新たなる認識論理の構築に向けての試論 : 共有知
識(common knowledge)を手がかりに
著者
鈴木 啓司
雑誌名
名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇
巻
42
号
2
ページ
39-55
発行年
2006-01-31
URL
http://doi.org/10.15012/00000838
名古 屋学 院大学論集 人文 。自然科学篇 第42巻 第2号 (2006年 1月)
新 たな る認識論理 の構築 に向けての試論
―
共有知識
(common knowledge)を
手 がか りに一
鈴
木
啓
司
認識論から見た古典論理の問題点
認識論理 は古典論理を拡張 した様相論理 の一 種 で あ るが,認
識 とい う様相 を加 味 した場合, 古典論理では当た り前であ った論理式が通用 し ない場合 が往 々に してあ る。代入則不可 の問 題 (1)はよ く知 られているが,ほ
かに もたとえ ば,こ んな例が考え られ る。グループGの
全要 素a,b,cがPと
い う属性を持 っていた場合,古
典論理では当然,∀
x(Gx→ Px)=P(a)∧
P(b) ∧P(c)と い う式が成 り立 つが,こ
れ に「 エー ジェン ト1は知 っている」とい う意味の認識 のオ ペ レ ー ターKiを付 加 す る と,Ki(∀ x(Gx→
Px))=Ki(Pa∧ Pb∧
Pの は成 りたた ない。 こ れでは何の ことや らわか らないとい う人のため に 日常語 に翻訳 した例を紹介す ると,二
人か ら なるあるアイドルグループGの
メンバ ー全員が 未婚者であ った場合,古
典論理的には,
この こ とは当然,
メンバ ーaは未婚 であ り,
メンバ ー bも 未婚であ り,メ ンバーcも 未婚である,と い うことと同値である。 しか し,
ここにある認識 主体(人間)が いて,彼
がグル ープGの
メンバ ー a,b,cがそれぞれ未婚であることを知 っていて も,必
ず しもグル ープGの
メンバ ー全員が未婚 で あ ると知 って い ることにはな らない。 メン バ ーa,b,cで グループG全
員 になることを知 ら ない可育旨性もあるか らだ。 その とき彼 には未知 の メンバ ーd,e,f・・・の存在が否定 しきれない。 よ って,グ
ループGの
全員が未婚であるとは知 らないわけだ (わ。 この例が示唆している重要なことは,古
典論 理における全称記号∀ (すべての)は
集合の内 部から要素を数えきることと本質上同値だとい うことである (厳密に言えば,数
の概念の定義 には,
また別の作業を加える必要があるが。だ から,「全 メンバーを見通す」といった方が正確 か もしれない)。 確かに,数
えきった時点です べての要素はしかじかであると言 うことができ よう。 しかし,対
象が数えきれない無限集合 と なると,古
典論理はとたんに馬脚を現す。∀xP
(X)と PXl∧ PX2∧ P為∧ PX4・・・は 永 遠 に 一 致 し ないことになる。 これが,実
質的 に古典論理 を 土台 とす るカン トールの集合論が数学 に持 ち込 んだ危機 の根底 にあ った問題である。無限集合 は数 え きれない ところに特性があるのだか ら, それ は本来古典論理 の埒外 にあ るはずの もの だ。せいぜい扱えて も,完
成 された無限,実
無 限ではな く,永
遠 の生成過程 の中途段階の有限 に とどまる仮無限 までである。 それをカン トー ルは多少強引に実無限をその枠内に引 き込んだ といえよ う。ではなぜ,そ
の古典集合論で無限 とい う概念が表現可能であ ったのか。 それ は, 有限集合 に対す る古典論理 の,要
素 を数 え きる ことすなわち集合の全体 とい う捉えかたにそも そ も欺晰があ ったか らである。 いったい,数
え きった とい う判断はどのよ うに してなされ るの であろ うか。 それはあらか じめ集合の全体の数 を知 っていて初めて可能な ことであろう。 い く つ入 っているかわか らない箱の中の りんごを数 え るときもそ うである。 りんごの数 はまだ知 ら名古屋学 院大学論集 ないが
,
りんご一箱 とい う集合の全体はすでに 知 っている。 つまり,数
え きる前 に全体はすで に見切 られているのである。 また,そ
もそ も数 え始める前 に何を数える対象 として特定す るの か。 それはあ らか じめ対象が何 らかの形で定義 されていることを要請 しよ う。 ここで当然の疑 間がわ く。 い ったい集合 とは,要
素だけで成 り 立 っているのか,そ
れ とも,そ
れ らを囲む概念 的境界線 を指すのか。 この外延性をめぐる問題 が,
ラ ッセルのパ ラドクスといった深刻 な事態 を招来 したのであ った。要す るに,古
典論理 は 集合の内部か ら要素を一つ一つ数えあげて全体 を定義すると見せて,実
はは じめに集合の外部 か ら定義 となる大枠を内部 を包み込むよ うには めていたのである。だか らこそ,
これを土台 と した古典集合論では無限 も扱 えた (もちろん, 外か ら矮小化 した形 でだが)。 しか し,こ
の大 枠 の根拠を,有
限集合 な ら要素を一つ一つ確認 す る ことで後づ け的 に与 え ることがで きよ う が,無
限集合 とな るとそ うはいか ない。畢寛, その大枠はど こか ら来たのか という根拠づけの 問題 に悩 む ことにな る。 そ して,そ
の由 って来 る外部を,古
典集合論ひいては数学 は決 して内 に取 り込む ことがで きないのである。 この集合を外部か ら見 る日とは,実
質的に神 の 目である。古典論理が神の目の論理 と呼ばれ るの もそのためである。 それは対象が有限集合 に とど まって い る間 は人間 に も使 い勝手 が よ か ったが,集
合論 によ って無限集合が導入 され ると,人
知 を超えた様相を呈 して きた。 そのこ とを認識 とい うまさに人知の レベルか ら問い直 し,古
典論理 に再考を迫 っているのが,実
は認 識論理 なのであ る。だか らわた しは,認
識論理 が古典論理の拡張形である様相論理の一種 とし て発展 して きたことに納得がいかない。様相論 理 は拡張系 と位置づけられ るよ うに,古
典論理 が起 こっている出来事を扱 う論理ならば,そ
れ を取 り巻 くさまざまな様相 (出来事の必然性や 可能睦など)を
対象にする論理である。そのな かに出来事に対する知識や信念 といった認識論 理が請け負 う分野 も含まれていることはうなず ける。 しか し,要
諦は,出
来事を知 っているこ とではな く,知
っているという出来事なのであ る。つまり,神
の日で見た世界 (世界の実態) を人間はどれだけ知 っているかではな く,知
る ことによって人間はいかなる世界を作 っている のかである。冒頭に挙げた例 も,グ
ループ全体 を外部から見ている者 と内部から見ている者の 知識状態の違いが,古
典論理では許 される同値 関係を阻んだのであった。あの有名なゲティア 問題 (3)に しても起因はここにある。エージェ ント自身の知識の自覚 と,外
部から見たその規 定は,必
ず しも一致す るとは限 らないのであ る。だが,そ
の外部の目も,最
終的に神のごと く世界全体を外から見渡すことができるであろ うか。それはいうまでもな く不可能である。人 間は神になることはできない。古典論理におけ る全称記号∀x(す
べてのa存
在記号 ヨx(あ るxが
存在する)は
,究
極の外部者,神
の視点 を暗黙裡に想定 したものであった。 しか し,英
国の観念論哲学者バークリーの有名な言葉「存 在するとは知覚 されることである」(4)を引 くな ら,こ
れ らの量化子 の左横 には本来,人
間的 エージェン トの存在を示すオペレーターKiが
置かれてしかるべきなのである。認識論理はそ れゆえ,古
典論理が長 く隠蔽 してきた世界を見 る視点の問題を明るみに出し,そ
れを論理に取 り込 もうとする試みといえる。要するに,進
む べき道は拡張ではなく,根
本を問い直すことな のである。 様相論理が古典論理を土台にしてその扱 う分 野を広げた拡張系であったのに対 して,古
典論新 たな る認識論理 の構築 に向 けての試論 理 の公理系そのものに手を加え
,い
わば違 った ものの見方,世
界観 を提示す るのが代替論理 (5) と呼ばれている一群である。 その代表的な もの に,直
観主義論理が ある。 これは,簡
単 な言 い 方 になるが,古
典論理か ら排中律 (p∨ ¬p「
p であるか,pで
ないかどち らかである」)を
抜 い た ものである。 この排中律 こそ,実
に神の視点 を保証す るものであった。 この公理は,
ものご とはすべて シロか クロか は っきり決 ま ってい る,
とい うことを述べている。 これを冒頭の例 に当てはめてみてみると,二
人グループの全員 が未婚者 か そ うで ないか は,は
っき りと分 か る。一人一人確かめてゆけば よいのだ。だが, このグル ープの メンバ ーが無限にいるとして, ど こまでい って も未婚者だけであ った ら,
この グループ全員は未婚者であると断言で きるであ ろ うか。 それはで きない。無限を数え きること は不可能だか らだ。 しか し,無
限を見渡せ る神 の 目か ら見れば,全
員が未婚者かそ うでないか (一人で も既婚者がいるか)は どちらかには っき り決 まってい る。 そ もそ も全知全能の神 に,
イ エスか ノーか答え られない問題 などあ ってはな らないであろ う。だが,あ
くまで人間の視点 に 立 てば, このようにシロクロは っきりつけられ ない問題 は山ほどある。先の例で も,わ
れわれ に言えることは,確
認 した限 りでは全員未婚者 であるとい うことだけだ。 こうした人間に直観 で きる範囲内に論理の枠組みを抑 えようとい う のが,直
観主義論理であ る。神 の 目の論理 に対 す る人間の 目の論理だ。新 たな認識論理 には, このような古典論理の屋台骨 に切 り込む姿勢が 必要 であろ う。 古典論理 と直観主義論理 を比べた場合,
シン タ クス (公理 系)の
み な らず セマ ンテ ィクス (意味論)の
面で も,人
間の認識 の様態をあ らわ すのに後者のほ うが優れているところがあるよ うに思われる。人知の発展のモデルを考えた場 合,大
ざっぱに言えば,古
典論理のほうは世界 をあらかじめ設定 し,そ
の中でエージェントが 徐 々に世界についての知識を増や してい くと いったものだが,直
観主義論理のほうは,人
知 が自生する樹のごとく次第に成長 してい くとい うイメージである。なぜ後者に利点があるかと いうと,前
者では世界の枠組みを決めるという 根拠なき天下 り的視点がまたぞろ要求されてい るのに対 して,後
者では人の知識が一歩一歩着 実に下から上に向か って伸びてい くさまが表現 されているからである。神から見た固定 し完成 された世界像ではな く,時
間とともに発展 して い く人知の描 く世界像 (認識史モデルという) のほうが,認
識論的にはよリリアルであること は言 うを侯たないであろう。 こうしてみて くると,認
識論理は従来の拡張 論理の範疇ではな く,代
替論理の枠組みの中に 入れて再考すべ きものであるように思われる。 うえではその証左 として,認
識論の視点から古 典論理 と直観主義論理を比較 したが,わ
たしは ここで,直
観主義論理 こそ認識論理の名に値す ると主張 したいわけではない。実は,人
知の論 理 と称する直観主義論理 も,人
間の認識様態を 正確には表 していないことが問題なのである。 その とき論点 となるのは,や
は り排中律であ る。確かに排中律は人知に照 らしてみると強す ぎる。神ならぬ人間はすべてのシロクロを知 っ ているわけではない。 しか し,排
中律を完全に 捨て去 るのも,今
度は人知を矮小化 しすぎる嫌 いがある。われわれはすべてを知 っているわけ ではないが,知
らないことがあることは知 って いるからである。 この無知の知 ともいうべ きも のを論理の中で正確に表現することが肝要であ る。直観主義論理のモデルでは,人
間は知 って いることだけを知 っているという意味になって名古屋学 院大学論集 しまう。その点では
,神
の視点を背景にもつ古 典論理のほうが,わ
れわれが常に抱いている知 識の不完全 さの自覚を表現できるといえるかも しれない。内部の無知は外部に立 って始めて見 えるものだからである。 ここまで神 とい う語を多用 して きたが,要
は,モ
デルを外から見ている者である。直観主 義論理はこの超越的外部者を消 し去 り,あ
くま で人知の内部にとどまろうとしたが, この人知 が,古
典論理が自然に受け入れられているよう に本質的に集合を外部か らあらか じめ規定 し, そのとき多かれ少なかれ神の視点に立つもので あれば,や
はりこうした傾向をも組み入れて構 築 されるのが,新
たなる認識論理の不可欠の条 件であろう。問題は,暗
黙裡に想定 されてしま う外部を消 し去るのではな く(それは結局不可 能なのだ),い
かにそしてどこまでその外部を システム内に取 り込めるかである。次章では, このウチとソトが微妙に絡み合 った認識論の有 名な一 トピックを手がか りに,
これからの認識 論理はどうあるべきかを探 っていこうと思 う。共有知識
(common knowledge)
認識論理 が一 エー ジェン トのみな らず複数 エージェン ト(マルチエージェン ト)の
知識状 態を も扱えるよう拡張 されたとき,そ
こには共 有知識 とい う概念をいかに形式化す るか とい う 問題が,当
然 のご と く起 こって きた。共有知識 とは,社
会的動物 といわれ る人間が社会を営む うえで基盤 としている協調行為 (coordination) が成立す るためにな くてはな らぬ条件 として, 近年,論
理学,社
会学,経
済学,心
理学,哲
学, コンピューター科学 といったさまざまな分野で 注 目されて きたテーマである。 たとえば,社
会 の秩序を維持す る慣習やルール といったものが 機能 す るには,人
々がいかなる知識状態にある ことが求め られ るであろ うか。各人が従 うべ き 行動規範 を知 っているだけではだめである。 そ れは,
この行動規範 に従 うべ きことを皆が知 っ ていることを皆が知 っていなければならないの である。具体例でいえば,自
動車 は左側通行を す るとい うル ールが事故 な く実践 され るには, ドライバーであるわた しがそのルールを知 って いて, さらに対向車 の ドライバーもそのルール を知 って いて,そ
して,そ
の ことをわた しが 知 っていなければ な らない。でなければ,わ
た しは安心 して左側通行を しよ うとは思わないで あろ う。 しか し,話
は これで一件落着 とはいか な い。今言 った ことは当然相手 に もいえ るの で,相
手が安心 して左側通行を選んで くれ るに は,私
が安心 して左側通行を選ぶ ことを相手が 知 っていて くれ る必要がある。 そ して,相
手が その ことを知 っていることを知 って改めて私 は 安心 して左側通行 を選ぶ。そして,改
めて相手 が安心 して左側通行を選んで くれ るために,今
い ったことを相手が知 っていて くれ る必要があ る…以下無限に続 く。 こうした現象は何 も慣習 やルールに とど まらない。協調を旨とす る日常 の コ ミュニ ケーシ ョンの場 で も,根
底 に横 た わ っていることである。 たとえば,友
達 に対 し て「 あの映画ど うだ った」 と問いを発す る状況 を考えてみていただ きたい。 これは「あの映画」 がどの映画を指すか友達 も知 っているとわた し が知 っていて,
さらに この ことを友達が知 って いて問 いにち ゃん と答 えて くれ るとわた しが 知 っていて,
さらにわた しの この期待を友達が 知 って いて ち ゃん と答 えて くれ るとわた しが 知 っていて,
さらに…。 このように改めて見直 してみ ると,わ
れわれが社会のなかで 日々行 っ ているコ ミュニケーシ ョンとい うものは,実
に 奥の深 い ものだ とい う感慨を覚 え る。各人が個新 たな る認識論理 の構築 に向 けて の試論 別 に共通 の知識 を所有 している状態か ら,「『皆 が この こ とを知 ってい る』 とい うことを皆 が 知 ってい る」 とい う共有知識 にいた ることで, 無限 ともいえる段差を飛び越 え
,社
会の基盤 を なす協調行為の成立 とい う劇的変化を遂げ るの であ る。 しか し, ここで疑間が生 じる。われわれは実 際 に協調行動 を とるとき,
このよ うな無限の推 論 を してい るのであろ うか。 それは とて もあ り そ うにない。 もし, しているのであれば,い
つ までた って も共有知識は成立せず,社
会 はいわ ば フ リーズ状態になるであろう。 また,論
理学 で これを定義す る場合,無
限の論理式 とい う有 限 の ステ ップ に収 ま らない厄介 な問題 が生 じ る。 マルチエージェン トシステムの認識論理で は,Ep(everybody knows p
皆 がpを
知 って い る)と
Cp(p is common knowledge pは
共 有知識である)とい うオペ レー ターを加えるが, これを使 って共有知識を定義す ると,Cp=p∧
Ep∧
EEp∧ EEEp∧
… とい う無限連言の形 に な る。認識論理 におけ る共有知識 の形式化 は, まさに ここをど う処理す るかにかか っている。 そ してそれが,新
たな認識論理構築の要請 にも つなが って くるのである。では次 に,認
識論理 では定番の共有知識をめぐるい くつかのパズル を例に,
この問題 を掘 り下げてみよう。 マ ッデ ィー チ ル ドレ ン・ パ ズ ル(muddy
children puzzle) マ ッデ ィーチル ドレン 。パズル (文字通 りに は,泥
をつけた子供のパズル)と
は,
こうい う ものである。今複数の子供が車座 にな っている とする。 その中の何人かは額 に泥をつけている が,本
人 には分か らない。 そこに先生がや って きて,「 この中の少 な くとも一人以上 は額 に泥 をつけています。 自分の額 に泥がついているこ とが分か る子 はいますか。」と問 うなら,額
に泥 をつけている子供が全員 イエスと答えるには何 回 この問 いを発 しな くてはな らないか。 これは ち ょっとした論理パズルで,
まず一人だけの場 合,そ
の子の視野 には誰 も泥をつけている者 は いないので,即
座 に,自
分 こそが泥をつけてい る当事者 だ とい うことが分か って手 をあげ る。 二人なら,一
度 目の問 いには答 え られない。泥 をつけている子供 にも泥をつけている他の子供 が一人以上見えているか ら,自
分が一人以上 の 別 の一人 なのか ど うか判断で きない。 しか し, 泥 をつけている子供同士 は互 いに相手が答 え ら れ ないのを見て,「彼が答え られないのは,彼
に も泥をつけた者が見えているか らだ。でなけれ ば,彼
は自分が唯一泥をつけた者であることが わか って,イ
エ ス と答 えて いたはずだ。 そ し て,僕
の 目には彼以外 に泥をつけている者は見 え な いので,彼
が 見て い る泥 をつけて い る者 は,他
な らぬ この僕だ」 と判断 して,二
回 目の 問 いか けには互 いに イエスと答 え るで あろ う。 以下,二
人,四
人 と増 えてい って も,前
回答 え られ なか ったのは こうした事情で とい う同様の 推理 を土台に,三
回 目の問い,四
回 目の問 いに, 泥をつけている子供 は イエスと答え られ る。す なわち,泥
をつけている子供の数をnとす るな ら,全
員が イエスと答 え るには,n回
の問いを 発す る必要があるとい うわけだ。 もちろん,
こ れはパズルであ り,状
況 は非常 に理想化,形
式 化 されている。現実 には,そ
こに居合わせた子 供が全員 このよ うに論理的な思考がで きるとは 限 らない し,二
人以上 の場合,
自分の額 に泥が ついてい ることが分か るのは,n-1回
目の間 いが発せ られた後だ。だか ら,
しば ら く時間を 置 けば,互
いに相手が答え られない状況を確認 して,n回
目の問 いを発 しな くとも,お
ず おず と手 をあげ るとい うことが あるか もしれない。名古 屋学 院大学論集 しか し
,そ
の場合,ど
れだけ時間を置けば互 い に相手が答え られないことを確認で きるか とい うと,現
実問題 として もは っきりとは決 め られ ない。だか ら,
これはそれ らもろもろの複雑 な 実情を捨象 した,あ
くまで思考実験上のパズル なのである。 さて, このパズルはど うい うところが,共
有 知識 を考え る うえで示唆 に富むのであろ うか。 考 えていただ きたいが,子
供 らは先生 の「 この 中の少 な くとも一人以上 は額 に泥をつけていま す」 とい うアナウンスメン トがなければ,先
生 の問いが何度繰 り返 されて も答えることがで き ない。先生 の宣言があって始 めて,泥
をつけた 子供 は先生 の問 いかけに イエスと答え られ るの である。 この先生 の宣言の果た した役割を考え るために,泥
をつけている子供が二人の場合を 想定 してみよ う。 いま子供 らは全員,額
に泥を つけている者を一人以上 (泥をつけた本人は一 人,そ
の他の子供は二人)目
に している。すな わ ち,先
生 の宣言が告げている内容 は,す
でに 皆が知 っている。 なん ら新 たな情報を含 まない 先生 の宣言が,ど
うして状況を一変 (答え られ なか った子供 らが答え られ るよ うになる)さ
せ たのであろうか。 これは一般 に, コンウェイ・ パ ラドクス (Conwtt paradOx)と 呼ばれている ものだが,そ
の答えが共有知識 なのである。す なわち,命
題p「この中の少 な くとも一人以上 は 額 に泥 をつけている」が,先
生 の宣言 によって,Epか
らCpに
変わ ったのであ る。先の子供 らが たど った推論 も,相
手 もこの ことを知 って い る,だ
か らこう行動するはずだ,だ
か ら僕 はこ う行動する,
とい った「相手 の知識の知識」の うえ に組 み立 て られていた ことが見て取 れ よ う。 それは言 い換えれば,相
手 の思考 に対す る ある種の「信束自 であ る。 まさに,「皆が ある事 実を知 っている」が「『皆がある事実を知 ってい る』 ことを皆が知 っている」 に変わることで協 調 関係 を生 み出す共有知識誕生 の劇的現場 を, このパズルは如実に物語 っているといえよ う。 このよ うに,共
有知識 を生 じさせ るのはその 知 識 の 内容 で は な く,そ
の伝 え られ 方 で あ る(の 。 それ は いか な る ものか。 この問題 は, マル チエージェン トシステム研究 の第一人者, ハルパーンやモーゼスらによって詳細に論 じら れて い るが,共
有知識成立 の最重要 の条件 は, 同時性 (simultaneity)で ある(7)。 同時性 とは, 情報が同時にグループの メンバ ー全員 に伝 わ る ことである。 その典型的な例が,先
のパズルに あ ったよ うに,
メンバ ー全員を前 にしたアナウ ンス メン トで あ る。 この状況下 に よ り,
メン バ ー全員は知識が共有 されたという,今
現在 自 分 たちが置かれている状況 その ものを知 る。 そ れによ り,財
目手の知識 の知識」が得 られ,協
調 行為 を可能 にす る「信束剛 が生 まれ る。 そ う, 共有知識 とは,共
有知識が成立 しているとい う ことを含む知識 なのだ。だか ら,無
限連言 を避 けた論理式では こう表現 され る。Cp=E(p∧
Cの これを見て も分か るよ うに,皆
はpとい う事実を知 っていると同時にそれが共有知識 に な っていることを知 っている。すなわち,共
有 知識 とは メンバ ー間に じわ じわ と広が ってやが て達成 され るものではな く,一
気 に同時 に達成 され るのである。少 しで も時間差があれば,あ
の無限連言が始 まり,集
団は共有知識 に到達す ることは永遠にな く,
フ リーズ して しまうとい えよ う。 この同時性を考えるうえで,
もうひ とつ示唆 に富む有名なパズルに触れてお こう。一斉攻撃問題 (coordinated attack pЮ
blem)と
呼ばれているものである。今
,谷
の両側 にAB二
つの 軍隊が陣取 っているとしよ う。彼 らは協力 して 明朝早 々,谷
底 に野営す る敵軍 を襲撃 したい。新 たな る認識論理 の構築 に向 けての試論 だが
,手
勢からいって攻撃は一斉に行われなけ ればならない。少 しでも時間がずれたり,片
方 が参加 しなければ敗北は必至である。そこで,Aの
隊長が,明
朝六時に攻撃開始の伝令をBの
隊長に宛てて送 る。 しかし,伝
令が確実に相手 にたどり着 く保証はない。途中で敵軍につかま るか,何
らかの事故 に見舞われ る可能性があ る。そうなれば,一
斉攻撃にはふみ きれない。Aは
安心できない。そこで,Bの
隊長は伝令を 受け取 ったら,了
解の伝令をAに
送 り返す。だ が,こ
の伝令 も確実に届 くとは限 らない。Bは
安心できない。そこで,Aは
了解の伝令を受け 取 ったら,了
解の了解の伝令をBに
送 り返す。 しか し,こ
の伝令 も途中で…といった具合に, 永久に両者の間で伝令を送 りあっても,明
朝六 時一斉攻撃の共有知識は成立 しないのである。 これはネットワークの信頼性にかかわる問題だ が,そ
の信頼性のゆらぎも,要
は情報伝達のタ イムラグに起因する。つまり,そ
のタイムラグ の間に情報が改変 されたり,失
われたりする危 険性は,ど
んなにネットヮークの信頼性を高め ても払拭 しきれないのだ。 このパズルも,最
初 にどこかで隊長同士が顔つき合わせて打ち合わ せ内容を確認 しあえばこと足 りる。二人同時に 共有知識成立の場に身をおけば,共
有知識は成 立す る。無限応答の堂 々巡 りを回避するのは, 最初の一瞬が勝負なのである。 共有知識の成立には同時性が必須であること を見てきたが, しかし,
この同時性なるものは 本当にあるのであろうか。マッデ ィーチル ドレ ン0パズルをもう一度思い出していただきたい。 このパズルは状況を理想化 したものであるとし て各子供の論理能力の差は捨象 したが,実
はこ の差 も同時性に深 くかかわっているのである。 いったい,同
時に同じ場所で同一の情報を受け 取 ったとしても,そ
の意味するところをまった く同じに同時に二者が理解するということがあ りえようか。 また,n人
の泥をつけた子供が自 分の額に泥がついていることを理解するのは n-1回
目の問いとn回
目の問いの間であると いったが,そ
れはそのインターヴァルのいつの 時点か。いつ彼 らは互いに相手がイエスと答え られないと判断 して, 自分の額に泥がついてい ることに気づ くのか。瞬時にか,一
分後にか。 それは各人の思考能力によるであろう。 こうし てみると,彼
らの脳内のニューロンの伝達速度 にまで分け入れば,決
して同時性は実現 してい ないことが分かろう。大げさに聞こえるであろ うか。ならば,一
斉攻撃問題の二人の隊長にし ても,相
手の脳内までは読めないとするなら, 今自分が認識 していることがらを相手 も同様に 認識 していると,ど
うして確信できよう。相手 は何か心配事から気 もそぞろで,話
をよ く聞い ていないかもしれない。最近精神に変調をきた していて話を曲解 しているか もしれない。 ま た,
じっは敵方のスパ イで,作
戦の裏をか く有 力な情報が手に入 ったと思 っているかもしれな い。 こうした疑念は日常でも自然であろう。 さ らに付け加えるなら,物
理的な次元からもこの 宇宙に同時性はありえない。それを述べている のが相対性理論である。二つの地点 (ローカル ポイン ト)で
現象が同時に起 こると言 うには, それを測 るグローバルな時計が必要である。 し かし,そ
のような絶対時間を測る時計などこの 宇宙には存在 しない。各観測者は各座標系の上 に立ち,そ
こでは座標系独自の時間が流れてい るのである(もちろん,そ
れらはばらばらの別 個の時間ではな く,
ローレンツ変換 という作業 を施す ことによって統一的に扱えはす るが)。 あなたとわたしが同時刻に同一の情報を受け取 るということは,厳
密にいってないのだ。 かように,同
時性が理論的にいってありえな名古屋学 院大学論集 いのであれば
,共
有知識 の理論 はど うなるので あろ うか。単 なる机上の空論か。分か り合 って いると思 っているわれわれは何か勘違いを して いるのであろ うか。実際の コ ミュニケーシ ョン の現場ではいったい何が起 こっているのか。確 かに理論 と現実 にはい くば くかのギ ャップがあ るのは うなずける。 そこで,共
有知識の理論的 条件を少 し緩 め,そ
の近似値を与え る方向が考 え られ る。 たとえば,時
間を連続的 に考えるか ら同時性はあ りえないのであ って,あ
る幅の最 小 ユニ ットを もつ離散的なものと考えれば,そ
の間 に収 まる事象同士 は同時 とみな してよい。 あ るい は,最
初 の タ イム ラグは認 めて も,始
ま って しまった無限連言 あ るいは無限応答 を, 求 め られ る精度 に あわせ て適 当 に止 めれば よ い。100%で
は な く99.999999%で
満 足 す るの だ。実際,
さまざまな応用面では これで何 も不 足 はない。大体,わ
れわれが一瞬の うちに無限 連言の計算をや ってのけているとはとて も思え ないではないか。 しか し,
こうした近似値 も,最
小 ユニ ットを どの くらいにす るか,計
算 を何桁で止 め るか と い った恣意的要素が入 って くる部分 は,あ
くま で理論 の厳密性を追 う者 には不満の残 るところ である。理論面で無限連言 を避 ける試みの定番 は,数
学 の 不 動 点 定 理 (fixed point theo“m)
を使 うものである。不動点 とは
,境
界を含む集 合 (閉集合)Xが
あるとして,Xか
らXへ
の 自 己連続写像 fのf(x)=xを
満 たす よ うな点xを
言 う。グ ラフ上でいえば,関
数f(x)=yと
x=y
の交点だ。比喩的に イメージ化すれば,境
界で は っきり囲われた領域があって,そ
の中の部分 か ら部分への割 り当て (写像)を
考 えた場合, ある部分 は再帰的に自分を割 り当て ることに必 ず なる。つ まり,自
分か ら他 の部分 に動かない のだ。 これは 日常の現象 にも当てはめられ るも ので,た
とえば,か
き混ぜ られたコー ヒーカッ プの中の コー ヒーを思 い浮かべて もらいたい。 カ ップの中は閉 じた空間である。 そして, コー ヒーは激 しく渦巻 いている。だが,渦
の中心 に は静止 している部分がある。 また,地
球 とい う 閉空間 の中に起 こる台風 の 目もそ うで あろ う。 か よ うに,
この定理 には広 い応用性が あ って, ゲ ーム理論のナ ッシュ均衡点,理
論経済学 の ミ ニ。マ ックス定理 ともつなが って くる。そして, 共有知識が まさに この不動点 で あ るとい うの だ。無限連言を避けた共有知識の論理式を思 い 出 していただ きたい。Cp=E(p∧
Cp)は
まさ に再帰的な形を していた。共有知識 は,EG(p
∧x)(Gは
グループをあ らわす。不動点が閉集 合 に存在す るものなので)の
最大不動点 なので あ った。 それは要す るに, こうい うことだ。複 数 のエージェン トとそれを取 り巻 くある状況を 集合 として,状
況の部分集合を各エージェン ト の知識状態に写像 してい くと,状
況 と知識状態 がぴ った リー致 して動かない点がある。 それは ひ とつ とは限 らないが,そ
れ らすべてを含む最 大 の点 が共有知識 なのである。共有知識 とは, 共有知識 とい う状況下 にあることを皆が知 って いることであ った。 ちなみに,最
小 の不動点 は 「虚偽」 (false)で あ る。虚偽 は状況 のど こに も 写像 で きない ことを思 えば,確
かに不動点の一 種 と考 えて よいであろ う。 不動点定理 によ り,無
限連言 による共有知識 の定義 は回避 されたかに見える。だが,実
は両 者 は同値 なのである。後者が,p∧ Ep∧EEp∧
EEEp∧
… といった具合 に,下
か ら上 に向か っ て共有知識を定義せん としたのに対 して,前
者 は集合内の知識状態の上限を設定 し,XO⊇ X
l⊇X2⊇
… とい った下向きの包含関係で これ を捉えようとす る。 い うなれば,無
限級数 の収 束値 のよ うなもので,そ
こにいたるまでに無限新 たな る認識論理 の構築 に向 けての試論 のステップを踏む必要があろうとも
,ゴ
ールさ えはっきり見えていれば,そ
して,そ
こにいた る手順をしっか り把握 していれば,そ
れは到達 したも同然なのだ。 しかし,そ
うとはいえ, こ の定義にしても神の目を持つ古典論理の視点に 立 っていることは否めない。エージェントを取 り巻 く状況 とは,い
ったい誰が決めるのであろ う。どこからどこまでが集合の範囲内に入るの であろう。マッデ ィーチル ドレン・ パズルの場 合,子
供 らにとって,み
な同じ場所にいること, みな人間であることなども共有知識であるはず だ。 これらは考慮に入れる必要はないのであろ うか。 こうしてみると,状
況の集合 (世界のあ り方)と
いうものが,
きわめて超越的な視点か ら恣意的に切 り取 られていることが分かる。不 動点 というかなりはっきりしたイメージを与え られても,そ
れが存在する閉集合をどう境界づ けるのかが明確にされていない限 り,や
はり超 越論的とのそしりは免れえないのである(8)。新たな認識論理の構築に向けて
以上述べて きた古典論理 モデルによる共有知 識像 の問題点 は,ど
こにあるのであろ うか。 そ れによれば,ど
うして も本質的に無限連言 によ る堂 々巡 り (再帰的定義 による自己言及 も同断 で あ ろ う)を
払拭 し きれ な い。 これ は,エ
ー ジェン トと世界をそれぞれ独立 したもの として 分 けて考 え るところか ら発 しているよ うに思 わ れ る。古典論理 の知識 モデル は,世
界 が まず あ って,そ
の中にエージェン トが存在 し徐 々に 世界についての知識 を広げてい くとい うもので あ った。 そこにはど うして も,世
界全体 を見渡 しその真理を見極 める神の目が想定 されている 必要がある。 そもそも,世
界全体や神 とい った 次元 にまでいかず とも,エ
ージェン トが置かれ たある状況をモデル化す る場合,論
理学者 な り システムエンジニアな りは,モ
デルを外か ら見 下 ろす特権的地位 を 占めているといえ る。 なる ほど,内
か らは見えず外か らのみ見える対象を 扱 う場 合 は,こ
の モデルは有効 で あ る。 しか し,
ウチとソ トが一致 した知識の飽和状態 とも い うべ きものを表現す るとなると,限
界を露呈 す るので あ る。 その飽和状態が共有知識 で あ る。 この ウチ とソ トとい うことで,マ
ル チエー ジェン トシステムの中の代表的で対照的な二つ の知識形態,共
有知 識 と分散知 識 を見 てみ よ う。分散知識 とは,あ
る事実をグループの各 メ ンバ ーは知 らないが,そ
れ らメンバ ーが個別 に 知 っていることを持 ち寄 ると,そ
の事実が推論 で きるとい うものである。すなわち,そ
の事実 は分散 された形で潜在的にグループ内に知 られ ているといえる。 たとえば,太
郎 は花子が一郎 か次郎 と恋仲であることを知 っていて,三
郎 は 花子が次郎 と恋仲ではない ことを知 っていた と す ると,太
郎 と二郎 の知識か ら,花
子が恋仲 で あるのは一郎であることが分か る。 しか し,太
郎 と二郎 はこの事実 は知 らないのである。か よ うに,分
散知識 は明 らかにグループの外か らの み見 え定義で きるものであるといえ る。次 に, 分散 知識 と共有知 識 の中間段 階 ともい うべ きEpで
は,pと
い う事実はグループ内の メンバー 全員に知れ渡 っている。その意味で, ソ トはい くらか ウチに取 り込 まれている。 しか し,各
メ ンバ ーは,
この事実を メンバ ー全員が知 ってい ることは知 らないのである。最後 に共有知識で は,共
有知識 とい う状 況下 に い る ことを メン バ ー全員が知 っている。すなわち,共
有知識 と い うモデルの中にいることをエージェン ト自身 が知 っているのである。事態はもはや,モ
デル の外に立つ特権的視点を許 さない。 ウチか らもソトは知 られている。あるいは
,ウ
チとソトの 眺めは一致 している。それを回避 してあ くまで モデルの外に立 とうとするかのごとく古典論理 は,特
定の状況 という閉集合を囲 って,そ
の中 の不動点 という枠に共有知識を押 し込めようと するが,そ
んな恣意的な境界づけを超えて共有 知識は (パズルの子供 らの共有知識には「互い に人間である」 ということも含まれ うることを 想起),な
にやら人間社会全体を基礎づける知 識状態 として,モ
デルを作 る論理学者をもウチ に取 り込んでいるのである。古典論理の枠内で 共有知識を定義づけようとする場合,ど
うして も顔を出すあの無限連言は,つ
ねにソトの視点 を設定する古典論理の方法論 と,
ソトが ウチで 飽和状態になった共有知識の実態 との間の,ど
こまでいっても調和 しない根本的な岨幅を表 し ているように思われる。 以上のセマンテ ィクス (モデル論)か
らの議 論に加え, シンタクスの面からも同様の批判が できる。古典論理の命題はすべて命題だけで自 存 し,そ
れを拡張 した認識論理においても,認
識主体はすでに在 る命題 を知 る形にな ってい る。真なる命題は (「知る」 ことができるのは, すべて真なる命題である),神
の視点を支えに して,そ
れだけで独自に存在 しうるものなので ある。だが,認
識主体を離れて独立 して在 る命 題などというものが本来考えられようか。命題 とは人の頭に宿 って始めて存在色を帯びるもの ではなかろうか。神以外の誰 にも認識 されず, 無色透明な姿で イデア界をぷかぷか漂 っている かのごとき命題に,わ
れわれが何のかかわりが あろう。また,そ
れは同時に認識主体のほうに も言えるのであって,い
かなる知識 もない空 っ ぽの容器のごときものに主体 としての存在価値 を認められないことは明白である。 こうしたシ ンタクスが生む,命
題 とい う情報があたか も ウィルスかなにかのごとくエージェン ト間に伝 播 してい くというイメージが,共
有知識の同時 性を前にして支障をきたすのは明 らかである。 ウィルスは一瞬にしては広 まらない。必ずい く らかの時間がかかるものである。 こうしてみる と,古
典論理の命題の左横にはすべからく,K
もしくは¬ Kiが 置かれてしか るべ きなのであ る。 ゆえに,新
たなる認識論理のシンタクス構築 に当たっては,古
典論理の トー トロジー (論理 的真理)の左にKが
置けるか置けないかの検討 から始めるのがよかろう。そこでまず問題にな るのが,先
にも触れた排中律である。すでに述 べたように,排
中律はKiをかぶせるには強すぎ る。だから,人
知の視点に立つ直観主義論理は これを除いてしまった (く どいようだが,
これ は簡便のための言い方である)。 しか し,そ
の 直観主義 もそれにより,今
度は人知をあまりに 矮小化 してしまった。人は「知 っていることだ けを知 っている」のではな く,「知 らないことが あることも知 っている」のである。それにつけ て,直
観主義の知識モデルでわたしがかねがね 不満に思 うのは,知
識が時間とともに発展 して い くその理由となるものが組み込 まれていない ところだ。 ソトを一切設定 しない自生する知識 の樹は,い
かなる力で伸びてい くのか。本物の 樹にしても,外
界から栄養分を吸収 して成長 し ているのである。その点では,古
典論理モデル のほうがまだ納得がい く。世界があらか じめ存 在するのであれば,そ
の中にいる知的エージェ ントは徐々に周 りの知識を獲得 してい くであろ うからである。知識の本が伸びる推進力 となる べきものをウチに組み込む必要がある。それが 排中律に代わる,よ
り人知を的確に表 した公理 である。そしてその候補 となるのが,人
間のあ くなき知的好奇心を生むきっかけとなっている 名古屋学 院大学論集新 たな る認識論理 の構築 に向 けての試論 「知 らないことがあることを知 っている」である と
,わ
たしは考える。以後,
これを仮に「推進 知識」 と呼んでおこう。 残念ながら現段階では,ま
だ具体的な公理系 を完成す るには至 っていない。そこで本稿で は,そ
の足がか りとなる試案を述べるにとどめ る。今言及 した「推進知識」は,い
かなる形で 論理式化できるであろうか。その内容はより正 確にいうと,「何か知 らないが知 らないことが あることを知 っている」である。かように表現 にこだわるのも,従
来の認識論理にも無知の知 と言いうる公理はあるのであって,そ
れとの違 いを明確にするためである。い くつかある認識 論理の公理にS4と
S5が
ある。前者は肯定的内省 (positive intЮ
spectioDと
呼ばれているもので
,Kip→
KiKip(「エージェン トiはpを
知 っているなら
,そ
れを知 っていることを知 っ ている」)という形をしている。すなわち,知
識 の自覚性をうたった公理である。 これに対 し後 者は,否
定的内省 (negative introspectioDと呼ばれ
,¬
Kip→
Ki¬Kip(「エージ ェン トiは
pを
知 らなければ,そ
れを知 らないというこ とを知 っている」)というものである。 こちらは 少 し分か りに くいか もしれないが,た
とえば, 一郎は知人の太郎の姓が山田であることを知 ら ない場合,一
郎 は太郎の姓を知 らないことは 知 っている(自覚 している)。 もちろん,太
郎の 姓が山田であることを知 っているのは,一
郎以 外の第二者,突
き詰めれば,
この論理式を記 し ている者である。あるいは,pを
真偽の分か ら ない何か数学の未解決問題 (たとえば リーマン 予想)と したら,数
学者iはpで
あること(リ ー マン予想が真であること)を
知 らないが,そ
の 知 らないとい うことは知 っている。 この場合 は,人
類の誰 もpで
あるか否かは知 らないこと になる。いずれにしても,pは
「太郎の姓は山田 である」なり,リ ーマン予想の内容であるなり, 真偽の判定できる (あるいはできるかもしれな い)具
体的な命題である。 しかし,わ
れわれが 問題にしている無知の知は,「何か知 らないが 知 らないことがあることを知 っている」である。 これが公理S5で
表 される無知の知 とは大 きく 異なることはお分か りいただけるであろう。す なわち,誰
も内容を知 らないものを,S5の
よ うにpと して具体化 して扱 うことなど許 されな いのである。 人間の認識形態を自然に表す公理 としては公 理S4ま
でが許容範囲で,S5は
強すぎるとよ く言われる。 うえに見た例では至極われわれの 知識状態に合致 していると思われるが,な
ぜそ う言われ るのであろ う。それは,こ
の公理が エージェントを超越する視点にpの
内容を託 し て,シ
ステム外から「推進知識」を表現 してし まっているケースがあるからと考えられる。た とえば, コンピューターシ ミュレーションの分 散 システム内の各エージェントは,
自分の知識 の足 りない部分を探索できねばならないが,そ
れは何か欠けている知識があることをプログラ マーによって知 らされていることを意味する。 古典論理の例に漏れず,内
部者には見えないが 外部者には見える事実が設定 されているのだ。 人間世界に対する神,シ
ミュレーションに対す るシステム構築者の視点を,
この公理は背景に 含み うる可能性がある。だからこそ,強
すぎる といわれても,認
識論理は一般に (特に人工知 能研究の分野では)S5を
加えた形で論 じられ るのである。 しか し,わ
れわれが目指すのは, もはやこう した外の視点を暗黙裡に設定 しないシステムで ある。S5と
は別に「推進知識」そのものを正 確に表現す る公理が必要なのだ。だが,「知 ら ないこと」を形式化 (形にする)の
は,い
うま名古屋学 院大学論集 でもな く非常に難 しいことである。ではどうす ればよいのか。そこでわたしが提案するのは, 時間概念の導入である。「矢日らないこと」は
,今
は具体化できないがやがて具体化 され うるもの と捉えるのだ。実は,時
間概念はすでにマルチ エージェン トシステムには取 り入れ られてい る。マッデ ィーチル ドレン・ パズルを論 じた際 にみたように,共
有知識は時間とのかかわ りが 非常に強いものであった。そこで当然,
さまざ まな時間概念を表すオペレーターが必要 となっ て くる。それらは,□
(「つねに」),◇
(「いつ かは」),○
(「つぎに」),び
(「まで」)と
いった ものだが,
これ らを使 って「推進知識」は表せ ないであろうか。たとえば こうだ。Ki(ヨ
x◇
KiPx)「エージェント1はいつかPで
あることを 知るxが あることを知 っている」。 しかし,これ では依然 としてPが
現時点で何かはっきりした 属性 となってしまう。「推進知識」を表すのに時 間論理が及ばないのは,こ
の部分だ。すなわ ち,や
はり様相論理の一種である時間論理は, 時間を因果律のもとに見通 してしまうため,未
来に起 こることは現時点で推論可能な範囲にと どまってしまうのである。 これも,全
体を見渡 す外の視点を設定する古典論理モデルのなせる 業であろう。古典論理学者は自己の創 る小世界 において,森
羅万象を見通すラプラースの悪魔 のごとき位置を占めているのである。 時間概念はむしろ,発
展する知識像をモデル に持つ直観主義論理 にこそ似っかわ しい。実 際,そ
れは時間軸上の知識状態の諸段階で表 さ れる。存在記号 ∃はここでは,古
典論理のよう に「世界の中にある」のではな く,「知識状態の 中にある」 という意味になる。そのため,未
知 なるものが前者のごとく純粋に客観的な具体化 を迫 られ る こ とは ない。 しか し,か
よ うに 「知 っていること」にもとづ く直観主義論理にお いて 欧日らない こと」を表現す るのは,古
典論 理 と同 じ く,い
やむ しろ古典論理以上 に困難 な ことはすで に触 れ た。未来 の知識状態 に して も,古
典論理 の真理概念 に代 わ って「証明可能 性」 を置 いたため,そ
れはよ り論理的展開の範 疇にお さまることにな った。知識状態 によ って さまざまに枝分かれす る認識史はすべて,ア
ル ゴ リズ ム的手法 によ って見通せ るのだ。 それ は,世
界 の中を流れ る古典論理 の時間概念 よ り も,人
知 自体 の論理的成長過程 とい う意味で, 不確定性 のない固定 した時間の流れ といえ る。 そ こでは将来情報が加わることで新 たな知識状 態が生 じるとい って も,加
わ ることでそれは初 めて知識 となるのであ り,今
現在その未知性は 完全 に考慮の外である。 そこには「命がけの跳 躍」 (salto mortale マル クス『資本論』)は
一 切 ないのである。 これ らを総合す ると,現
段階では まった く見 えず,次
の諸段階ではじめて見える事実を示す 表現手法が求 め られ る。 しか し,知
らない こと を形 にす るとい う, まった くパ ラドキシカルな 試 みは,そ
もそ も可能 なのであろうか。 この難 問は実 は,な
にげない論理式 ∃xP(x)「
Pな
るxが
存在 す る」 にすで に内包 されてい る。 この xとはい ったい何 なのであろ う。 それはいわば 無色透明なあるものであ って,そ
こにPと
い う 属性が貼 りついては じめて存在可能 にな ったの である。すなわち,わ
れわれが見ている世界 と は,神
の 目にのみ映 る原存在に,人
間に認識可 能 な部分的属性 の色がついて構成 されていると いえ る。世界 の実態,モ
ノソ ノモ ノとい った, 古代ギ リシャか ら続 く西洋認識論 の究極 のテー マは,現
代論理学 において記号 によ り形式化 さ れ よ うとも,所
詮,神
様 に丸投げ されていると い うのが実情である。 そして,認
識論理 を突 き つめてい く過程で浮かび上が ったあの「知 らな新 たな る認識論理 の構築 に向 けての試論 い こと」とは
,古
典論理が形式的に処理 した(隠 蔽 した),モノソノモ ノたるxそ れ 自身なのであ る。 その実態は不可知であろ うとも,わ
れわれ はいかなる部分的属性 も持たぬ全体的xの
概念 を知 っている。表現すべ きは,Pの
背後 に隠れ ていた このxで
ある。 それにはど うしたらよいか。今のところわたしには,Ki(ヨ x◇
Klつという具合に
,Pの
述語の部分も変項に変える
ことぐらいしか思 いつかない。前者xはいわゆ る東縛変項であ り,「知識状態の中に存在す る」 とい う範囲限定がつ く。 それに対 し後者yは
自 由変項で,認
識 され るまでは一切限定がつかな い。知 って初 めてそれ と分か るものである。 こ れ らの意味す るところは,「 エージェン トiは, いつか何かであることを知 る何かが存在す るこ とを知 っている」 とな り, これが現段階におけ る「何か知 らないが知 らないことがあることを 知 っている」の形式的表現の試案である。 これ は もちろん,従
来 の論理解釈 では まった くナ ン センスだが,今
まで本稿で述べ きたことに鑑み れば,そ
れ な りに意味を成す ことが納得で きる であろう。要はモデルの問題であ って,
この論 理式 を充足す るモデルを作 れば よいので あ る (それは確かに難 しいことであろうが)。 この式 は結局,x=yと
い うことで あ って,x(モ
ノ) とy(認
識)は
イコールだ とい う意味である。y にあえて述語 を あてはめ るとした ら,そ
れ は ∃,ま さに「存在す る」そのことになろ うか。 こ れがすべての土台 となる。 この「推進知識」が 既成 の認識論理の公理 とど う関係 して くるのか はよ く分か らないが,公
理S5を
弱め る作用が あ るのではないか と考え る(9)。 また,公
理 ■Kip→
pRが
pを
知 って い るな ら,pは
真理 で あ る」(これ は真理公理truth Ⅸlomと呼ばれ, 知 っている内容 は真理であることに限 られ ると す る,知
識 と信念 を分 ける重要 な公理であ る) の解釈を,言
うまでもな くより主観的内在的な ものに変えるであろう。だが,公
理的アプロー チに関 しては, まだまだ道半ばというのが正直 なところである。 それでは,そ
のモデルはどのようなものにな るのであろうか。直観主義の認識モデルで足 り ない部分は,今
まで論 じてきた「推進知識」と, 個別のエージェントの知識状態を視野に入れて いない点である。人類の認識史といっても,そ
れは集団的なものではない。 もともとカントー ルの集合論が もたらした危機に対処すべ く数学 分野か ら発 したこの論理は,数
学知識の発展, 具体的には,あ
る理想の (だが人間的な)数
学 者の思考 の展開をモデル としている。そのた め,認
識論理はむしろ,世
界に相対 して世界を 知 る個々のエージェントという形で,古
典論理 の枠内で展開されやすかったといえる。そこで この点を補 うべ く,人
知全体を各エージェント の知識状態に分けよう。エージェントとは個別 の知識状態のことであって,エ
ージェントの外 に知識対象である世界が広が っているわけでは ない。 シンタクスのところでも触れたが,独
立 したエージェントも命題 も存在 しない。Kiと p はつねにワンセ ットで認識の最小ユニ ットを形 作 っているのである。各エージェントは「推進 知識」によって各自の知識を広げてい く。それ ら小集合の集合が発展する人知である。そこで は当然, さまざまな知識状態が拮抗することに なる。その中で人知を代表する知識はいかに決 定 されるのであろうか。古典論理の「真理」,直
観主義論理の「証明可育旨1生_│に代わる,そ
の判 断基準は何であろう。わたしには,そ
こに共有 知識がかかわって くるように思われる。 クーン のパラダイム論以来おなじみの話だが,真
なる 学説 とは,
さまざまな経緯があるにせよ,結
局 その時点でその分野の科学者集団に広 く受け入名古屋学 院大学論集 れられている (共有 されている
)説
のことであ る。そうしたコミュニティーの中で,知
識状態 の同じエージェントはいわばクローンの関係で ある。 クローン同士にはもはや, エージェント 1や 2といった個別性は存在 しない。ひとつの 知識状態である。 もちろん,
ここでは現実にお ける全人格的な同一状態を言 っているのではな い。問題 となるある局面での知識状態である。 その局面が大 きくなって,多
数のクローンが参 画する状態になったとき,人
類を代表する人知 といったものに近づ くのであろう。その際の知 識の伝播は,あ
る知識状態が他の知識状態に出 会 って,後
者に知識を受け渡すのではな くこれ を感化するという形で捉えられる。 ここで注意 すべ きだが,人
知を個別に分けるといっても, その人知は決 して先取 り的に想定 されるべきで はない。地道にエージェントを一つ一つ集合 さ せていって,そ
の先に見えて くるものでな くて はならない。 また,そ
の中には当の論理学者自 身も含まれなければならない。彼は決 して世界 の外に立つ者ではない。世界とはあ くまで,彼
を観測点 としたモデルなのである。そ うす る と,
さまざまな観測者によるモデルが林立可能 となるが,モ
デルの構成法 さえ同じであればよ いのである。すなわち,絶
対的な一つの世界像 を構築するのではな く,各
観測者の視点に立 っ たモデルの統一的な構成法を提示するというこ となのである。 これは各エージェントのアイデ ンテ ィテ ィーの存続を無視で きない協調行為, たとえば分担作業の場合の共有知識を考えるう えでも必要である。エージェント1はAの
作業 を,エ
ージェント2はBの
作業を担当するとい う共 有知識 で は,そ
れぞれ の ア イデ ンテ ィ テ ィーの確認は重要である。そのとき,知
識状 態は同じでも,そ
れがよって立つ観測点の違い がこれを保証するのである。要するにこのモデ ルは,「同じ知識状態の者が出会い,そ のことを 互いに確認 しあう」 という共有知識の形を,で
きうる限 り自然に表現 しようとい うものであ る。「出会い」と捉えれば,そ れは二つのものの 間の現象である。両者 の間にタイムラグはな い。 最後 に,
このモデルか ら見 た共有知識の実例 は ど う解釈 され うるか,触
れ て お こ う。 マ ッ デ ィーチル ドレン・ パズルの子供 らは,先
生 の 宣言 によ り,全
員が「『 この中の一人以上 は額 に 泥をつけている』 ことを全員が知 っている」 こ とを知 った。 その知識状態を視覚的にあらわせ ば次 の表のよ うにな るであろ う。 メンバーはa か らeの 五人 とす る。一番左の列が,「当の メン バ ーは知 って い る」 とい う意味で,行
はその 知 っている内容である。pは
もちろん,「この中 の一人以上は額 に泥をつけている」 という命題 である。 Ka Kap Kbp Kcp Kdp Kep Kb Kap Kbp KcP Kdp Kep Kc Kap Kbp Kcp Kdp Kep Kd Kap Kbp Kcp Kdp Kep Ke Kap Kbp Kcp Kdp Kep か よ うに全員同 じ知識状態にあるが,
この表 自 体が共有知識 をあ らわ している訳ではない。 こ の表があらわ しているのは,各
自が相手 もこの 事実 を知 っていることを知 っている状態で,各
自の この知識 自体が相手 に知 られていることは 表現 されていない。 それを表 に入れ込 もうとす ると,
またぞ ろ,あ
の知識 オペレーターの無限 連鎖 に陥 ることになる。共有知識が成立 してい るのは,
この表を一同が一緒 に見ているその場 である。 そしてその視点 は,今
この表を見てい る読者の視点 と重 なる。繰 り返 しになるが,共
新 たな る認識論理 の構築 に向 けての試論 有知識の形式化の難 しさは