28-1 2. 横大路家住宅(糟屋郡新宮町) 『横大路家文書(3)』、『岩屋紀録(4)』、『横大路家 住宅修理工事報告書』、藩編纂史料群(5)から御成座敷 や由緒に関わる出来事・情報を抽出し年表(図1)にま とめた。以下、本図を用いながら考察を進める。 2.1 千年家(最澄法燈)伝説の創作と御成屋敷の所持 横大路家には、初代当主が最澄の独鈷寺開山に尽力 して横大路姓・法燈・毘沙門像を拝受した伝説があ り、江戸後期には上府村「千年家」の名で知られる。 最澄法燈伝説の初見史料は、寛政8年に横大路家が 作成した「覚(岩屋の由来)」である。また、翌年には 「横大路旧記」があり、以後の由緒書の底本となって いる。最澄の独鈷寺開山伝説は宝永6年編纂の藩の地 誌『筑前国続風土記』にも見え、それ以前から知られ た伝説であった。横大路家が同伝説を由緒に取込んだ 時期は不明確だが、それを絞り込む手掛りとして『岩 屋紀録一號』「末實」の項に以下の記述がある。 「享保六年五月廿二日筑前国主黒田松平筑前守継高上府村芋田 ニ駐駕乃チいはやノ家居什器ヲ展覧ス享保十年九月柳河君立花
近世後期における大型民家の成立事情に関する一考察
由緒創作と武士身分兼帯との関わりを中心に 山内 彩友美 1. はじめに 従来、近世後期民家の大型化は18世紀以降顕在化 する有力農町民の経済的成長との関係で理解されてき た。確かに経済力の背景なしに大型民家を所持するこ とは不可能であり、これに異論はない。ただ、近世民 家の大型化に大きく関わる要素が武家儀礼空間(座敷・ 式台・次の間等)の取込みにあることを考えると(1)、経済 面単体からの理解だけでは不十分と思われる。即ち、 武士身分の兼帯・買得(つまり、身分・家格の上昇運動)、 それに密接に絡む由緒創作という視点が必要である。 その事例の1つとして前稿(2)で、直屋併列型の大型民 家椎葉鶴富那須家住宅の成立事情を、椎葉郷内外の政 治・権力事情を勘案しつつ分析し、平家伝説由緒の創 作と一連のものであるという見解を示した。 本研究では、民家の大型化と由緒創作の関係とい う視点の深化を目的に、武家儀礼空間の所持と由緒 (創作)の存在が同時に看取される5事例(①横大路家「竈 造り(福岡県新宮)」,②彌富家「六間取り(熊本市)」,③鶴富那須 家「直屋併列型(宮崎県椎葉村)」,④阿佐家「中ねま型(徳島県祖 谷)」,⑤上下時国家「能登型(石川県)」)を取り上げ、各々に 対して分析・考察を行った。これらの所在地域や民家 形式は異なっているため、まずはここに地域性を越え た現象であることが確認できる。更に、個別に得られ た結論から、共通事項を確認・抽出し、当該期の社会 背景からその共通項が持ち得る意味を考察した。 ここで論旨を明確にするため、本稿で行う考察の内 容を概述しておく。まず各事例の事例検証を行った上 で、これら5事例から由緒創作を伴う武家儀礼空間の 所持(民家の大型化)が地域の民家形式の枠内でなされて いる実態を確認する。そして、その平面構成(武家儀礼 空間の消化方法)に武士身分の兼帯(身分階級)が如実に反 映されることを指摘し、それと同時に、当該期に顕著 となった武家社会体制の崩壊過程と大型民家の成立と の関連性を示す。その上で、昨今、疑義を呈されてい る兵農分離の問題にも言及して、展望とする。なお、 本稿では紙面の制約上、論旨の核を構成する横大路家 住宅と彌富家住宅の2事例を中心に考察を詳述する。 他3事例については4章(図5)にて概略を示した。 戦国期 立花氏旗下の筑前上府村の在地小土豪。 道雪書状(横大路家所蔵文書1378-1~4) 江戸初期 立花氏移封時に帰農。 『岩屋紀録1号』「末重」 慶長5年 (1600) 黒田長政入国時の領内案内役。 「上府村検地帳」/慶長七年の末尾加筆文 (横大路家所蔵文書83-1~2) 元禄元年 (1688) 藩の編纂事業『筑前国続風土記』の着手。 /元禄16年(1703)藩主に献上、宝永6年(1709)完成 獨鈷寺・岩井水の伝説記述のみ、横大路家記述なし 『筑前国続風土記』 /巻之十九 糟屋郡裏 17世紀 後半 4代 末慶 /大庄屋 村吏(庄屋)から上府村大庄屋(大保正)に昇進。 /末慶没年:元禄15(1702)年 『岩屋紀録1号』「末慶」 享保6年 (1721) 藩主黒田継高が駐駕し什器を展覧。 享保10年 (1725) 柳川藩主立花貞則より家の事実を諮問。 享保18年 (1733) 大庄屋を勤めた事で藩主より賞典をもらう。 脇差の帯刀を許される。 『岩屋紀録1号』「末實」 宝暦2年 (1752) 6代 政直 /庄屋役 藩主継高岩屋宅に三夜逗留。御成座敷建築。 /以後、御成座敷を利用。 『岩屋紀録1号』「政直」 宝暦二年時ニ名ヲ源四郎ト改ム十一月十九日 国主筑前少将継高源四郎カ岩屋宅ニ三日夜 駐駕物品幾個ヲ賜ウ当時源四郎数百年前家 屋ノ傍ラニ国主駐在ノ坐敷ヲ結構ス 天明4年 (1784) 藩の編纂事業2『筑前国続風土記附録』の着手。 /寛政5年(1793)草稿を上進、寛政9年藩主に献上 上府村農長として源四郎の名はみえるが伝説の記述なし 『筑前国続風土記附録』 /巻之三十六 裏糟屋郡上 18世紀 後半 7代 末豊 /庄屋 上府村、飢饉等により徐々に衰退。 /横大路家も困窮。 「屋敷修繕につき願書」 /寛政十三年春ヵ(横大路家所蔵文書381) 寛政8年 (1796) 「覚(岩屋の由来)」が書かれる。/寛政11年「覚(岩井水および横大路家由来)」 (横大路家所蔵文書280-2、280-1) 寛政9年 (1797) 「横大路旧記」を藩に提出。 「裏粕屋郡下府村入庄屋治右衛門旧宅/上府 村家続之次第乍恐書上之覚(横大路旧記)」 (横大路家所蔵文書541) 寛政11年 (1799) 藩主、岩井の水を酌用を命ず。 翌12年、秋月藩家臣が由来を諮問。 『岩屋紀録1号』「直秀」 寛政12年 (1800)頃 家老へ御成3間取り壊しを伺うも、取り止め。 「屋敷修繕につき願書」/寛政十三年春ヵ(横大路家所蔵文書381) 寛政13年 (1801) 黒田氏家臣・秋月藩家臣等、武家が相次ぎ 訪来し、伝教大師伝来の毘沙門天へ参詣。 家屋の柱を削り取る者も。 「毘沙門天御参詣附帳」 (横大路家所蔵文書168) 享和2年 (1802)頃 「千年家ならびに最澄伝来毘沙門天木像由緒・同 木造姿図(木版)」の制作。 (横大路家所蔵別置文書<軸装>目録外) 文化年間 御成3間を売却。 /文政7年より15、6年以前とされる。 「千年家につき郡代役所宛書上控」 /文政七年(横大路家所蔵文書264) 文化7年 (1810)頃 旧家の所在問い合わせに対しての回答として 「横大路家由緒につき覚」が書かれる。 (横大路家所蔵文書267) 文化11年 (1814) 藩の編纂事業3『筑前国続風土記拾遺』の着手。 /天保8(1837)前後完成 横大路家に関する記述あり。 『筑前国続風土記拾遺』 /巻之二十五 裏糟屋郡上 文政4年 (1821) 横大路家維持のため、藩より年間400目宛、5ヶ 年間下賜する旨の通知。 「横大路家取続のため下賜証文」(横大路家所蔵文書250) 文政7年 (1824) 郡代役所による千年家調査。 /横大路氏は古材柱一本の遺存を報告。 「千年家につき郡代役所宛書上控」 (横大路家所蔵文書264) 明治25年 (1892) 12代 茂助 海妻甘蔵に横大路家系譜を編集させる。 『岩屋紀録1~4号』 時代/年 (帰農後)当主 出来事 関連・典拠史料 9代 勝興 /組頭 1代 末重 /上府庄 5代 末實 /触口役 (大庄屋) 『岩屋紀録1号』「末實」 (論中に文章記載) 8代 直秀 /庄屋 図1 横大路家年表28-2 飛弾守貞則ヨリ横大路家ノ事實ヲ諮詢ス末實小書ヲ進逹ス」 これには、享保6年に藩主黒田継高が横大路家の 「什器」を展覧したこと、同10年「家ノ事實」に柳 川藩主立花貞則が関心を示し、諮問したことが記され る。この「什器」「家ノ事實」とは、太守クラスが関 心を持った点に鑑みて、法燈伝説に関わるものと考え られる。そして周囲の認知を勘案すれば、由緒の成立 は享保6年から40~50年程は遡ると思われる。する と、これは大庄屋昇進の時期(17世紀後半)に重なる。 由緒の成立背景を探るため、横大路家の来歴に触れ ておく。4通残る横大路氏宛、戸次道雪書状の存在か ら、当家が道雪の立花城督期(元亀元年~天正12年)以前 に上府村の在地小土豪であったのは疑いない。即ち、 土地に根ざした戦国期土豪の伝統と経歴を利用して自 家の由緒に最澄伝説を取込んだと推察される。上記の 通り、由緒は享保6年・同10年に藩主継高・近隣大名 立花氏の目に留まり、宝暦2年には継高の再訪を呼ぶ ほど武家の強い関心を引いた。それが如何に強いもの であったかは、後事ではあるが、寛政13年「毘沙門 天御参詣附帳」に黒田宗家・秋月黒田家の家臣等、武 家の名が列記されている点にも窺える。御成座敷の成 立が横大路氏側による意図的な藩主誘引の結果による ものか、継高側が関心を抱き御成した結果によるもの かは不明ながら、横大路氏側の家格上昇志向に根ざし た積極的な由緒創作の所産の可能性が極めて高い。 2.2 御成屋敷の解体経緯にみる住宅・家職の二面性 宝暦2年の継高再訪に 伴い、御成座敷が建設さ れ、家屋は一挙に大型化 した(以下、宝暦屋敷)。そ の形態は、筑後及びその 隣接地域の典型的な農家 形式の家屋(竈造り)に式台(推定)・座敷を角座敷型に付 加した姿だったことが、御成座敷存在時の家相図(6)か ら分かる(図2)。農民住居としての竈造り部分と武家儀 礼空間としての式台・座敷部分は、一般的な上級農民 のものに比べて突出した規模・形態を持つ。具体的に いうと、竈造り部分の規模は8×6間、その中の「表 間」は12畳あり、現存の地域民家では最大クラスに 属する(7)。そして座敷部は、御成座敷だけあって各8 畳の「次ノ間」「座敷」「御成間」の三段構成から成 り、上級武家並の格式である。しかし、農民住居部分 と武家儀礼空間は有機的関わりを持たず、突き合せの 形で並立した状態である。つまり、式台を中心に構成 された武家屋敷タイプの平面ではない。 宝暦屋敷を理解する上で、寛政13年「屋敷修繕に つき願書」が示唆的である。同書には、18世紀後半 の飢饉による家計の困窮を契機に、家老に御成間の取 壊しを願い出たところ、次回の藩主御成の予定を理由 に却下された経緯が述べられている。ここに窺えるの は、農耕主としての生業に、藩施設である御成屋敷の 維持管理を担う在地末端官吏としての役割を兼任した 横大路家の二面性である。これを反映したのが宝暦屋 敷の形態である。前記の願書から数年後の文化年間に 御成間は解体され、その後、馬屋部分も解体されて、 家屋は現存の鍵屋型平面となった(8)。横大路家住宅は 武家儀礼空間を切り捨てて農民住居の姿へ戻った(9)。 つまり、宝暦屋敷が元より武家屋敷として再編された ものではなかった故に可能であった回帰である。 3. 彌富家住宅(熊本市) 身分上昇と座敷獲得・由緒創作の関係を探るため に、彌富家由緒書(10)と先行研究(11)から年表(図3)を作 成した。以下、本図を用いながら考察を進める。 3.1 寸志による身分取得と武家儀礼空間の所持 肥後細川藩では、寸志の額に応じて農民が武士身 分を取得できる金納郷士制度が寛永11年より見られ る。彌富家は、元禄期の沼山津村への移住・改姓後ま もなく、藩への継続的な寸志を開始した。初期は寸志 の見返りがなかったようだが、四代当主が「御褒詞」 を得て以来、五代当主時に7~9石の蔵米扶持取、そ の後、蔵入知行80石取・留守居番方へと着実に身分 上昇を続け、遂に、七代当主時の文化2年には蔵入知 行200石取・留守居番方にまで異例の躍進を遂げた。 彌富家は多額の寸志という経済的実力で身分を上昇 させた最も成功したクラスの金納郷士であるが、そ の先には重厚な身分の壁が存在した。即ち、200石知 図2 横大路宝暦屋敷平面図 戦国期 小西行長の家臣と自称。 寛永11年(1634) 肥後細川藩による金納郷士制。 元禄年間 沼山津村に移住し、改姓。質物預りを行う。 元禄16年(1703) 難渋の年柄につき質代銀17貫5目を献金。 (寸志の開始) 宝永5年(1708) 銀9貫600目献金。 /見返りなし 享保9年(1724) 銀1貫目献金。/同13年銀700目、16年銀1貫目献金。 享保17年(1732) 銀2貫目献金。米3石5斗・粟5石4斗を施与。/元文3年米41石4斗献上。 群奉行より「御褒詞」 寛保2年(1742) 銀7貫500目献金。/同4年近隣村の零落の者に施与。 /見返りなし 延享2年(1745) 銀10貫500目献金。 七人扶持取り、歩御使番段 延享4年(1747) 米10石5斗献上。 /同3年銀5貫目献金。 九人扶持取り(「弐人扶持加増」) 奉行所触中小姓 寛延2年(1749) 銀25貫目献金。組入り。 蔵米80石知行、留守居番方 宝暦8年(1754) 家督引き継ぎ。 蔵米80石知行、留守居知行取 明和元年(1764) 銀100枚献金。組入り。 /同3年粟20俵・米5俵の施与。同4年鳥目1貫目献金、村方 窮民に施与。同7年金15両、寛政3年鳥目8貫目献金。 留守居番方 /宝暦11年「御上下」拝領 享和2年(1802) 「先祖附」を提出。 寛政3年(1791) 家督引き継ぎ。組入り。 蔵米80石知行、留守居番方 寛政8年(1796) 粟30俵施与。鳥目20貫目献金。組入り。 /同9年銭18貫目献金。 蔵米130石知行(「御蔵米御知行五十石御加増」) 文化2年(1805) /同3年銭10貫目献金。同7年米80俵献上。組入り。 蔵米200石知行/同8年「御上下・ 御小袖・御袷羽織」拝領 文政6年(1823) 「先祖附」を提出。 文政10年(1827) 「御奉公附」を提出。/同11年7貫目、翌年3貫目献上。 天保2年(1831) 家督引き継ぎ。 /同8年粟50俵献上。組入り。 蔵米200石知行、留守居番方/文政7年「於講堂御言賞」 天保9年(1838) 非常の凶作。/粟15俵・銭20貫目施与。 住宅の大改築。 「上下」拝領 天保14年(1843) /同10年7貫目、弘化2年金10匁献金。嘉永3・4年粟101俵施与。同7年銭30貫目、安政7年銭50貫目献金。 留守居番方席 万延元年(1860) 9代 千左衛門家督引き継ぎ。 蔵米100石知行 留守居番方席 慶応元年(1865) 家督引き継ぎ。 /同2年金200両、30両献金。 十人扶持、留守居中小姓 /同2年留守居番方席 明治5年(1872) 「御布告に付差出候先祖附」を提出。 10代 四郎彦 時代/年 当主 出来事 身分上昇過程 4代 藤三郎 3代 四郎兵衛 5代 次右衛門 6代 安之允 7代 千左衛門 8代 四郎兵衛 図3 彌富家年表
28-3 行取という郷士としては破格の地位を得ながらも、 在郷しての金納寸志の役割を担わされ、武士身分を 与えられる一方で、農民身分の兼帯は外されなかっ た。横大路家よりも格段に武家としての格式を高め た存在であるのにも関わらずである。 この身分の二面性 は平面形式に顕著に 窺える。天保9年時の 平面をみると、地域 の農家造り(四間取りの 発展形)に並立する形 で、式台・座敷を付 加した形態である(図4)。農家造り部分は桁行10.5間× 梁間6.5間(内、土間が6×4.5間)に5.5×2.5間の使用人部 屋が付く、農民住居としても突出した規模である。 とりわけ土間は、大農耕主の性格を反映して巨大で ある。そして座敷部分は、式台に「玄関ノ間」8畳、 「次ノ間」10畳、「主座敷」12畳という400~500 石級の武家にも優る規模・構成である。 彌富家住宅は、天保9年の板図から、農家造り部 分が同年の、座敷部分がそれ以前の建築と推定され る(12)。座敷部分の成立時期は定かでないが、彌富家 の地位と郡代直触に就く上での座敷の必要性、更に 座敷の規模から考えて、知行取の地位を得た辺りで ある可能性が高い。また、天保9年の改築時は既に 200石知行取であったが、改築された農家造り部分は 巨大な土間に特徴づけられる正に大農耕主に即した 住居形態を採る。つまり、上級の武士身分を兼帯し ても武家屋敷としての平面構成の再編成は行われな かった。そして、武家的空間と農民住居の部分を並 立・分別して扱っていたことは、屋根材料の違いか らも窺える。農家造り部分は使用人部屋も含めて瓦 葺とされたのに対し、座敷部分は明治期(13)に至って も母屋は茅葺、下屋は瓦葺の形式を保持し続けた。 これは古式・伝統を意識した結果だと考えられる。 3.2 由緒書の形式にみる彌富家の由緒創作の特徴 彌富家は知行取となった後、武士身分が一代限り の特権という原則上、代替わりの度に由緒書を藩に 提出している。これらは形式・内容を同じくし、① 出自(由緒)、②沼津村への移住経緯、③寸志による身 分取得・上昇の過程を記している。ここで注目され るのは、寸志の時期・内容・金額と取得した地位を 詳細に記すのに対し、出自については「私先祖加生 織嘉右衛門と申者小西摂津守殿家来ニ而御座処ニ摂 津守との没落之後益城郡上嶋村江浪人仕居申候」、 小西行長旧臣と簡単に記すに留まり、先祖の来歴・戦 功の言及は皆無に近いことである。横大路家が作成し た由緒書に比べると、彌富家の出自部分は極めて簡素 で、由緒創作の積極性に乏しいといえる。 在地土豪に由来する横大路家や鶴富那須家とは異 なって、元禄以後の移住者である彌富家は、地場の名 族の名跡や伝説を取込むことが難しかったと推察され る。故に簡潔な由緒創作に止まったと考えられる。た だ、由緒創作で最も重要な点は、何をおいても「筋目 の家柄」の"証明"である。これには刀狩令が参考にな る。刀狩の主眼は農民の武装解除そのものではなく、 武家身分の象徴である帯刀を禁止することで、中世以 来、曖昧だった身分の峻別にあった(14)。その際、筋 目の(武家由緒のある)家柄に限っては、刀の返却・帯刀 が許された。つまり武家側は、農民に準武家の格式を 許すに当って、自分たちの階級の血統を守るために 「筋目」の証明を求めた。これは、武士身分・武家儀 礼空間の取得においても同様であったと考えられる。 以上を勘案すると、彌富家の由緒書成立には次のよ うな背景が推察される。即ち、彌富家では武士身分・ 武家儀礼空間の取得に当って、武家側から筋目の家柄 の証、それが無ければ、殆どの武家が先んじて行った ように由緒の創作を求められ、元より目立った由緒を 持たない同家では、武士身分への参入のための最低限 の必要事項である「筋目の家柄」のみを簡潔に記し た。つまり、意外にも武家側が農民側に由緒創作を求 めた事例ではないかと考えられる。 4. 結論と展望 以上の2事例と、残り3事例(鶴富那須家,阿佐家,上時国家 /次頁、図5参照)から結論として次の推察を提示する。 ①民家の大型化と由緒創作、農民による武士身分の 取得(士分の兼帯)は、三者一体の関係にある。大型民家 は士分取得の反映であると共に、家格の高さを誇示す るための由緒創作の一環(一道具)でもあった(15)。 ②農民の由緒創作には、彼らの積極的な身分上昇運 動が主体の場合と、彼らの士分兼帯を許すにあたって 身分的血統を守りたい武家側の要請が主体の場合があ る。即ち、武士身分の公認と一対の民家の大型化のた めには農民側の意思に関係なく由緒創作を必要した。 ③武士身分の取得で民家は大型化しても、一廉の知 行主へ躍進した彌富家の例に顕著なように、農民身分 の兼帯が付随する限り、その文化圏の民家形式の骨格 を保ったまま、農民住居部分と武家儀礼空間が並立す る形態を採り、武家屋敷としての平面構成の再編はな かった。これは民家の地域性を越えた現象である。 図4 彌富家住宅一階平面図
以上の推察の下に、近世後期大型民家の成立事情 を、武家儀礼空間の在り方に着目しつつ考察する。 武家儀礼空間は元来、農民生活には不要であった が、有力農民が士分を兼帯し、在地末端官吏として武 家職制の一部を担う中で必要になった。その結果、武 家儀礼空間の取込みが、地域の民家形式の枠組内で行 われたことは既述の通りである。本稿で扱った5事例 を見ると、各々の民家形式は異なるが武家儀礼空間が 農民住居部分に対して並立付加する点で共通する。 ここに武家屋敷形式(式台,表,奥が一棟一機能型で、しかも各 棟が身分格式の下に有機的な繋がりを持つ)としての再編は 見られない。特に、上時国家に至っては200石高持の 上、海運主としての実力から上級武家を凌ぐ格式(折上 格天井等)の座敷空間を所持したが、その家屋は構造的 限界と思えるところまで能登型民家を拡大化し、武家 空間を強引に消化したものであった。武家屋敷形式を 採れば容易に平面的納まりがつくにも拘らずである。 上記の理解に際し、示唆に富むのが「非常帯刀」 (15)制度である。これは農民身分のまま、必要時(武家儀 礼及び職務の代行)にのみ帯刀を許可され"一時的に"武士 身分を兼帯する制度で、大型民家の登場と時期を一に する。その成立事情は、経済的困窮が進む中で支配層 の地位を堅持したい武家側と、経済的実力の向上を背 景に身分的欲求を募らせる有力農民側の間の相反する 利害の均衡点(身分的妥協点)を投影したものであった。 その際の農民側の了解事項は、内実はともかく身分 的節度を遵守するというものであったとされる。ここ で「帯刀」を「武家儀礼空間」に置き換えれば理解し 易い。即ち、農家形式を崩さずに武家儀礼空間を所持 する、ということである。それ故、横大路家の例に明 らかなように武家空間を放棄した後も、農民住居とし て機能しうるのである。換言すれば、本質は「農民身 分」が解けないことを意味し、これは彌富,上時国ク ラスにまで昇り詰めようとも変わらない。この現実に 鑑みる時、兵農分離の社会的意味の重さが再確認され る。よって、昨今、兵農分離体制の意味を重視しない 学説が文献史学で注目されつつあるが、物史料に則せ ば賛同し難い。民家の大型化の進行、即ち、武家儀礼 空間の所持及び武士身分兼帯、それと一対をなす由緒 創作の深化は、兵農分離体制の崩壊の産物であり、そ の示準である。一方で、農民住居形式の枠組に拘束さ れつつ大型化していく民家の姿は、体制の崩壊が進め ば進むほどに身分の壁の存在感が顕在化するという一 見矛盾にも満ちた状態を明示するものといえる。 【補註】 (1)民家の大型化は①室規模の拡大、②室の付加(機能分化)が関係が、特に②が大き い。近世後期の有力農民住居の特徴に座敷,次の間の付加がある。一方、寛永9年『肥 後人畜改帳』に見えるように、戦国期社会の名残を留める近世初期民家には、母屋の 規模や座敷の有無には持高の差は直に反映されない。つまり近世初期民家では座敷の 所持に特別な価値観を求めなかったと考えられる。(木島孝之,福岡市埋蔵文化財セン ター講座「住まいと暮らしのうつりかわり」第7回「中世領主居館の要害化~戦国期 山城への道~」[5-2]近世初頭期農民住宅家屋における戦国期スタイルの継承,2012) (2)拙稿「椎葉鶴富屋敷に関する一考察-大型民家の成立と由緒創作-」,『日本建築学 会九州支部研究報告』52,2013 (3)本稿では『横大路家住宅修理報告書』集録の翻刻文書を用いた。 (4)明治25年、海妻甘蔵による横大路家譜1~4号。1号に横大路系図・系譜、2~4号に その考證が記される。本稿の論旨と関わる享保6年・宝暦2年の藩主訪問は1号を参照 したが、管見の限りその原典は確認できない。ただ同じく後世の記述だが、寛政9年 「横大路旧記」の追記(同文内、文化4年記事の存在からそれ以後の成立)にも藩主継 高の訪問が見える。更に、当期の状況として藩主に関する虚偽の記載はほぼ不可能と 考えられるため「横大路旧記」『岩屋紀録』の当該記事は確かなものとして扱う。 (5)藩による一連の編纂史料3点。貝原益軒『筑前国続風土記』宝永6年、加藤一純,青 柳種信『筑前国続風土記附録』寛政9年、青柳種信『筑前国続風土記拾遺』天保8年。 最澄法燈伝説に関する記述は『続風土記』『附録』にはない(但し『附録』濱男村の 項には「上府村農長源四郎」が取上げられる)が『拾遺』にはある。この経緯は明ら かでないが、寛政の由緒書が『拾遺』での取上げの契機となった可能性は高い。 (6)「宝暦古図」(『横大路家住宅修理報告書』に掲載) 図の破損部につき確定はで きないが、同報告書では式台が存在した可能性が指摘されている。 (7)『福岡県の民家緊急調査報告書』1972 には現存の横大路家住宅(鍵屋型民家)が掲 載され、同型発展系統のLM7型(L1~4:横納屋,座敷型,鍵屋、L5~7:縦納屋,座敷型, 鍵屋、M:内馬屋)に分類される。同家は現存平面でも地域の中で最大クラスである。 (8)(6)で示した古図の他に横大路家には、文政・明治・昭和の平面図(家相図)が遺存 する。これらに描かれる姿は現存の横大路家住宅平面と概ね変わらない。 (9)文政4年「横大路家取続のため下賜証文」には、(御成座敷の解体後も)困窮にあっ た横大路家に対して藩が支援を行った旨が記される。ここでは支援を行う理由とし て、横大路家が古い家柄であることを掲げている。また、翌年には庄屋から米や畳・ 襖の現品が支給される(文政5年「横大路家取続につき口上覚」,所蔵文書559)。 (10)(11)内には5点の由緒書が掲載・記載される。彌富家年表(図3)には内4点の情報 を記載し、年表作成には明治5年「御布告に付差出候先祖附」を主に用いた。 (11)渡辺雅人,塩田栄一郎「熊本市の民家に関する研究-画図、秋津の民家を例にとっ て-(第2節秋津町における彌富家の実測調査及び考察)」2001 (12)彌富家の建設年代については(11)の考察を参照した。そこでは①天保九年銘の古 図面(板図)で「中の間」以南がシングルラインで描かれること②礎石の形式の違いを 理由に年代を推定している。但し、現存平面の「玄関の間」「式台」は大正9年の新 築で、当時の姿は不明である。また、同年には座敷部分の茅葺が瓦葺へ改造された。 (13)(11)掲載の「彌富家の明治時代の写真」を参照。 (14)藤木久志『刀狩り-武器を封印した民衆-』2005 を参照。 (15)民家を大型化する行為が由緒創作の一環であることを、那須家を事例に述べた。 (参考(2))また、由緒創作の目的は、身分格式社会で農村経営を優位に進めるための 家系,家格の上昇にある。(井上攻『由緒書きと近世の村社会』2003 等参照) (16)尾脇秀和「近世の帯刀と身分・職分-「非常帯刀」の設定と逸脱-」『日本歴史』 798,2014 を参照。 【図版出典】 図1 『横大路家住宅修理工事報告書』掲載の当主一覧(図5)を基に筆者作成。 図2 同上資料掲載の変遷図(図10)より抜粋して加筆転載。 図3 筆者作成。 図4 (11)掲載の「彌富家一階平面図」を加筆転載。 図5 各報告書掲載図面に筆者加筆。分析・参考資料の詳細については本論参照。 ニワ チャノマ(オエ) ナンド オクノマ アラト ノマ (デイ) 0 1 2 3 4 5 土間 茶の間 あらけ の間 中の間 奥の間 下広間 式台の間 上広間 (折上格天井) (格天井) (縁金折上 格天井) 上段の間 伺の間 小間 佛 間 書院 書院 床 床 式台玄関 0 1 2 3 4 5 0 1 2 3 4 5 ドマ (土間) ウチネ/内寝 (茶の間) ツボネ/局 (夫婦部屋) デイ/出居 (客間・行事場) コザ/御座 (神棚、仏壇) メクラナゲシ (オハラ/オワデイ) (シタハラ/シタデイ) 座敷部分 農家造り部分 0 1 2 3 4 5 ドマ メクラナゲシウチネ メクラナゲシデイ ニワ ネマ ナカノマ オモテ 0 1 2 3 4 5 0 1 2 3 4 5 ネマ (元) ドマ ダイドコロ コヒキバ トコ ロク ジョウ シキダイ カミザシキ ナゲシ(新) ナゲシ(新) インキョ ジョウダン ノマ シモザシキ 鶴富那須家住宅 ( 宮崎県椎葉村 ) 文政頃成立 阿佐家住宅 ( 徳島県祖谷 ) 文久 2 年頃成立 上時国家住宅 ( 石川県能登 ) 安政頃成立 直屋併列型 中ねま型 能登型 平面図 分析 地域民家型 【民家概要】 規模 : 桁行 12.5 間 (24.93m), 梁間 4 間 (8.66m) 地域最大規模 の一土間四室型民家 . 座敷空間の「コザ」「デ イ」が基本型 ( 一二室 型 ) に付加された形態 . 【家概要】 村の最上級支配層 : 庄 屋 4 家 , 横目 2 家から は外れるが , 村上級層 所有の由緒書『椎葉山 根元記』にみえる平家 落人伝説関連文書「大 八郎墨付け」「那須家 系図」を独自所有する . 【民家概要】 規模 : 桁行 8.5 間 , 梁 間 5.5 間 (ドマ1.5×3.5 間 ) 祖谷山地区におけ る最大クラスの民家 . 座敷はシキダイにカミ・シモザ シキ( 各 10 畳 ) が付く . 同一規模の現存民家に 徳善家 , 喜多家がある . 【家概要】 在地土豪の家柄であ り , 祖谷山上級層 ( 祖 谷八士 ) の 1 家である . 「平家の赤旗」2 流を 所持し , 平國盛の後裔 を名乗る祖谷平家落人 伝説の中心家である . 【民家概要】 規模 : 桁行 29.1m, 梁 間 18.1m で分家の下 家と合わせて能登地方 ( 全国でも ) 最大クラ スの民家 . 唐破風屋根 式台に鍵座敷が付き , 格式に合わせた格天井 仕上がされる . 【家概要】 300 石取の土豪であ る .17c 中後期には , 平 時忠の後裔とする由緒 書を所持した農民では 早期の由緒創作を行っ た例といえる . 寛永期 に上下家に分家した . 同県西部山岳地帯の民 家形式 . 室を桁方向に 付加する発展形式であ り , 奥に配された室ほ ど格式性が高まる . 同県西部山岳地帯の民 家形式 . 室を桁方向に 付加する発展形式であ り , 奥に配された室ほ ど格式性が高まる . 同県に広く分布する 民家形式 . 桁行梁行 両方向に室の拡大と 分化 , または室を付 加する発展形式 . 【祖谷上級層内の並立関係 ( 均衡関係 ) が反映された住居・由緒書】 ①祖谷上級層 ( 祖谷八士 ) は , 祖谷の中世名主 6 家と藩主蜂須賀氏が大政所に任命した近隣中 世名主喜多家 , その分家小野寺家から成る . 現存 3 家の家屋は規模 , 構成が同等で ,『祖谷山舊 記』でも八士各氏の由緒が同一様式で並立表記される . これは八士の並立的な関係を反映する . ②八士の祖谷近郊での由緒は南北朝期以前に始るとし平氏 , 源氏 , 藤原氏に出自を持つとする . ③中ねま型の各室を拡大し , 特に「オモテ」部分を機能分化し , 式台 , 座敷空間に仕立てた形態 . 【椎葉郷内外へ向けた二重の由緒創作 , 身分による住居形態の制約】 ①②椎葉上級層 ( 郷士 ) は平家後裔を謳う由緒書 , 大型の直屋併列型民家を所有する . これらは , 隣村 , 米良氏 ( 戦国期は同輩的な地位 . 江戸期に交代寄合 , 武家造の居館を所持 ) への身分対抗 意識を , 農民身分の枠組の中で具現化したものである . その中で鶴富那須家は , 最大規模の民 家・独自の由緒書を持ち , 椎葉上級層の惣領家を巡る家格対抗意識を兼帯したものである . ③直屋併列型の枠組の中で , 室面積を拡大し , 座敷空間を並列付加した形態 . 【農民よる早期の由緒創作例 , 大型民家の構造的限界点】 ① ②能登型の発展形式の中で , 室を拡大 , 分化させ , おもてに座敷・式台を付加した形態である . 最大規模の大型化であり , 大型民家の構造的限界ともいえる . ③ 図5 民家事例概略(図中「分析」の番号は、前頁の結論番号に対応)