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改革派認識論と悪の証拠的/確率論的問題

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(1)

ページ 1‑20

発行年 2006‑12‑20

権利 基督教研究会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011237

(2)

改革派認識論と悪の証拠的╱

確率論的問題

Reformed Epistemology and the Evidential / Probabilistic Problem  of Evil

三 宅 威 仁

Takehito Miyake

キーワード

改革派認識論、ディフィーター、悪の証拠的╱確率論的問題、認識的距離、認識的確 率、認知構造

KEY WORDS

Reformed epistemology, defeater, evidential/probabilistic problem  of evil, epistemic  distance, epistemic probability, noetic structure 

要旨

「悪の証拠的╱確率論的問題」は「この世界に実在する正当化され得ない悪が、神 の存在にとって不利な証拠となり、有神論的諸信念の真である確率を著しく減ずる」

或いは「有神論とは共立不可能な他の仮説の方がこの世界における悪の有様をよりよ く説明する。これは有神論を捨てて後者の仮説を採るべき理由になる」と論じること によって有神論に挑戦する。これに対し、改革派認識論は「神と人間の間には認識的 距離が開き過ぎているので、悪を正当化する善を人間は必ずしも認識し得ない」と、

また「人間の認知構造は各人各様であるため、命題や仮説の認識的確率は認識者によ って異なる」と応じる。

SUMMARY

The evidential/probabilistic problem  of evil challenges theism  by arguing that some  instances of unjustifiable evil in this world constitute negative evidence against the exist- 

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ence of God thereby reducing the probability that theistic beliefs are true, or that some other hypothesis incompatible with theism  offers a better explanation for the evil (its  existence, amount, distribution, etc.) providing a sufficient reason for us to prefer the  other hypothesis to theism.Reformed epistemology maintains that the good that justifies  the evil cannot necessarily be known to us due to the epistemic distance between God  and human beings, and that the epistemic probability of any given proposition or hypothe- 

sis varies from person to person because each Subject possesses his or her own distinct noetic structure.  

私は先に著した論文 において、悪の存在が改革派認識論にとって必然的に重大な 問題とならざるを得ない理由を解明し、「悪の論理的問題」(logical problem  of evil) に対する改革派認識論の応答である「自由意志による弁護論」(Free Will Defense) について考察した。

改革派認識論の目的は有神論的信念の合理的受容可能性の弁護にある。信念(即ち、

真として信ぜられている命題)の合理的受容可能性を打ち破る条件のことを「ディフ ィーター」(defeater)と呼ぶが、上記のような目的を抱く改革派認識論は、有神論的 信念に対してディフィーターとなり兼ねない問題点の一つひとつに答えていかなけれ ばならない。そして、最も手強いディフィーターの候補とみなされているのが、この 世界における悪や苦難の存在である。悪の問題は様々なレベルにおいて論議され得る が、改革派認識論はあくまで認識論的な問題を取り上げる。即ち、まず「悪の論理的 問題」 であり、次に「悪の証拠的╱確率論的(evidential/probabilistic)問題」 であ り、さらに「悪の非議論的(nonargumentative)問題」 である。

「悪の論理的問題」とは、「キリスト者は『神は全知全能である』や『神は絶対善で ある』といった一連の命題を真であると信じているが、その中の幾つかの命題は『こ の世界に悪が存在する』という命題と矛盾しており、論理的に共立不可能(incompat- ible)である。従って、キリスト教の諸信念は整合性(consistency)に欠け、それら を信ずることは非合理的(irrational)である」という疑義である。この挑戦に答える ため、プランティンガ(Alvin C. Plantinga、1932―)ら改革派認識論者は「自由意志 による弁護論」を展開した。自由意志による弁護論の核心は「道徳上の悪を含んだ世 界を創造することなしに、道徳上の善を含んだ世界を創造することは、神の力の及ぶ 範囲内にはなかった」という主張が可能であると示すことにある。この議論の有効性

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は「全能者といえども論理的な矛盾を犯すことはできない」や「或る悪い事態がそれ を凌駕する善い事態に含まれている場合、全善者といえどもその悪を排除しない」と いった様々な前提 を受け入れることに懸かっているとも言えるが、英語圏の宗教哲 学界においては、自由意志による弁護論は悪の論理的問題を効果的に解決したとみな されている。即ち、現在では、全知・全能・全善なる神の存在と悪の存在が論理的に 共立不可能であるという議論は殆どなされなくなっており、議論の焦点は、以下に述 べる「悪の証拠的╱確率論的問題」や、悪の存在が有神論的信念を基本的・直接的に 打ち砕くという批判、即ち「悪の非議論的問題」に移ってきていると言える。

さて、二つ(以上の)命題が論理的に矛盾しない(共立可能である)ということと、

一方の命題が存立することによって他方の命題の存立する可能性が減少するというこ ととは全く別である。例えば、「私」は或る人の名前が「佐藤」であると信じている。

しかし、その人が自ら「私は鈴木です」と名乗ったとしよう。「私」の信じている

「この人の名前は佐藤である」という命題は(本人が嘘を吐いているなどの理由で)

依然として存立可能である。しかし、この命題が真である可能性は激減した。同様に、

「神は存在する」という命題と「この世界に悪が存在する」という命題とが論理的に 矛盾しないとしても(即ち、「悪の論理的問題」が成立しないとしても)、この世界に おける悪の存在や質・量は、神の存在する可能性を著しく減少させることになるので はないだろうか。こうした考えに基づき、この世界に実在する悪を証拠として神の存 在の確率に対して投げ掛けられる疑義が「悪の証拠的╱確率論的問題」である 。

悪の証拠的╱確率論的問題には大きく分けて二つのタイプがある 。第1のタイプ は、神が存在するのであれば、この世界にはしかるべき理由のない悪は存在しないは ずだが、現実にはいわれのない(gratuitous)悪が存在する。この事実は神の存在を 否定する証拠となる、或いは神の存在する確率を減ずる、と論じるものである。代表 的な論者としてはロウ(William L. Rowe、1931―) が挙げられる。第2のタイプは、

有神論を前提するよりも、有神論とは共立不可能な他の仮説を前提する方が、この世 界に存在する悪をよりよく説明できる。これは私たちが有神論よりも後者の仮説を信 ずべき暫定的な理由となる、と論じるものである。この論法はドレイパー(Paul Draper) によって推し進められて広く知られるようになった。 

悪の証拠的╱確率論的問題に関しては英語圏において過去30年近くにわたって厖大 な量の文献が積み重ねられてきた。そのすべてを網羅することは私の能力に余るので、

本論では、(1a)「この世界に実在する正当化され得ない悪が神の存在を否定する証拠 になる」と論じるロウと、(2a)「私たちは有神論よりも巧みに苦痛の存在を説き明か す無関心仮説を受け入れるべきである」と論じるドレイパーを取り上げ、(1b)(2b)

それぞれに対する改革派認識論の応答について考察する。

(5)

1―a.ウイリアム・L・ロウ(William L. Rowe)

ロウが「悪の存在に基づく、無神論のための議論」(an argument for atheism  based on the existence of evil)を初めて公表したのは1979年のことであった 。ロウのため 

に予め注意を喚起しておかなければならないが、彼はしばしば誤解されたように、

「神の存在を肯定する証拠と否定する証拠のすべてを総合的に考量すれば、無神論が 勝っている」と主張しているのではない。様々な神の存在証明や宗教体験などは有神 論にとって肯定的に働く証拠であり、有神論者はそうした証拠をまず考慮に入れるよ うに求めるだろう。ロウも有神論にとって有利な証拠が数多く存在していることは否 定しない。ロウが考察したいのは、他の証拠はひとまず度外視し、この世界に存在す る悪のみを取り上げた場合、それが神の存在を否定する証拠となり得るかどうかとい う点である 。

ロウの最初期の議論は極めて簡潔で、この世界に生じる恐ろしい悪から直接的に無 神論を導き出そうとするものであり、次の三つの命題から成り立っていた。

(1)全能・全知なる存在者が何らかのより大きな善を失うことなく、或いは同等の もしくはより悪い悪を許容することなく、阻止することのできたであろうような、強 烈な苦しみの実例が存在する(There exist instances of intense suffering  which  an omnipotent, omniscient being could have prevented without thereby losing some greater  good or permitting some evil equally bad or worse)。 

(2)全知・全善なる存在者は、阻止し得るどのような強烈な苦しみの発生も阻止す るであろう。ただし、そのことによって何らかのより大きな善を失うか、同等のもし くはより悪い悪を許容しなければ阻止できない場合を除く(An  omniscient, wholly good being would prevent the occurrence of any intense suffering it could, unless it  could not do so without thereby losing some greater good or permitting some evil equally  bad or worse)。  

故に、

(3)全能・全知・全善なる存在者は存在しない(There does not exist an omnipo- tent,omniscient,wholly good being) 。

ロウはこの議論に関し、(1)から(3)に至る議論の形式は有効(valid)であり、従っ て、二つの前提(1)(2)を承認するに足る合理的な根拠(rational ground)があれば、

無神論(3)を受け入れるだけの合理的な根拠もあることになる、と述べる 。

また、(2)に関しては有神論者も無神論者も躊躇なく同意するであろう 。そこで、

問題は(1)を真なる命題とみなすことができるかどうかである。

ここでロウは次のような、この世界において実際に生じた、見たところ無用で

(apparently pointless)はなはだ恐ろしい悪(horrendous evil)の実例に私たちの注意

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を促す。ロウは、この世界において観察し得る悪の実例から悪に関する一般論を導き 出すという帰納的推理を用いようとしているのである。

E1:小鹿が稲妻によって引き起こされた山火事で重い火傷を負い、死によって苦痛 から解放されるまでに5日間酷く苦しんだ。

ロウは最初期の論文では、いわれのない(ように思われる)悪の実例として、この 小鹿の例しか示していないが、これだけでは論拠が弱いと考えたのであろうか、これ 以後の論文では次の痛ましい事例も取り上げている 。

E2:ミシガン州フリントで数年前の大晦日に、5歳の少女が殴打され、暴行され、

絞殺された。

E1は自然悪を、E2は道徳悪を表わしている。私たちには、神が小鹿や少女のはな はだしい苦しみを見過ごすことなしには達成できないような善、或いは阻止できない ような悪など考えられないのではないか。従って、E1や E2は(1)に述べられている 苦しみの実例とみなしてよいのではないか。それ故、(1)そのものも真であると言え るのではないか。

ここでまたロウのために注意を喚起しなければならないが、彼はこの議論によって (1)が 証 明 さ れ た と 主 張 し て い る の で は な い。ロ ウ は(1)が 真 で あ る と 証 明 す る

(prove)ことや知る(know)ことはできないと認めている。どんなに恐ろしい悪で も、私たちには計り知れないような仕方で、何らかの善を生み出すために、或いは他 の同等のもしくはより悪い悪を阻止するために、必要だということはあり得る。果た してそうかどうかを判定するためには、私たち人間も全知である必要があるだろう。

従って、(1)が確実に真であると知ることは私たちの能力を超えている。しかし、私 たちは証明できないことでも真であると信じて差し支えない場合が多々ある。(1)に 関しても、真であると信じるに足る合理的な支持(rational support)があるかどうか が問題である 。

仮に E1、E2という二つの特殊な事例には、神がそれらの発生を容認する何らかの 理由があったとしても、これら二つだけがこの世界に存在している悪ではない。現実 には、これらと同等のもしくはより恐ろしい悪が数限りなく毎日のように発生してい る。この世界に実在するそうした無数の恐ろしい悪のすべてにしかるべき理由がある とはとうてい思われない。従って、(1)を真であると信じるのは理に適っている

(reasonable)とロウは述べている。そして、(1)が真であると信じられるならば、(2) は既に同意されていたのであるから、(3)の結論が導き出される。つまり、(1)が真で あると思われる程度に従って、神は存在しないと考えることにも正当性が認められる のである。

さて、この議論に対しては有神論の立場から様々な反論が寄せられてきた。その多

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くはやはり(1)を真であると信じることが正当であるかどうかに関するものである。

(1)を真であるとみなす際には、実は次の P、Qの二つの判断が働いている。即ち、

上記 E1、E2の実例を考察した際にも明らかなように、(1)を主張するためには、論 者はまずこの世界において P の観察をなし、そこから帰納的推理によって Qを導き 出しているのである。そこで、ロウはこれ以降の論文では、上記の(2)は有神論者も 無神論者も共に同意する先行的な共通理解として取り除けておき、P から not― Gに 至る議論を展開している 。

P:私たちの知っているどのような善も、全能・全知・全善なる存在者が E1や E2 を許容することを正当化しない(No good we know of justifies an omnipotent, omnis- cient,perfectly good being in permitting E1and E2)。

故に、

Q:どのような善も、全能・全知・全善なる存在者が E1や E2を許容することを正当 化しない(No good at all justifies an omnipotent, omniscient, perfectly good being in permitting E1and E2)。  

故に、

not―G:全能・全知・全善なる存在者は存在しない(There is no omnipotent, omnis- cient,perfectly good being)。

この P から not― Gに至る議論も、(1)から(3)に至る議論と同様に、「何らかの善 が E1や E2のような悪の存在を正当化する場合にのみ『神は存在する』と考えられ るのであるから、こうした悪を正当化するどのような善も見出せない場合、『神は存 在しない』と考えられる」と主張するものである。

この議論に対して加えられた、また加えられるであろう批判を、ロウ自身が大きく 4種類にまとめている。

(ⅰ)私たちのうちの誰も、P を真であると信じることにおいて正当化され得るよ うな立場にいない。

(ⅱ)P から Qに至る推論は正しい帰納的推理ではない。P は Qの確率を、Qが正 しいと信ぜられる程度にまで高めるものではない。従って、P に基づいて Qを信じ ることは正当化され得ない。

(ⅲ)仮に P から Qに至る推論が正しい帰納的推理だとしても、P に基づいて Q を受け入れることを控えさせる根拠となる理由(ディフィーター)が存在する。

(ⅳ)not― Gは Qから演繹的に導き出されない。何故なら(iv ― a)何らかのより 悪い悪の阻止が、神が E1や E2を許容するのを正当化しているかも知れないからで ある。或いは(iv ― b)自由で道徳的に責任ある被造物のいる世界では、神はいわれ のない悪の発生を容認せざるを得ないかも知れないからである 。

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これらのうち、ロウに実際に加えられた批判はやはり(ⅰ)と(ⅱ)を論点とするもの が多かった。その代表例であるウィクストラ(Stephen John Wykstra、1949―) の議 論を見てみよう。

1―b.ロウに対する改革派認識論の応答

ウィクストラは改革派認識論発祥の地カルヴァン・カレッジの哲学教授であるが、

厳密に言えば改革派認識論者ではない。改革派認識論が証拠主義 を完全に否定する のに対し、ウィクストラは「穏健な証拠主義」(sensible evidentialism) を主張してい るからである。しかし、ロウに対するウィクストラの反論に関する限り、プランティ ンガがそれに全く賛同して自説に取り入れているので、ここでは「改革派認識論の応 答」として取り扱う。

ウィクストラはロウの議論を、「理に適った認識的アクセスの条件」(Condition  of Reasonable  Epistemic  Access)という原則を用いて批判し、「透明蚊議論」(noseeum  argument)と呼んで揶揄している。「理に適った認識的アクセスの条件」とは次のこ 

とを意味する。即ち、「私たちは Xを目にすることがない」という観察から「Xは存 在しない」という一般論を導き出すことができるのは、Xが「理に適った可視性」

(reasonable seeability)を有している場合のみである 。

例えば「私」がガレージの中を覗いたときに1匹の犬も目にしなかったとする。こ の場合、「ガレージの中に犬は存在しない」と判断して差し支えない。私たち人間に は犬を目で見たり手で触ったりすることができるからである。

さて、アメリカ中西部には俗に「透明蚊」(noseeum) と呼ばれる昆虫がいる。こ の昆虫は余りにも小さくて目で見ることが殆どできないにも拘らず、咬まれると酷く 痛い。「私」がガレージの中を覗いたときに1匹の透明蚊も目にしなかったとする。

この場合、「ガレージの中に透明蚊は存在しない」と判断するのは正当ではない。私 たち人間にとって透明蚊は理に適った可視性を有していないからである。しかし、ウ ィクストラによれば、ロウはこのような状況において「透明蚊は存在しない」と判断 する誤りを犯しているという。

上記の P から Qに至る推論が正しいのは、「もし E1や E2を正当化する善が存在 しているのであれば、私たち人間はそれを見たり聞いたりできるはずだ」という前提 が正当である場合のみである。ロウはこの前提を無条件で受け入れているが、その正 当性は未だ確立されていない。上記の例を用いれば、ロウはそうした善が透明蚊より も犬に近いと考えている。だが、「そうした善は犬よりも透明蚊に近く、人間には認 識できないと考える方が当然だ」ということが示されれば、ロウはこの前提をなす正 当性を奪われることになる。

(9)

ここでウィクストラは、E1や E2を正当化する善が「理に適った可視性」を有し ていないと考えられ得る理由を提示する。例えば「神の視力と人間の視力は、親の視 力と生後1ヶ月の赤ん坊の視力ほどの開きがある」といった理由が挙げられるであろ う。もちろんウィクストラは現実にそうだと主張しているのではなく、そう前提した うえで議論を進めてみた場合、どうなるかを検討しているのである。この理由が正し ければ、E1や E2を正当化する善が存在していたとしても、人間に認識できないの は当然のことになる 。従って、P から Qを導き出すことには正当性が認められない。

プランティンガもウィクストラのこの議論を採用し、神と人間の間には「認識的距 離」(epistemic distance) が開き過ぎている、と述べている。

オールストン(William  P. Alston、1921―) は、ロウが上記(1)を主張するために は、彼はまず悪の存在理由を説き明かす神義論の一つひとつに反駁する必要がある、

と考える。そして、オールストンは諸種の神義論を検討し 、そうした神義論の提示 する理由によって悪の存在が許容されているのではないと判断することは人間の認識 能力を超えていると結論付けている(もちろん、そうした理由によって悪の存在が許 容されていると判断することもできないが)。オールストンも結局のところ、人間は (1)が事実かどうかを判断し得る認識的状況(epistemic situation)にいない、と述べ る。それは「データの欠如」(Lack  of data)、「私たちの手に余る複雑性」(Complex- ity greater than we can handle)、「何が形而上学的に可能もしくは必然であるかを決定 す る 困 難」(Difficulty of determining what is metaphysically possible or necessary)、

「あらゆる可能性を知悉し得ないこと」(Ignorance of the full range of possibilities)、

「あらゆる価値を知悉し得ないこと」(Ignorance of the full range of values)、「熟考さ れた価値判断をなす私たちの能力の限界」(Limits  to  our  capacity  to  make  well- considered value judgments)などの理由による 。

プランティンガも、ウィクストラやオールストンやヴァン・インワーゲン(Peter van Inwagen、1942―) らに全く同意し、「彼らの論文が『私には神が pのためにどの 

ような理由を持っているのか分からない。それ故、恐らく、神は pのために理由を持 っていない』型の議論に止めを刺してくれることを期待する」と述べている 。しか し、プランティンガの期待とは裏腹に、議論の応酬は続き、ロウは近年では確率計算 を用いて Qを通過せずに P から直接 not― Gに至る議論を展開し 、それに対してプ ランティンガがさらに反論を加えている 。

いずれにせよ、確かに人間は全知ではなく、神の認識能力と私たちの認識能力の間 には隔絶の開きがあるから、E1や E2を正当化する善を認識し得るとは限らないと 主張するウィクストラやオールストンの方に、論理的には分があると言わざるを得な い。しかし、私には、神がその驚くべき業の数々(天地創造、子なる神の受肉・贖罪

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死・復活、最後の審判など)を人間に啓き示しておきながら、特定の悪の存在理由だ けは告げ知らせないというのも、御都合主義的な理論のように思われるのだ(この点 については後述する)。

ロウの議論の難点は、「私たちの知っているどのような善も神が E1や E2を許容す ることを正当化しない」という観察から一挙に「どのような善も神が E1や E2を許 容することを正当化しない」という推論を導き出すところにあった。この難点を巧み に回避し、従って有神論にとってより手強い議論を展開したと言われているのがドレ イパーである。

2―a.ポール・ドレイパー(Paul Draper)

ドレイパーの議論 の枠組みは、有神論を前提するよりも、有神論とは相容れない 別の仮説を前提した方がこの世界の有様をよりよく説明できる、従って、有神論より も別の仮説を受け入れるべきである、というものである。

ドレイパーはまずこの世界における苦痛(pain)と快感(pleasure)に私たちの注 意を喚起する。彼は「苦痛または快感を経験している人間や動物について人が観察し たことを報告する言説」及び「苦痛または快感を経験している意識ある存在者につい て他の人々が観察したことに関して人が見聞きした証言を報告する言説」(要するに

「この世界に存在する苦痛と快感についての報告」)を Oと呼ぶ。そして、この Oは、

つまりこの世界における苦痛と快感の有様は、有神論が真である場合よりも、有神論 とは共立不可能な次のような無関心仮説 HI(Hypothesis of Indifference)が真である 場合に、よりよく説明される、と主張する 。

HI:この地上における意識ある存在者の本性も現状も、人間以外の人格によって引 き起こされた善意ある或いは悪意ある行為の結果ではない(Neither  the  nature  nor the condition of sentient beings on earth is the result of benevolent or malevolent actions  performed by non-human persons)。  

さて、次の命題を C と呼ぶことにする。

C:HI は Oの報告する事実を有神論よりもうまく説明する。

この C はまた次のようにも言い表わすことができる。

C:Oの起こる確率は、有神論が真であるという前提におけるよりも、HI が真であ るという前提における方が高い。

これを確率論の記号で表わすと C:P(O╱HI)>P(O

theism)

となる。

(11)

もし C が真であると考えられるならば、私たちには有神論を捨て去り、無関心仮 説を採るべき暫定的な理由があることになる。果たして C は真なのであろうか。

ここでドレイパーは「目的を指向する有機的システムにおいて苦痛と快感が果たす 生物学的な役割」(the biological role played by both pain and pleasure in goal-directed organic systems)、つまり苦痛と快感が生物にとって果たしている役割に注目する。 

有機体を構成している各部分は生物学的な目的(特に生存と生殖)にとって有益な役 割を果たしている。苦痛と快感も有機体の一部であり、従って同様の役割を果たして いると考えられるが、C を論じるために、ドレイパーは Oを次の三つの部分に分け て考察する 。

O1:われわれが生物学的に有益であると知っているような苦痛や快感を経験してい る道徳的行為者(moral agents experiencing pain or pleasure that we know  to  be biologically useful)  

O2:われわれが生物学的に有益であると知っているような苦痛や快感を経験してい る、道徳的行為者ではない意識ある存在者(sentient beings that are not moral agents experiencing pain or pleasure that we know to be biologically useful) 

O3:われわれが生物学的に有益であるとは知っていないような苦痛や快感を経験し ている意識ある存在者(sentient beings experiencing pain or pleasure that we do not know to be biologically useful)  

従って、Oは O1と O2と O3を寄せ集めたものであり、即ち、

O=O1 & O2 & O3

何らかの仮説 hを前提した際の Oの確率は P(O

h)=P(O1 & O2 & O3

h)

と表現される。

確率論の法則により、

P(O1 & O2 & O3╱h)

=P(O1

h)×P(O2

h & O1)×P(O3

h & O1 & O2)

さて、ドレイパーは

C:P(O╱HI)>P(O

theism)

を証明したいわけだが、上記の法則により、P(O

HI)は

A:P(O1╱HI)×P(O2╱HI & O1)×P(O3╱HI & O1 & O2)

と表現され、P(O

theism)は

B:P(O1╱theism)×P(O2╱theism & O1)×P(O3╱theism & O1 & O2)

と表現される。そこで、C を論じることは A>B

(12)

を論じることになる。ドレイパーは Aと B の一つひとつの項目を比較することによ って A>B を論じようとする。即ち、

P(O1

HI)>P(O1

theism)

P(O2╱HI & O1)>P(O2╱theism & O1)

P(O3

HI & O1 & O2)>P(O3

theism & O1 & O2)

∴A>B

このうち、ここでは P(O1

HI)>P(O1╱theism)だけを紹介してみよう。

O1に述べられている苦痛と快感は、有機体の他の部分と同様に、生物学的な目的

(特に生存と生殖)にとって有益な役割を果たしている。しかし、苦痛と快感は、有 機体の他の部分とは異なり、本来的に道徳的な価値(intrinsic moral value)も有して いる。即ち、苦痛は本来的に悪く(bad)、快感は本来的に善い(good)、とみなされ ている。さて、無関心仮説の前提の下では、道徳的な価値を有している苦痛と快感が、

それにも拘らず、有機体の他の部分と全く同じ役割を果たしていることは何ら驚くに 当たらない。しかし、有神論を前提した場合、神は道徳的に完全な存在者であるから、

有機体の目的に役立たなくとも快感を生み出す道徳的な理由があることになり、反対 に生物学的な理由のみならず道徳的にも十分な理由がなければ苦痛を容認することは ないと思われる。また、神は全能であるから、あえて道徳的な価値を有する苦痛と快 感を作らなくとも、一定の目的を指向する有機体を創造することができたと考えられ る。従って、有機体の他の部分と同様に、生物学的な目的にとって有益な役割を果た している苦痛と快感は、有神論が真であると前提するよりも無関心仮説が真であると 前提する方がよく説明されることになる 。

ドレイパーの以上の議論は慎重な言葉遣いがなされているが、私なりに思い切って 換言すると、次のように要約できるだろう。もし有神論が正しく、この世界が全知・

全能・全善なる神によって創造されたのであれば、本来的に道徳的な価値を有してい る苦痛と快感は、道徳的行為者、即ち人間の善悪に対応して配分されるはずである。

しかし、この世界の有様を観察すると、善因善果・悪因悪果の法則は破綻しており、

多くの苦痛と快感は人間の善悪にかかわりなく偶発的に生じ、単に個体の生存や種の 繁栄にとって有益な役割を果たしているに過ぎない。この事実は、有神論よりも無関 心仮説が正しいと前提する方がよく説明される。

P(O2╱HI & O1)>P(O2╱theism & O1)と

P(O3

HI & O1 & O2)>P(O3

theism & O1 & O2)

については省略するが、同様の考察がなされている。

有神論者であればここで諸種の神義論を提示することによって、この世界に存在す る苦痛と快感の有様が、有神論を前提しても驚くに当たらないことを、従って C は

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必ずしも正しくないことを、主張するであろう。ドレイパーはそうした批判の先回り をして、用意周到に、諸種の神義論を考慮に入れても P(O

theism)がさほど高ま らないことを論じる。ドレイパーは3種類の神義論を考察しているが、ここでは私た ちに馴染みの深い「自由意志論」 に関する議論のみを簡略化して取り上げてみる。

自由意志論により、有神論は次のように補足される。

T1:神は存在し、彼の最終目標の一つは、自由に行われた悪い行為に対する自由に 行われた善い行為の好ましいバランスである 。

さて、実は自由意志論の基本形は苦痛に関しては何も語っていない。そこで、苦痛 は道徳性の増進のために必要であるという仮説を付け加えてみる。つまり、苦痛は神 が道徳的に正しい行為を行うことを人間に促すために用いられる、及び苦痛は人間が 行う道徳的に正しい行為に必然的に付帯することがある、と仮定してみる。この仮説 を前提した場合、有神論の下でも、この世界における苦痛の存在は驚くに当たらない ことになるのではないか。つまり、P(O

T1)は高く、従って、T(O

theism)

も高まるのではないか。

しかし、この弁護は必ずしも成り立たないとドレイパーは述べる。何故なら、Oの 報告するところでは、この世界には道徳的に誤った行為を行うことを人間に促す苦痛 があり、また人間が行う悪い行為に必然的に付帯する苦痛があるからである。しかも、

Oの報告するところでは、現在のところ、人間が行った悪い行為に対する善い行為の 好ましいバランスは達成されていないが、それは人間が苦痛によって妨げられて善い 行為を行えない場合が多々あるからでもある。このように上記の弁護とは全く反対の 報告があるので、P(O

T1)はさほど高くなく、従って P(O╱theism)も高ま らないのである 。

それ故、

P(O1

HI)>P(O1

theism)

P(O2╱HI & O1)>P(O2╱theism & O1)

P(O3

HI & O1 & O2)>P(O3

theism & O1 & O2)

はやはり正しく、これで C が論証されたわけである。

即ち、苦痛と快感が現在この世界において存在しているような仕方で生じる確率は、

有神論が真であるという前提におけるよりも、無関心仮説が真であるという前提にお ける方が高い。言い換えれば、無関心仮説の方が有神論よりも、この世界における苦 痛と快感の有様をよく説明できる。それ故、私たちにとっては、有神論を捨てて無関 心仮説を採ることが合理的なのである。

ドレイパーの議論がロウよりも優れていると言われる所以は、ロウが悪の存在から 無神論を直接的に導き出そうとしたのに対し、ドレイパーは有神論とは相容れない仮

(14)

説を用意し、その仮説の方が有神論よりも悪を説明する力が強いので信憑性も高いと 論じ、相対的に有神論の信憑性を低めるという論法を展開した点にある。

2―b.ドレイパーに対する改革派認識論の応答

ドレイパーの以上のような議論に対して、プランティンガは二方向から反論を加え る 。一つ目は、C は正しくない、即ち「今あるような仕方で苦痛と快感が起こる確 率は、有神論が真であるという前提におけるよりも、無関心仮説が真であるという前 提における方が高い」という主張は正しくない、と論じるものである。二つ目は、百 歩譲って C が正しいと仮定しても、有神論を抱き続けることは依然として非合理的 ではない、というものである。

まず、C に対する反論を見る。ドレイパーは C:P(O

HI)>P(O

theism)

を論じるに当たり、この命題を上記のように三つの部分に分割して考察した。そのう ち、プランティンガは

P(O2

HI & O1)>P(O2

theism & O1)

は省略し、

P(O1

HI)>P(O1

theism)と

P(O3╱HI & O1 & O2)>P(O3╱theism & O1 & O2)

を論駁しているが、ここでは P(O1╱HI)>P(O1╱theism)

ではないことを論じる際の主要点だけを紹介する。

プランティンガは、無関心仮説を前提しても、人間の現象には生存や生殖という生 物学的な目的に役立たない、或いは役立っているとは知られていないものが数多くあ ると指摘する。例えば、道徳・愛他精神・宗教・文学・詩・音楽・絵画・数学・論理 学・哲学・核物理学・進化論生物学・遊び・ユーモア・探検・冒険などは直接的に生 存や生殖に役立っているようには思われない。もちろん、これらも生物学的な目的に 役立っていると主張することは可能だろうが、そうした議論は牽強付会になってしま うだろう。従って、無関心仮説の下で、仮に苦痛と快感が生存や生殖という生物学的 な目的に貢献していなかったとしても驚くには当たらず、それ故、P(O1

HI)>

P(O1╱theism)とも思われないとプランティンガは述べている 。

プランティンガのこの反論は間接証明的で、しかも「証明」というよりも「例示」

であり、その点、私には些か脆弱に思われる。プランティンガは「有神論を前提して も、この世界に因果応報の法則が成立していないように思われるのは驚くに当たらな い」と直接的に論じるべきところで、「無関心仮説を前提しても、生物学的な目的に

(15)

役立っていないと思われる現象が多々ある」と述べているからである。恐らく、彼は

「生物学的な目的に役立っていない数多くの現象を目撃しても、ドレイパーらは無関 心仮説を放棄しないであろう。それと同様に、苦痛と快感が因果応報の法則に従って いることが分からなくても、私たちが有神論を捨て去る理由にはならない」と主張し たいのであろう。

自らの議論を補強するためか、さらにプランティンガは、仮に C が正しいとして も(こう仮定するのは、C が正しくないとは必ずしも証明できなかったということを 自ら認めたことになるが)、有神論を抱き続けることが依然として非合理的ではない とも主張する。このことを「証明」することはできないと、ここでもプランティンガ は認めているが、「例示」することはでき、彼は次のような例を挙げている。

(a) ジョージは非カトリック教徒である。

(b) ジョージはノートルダム大学の教授である。

(c) ジョージはカトリック教徒の学者である。

今、「私」は(a)と(b)が真であると信じている。しかし、(b)は(a)を前提するより も(c)を前提した方がはるかにあり得ると思われる(ノートルダム大学の教授にはカ トリック教徒の方が非カトリック教徒よりもはるかに多いからである)。また(c)は (a)とは共立不可能である。さらに(c)はきちんとした仮説である。ここでドレイパー の立てたような議論をなせば、(b)が真である確率は(a)を前提するよりも(c)を前提 した方がはるかに高いので、「私」には(a)を捨て去り(c)を採るのが合理的であるこ とになる。しかし、「私」は依然として(a)と(b)が真であると信じ続けることができ、

しかも、それは合理的で何ら認識論上の過誤を犯してはいない。同様に、仮に有神論 を前提するよりも別の仮説を前提した方がこの世界の有様をよりよく説明できたとし ても、それは有神論を捨て去るべき理由とはならず、有神論を抱き続けることは依然 として合理的だと言えるのである 。

以上、ロウ、ウィクストラ、ドレイパー、プランティンガらの説を簡単に見てきた が、悪の証拠的╱確率論的問題に関しては「私にはそう考えるよりもこう考える方が 本当らしく思われる」といった主張が繰り返されるだけの印象を受け、悪の論理的問 題を巡る議論から感じたフラストレーションとはまた幾分異なったもどかしさを覚え るのは私だけであろうか。

そもそも、悪の証拠的╱確率論的問題を巡る議論において論ぜられている確率は、

ドレイパー やプランティンガ も認めているように、数学的確率や統計学的確率で はなく、認識的確率(epistemic probability)である。この概念を正確に定義するのは 困難だが、或る理性的な主体 S が或る状況 kにおいて命題 qよりも pを真であると

(16)

して信ずる場合、S にとって kにおいてpの認識的確率は qよりも高い、と言われる。

しかし、どのような命題を真であるとみなすかは、認識者各自が予め抱いている無数 の命題とそれら命題間の諸関係、即ち各人の「認知構造」(noetic structure) に、ま た認識者が置かれているその時々の状況に依存している。従って、予めキリスト教信 仰を抱いている者と、予め無神論にコミットしている者とでは、同じ悪や苦難の現象 を見聞きしても、その説明としてどのような仮説を真であるとみなすかには大きな差 が生じるのである。それ故、有神論者も無神論者も認知構造の相違を理由に自説の認 識的確率の相対的優位性を弁護し得るが、反面、悪の証拠的╱確率論的問題を巡る議 論は「私には qよりもpの方が真らしく思われる」といった発言の応酬になりやすく、

或る種の手詰まり状態にあると論じる者もいる 。

また、悪の証拠的╱確率論的問題が盛んに論じられ始めた当初は、議論に参加する 者は、ロウが述べていたように、神の存在を肯定する証拠はひとまず度外視し、悪の 存在や質・量のみを取り上げた場合、それが有神論を否定する証拠になり得るかどう かという点だけを議論することが求められていた。しかし、オールストンがロウにま ず神義論の一つひとつに反駁することを求めていたように、有神論者は(無神論者 も)それだけで満足するはずはなく、結局は、神の存在を肯定するありとあらゆる証 拠(神の存在証明、回心や神秘的合一などの宗教体験、教会や伝統や聖書の権威な ど)と否定するあらゆる証拠(悪の存在・質・量、近代科学、宗教的多元主義な ど )を比較考量し、重きを成すのはいずれであるかを判定する作業に取り掛からざ るを得ない。だが、これは途方もない企てであり、議論は際限なく続くことであろう。

ところで、私の見た限りではどの論者も触れていないようだが、議論の優劣として は改革派認識論の側に軍配を上げなければならないにも拘らず、御都合主義に思われ る点がある。プランティンガは人間の認識能力として「拡大されたアクィナス╱カル ヴァン・モデル」(Extended Aquinas / Calvin Model) を提示している。このモデル によれば、キリスト教が真であると仮定した場合、人間には神の驚くべき業の数々

(神による天地創造、人間の堕罪、神の子の受肉・贖罪死・復活、最後の審判など)

を認識する能力があるとされる 。ところが、その一方でプランティンガらは、神と 人間との「認識的距離」という概念を用いて、この世界に満ち溢れている悪がどのよ うな善を生み出すために必要とされているのか、或いはどのような同等のもしくはよ り悪い悪を阻止するために看過されているのか、という問題は私たちの認識能力を超 えている、と主張する。この「アクィナス╱カルヴァン・モデル」と「認識的距離」

の使い分けは、私にはいかにも都合よく思われるのだ。神が、例えば「自らの子とし ての位格の受肉」という驚くべき事実を人間に知らせておきながら、無辜の小鹿や少 女のはなはだしい苦しみが何の善に役立っているのかを知らせない確率はどれほどで

(17)

あるのか。カント(Immanuel Kant、1724―1804)も「絶対的に反目的的なものは存 在せず、反目的的なものとはただ人間の知恵に対する違反に過ぎない。非難すべきで あると人間の考えるものが、神の目的や知恵に関しては、また我々の福祉にとっても、

最も適切な手段であるのかも知れない。人間に対して相対的に法則であるに過ぎない ものを絶対的な法則と思い込み、その結果、極めて低い立場から見て反目的的なもの を最高の立場から見てもそうなのだと考える場合、我々は誤りを犯している」という 主旨の神義論に対し、「解答の方が不平よりも貧弱であるこのような弁明は、何らの 反駁を加える必要もないものであり、道徳性に対して少しの感情でも持っている人な らばどんな人でも、安心してその人が嫌悪するに任せておいてよいものである」と語 った 。理性の人カントのこの発言も、神と人間との認識的距離を理由に、この世界 に実在するはなはだしい悪を善と言いくるめるような議論に対する嫌悪感を表わして いると思われる。

それにしても、私がもどかしく感じるのは、いたいけな少女の被った余りにも悲惨 な苦しみを引き合いに出しておきながら、そうした悪に対する怒りや痛みや悲しみな どの感情的な要素が議論から全く抜け落ちている点である。議論の性格上、不可避的 な展開なのかも知れないが、命題や仮説の認識的確率を問題にするとは、どの命題や 仮説がより共感に値するか、より意外性が少ないかを考量することであるから、同情 や驚きのような感情的要素も汲み取られてしかるべきではないか。ドストエフスキー

(1821―1881)が『カラマーゾフの兄弟』の中でイワンの口を借りて嘆いているよう に、たとえ未来の理想郷を建設するために必要だとしても無辜の少年が惨殺されるよ うな悪を許容することはできないという叫びには、聞く者の感情に訴え掛ける説得力 がある。いずれにせよ、おぞましい悪の実例には、理知的な議論を超えて、有神論的 信念を何かしら直接的に打ち砕くものがありはしないか。

こうして私たちは「悪の非議論的問題」について考察すべき地点に達したが、既に 紙幅が尽きた。この問題については稿を改めて論じることにする。

1 本論の執筆に当たっては平成18年度科学研究費補助金の交付を受けている。

2 拙論「改革派認識論と悪の論理的問題」、『基督教研究』第67巻第2号、2006年3月、31―43頁。

3 J. L. Mackie, “Evil and Omnipotence”in William  L. Rowe (ed.),God and the Problem  of Evil(以下、

(18)

GPEと省略), Blackwell Publishers, 2001, pp.77―90などを参照のこと。

4 Alvin Plantinga,The Nature of Necessity, Oxford University Press, 1974, pp.164―195. Alvin Plantinga, God, Freedom, and Evil, pp.12―24などを参照のこと。

5 Alvin Plantinga, “Reason and Belief in God”in Alvin Plantinga and Nicholas Wolterstorff (eds.),Faith and  

Rationality: Reason and  Belief in God, University of Notre Dame Press, 1983, p.84. Alvin Plantinga, Warranted Christian Belief, Oxford University Press, 2000, pp.357―373.

6 Alvin Plantinga,Warranted Christian Belief, pp.460―462.

7 Ibid., pp.462―481.

8 Ibid., pp.481―498.

9 その他にも「創造者といえども同時に二つ以上の可能世界を現実化することはできない」「悪をもなし 得る自由意志は善のみを行う自動装置よりも優れている」「この世界における善の最終的な質・量は悪 の最終的な質・量を上回る」などの前提が必要とされる。

10 この世界において経験的に観察し得る悪を証拠として有神論を否定するのが「悪の証拠的問題」であり、

この世界に実在する悪の故に神の存在する確率が減少すると論じるのが「悪の確率論的問題」であるが、

実際には両者は同一のものとして取り扱われている。これはまた悪の「帰納的(inductive)問題」や

「経験的(empirical)問題」や「ア・ポステリオリ(a posteriori)問題」と呼ばれることもある。Cf. Wil- liam P. Alston, “The Inductive Argument from  Evil and the Human Cognitive Condition”in Daniel Howard- Snyder (ed.),The Evidential Argument from  Evil(以下、EAEと省略), Indiana University Press, 1996, p.

97.

11 Daniel Howard-Snyder, “Introduction:The Evidential Argument from Evil”in Howard-Snyder (ed.), EAE, pp.

xi―xxなどを参照のこと。

12 ロウはパーデュー大学(Purdue University)の名誉教授である。

13 ドレイパーはフロリダ国際大学(Florida International University)の哲学教授であったが、ロウの後任 としてパーデュー大学に移籍した。残念ながら生年は不詳。

14 William L. Rowe, “The Problem of Evil and Some Varieties of Atheism”in American Philosophical Quarter- ly, Volume 16, Number 4, 1979, pp.335―341. もちろん「悪の証拠的╱確率論的問題」を最初に提起した 人物がロウだという意味ではない。ヒューム(David Hume、1711―1776)の名前を挙げるまでもなく、

この問題を巡る議論には長い歴史がある。

15 Cf. Daniel Howard-Snyder, Michael Bergman, and William L. Rowe, “An Exchange on the Problem  of Evil”

in Rowe (ed.), GPE, p.124f.

16 William L. Rowe, “The Problem of Evil and Some Varieties of Atheism”, p.336.

17 Idem.

18 「自由意志による弁護論」の核心も「道徳上の悪を含んだ世界を創造することなしに、道徳上の善を含 んだ世界を創造することは、神の力の及ぶ範囲内にはなかった」という主張が可能であると示すことに

(19)

あり、この主張は(2)と同等である。ただし、有神論者の中には、神がこの世界をいわれのない悪が生 じる可能性と共に創造した、と論じる者もいる。ヴァン・インワーゲン(注33参照)は、原初の人類が 自由意志によって神から離反した結果、この世界にはいわれのない悪が生じるようになった、と主張し ている。Peter van Inwagen,The Problem  of Evil, Oxford University Press,2006, pp.83―90.

19 Daniel Howard-Snyder, Michael Bergman, and William L. Rowe, “An Exchange on the Problem of Evil”, p.

126など。

20 William L. Rowe, “The Problem of Evil and Some Varieties of Atheism”, p.337f.

21 William L. Rowe, “The Evidential Argument from Evil:A Second Look”in Howard-Snyder (ed.), EAE, p.263 など。

22 Idem.

23 ウィクストラはカルヴァン・カレッジ(Calvin College)の哲学教授である。

24 拙論「宗教的哲学としての改革派認識論 有神論的信念の認識論的地位を巡って 」、『基督教研 究』第65巻第1号、2003年9月、62―63頁を参照のこと。

25 Stephen John Wykstra, “Towards a Sensible Evidentialism:On the Notion of ʻNeeding Evidenceʼ, in William  

Rowe and William  Wainwright (eds.),Philosophy of Religion: Selected Readings, 3rd ed., Oxford Univer- sity Press, 1998, pp.481―491.

26 Stephen John Wykstra, “Roweʼs Noseeum Argument from Evil”in Howard-Snyder (ed.), EAE, p.126.

27 noseeum は no see ʼum 、即ち「彼らは見えない」に由来する。糠蚊(ヌカカ)の一種ではないか と思われるが、詳細は不明。適切な訳語が見当たらないので、とりあえず「透明蚊」と訳しておく。な お、実はウィクストラは論文の表題では「透明蚊」の語を用いながら、何故か本文中では「蚤(ノミ)」

を引き合いに出して論じている。ウィクストラの議論を引用したプランティンガは「蚤」を「透明蚊」

に書き直しているので、私もそれに従う。Cf. Alvin Plantinga,Warranted Christian Belief, p.466.

28 Stephen John Wykstra, “Roweʼs Noseeum Argument from Evil”, p.129f.

29 Alvin Plantinga,Warranted Christian Belief, p.466f.

30 オールストンはシラキューズ大学(Syracuse University)の名誉教授である。オールストンは米国監督 教会に属しているが、自他共に改革派認識論の長老的存在とみなされている。

31 William P. Alston, “The Inductive Argument from Evil and the Human Cognitive Condition”, pp.102―118.

32 Ibid., p.120.

33 ヴァン・インワーゲンはノートルダム大学(University of Notre Dame)の哲学教授である。

34 Alvin Plantinga,Warranted Christian Belief, p.467.

35 William L. Rowe, “The Evidential Argument from  Evil: A Second Look”in Howard-Snyder (ed.), EAE, pp.

267―270. Pから Qに至る推論に対して数多くの批判が寄せられたため、ロウは Qを回避しようとする。

Pから直接 not―Gを導き出すために、ロウはベイズの定理(Bayesʼs Theorem)を用いている。「神は存 在する」という命題を G、有神論者と無神論者が共有している予備知識を kで表わすと、ベイズの定理

(20)

により、

Pr(G╱P&k)=Pr(G╱k)×Pr(PG&k) Pr(P╱k)

詳細は省略するが、Pr(G╱P&k)<Pr(Gk)、即ち Pが与えられたときに Gの確率が減少するこ とを証明するために、ロウは、Pr(P╱k)>Pr(P╱G&k)であることを論じている。

36 Alvin Plantinga,Warranted Christian Belief, pp.467―469など。プランティンガは、ロウのこの新しい議 論が以前のものよりもさらに脆弱だと批判している。その理由の一つとして、プランティンガによれば、

ロウは結論として導き出したい命題 not― Gに予め含意されている命題 Pを前提として確率計算をして いるが、この論法を用いればどのような任意の結論でも(ロウの結論とは正反対の命題でも)導出でき るという。即ち、命題 Aが命題 Bを含意しているとき、Pr(A╱B&k)>Pr(A╱k)が必然的に成 り立つのであり(Aか Bの確率が1である場合を除く)、Aがどのような命題であっても証明できるとい うのである。

37 Paul Draper, “Pain and Pleasure: An Evidential Problem  for Theists”in Howard-Snyder (ed.), EAE, pp.12

―29.

38 Ibid., p.13.

39 Ibid., p.15f.

40 Ibid., p.17.

41 「自由意志による弁護論」に関しては拙論「改革派認識論と悪の論理的問題」を参照のこと。

42 Paul Draper, “Pain and Pleasure:An Evidential Problem for Theists”in Howard-Snyder (ed.), EAE, p.21.

43 Ibid., pp.20―22. 実際にはドレイパーは P(O╱T1)と P(O╱theism & 〜T1)を比較しているが、こ こでは議論を簡略化して紹介した(〜T1は T1の否定を指す)。P(O╱T1)と P(O╱theism & 〜T1)

を比較するのは以下の確率計算式に基づく。

P(O╱theism)={P(T1╱theism)×P(O╱T1)}+{P(〜T1╱theism)×P(O╱theism &

〜T1)}

ここで神義論を考慮に入れた場合、P(T1╱theism)は1に近づく(P(〜T1╱theism)は0に近づ く)ので、P(O╱theism)は P(O╱T1)にほぼ等しいことになる。

逆に神義論を考慮に入れない場合、P(〜T1╱theism)は1に近づく(P(T1╱theism)は0に近づ く)ので、P(O╱theism)は P(O╱theism & 〜T1)にほぼ等しいことになる。

従って、神義論を考慮に入れても P(O╱theism)がさほど高まらないことを論じるためには、P(O

T1)が P(O╱theism & 〜T1)よりもさほど高くないことを示せばよいのである。

44 Alvin Plantinga, “On Being Evidentially Challenged”in Howard-Snyder (ed.), EAE, pp.244―261.

45 Ibid., pp.252―254.

46 Ibid., pp.247―250.

47 Paul Draper, “Pain and Pleasure:An Evidential Problem for Theists”in Howard-Snyder (ed.), EAE, pp.14.

(21)

48 Alvin Plantinga, “On Being Evidentially Challenged”in Howard-Snyder (ed.), EAE, p.245f.

49 人間の信じている無数の命題は、(命題 pは命題 qに基づき、命題 qは命題 rに基づくといった具合に)

一定の相互関係を結びながら構造化されている。こうした構造化された諸命題の全体を「認知構造」

(noetic structure)と呼ぶ。言い換えれば、或る人間の認知構造とは、その人間が信じている命題のす べてと、それら諸命題間の関係のすべてである。Alvin Plantinga,“Reason and Belief in God”in Plantinga

 

and Wolterstorff (eds.),Faith and Rationality: Reason and Belief in God, pp.48―55.

50 Michael Peterson, William Hasker, Bruce Reichenbach, David Basinger,Reason & Religious Belief, 2nd ed., Oxford University Press, 1998, p.125. J. L. Schellenberg, “Stalemate and Strategy:Rethinking the Evidential

  Argument from Evil”in Rowe (ed.), GPE, p.160.

51 もちろん、近代科学や宗教的多元主義はそれ自体では有神論を否定するものではない。

52 Alvin Plantinga, Warranted Christian Belief, pp.241―289.

53 拙論「宗教的哲学としての改革派認識論 有神論的信念の認識論的地位を巡って 」、73―75頁を 参照のこと。

54 Kantʼs Gesammelte Schriften, Abt.1: Werke, Bd.8: Abhandlungen nach 1781, Walter de Gruyter, 1923, S.

258. 抄訳に当たっては、カント「弁神論におけるあらゆる哲学的試みの失敗(1791年)」、門脇卓爾訳

『カント全集 第12巻 批判期論集』、理想社、1966年、172頁を参照した。

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