saωhim.と答えたとしたら、子供が単に模範文を繰り返した だけなのか、あるいはすでに先に述べた三っの規則を学習していたのか、我々 には判断する手掛かりがないことになる。子供の言語発達に関しての長期に わたる研究のみが、この問題に答えることができるのである。また母親が子 供の誤りを「訂正する」仕方を観察することは興味深いことである。ひとっ の誤りにっいてのみ、彼女はあえて自らyou sαωhim.という正しい形を 子供に与えている。他のふたっの誤りのケースにっいては、子供の発話に対
しては彼女はただ単にyOUωhat ?とかYOU shoωed him 9と言って子供 に尋ねるだけで十分であった。単に正しい形を提供することが必ずしも本当 に最も効果的な唯一の訂正方法となるとは限らない、というのも、他にとっ て代わる仮説を学習者が実験する方途をふさいでしまうことがあるからであ
る。学習者に正しい形を発見させることは教授者にとっても学習者にとって も、教育上、より有益であることがある。これが、すでに紹介したCarroll が提案している趣旨である。
ここで我々は次のことを述べておきたい。学習者が正しい形の発話したか らと言って、彼が学習目標言語の母語話者が発するような言語形態を生み出 すことができるような言語体系を学習した証拠であると決めっけることはで
きない。その理由は、彼は単に聞き覚えのあることばを繰り返しているにす ぎないかもしれないからである。そのような場合には、我々はそのような行 動を「言語」としてではなく、(Spolsky,1966)の用語を用いて「疑似言語 行為(language−1ike behavior)」と分類する。また表層的には逸脱していな いような発話も学習目標言語の母語話者が発するような正しい言語形態を生 み出している証拠とはならないという事実を見過ごしてはならない。そのよ
うな発話はそれが話される状況的文脈に意味的に則したものでなくてはなら ないからである。 Iwant to know the English. 「私はイギリス人を理解 したい」という文を発した学習者はまともな感情を表しているのかもしれな いが、それ以上に「英語と言う言語を学びたい」と言おうとしている可能性 のほうがはるかに高い。彼の発話が正しいかどうかは、それが話される状況
しだいで決まるものである。
第一言語と第二言語の学習方略は同じかもしれないということが言われ続 けてきたが、ここで、この両者の違いにっいて、きちんとした区別をする必 要がある。第一言語学習者は学習している言語の性質にっいて、検証を受け ねばならない無限の仮説を立てていると考えられる(これを疑う強い反論も ある)。これに対して第二言語学習者がこなす課題は第一言語学習者のもの よりも単純であると考えられる。すなわち第二言語学習者が検証を受けねば ならない仮説は「新しい言語の体系はすでに知っている言語体系と同じなの か、それとも異なったものであるのか」「そしてもし異なっているとしたら、
その性質はどのようなものなのか」だけである。これに対する証拠は、すべ てではないが、かなりの数にのぼる「誤り」が学習者の母語と関連している
ということである。すでに指摘されているように、これらは母語の言語の特 性が干渉して引き起こされるものであると帰結してもよいであろう。新しい 仮説では、それらの「誤り」は古い言語慣習に固執しているから起こるので はなくて、むしろ学習者が新しい言語体系を模索している証しであると解さ れている。Saporta(1966)はこの点を次のようにはっきりと述べている。
「言語獲得メカニズムの内的構造(すなわち学習者自身)は、構成要素の一っ は学習者の母語の文法にあるということを指摘した以外は、これまで比較的 ないがしろにされてきた。この構成要素の効果は促進要因というよりはむし ろ阻害要因として働いていると一般的に考えられてきた」。この理論的立場 は、学習者が母語を獲得しているということは促進要因となるということと、
「誤り」を学習阻害要因の証しとしてみなすのではなく、単に学習方略の証 しであるとの見解にもとついている。
「我々には言語を教えることは実際にはできない、我々にできることは、学 習者の心の中で自発的に言語が発達していくことができるような環境を整え てあげることだけである」と言ったVon Humboltの見解が思い起こされる。
我々は学習者が学ぶ仕方にっいてもっとよく知り、学習者の「先天的に内在 化された教授細目」がどのようなものであるかを知ってはじめて、適切な言 語学習環境を作りだすことができると考えている。これが解明され、(そし てもし学習者が犯す「誤り」を体系的に研究することができ、その「誤り」
が我々に「先天的に内在化された教授細目」について何らか情報を提供して くれれば)、我々はいままで抱き続けてきた考え方にっいてもっと批判的に なることであろう。学習者の生得的方略が、我々の与える言語訓練の方向づ けをし、我々の教授細目を決定づけをすることになるであろう。学習者に何 を、どの時点で、どのように学ぶべきかといった予見を押しっけるのではな
く、彼らのニーズにあったように我々自身を軌道修正することを知ることが 必要である。
「術語・用語解説に使用した参考文献」
1.『ロングマン応用言語学用語辞典』山崎真稔,高橋貞雄,佐藤久美子,
日野信行訳.1988,南雲堂
2.『新英語学辞典』大塚高信,中島文雄監修1987,研究社 3.『新言語学辞典』安井稔編,1975,研究社
4.『現代英語学辞典』石橋幸太郎他編,1973,成美堂